(杉木立の月見坂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/d3/f62555e5e3ee968a118777d9dee93c19.jpg)
(平泉 6)
月見坂をさらに進むと右手の石段の上に中尊寺の山門がある。
平泉には二度目の訪問であるが、前回は観光バスでやってきて、
記憶に残るのは金色堂だけである。
平泉に来たのに中尊寺そのものが全く記憶にない。
まして本堂がどんな形であったのか、仏像はどんなだったかも覚えていない。
前回訪ねた時には、中尊寺そのものが無かったのではないだろうか、と思えるほどだ。
(中尊寺山門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/13/c33f59c7c6f9a85c32e0ebbaf85162b1.jpg)
(中尊寺本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/7c/0d8661c484505703cd14a1aafc8d9533.jpg)
(本堂入口の参拝客)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/31/9cd239c39778516aad39d53a8d903581.jpg)
(本堂の金色の仏像)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e3/7b806c1cc55362279cbb893b6195d649.jpg)
本堂に上がって仏像を眺める。金ぴかの坐像である。
仏像がどんな印を結ぶのか、その印がどんな意味を持つかよく知らないが、
確かに見たことのない印の形をしている。
仏像の右手は手の平を前に向けて胸の高さに有り、
左手は甲を前に向けて、二本の指(親指と人差し指)を上に向けている。
中尊寺は、最澄を祖とする天台宗と言うから、密教で、
寺格は別格大寺、天台宗大本山である。
仏経なのになぜ密教と言うのか、以前 疑問を持ったことがある。
お釈迦様が涅槃に入り、真理の中で楽しんだ時の教えだから、
つまり死後の世界を漂うなかでの教えと言うから、
誰にも分らない秘密の教えー密教と言う仏教らしい。
物語で言えば「西遊記」であるが、玄奘三蔵法師がインドから中国に帰国後、
翻訳した聖典ーお経は極楽浄土へ行く方法を記したものーで、
実に八万五千通りあると言う。
韓国を旅行した時「海印寺」で、八万大蔵経の版木が八万枚残されていた。
しかもこの経典が戦火で無くなっても、つまり浄土への道のりの教えが無くても、
極楽往生できるのが禅宗で、努力に努力を重ね修行に修業を重ね、
自らその道を会得する教義を持つ教えをお釈迦様は残された。
それが禅宗で、これが武士の世界に共感を呼び広まったらしい。
話がそれてしまったから、戻そう。
平泉は、奥州藤原氏が密教の教えに従って想い画いた、
仏国土(極楽浄土)を現わす建造物と庭園群により、世界遺産に登録されることになった。
中尊寺の仏像は、その浄土を説き指し示しているのではないだろうか。
金色堂が示すように、
この世にない黄金の輝きの中に浄土を探し求めたように思える。
さらに進むと、金色堂、経蔵、旧覆堂に着く。
芭蕉は、
「兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、
光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、
珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、
甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とはなれり。
・五月雨の 降りのこしてや 光堂」と述べている。
(金色堂の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/62/280a6138e17547b177ef453aea7c3684.jpg)
(金色堂への道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/e7/eed5f73823591c6c9da3704b1b577d4f.jpg)
(「七宝散りうせて」の七宝を散りばめた柱(東北歴史博物館のレプリカより)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b6/526fc5ef83178cdca4ef7df74684b289.jpg)
芭蕉が尋ねた時は、すでに四面を囲み覆堂が出来ていた。
現在の覆堂はコンクリート製であるが、旧覆堂も残っている。
芭蕉が言う二堂開帳すの二堂は、覆堂内の金色堂と経蔵のことだ。
光堂には「三代の棺を納め」とあるのは、
初代清衡、二代基衡、三代秀衡の三人の遺体を指しているが、
義経を自害させ、頼朝に討たれた泰衡の首級が納められており、
今では、親子四代のご遺体が納められていることが判っている。
(撮影できない金色堂ネットから)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/84/2d210723a18e7fe707320bde9818748f.jpg)
(撮影できない金色堂内陣ネットから)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/e5/823103c5a6ca1591c0c16c0abeafe315.jpg)
芭蕉が言う「経堂は三将の像を残し」と言っているが、これは現在の経蔵のことではないようで、
金鶏山のことを言っているようだ。(奥の細道菅菰抄より)
*「奥の細道菅菰抄」は別名 高橋利一著の解説書で、
芭蕉の100年後に著わされた、第一級の解説書と言われている。
(経蔵)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/bc/c7f1a246afeea6ee85953d22dc69de8b.jpg)
(芭蕉が見た旧覆堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/2e/b7e94f5b7cf22950b3eba64277102bb2.jpg)
(芭蕉像と「奥の細道」文学碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/ee/95c786ed66bb4127be4fd39d5d469a34.jpg)
・秋風の 祈りにほほ笑む 仏さま hide-san
