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「栲綱タクツヌの新羅シラギの国ゆ人言ヒトゴトを良しと聞かして問ひ放サくる
親族ウガラ兄弟ハラカラ無き国に渡り来まして大皇オホキミの敷き座マす国に
うち日さす都しみみに里家は多サハにあれどもいかさまに思ひけめかも
連れもなき佐保の山辺に泣く子なす慕ひ来まして敷布シキタヘの家をも造り
あら玉の年の緒長く住まひつついまししものを生まるれば死ぬちふことに
免ノガろえぬものにしあれば恃めりし人のことごと草枕旅なる間ホトに
佐保川を朝川渡り春日野を背向ソガイに見つつ足引の山辺をさして晩闇クラヤミと
隠りましぬれ言はむすべ為むすべ知らに徘徊タモトホりただ独りして
白布シロタヘの衣袖コロモテ干さず嘆きつつ吾が泣く涙有間山雲居棚引き
雨に降りきや
(天平七年乙亥キノトノイ、大伴坂上郎女が尼の理願リグワムの
死去ミマカれるを悲嘆カナシみ、よめる歌一首、また短歌 #3.0460)」
「坂上郎女が詠むこの長歌理願の姿ありありと述べ()」
「留めえぬ命にしあれば敷布の家ゆは出でて雲隠りにき(反し歌#3.0461)」
「居心地がいいのか理願身を寄せる帰化人なれど立派な人か
(右、新羅ノ国ノ尼、名ヲ理願ト曰フ。遠ク王徳ヲ感ジテ聖朝ニ帰化ス。
時ニ大納言大将軍大伴卿ノ家ニ寄住シ、既ニ数紀ヲ経タリ。惟ニ天平七年
乙亥ヲ以テ、忽ニ運病ニ沈ミテ、既ニ泉界ニ趣ク。是ニ大家石川命婦、
餌薬ノ事ニ依リテ有間温泉ニ往キテ、此ノ喪ニ会ハズ。但郎女独リ留リテ
屍柩ヲ葬送スルコト既ニ訖リヌ。仍チ此ノ歌ヲ作ミテ温泉ニ贈入オクルル。)」