中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

三留野宿(旧中山道を歩く194)

2010年06月02日 10時45分24秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(新緑が美しい木曽路)


(木曽川縁にあった藤の花)

(三留野宿)
登り坂をさらに登り、中央西線のガードをくぐり牧ヶ沢橋を渡り、
登り坂はなお続く。これをべに坂という。
眺望は素晴らしく、眺めの中で一息つく。

登り坂、もうこれ以上は勘弁して欲しいと思う頃、
両側に古い民家が並び始める。
海道の両側にある民家に「みなとや」「田中屋」など
江戸時代の名を表札脇に掲げて、往時を偲ぶ雰囲気を出そうと、
町の努力の跡が見える。


(三留野宿の街並み)


(みなとや)


(街並み 2)


(脇本陣跡の宮川さんの表札が見える)

やがて左側に脇本陣跡の案内がある家の前に出るが、面影は失われている。
案内によれば、
(三留野宿の脇本陣は宮川家が代々庄屋も兼ね勤め、
本陣家の鮎沢家、問屋の勝野家と共に三留野宿の指導的役割を担った。)
(南木曽町教育委員会)とある。

表札には「宮川」とあるから、代々の子孫の方が住まわれているに違いない。
道路斜め前に本陣跡の石碑があり、石の門柱が二本、
草の生えた空き地に建っている。
その奥に「明治天皇安在所」の石碑とその横にしだれ梅が残っており、
本陣の名残をとどめている。
どうやらこの辺りが三留野宿の中心部のようだ。


(本陣跡、「明治天皇安在所」の石碑とその横にしだれ梅の木が見える)

その先左側に「読書村道路元標」の石碑があり、その横に長い階段があるが、
元は読書村役場の跡である。
「読書村」は「よみかきむら」と読み、
教育熱心な長野県らしい名と思っていたが、
その昔、明治7年(1874)町村合併により出来た名で、
与川(よがわ)村の「よ」、三留野(みどの)村の「み」、柿其(かきそれ)村の「かき」を取って
「よみかきむら」=「読書村」(*)と名づけたとのこと。

(*)現在は昭和36年(1961)吾妻村(あづまむら)、
田立村(ただちむら)と合併し、南木曽町となっている。


(「読書村道路元標」の石碑)


(読書村役場の跡の階段)

旧中山道はその先で桝形になるが、右手にガードレールがあり、            
その横にある階段脇に「南木曽駅」と左方を示す小さな案内があるので、
狭い階段を降りていく。
階段下にも、京都側から来た人のための中山道の案内がある。

少し進んだ先の左手に、常夜灯が建っている。
年号が享和3年(1803)のもので、207年も昔に造られたものである。


(京都側の枡形)


(見落としそうな階段、見難いが横に案内板がある)


(拡大するとこの案内板がある)


(その階段)


(享和3年(1803)の常夜灯)

その少し先の左手に「左野尻駅右南木曽駅」の案内があるが、
これが与川道の三留野宿側の入り口に当る。
その先に梨子沢川(なしざわがわ)があり、梨子沢橋が見える。
橋を渡った先のガードレールに「等覚寺左」の案内が見える。

左折して等覚寺へ向う。


(与川道の三留野宿側の入り口の案内)


(梨子沢橋)


(梨子沢川)


(「等覚寺左」の案内は橋を渡り終えてから撮ると等覚寺右に変わる)