Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

西郷隆盛 第九巻 / 海音寺潮五郎

2016-07-14 20:45:00 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第九巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 この西郷隆盛史伝、朝日新聞社刊の第九巻の帯に曰く、<鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は恭順。西郷と勝の会談で江戸城総攻撃は回避されたが‥‥彰義隊戦争とその後始末でついに絶筆。著者の生命を燃焼させた、幕末維新史の決定版>。

 とうとう海音寺さんの命がつき、この史伝の第九巻が氏の絶筆になった。とても残念なことだったが、西郷とともに城山まで付き合わなくてよかったかもしれない。明治維新という時代には、こけつまろびつ這い上ってきたこの男・西郷隆盛無かりせば激動の時代を織り成す太い縦糸も見当たらず、もつれにもつれた糸くずだけが残っただろう。

 ここ数巻の目次のこまかさは史実を丹念に追っている時の手控えのままのような感じがしていたが、絶筆となった第九巻は見出しすらもまだなかったようだ。このあたりのヤマは、すでに書き上げられていた「江戸開城」であろう。あらためて思うに、相方の勝海舟も、なんともしたたかな人物であったようだ。以前感心した勝の懐旧談、「西郷一人を眼においた」。そうだ、これもだ。「アーネスト・サトウと西郷」 でも、ひろい読みとか、卒読とか、こんなふうじゃ海音寺さんに叱られるなあ。。。。。

>>>(以下、「西郷隆盛 第九巻 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 昭和53年9月10日」より引用 。。。部は中略)

<西郷隆盛 第九巻 目次>
三条等五卿の帰京
勝つ自信なき薩長
江戸城内評定・薩摩屋敷焼打ち
西郷、焼打ちの報を受取る
大坂城内の激昂
西郷と大久保の決意
岩倉の方針変る
幕薩の開戦
鳥羽・伏見の戦
朝廷の空気
錦旗出動
二日目の戦
三日目の戦
四日目の戦
大坂開城
西郷、医師ウィリスを招聘す
西郷、島津忠義の海陸軍総督を辞せしむ
神戸事件
堺事件
官軍東征と西郷の心事
大久保の国許家老座への手紙
慶喜の江戸帰着
揺れやまぬ慶喜の心
勝安房起用
フランス人らの建議
幕府の混乱と勝の根本対策
勝一身に全権を負う
官軍、箱根の関所を占領
輪王寺宮と官軍本営
西郷の心境
山岡鉄太郎と西郷
勝の密計
両雄会談
西郷と勝とパークス
朝旨伝達式・西郷とパークス
江戸城受け渡し
幕府陸海軍の脱走
徳川氏処遇問題
勝の策謀
薩摩勢力にたいする官軍部内の不平と嫉妬
彰義隊さわぎ
大村益次郎と西郷
上野戦争

<<(両雄会談)から
。。。。
 西郷は勝にあてて、明日正午高輪の薩摩屋敷で会おうという返事を書き送るとともに、その日新宿の内藤家の屋敷(信州高遠の内藤家の屋敷、今の新宿御苑にあった)に入る予定になっている東山道支隊をひきいる東山道先鋒総督府参謀板垣退助と同内参謀河田佐久馬(景興、鳥取藩人)とに手紙を書き送った。
 いよいよ御壮栄にて御進発のこと恐賀奉ります。
 甲府表ではお手柄でありました(勝沼で近藤勇のひきいる甲陽鎮撫隊を撃破潰散させたこと)由をうけたまわりまして、うれしいことでした。よほど官軍の勇気を増しまして、大慶に存じます。
 さて、大総督から江戸へ打入りの期限を御布令になりまして、定めて御承知になっていることと存じますが、それまでに軽挙のことがあっては、厳に相済まないことです。静寛院宮様のおんことについて、田安家へお申し含めのこともあり、また、勝、大久保等の人々もぜひ道を立てようと、ひたすらに尽力していることも聞いていますから、こんどの御親征が私闘のようになっては相済まず、玉石相混ぜざるおはからいもあるだろうと存じますれば、十五日以前には必ずお動きないよう、合掌して頼みます。しぜん御承知下さるであろうとは信じていますが、遠くかけへだたっていますこと故、事情が通じかねるだろうとも思いますので、余計なことながら、この段御注意をうながしておきます。恐惶謹言。
  三月十二日                西郷吉之助
 乾 退助 様
 川田佐久間様

 板垣はこの戦争中、美濃の大垣で乾姓から先祖の姓板垣に復した。彼は甲州武田二十四将の一人板垣信形の子孫なのである。しかし、西郷はこの時までその改姓を知らなかったのだろう。旧によって乾と書いている。川田も河田佐久馬なのだが、このころの人は通じさえすれば、川でも河でも、二郎でも次郎でも、そう気にしていない。他人が気にしないだけでなく、本人も気にしないのである。
 西郷のこの手紙は、十五日の総攻撃延期のことには触れていない。それが正式に決定されるのは十四日に勝と二番目の会見をした時のことであるからである。しかし、この手紙から脈々として感ぜられるのは、西郷の平和的解決の希望である。この希望が万事打ちこわしになることを案じて、厳に戒めてやっているのである。

 この十二日には、アーネスト・サトウが三日がかりの予定でまた情勢探索のために江戸に出ている。「慶喜に要求される条件は応諾可能のものだという予想のために、市中はずっと平静に帰している」と、サトウは江戸市内を観察している。「ずっと」というのはこの以前九日に探索に出て来た時よりはるかにの意味である。しかし、彼の勝訪問は数日たってからのようである。彼の著書に記述してあることから判断すると、勝が西郷と会談して恭順と降伏の諸条件について話し合った日以後でなければならず、また西郷が駿府の大総督府に行き、さらに京都に上り、三月二十六日には帰って来ることを勝が知っていなければならないから、最も確実には三月二十日以後というところになろう。

 明くれば、十三日正午、勝は高輪の薩摩屋敷に行った。
 西郷と勝とは四年前の元治元年九月十一日に、大坂の勝の旅館で初めて対面したのだが、その時からたがいに満幅の敬意を抱き合っている。西郷に至っては会うはるか以前から勝を思慕している。勝の神戸海軍操練所が、幕命によって閉鎖しなければならず、彼自身も江戸にかえって役儀御免無役の身となって、ほとんど蟄居同様の身の上となったのは、それから二月経たない時であった。その江戸引上げの時、勝が最も愛している弟子坂本龍馬の身柄を依頼したのは薩藩だった。しかし、その後二人は会う機会を持っていないから、その時から今度はじめて会うわけであった。
 再会の二人の間には、四年の歳月が横たわっており、時勢の大変化があり、二人の地位の大転倒があり、勝にとっては最も愛する弟子であり、西郷にとっては最も親愛する友人であった坂本龍馬の功業と非業の死とがある。感慨は一方ならぬものがあったはずであるが、それを伝えるものは何ものこっていない。記録としては勝の日記があり、また後年の談話があるが、いずれも最も簡潔に、最も無味乾燥に西郷に面談して、和宮様のことだけを語ったと語っているだけである。
 つまり、談判めいたことは全然なく、勝がひとり和宮様のことについて語っただけであったのだ。
和宮様のことについては、かねて京都から勝に、お身の上に万一のことのないように取計らうようにと言って来ているので、このことを語って、
「定めて、このことは貴殿の方でも御承知のことでありましょうが、私においてたしかにお引受けしました。女性おひとりを人質に取り申して、かれこれ申すような卑劣な根性はありません。このことについては、拙者がここで確かに保証をいたしておきますから、御安心下さい。その他の談判は、いずれ明日参って申し上げましょう。貴殿方においても、それまでに篤と御勘考しておいて下さい」
といい、明日、芝田町の薩摩屋敷で会うことにして別れた。これが両雄の第一回目の会見で、場所は高輪の薩摩屋敷であった。

 翌十四日、勝は大久保一翁をはじめ諸有司相談の上で、山岡の持ちかえった恭順降伏条件の条々について、詮議をこらしてまとめ上げた嘆願書をたずさえて、芝田町の薩摩屋敷へ向った。
 勝が後年『氷川清話』で語っているところでは、羽織袴の軽装で、馬上、ただ一人の馬丁を従えていたというのだが、両人の談判を隣室から見ていた一人である渡辺清左衛門の追憶談では継上下姿であったという。どちらが正しいか、今となってはわからないが、徳川家を代表しての使者である。継上下であったろう。その時、勝のたずさえた嘆願書の内容はこうだ。
 一、慶喜は隠居の上、水戸表へ慎みまかりあるようにしていただきとうございます。
 二、城の明け渡しのことについては、手続きがすんだら、即日田安家へおあずけ下さいますようにしていただきとうございます。
 三、四、 軍艦・軍器のことについては、のこらず取納めておきまして、追って寛典の御処置を仰せつけられます前に、相当の員数をのこして、その余をお引き渡しいたすようにしていただきとうございます。
 五、 場内に住居している家臣共は城外に引きうつり、慎みまかりあるようにいたしとうございます。
 六、 洛外において慶喜の妄挙を助けました者共のことにつきましては、格別の御憐憫をもって御寛典になし下され、一命にかかわることのないようにしていただきとうございます。
 但し万石以上の者(つまり譜代大名である)も、格別の御寛典を本則として、朝裁をもって仰せつけられるようにしていただきとうございます。
 七、 士民を鎮定することは精々行きとどくようにいたします。万一暴挙いたす者があって、手にあまります時には、その節改めてお願い申しますれば、官軍を以て御鎮圧くださるようにしていただきとうございます。
 右の通りきびしく取計いをいたすでございましょう。もっとも、寛典の御処置の次第を前もってお伺いしていますれば、士民鎮圧の便宜にもなりますから、その辺を御亮察下さいまして、御寛典の御処置の趣きを心得のために伺いおきたくございます。

 かなり虫のよい内容である。三、四がとくにそうだ。しかし、徳川家が大名として存立を許される以上、その身代にふさわしい軍備があるのは当然だと思うし、渡してしまえば優秀なものは返されないおそれがあるというので、このような嘆願になったのであろう。

 勝が田町屋敷についた時、西郷はまだ来ていなかったので、勝は西郷にあてて、すでに到着したという手紙を書いた。
西郷はそれに返事を書いて、先ず届けさせた。

 尊翰拝誦仕り候。陳れば唯今田町まで御来駕なし下され候段、お知らせ下され、早速罷り出で仕り候様に仕るべく候間、何とぞお待ち合せ下されたく、この旨お受けまで、かくの如くにござ候。
頓首。
   三月十四日               西郷吉之助
 安房守様
      拝復
 この手紙を勝が受け取ってしばらくして、西郷が庭の方から来た。「古洋服に、薩摩風の引切り下駄をはいて、例の熊吉という忠僕ひとりを伴い、いかにも平気な顔色で出て来た」と、勝は追憶談している。
「これは遅刻しもして、失礼いたしもした」
と、西郷は鄭重にあいさつして座敷に通った。「おれが殊に感心したのは、西郷がおれにたいして、少しも戦勝者の威光で敗軍の将を軽蔑する風の見えなかったことだ」と、勝は後に嘆称している。西郷は威張ったり、人を軽蔑したりしたことはかつてなかった人だ。彼は相手が弱者や敗者であれば、かえって礼を重んじ、鄭重に接することを心がけとした人である。これはぼくの管見にすぎないが、彼は自分の容貌、体格があまりにも雄偉で相貌が立派であるために、人に威圧感をあたえることを用心していたのではないかと思うのである。弱者や敗者にたいしてとくに鄭重に接したというのも、平生道を歩くにも決して頭を上げ胸を張って堂々とした姿では歩かず、うつ向き勝ちに何か思うところありげな姿で歩いたというのも、こう考えると辻褄が合うと思うのである。

 この時から十年後、西郷が城山で死んだ時、勝は亡友帖の中に、この時西郷のくれた返書を貼って、次の一文を書きそえた。

 戊辰三月、官軍の先鋒品川に至り、十五日を期して侵撃の令ありと。同十四日、書を先鋒参謀に送り、一見を希ふ。余高輪の藩邸に至る。時に君一僕を従へ、悠然として到る。初め余を見て曰く、時事此に至る矣、君果して窘蹙するや否やと。余答へて曰く、今試みに君と他を易へむ、然らざれば君詳悉する能はざるなりと。君、唖然として絶倒す。

 唖然は、ここではアクゼンとよむのであろう。唖字はア・アクの二音がある。アゼンとよめば驚きあきれてあいた口がふさがらぬ様のことであり、アクゼンとよめば唖々と同義で、カラカラと笑う声を言うのである。絶倒はころがって笑うことを言う。大笑いをするのである。
 つまり、西郷はやって来て、勝を見て、
「えらいことになりましたが、先生ほどの人でも少しはおこまりでしょうな」
とからかったところ、勝は、
「貴殿と拙者と立場をかえて見ましょう。そしたらよくわかりましょう」
と答えた。
 西郷はからからと大笑いしたというのである。大事、談笑の間に成るという次第である。
 これが十四日の会見の時であるとすれば、邸の所在が、すでに田町を高輪に誤っているが、その他も、勝の記憶は、十三日の会見の時と十四日の会見の時とが、こんがらかっているようである。勝のこの文章に記されたことも、十三日の会見の時のことか、十四日の会見の時のことか、正確にはわからないのである。
 十四日の会見の時のことは、有名な話だけに、後年勝はよく人にたずねられて、いろいろな機会に話している。ある時はこう語っている。
「談判はただ一言で決した。おれの言うところを一々信用してくれて、その間一点の疑念も挟まなかった。『色々むずかしい議論もありますが、私が一身にかけて、お引受けします』と、この一言で、江戸百万の生霊もその生命財産を保全し、徳川氏も滅亡を免れた。もしこれが他人であったならば、やれ、貴様の言うことは自家撞着だの、言行不一致だの、あの沢山の兇徒が所々に屯集している様子を見ろ、恭順の実がどこにある、なんのかんのと言って責めるに違いない。そうなると、直ちに談判破裂だ。西郷はそんな野暮は言わない。その大局をとらえて、決断の確かなことには、感心してしまったよ、云々」

 しかし、『海舟日記』のこの年の三月十三日の項を見ると、気分としてはそのように簡単でも、段取りは大分入りくんでいる。
 西郷と会って、先ずたずさえて来た嘆願書を渡した。当然、一条目ごとに説明があったはずである。これは相当時間を食ったはずである。
 そのあと、勝はかねて官軍参謀に差し出していた書面(多分、海江田武次にでも差出したものであろう)の写しをふところにしていたので、それを出して西郷に見せた。それはこういうのだ。

 昨年以来、「上下公平一致」ということが言いはやされていますが、現実にはその中に公平とはいい難い小私があって、終に今日の変に及んでしまったのは、皇国に人物が乏しいからであります。なかんずく、伏見の一件は、旧幕方が一、二の藩士(西郷、大久保のことである)を目して、誤った考え方をしてしまったによって起ったのです。わが徳川家の最も恥ずる所であります。そのあげく、堂々たる天下が、ついに同胞相食むことになろうとは、何という見苦しいことでありましょう。私共としましては、朝廷に忠諌を奉り、死をもって報い申すべきでありますが、すでに前に失敗しています身としましては、何の面目あって、諌言申すことが出来ましょう。
 しかるに、不日のうちに戦争がはじまり、数万の生霊が損ぜられんとしています。この戦いは、その名節、その条理、決して正しいものではなく、各々私憤を包蔵しているものです。堂々たる男子の為すべきことではありません。私共はよくこのことを存じているのですが、官軍が猛勢にして、白刃飛弾をもってみだりにかよわい士民をおびやかしているのに、こちらが全然それに応戦しないでは、無辜の死者を益々多くし、生民の塗炭の苦しみは益々長引くだろうと思うのです。
 官軍、もし実に皇国に忠なるの志がおわすのなら、よろしくその条理と事情を明らかにして、しかる後に、一戦を試み給うべきであります。私共もまた自らの正・不正を顧みて、敢えて妄りに軽挙はしますまい。
 ああ、わが主家の滅亡にあたって、名節、大条理を守って、従容として死につく者の一人もいないのは、千載の遺憾です。海外諸国の笑うところとなるのみでありましょう。私共はこのことによく気づいているのですが、どうすることも出来ず、共に殺されてしまうとは、肝に銘ずべき怨みです。日夜焦思して、ほとんど憤死する思いです。あわれ、この心中を御詳察下さるなら、召されよ。軍門に詣って、一言所存を申し上げましょう。幸いにして御熟思し給うならば、大にしては日本のため、小にしては徳川家のために大幸で、死するもなお生けるがごとくうれしいことであります。                     謹言
 辰三月
                        勝 安房
 参謀軍門

 この時期に、勝の官軍方面へ出した文章は皆そうだが、この文章にも、降伏者の勝利者にたいする哀願の調子は全然ない。むしろ抗議であり、教諭であり、日本の幸福のために、対策をよく我と商議せよと要求する、堂々たる調子のものである。これを読んで、西郷がどんな反応を示したかは、勝の日記にはしるされていない。
「いかにも」
というようなことを言って、微笑をふくんで、勝の顔を見つめて、説明を待ったと思われる。そう解釈すれば、日記にしるしてある次のことばが、その説明と受け取れないことはない。

「わが徳川氏が大政を朝廷に返上したしました上は、この江戸は皇国の首府であります。また徳川氏が数百万石の封地を持っていましたのは、これまで大政をおあずかりしていました幕府の入費にあてるためでありました。この二つは、大政の返上とともに、当然その処置を朝廷にお伺いすべきものでありましょう。鎖国の時代は別としまして、開国して外国との交際がはじまりましてからは、幕府において談ずる政治は、決して徳川氏のためばかりのものではなく、皇国一般のためのものでありました。日本が日本のことだけでなく、世界の中の日本であることが切実になった今日では、内乱のために国を滅ぼした印度、内乱のために外国に地を削られた支那のことを、よくよく考えないわけにまいりません。今日、皇国の首府たる江戸にいながら、わが家の興廃を憂えるだけで戦争などして、わが国民を殺すようなことを、わが主人がどうしていたしましょう。主人のひたすら願っているのは、朝廷の御処置の至高至当なるを仰ぐことを得ますなら、それ以上は天意に応ずることでありますから、これより朝威は興起し給うであろうし、民またこのように皇化の正しきを排するなら、全国響きのものに応ずるように忽ちの間に靡くでありましょうし、列国はこれを聞いて、わが国にたいする信用を一時に改め、益々和信の心を強固にするでありましょう。主人慶喜はこのことのみを考え、わたくし共臣下もまたおこたらず思いつづけているのであります」
と、勝は言った。これは慶喜の目下の心境の説明であり、嘆願書の各条々の説明についてのいわばしめくくり的総論であるといってよかろう。
 これにたいして、西郷は
「私ひとりでは、今日これらを決することは出来ませんから、明日出立して、総督府に言上して御指揮を仰いでまいりましょう。明日は進撃の予定になっていますから、とりあえず、中止させます」
といって、左右の隊長らに命令を下して、従容として別れ去った、と勝は日記に書き、その次にこう賛語している。
 
 これを以ても、西郷の傑出果決を見ることが出来る。ああ、伏見の一挙は、我過激にして早まって事をおこし、天下の人心の向背を察せずして、一敗地にまみれ、天下洶々として定まらぬこととなった。薩藩の一、二の小臣(西郷、大久保)は、上は天子を擁し、列藩に令し、師を出すこと迅速、猛虎の群羊を駆るようである。何たる智謀たくましき姦雄のふるまいぞ。

 姦雄とは、時代に応じて出た英雄というほどの意味だろう。通義通りの姦雄と解釈しては違うようである。

 この会見には、渡辺清左衛門が隣室で、村田新八、中村半次郎等と傍聴していて、それを後年「史談会」で語っているが、それは勝の追憶談とも、日記の記述とも、かなりに違っている。勝のその日の服装が羽織袴ではなく、継上下であったというのが、すでに違っていることはもう書いた。継上下は肩衣と袴とが違った生地や染色でこしらえてあるもので、上下ともに同じ織のものが正式で、これは略式のものである。
 さて、勝は言った。
「徳川慶喜の恭順ということは、すでに御承知になっていなければならぬと思います。十分なる余力がありましたのに、大坂城を引き払って江戸に帰ったというのが、すでに事実上恭順の大意を達するつもりの精神であります。我々もまたそのような考えで、慶喜の命により、どこまでも恭順ということでやっているのです。つきましては、願わくは箱根以西に兵を留めていたたきませんと、この江戸の多数の旗本や、譜代の藩々の状況から言いましても、どのように沸き立つかも知れないと考えまして、私共はお願いを申し上げました。しかし、唯今では箱根をこえてこちらに繰り込んでまいられました。私共は鎮撫のために一命をなげうってつとめているのです。何としてでも、恭順の意をつらぬこうと思いつめています。しかるに、ひそかに聞きますれば、官軍には明日江戸城を総攻撃なさる御予定とのこと。それはどうしてもお見合わせ願わなければなりません。拙者は、嘆願とともにそのお願いのために参ったのです」
 西郷が言う。
「恭順とあるなら、恭順の実をあげてもらいたいのです」
「大総督の御命令に従って、引きこもって謹慎すれば良いと仰っしゃるのでありますか」
「そうです」
「そういたします。上野大慈院にずっと蟄居謹慎しているのです。それでよろしいか」
「上野でも、その他でも、ふさわしいところなら、御勝手でごわす」
これで慶喜の恭順のことはすんで、城受け取りの話になって、西郷は言う。
「江戸城の受け取りでごわすが、すぐにお渡し願えますかな」
「すぐお渡ししましょう」
「兵器弾薬などは」
「これもお渡し申しましょう」
「軍艦は?」
「これはちょっと面倒です。陸兵のことなら、それは拙者の管轄ですから、いかようにもして、なるべく穏当にお渡ししようと思いますが、軍艦はどうも思うにまかせません。というのは、実際において、軍艦のことを取り扱っているのは榎本和泉(武揚)です。この榎本釜次郎という男は、我々と一々同意であるとは申し上げかねるからです。しかし、今ここで官軍にたいして粗暴なふるまいをするというようなところは見えません。本人にもその意思はないと信じます。しかし、軍艦の受け渡しのことは、ここで私はお請け合いすることは出来ません」
 勝のことばはまことに正直であった。相手が西郷だから、かれこれつくろう必要はないと思ったのであろう。西郷もまたそれに立腹するようなわからずやではない。黙ってうなずいて聞いている。
 勝は続けた。
「もちろん、江戸城もお引き渡しせねばならず、弾薬も差し出さなければなりませんが、よくよく私共の心底をお察し下さい。一口に旗本八万騎と申しますが、このほかに伝習隊その他の近年とり立ての兵も莫大な数があります。またこれに準ずる各藩の兵もそれぞれあります。今日江戸の混雑というものは、実に容易ならぬもので、拙者も殺されようとしたことが、すでに数度あります。朝廷のおんために尽くすのですから、身命は少しも惜しむところではありませんが、今死にますと、徳川家はどうなるであろうと、不安にたえないのです。大久保一翁はじめ皆私と同様の考えであります。こう申し上げますと、拙者はあるいは諸君からお疑いを受けるかもしれませんが、その疑いはすでに拙者はわが幕府の重役その他からも受けているのです。両者の疑いの間にはさまっている拙者であり、またその間に挟まって誠意を尽くそうとしている慶喜なのであります。今日では、慶喜といえども、命令を出しましても、その通りに従わせることは出来ない形勢なのです。だのに、官軍では明日兵を動かして江戸城を総攻撃しようとなさる。必ず何らかの変動がおこり、慶喜の精神が水泡に帰するばかりでなく、江戸はいうまでもなく、天下の大動乱となることは明らかであります」