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/d3/f62555e5e3ee968a118777d9dee93c19.jpg)
(平泉 6)
月見坂をさらに進むと右手の石段の上に中尊寺の山門がある。
平泉には二度目の訪問であるが、前回は観光バスでやってきて、
記憶に残るのは金色堂だけである。
平泉に来たのに中尊寺そのものが全く記憶にない。
まして本堂がどんな形であったのか、仏像はどんなだったかも覚えていない。
前回訪ねた時には、中尊寺そのものが無かったのではないだろうか、と思えるほどだ。
(中尊寺山門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/13/c33f59c7c6f9a85c32e0ebbaf85162b1.jpg)
(中尊寺本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/7c/0d8661c484505703cd14a1aafc8d9533.jpg)
(本堂入口の参拝客)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/31/9cd239c39778516aad39d53a8d903581.jpg)
(本堂の金色の仏像)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e3/7b806c1cc55362279cbb893b6195d649.jpg)
本堂に上がって仏像を眺める。金ぴかの坐像である。
仏像がどんな印を結ぶのか、その印がどんな意味を持つかよく知らないが、
確かに見たことのない印の形をしている。
仏像の右手は手の平を前に向けて胸の高さに有り、
左手は甲を前に向けて、二本の指(親指と人差し指)を上に向けている。
中尊寺は、最澄を祖とする天台宗と言うから、密教で、
寺格は別格大寺、天台宗大本山である。
仏経なのになぜ密教と言うのか、以前 疑問を持ったことがある。
お釈迦様が涅槃に入り、真理の中で楽しんだ時の教えだから、
つまり死後の世界を漂うなかでの教えと言うから、
誰にも分らない秘密の教えー密教と言う仏教らしい。
物語で言えば「西遊記」であるが、玄奘三蔵法師がインドから中国に帰国後、
翻訳した聖典ーお経は極楽浄土へ行く方法を記したものーで、
実に八万五千通りあると言う。
韓国を旅行した時「海印寺」で、八万大蔵経の版木が八万枚残されていた。
しかもこの経典が戦火で無くなっても、つまり浄土への道のりの教えが無くても、
極楽往生できるのが禅宗で、努力に努力を重ね修行に修業を重ね、
自らその道を会得する教義を持つ教えをお釈迦様は残された。
それが禅宗で、これが武士の世界に共感を呼び広まったらしい。
話がそれてしまったから、戻そう。
平泉は、奥州藤原氏が密教の教えに従って想い画いた、
仏国土(極楽浄土)を現わす建造物と庭園群により、世界遺産に登録されることになった。
中尊寺の仏像は、その浄土を説き指し示しているのではないだろうか。
金色堂が示すように、
この世にない黄金の輝きの中に浄土を探し求めたように思える。
さらに進むと、金色堂、経蔵、旧覆堂に着く。
芭蕉は、
「兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、
光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、
珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、
甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とはなれり。
・五月雨の 降りのこしてや 光堂」と述べている。
(金色堂の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/62/280a6138e17547b177ef453aea7c3684.jpg)
(金色堂への道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/e7/eed5f73823591c6c9da3704b1b577d4f.jpg)
(「七宝散りうせて」の七宝を散りばめた柱(東北歴史博物館のレプリカより)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b6/526fc5ef83178cdca4ef7df74684b289.jpg)
芭蕉が尋ねた時は、すでに四面を囲み覆堂が出来ていた。
現在の覆堂はコンクリート製であるが、旧覆堂も残っている。
芭蕉が言う二堂開帳すの二堂は、覆堂内の金色堂と経蔵のことだ。
光堂には「三代の棺を納め」とあるのは、
初代清衡、二代基衡、三代秀衡の三人の遺体を指しているが、
義経を自害させ、頼朝に討たれた泰衡の首級が納められており、
今では、親子四代のご遺体が納められていることが判っている。
(撮影できない金色堂ネットから)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/84/2d210723a18e7fe707320bde9818748f.jpg)
(撮影できない金色堂内陣ネットから)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/e5/823103c5a6ca1591c0c16c0abeafe315.jpg)
芭蕉が言う「経堂は三将の像を残し」と言っているが、これは現在の経蔵のことではないようで、
金鶏山のことを言っているようだ。(奥の細道菅菰抄より)
*「奥の細道菅菰抄」は別名 高橋利一著の解説書で、
芭蕉の100年後に著わされた、第一級の解説書と言われている。
(経蔵)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/bc/c7f1a246afeea6ee85953d22dc69de8b.jpg)
(芭蕉が見た旧覆堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/2e/b7e94f5b7cf22950b3eba64277102bb2.jpg)
(芭蕉像と「奥の細道」文学碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/ee/95c786ed66bb4127be4fd39d5d469a34.jpg)
・秋風の 祈りにほほ笑む 仏さま hide-san
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます