森の中のティータイム

離婚を経験し子供達も独立 
暮らしの小さな発見をノートに。

人が幸福を感じるとき

2014-03-07 | 思い・つれづれ
       
      
      「ゴーストたちの恋愛指南」より

先日、過去に観た映画をテレビで再鑑賞した際、そのセリフの中に(なるほど)と思うことが
あった。
今年のアカデミー主演男優賞受賞のマシュー・マコノヒー演じる主人公が、様々な恋の駆け
引きの末にようやく気付かされた真実の愛を前にしての、愛についての「真理」のようなもの。

「思いが強い方が負け。だけど、それが不幸かと言えばそうではない」という意味の言葉
だった。

確かに恋愛や夫婦関係に於いては「想うより想われる方が幸せ」と言う人も多いし、「好
き」という気持ちが強い方が弱い立場になりがちではあるけれども、そうだからと言って
幸福度が弱いかと言えば、それは必ずしもそうではない気がする。他者からどう見えよう
とも、愛がより強い方が恐らく幸せなんだと思う。 
幸福の「概念」と「感じ方」は別ということかな。

定期的に配達されるローカル情報誌に、先日掲載されていた一条真也氏のエッセイ。
この回は愛についての真理にも通じる「ラッセルの幸福論」についてとりあげていた。
哲学と数学の天才でもあるラッセルは、第一次世界大戦の頃から反戦運動を展開していた
らしく、58歳にして「幸福論」を書き上げたとのこと。

「自己評価が客観的でないと被害妄想が生まれ、その被害妄想が『ねたみ』と結びつき
人を不幸にする」「その際に自分の『ねたみ』を認識できないと、それを正当化しよう
とする自己欺瞞が生まれる」と、ラッセルは主張するとある。
そして「彼は、他人へのねたみから生まれた欲望が人を不幸にすると主張した」と、一
条氏は述べている。

「『ねたみ』から生まれる欲望は「呪いに通じる」という法則を、彼は知っていたのでし
ょう」とも。そして『幸福になる一番簡単な方法は、他人の幸せを願うことです』という
彼のメッセージは、イエスの本心に最も近かったように思えます」と結んでいる。

ラッセルの幸福論について語られた著書も多くあるけれど、世の中で現実に起こっている
凶悪事件などを知るにつけ、この「最も簡単」といわれることこそが、殆どの人間にとっ
て現代では「最も容易ではない」ことのような気がする・・・。

私自身は昔から「他人と自分を比べる」ことがなく(これは欠点でもあるけど)それ故
「ねたみ」という感情にも向き合わずに済んだ気がする。
それでも若い頃は「幸福を実感する」ということが少なかったように思う。
いつも何かを探し求めていて、満ち足りるということがない感じだったろうか。
後から振り返れば「あの時は良かったなぁ」などと思えるのだけど。

それが子供を得て、自分のことどころではなくなり、子供の一人が何かの病気が治った
だとか何かの目的を終えたとか、そういった小さな安堵感を覚える瞬間くらいの僅かな
時間と時間の隙間に、ふと「あ~何もないって幸せかも♪」と思えるようになった気が
する。 幸福と呼べるかどうかわからないけど、ぼんやりとした概念に実感が追いつい
てきて、満ち足りた時間とほぼ同時進行に気持ちもそれを感じることができるようにな
れた。

実際には私よりもずっと多くの幸福な出来事や物を得ていても、それを信じたり感じた
りできない人も多い。 そういう人は永遠に幸せになれないのかもしれない。

          ******************

先日浴槽の取り換え工事があり、狭い我が家中にドリルの騒音が鳴り響く中、
ビビり猫の福太郎は逆さまにした猫ベッドの下に潜り込み工事終了まで出てこなかった。

 

 

一方、外で10カ月近くも暮らした小太郎は、騒音なんてどこ吹く風(笑)

 

ついにはコタツで悠々とヘソ天で寝ていたw
「生き方は猫に倣え」は、確かに的を射てる気が・・☆

工事が終わりこれまで使っていたお風呂のフタが少しだけサイズが小さく、浴槽との間に
5ミリほどの隙間があることに気付く;
僅か5ミリの違いで寿命でもないのに買い直しなんて、ケチな私は許しません!(笑)



用途は違うけど、ホームセンターで見つけたこんなモノ(プラスティックモールバインダー
とかいうらしい)を買って、風呂蓋の幅にカットしてバリを取り除き端っこに被せてみる。

 

 


バインダーというだけあって挟む力がとても強く固くて、無理矢理広げた端からゴムトンカチ
で叩いて差し込むと、最後に端がちょっと欠けてしまったものの、何とか収まった。


 
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