 勝のことばの最後のくだりは、実におそろしい威迫に満ちたことばであった。そうなった場合には、勝の命令一過、江戸中のナラズモノらがそれぞれに放火して、官軍を江戸の町とともに灰燼にしてしまうということを言っているのである。はたして西郷にそれがよみとれたろうか。西郷は依然にこにこして聞いているだけである。
 勝は自分の広長舌に結びをつける。
「西郷殿にはかねてまた申し上げたことがありますから、大抵御諒察のことと思います。ともかくも、明日の戦争はやめていただかなければなりません」
 勝がここにいう「かねて申し上げたこと」というのは何であろうか。山岡が駿府に持参した手紙の文面のことであろうか。興津宿で西郷が各隊長らに怒りの色とともに示したというあの書面の文面のことであろうか。多分これであろう。
 とすれば、榎本釜次郎が掌握している十二隻の軍艦は、勝の自由にもならず、慶喜の統制も及ばぬというのであるから、官軍としてはゆゆしい脅威になるはずである。一言も軍艦などのことは言わずに、西郷をおどかしている勝もうまいものだが、春風に吹かれているような顔で、とぼけて次のように言う西郷も、なかなかの役者ぶりといえよう。
「官軍の先鋒隊は拙者の指揮下にありますから、攻撃中止にすることは出来ます。新宿からする東山道軍支隊も、板橋からする東山道軍本隊も、連絡すればとめることが出来ます。しかし、先生は拙者がこれだけのことをした場合、何をして下さいますかな」
「そうしていただけばまことに大慶です。拙者は直ちに慶喜のところへ帰り、その号令をもって早々鎮撫して、必ず官軍に向って粗暴なふるまいをしてはならぬということを、厳重に達するつもりでいます」
「それはもちろんそうしてもらわなければなりませんが、先ず第一に城、兵隊、兵器を渡してもらわねばなりません。それをぜひ急にしてもらわねばなりません」
「それは暫く待っていただきとうござる。そのことはまことに困難なのです。内情をよく考えていただきたい。今日もし卒然としてその令を出しましたなら、慶喜がになるかも知れません。我々も真先にいのちを取られるでありましょう。いのちは敢て惜しむところではござらんが、そうなれば徳川家三百年の功績も消えて、天地に対して申し訳なく、また朝廷にたいして大罪を蒙ることになりますから、唯今のところはただ鎮撫するというだけにとどめておいて下さい。あとはまたあとでいかようにもいたしましょうから」
「そういう御都合なら、それでよろしい。その積りをもって、慶喜殿も降伏なさるように。どこまでもその方針をもって御鎮定なさるがよろしい。こちらは恭順がどれくらい出来なさるか、見ましょう。それでは、明日の攻撃はやめましょう」
 この渡辺の言うところと、勝の十四日の日記に記するところとを見くらべてみると、繁簡のちがいはあるが、同一根であることがたどれる。勝の日記は自分の心覚えのためのものであるから、うんと整理して極度に省略した要領を記するにとどめたものであろう。
 こうして談判がすんで、西郷は隣室の村田新八、中村半次郎の二人を呼んで、進撃中止の命令を出すように命じ、あとは昔話などしていたという。「従容として大事の前に横たわるを知らない有様は、おれもほとほと感心した」と、勝は後日談している。

 この攻撃中止の命令は、この時点では、明日に予定されていた総攻撃を一時とりあえず延期するという建前で出されたのだが、ついに永久のものとなり、江戸は焼土となることをまぬがれ、百万の住民は安全であることが出来たのであった。
 この談判を、勝は後年、これは相手が西郷だから出来た、他の人ならこちらの言葉の些少の矛盾や小事に拘泥して、こうは行かなかったろうと言っている。だから、ここで、勝の当時の人物評を紹介する必要があろう。彼は『氷川清話』で、大久保利通のことを、
「大久保は西郷の実に漠然たるに反して、実に截然としていたよ。江戸開城の時、西郷は『そうかよろしく頼み申します。後の処置は勝さんが何とかなさるだろう』といって江戸を去ってしまったが、大久保なら、これはかく、あれはかくと、それぞれ談判しておくだろうさ。しかし、考えてみると、西郷と大久保の優劣はここにあるのだよ。西郷の天分がきわめて高い理由はここにあるのだよ」
といっており、木戸孝允のことを、
「木戸松菊は、西郷などにくらべると、非常に小さい。しかし綿密な男さ。使い所によっては、ずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがのう」
といっている。この人物評によると、同じく維新の三傑といわれていても、この二人はこの際の談判相手としては皆落第ということになろう。たとえ彼らがパークスが官軍の慶喜征伐や江戸進撃にたいして異議を持っているという情報を知っていてもだ。もちろん、中止命令は出されただろう。出さざるを得ない場になっているのだから。しかし、当時の人にも、後世の人にも、仰いで嘆称せざるを得ないような、こんな見事さには行かなかったろう。西郷という千両役者、勝という千両役者によって、はじめて演ぜられた、最も見事な歴史場面だったといってよいであろう。
。。。。。。。。。。

 勝が英国公使パークスと連絡を取ったり、パークスの意向が西郷を動かしたりしたため、江戸の無血開城はおこなわれたので、西郷と勝との英雄的談合などは単に表面だけを見たウソの美談にすぎないという説をなす人は近頃多いが、ぼくの記述をずっと丹念に読んで来た人には、そういう結論を下すわけには行かないことがわかるはずである。
 西郷は京都出発の時から、最終の段階では慶喜を助命し、徳川家の家名も存し、領地もある程度はあたえるつもりであった。それは大久保と談合し、岩倉の諒解も得てあったのだ。
 念のために、勝、西郷、パークス、サトウ、山岡等の人々のこの時点における関係の日表をつくってかかげる。

 慶応三年
 十一月二十九日
    パークス横浜から海路大坂に到着。パークスは十二月七日(太陽歴1868年1月1日)に大坂と兵庫とが貿易港として開港されるので、その祝賀のために来たのであるが、政治情勢の激変、伏見・鳥羽戦争の勃発、それにつづく神戸事件、堺事件、また外国公使の参内拝謁などのために、長い上方滞在をつづけることになった。
 慶応四年(明治元年)
 三月七日
    輪王寺宮、供奉僧覚王院義観等、駿府で大総督府参謀林玖十郎に会って、慶喜の恭順降伏の条件を示さる(単騎官軍の軍門に拝伏)。
   八日
    パークス、サトウをともなって三ヶ月ぶりに上方から海路横浜に帰着 
    山岡鉄太郎、駿府で西郷に会って、慶喜の謝罪謹慎の実効条件を示さる(諸書には九日のこととしている。単騎官軍軍門拝伏のことなし。備前藩預けをやめると口頭で約束す)。
   九日
    サトウ、事情視察のために江戸に出る。勝を訪問した形跡はない。
  十二日
    木梨精一郎、渡辺清左衛門、横浜にパークスを訪ね、病院設置のことで依頼し、拒絶さる。これを渡辺はこの日西郷に報告した。
  十三日
    西郷と勝との第一回会談(高輪の薩摩屋敷)。
  十四日
    西郷と勝との第二回会談(芝田町の薩摩屋敷)。
  十六日
    西郷、駿府につき総督府で協議を遂げ、さらに京都に向う。
  十九日
    西郷、京都到着。
  二十日
    太政官代、夜半に西郷の意見をいれて宸裁案が決定した。
  二十一日
    大坂へ行幸のため出輦。西郷見送る。
    サトウ、勝を訪問して、西郷との応接内容、今後の見通し、勝の見込みなどを聞く。この日以後、勝はサトウにパークスのミカド政府に持つ勢力を用いて助力してくれるよう頼んだようである。
  二十二日
    西郷、宸裁案を携え、京都を発して東に向う。
  二十五日 西郷、駿府着、宸裁案を修正して即日また東に向う。この日、パークスの手紙が総督府気付でとどく。西郷はこれを読んでから出発した。
   二十七日
    勝、パークスを訪問。はじめ拒絶され、終日ねばってついに会う。やがてパークスの心を引きつけることに成功し、最悪の場合には英国の軍艦で慶喜を国外に脱出させることを頼みパークスも艦長も許諾した。
   二十八日
    西郷、池上本門寺本営に入る。この日、江戸に入るにあたり、西郷は横浜にパークスを訪ね、朝廷の徳川氏及び慶喜の処分方針について語った。
 四月四日
    勅使橋本実梁、副使柳原前光、参謀西郷、海江田、木梨ら入城して、慶喜の死一等を減ずる等の五ヶ条を田安慶頼に申し渡す。
   六日
    西郷は横浜にパークスを訪門して、パークスの問いに応じて、朝廷は慶喜の一命を求めるようなことはあるまじ。慶喜の京都進撃を助けた連中にも寛大な処置があると信ずるという。
   十一日
    慶喜、江戸を出て水戸に退く。
    江戸城を明け渡し、兵器を引き渡す。

 西郷と勝との会談があまりに劇的であり、英雄的空気に満ちているので、偶像破壊的な情熱に駆られて、否定したがる人々が、たまたま渡辺清左衛門の追憶談を読んだり、アーネスト・サトウの著書をひろい読みしたり、勝の『解難録』を卒読したりして、性急に結論を下すのである。史書はどんな良質なものでも、一種類や二種類を読んだくらいでは断定は出来ない。広く、しかも熟読して、定説と違う結論が出たら、せめて日表でも作って、たしかめるべきであろう。
 勝が、西郷との談判だけでは安心出来ず、アーネスト・サトウやパークスにすがっていろいろ尽力したのは、勝の立場としては当然のことである。しかし、結果的に言えば、その必要はなかったのである。両雄の会談だけで十分だったのである。歴史を読むものは、そこを酌み分けるべきである。

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 江戸開城 (新潮文庫)クリエーター情報なし新潮社

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西郷隆盛 第八巻 / 海音寺潮五郎

2016-06-30 09:50:31 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第八巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 

 この西郷隆盛史伝、朝日新聞社刊の第八巻の帯は、<王政復古!維新の夜明けーー第二次長州征伐は幕府側の惨敗。そして将軍家茂の死と孝明天皇の死。政局は大きく転換、王政復古の大号令は渙発された。幕末の人物群像を公明鮮明に描いた史伝文学の傑作>。
 さて、ネワザが得意そうな岩倉公が、いよいよ政治の表に出てきた。これまでのお公家さんにない権謀術数、これまた自分らの意志貫徹を目指す薩摩の画策とがマッチして、とうとう徳川家の追い落とし策を通した「小御所会議」のことは覚えておこう。この前後も無論、かなりの紆余曲折があってのことだが、このときも綱渡りで、歴史上に残る一コマは結果こうなった。他の「読み」と判断、指し手も無限にあろうが、いったい人間のやることに、最善手というものはあるのだろうか?あの場に居合わせた人たちは、結果的には賢明な選択をしたのだと僕は思うのだが、人工知能ロボットならどういう指し手を選んだだろうか?
 このときもそれ以後も、道筋の根幹を抑え周到な根回しを経て大久保らとのコンビで仕切っている西郷の、この日の一言がいいなあ。「事ここにいたっては、一匕首(あいくち)あるのみ」(「維新・最後の武士」)だ。以下に引用した海音寺さんの「現代語訳」での言葉の模様ではチト違うのだが、いずれ「薪割り流」だ。


>>>(以下、「西郷隆盛 第八巻 / 海音寺潮五郎著  朝日新聞社 昭和53年6月25日」より引用 )


<西郷隆盛 第八巻 目次>
親切な西郷
太宰府事件
小笠原壱岐守いきり立って長州使節を捕縛す
薩藩の出兵拒否と大久保の健闘
パークスの薩摩訪問
幕長戦争開始
高杉、幕府海軍を撃破す
四境戦争
芸州口合戦
石州白合戦
小倉口合戦
幕府側
家茂の死、その後
慶喜の長州討入り計画
朝議の不詮索
一橋また揺れる
慶喜が勝を起用する心理
勝麟太郎の和平談判
岩倉の策謀
慶喜襲職
岩倉具視という男
孝明天皇の死
西郷の雄藩公議計画
雄藩四侯それぞれ
慶喜ねばって条約勅許をもらう
薩藩文句をつける
薩摩琉球国
薩土同盟
武力倒幕策の決定
長州藩との談合
土佐藩の大政奉還説と薩土同盟
西郷、機略をもって英仏を裂く
長崎の英人殺しの嫌疑土佐人にかかる
西郷、武力倒幕のことを長州人に語る
原市之進暗殺さる
大久保、長州に下って打合せる
薩軍の国許繰り出しについて
大政奉還建白
武力倒幕運動と大政奉還運動並行して進む
大政奉還決定
討幕の密勅降下
慶喜、大政を奉還す
薩軍鹿児島出発・岩倉京都居住を許さる
坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺さる・薩軍の入京
長州勢先鋒摂津に到着
復古大号令渙発の相談と決定
王政復古大号令渙発
小御所会議
長州入京
二条城内のさわぎと慶喜の下坂
慶喜の外国使臣への演説
朝廷、幕府に領地返上を強要す
慶喜の挙正退奸の上表書
江戸の憤激・薩摩屋敷の浪人集団

<<<(小御所会議)から
 小御所会議は九日(慶応三年十二月九日)の暁方からはじまった。主上御出御あっての御前会議である。列席者は、今日任命された三職の面々である。宮と公卿等は左方に列席し、諸侯は右に列席し、諸藩臣は次の間の敷居際まで詰めていた。
 中山忠能は天皇の外祖父なので、議長格で、勅旨を宣べた。
「徳川内府が政権を奉還して将軍職を辞退したいというので、その請いをお許しになった。そこで王政の基礎を設け、万世不抜の国是を建て給うことになったのであるから、各々皆聖旨を体して公儀を尽くすように」
そのことばがおわると同時に、山内容堂が発言した。
「先ず急ぎ徳川内府をお召しになって朝議に参与せしめらるべきでありましょう」
声が大きい。酒気を帯びているようである。
大原重徳が異議をとなえた。
「内府は政権を奉還はしたが、果して忠誠の念からであるかどうかわからぬところがある。それがはっきりするまで、朝議に参与させぬ方がよいと存ずる」
 容堂は一層大きな声になった。
「この度の変革の一挙はすこぶる陰険の感がござる。諸藩人が武装して兵器をたずさえて、禁闕を守衛している。王政復古のはじめにあたって、まことに不祥至極でござる。堂々たる王政復古のめでたき首途ならば、廟堂におかせられてはよろしく公平無私の心を以て百事を措置さるべきでござる。しからずんば、天下の衆心を帰服せしめることは出来ないでござろう。元和偃武以来、ほとんど三百年、海内をして太平を謳歌せしめたのは徳川氏の力でござる。一朝にして故なくその大功ある徳川氏を疎斥するとは、何たる恩情の薄さでござろう。今内府が祖先より継承し来たった覇業をなげうって政権を奉還しましたのは、政令を一筋に朝廷より出でしめて、金甌無欠の国体を永久に維持せんことを謀るもので、その忠誠はまことに感称すべきでござる。且つ内府の英明の名はすでに天下に聞こえています。よろしく速かにこれを朝議に参与せしめ、意見を開陳せしむべきであります。しかるに二、三の公卿はいかなる意見があればとて、この陰険に類することをするのでござろうか。まことにわからにことでござる。恐らくは幼冲の天子を擁して権柄をせっ取せんとする意があるのではないか。まことに天下の乱階を作すものでござるぞ」
 漢文調子のことばづかいは容堂のくせである。今日は朝から飲んでいる。満々たる怒気がある。強いことばで、強い表情で、言いたいままに言い放った。言うところもまた正論である。満座言いまくられた感じになった。しかし、ことばづかいに不謹慎な点があったので、岩倉はすかさず、そこをつかまえた。
「土佐殿は唯今心得んことを仰せられた。ここは御前会議の席でごわすぞ。幼冲の天子を擁して権柄をせっ取せんとするの意があるとは何でごわす。聖上不世出の英資を以て大政維新の鴻業を建て給うのでごす。今日のことはすべて宸断によってはじまったのでごわす。おつつみなされい!」
と、叱咤するように言った。
 論旨には関係ないことばではあるが、容堂は恐縮して、失言をわびないわけには行かない。勢いが相当殺がれたことは言うまでもない。

 松平春嶽が言う。
「王政をおはじめになるというめでたい時にあたって、刑罰を取って道徳をお棄てになるというのは、合点のまいらぬことであります。王政は仁愛を根本となさるべきものと拙者共は考えていますから。徳川氏は二百余年の太平を開いたのであります。その功は今日の罪を償うに足ると思います。容堂殿の御意見をお容れになってしかるべしと存じます」
 これは至っておだやかな調子で、じゅんじゅんとした説きぶりである。王政は仁愛が基本であるというのは、儒学がインテリの常識であった当時としては最も説得力のあるものだった。
 
 岩倉としては全力をつくして、これを粉砕しなければならない。おもむろに口をひらいた。
「徳川家康公が天下の覇者として世に太平を致し、万民を救ったその功はもとより小さくはごわへん。しかし、子孫はその遺烈によりかかって、権勢をたのみ、上は皇室をしのぎみなし、下は公卿諸侯を脅しおさえつけたのでごす。君臣の義にそむき、上下の分を乱すこと久しいものでごわす。且つ嘉永六年の黒船渡来以来、勅命を蔑如し、綱紀を敗壊し、外は専断を以て欧米諸国と通信貿易の約を取結び、内は暴威をふるって、憂国の親王、公卿、諸侯を隠居蟄居にし、勤王の志士を殺戮しました。つぎに無名の師をおこして長州を再征して、怨みを民に結び、禍を朝廷に及ぼしました。その罪もまた大きゅうごす。内府が果して反省自責の心を抱くならば、まさに官位を辞退し、土地人民を還納し、それによって大政維新の鴻図を翼賛すべきでごす。今政権の空名だけを奉還して、実際の土地人民は保有しているとあっては、その心術の邪正は白日下に掌裡の紋を指すように明白であります。こんな人物を、どうしてにわかに召して朝議にあずからしめることが出来ましょう。朝廷としては、まさに先ず内府に諭して、官位を辞退することと、土地人民を還納することを以てし、その反省自責の実績を徴すべきことです。召して朝議に参与させるのは、この実績を立てるかどうかによってはじめて決定さるべきことでごわす」
 岩倉のことばがおわると、大久保一蔵が藩士席から敷居際にいざり出て発言した。
「土佐老公と越前老公のお説に従いましては、徳川内府の御心術の邪正を見ることが出来ません。御両公の仰せられるところは、はばかりなく申せば理屈にすぎません。理屈は現実に及びません。ここは岩倉様の御説のごとく、官位御辞退と土地人民の還納との二つをおさとしになり、内府はこれを奉承し給うという御実行によって、御心術の正しいことを立証されることが必要と存じます。これを立証されるなら、内府の御心情はたしかに御忠誠なのでありますから、お召しあって朝議に参与せしめらるべきであり、奉承なされぬときはその心術邪曲であることが明らかなのでありますから、罪をならして速かに討伐なさるべきであると存じます」
 これで、岩倉と大久保の本当の心は討幕にあることをぶちまけたことになった。すなわち、片や公武合体派ー平和派の山内容堂、松平春嶽、片や復古派ー討幕派たる岩倉具視、大久保一蔵の格闘的論戦となったわけである。

 藩士席から後藤象二郎が席を進めて、主人容堂と春嶽の説を支持して大いに論じ立てた。
 議長格の中山忠能は尾張老公に、
「あんたの意見はどうでごす」
とたずねた。尾張慶勝は、
「拙者は春嶽や容堂と同じ意見です」
と答えた。忠能は島津忠義に、
「あんたはどうです」
ときいた。
「拙者は岩倉殿の説のごとくにせねば、王政の基礎を固めることは出来ぬと存ずる」
と、島津忠義は答えた。
 大名等の意見は真二つに分かれたといってよい。
 中山は席を離れて、正親町三条実愛と万里小路博房、長谷信篤のところへゆき、何やらささやきかけた。岩倉はそれを見て、びしっと言った。
「聖上が御臨遊ばされて、皆の意見を聴き給うのであります。諸臣はよろしく肺肝を吐露して当否を論弁すべきでごす。みだりに席を離れて私語するのはつつしんでいただきます」
 福岡藤次(孝悌)が後年言っている。「昨日まで古びた被布を着て火桶を抱いていた岩倉公と、この日はまるでちがって、威風あたりをはらって見えた」と。長い間の蟄居をゆるされて、足かけ六年ぶりに朝廷に立ち、おのれの経綸を行うことになったのだから、凛々たる気魄に満ちていたはずである。

 休憩が宣せられた。その休憩の間に、岩下佐次右衛門は非蔵人口に来て、西郷を呼んだ。その日西郷は小御所内のことは大久保等にまかせて、禁裡守衛軍の指揮と諸藩の動静とに気をくばっていたが、岩下から呼ばれてやって来た。岩下は容堂の意見が強硬で、岩倉も大いに手こずっていることを語り、意見をもとめた。すると、西郷は微笑して、
「岩倉さんに言うて下され。オマンサアの短刀はよう研いでごわすかと」
とだけ言って、行ってしまった。


 岩倉は休憩室に一人いて酒をのんでいた。岩倉はよほど酒が好きであったらしく、万事尽きて困時果てたときにはほどほどに酒をのんで眠ることにしていたようである。そうして落ち着きを回復し、道を発見したようである。岩倉の伝記を調べていると、そういう場面によく出会うのである。このときは眠るに至らず、まだ飲んでいるときであった。岩下が入って来て、西郷のことばを伝えた。岩倉はうなずいて、非蔵人を呼んで、浅野長勲を呼んで来させ、長勲に杯をさして、
「あんたも御承知の通り、まろはこんどのことには随分強い決心をしています。こうぐたぐたと決まらんではどうにもなりませんよって、こんどは霹靂手段で行きます」
と言って、ふところにおさめた短刀の上をおさえて見せた。
 長勲はおどろいて、
「拙者はあなたの議論をもっともであると思っています。これから辻(将曹)に命じて後藤に説かせて、あなたの議論に従わせましょう。もし後藤が聞き入れませなんだら、、拙者から直接容堂殿に申しましょう」
と言って立去り辻将曹に意をふくめた。
 辻が承知して藩臣等の休憩室に入って行くと、あたかも後藤が大久保にせっせと容堂説を説いているところであった。討幕論は岩倉より大久保の方が本家である。聞くはずがない。容赦なく叩きかえしていた。辻は後藤を連れ出して、
「すっかり、非常準備が出来上がっていますぞ。もう口舌では追いつきはしません」
と言った。
後藤は即座に悟って、容堂のところに行き、
「君公はすでに満腔の不平を吐き尽くされたのでございます。この上抗弁されましては、徳川内府と秘密の約束でもあるのではないかと疑惑されるだけでございましょう。そこのところをよくよくお考え下さいますよう」
といった。
 それもそうだと、容堂も思い、春嶽にもそう言った。
 やがて再び会議がひらかれたが、もう波瀾はおこらない。会議はついに岩倉等の意図したところにおちついた。すなわち退官納地のことを尾・越の老公から慶喜にさとさせ、慶喜から進んで退官・納地を奉請させるということに決議されたのであった。総裁有栖川宮が宸断を仰ぎ、天皇が裁可された。すでに三更をすぎていた(『岩倉公実記』『丁卯日記』『大西郷全集』『維新土佐勤王史』)。

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西郷隆盛 第七巻/海音寺潮五郎

2016-06-11 16:17:22 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第七巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 この西郷隆盛史伝、朝日新聞社刊の第七巻の帯には、<薩長連合成る!維新前夜ーー禁門の変後、幕府は長州征討を諸藩に命じた。しかし、死中に活を求める西郷の尽力が長州を救い、これが契機となって薩長連合は成る。急逝後ますます世評の高い著者のライフワーク>とある。

 幕末の混沌とした情勢のなか、いよいよ天才たちの出番となってきた。海音寺さんの見るところの「天才」は、高杉晋作、坂本龍馬、そして西郷隆盛。何が、どこが天才かは、この大部の著のそこかしこに出てくるのだがおおむね忘れた。が、幕末にこういう人物を得た日本は幸運であった。大局観と直感力、真っ正直で嘘がない、信じることに熱意があって、行動は大胆不敵、鋭いかバッサリ切るのかともかく切れ味。幕末も平成の世も、言い訳と小細工ばかりするような人たちがはびこってはいるようだが、天才、英雄は、激動の時代にしか生まれてこないのだろうか。

 坂本龍馬や高杉晋作は、多少ヤワなお坊ちゃんとも思っていたが、あれほど若くしてからに、なんともタイヘンな人物であったと再認識した。西郷の思想と人物、度量の深さ、司馬遼太郎さんは西郷を感情の量が大きいという言葉で表現したが、倒幕まで突っ走る先見の明と行動力、その根底には知性の高さと冷静さを僕は感じる。西郷と高杉は、お互いを意識することはあっても相見えることはなかったようで残念だ。西郷と坂本は、助け合いと信頼関係が濃密だったのが救いである。海音寺さんが記録した薩長連合がようやく成ったあたりを、抜き書きして記憶にとどめておこう。

>>>(以下、「西郷隆盛 第七巻 / 海音寺潮五郎著  朝日新聞社 昭和53年3月25日」より引用 。。。部は中略)


<西郷隆盛 第七巻 目次>
遣欧鎖港談判特使始末
長州藩書生の英国蜜遊学
井上と伊藤の尽力空し
馬関戦争
講和
五代才助と松木弘安のこと
薩藩欧州留学生・モンブラン伯爵
西郷、長州膺懲を促進す
勝安房との初会見
雄藩連合の構想
西郷の対長州策
長州両派の争い・井上聞太の遭難
天狗党のさわぎ
解兵についての西郷の努力
吉川経幹の弁疏
長州諸隊の情勢・西郷の撤兵論
高杉と西郷の動き
長州諸隊の動静・西郷と中岡慎太郎の初対面
西郷、三途の川を渡る
高杉挙兵
諸隊の奮起
西郷の努力
長州征伐解兵と西郷の結婚
五卿動座
西郷の薩筑同盟運動
高杉の俗論党征伐
大久保のいろいろな工作
薩長連合工作
幕府のうぬぼれ
天狗党の最期
西郷の日々
幕府、長州再征を触れ出す
中岡慎太郎の薩長同盟工作
将軍、長州征伐のために引兵上洛せんとす
薩長連合成らんとして停頓す
将軍、長州再征のために大坂に下る
薩長の和親進み、長州の軍備着々と捗る
長幕のやりとり
西郷の観察
英仏の外交戦
大久保の長州再征せきとめの健闘
外交団、条約勅許をもぎとる
広島における長幕談判
永井主水正の宍戸備俊介に対する尋問
近藤勇等新撰組四士の事
第二回尋問
薩長連合成る
坂本龍馬寺田屋の遭難
木戸帰国
あとがき


<<(薩長連合成る)から

。。。。
さて、黒田了介は<慶応元年>十二月九日以前(詳しくは不明)に馬関に到着した。黒田は木戸(桂)に会い、西郷をはじめ薩藩の主脳等が、両藩の同盟のために御上京を切望していると説いた。後年明治になってから五稜郭の降将榎本武揚等の助命運動を黒田はしているが、実に根気がよい。ねばり強い性質の人だったのである。せっせと木戸に説いたが、木戸はうんと言わない。黒田に数日先立って来ていた坂本龍馬も口説いたが、それでもうんと言わない。
 木戸が承諾しない理由がいくつかあった。
一、木戸自身が気が進まなかった。木戸は慎重であるとともに執念深い性質である。八月十八日政変によって苦汁を喫せしめられた恨みを忘れかねていた。それは忍ぶとしても、今の長州藩の立場として、薩藩との同盟はのどから手の出るほど望ましいことではあるが、うかうかのっては裏切られはすまいかとの不安がある。彼はまた名誉を重んずる性質である。苦境にある長州藩としてこちらから出かけて行くのは哀れみを乞うような気がするのである。封建の時代としてはやむを得ない心理だったが、これを超越出来るのは西郷や坂本の担懐を必要とする。木戸は担懐の人ではないのである。
二、奇兵隊その他の諸隊の間に、薩摩との同盟和親を最もいさぎよしとしない空気があった。諸隊は「薩賊会姦」をスローガンとして、この数年の間敵愾心を研ぎみがいて来たのだ。急にその薩賊と同盟しようといっても、受けつけられるものではない。諸隊の大幹部である太田市之進などは、「宮門事変では多数の同志を死なせたが、もとを正せばこれは薩摩の姦謀によって八月十八日の政変があったからである。その薩摩と同盟などしては、死んだ同志にどう申訳が立つものぞ」と主張して、猛烈な異論を唱えている。俗論党を征伐して藩論を立て直すことの出来たのは、諸隊の武力によるのである。近くまた幕府の征長軍と戦わねばならないことは確実であるが、その場合にも主戦力となるのは諸隊兵である。藩庁としては諸隊の意見を無視するわけにはいかないのである。
三、このような諸隊であったためにずいぶん自負心が強く、そのあまりにはわがままであり、藩政府も統制しかねるところがあった。木戸、山田宇右衛門、前原彦太郎(一誠)などが業をにやして政務員を辞職したり、辞職しようとしたことさえある。こんな諸隊がいては、薩摩に招かれたからといって出かけるのさえ危険である。まして薩摩と同盟なぞ結んでは連中の怒りははかり知れないものがあろう。諸事念入りな木戸としてはふみ切れないのも道理であった。

 黒田は二十日ばかりも馬関にとどまって口説き、坂本はまた木戸以外に高杉や井上聞太や伊藤俊輔等に、木戸を承諾させてくれと口説いた。高杉や井上や伊藤ははじめから薩摩との同盟には賛成していたから、奇兵隊総督の山県を口説いた。山県は念入りで、陰湿なところのある男だが、諸隊の幹部の中では大局に通じていて、利害の打算は明らかである。賛成した。
 こういうことで、ついに木戸はうんと行って、藩主敬親から、「京摂の形勢視察」という名目で上京を命じられることとなり、十二月二十七日、奇兵隊士三好軍太郎、御楯隊士品川弥二郎、遊撃隊士早川渡、それに土佐人田中謙助(田中光顕)を連れ、黒田とともに三田尻から出帆して上方へ向かった。諸隊士と同行したのは責任を分かつために木戸が希望したのであろう。諸隊の方では目付役をつけるつもりだったかも知れないが、木戸からみればそれは責任を分かつことにもなる。木戸らしい用心深さである。田中謙助は吉田東洋の暗殺者である那須信吾の甥で、叔父の感化で勤王青年となっていたが、高杉の花々しい働きに感激し、長州に来て弟子になっていたのである。これも高杉からの目付役的任務を負うていたのであろう。
 この時のことを、木戸は自らこう書いている。
「十二月、薩州の黒田了介、余をたずねて馬関に至る。談話一日、切に余に上京をうながす。この時坂本良馬(龍馬)また来って馬関にあり。またしきりに黒田とともに上京のことを論ず。而して余白面(ここでは馬鹿みたいな顔をしての意)、京に至り、薩人と面会するに忍びず、故に他人をして上京せしめんとす。而して高杉晋作、井上聞太等、また余をして上京せしむることを論じ、ついに公命下るに至る。よって、余恥を忍び、意を決し、諸隊中品川弥二郎、三好軍太郎、早川渡、土人田中謙介(助)、薩人黒田了介と同船して浪華に至る。時に正月四日なり」

 一行はずいぶん用心して大坂に行っている。三田尻で乗った船は播州で乗りかえ、大坂につくと一旦天保山沖に碇泊していた薩摩の軍艦春日に乗り移り、それから上陸して薩摩の蔵屋敷に入った。薩摩屋敷からは黒田嘉右衛門(清綱)が出迎えに出た。木戸の記すように正月四日であった。
 三日間大坂に滞在し、八日の払暁、淀川をさかのぼって、伏見の薩摩藩邸に入った。黒田了介の大坂からの連絡によって、西郷が村田新八を帯同して京から迎えに来、共に歩いて京に入り、二本松の藩邸へ導いた。
 当時、京には西郷、大久保、小松帯刀、桂右衛門(久武)、島津伊勢、吉井幸輔、奈良原幸五郎(繁)等がいた。歓迎すること一方ではなく、毎日のように饗宴をもよおし、その間国事なども談合、往々深夜に至ったが、肝心の同盟のことについては、薩摩側は一向切り出さない。木戸もまた切り出さない。ついに正月二十日になった。
「在留中、大久保一蔵、小松帯刀、桂右衛門、そのほか相面会するもの数十人、懇志甚だ厚く、在留ほとんど二旬(実は十一、二日であるが、それくらい長く感ぜられたのであろう)、而して未だ両藩の間に関係するの談に及ばず。余空しく在留するを厭い、一旦拝辞し去らんと欲す」
と、木戸は後に書いている。しびれを切らし、心中立腹して、帰国しようと言い出したのである。薩摩側ではもちろん引止めたろうが、木戸はきかないので、別宴をひらくことにした。それは正月二十日のことであった。

 どうしてこういうことになったのであろう。木戸が自ら切り出さなかった理由は、これまで書いて来た事情によって明らかだが、薩摩側の理由がわからない。同盟を最も必要とするのは長州の方だ、こんなことは先ず言い出した方が将来下馬になるものだから、最も必要とする側が言い出すべきだというのであったろうと思われる。あるいはそうであったろう。前に西郷が中岡慎太郎の熱心な勧めにをことわって下関の待っている木戸をすっぽかして京に急行したことを考え合わせると、この時もその可能性は大きい。とすれば、これも久光の指令であったろう。
「こちらの方から切望しているような風を見せてはならんぞ。長州に先ず言わせ、こちらは受けて立つという形にもって行け。その方が将来のためになる」
という久光の指示があったのではないか。久光は権威主義者だ。そして古い型の策謀家である。そのように思われるのである。
 西郷はこんな権威主義や策謀は最もきらいであるから、気をもんで他の人々に相談しただろうとおもわれるが、久光の意志を無視することになれば、見送るよりほかはないという人々が多かったろう。島津伊勢がそうであり、小松帯刀だってあやしい。大久保だってこの頃ではあやしい。桂や吉井はあるいは西郷に同意したかも知れないが、こう反対者が多くては決定しない道理である。
 ついに薩摩側では二十日の夜別宴を催すことにした。昨年春以来、苦心に苦心を重ねて、やっとここまで漕ぎつけた連合は、空しく消えるほかはないかに見えた。

 しかし、世の中が大転換をしなければならない大事な時には、天運があるものなのであろうか。奇蹟がおこった。この日ーー二十日に坂本龍馬が上京して来たのである。
 坂本は正月十日に、京坂の上場を探索すべき主命を受けている長州藩士三好愼藏を同道して馬関を出発、十七日に神戸に着き、十八日大坂、ここから、海援隊士細川左馬介(池内蔵太)、寺内新左衛門らがつきそって十九日伏見、二十日に三好を伏見の寺田屋にとめおいて、細川左馬介、寺内新左衛門等とともに二本松の薩摩藩邸についたのである。早速、木戸に会った。彼は当然もう連合の話し合いがついたものと思い込んでいたので、挨拶もそこそこに、
「どういう風にきまりました。西郷も他の衆もなかなかの人々で、御心配なさったほどのことはなかったでしょう。どんな風にきまったか、楽しみです。話して聞かせて下さい」
というと、木戸は世にも渋い顔で言う。
「その話は出もせんのです。毎日饗宴攻めで、歓待はしてもらいましたが、だからといって、誓約なんぞしはしません」
 坂本はおどろき、また立腹した。
「なんですと?拙者等が縁もゆかりもないのに、貴藩と薩藩との間にわだかまっている不和を洗い流し、両藩を握手させるためにあんなに骨を折ったのは、単に両藩のためを思ったからではありません。この握手によって日本の行きづまりを打開出来ると思ったからです。貴殿もあの多忙の中から無理をしてこんな遠くへ出てまいられ、薩藩の要路の人々に会いながら、何たることです。貴殿が当邸へまいられてから、もう十日以上にもなるというではありませんか。どんなつもりで、便々としておられたのです。そりゃ、貴殿の方にはいろいろ言いぶんはありましょう。それはわかっています。しかし、そんな女々しい感情にとらわれている時ではありますまい。なぜ男子憂国の至情をぶちまけて、天下のために相談なさらんのです」
と、はげしい調子で責め立てた。
 木戸は沈痛な表情で聞いていたが、
「貴殿がそう申されるのは道理です。しかし、拙者の立場を考えて下さい。はじめわが長州藩は日本の国難を傍観することが出来ず、わが主人は奮然、大いに日本のために尽力しようと決心し、薩国のことも、一身のことも顧みず起ち上りました。それゆえに拙者共もその意を体し、その心を輔けて譜代の君恩に報いんことを期しました。しかるに、幕府が途中で志を変じたために、終始かわらぬ態度を持しつづけたわが藩は天下に孤立して、今日の厄難に陥るに至りました。拙者はそれに不平を申すのではありません。臣子の分を踏んでこうなったのですから、それは何とも思いはしません」
と、先ず言った。これは我々がすでに長州藩使者等と永井主水正との問答で十分に聞いたところである。即ちこの時期の長州人共通の情憤である。こんな場合であるのに、木戸のような人物でも、一通りこれを言わなければ、次が出て来ないのである。坂本はそれをよく知っているから、うなずきながら聞いた。
「しかし」
と、木戸のことばは一転して、
「薩州の立場は違います。公然と天子に朝し、公然と幕府と会い、公然と諸藩と交わることが出来るのです。つまり、天下にたいして公然と尽くすことの出来る境遇にあります。これに反して、わが長州藩は朝廷からは勅勘を被り、幕府からは叛逆者と見なされ、長防二州にせぐくまって、天下皆敵の立場にあり、今や幕府の征伐軍の旌旗は四境にひるがえろうとしているのです。全藩の士人のたのむところはただ一つ、自ら省みてやましきことなしとの信念のみです。これ一つをよりどころにして、一死をもって四境にせまる敵と戦おうとするのです。活路のないことはいうまでもありません。このように、わが長州の立場は危険至極、亡国必至といってもよいのです。こういう長州藩が先ず口をひらいて薩州と同盟を結びたいというのは、つまり薩州を危険の地に誘うものであります。したがって明言はせずとも、授けを乞うと同じです。そこまで拙者等は心を落ちぶらせたくはありません。もし薩州が日本のために尽くす料簡になっているのなら、天下の幸いです。わが長州にかわってくれるでしょうから、長州はもう亡んでもかまいません。同盟のことは、拙者の方からは、口が切れても言い出すことは出来ません」
 龍馬は南国の海のように闊達で、ものなれた男だ。へたにつついて相手の心を一層こじれさせるようなことはしない。
「よくわかりました。ごもっともです。ここは拙者にまかせて下さい。そして、帰国するなどとは言わんで下さい」
と、なだめておいて、西郷に会った。

「西郷さん。どうしたのです。木戸さんに会うて聞いたら、かんじんのことは一向話に出もせんから、かんしゃくをおこして、帰国するというていますぞ」
 西郷は木戸の立場の苦しさも、心理もよくわかっていて、薩摩側が久光の意向をはばかって大事を逸し去らせようとしているのを大いに気をもんでいたのだ。坂本が来てくれたのは、救いの神であると思っている。
「木戸さんの言われることはもっともでごわす。重々こちらが行きとどかんのでごわす。何とか木戸さんをなだめて下さい。この問題については坂本さんたちがはじめから骨折って下さっているのに、その立会いなしにきめてしまったらいかんと思うて、実は坂本さんの来なさるのを首を長くして待っていたのだと言っていたとでも言うて、きげんをとりむすんで下さい。こちらの方は拙者が引き受けまとめもすから」
 坂本は西郷の言外の意味がよくわかって、すぐ木戸の許に引きかえして木戸を説いて承知させた。
 西郷は他の薩摩の幹部等を説いて承諾させた。

 その夜、はじめてこの問題についての正式会見が小松帯刀の別邸で行われた。
『忠正公勤王事蹟』にこの時のことをこう記している。
「木戸ははじめ小松、西郷などと会見した時に、これまで薩州と長州との関係はかようかようであったが、長州の意思はこの通りであると言うて、従来の行きがかりをくわしく言うと、西郷は初めから終わりまで謹聴して、いかにもごもっともでございますと言うていたそうであります。嘗て品川子爵(品川弥二郎)から聞いたことがありますが、おれが薩人の立場に立ったとすれば、木戸の言うことには十分突っ込むところがあった。それをいかにもごもっともでございますというて、しゃがんだまま何も言わなかったのは、さすが西郷の大きいところであると話されました」
 談合は、上記のように木戸が気色ばんで長州の正義をのべ、薩・長の旧い悪関係のことに難しいことを言ったのだが、西郷が終始おとなしく聞いて少しも言いかえしなどしなかったので、やがてなごやかな空気となった。木戸も言うだけのことを言ったので、落ちついて来たのであろう。

 双方から、将来の見込みについて話が出、その結果、六カ条のことがきめられた。
一 長・幕の間に戦端がひらかれた場合は、薩摩はすぐ二千余の兵を急速に上方に取りよせ、現在の在京の兵と合わせておき、うち千人は大坂におき、京都と大坂とをかためること。
二 長・幕の間の戦いに、長州に勝ち色が見えたら、薩摩は必ず朝廷に対して長州のことをいろいろ運動すること。
三 万一、負け色になっても、半年や一年の間には決して長州は潰滅することはないから、その間に薩摩において相当尽力して、長州の立場を保ってくれること。
四 長・幕の間が開戦に至らずして、幕府軍が東帰したら、薩摩は長州の冤罪を厳しく朝廷に申し上げ、勅勘のゆるされるように必ず運動尽力すること。
五 薩摩が国許から兵を京坂に取り寄せて兵力を示しても、一橋、会津、桑名などがなお今日のような態度を改めず、もったいなくも朝廷を擁し奉って正議をはばみ、運動尽力の道の邪魔をするようなら、薩摩も覚悟を決めて、兵力をもってこれらを一掃し、幕府と決戦すること。
六 長州の冤罪たることが認められ、勅勘がゆるされることになったら、両藩は誠心をもって相合し、砕身尽力することは言うまでもないことだが、すでに今日より皇国のため、皇威輝く王政復古を目的として誠心を尽してきっと尽力すること。

 以上である。この六カ条を見てもわかるように、この同盟は長州のためと日本のために倒幕を目的とする攻守同盟なのである。

 木戸は翌二十一日、京都を立って帰国の途についた。黒田了介と村田新八とがこれを送った。

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西郷隆盛 第六巻 / 海音寺潮五郎

2016-04-11 09:38:31 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛〈第6巻〉 (1977年)
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 この西郷隆盛史伝の第六巻は、<西郷赦免・中央復帰ーー薩摩藩の大舵を握った西郷は冷静に中立を守る。一方、八月十八日の政変で勅勘を蒙った長州藩の朝廷工作は執拗をきわめ、ついに蛤御門の戦いへ、長州勢は惨敗して国許へ>という情勢。読者としては、こういう本は手元に置いて精読してくれればすむ。これは西郷を縦糸にした幕末・維新の精密な史伝であるから、有象無象の方々も登場はするがそれはそれ、いよいよ、西郷中央の舞台に復帰。西郷への周囲の期待と人望がなかりせば、孤島で朽ち果てることになっていたのかもしれぬ。
 であるから、ここは沖永良部遠島から解き放たれた西郷のうれしさとそれをとりまくひとたちのこと。のり坊氏もいろんな思いの中こたつで隠忍の日々であるが、西郷のこと思えばウルウルとなりタバコばっかり吸っていた。西郷隆盛、人間五十年。。。。

>>>(以下、「西郷隆盛 第六巻 / 海音寺潮五郎著  朝日新聞社 昭和52年11月25日」より引用 。。。部は中略)

<西郷隆盛 第六巻 目次>
土佐勤王党壊滅
生野事変
薩英講和
島津久光の上京
八月十八日政変後の京都の情勢と久光の心事
春嶽の出京
勝麟太郎の建言
松平春嶽と二条右府斉敬の会話
久光の工作ーー「西洋諸国事情誌」献上
久光に賜わった宸翰
宸翰にたいする久光の答書
長州藩の内部情勢
長州藩の朝廷工作(一)
長州藩挙藩一致につとむ
真木和泉守のあせり
長州藩の朝廷工作(二)
奉勅始末記
井原主計のねばり
長州の薩摩船砲撃と焼打ち
公武合体派大名の永井尚志江戸派遣と一橋慶喜の着京
新撰組粛正
西郷赦免
西郷の藩への上申書
西郷着京とその当時の京都の形勢
山内容堂の状況
将軍上洛
長州膺懲のこと
幕府の薩摩にたいする毛嫌い
幕閣と一橋との薩藩猜疑
西郷の形勢観察
長州進発の勢い
池田屋事変
西郷と当時の薩摩藩邸
長州藩進発
西郷の決意と薩摩の態度
官軍の手配り・佐久間象山の暗殺
戦機ひしひしと迫る
長州側の文書戦
戦いはじまる禁門の変
薩摩藩兵の戦い
平野国臣の死・真木和泉守の死


<<(西郷赦免)から
 この文久三年の十一月下旬から十二月上旬にかけて、在京薩摩藩士の有志者の間で、西郷召喚の嘆願をしようという議がおこった。
 当時は幕府側としてはやっと一橋慶喜が入京したかしないかの頃であり、将軍に至っては永井尚志が松平春嶽の使者として江戸に下って上京を催促している頃であったりしたが、在京の大名、春嶽、会津容保、久光、伊達宗城、肥後藩の代表者長岡兄弟等の間に公武合体のことが熱心に懇談され、まことにうまく行きそうな時期であった。
 一方、長州との関係を見ると、井原主計が国許から来て、しきりに入京の許可を嘆願している頃でもある。
 このような時期に、薩藩士の間に西郷の召還嘆願の議がおこったについては、一応の考察を要する。『大西郷全集』の伝記編では、
「八月政変以来、薩摩の勢力は漸く上下に重きをなすに至った。けれども、それと同時に勤王派は閉息して佐幕党が頭を擡げて来た。薩摩の勤王派の連中は、この形勢を見て飽き足らずと思った。と言って首領ともいうべき人物が居らんでは、如何とも仕様がない。どうかして西郷の赦免を願う道はないかと云々」
と説明している。
 煎じつめればそういうことになろうが、公武合体とは、朝幕両方を認めて、両者を調和合一させて挙国一致しようという方法である。勤王派も認めるが佐幕も否定しないのである。勤王派だ、佐幕党だと言い立てては、成り立たない方式である。やがて、彼等は久光に嘆願し、久光はこれを許すのだが、久光は骨髄からの公武合体主義者であり、西郷ぎらいなのだ。こんな理由では許すはずがない。
 思うに、当時京では最も勢力があり、天皇の信頼を得ていたのは、縷述した通り、薩摩と会津であったが、ともすれば会津の方が勢いがよくなりそうな形勢があるので、それにたいする焦慮があったのではないか。会津は幕府の親藩なので、同じく公武合体といっても幕府びいきのように薩摩人らには考えられ、薩摩は公武合体でも朝廷に重点をおいているのだから、煎じつめれば勤王派、佐幕派ということになろうが、この時点では会津容保は心から勤王の志に燃えており、江戸における幕府当局が幕府中心主義から解脱し得ないでいることを憂慮し、慷慨していることはずっと前に述べた通りだ。『伝記編』の説明は正確とはいえない。
 西郷の召還を必要と考えた薩藩士等の当面の理由とするところは以上の通りであったろうが、中心の理由は西郷にたいする思慕であり、人望であったろう。旧誠忠組の幹部としては大久保がおり、伊地知貞馨(堀次郎)がおり、伊地知正治がいる。大久保に至っては久光側近の要人として、今では大へんな羽振りだ。去年の夏頃まで、旧誠忠組の者で最も久光に気に入られていたのは掘だったが、冬頃から大久保になった。堀の藩邸放火事件が暴露して、堀を中央の地に出せなくなったためでもあるが、一つには大久保の実力が久光にわかって来たためであろう。人物も重厚である。堀は才子でもあり、久光の大好きな学問の知識もあるが、オッチョコチョイでお調子もの的なところがあって、なにか危なっかしい不安があるが、大久保は重厚・堅実だ。命じたことを確実に処理する手腕もあれば、策も立つ。何よりも秘すべきこととそうでないこととの弁別がついて、決してあやまらないことだ。また、久光は厳しい統制こそ政治の要諦と信じ切っているのだが、大久保は心からそれがわかって、最も忠実だ。今では最も信頼している気に入りの者になっている。
 しかし、旧誠忠組の目から見ると、大久保があまりにも久光に密着し、久光の思想、久光の政治行動に忠実すぎることがあき足らない。独自の見識による批判がないようであるのが気に入らないのである。
「久光は骨の髄からの公武合体主義者だ。それにべったりの一蔵サアでは、我々のこの志をどうすることも出来はせん」
と思うのである。
 こうなると、いやが応でも西郷が慕わしくなって来る。

 このような心が、この頃のいつか、有志の藩士等を十数名、円山の料亭に集まらせた。柴山龍五郎、三島弥兵衛、福山清蔵、井上弥八郎等であったと『伝記編』はいう。この中の福山は沖永良部詰めの役人になっていて、再送のこの島での牢舎生活の初期に、土持政照とともに西郷の監視役を命ぜられていた人物である。井上弥八郎は藤井良節の弟、柴山龍五郎は寺田屋事件の時の幹部の一人である。以上のほかに黒田嘉右衛門(後の清綱)、伊地知正治もいたのではないかと思うが、あるいは二人は藩の准要人になっているから、嫌疑を恐れて出席しなかったかもしれない。出席はしなくても、最も熱心なシンパであったことは、次ぎのことでわかる。
 円山会議の結果、西郷の赦免を願い出よう、そうしてもお許しなくば、御前において一同打ち揃って切腹仕るべしと、死を決して嘆願したら、すげなくはされるまいと相談がまとまった。代表者としては、黒田と伊地知が選ばれた。二人がこの日出席していれば、その席で決定したのであろうし、出世kしていまかったのなら、その日か翌日あたりに、会議の結果を報告した上で承諾を得たのであろう。
 この円山会議を『伝記編』は、翌文久四年(元治元年)の正月としているが、文久三年十二月に、吉井幸輔が藩命によって横浜に汽船を購入に行くにあたり、在京中の大久保に出した手紙があり、その一部に、
 大島(西郷のこと)の一件、おどり上りたいほどのうれしさです。(原文=飛揚このことに御座候)。ついては小生に航海して迎えに行くべき命令が下りそうな模様の由、まことに有難い次第です。当年中に上京いたします故、さよう御承知下さい。
 と、あるところを見ると、少なくとも十二月中旬にかかる頃までには、西郷赦免の許可があったと見なければならない。『伝記編』にいうように二月に円山会議があったとすれば、それはすでに赦免決定後におけるもので、最初のものでなかったことは明らかである。

 久光の西郷ぎらいは藩中誰知らぬ者はない。黒田と伊地知ははじめから久光に願い出ることをはばかって、相談の上、先ず小松を訪問して説いた。小松は大いに賛成ではあるが、自分からは願い出にくい事情があるとことわった。そこで二人は大久保を訪問したが、大久保も賛成はしながらも応じようとは言わない。
「わしはあの当時嫌疑を受けた者でごわすから、わしから願い出てはかえって不首尾におわる恐れがごわす」
 要するに二人とも久光の怒りがこわいのである。小松は家老で久光のお気に入り、大久保はお気に入りの要人だが、その二人がこんなにこわがっているところを見ても、いかに久光が西郷をきらっているかがわかるのである。世間では、この時の西郷の赦免は大久保の努力と嘆願によると説く人が多いが、事実は上の通りである。ここに大久保の一面を知る一つの鍵がある。大久保は自らの地位、栄達にも執着のあった人なのである。西郷とは根本的に違うのである。
 二人は大久保という人間の一面に触れ得て、ある失望を感じただろうか。あるいは久光の西郷ぎらいを知っているだけに無理はないと思ったろうか。いずれにしても、途方にくれたことは間違いない。こうなると、直接願い出ることは益々こわくなったはずだ。二人はなお相談して、久光のお気に入りである高崎佐太郎と高崎猪太郎(後の五六)とに頼むことにした。佐太郎は八月十八日の政変の仕掛人であり、猪太郎は久光の名を受けていろいろ運動していたことを想起していただきたい。この時期、二人は目立つほど久光のお気に入りだったのである。二人は承知してくれた。この二人はこれまで特に西郷と親しくいたような話は伝わっていないが、西郷の人物の卓抜さと人望の高さは知っていたであろう。あるいは二人は旧誠忠組左派の連中からあまり好意を持たれていないので、かえって引き受けずにいられなかったのかもしれない。当時の薩摩武士らしい心意気である。

 二人は久光に目通りして、当今の時勢に西郷のような人物が遠島になっていて、京都にいないのはまことに残念であると、皆が言って、拙者等に御赦免召還をお願いしてくれるように申しました、どうかお聞き入れたまわりますように平に嘆願申し上げますと言った。久光は銀のきせるで煙草を吸いながら聞いていたが返事をしない。きせるをくわえたまま振り向きもしない。いかにもにがい顔であったという。
 二人はさぞひるんだであろうが、勇気をはげましてさらに言った。
「もし、この願いをお聞きとどけたまわぬなら、一同切腹いたす覚悟であると申しています」
 久光はなお黙っていたが、二人が退去の様子も見せず、平伏をつづけていると、はじめて口のきせるをとって、言ったという。
「『孟子』に、人を登用するのは最も念をいれるべきで、左右皆賢なりといっても、自らの目でとくと見定めないかぎりは、抜擢などしてはならないとある。しかしながら、多数の家臣等がそれほど申すものを、愚昧なわしがひとりきかんのは、穏当なことではない。太守様(忠義)に伺いを立てよ。太守様においてよしと仰せられるなら、わしも異存はない」
 どんなに久光が西郷の赦免をいやがったかは、この時彼のくわえていたきせるの吸口に、深い歯のあとがついていたことをもってもわかる。久光がはじめて中央に乗り出すにあたって、西郷を大島から召還した時も、西郷に集まる全藩の輿望に、久光を取りまく側近等は驚嘆し、ついに嫉妬し、それが西郷を大坂から国許に追い返し、つづいて遠島に処した根本原因になったことはあの節書いた通りだが、こんどのこの嘆願を聞いて、その嫉妬はさらに募ったろう。これは長く尾を引いて、明治になってもつづくのである。したがって西郷の運命にも大影響を持つのである。

 それはさておき、二人の報告を聞いて、一同のよろこびは天へも昇るばかりだ。一同打ちそろって久光の前に出てお礼を言上しただろう。久光がどんな表情で聞き、何と言ったかは記録するところがない。
 好まざるところではあるが、約束したことは守らなければならない。久光は近臣岸良七之丞を帰国させて、忠義の意向を問わせた。あるいは久光は孝心の深い忠義のことだから、西郷にたいする自分の心を知っている故、ならんと拒否してくれるであろうと思ったのかもしれないが、忠義は輿論に素直で、すぐ許した。
 それはもう二月半ばのことであった。この頃、すでに吉井は横浜で汽船一隻を購入して、その船で鹿児島にかえっていた。船は胡蝶丸と名づけられていた。早速、その船で西郷を迎えに行くことになった。吉井は西郷の弟従道と福山清蔵を同道して行った。福山は京都にいて、西郷の赦免運動をしていたのだから、迎えに行く一人として急遽帰国を許されたのであろう。
 胡蝶丸が沖永良部に到着したのは、二月二十二日であった。

 この日の西郷のことを、島ではこう伝えて、東郷中介が『南洲翁謫所逸話』に記録している。
 西郷は自分が赦免されることになったとは知らないから、この日もいつもの通り座敷牢で机に向かって読書していると、土持政照が来た。
「沖に蒸氣船が見えもす。藩の船らしゅうごわす」
「ちがうじゃろう。お国の蒸氣船は、昨年のイギリスとの戦さでみな焼かれてしもうたということでごわすから、それは異国船でごわしょう」
と、西郷は答えた。
「そうでございもそか。しかし、異国船なら、それはまた一大事でごわす」
土持はあわただしく出て行った。
西郷にしても、緊張一通りではなかったはずである。異国船なら戦さになる可能性が大いにある。薩英の間に和議が結ばれたことは、恐らく西郷の耳には届いていなかったろう。何せ、船の往来も稀な孤島である。
 しばらくすると、土持があわただしく帰って来て、
「異国船ではごわはん。お国の蒸氣船で、こんどお買入になった、胡蝶丸というのでごわそうな。しかも、先生の御赦免の御使者が乗っておじゃるのじゃそうでごわす。御使者は御親友の吉井幸輔様で、御舎弟の慎吾様も乗っておじゃるそうにごわす。福山清蔵様も乗っておじゃると言いもす。お役所で、今聞いて来もした。」
と、息せき切って言った。
「ほんとでごわすか!」
「こげんことに、なんでうそを申しもそ!やがてお役所からお迎いが参りもそ。御仕度なさって下さい」
政照はまた走り去って、役所の様子を見てから帰って来ると、西郷がうろうろと家中を歩きまわっている。何かさがしものでもしている風だ。
「何をしていなさるのです。もうお迎いがまいられもすぞ」
「羽織をさがしとりもす。順徳院様(斉彬)から拝領した羽織でごわす。記念のためにおはんに上げようと思うて、さっき出しておいたのでごわすが、どこへ行ったか、見えんようになったのでごわす」
「その小わきにかかえていなさるのではごわはんか」
西郷は左のわきの下にかかえている羽織を見て、からからと笑い出した。
「やあ、これじゃ、これじゃ。わしもあわてているらしゅうごわすな」
西郷ほどに沈着な人間がこうだったのだから、そのうれしさはよほどのものであったことがわかる。やがて、役所からの迎えとともに役所に行くと、上下を着た吉井幸輔と、弟の慎吾、福山清蔵とが待っている。なつかしさに、熱いものがどっと胸にこみ上げて来たろう。涙がこぼれそうなのをこらえて、からからと笑って言った。
「おうら、誰が来たかと思えば、ヨゴレどんじゃらい」
吉井は少年の頃、まるで身なりにかまわず、垢づいていたので、親友なかまで、「ヨゴレ」とあだ名していたのである。
「おいはおはんの赦免状を持って来たのじゃ。ヨゴレちゅうことがごわすか。三拝九拝して、おがみなされ」
と、吉井も笑った。
やがて、雑談がはずむ。西郷は慎吾に家族のことをたずね、吉井はこんどの赦免状がどういういきさつで出たかを語った。
「そうでごわすか。わしのために、君前に出て、そろって腹を切るとまで決議されたのでごわすか。有難かことでごわす」
涙もろい西郷だ。涙をこぼしたろう。
吉井はかたちを改めて、赦免状を読み上げ、かしこまっている西郷に渡した。
「ありがたかこと」
西郷はおしいただいて、つくづくと見ていたが、
「おいはこれで御赦免になることになったが、新八どんはどうなっている。新八どんのところへは、別にお使いが立っているのじゃろな」
村田新八のことである。
「ああ、そうじゃった!新八どんのことはとんと忘れとった。したがって、何の御沙汰もいただいて来ておらん。こりゃこまった」
「そりゃいかんど。新八どんとおいは同罪じゃ。おいだけが赦されて、新八どんをおいて行くわけにはいかん。どうじゃろ、鬼界島に寄って、連れてもどろや。万事、おいが責任を負うから」
「ようごわしょう」
吉井はうなずいたが、同時にこういうところが吉之助サアじゃ、一蔵どんではとてもこうは行かんと思ったにちがいない。

 西郷は役所の座敷を貸してもらい、土持に頼んで酒肴の用意をし、在番役人や島役人一同を招待して告別の宴を張ったが、その準備の出来るまで、恐らく吉井は中央の情勢について詳しく語ったに違いない。吉井は公武合体派の大名衆が京に集まり、一橋慶喜も上京し、正月半ばには将軍も上洛して、公武合体の機運が熟し切っていると語っただろうか。あるいは、熟し切っているのに、一橋慶喜をはじめとして、幕府側が薩摩にたいする疑念を捨てかねているために、スムーズに行かないでいると、この時点ではもう京都でははっきりとなっている情勢を語ったろうか。多分、後者だろう。西郷は倒幕ということを考えたようだから、それはこの少し後に語る事実で明らかになる。
 やがて、別離の宴がはじまった。その席上、西郷が土持に贈った詩はこうである。
 別離、夢のごとくまた雲のごとし 
 去らんと欲し還来り涙紛々
 獄裡の仁恩、謝するに語なし
 遠く波浪を凌いで君を思ふに痩せん

 夜はふけたが、うわさを聞き伝えて、知合いの者や弟子等が集まって来る。一体、離島の人情は人なつっこい上に、西郷にたいしてはまた格別の慕情がある。人々は西郷のためにその赦免帰還をよろこびながらも、別れを悲しんで涙をこぼした。西郷もそれは同じだ。飽かず語りつづけた。
 夜中を過ぎる頃、船に乗り込み、まだ暗いうちに出帆した。岸ではいつまでも灯を振ってなごりをおしんでいた。二月二十三日の払暁近い時刻だから、細い月が東の空にかかっていたであろう。
 胡蝶丸の船長は土屋伝次郎といって、薩摩郡群崎の人だが、目地もかなり進んでから、この時の思い出話をしている。それによると、西郷はひどく酔って乗船した。夜明け方、船長が船内を巡視していると、西郷がうろうろしていて、便所はどこかと聞いた。案内してやると、しばらくして出てきて甲板に行った。船長がついて行くと、西郷は、
「船長さん、おはんは大砲を撃ったことがごわすか」
ときいた。
「ごわはん」
「そうでごわすか。わしはこんどはその大砲を撃ちにもどるのでごわすよ」
といって、呵々と笑ったというのである。
この実話があるので、ぼくは西郷が吉井からきいた中央の情勢によって、ついに公武合体で追いつく時代は去って、倒幕の時が近づいてきたと判断したと推理したいのである。

 胡蝶丸はその日の正午頃、大島に寄港したので、西郷は上陸して竜郷に行った。何の前知らせもなく、いきなり夫が帰って来たのだから、愛加那と子供等は夢かとばかりよろこんだ。御赦免になって帰国し、晴れて天下のために働く身になったのだと聞かされると、よろこびは一層であったろう。しかし、西郷が沖永良部にいるかぎりは、いつかまた会うことが期待できるが、今度のようなことになるのは、永久に会えなくなることである。愛加那の心理は最も複雑であったはずである。
 西郷は三夜四日竜郷にいて、二十六日の朝、大島を出帆、途中鬼界島に寄って村田をのせ、二十八日の朝、山川港についた。

 沖永良部における一年半の西郷の生活は、はじめの数ヶ月は惨苦に満ちたものだったが、その後は土持政照の情けによって気楽でもあり、健康的であった。しかし、牢座敷の外に出ることは出来なかったので、足がずいぶん弱っていた。だから、山川港から鹿児島に帰るにも、駕籠によらねばならなかった。十三里の道である。その日の夜に入って着いた。
 家族や親戚等のよろこびは言うまでもない。同志等も来ている。同志等がいろいろと中央の情勢について話して聞かせたが、すでに吉井にきいているから、ただうなずいて聞いた。
 思うに、この日か、翌二十九日あたりだろう、藩庁から出来るだけ早く京都に上るようにとの命令を伝えた。
 こうなると、彼には急いでしなければならない仕事がある。大島三島(大島本島、徳之島、沖永良部島)の砂糖は薩藩の最も重要な財源になっている。藩は島民から租税として収納するほかに、一手に買い上げて大坂に持って行ってさばくのである。その収納にも買上げにも、ずいぶん非道な搾取が行われている。
 彼は最初に大島住いになった時、まだ島の生活にもなじまず、健康上の理由もあって、島民にも王冠を持つことが出来なかった時期に、島民の苦しい生活に同情し、藩の苛政をいきどおり、大久保市蔵等に宛てた手紙に、「島民にたいする藩の政治は言語道断な苛政で、見るに忍びないものがある。北海道の松前氏の蝦夷人にたいする政治もひどい由だが、それ以上と思う。最もにがにがしいことだ。こんなにひどかろうとは予想しなかった。おどろくべきことである」と書き送っている。
 その頃の西郷は流罪人ではなく、単にそこに居住を命ぜられていただけであったので、次第に島の生活に慣れて来ると、島代官その他にいろいろと忠告したり、献言したりして、民の苦しみを緩めることにつとめた。しかし、自らかえりみて、その努力が大して効果があったとは思われない。彼は常に気になっていた。
 沖永良部では彼はずっと牢舎の生活をしていて、直接に民の疾苦を見ることはなかったが、土持政照からくわしく聞いたはずである。彼の憂心と慷慨は深くなるばかりであったろう。それは天性愛情深く、また正義を愛し不義を憎んでやまない彼としては最も自然な感情であったはずであるが、敬天愛人の哲学からもそうでなければならなかったはずである。
 こんど赦免されて内地に帰ったについて、これまでずっと胸中にたくわえていた砂糖買上げののことについて、ぜひ上中建白しなければならないと決心したのである。
 彼のこの上申書は、平凡社版の『大西郷書簡大成』に「大島外二島の砂糖買い上げにつき藩庁への上申書」と標題し、書かれた年時を「元治元年三月初」と推定している。彼は三月三日には京都に旅立ったのであるから、これの書かれたのは、二月二十九日から三月二日までの四日間でなければならない。おそらく、彼は二十九日にも、船旅の疲れがあり、足が痛んでも、寝てはいず、机にむかってせっせと書いていたろう。
 このことについては、のちにくわしく述べるが、西郷は二月三十日には、足を引きずって、島津氏の菩提寺である福昌寺に行き、斉彬の墓に詣でた。この翌年三月下旬、西郷が久方ぶりに土持政照に出した手紙の中にこうある。
「さて、その後は書状も奉らず、甚だもって不本意な次第で、さぞ御立腹のおんことと考えていますが、鹿児島に帰着しまして、中四日すると早々出立したほどで、何もかも忽忙混雑のことでありました。殊に足が立ちませず、船つき場(山川)から自宅まで歩行出来ず、駕籠で帰ったような始末で、あわれなていたらくでありました。帰着の翌々日福昌寺に参拝しましたが、ようよう這うようにして参ったことで、難儀なことでした。お察し下さい」
 西郷が斉彬の墓前にぬかずいて、どのような祈念をしたか、それを書くのは小説の分野であるが、必ずや天命自覚のことを告げ、これこそ御遺志をつぐことであると信ずると言い、さしあたっては幕府を倒すことに専念すべきであると思う故に、御加護を願いたいと言ったであろう。多分、西郷においては、天と斉彬は同一のものになっていたろう。
 彼は三月四日に、汽船で京都にむかった。
 この日は雨であったことが、彼の前掲の手紙ではなく、この日土持政照に出した手紙でわかる。

