(中山道の矢印案内表示)
(三留野宿 3)
等覚寺を出て、梨子沢橋を渡った所まで戻ると、
すぐに中山道はこちらの案内表示がある。
案内書に寄れば、その先が民家の庭先になるので、
庭先を避け、道路を進んで民家を過ぎその先を左折するとある。
しかし、南木曽町役場が最近出した案内は、
その民家の庭先を通るように表示している。
案内通り進むと三歩ほどで左に伸びる長い階段があり、
南木曽小学校入り口とある。
階段を通り越し、民家の庭先を抜けると、
また矢印の中山道の案内があり分かりやすい。
(読書小学校の入り口階段。松ノ木の向こう側が中山道)
(民家の庭先を抜ける)
(次の案内)
(二つ目の案内。どう見ても真ん中の草道を指している)
(草道に迷い込むとこんな感じの路)
この場所の中山道は込み入っていて分り難いのであろう、
路が分かれるところへ来ると、
矢印のある案内板が設置されており進みやすい。
二つ目の中山道案内の先に道は二つに分かれており、
ここは少し分りにくく、舗装路でなく草道方向に進む。
先方に草むしりをしている土地の住人に出会う。
「中山道はこちらで正しいでしょうか?」と訊くと、
「昔はこの路を進み先で右折したようですが、
今は役所で矢印の案内を付けていただいて、
この下の道を行くようになりました。
この路も下の道にすぐ合流しますよ」という。
案内はこの路を指しているのではなく、
アスファルトの道を指しているとのことで、
前の場所に戻り進む。
(ご婦人の説明があった出口にある矢印案内)
すぐに次の矢印があり、
先のご婦人の話にあったと思われる路の出口にその矢印は立っている。
矢印に沿って進むと、
道路はY字路となり、案内看板はY字の股にあたる部分にあり見落としやすい。
案内に沿って左に進む。右に行くと中央本線を渡り、
JR南木曽駅、桃介橋方向へ行く。
木曽森林管理署南木曽支署の前を通り、なお進むと、
JR南木曽駅の反対側にある木曽川に掛かる桃介橋がみえる。
先ほどのご婦人から「桃介橋が見える場所があります」と言われていたが、
これのことかと納得できた。
桃介橋とは、福沢桃介の名をとって付けられた名前である。
この橋の先に福沢桃介記念館・山の記念館がある。
(矢印案内に沿って進む)
(次のY字路はYの間に案内看板があり、左へ進む)
(Y字の股にある案内看板、左へ進む。右は桃介橋方向へ)
(桃介橋)
福沢桃介、桃介橋について南木曽町の説明によれば、
(福沢桃介とは、明治元年埼玉県吉見町に生まれ、
優秀で努力家、慶応義塾に入り、
福沢諭吉に見込まれ養子となる。
アメリカに留学し、明治41年ころから、
電気事業にかかわり、木曽川水力発電に情熱を注ぎました。
よみかき発電所を竣工後電力王とも呼ばれ近代日本産業の振興に足跡を残し、
昭和13年にその生涯を閉じました。
桃介橋は水力発電の開発に力をそそいだ福沢桃介が読書発電所建設のため
資材運搬路として架設された。
その後、昭和23年ごろまでは村道として両岸集落の交通に役立っていましたが、
老朽化が進み本格的な修理が出来なかったため昭和53年以降通行禁止となり、
廃橋寸前となっていました。
この間、保存・活用の声が多くあり、
平成5年付近一帯の天白公園整備に併せ復元されました。
平成6年には読書発電所及び柿其水路橋と共に、
国の重要文化財に指定されています。)とある。
(桃介橋2)
(桃介橋3)
(山に囲まれた木曽)
山に囲まれた木曽の住人は、木材に頼って生活し、
切り出した木材を筏にして木曽川に流して運び生活の足しにしていた。
しかし福沢桃介の水力発電開発により木曽川が堰き止められ、
筏さえ流すことが出来なくなり、木曽の住民の生活を圧迫する。
そこにはだかったのが「夜明け前」の主人公の次男、
妻篭本陣の養子になった藤村の兄広助であった。
広助は桃介の水力発電のための木曽川の堰き止めに、
真っ向から反対する運動に尽力したが、
時の流れには逆らえず破れて手を引く。
しかし広助の運動により、
森林鉄道が敷かれ木材を運搬することが出来るようになったのは、
広助の運動の成果と言ってよい。
先に進むと園原先生碑とその先に「D51機関車」のある公園があるが、
森林鉄道の機関車かも知れない。が、説明はなかった。
(機関車のある公園)
(園原先生碑)
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