(梨子沢橋)
(道路の奥に見えるお寺らしき塀)
(三留野宿2)
梨子沢橋(「なしざわばし」と読む)を渡り左折、川沿いに坂を登る。
すぐもう一つの橋があり、等覚寺は橋を渡れと案内がある。
つまり橋を二つ渡って「コ」の字型に戻る格好になるが、
二つ目の橋から前方を見ると、道路奥に、
お寺の塀らしきものが目に映るので進む。
等覚寺には古色蒼然とした立派な山門がある。
山門両脇に木造の阿吽の仁王が厳めしい姿で睨みつけている。
正式には「日星山等覚寺」と言い、曹洞宗の寺院である。
(日星山等覚寺の山門)
(立派な木造の仁王)
この寺院は三体の円空仏があることで有名で、
等覚寺の円空仏について次のように説明がある。
「円空は、美濃の国に生まれた江戸時代初期の僧侶で、
生涯に十二万体の仏像をつくることを祈願したと言われ、
その足跡は、関東、東北から北海道にまで及ぶ。
この南木曽町では、「弁天祠棟札」に「弁財天十五童子像」が
貞享3年(1686)八月十二日につくられたことが記されているので、
このころ円空は南木曽に滞在して、
造像に励んだことがうかがえる。
現在当町には六体の円空仏が発見されているが、
等覚寺にあるのは次の三体である。
・韋駄天像
・弁財天十五童子像
・天神像(いずれも町有形文化財指定)」(南木曽町教育委員会)
説明に「十二万体の仏像の造像を祈願」とあるが、
僧侶になったのが15歳として、「人生わずか50年」の当時、
一生に12万体の仏像は、残り35年で造るわけであるから、
毎日造っても、1日あたり最低9体強の仏像を造らなければならない。
発見された円空佛は北海道にも存在するようであるから、
旅をして歩いている間は造ることも出来ないだろう。
どのようなスピードで造ったものか?
毎日9体強造ると言うことは、最低1時間に一体を造ることになる。
鉈で刻んだと言うが、彫刻刀もなしで微妙な笑顔と細かい服装の彫りを
どのようにして刻んだのであろうか?
写真の仏像を良くご覧いただき想像してみて欲しい。
山門を入ると、古い山門には不釣合いな真新しい本堂があり、
門の左手には鐘楼と円空堂が目にはいる。
(山門と不釣合いな真新しい本堂)
(等覚寺の扁額)
(円空堂)
円空堂の扉は閉じられているが、扉脇の右手に次のように書いてあった。
「まっ黒な木のかたまりがお堂の隅に忘れられて、
だれも得体がわからなくて三百年も捨てられていた佛。
深山で滝にうたれ心を洗い、
屈に住み血みどろ行をつんで諸国を遍歴した円空。
孤島日本の真ん中の岐阜に生まれ、苦行して生み出した佛。
心の底からほほ笑んでいる円空佛。
天に向って怒りを吐き出している円空佛。」とある。
扉を開けると、最初に目に入ったのが賽銭箱。
そっと賽銭を投げ入れて、
その後ろのガラス箱に円空佛らしき彫り物が二体あるのを見つける。
一つは弁才天像十五童子像、もう一つは天神像で、
脇に円空上人作とあるから間違いない。
残る一つはどこかに出張でもしているのか、見当たらなかった。
(円空上人作「天神像」)
(円空上人作「弁才天像十五童子像」)
円空佛をよくよく見ると、いずれも表情がにこやかで、
言われている制作方法が鉈(なた)で造ったとは思えない精巧なもので、
この微笑をどのように刻んだものであろうか?
とても疑問に思った。一礼して扉を閉める。
もと来た道を引き返し、本堂にも一礼して等覚寺を出る。
梨子沢橋を右に見るところまで戻り左折する。
すぐに中山道はこちらの矢印の案内表示がある。
(矢印の案内表示)
見てみたいものです。