<<(西郷着京とその当時の京都の情勢)から
 西郷は三月十四日に京都に着いた。そして、三日後の十八日に久光に目通りした。
 久光は西郷をやむなく召還したのだが、召還した上はしかたがない。西郷の様子を見て次々に役目を進めて、ついに軍賦役と諸藩士との応接掛に任命した。軍賦役の「賦」はくばるという意味である。つまり、軍事司令官ということになろうか。
 この頃、大久保一蔵が江戸藩邸の留守居役であった新納嘉藤次に出した手紙の尚々書に、「大島儀も上京して来て、早速拝謁仰せつけられ、軍賦役と応答掛に仰せつけられました。この頃は大体議論もおとなしくなっていまして、少しも心配なことはなく、安心しました。お上(久光のこと)の方でも、今は少しも御疑惑はなく、有難い次第です。御安心下さい」とある。
 大久保が、西郷が昔にかわらず激しい議論を吐いて久光のきげんをそこなうのではないかと心配していたこと、そうではなくなっているのでよろこんでいること、それを新納のような藩の要人に告げて宣伝につとめていることがよくわかる。それとともに、大久保が西郷に会って、十分に注意するようにと忠告している場面も目に浮かぶ。これはもちろん大久保の友情による。恐らく、大久保は西郷にたいして、口頭でする議論はもちろんのこと、手紙のようなものも、いつどんなめぐり合わせで久光の目に触れるかわからないから、久光の心に逆らうようなことは書くなと忠告したはずである。とりわけ、両人の互いの書簡は准公文書のようなもので、ほとんど必ず久光の目に触れるのであるから、西郷もそのつもりで書いたはずである。だから、我々研究者としても、その目で読む必要が有る。文字そのままに読んでは、西郷の真意に違うはずである。
 西郷自身がこの頃に書いた手紙がある。内容から見て桂右衛門久武宛のものであったように観察される。よほど心を許した人にあてたものであることは確かである。その書き出しにもこうある。
  ご一別依頼はお便りすることが出来ませんでしたが、いよいよ御嘉祥、およろこび申し上げます。小弟は無異、先月十四日京着いたしました。憚りながら御放慮下さい。さて、大坂、伏見あたりから有志の人々へ面会しました(大坂藩邸、伏見藩邸で、藩内の昔の同志等に会ったとの意であろう)。小生は昔に少しも変らぬ態度で応接するのですが、相手の方はどうも気味悪がっているように思われました。しかしながら、皆々安心の様子に見えました。よほど心配していたようにも思われます。小生がどのような狂言(矯激な論)を言い出すかもしれないと心配していたのではないでしょうか。滑稽なことでした。しかし小生が至極おとなしくしていますと、あまり程がよすぎて、きげん取りに度度役目を昇進させられまして、小生としては落ちつきの悪いことです。御笑察下さい。
 。。。

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 女川尾浦。遠島ならぬ対岸は出島  ホヤ養殖棚周りのかかり釣り2016,4,2

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西郷隆盛 第五巻 / 海音寺潮五郎

2016-04-05 16:30:32 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第五巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 この西郷隆盛史伝の第五巻は、<芸術院賞に輝く著者の傑作-ー天皇の攘夷祈願・親征へと急進攘夷と唱える激派の勝利とみえたが‥‥。公武合体派のクーデターでどんでん返し。そして七卿落ち。。。>となる。公武合体派というのは、もともと武家もお公家もあまり覇気のなさそうな人たちばかりで土俵際だったはず。薩摩の狡知と会津の武力で過激な若者達に一矢報いたわけだろうが、これをクーデターというの?それにしてもまあ、もつれた釣り糸のような、人々の動きだ。

 文久三年のこの頃も西郷は、絶海の孤島。風のたよりで薩摩がイギリス艦隊に砲撃されたことを知り詳しい情報を知りたがっているが如何ともしがたい。日々刻々と二転三転する世の中の動き、まさに時は幕末。海音寺さんの言葉を借りれば、天は「大薙刀の截断力も持つ天才」の出現をまっていたのだ。

 時局を追えば第五巻目次の通りだがそのなかから、海音寺さんの眼でみた、松平春嶽、一橋慶喜、高杉晋作、そして西郷隆盛についての人物像がうかがわれる箇所を抜き書きしてみた。

『西郷南洲翁遺訓集』「命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は始末に困るものである。このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を大成する事は出来ない。。。。」じつに西郷そのひとが、始末に困る人だったのだ。

 

>>>(以下は、「西郷隆盛 第五巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社 昭和52年7月20日」からの引用 。。。部は中略)


<西郷隆盛 第五巻 目次>
急進攘夷派と漸進攘夷派の争い
倒幕思想
生麦事件についての外国側の風聞第一報
激派公家と激派武士などの運動
激派の勝利
三条実美等と一橋慶喜との談判
薩摩と幕府の空しい努力
激派、朝議を壟断す
大政奉還の初声
毛利定広の加茂、泉涌寺行幸の建白と両派の言路洞開布達
両関白の泣言
三条の辞表問題
足利三将軍木像梟首その他
土佐勤王党に対する容堂の第二撃
生麦事件についての英国の談判にたいする朝廷の反応
木像梟首犯人逮捕
長州藩のいろいろな建白
公武合体派の退勢
御親兵・加茂行幸・清川八郎始末
春嶽の時局絶望と辞表提出
島津久光の入京と帰国
蜘蛛の巣にかかった幕府・春嶽の届け捨て帰国
岩清水行幸
激派の攘夷督促
将軍と姉小路公知の摂海巡視・勝麟太郎のこと
帰府道中の一橋慶喜
生麦事変の折衝
小笠原、一身に責任を負って償金を支払う
一橋の帰府・小笠原の鎖港談判・朝廷の不満
一橋慶喜の辞表提出
姉小路公知暗殺さる
小笠原長行のクーデター計画失敗
長州藩の攘夷戦争
高杉の奇兵隊創設と大里占領
勅使の長州派遣
不運な幕鑑朝陽・不運な幕府使者中根一之允
薩英戦争
西郷と英国艦隊襲来
真木和泉守登場
攘夷親征のこと決定
親征についての真木和泉守の建白書
親征にたいする上流公卿と会津
薩摩と会津の提携
天忠組
八月十八日政変・七卿落ち
真木和泉の西郷あての手紙

あとがき

 

<<<<(公武合体派の退勢)
 ずっと述べて来た通り、文久三年の二月一ぱいは漸進攘夷派(公武合体派)と急進攘夷派(尊王攘夷派)との主導権争いの時期であったが、三月は漸進派の敗退、急進派の制覇の成った時期である。すなわち長州藩を中心とする攘夷派が勝利を得て、朝議の主導権を全面的に獲得し、幕府を中心とする公武合体派が全面的に京都から敗退した時期である。この月中も様々な事件が京都を中心に日本におこっているが、すべてこの観点から眺めれば、一切は瞭然としてあきらかである。
。。。。

 同じこの三月三日、春嶽は朝十時頃に藩邸を出て、江州大津に行った。家茂将軍が今日大津に到着することになっていたので、それを出迎えるためもあったが、さらにもう一つさらに大事な用があった。
 春嶽は昨年夏幕政参与となり、つづいて政事総裁になって以来、幕府の対朝廷の様々なことを改善するために、懸命の努力をつづけて来た。幕府の老中や諸役人等はもちろんのこと、将軍後見の一橋慶喜まで、幕府自尊の心と幕府中心の慣行から蝉脱出来ず、いろいろなことがあったが、春嶽は教誨し、説得し、ついに朝廷尊崇の風を幕府の定着させた。
 また、今年になると、一橋慶喜と先後して上京して来て、公武合体を実現するために努力をおしまなかった。しかし、その努力はほとんど効果がなく、今や朝廷には幕府を敵視し幕府側の公武合体実現への努力をさまたげようとする動きが事毎にある。春嶽には、全朝廷に憑きものがして、道理の支配するところではなくなっているようにしか見えない。
「道理を受け付けないものには、力を持って思い知らせるより方法はないのだが、その力を用うることは封ぜられている。とすれば、とるべき道は一つしかない。辞職である」
と思い定めたのであった。彼は自らも政事総裁を辞することに心をきめたが、将軍にもそれをすすめたいと思ったのであった。
。。。。
 我々は歴史の中に春嶽を浮かべ、その行動のあとをずっと見て来て、彼がいかに心の純真な人であり、いかに私心なく、いかに熱心に、努力をつづけて来たかを知っている。このような人が、いかにも悪意に満ちた、狂気じみた、この当時の過激公家群の様子と、その過激公家等におさえつけられて手も足も出ない、いくじのない上流公卿等の様子を見ていれば、絶望的になるのは無理はないと思う。
 当時の大名で、こんな空気と、こんな人々に対抗して逞しく戦って行ける人物は、恐らく一人もいなかったろう。島津久光は相当アクの強い人であり、賢くもあり、根性もある人だが、やはり出来なかったろう。調子が悪いと見れば、すぐ国許に引っ込んでしまうところにその弱さがある。山内容堂は賢明でもあり、勇気もあり、個人的迫力もあった人だが、これまた調子が悪ければすぐ国許へ引きあげた。一番出来そうなのは、鍋島閑叟だが、これは最も利口で、極度なエゴイストだから、最初から乗り出して来はしないのである。
 春嶽は最も賢明な人だが、最も純真で、最も欲のない人である。物質欲はもちろん、名誉欲も、権力欲もない人だから、憑かれて一種の狂気になり、幕府を悪意でしか見ない人々を相手に、空しい努力をいつまでも続けることが出来るはずはないのである。
 が、それにしても、自分の辞職は別として、将軍にまで軽々と辞職をすすめるのは、尋常ではない。二百数十年、十四代つづいてきた将軍職なのである。よくよく愛想がつき、よくよく絶望的になっていたのである。死にたいくらい深い絶望と嫌悪感があったのだろうと、筆者には思われる。
 春嶽は間もなく正式に辞表を提出し、何と慰留されてもきかず、ついには無断で届けっぱなしにして、越前に帰ってしまうのである。公武合体派の陣営の一角が大くずれにくずれ去ったのである。
。。。。。。
 春嶽の絶望は最も深刻で、幕府はもう天下の府として天下の政治をあずかることは出来ないとの思いが、さらに切になったのであろう。
 一橋慶喜は、やはりこの日、鷹司関白へ次のような伺い書を出した。
 御委任なし下されましたことについて、仰せ出されましたこと、承りました。国事のことについては、事柄によっては朝廷から直接に諸藩へ御沙汰あらせられるとの意味は、すべて大坂湾へ夷船が渡来するなどの、火急な場合においての御沙汰のことで、その余のことは守護職、所司代へ仰せ出されることと解釈いたしますが、なお念のためにこの際申し上げておきます。
 三月九日                     慶喜
 殿下

 さすがに慶喜は才人である。朝廷の幕府にたいする干渉の前触れを、「大坂湾へ夷船が渡来するなどの、火急な場合においての御沙汰」と限定しようとしたのである。しかし、ここに慶喜の才の限界がある。たとえ鷹司関白がその通りであると答えたとしても、その約束に何ほどの力があろう。また、約束が違うと抗議しても、朝廷がかまいつけないなら、幕府としてはそれまでのことだ。どうすることも出来はしない。鷹司になにがしかの力があれば、その約束にはある程度の拘束力があるが、鷹司は最も無力で凡庸な関白だ。激派公家等の横車にたいして、全然無力なのである。そこに思いを致さないのだから、慶喜はついに太平の時代の、やや小利口な大名に過ぎなかったと言えよう。
。。。


>>(一橋慶喜の辞表提出)
 慶喜は江戸に帰着し、小笠原を横浜から呼びかえしたが、別段何の咎めもしなかった。ここも、筆者が慶喜の江戸下り道中に、小笠原から独断支払いのことを知らせたに違いないと考える理由の一つであるが、ともかくも、慶喜は小笠原にこう言っただけであった。
「すでに償金を支払ったからには、今更是非を論じてもしかたのないことである。貴殿は速やかに上京して、くわしくその顛末を申し上げられよ、拙者もつづいて上京いたそう」
 慶喜のこのことばには含みがある。単に償金支払いのことについての言い訳や報告をせよというのではない。京都朝廷を迷乱させている攘夷論を説破して迷夢から醒めさせよというのである。だから、拙者もつづいて上京するというのである。手をつないで一緒にやろうという意味である。
 小笠原はなるべくなら、同時上京のほうがよいと思って、その時を待っていたところ、突然、一橋が辞職願を提出したのである。
。。。。
 日付が五月十七日になっているのは、書いたのが十七日で渡したのはその翌日であったのである。
 以上のどの書面にも、慶喜が辞職を決意した理由は明らかである。彼は開国主義者でありながら、朝廷の狂熱的な攘夷主義に屈してーー幕府の安全のためにやむを得ない屈服であったに違いないがーー、攘夷談判実行のお請けをして江戸に帰ってきたが、江戸の留守幕府の要人らは老中から諸有司に至るまで全部開国主義になっていて、攘夷談判にたいして受けつける者がいない。彼が将軍上洛の先駆として昨年末江戸を出た頃までは、これほど開国主義はさかんではなかった。半年経たない間にこうなったのである。それは欧米列強との戦争こわさのための臆病心も大いに手伝っているが、ともかくも盛んになっていた。
 その上、安政度に彼が家茂将軍と将軍世子たるを争ったこと(この世子争いは、松平春嶽その他の当時の賢諸侯や幕府の賢有司等が猛運動したので、慶喜は傍観していたのだが)をほじくり出して、幕府役人らの中に慶喜に野望があると疑って、なかなかの勢いとなっている。
 かれこれ、慶喜はボイコットされる形勢になっていた。それでイヤ気がさして、辞職しようと思い立ったのだと、これらの書面には述べてある。
 
 たしかにそうに違いないと筆者も思う。慶喜の立場はまことに同情すべきものがある。あらぬ疑いをかけられて、痛くない腹をさぐられるに至っては、誇りある人間にはたまらないことであるに相違ない。
 しかし、責任という点からすれば、問題がある。彼が辞職すれば、朝廷の叱責は幕府に向けられる。それは年若い将軍が一身に受けなければならないのである。もともと攘夷の勅諚を幕府の名によってお請けし、攘夷談判期日を朝廷に約束した主たる責任者は一橋である。読者は慶喜の旅館で三条実美らが勅使として行き向って返答を迫った時、松平春嶽が始終返答することを反対したことを思い出していただきたい。それをここまでしくさらして、ひとり辞職して圏外に立ち、将軍一人の身に非難を集中させるとは、無責任も甚だしいものといわねばならない。
 賢明な彼がここを考えなかったとは思われない。考えはしたであろうが、その性癖である揺れ易い心で、ふいとこう流れてしまったのであろう。
 彼は最も多智賢明な人であるが、思考が、よく言えば繊巧、悪く言えば小細工にすぎるのである。償金支払いを自分の江戸帰着前に留守幕府に片づけさせて、それについての自分にたいする非難を回避し、鎖港談判だけをやって朝廷の覚えをよくしておいて徐ろに善処を画そうとしたのがその例だ。償金さえ支払うなら。鎖港談判は出来ることだというのは、小笠原がきびしいはね返しを受けるまでは、人々の常識だったのである。
 そのくせ、武田耕雲斎に償金は支払うなという口上をもたせてやるなど、小細工もきわまるものである。きっと慶喜は、武田は札つきの攘夷家だから、そんな口上を持って行っても、幕府当局は自分の意思とは思わないだろうと踏んだのではないか。
 ともあれ、慶喜のこの思案の繊巧さが、いつも彼を弱くして、切所にあたってふらっと揺れて変心させるのである。天下の計は太い棒のように真直ぐにつらぬくものでなければならないのである。いつぞやもいったように、彼は政治家向きの人ではない。いわんや乱世に処して撥乱反正する英雄政治家ではない。
。。。

 

>>(高杉の奇兵隊創設と大里占領)
 幕末という歴史的区分は年代的にはあいまいである。外国関係のことがうるさくなりはじめた天保頃もすでに幕末というべきだという論もあり得るだろうが、仮にうんと切り下げて、嘉永六年六月にペリーが来航した時点から慶応四年正月の伏見・鳥羽戦までの足かけ十五年として、その次第に煮つまってきた文久三年半ばから以後における日本の三傑をえらぶとすれば、薩摩の西郷隆盛、長州の高杉晋作、土佐の坂本龍馬の三人であろう。
 三人とも一種の天才である。西郷を天才とするには異論のある人も多いであろうが、天才なるものをひたすらに鋭いものとする通俗的見方を揚棄するなら、切所にあたっての西郷の比倫する者のないほどの勇断力は、天才だけの持つものであることに気づかなければならないはずである。剃刀の切味ではなく、大薙刀の截断力である。天才と大才とを兼ねたものといわざるを得ない。坂本はこの史伝ではすでに姿をあらわしているが、まだその力量が十分に読者の目に触れる機会がない。本格的登壇にはもうしばらく時間がある。
 高杉はすでに姿をあらわした。横浜の外国公使刺殺計画、吉田松陰の改葬、家茂将軍の帰東阻止計画等等である。以上のことは要するに当時の激派壮士ーー現代の過激派青年にも通有なことで、高杉の進化を十分に品隲し得るものではないが、それでも彼が万人に卓越した気魄と天才のもつ鋭さとの所有者であることは、好意を持って見る人なら十分にわかるはずである。人を見るには先ず好意をもつことが必要である。最初から辛辣な心をもって見ては、結局はその人の長所と美点を見失ってしまう。彼の真骨頂はこの時点ーー長州の攘夷戦争のすんだ時から、その全容をあらわすのである。
 。。。

>>(西郷と英国艦隊襲来)
。。。
 西郷が「敬天」の信仰によって、月照との投身自殺の失敗の痛辱から立ち直ったことは、ずっと前に書いた。同時にこれは天命の自覚であった。「愛人」は「敬天」の対社会の具体化である。(第二巻「西郷と陽明学」参照)
 だから、これを彼の生涯の行蔵に照らし合わせて考えると、「敬天愛人」は彼の天命にたいする自覚の哲学であり、『南洲翁遺訓』は彼の革命家としての理想国家を語り、それを実現するにあたっての革命家のあらねばならぬ心掛と姿勢を語った書である。彼のこの哲学とこの書とは、従来、歴史学者や研究家の最も等閑にしているところであるが、それでは西郷の精髄ともいうべき最も肝心なものを捨てていることになる。維新前と維新後の西郷がまるで人が変って別人になっているなどということを言わなければならないはずである。発狂でもしないかぎり、一人の人間にそんな変化がおころうはずはないではないか。

 彼を同時代の志士等は皆革命家であったが、その抱いている革命の目的は、その全部が倒幕によって日本を天皇の国として建て直し、日本を欧米列強に劣らない国力を持つ国にしたいというにあり、これが終着点であったが、ひとり彼は違うのである。彼の目的はここを中間駅としてさらに遠大で、高邁なところを目ざしている。日本を道義国家たらしめて、為政者は清廉高潔、民の疾苦に常に心をおき、民は圧制なき政治の下において豊かで幸福であり、外国との交際は最も道義的である国としようというにあった。これは『南洲翁遺訓』を精読すれば、はっきりとわかる。
 同じく維新のために働いても、その目的はこのように違うのである。つまり、そのはじめから次元が違うのである。なおいえば、厳格には他の人々は単なる改革者であり、彼ひとりが革命家だったのであり、後の民権運動家等に彼を追慕する者が多い所以でもある。このことをわかるためには、西郷の民の実生活の苦悩に対する強いいきどおりと深い愛情を知ることが肝要だと思われるので、ぼくは煩をかえりみず、これをくわしく書いているのである。彼ほど民の生活を身近かに見て、その苦悩に同情し、圧制にいきどおっている者はないのである。


 革命というものは、いつの時代、どこの国でも、最も高く純粋な理想家によってはじめられ、指導されるが、やがて低次の実務家によって因習と現実とに妥協した線で定着させられるものである。レーニンによって理想的な共産主義国家を志向して出発したものが、スターリンによってあんな形になり、その後継者等によって今日のロシアのようになったのはその例である。現代のロシアほど共産主義なるものに幻滅を感じさせるものはない。現代のロシアはレーニンの志向した国家ではない。帝政ロシアに逆戻りした帝国主義国家である。共産主義国家と称し、その形はしているが、うちに向かっては民を抑圧し、外にむかっては飽くなき領土欲を発現しているところはロマノフ王朝国家と全然同じである。レーニンの志向し計画していた理想国家とは似もつかないものになっている。毛沢東は理想家であり、したがって永久革命家であったが、劉少奇や周恩来は実務家である。だから、毛沢東の生きている間は現実と妥協しながらも、理想から離れず、紅衛兵などという戦術で、ややもすれば現実と低次な妥協をしがちな革命を是正しつつ理想に向かって進もうとしていたが、将来はどうなるか、恐らく現実路線に密着すること益々深く、毛沢東の志向したところとは益々遠くなるのではないかと思われる。


 維新革命のあらごなしのおわったのは明治四年の廃藩置県であるが、明治六年の秋には朝鮮問題が政府の大問題となり、西郷は岩倉、大久保を中心とするかつての革命の同志と対立した。これを征韓論論争と通称しているが、この論争は単に舞台であったに過ぎず、本質は最初からの革命の目的の相違が、この時あの形ではじまったのである。大久保も、木戸も、その革命の目的は日本の独立を確保し、確立を強めるために日本を列強並みにすることにあった。民の苦しみなどは当面の心にはなかった。岩倉には、以上のことに皇室の権威を強め、皇室の財力を増大する目的が加わっていたに過ぎない。西郷の志向している国家は、彼らの志向する目的のためには迂遠なものと思われた。西郷が維新第一の功臣で、最も威望ある存在だったので、術策の限りを尽くして、あの形で中央政府から追放し、維新政治は大久保によって、フランス式内務省をつくって、日本を警察国家として、統制しやすい組織の国にすることになり(統制主義は大久保の最も好きな方式で、統制主義者島津久光の下で鍛錬を重ねて来ている)、大久保の死後はその後継者等によって、彼の敷いた軌道を走りつがれ、昭和大敗戦までつづいたという次第である。
 以上が、半世紀にわたって思索と研究とを重ねた末、ぼくの到達した西郷観の概略である。歴史の進行によって、史実と照合しながら、実証しつつ語り進んで行くのが、この伝記の目的であるが、今年は西郷の百年祭にあたって、ぼくの西郷観を手短に知りたいという読者の要望も多かろうと思うので、一先ず概略をここに書いた。くわしくは、巻を追うて説き進むであろう。

>>>>

 上から猫モミモミ、下は全身マッサージ機、始末に困る人だ。

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西郷隆盛 第四巻 / 海音寺潮五郎

2016-03-25 21:55:02 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第四巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

海音寺潮五郎さんの西郷隆盛史伝の第四巻は、単行本の帯によれば、<テロと弾劾・血風の季節-ー攘夷の勅を受け、開国を胸中に苦悩する幕閣首脳。島津久光、山内容堂らの公武合体工作。尊王攘夷志士たちの横行。世は騒然として文久二年から三年へ。。。>となる。

この頃のことを、安藤英男著「西郷隆盛」から何年かの間を数行ずつの駆け足したことがあった。「薩国貴重の大宝」
江戸で京で、権力の表と裏で、今に名を残す人たちが動き回っていたころ、西郷はといえばこの頃文久二年(1862)から元治元年(1864)までの1年半は絶海の孤島に遠ざけられ、時代の表舞台からは全く姿を消している。かたや大久保は島津久光の懐刀にまでなって、影で縦横無尽の働きぶりなのに。西郷は、この巻でも姿も見せない。
さても、尊王攘夷、公武合体、開国佐幕、、、志士浪士テロリストや若き公家さんまで、アジテータたちも喧しすぎて、これはいったいなんだろうなあ、と少しかじったこともあったなあ、「What’s 尊王攘夷?」。今回は少し深めて、一人醒めてこの時代の混沌とこの国の行く末を見通し、彼の策を西郷がやったらこわいと勝に言わしめた横井小楠のことばを、そっと聞いてみよう。

西郷は絶海の孤島でも、その人徳で監視の役人まで感服させどうにかして激動する世間の情報は得ていたようだ。いかんせん全くの蚊帳の外、イカ釣りのツノなど作って無聊を慰めていたかもしれぬ。鉄砲撃ちのほか釣りも好きだった西郷は、そういうことも玄人はだしだったのだ。このところ、市販の仕掛けで下手なカレイ釣り、万年初心者たる凡人のり坊にとって、これまた及ぶところではない人物である。

 

<<< (以下は、「西郷隆盛 第四巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社 昭和51年11月30日」からの引用 )

<西郷隆盛 第四巻 目次>

久光の京都帰着と意見具申そして帰国
土佐の進出と武市半平太の苦心
テロと弾劾はじまる
血風の季節
横井小楠の改革意見
会津藩主松平容保京都守護職となる
山内容堂と土佐勤王党
攘夷催促の勅使差遺
幕府の諸改革
江戸における開国鎖国の議論と長州藩の運動
勅使待遇問題と春獄の辞職願提出
一橋慶喜という人
薩摩の反対運動
江戸における長州藩の運動と高杉晋作等の攘夷実行計画
高崎猪太郎を通じての久光の意見具申
慶喜再度の辞職願と安政年度の追罰
島津久光の京都守護職任命問題
勅使の入城
春獄と久光・再び久光の守護職問題
勅書奉答と将軍の忠順
公使館焼打ち
横井小楠の奇禍・新徴組結成
薩藩の反急進運動
江戸における大久保の運動
大久保の運動の蹉跌
会津容保の京都赴任
一橋慶喜の上京
山内容堂と松平春嶽の上京
両儀奏の辞職・翠紅館の大会・青蓮院宮の還俗
山内容堂と松平容保

 

<<<< (第四巻 あとがき)より

。。。

 私は作家になって以来、歴史時代に取材した小説や史伝を書きつづけていますので、日本歴史については相当知っているつもりでありましたが、この第三巻、第四巻を書いてみて、これまで知っていると思っていたのはうぬぼれにすぎなかったことがわかりました。
 幕末・維新史を複雑にしている要素に薩・長の主導権争い、反目・相互憎悪があることは、今までも知っていましたし、西郷の研究にはこれらの究明は最も必要であるという見当もつけていました。しかし、こんなに激烈・執拗であったろうとは、思いもかけないことでした。少々思い切った言い方をしますなら、幕末・維新史を成立させているのは薩・長の競争・反目・憎悪であると言い切ってよいほどです。これが軸になって、さまざまな事件と事象を生んで、歴史は複雑な上にも複雑になって行ったのです。ですから、もしこれがなかったなら、幕末・維新史はまことに貧しいものになったでしょう。多分、単なる外交問題として片づいて、革命にはならず、革命はずっと後年に持ちこされたでしょうし、あるいはその間に日本は一時欧米列強に分割された時期があったかも知れません。
 まことに、歴史を書くことは、歴史を発見することであると、しみじみとわかりました。 

 この巻には、西郷は全然姿をあらわしません。西郷は文久二年四月十一日に大坂から海路国許に送り返され、六月から徳之島に送られ、さらに閏八月に沖永良部島に移され、幽囚の生活にうつり、文久三年中はそのまま、翌元治元年二月末に鹿児島に召還され、三月半ばに京都に上って来るのですから、この期間は風雲の外の人です。姿をあらわすはずはありません。
 しかし、この巻をお読みいただければ、おわかり願えると信じていますが、西郷という人物を理解するには、彼の不在中の中央の出来事を知ることが多いに必要なのです。この時期の日本の歴史についての相当くわしい理解がない以上、やがて中央に復帰してからの西郷はわからないはずです。これまでの西郷伝の全部はこれを等閑にしているので、真の西郷の伝記にはなっていないと私には思われます。ましてや、この書は西郷の伝記であると共に、幕末・維新史でもあるようにとの目的をもって書いているのですから、一層のことです。性急・端的に西郷を知ろうとなさらず、じっくりとお読みいただきたく存じます。

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<<< (横井小楠の改革意見)より

 ここで、大原勅使と島津久光とが立去った後の幕府のことを簡単に語りたい。
 生麦事件が幕府を最も困惑させたことは言うまでもないが、それはずっと後に薩英戦争を叙する際に書くことにして、ここでは幕府の政治向きがどう変化したのかについて述べたい。
 幕府はずいぶん経緯はあったものの、結局は大原勅使のもたらした勅諚を謹承して、一橋慶喜を将軍後見に、越前春嶽を政事総裁に登用したのだが、言うまでもなく、朝廷としてはこうして幕府の政治組織を改新することによって、日本の国難を救い、日本を安泰鞏固ならしめる清新な政治を行わせるためであった。

 ところが、この最後の目的に達する方法についての考えが、実はあいまいを極めていた。あいまいどころか、朝廷側でも、幕府側でも、矛盾と撞着に満ちていた。もちろん、朝廷側は攘夷主義、幕府側は開国主義であったわけであるが、実はこれは極めて大雑把な言い方で、内実に立入って精密に調べると、幕府側にも攘夷派があり、朝廷側にも開国派があった。
 幕府の役人は老中以下ほとんど全部が開国派であったが、中には相当な高官でありながら欧米ぎらいで、従って心情的攘夷派がいたはずである。公家に開国派がいたことは意外と言えるが、三奸とか四奸とか言われた人々ーー中にも岩倉などは内心は開国派であったに相違ない。また朝廷の武力的後援者であった島津久光はあきらかに開国派であった。ただ天皇が最も熱烈堅固な欧米嫌いで、従って攘夷であられたために、この人々は正直に自分の心を表明しなかったまでのことである。
 こうなってみると、公武合体とは一体なんだったのであろう。当時の日本にとって最も必要なことは対外方針の確立である。これがどちらかに確定してこそ挙国一致体制にもなれ、国力も増強され、国難解決の可能性も出来てくる。とすれば、何よりも先に外交方針の一定確立をはかるべきであった。「国是を確定する」ということばが、朝廷方面からも、幕府方面からもしきりに言われているが、この国是とはつまり外交方針のことなのである。

 それならば、開国・鎖国、あるいは和親・攘夷の善悪、利害、可能か不可能かについての詮議や論争がもっと活溌に行われるべきであったのに、それにはほとんど触れることなく、公武御一和とか、朝幕融和などという綺麗ごとばかりを言い立てていたのだから、愚劣をきわめている。
 しかし、思うにこれは天皇が最も重症の欧米アレルギーでおわしたので、鎖国攘夷派は最も活溌無遠慮に主張出来たが、開国論を説くことははばからねばならない空気が時代の風の吹きまわしによって急速に醸成されたためであろう。はじめあれほど堂々活溌に開国論を説いて、朝幕を感動させ、一般にもまた人気のあった長井雅楽が急坂を駆け下るように評判が悪くなり、失脚したばかりか、この翌年の二月には腹まで切らされるのだから、こう解釈するよりほかはない。

 孝明天皇の欧米嫌いによる鎖国主義は、世界史の進行に合流しようとする日本の歴史の流れをせきとめようとするものであり、日本に不幸と災厄とをもたらすものであったのだから、明らかに誤った、よくないものだったのであるが、これを是正し奉ろうとしたのは長井雅楽唯一人で、他には一人もいないことを思うと、日本人の忠誠とは一体なんであろうかとの疑問が湧いて来ないではない。孟子は男子の道と婦人の道とをわけて、主君の欲するところ、為すところに従って、一毫も違わじとつとめるのは婦人の夫につかえる道であり、道義を標準にして主君を規正するのが、男子の主君につかえる道であると説明しているから、日本人の忠は孟子に言わせれば婦人の道ということになる。
 孝明天皇が欧米人にたいして最も強烈な嫌悪感を持たれるようになったについては、もちろん理由があろう。根本的には西洋列強の東洋諸国にたいする暴悪な侵略行為であろう。これによって印度は国亡んで英国の領土となり、中国は最も悪逆な阿片戦争をしかけられて香港を奪われた。当時の日本は鎖国はしていたが、世界の出来事を知る便宜が全然なかったわけではない。志ある人は長崎を通じて知ることが出来た。それらのことについて書いた中国人の著書もいくらかは入って来た。漢文を読むことは、その頃の日本の知識人にとっては最も容易なことだった。当然、日本人は欧米人にたいして嫌悪と恐怖を感じた。それはごく少数の蘭学者とその蘭学者を通じて欧米の国力の強大さや文明の進歩を知っている者を除いた日本人全部であったはずである。当然、天皇もその一人でおわした。だから、その頃の天皇の欧米人嫌いは世間普通のもので、それほど強烈であったとは思われない。それが特別なものになったのは、一説によると、宮廷つきの絵師が描いてお目にかけた欧米人の風貌が妖怪じみた醜悪なものであったからであるという。さらにその上に、次ぎつぎに発生する外国関係の事件にたいする幕府の処置が最も拙劣であるためにそれらは全部国辱として感ぜられ、益々天皇の嫌悪感情が研ぎみがかれ、ついに一種のアレルギー感覚とまでなってしまったと思われるのである。

 天皇は日本全体の運命と民の幸福とを絶えず考えつづけ、そのためには攘夷が最上の策であると信じきっておられたのであるから、そのはじめにおいて、その目的のためには鎖国や攘夷は何の役にも立たず、かえって害悪をなすものであることをよくよく説明申し上ぐべきであったのに、第一の責任者である幕府は全然反対のことしかしなかった。井伊直弼は叡慮をふみにじってハリスとの調印を手はじめに各国と調印したのだから、当然、鎖国孤立は人間世界の自然の道でないばかりでなく、国をひらいて万国と交際する以外には日本の存続する道はないことを、十分に天皇に御説明申し上げ、天皇が御納得の行くまで努力を続けるべきであったのに、何とも説明の出来かねる奇怪至極なことをした。老中間部詮勝を上洛させて、最も暴力的な大検挙を敢行して、上は皇族・摂関家から、中は公家・大名、下は一般庶民に至るまでを処罰すると同時に、天皇にたいしては間部をして、
「七、八年から十年の間には、必ず攘夷をいたしまして、叡慮に添い奉るでありましょう」
と奏上させたのである。
 この支離滅裂な井伊のやり方が天皇に欧米嫌いを是認させ、幕府の約束がなかなかその通りに行きそうもないことによってそれを鋭くさせたと言ってよい。さらに堂上や一般志士等が叡慮は攘夷にあると知ってこれに追随したことによって、天皇は益々自分の欧米嫌いと攘夷主義とが輿論に合致する正当なものと信じるようになられたのである。

 せんじつめれば、一橋慶喜が将軍後見に就任することを渋ったのも、越前春嶽が政事総裁就任を渋ったのも、ここにあった。即ち、叡慮は攘夷にこりかたまっているのに、日本の立ちゆく道は開国以外にはないと、二人には信ぜられていたからである。要するに、天皇も公家等も、二人の抱いている外交方針についてはまるで知らず、井伊の暴悪政治の頃以来の、二人にたいする世の人望だけを買って、幕府に新しい職制を設けさせまでして、いわば無理やりに二人をその椅子につかせたのであった。
 二人の困惑は言うまでもない。二人とも信念を曲げる心はない。しかし、曲げて攘夷策をとらなければ天皇のお気に召すはずはないのである。春嶽は慶喜にくらべれば数等純情な人柄なので、慶喜が就任を承諾した後も、なお就任を渋ったことはあの節のべた。
 その春嶽が就任を承諾したのは、彼の賓師横井小楠が江戸に到着し、就任をすすめたからであった。だから、春嶽の政治意見はすべて小楠から出た。
 春嶽だけでなく、およそ小楠に会ってその説を聞く者は、幕府の高級官僚といわず、老中といわず、みな小楠に傾倒した。ついには一橋慶喜もとりこになった。明治になって、勝海舟が『氷川清話』で、小楠を賞賛して、自分が一生のうち最も感心した人物が二人ある、智謀・見識においては横井小楠、人物の雄偉卓抜においては西郷、この二人であると言っているが、横糸の彼の交際はこの頃が一番ひんぱんであったと思われる。勝の生涯の親友である大久保忠寛(後の一翁)はこの頃お側御用取次で、幕府の高級官僚としては最も早く横井に会い、横井の人物を高く買っているから、大久保の紹介で横井に会ったのであろう。後年坂本龍馬は横井を熊本に訪れて貴重な啓発を受けているが、坂本のこの訪問は勝から横井のすぐれた人物であることを聞いていたためであろう。坂本は横井の紹介によって越前藩中の横井の弟子三岡石五郎(後の由利公正)と知合いになり、坂本が生前三岡の経済上の見識について、西郷や大久保一蔵に語っていたことが機縁になって、三岡は維新初年(慶応の末年から明治のごく初期にかけて)の太政官の財務を担当することになるのである。歴史における人脈はどこでどう連絡してどういう働きを見せるか、ほとんど見当はつかないものである。

 さて、こんな横井だったので、当時の幕府の政治は横井の意見によって行われた。少なくとも行われようとした。
 当時の横井の意見は、この頃の八月二十七日(横井は七月六日江戸に到着しているから、五十一日目だ)の朝、彼が外国奉行からこの頃大目付になった岡部駿河守長常の屋敷へ招待されていった時の岡部との会談に最もよくあらわれている。『再夢紀事』にその要領が出ているから、左に訳載する。 

 岡部はまず現在の天下の形勢をどう思われるかとたずねた。
「実に危いことになっていると思います」
「くわしくうけたまわりとうござる」

「近年来、幕府にはいろいろと御失策がありましたので、人心はさらに服していません。当春来、九州地方などは已に騒乱の様相を呈しましたが <清河八郎が来て、青蓮院宮の令旨が下る手筈になっていると言って、九州諸藩の有志者らを扇動糾合しようとしたあのことを言っているのである> 、薩・長等の一件もありましたため <薩摩藩と長州藩とが政治周旋に乗り出して朝幕の間に運動したことを言う。>、幕府でも御反省になって、一橋公と越前老公とを御登用なさって、世の望みに添いなされましたので、いささか世間も鎮静の姿となりました。しかし、決して真に治まったのではなく、しばらく形勢を観望しているというに過ぎませんから、お悔い改めの御政績が次々にあらわれなくては、またまた動乱に及ぶことはわかり切っています。
 今の世は一度乱世になってしまえば、もう決して取返しはつかず、恐れ多い申し条ながら、徳川家は御滅亡ということになると存じます。
 歴史によって、和漢古今の洗礼をしらべますと、乱世であっても、創業の君には必ずそれぞれの人材に恵まれます上に、それを思い切って挙用することも出来ますので、次第に強勢になるのですが、衰頽の世では太平の弊習で門閥だけを重んじますので、人材も出にくく、たとえ出て来ても格式を破っての挙用が出来ませんから、萎痺して振るわないのは当然のことで、たとえば様々な罪責一身に負うている人間に似ていますから、自然滅亡する道理です。

 ひと度乱れたものを中興するということは、なかなか出来ないものです。後漢の始祖光武皇帝は劉氏の血統を受けているというだけで、数世民間にあって起り立ったのですから、本質は中興にあらずして創業です。唐の玄宗も一度天下を失って後は、自分の手では取返すことは出来ず、子の粛宗によって恢復しましたが、もはや祖宗の盛んな時代にはかえすことは出来ませんでした。その他、治世から乱世になりますと、その時代の君主が取り戻した先例はないのですから、今の世とて一度乱世になりますれば、もはや御挽回なさることはほぼ不可能でございますから、今世の中が治まっている間に気をおつけになって、天下の人心に応ずるように御政道をなされば、またまた太平をお保ちなさることも出来ましょう。しかし、それとてもやはり創業のおつもりで非常果断の御処置をなさらなければ、なかなかおぼつかないことと存じます」

「しからば、いかにすれば現在のところで挽回することが出来ましょうか」
「幕府のお心得としては、小成に安じなさってはならないことです。つまり、然るべき御処置を施されて静謐になりました場合、それで太平になったとお考えになってはならないのであります。そんなことでは、御回復の時はありません。危乱が迫っていることを心からおわかりになって、古い考えを捨てて、至誠によって真治をお求めになろうとのお心が起りますれば、それが即ち興復の基になります。現在の世が危乱であるとのお説をお聞きなされて、挽回の計をお求めになろうとなさるお心が、即ち安閑としていることの出来ない誠意でありますから、その誠意を推しひろめて、広く治術をおさがしになることが挽回の道であります。今の世は幕府の力だけをもって御回復なさることは出来ません。天下の力を以て御挽回なさるよりほかはないのであります」

「天下の人心を治めて一致させることは、どうしたら出来ましょうか」
「何よりも、将軍家御上洛が、なさるべきことの第一であります」
「御上洛はとてもお出来にはなられないとの由で、御老中から種々難儀故障を申し出ておられます」
「それは出来ねばせぬという立場からの御計算でありましょう。寛永年間に三代将軍様のなされたような華やかなご上洛や、中国の皇帝の封禅・巡狩のたぐいのようなことは、太平の余光でいたされるべきことでありますから、唯今のような時代に用うべきことではございません。現在のご上洛は、神祖(家康)が一年のうちに両度も御往来あった場合程度のお手軽簡易ななされ方でなくてはなりません。現在の諸大名には風呂桶までもたせて旅行するような栄輝の流弊がありますから、上様が簡易お手軽な旅をして一般に示されることは、お身をもってこのような栄輝をお正しになる一端にもなることです。このように十分にご軽便にあらせられることはもちろんのことですが、時節がら御警衛のためにお旗本の若殿原を二、三千も召連れられることは必要でありましょう。道中筋の道路のお手入れも、御老中の御旅行の際くらいの道普請でよいでしょう。以上申しましたようなお心持ちでお取調べになり、お取調べが出来れば、いつ何時でも御出立がお出来になると御決定になりますれば、天下の人心もはじめて信服して、幕府から仰せ出されたことにはウソはないと信ずるようになりましょう。
 また、そのご上洛の期限のことは、京都へお伺いなさらねばならないことですから、京都からのお指図次第ということになれば、一年ぐらい延びても少しもかまわぬことです。朝廷にたいする近年の御不都合のことのお詫び、御降嫁のおん礼言上、さらに御親睦のためのご上洛ということが、すぐにでもお出来になるということになれば、それで天下は落ちつきます。必ずしも今すぐにでなくてはならないということはありません。
 でありますのに、一番に支障の出ることのわかっている経済方面からお取調べになるようでは、出来ぬことにしたいというなされ方で、なさらなければならないという精神は二の次になっています。それでは、かねて仰せ出されている幕府の御精神も相立ち難く、天下の服せぬは当然であります」

「仰せられること、いかにも敬服いたしました。その次になすべきことは何でしょう」
「諸大名の窮乏を救い、その妻子をそれぞれの国許へ帰し、海軍を興し給うことです。そうすれば、日本は兵力が強くなります」
「諸大名の参観を弛めることについては、これまでも評議のあったことですが、くわしくは理由がわかりません。弛めたあとはどんな調子になるのでしょうか」
「参観をやめてしまいますれば、再び諸大名が参観することはむずかしくなりますから、述職(職務報告)の制度へおかえになって、諸大名は百日ほど在府して、日に登城して国政向きのことなどを談ずるようになさるなら、幕府の御方針も徹底するでありましょう。これについては、大名達の妻室等も国住いをお許しになり、また諸大名が御命令によってつとめています海岸地帯の警備の役などは解免なさるがよろしゅうございます」

 すべてこれらのことは、諸大名の出費路を塞いで、経済にゆとりをつけ、それによって諸大名の軍備を充実させるに目的がある。
「海軍はなかなか費用のかかるもので、幕府の力では償いがたいと存ずる」
「これは幕府の御独力では出来られるものではありません。諸大名と合体して興さるべきことです。今の世は、海軍がなくては、絶海の孤島の日本ですから、歩兵だけをもっては護ることは出来ません。ですから、海軍は必ず必要なものです。武士も船に乗りますれば心細くなりますから、改めて覚悟しなければならず、自然志をふるい起こすことになり、また外国に往来することによって見聞がひろまりまして、これほど兵を強化するに役立つものはありません」

 ここまでのところには、開国主義的なものは全然出て来ない。参勤交代の制度を廃し、諸大名の妻の江戸住いをやめることによって、諸大名の英の出費を塞ぎ、その経済にゆとりをつけて、それぞれに軍備を充実させ、幕府とともに海軍力を奮い立てるという点などは、攘夷主義かと思われるほどである。しかし、この先がちがう。
 岡部はさらに問う。
「交易の道はどうでしょう」
「これも諸大名と合同して外国へ渡海し交易なさるようになされば、公平にその道が開けるでしょう。幕府が独占しようとしては行われ難いわけです。すべて金・銀・銅・鉄などについても幕府の独占を廃し、座株を廃止し、自由に発掘することを許せば、諸大名もそれぞれ力を尽くして発掘して、海軍の設備などについても費用不足ということはなくなるでありましょう」
<幕府は開国しても、その開港場はすべて幕府領内にあって、諸侯の領地には一カ所もなかった。したがって貿易の利は幕府の独占という建前になっていた。これでは、諸大名が開国策を積極的に支持しないはずであった。攘夷論の暴風的盛行の原因には、多少なりこれがあったかもしれない。>

 岡部駿河守は、この朝の問答によって、よほど横井に感心して、この日登城するとすぐ御用部屋に出頭して、月番老中の水野和泉守(忠精)と板倉周防守(勝静)とに、問答の次第を披露したところ、両老中も感心して、一橋慶喜に告げた。すると、急転直下に、横井を直参に召し抱えたいということにまでなった。幕府の中枢部がいかに横井にほれこんだかがわかる。同時にこれは彼らが窮し切って、人物の出現をいかに待っていたかを語るものであろう。この間のいきさつは、この日付で、慶喜が春嶽に出した手紙でわかる。こうある。

 今朝、駿州(岡部長常)が横井平四郎に面会して、いろいろ話を聞きましたところ、その申すところなかなか立派で、深く感心したとのことで、御用部屋にてこれを披露しますと、和泉も、周防も、いずれも感心しました由。
 両人、拙者の前に来て、以上のことを申しましたが、その時、周防(板倉老中)が申しますには、右平四郎を公儀の直参に召出されて、御改革の御相談を遊ばせられれますなら、実に天下のおんため、この上もありませんと、強く申します。そこで、越中(大久保忠寛、この時お側御用取次の職にあった)と駿河(岡部)へこのことを申しましたところ、両人ともに大喜びの様子でありました。
 越中の喜びは特に大きく、お召出しになるお役名はどうすべきや、また禄高などはどの程度にすべきやなどと申します。そこで評議におよびましたところ、名目は奧詰に仰せつけられ、上様の御前へも罷り出ることが出来、もちろん、御用部屋へは時々まかり出ることができるようにきめました。言うまでもなく、先規先例に拘束されないという精神で、大体のところを決定したわけですが、貴殿のご意見はどうでしょうか。お尋ねいたします。

 以後、横井は直接板倉老中にも会い、いずれもその見識の高さと策の確実さとによって感心され、ますます直参に召出したいとの思いを募らさせたが、これについては横井は謝絶しつづけた。人情の機微に通じ切っている横井には、そうなってはかえって自らの志の行われないことを知っていたのである。我々は長井雅楽、長野主膳の没落を見て来たが、長井の没落の原因には松下村塾の旧門下生等との思想的対立におとりなく、彼が功績を賞されて中老の資格をあたえられ、また先祖の代に減らされた知行百五十石を回復したことがあった。また長野の没落はお手盛りで百石増俸したことが原因の一つになっている。こういう点では武士は女より嫉妬深く、感情的である。最も賢明でもあれば、心術も清らかな横井には、それがよくわかっていたのである。

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  かなわぬ、ことばかり。。。
 
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西郷隆盛 第三巻 / 海音寺潮五郎

2016-02-27 15:18:32 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第三巻海音寺 潮五郎朝日新聞社このアイテムの詳細を見る

  この西郷隆盛史伝の第三巻は、<沖永良部へ遠島となった西郷の「敬天愛人」の生活。中央に乗り出した久光の長州への反感。そして薩長の軋轢-ー。寺田屋騒動から生麦事件まで>となる。このころ、西郷は久光から遠ざけられほとんど遠島にいる。それにしても、西郷隆盛というひとは、時局や政局を見る眼、人物眼、腹の据わりかた、周囲の人への配慮、行動力、なにもかも、たいした人物であった。

 海音寺さんは、西郷が鹿児島に帰着した頃の鹿児島の空気、彼の行動、久光の怒り、京坂の空気、徳之島に流島、これらの事情をよく伝えていると西郷の手紙を口語訳をして載せてくれた。激動の時代の歴史が生まれる現場を、ど真ん中にいるご本人が物語る。後世での向正面解説は元薩摩隼人・海音寺潮五郎さん。お手紙は長く読むのも大変だが、つらかったであろう西郷にくらべればなんということもなかろう。原文で読むのは、いまどきの人はもっとたいへんだ。近代デジタルライブラリー/西郷書簡集「徳之嶋の謫居より木場傳内に送りたる書面 こういうのが残ったのも、かの人物あってのことだろう。「。。。御一覧後、丙丁童子に御與へ可被下候。。。」

>>>(本文は、「西郷隆盛 第三巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社 昭和51年5月25日」からの引用 )

前巻までの拾遺
平野・伊牟田・清河が寺田屋に居合わさなかった理由
久光の時局への第一声
クーデターへの動き
嵐の前
寺田屋の惨劇
暗いあと始末
遠島の西郷
久光上首尾
毛利慶親の建言
長州の藩論立直しの動き
越前春嶽の幕政参加
勅使差遣
久光また長州に悪感情を持つ
久光と春嶽
鴻門の会
大原勅使老中をおどかす
春嶽政事総裁となる
大原勅使の幕府いびりと久光の底意
堀と薩藩の厄難・大久保の健闘
長州藩の大転換と薩長の反目
長州の再出発
薩長の関係深刻化す
生麦事変 

>>>

(遠島の西郷) より
。。。

 寺田屋騒動のこと、その後の始末のつけ方について、西郷の憤りは深刻なものであった。
とんとこれまでの芝居であった。もう薩摩藩には同情者も共鳴者もなくなるであろうから、勤王の二字を唱えることは出来ない
とまで言っている。
 まもなく、西郷は徳之島に、村田は鬼界島に行くのだが、その徳之島から、西郷は、大島でいろいろ世話になった大島見聞役の木場伝内に、長文の手紙を書いている。西郷が鹿児島に帰着した頃の鹿児島の空気、彼の行動、久光の怒りに触れたこと、京坂の空気、徳之島に流されたこと、全部書かれていて、最も要領よくこの間の事情を伝えているから、ずいぶん長いものだが、口語訳して掲げたい。

 

 当月(六月ナラン)十一日付の御懇書、同二十三日朝到着、有難く拝読いたししました。実になつかしく、くりかえし巻きかえし、よませていただきました。小生は、こうなりました経過については、決して他言しないつもりでいましたが、どんな疑惑があられるかわからずして、御安心なさりがたいであろうと存じますので、誓いを破って、委細申し上げます。御一読後は火中に投じていただきとうございます。
 鹿児島城下は、大島で想像していたとは大へんな相違で、すべて分裂割拠の形となっていまして、とんと手の施しようもない状態でありましたので、暫くの間は観察を続けていました。目下のお国(藩)の形勢は、経験未熟の年若な者が国の権柄を執って弄んでいる形で、事々物々、突飛なことばかり現出して、藩政府はもちろん、諸役人も疑い迷って、為すところを知らない有様になってしまいました。かようなことはここで引結び、ここでこうなるはずなどというようなことには全く盲滅法です。ですから、たとえ志すところはよくても、実際の処置においては粗略をきわめ、俗人にさえ笑われるようなことが多いのです。当人は君子のつもりでいるのでしょうが、為す所には至って卑しい手ばかりが見えて、とうてい君子の所行とは申されません。
<藩主忠義の江戸参観を延期するのに窮して、江戸藩邸を焼いたことなどを指して言っていると思われる>
 誠忠派と自称している人々は、これまでは時勢至らずして鬱屈していましたが、はじめて時機に際会して伸び立つことになりましたので、、ひたすらのぼせ気味になり、一口に申せば、時勢に酔って逆上したような塩梅で、口に勤王とさえ申せば、もはや忠良の士になったつもりでいます。しからば、勤王派、現在ではどこのところに手をつければ真に勤王を為すかとなると、その道筋を問いつめますと、とんと五里霧中、訳もわからない風です。ですから、諸国の大体さえ、かようであるとわかってはいません。まして、日本の大体も、幕府の形勢も、諸藩の事情も、一向にわかる道理はないのです。こんな風でありながら、天下のことを尽くそうとは、実にいわゆる盲蛇におじざるもので、嘆息の外にない有様でありました。
 このような形勢であります上に、小生が順聖公(斉彬)に召し使われていたことは、人々によく知られていますので、この者が帰って来たら、必ずこの形勢を変えてくれるであろうと、人々にあてにされた形になっていまして、もう思い切ったことは出来なくなってしまいました。島から召還されたことは確かに幸運でしたが、このような時期に、このように買いかぶられていたとは、その幸中の不幸であったといえましょう。あまり値を高くつけられては、当人としては困らざると得ませんからね。
 和泉(久光)様には、江戸参府について御大策をなされるという計画がありまして、これは三、四人の者が参画して、極秘裡に練っておられたとのことであります。小生が御城下に帰着しましてすぐに、小生に小松家へ参るようにとの命があり、その日大久保(一蔵)が迎えにまいりまして、同道して参りましたところ、中山尚之介が参会しまして、都合四人の席で、その御大策なるものの大容を聞きました。
 和泉様は、今度は京都まで参られ、一橋慶喜様を将軍御後見に、越前春嶽様を幕府の政事御相談役にせよとの幕府への勅諚を申し下し、それをお国の武力をもって幕府に迫って遵奉させるのであるとの旨でありましたが、くわしく小生が質問しましたところ、とんと返答さえ出来ない有様で、随分御奮発のはずの御大策も、これではとりどころのない塩梅でした。小生が質問しましたのは、勅諚を申し下すには手蔓というものが必要であり、それがなくてはとても出来ることではない。またこんなことは、閣老とも前もって話を打合せておき、そうすれば、受合ってこうしてくれるという下工作が出来ていなければならないものであるという主旨のことだったのですが、それらのことは全く手がついていないという返事でした。
 しからば、幕府がうまい返事だけして、実際には一向に勅を奉じない場合には、どのように対処されるおつもりかと聞きましたところ、そんな場合にはいつまでも京都へ御滞在の御こころであられるという返事です。そこで、小生は申しました。そうは仰せられても、実際問題としては、一年も二年も御滞在の出来るものではない、もし幕府が口先だけのお受けをして、実行しない場合には違勅の罪を鳴らして責めつけねば名分が立たないことになる。また、京都御保護のためということであれば、単に錦の御屋敷にいらっしゃるだけでは詮のないことで、所司代を追いのけ、井伊家の固めを排除しなければなりませんが、違勅の罪はどうお糾しになるおつもりか。所司代のことは、井伊家の固めは、と一々尋ねましたが、一言も返答できないのです。
 小生は追いかけて、そのようにして時日を移すうちに、幕府が外国人と結んで、大坂口へ軍艦をさしむけて、お国許との連絡を断ち切る場合のお手筈はどうなっているかと、難論を打ち出しましたところ、これも返答は出来ません。こんな人々がかほどの御大策を実行とは、自信過剰です。
 ついに、「だからおはんの帰国を待っていたのだ。引き受けてくれるように」と申しました。小生は、それは私にはとても出来ない。まだ御内評中という段階であれば、いかようにも尽くしようもあるが、こうまでしくさらしてから、せよと申されても、出来申さずと返答し、
「これまでいろいろと伺ったが、案外の次第である。貴公方を相手には議論も出来ぬ。甚だ疎漏な御策と存ずるゆえ、和泉様がどうお考え定めであられるか、拝謁してお伺いいたしたい」と申しましたところ、自然拝謁を仰せつけられる御予定であるから、両三日中にはその運びになるであろうとのことでありました。しかるところ、四月十五日(二月十五日の誤記)旧職(徒目付・島預・庭方)に復せられ、すぐさま和泉様の御前に召し出されましたので、右の論難を一々申しかけ、「私の考えていることとは大いに違っています。今度の御策は先君順聖公様の御計画なされた跡をお踏みになろうとしているのですが、当時と今日とでは時態も変わっていますから、順聖公様とは一様にはなされがたいことです。和泉様はお国では国父でいらせられますが、江戸では城内にお席もあられぬのですから、御登城すらむずかしいのです。また諸侯方との御交際もおありでないのですから、順聖公様とはなさる方法を大いに変えられなければ、成功の予想はつきません。何にしても、大藩の諸侯方と御同論あって、合従連衡(同盟)して、その力をもってならなければなりません。こんなことは、和泉様のお願い出によって、京都御守護のお役目が下り、幕政改革の勅諚を下されるということになりましたなら、勅諚降下と同時に諸侯方が一斉に登城なさり、即座に処理が行われるという工合に行かなければ、とうてい達成できるものではありません。また京都に御滞在になっては、必ず異変を生じましょう」と、くわしく、理を尽くして申し上げました。

 しかるに、和泉様は、その方の申すことはもっともであるが、今となっては致し方はない、この度のことはもはや届け済みのことであるから、延引も出来ない、非常な覚悟をもって為そう、と仰せられます。小生は、「非常のことを為すには非常の準備が必要であります。平常の備えでは出来ません。もし合従連衡の策が出来ていないなら、固く自らを守って、他日の変をお待ちになることが、適当な御処理でありましょう。ぜひ御病気という申し立てをなさって、参府を御中止になり、つまりにつまったなら、三州に御割拠という御覚悟であられとうございます」と、愚考をのこらず申し上げました。このために、二月二十五日御発駕の御予定が延期になって、三月十六日の御出発となりました。
 しかるところ、即今の情勢を前提として策を立てるようにとの御命令でありましたので、二策を立て、書面を以て献上いたしました。
<ここに西郷と久光との間に、最初の意志の錯誤がある。久光は参府は確定したこととして策を立ててみよと命じたはずだが、西郷はこれを即今の情勢を前提として策を立てよと命ぜられた解釈をしている。命令のことばが多すぎて、かえって誤解させるものがあったのかも知れない。>
 第一策 参府御延引。幕府にたいしては、参府にとりかかったところ、非常の世態で、領内の人心が動揺し、号令も効かず、人々が勝手に踏み出す勢いになって、騒ぎ立てていますので、当年のところは延引して、家老をもって名代として差し上らせると達せられるがよいでしょう。
 第二策 どうしても延引がお出来になれないなら、天佑丸で関東へ真直ぐお乗り込みあるべし。京都へお立ち寄り遊ばせば、必ず異変が起こります。難易軽重は論を待つまでもなく、分明の筈です。

 しかし、この両策はいずれも御採用にはなりませんでした。となれば小生としてはもういたしようはありませんので、一日出勤しただけで、足も痛みますので、すぐさま引込み湯治にまいりました。もうどのようなことがあっても、足を挙げない所存、隠退するつもりでありましたが、諸国から有志の者がお国許へまいります。小生は湯治から鹿児島に帰って右の次第を聞いて驚きました。一夕大久保(一蔵)がまいりまして、実に心配していまして、いよいよ変を生ずる恐れ濃厚であるとの趣を申しますので、やむを得ず出足した次第であります。
 この以前、藩内の人心が和合していませんので、このように不一致では、平和的手段も、思い切った手も打てることではありませんから、ぜひとも一致させたいものと、小生は思っていました。現在の御家中の不一致は小人の争いではなく、君子の争いではありますが、不一致というものは決してよい状態とは申せませんからね。先年、久留米藩でも、君子の争いから混乱に及んだ例もありますので、小生はこれを一致させて、全藩が勤王になるようにしきりに切論に及んだのです。しかし今にして思いますと、これが小生に一番の凶運をもたらしたようです。

 <当時の薩摩藩内の党派としては勤王党として誠忠派があり、これが左派と右派にわかれ、左派は有馬新七等を中心として藩外の勤王志士等と連携しており、右派は大久保を中心としてまとまって、久光と久光をめぐる若手官僚派と共同歩調をとっていた。このほかに旧官僚として下総派(日置派ともいう)と豊後派があった。島津下総派は故斉彬の時代の首席家老であった島津下総を中心としたその頃の家老座のひとびとであった。斉彬の時代に重く用いられ、藩政の局にあたっていたので、久光は斉彬の遺志を継ぐ心をおこすと、この人々を起用して藩政府を組織させた。この人々は斉彬には心から協力したのだが、久光の人物才幹にはたいしてそれほどの信頼の念を持ってない。だから、久光が斉彬が果たせずにおわった大策を実行するために中央乗り出しの意志を明らかにすると、反対した。久光は怒って、この派を罷免した。西郷は斉彬の在世中に下総と親しかったので、この派には最も好意を持っていた。下総の弟の桂右衛門は、数年後には家老の一人になる人であるが、西郷との親交がこの頃からさらに深まったようで、ずっとそれはつづき、後年西南戦争には西郷軍の一人として参加し、城山で戦死しているほどである。豊後派というのは、斉彬の父斉興の時代の首席家老島津豊後を中心にする派で、斉彬時代には家臣重臣の位にはおかれてはいたが、重要な政務にはタッチさせられなかった。斉彬の急死が、斉興の密命によってこの人々の手でなされたのではないかとぼくの疑っていることはすでに書いた。斉彬の死によって、忠義が家督をつぎ、斉興が藩政後見となると、また起用されて全面的に藩政の局に当たり、斉興の死によって久光が藩政後見になっての初期まで、それはつづいた。純然たる保守派である。したがって佐幕派である。しかし、数の上から言えば、この派と同じ考えの藩士が最も多かったと思われる。藩士らは四代前の藩主重豪の進歩主義による藩財政の窮乏のために、何十年も死ぬばかりに苦しまねばならなかった。金のかかる進歩的方策をとる藩政にはこりごりしている。この時代では、佐幕主義こそ保守であり、勤王愛国主義こそ進歩であった。斉彬があれほどの賢明と識見と手腕とを持っていながら、藩士中の支持者がごく限られていて、大方はその為すところを白眼視して、ついには非命にして死ななければならなかった、もっとも根本的原因はここにある。維新革命が成功して、天皇にたいする忠誠が日本人の最も普遍的なモラルになった明治・大正・昭和二十年までの心で、その以前を見ては、歴史の真相を逸するであろう。ともあれ、当時の薩摩藩内の派閥はこのように複雑であった。西郷が、これらの派閥の争いを、「君子の争いで、小人の争いでないが」と言っているのは、豊後一派の動きが比較的小さく、他のそれぞれに勤王の心をもっている三派の争いがはげしかったからのことであろう。>

 小生は、島津豊後一党の妄動も、この際そんなことはしてはならないと、二度までおさえました。この派の動きだけでは君子の仕業とは言えません。このような小人の党は利をもって集まるものですから、その党中の頭立った者一両人に支障のない位置を出してしまえば、一党疑迷して、ことごとく崩れ立つでありましょうが、とんと出口のない小路に追いこみますと、何をしでかすかわかりません。たかが小人、何ごとを為し得ようと軽視することは禁物です。小人には小智慧、姦智というものがありますから、油断は出来ないのですと、くわしく誠忠派の人々に話して説得しましたが、大体土台が頼りにならないので、益々細分化するだけで、もはやいかなる明智の人が出て来ても、今のままででは今日の処さえ難しい有様になってしまいました。来年御帰麑の節、御自分の目でごらん下さい。

 小生は村田新八と同道、下関までという予定で出発しました。小生が他国へ出ることは、大目付などが異議しましたが、下関までなら、差支えあるまい、そこでお待ちしていれば、和泉様がお出でになりから、さらに和泉様のお伴で上方へ参るようにとの御内達があった次第です。しかるに、筑前の飯塚まで参りますと、森山新蔵が下関から差たてた飛脚に会いました。新蔵からの文面は、急ぎ下関へ来るようにというのです。そこで、急ぎに急いで、三月二十二日の朝、下関の白石正一郎方へ着きましたところ、豊後の岡藩士が二十人(小河弥右衛門一敏などである)も来ていまして、ちょっと面会いたしました。この人々はすぐ大坂へ出帆しました。新蔵も船の用意をしていて、すでに出帆するところでしたので、小生は一封の手紙をあとにのこして、その夕方、新蔵とともにその船で出発し、二十六日に大坂に到着いたしました。
 大坂では、用心のために宿屋へは投宿せず、新蔵の知合いである加藤十兵衛方へ潜匿していました。大坂では諸方の浪人等はすべて、堀次郎がはからいをもって大坂御藩邸へひそめてありました。

 話が前後しましたが、下関で筑前浪人平野次郎と申す者に会いました。平野は以前月照和尚の供とをしてお国許へ参り、和尚の臨終の際にも小生と共にいた人で、その後方々へ徘徊して、勤王のために周旋奔走、艱難辛苦した人です。この平野が至極の決心をしていますので、小生は「小生も貴君と死を共にすべき身となった。いずれ決策が立ちましたなら、共に戦死をいたしましょう」と申しました。申すまでもなく、この人々は死地の兵というべき人々で、本国を捨て、父母妻子に別れ、和泉様に御大志があられることを慕い申し出て来たのです。かように申しましては、自負のようですが、すべて小生をあてにして来ている人達ですから、小生自らが死地に入らなければ、死地の兵を救うことは出来ないと、小生は信じたのです。ともあれ、諸方から集まって来た有志らは、大坂においても、すべて小生が引きしめていたのです。

 しかるところ、有村俊斎(海江田武次)は、和泉様のお供をしてお城下を出発しまして、阿久根までまいりましたところで、仰せを受けて極々急に京都へまいり、その探索の結果をたずさえて、お上り中の和泉様の許へ引返す途中、淀川下りの船で、はからずも平野と同船することになりました。平野は、下関において小生に聞いた小生の決心を語りました。俊斎は和泉様に拝謁しますと、このことを申し上げました。和泉様はしごく御立腹で、小生はかようなことになったというわけです。
 しかしながら、和泉様は小生を下関から国許へ帰してしまうおつもりであった由ですから、おとなしく下関で待っていましても、帰国させられたでありましょう。和泉様が小生にたいして面白からぬ感情をお持ちであるのは、小生が鹿児島で当局派と日置派(下総派)との一致融合をはかっていたのが、当局派の中山尚之介などには、小生が日置殿(島津下総)と手を結んで、和泉様の不為めをはかっていると思われたからであるとのことです。小生は出発の前夜、桂右衛門(久武・島津下総の実弟)殿の宅へ参りましたが、これも大不都合と思われて、最初から下関から追いかえされる予定であったのが、又々俊斎の口上で大咎となったという次第です。

<西郷が鹿児島出発の前夜、桂右衛門の宅を訪問したのは、当時、桂は奄美大島を中心とする南島地方の海防総督的役目に任ぜられて大島に赴任することになっていたので、島にのこる妻子のことを頼むためで、他意はなかったのだが、下総派が久光の中央乗出しに反対し、西郷また完膚なきまでに中山等の策を反駁したので、大いに含んで、両者の間に久光排斥の陰謀などがめぐらされているのではないかと疑ったのである。>

 小生にたいするお咎めは四カ条から成っています。
 一、浪人共と組み合って決策を立てたこと。
 二、年若の者共を煽動したこと
 三、和泉様の御滞京をはかったこと。
 四、下関から大坂へ飛び出したこと。
 以上ですが、四条目いずれも一向に納得できません。大坂では、私は前述の通り、加藤十兵衛の家へ潜匿し、伏見ではお仮屋(藩邸)に潜居して、京都にも出かけなかったのです。大坂で面会した人がいないではありませんが、これはごくわずかな人々で、この条目にあるようなことを計画してした人へは逢っていません。第三条にいう和泉様御滞京をはかったというのでは、堀次郎から、「いずれこの節は京都に御滞京あって御尽力遊ばされずば、相済まず、関東へお下りになっては何にもならない」との話は聞きましたが、小生自身がこのようなことを計画した覚えは全然ありません。年若な者共を煽動したというのですが、小生は煽動どころか、先生方(堀等藩邸の当路者)から、若者共にかようかように言い聞かせてくれ、かようにしてはならんからせんように申し聞かせてくれなどと頼まれては、始終叱りつけていたのです。先生方は二才衆にものさえ十分に言い得ず、ただ身の安全のみを考えて、詐謀をもってごまかそうとしていたのです。藩の若者にたいしてだけでなく、浪人等もずっと私がおさえつけていたのです。私がいる間、彼等が動かなかったのはそのためです。

 右について、久しぶりに堀に伏見のお仮屋で会いましたが、堀が昔とこと変ってただ智術のみを弄して仕事をしているので、私は手きびしく面責しました。人は自分の身が恐ろしくなると、智術を用いないではいられなくなるものだ、すべて智術はやめて、大事にたいしてはただ誠心を尽してあたるべきである、誠心をもってあたるならば、たとえ仕損じても感憤して起つ人が出て来る、智術を弄しての仕事は決してそうは行かぬぞと訓戒しました。
<西郷は生涯智術をきらっている。西郷のいわゆる智術とは、もちろん策謀を意味するのではあるが、表面を糊塗するゴマカシという気味のうんとまじった策謀で、それを特に智術ということばで表現したようである。>
 堀は長州の長井雅楽と申す大奸物と腹を合わせて手を組み合っていますので、小生はそれを叱責しまして、もしこの上も長井と同論するにおいては、長井は長州の有志者に刺し殺すように申しておいたゆえ、こちらでも汝を亭主ぶりにせねばならぬと申し、その筋に居合わせた二才衆へ向って、その時はおはん方やりなされよよ申しました。堀はふるえておりましたがが、今となって考えますれば、これも今度の禍の大原因になったのでしょう。
 わたしが長州藩の有志者(久坂玄瑞)に長井を討てと言いましたのは、実に手荒いことのようですが、長井は天下の姦物なのです。彼が京へ上って来ましたのは、幕府から頼まれて、朝廷にたいして幕府をとりなすためであります。これまでの幕府の朝廷にたいする態度はよくありませんでしたが、前非を悔いていますから、これからは改めますという趣意をもって朝廷をだましつける策であります。彼は書面をもって朝廷に申し上げていますが、その書中には第一に異人との交易を勅許あるようにと、ひたすらに書き立てています。黄金をふんだんにつかって、九条殿下をだまし、開港が勅許になれば、井伊によって罰せられた堂上方の御冤罪をすぐさま解き申し、同じように罰せられていなさる諸侯方にたいしても同様にしますなどと、まことにつまらないことを書き立て、薩藩もこれに同意であると書いて、本来なら、この書面は薩摩候と長州候とが連名で差出さるべきでありますが、急なことで、そのひまがありません。しかし、このことばがいつわりでない証拠には、薩摩藩の堀次郎をお召しになってお聞き下さいと書き立て、すでに堀を召してお聞取りにもなっているのです。堂上方の有志の方々の御論は正しいもので、和宮様御下向のことにつきましても、幕府はお願い通りに御縁が調いましたなら、早速異人共に処置を申しつけますと申し上げ、朝廷ではそれを条件に御降嫁を御許容になったのでありますのに、その舌の根も乾かないうちに、開港の一条をお願い申し上げるとは、甚だもって不届きなる次第であると、長井は見なされているとのことです。それゆえ、やむを得ず、これを討つことを、わたしは長州の有志へ申し含めたのです。もっとも、長州においても、長井の党と有志の党は対立しています。
 一、長州へは朝廷の御態度が、各藩とは格別に変っている訳合があり、唯今はひたすらにお頼みに思い召していまして、主上の御直筆をもってお書取が下賜されています。このお書取りをもって、上記の者達も皇朝のおんために尽くすのです。
 このお書取りには、幕府は誠忠を表現するために、堂上方をはじめ有志の諸侯方にして、皇国のために尽くされたことによって処罰されている人々を全部もとに復し、この処罰をとりあつかった役人共には誅罰を加えるようにとの条項があり、またこれを幕府に命じ、その勅令に応じ申さぬなら、有志の諸侯を京都へ召されて、幕府の違勅の罪を正し給わんとのお考えがあるが、果してそれは可能であるや否や、申出ずべしとの趣もあって、すべて十五条項ありますところ、長井は全部打ち砕くべき企画で働き、そのために大変黄金をつかったとのことです。以上のことは、長州藩の大坂留守居役宍戸九郎兵衛と申す者から聞きました。宍戸はこのお書取を直々拝見したということです。
 長井はまたわが藩の運動をも邪魔をすること必定であります。ひっきょう、彼は幕府の急所をほどよくいたしなして、自らの功業を立て、天下の権をとろうとするの謀(幕府の直参となって天下の政治にタッチしようとの野心くらいの意味だろう)と察せざるを得ません。幕府においては、この度の和泉様の勅使同伴、江戸御下向の一条を、よほど重要視している由ですから、幕府のためにこれを邪魔することは必定であろうと、小生は見るわけです。 

 ところで、堀は浪人共のことは、堀自身が受合いますと、和泉様に申し上げ、和泉様はそれで御安心なさったというのですが、その浪人共がいたればこそ、伏見寺田屋の混雑もおこったのです。このことについて、堀は和泉様にどんな風に申訳したでしょうか。奸人の舌は実におそるべきものです。この騒ぎの罪も、彼はきっと小生へ打ちかぶせるだろうと推察しています。

 小生は四月十日に帰国するようにと命ぜられ、早速船に乗せられました。至極の秘密のうちに事は運ばれたのです。人に知られれば人気が混雑するであろうとの見込みからの由です。しかしながら、つまるところは、私をそのままにしておいては厄介である故、こちらに落としたのだと思います。私の落とされた時、堀は大坂では、もしや討たれるんではないかとの腹心から、宿許へ泊まることが出来ず、お屋敷内のお納戸へ潜臥していたそうです。笑うべきことですね。大坂の見聞役の人々が、私を落としたのは合点まいらぬと、お側衆へ突ッかけ、大いに論判した由であります。またお国許においては、お伴の役がかりの中から議論が大いにおこって、大監察、小監察の人々などは一切承引せず、きびしく申し立て、ぜひ私とあって話したいと申し立てた由ですが、喜入(家老、喜入摂津)が受入れず、伏見からのお指図のまま、この徳之島へ流されました。その命令書は面白いものでした。ただ徳之島へ遣わさるとだけ、ごく簡単に書いてあるだけで、いかなる罪状によるかはわからないのです。
 こんどはお扶持などはくださらない風です。島許において慎んでいるよう島代官から申し達するであろうとの趣きですから、仮屋本から五里へだたっている岡前と申す地へ潜居しています。とんと世事を忘れてしまい、何の苦もありません。お扶持を下さらないのは、最も有難い次第です。
 右はこのほどの経過のあらましです。とうていくわしくは書きつくせません。自己弁護的で、自分のことはみなよきようにつくろっているらしく見えましょうが、そこは御推読下さい。御存じの通りの性質で、暴言を吐いたことは多々あります故、その罪はのがれられないと思い、罪を甘んじて安然としている次第ですから、御安堵下さい。
。。。。。
 私も大島にいました頃には、今日は今日はと召喚を待っていましたので、癇癪もおこり、一日が苦になっていましたが、この度はもう徳之島から二度と出るまいと決心していますので、何の苦もなく、安心なものです。もしも、天下の乱ということになれば、その節はまかり上ることもありましょうが、変ったことがないなら、たとえ御赦免を蒙りましても、滞島お願いをするつもりでいます。兄弟同様の人々さえ、ことの真意をたしかめず、すぐ罪に落としますし、また朋友も悉く寺田屋で殺されたのです。何を頼みにいたすべきや。老祖母が一人いまして、それだけが気にかかっていました。大島から帰った節までは存命していまして、赦免を喜んでくれましたが、わたしが上京しましてから死去しましたので、今はもう心置くことは何もありません。とても我々式の力で輔うことの出来る地上ではありませんから、もう馬鹿らしい忠義立てはやめることにします。お見かぎり下さい。

 この手紙は日付と名宛が欠けているが、日付はいろいろなことから判断して六月末日、宛名は木場伝内であることがほとんど確実である。伝内はこの当時はもちろんまだ大島見聞役として大島に在任していたが、この翌年鹿児島に召還され、ついで大坂藩邸の留守居となって、この翌々年西郷が召還されて、京都に上り、薩摩藩を代表する地位について縦横の手腕をするようになると、大いに西郷に助力することになるのである。
「もう馬鹿らしい忠義立てはやめることにします。」というところ、まことに悲痛である。憤りの深さが思われるのである。

。。。 
 六月になって間もなく、西郷を乗せた船は山川港を出て徳之島に向かい、村田をのせた船は鬼界島に向かった。山川を出るまで、西郷にはまだ罪状の申し渡しがなかったから、船の中でも罪人あつかいではなかった。西郷は不思議に思いながらも、覚悟をゆるめはしなかった。
 さて、村田に別れる時、西郷は
決していのちを粗末にしてはなりもはんぞ。天命ははかりがとうござすが、天は我々をまだ必要とするかも知れんのでごわすから、我々としてはできるだけからだを大事にしていなければなりもはん。今の際、これが我々の人事を尽して天命を待つでござす
と、教えた。これは西郷が月照と死んで死ねずして、恥辱の中からつかみとった敬天の哲学であることは、冒頭の拾遺編で書いた。
。。。。

 久光は、京都で報告を受けると「喜入は余の意志がまるでわかっていない。罪状書もつけず、単に徳之島にさし下すとは何ごとだ!」と激怒して、沖永良部へ流せ、単なる流罪ではない、島でも船中でも、囲い入りだと、前例のない厳重な処分を指示してやったのであった。一体、薩摩藩の武士にたいする処罰としては、沖永良部流謫は切腹につぐものである(薩摩藩では節の死刑は、最も古い時代は別として、寛永頃から以後は切腹以外はなかった。)沖永良部に流したというだけで十分であると思われるのに、ここでさらに厳重に囲いに入れておけというのだから、久光の西郷にたいする憎悪がいかに深刻であったかがわかるのである。ひょっとすると、久光は西郷が自分を斉彬の死に関係して疑っていると思ったのかも知れない。この深刻な憎悪はただごとではない。とうてい、普通の理由は考えられないのである。

。。。
(獄中感あり 南洲)
 朝に恩遇を蒙り
 夕べに焚坑せらる
 人生の浮沈、晦明に似たり
 縦ひ光を回らさずと
 葵は日に向かふ
 若し運を開くなくとも
 意は誠を推さん
 洛陽の知己みな鬼となり
 南島の俘囚ひとり生を竊む
 生死、何ぞ疑はん
 天の附与なるを
 願はくば魂魄を留めて
 皇城を護らん
 この詩には、天にたいするひたすらな信仰がある。生死ともに天の附与であるから、もし開運の時機がなくて死ぬようなことがあるかも知れないが、それでも自分は心から天を信ずることをやめないであろう、運つたなくして死んだら、魂魄をとどめて皇城を護ろうといっているのであるが、詩全体に脈打っているものは、天がもし自分を必要とするなら、必ず再び世に立って働く時を与えてくれるであろうという信念である。
 西郷はすでに月照との投身自殺の失敗にたいする悩みによって、天の信仰に達したのであるが、こんどのこの孤島の刻薄な牢舎の生活によって、その天の信仰には益々みがきが加わった。かれの敬天の哲学はこうして出来たのである。

 

>>
...西郷の役人論のもとづくところは、その敬天愛人の哲学であり、天にたいする信仰である。彼は天を万有の根元とし、天の機能を仁愛であるとしている。これは儒教の哲学であるが、それが何の抵抗もなく彼に受容されたのは、彼が天性最も愛情深い人柄であったからであろう。
 敬天(天にたいする信仰)と愛人(民にたいする無私の愛)とが、彼においては一体化し、楯の両面になって、ほぼ陽明学の「格良知」にも「知行合一」にもなったことは、前の巻ですでに説明したが、彼はこの自らの哲学によって天皇の本質を説き、諸侯の本質を説き、役人の本質を説いている。彼においては、役人は天の手先である。同様に、諸侯も、天皇も、天の手先ということになるわけであろう。このことは書いているわけではないが、論理の必然でそうなる。ある意味では恐ろしい思想である。これほど思い切った思想を抱いていた維新志士は恐らく他にはいないであろう。

 それはさておき、彼は、であるが故に、役人たるものは、天の本質である仁愛を体して、その具現をすべきであるというのである。諸侯もまたしかり、天皇もまたしかりである。だから、役人の場合は、もし上役―たとえば代官が、民に対する仁愛という点において納得のできないことを要求するようなことがあったら、納得の行くまで問い返し、諫言せよというのである。諫言しても聞かれなかったらどうすべきかは書いていない。職を退くべきであるというのであろうか。それとも、場合によっては造反も可なりというのであろうか。

 代官程度のものにたいしては造反などというものものしいことは必要ないであろうが、将軍なり、天皇なりであったらどうであろう。将軍の場合、彼は倒幕の挙をおこしている。天皇の場合も西南戦争をおこしている。西南戦争は天皇にたいする造反ではなく、政府にたいする反省の要求がつい戦争になったのであるが、反逆とみなされることを彼は避けなかったのである。その思想は清潔であり、きびしいものであり、見事であるが、一面、世俗的には最も危険なものを含んでいたといえるであろう。

 前掲の「与人役大体」において「凶年の防ぎをしたり」とごく簡単に西郷は書いているが、やがてこれを拡大充実して「社倉趣旨書」を草して、土持政照にあたえている。後半が腐食して前半しか伝わっていないが、趣旨の大体はうかがい知ることが出来る。

社倉趣旨書
 凶年の備えは豊年の時にするものですが、そのしようは村々で現在いる男一人ひとりに段々と割りつけては、親疎もあることとて、苦情のおこる恐れもありましょう。ですから、先ず租米を納めた後の米をどれだけ作り得たかを調べた上で、その家の人数や雑穀の余量まで考えた後、それに応じて出すべき量の米を割りつければ、人気もよろしく、自然に社倉の趣旨に基づく仁恕の大本も立つでありましょう。かくして、たとえば一カ村で五石の米高になったら、それを二割の利付けで貸し付ければ、一年で一石の利米が出来ます。右を本に立てて年々に繰れば、三ヵ年では元利八石六斗四升になり、五ヵ年では十三石余の米高になります。

その節、最初に出米したぶんはめいめいへ返弁して、利米だけをもって右の方法で仕繰れば、人々の不時の災難を救ったり、廃疾のものをあわれんだり、いろいろ救助の道がつくのではありますまいか。もしまた荒年に遭った場合は、窮民はそれこそ天の賜物を有難がることでしょう。そうなれば、積年の辛苦に引きかえて、どれほどうれしいことでしょう。どんなに陰徳になることかわからないことです。

役人が百姓の上にたってお役を勤めていますのは、何のためでしょう。
第一は百姓の融通をしてやるためではないでしょうか。凶年に臨んで、百姓が餟亡に及ぶのを見ながら、ただ安閑として、年柄のこと故いたし方はないと、年柄のせいにしているようなことでは、必定天よりの罪はその役人らに帰するに相違ないでしょう。
畢竟、古人も厚くこれを論じています。いずれにしても、あらかじめの備えが肝要なことです。全体、百姓は力を労して御奉公し、役人は心を労して御奉公するのは、天然の役割ですから、心の及ぶ限りは尽くすべきことです。
もしまた五ヵ年に満たずして凶年に遭ったなら、現在至極窮している者には一分増しに重ねて渡し、極難に迫られていない者には頭出米の外に五厘増しに配分し、翌年は余計に配分した分だけは返米させれば、行く行く非常用の囲米が備えられて(以下腐食)

 西郷の民政家ないし行政家としての手腕を伺うに足る文章である。彼にこんなこまかな計算が出来たとは意外の感があるが、若い頃、彼は郡奉行所に働いていただけあって、そろばんは得意だったという。後に藩の代表者として討幕運動を指導するようになると、いつもそろばんを身辺から離さなかったと伝えられている。彼は決して普通考えられているような粗大漢ではなかった。ただその綿密さと神経質なまでの周到さを人に感じさせない、最も自然な英雄的演出があった。
 

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西郷隆盛 第二巻 / 海音寺潮五郎

2016-02-25 15:17:35 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第二巻海音寺 潮五郎朝日新聞社このアイテムの詳細を見る

 十年ぐらい前に陸奥宗光探求をしていたが、そこから「西郷の肖像」「維新・最後の武士」などと西郷隆盛に目が行き、あげくは大山巌にとんでしまった。だから陸奥宗光は、まだ仙台の監獄の中にいるままだが、それは置いとくとして。。。西郷隆盛なら、格別の思い入れがあった海音寺潮五郎の史伝だろうと、この9巻もやっと手に入れたものだった。先日一巻目を読み直しこれでおしまいにしようと思っていたのに、またハマってしまった。生意気に「読破」など出来るものではないからだ。

 海音寺さんは西郷の伝記を書くことで幕末維新史を残すと、前書きに書かれている。鹿児島の人だから鹿児島弁で自由に西郷に喋らせる小説もできた書き手であるが、この本ではそういうことはほとんどしない。史実、史料を丹念に調べ原典を明記し、推量部分と人物の復元描写では「。。。と思う」という表現が多い。歴史的な出来事やその場に居合わせた西郷が関わった部分を書き写して海音寺さんの歴史と人物を観る眼を味わってみよう。海音寺さんの言葉であるが、「西郷の運命は常に切所において急転する」という。ひとつは奄美大島から戻される時だったかなあ。ゆっくり探してみようねタスケちゃん、おまえも若かったな。

 惜しいかな、この西郷史伝は、明治に突入する頃でその書き手を失ってしまった。対象の人物に惚れ込み、最後までかかり切りになっておられたのだから、これこそまさに海音寺潮五郎のライフワークというのだろう。彼なみの探求心で、しかも読者を惹きつける作品と書き手の魂は司馬遼太郎に受け継がれたと思うが、もはや孫の世代になるようなわれわれの時代で後世に残す価値のあるものが生まれているのか、これはわからない。

 司馬遷やプルタルコスさんに日本人の英傑列伝書いてよと推薦するなら、ぜひこの人西郷隆盛だ。でも対比列伝でもう一人といわれたら、はて誰がいいのかなあ、。。。

>>>( 「西郷隆盛 第二巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社 昭和51年4月25日 から引用、。。。は中略)
第二巻は、<幕末!奔湍の時代を描く。。。徳川家の世子決定に端を発した井伊大老の独断専横ぶり。安政の大弾圧によって追いつめられた西郷の入水。大島渡海と召還から、久光の逆鱗にふれ再び帰国を命ぜられるまで。>となる。

>> (第二巻 目次)
大獄前駆と世子決定
西郷帰国と上京
無断調印
おしかけ登城
悲報
密勅始末
大弾圧
芦のさわり
月照錦江湾
土中の死骨
島のよめじょ達
西郷と陽明学
チェスト!
時代の奔湍
兵庫の月

>>(悲報)より
。。。
 長州の維新運動乗り出しは、水戸や、薩摩や、土佐などとは非常な違いがある。これらの諸藩はそのはじめ藩主自らが全藩をひきいて乗り出しているが、長州では少壮藩士らが先ず乗り出し、藩主や藩当局はそれに引きずられて出て行った形になっている。
 その青年らを教育して国事に目ざめさせたのは、吉田松陰である。ずっと前に書いたように、松蔭はペリーによって外国に渡航しようとの計画が失敗に帰し、幕吏に自訴して江戸に送られ、その後長州藩に引き渡され、萩に送りかえされた。それは安政元年の十月であった。萩でははじめ野山の獄に入れられていたが、翌年十二月に野山の獄を出され、自宅禁錮となり、さらにその翌安政三年七月から、自宅で門生に家学を教授することを許され、松下村塾をひらいた。
 松蔭の家は山鹿流軍学師範の家柄であるから、家学とは山鹿流軍学のことにほかならない。しかし、松蔭が門弟らに教授したのは軍学だけでなく、むしろ儒学、むしろ日本人学、むしろ時局にたいする青年の心がまえであったことは、人のよく知るところである。この時松蔭はわずかに数え年二十七であった。
 松蔭の薫陶した青年らがどんな人物に成長し、どんな事業をなしとげたかは、世の周知していることだが、この伝記でこれまで書いてきた時期は、松蔭がその「人づくり」に懸命な時期であって、青年らはまだ活躍していない。
 後に維新史に万丈の光焔をあげ、薩摩とならんで維新運動の中軸となった長州藩の働きは、そのもとはといえば、松蔭一人の教育の力といってよい。われわれは教育の力と一人の人物のいかに偉大であるかを実見させられ、異常な衝撃に胸のひきしまるのを覚えずにおられない。
。。。
 さて、西郷らは星巌の宅で、一般浪人志士らの憤激をまのあたりに見て、辞去し、鍵直に帰ると、すぐ斉彬にこれらのことを知らせる手紙を書き、おそらく翌日早朝であろう、藩邸に行ってこれを国許に急送することを頼んだ。
 この手紙にも、一刻も早く斉彬の上洛を望むことを書きそえたであろうと思うが、その斉彬はこの頃瀕死の病床にいたのである。
 西郷が国許を出発して以後、斉彬は毎日のように天保山に出て、炎天の下に兵を練った。真近くせまった上洛のために、最後のしあげをするためであったことは言うまでもない。
 池田俊彦氏の『島津斉彬公伝』に、斉彬の手記を引いて、参勤交代による本年秋の出発は八月二十九日か、翌々日の九月一日に予定してあったとあるから、西郷出発の後約七十日の準備期間があるわけだが、大決意をもっての上洛であるから、訓練は猛烈をきわめたと思われる。
『照国公感旧録』にはひきいて出る兵は三千、朝廷への運動には西郷のほかに家老鎌田出雲が上京して、近衛家を有事て運動中であったとある。
 天皇は斉彬にたいして懐中入と盃二個を賜い、深く斉彬に依頼する旨を仰せ出された。この時、近衛忠煕から鎌田出雲にあてた文書もかかげている。
「夷国一条につき関東の処置なんとも心得がたいことどもである。もし異変などあっても、朝廷の防備は至って手薄で、警備いかがと心痛にたえない。ついては、この度薩摩守から言いよこされたこともあれば、朝廷火急の非常な際の警備などを頼みたいと思う。目立たないように急ぎそのはからいあるように頼む」
という大意のものである。この文書が鎌田に渡されたのは、斉彬の死後であるが、斉彬の朝廷にたいする運動が着々と進みつつあったことはわかるのである。
 七月八日は特に炎暑のひどい日であった。彼は朝から気分がすぐれなかったが、此の日は城下諸隊の合同演習のある日だったので、おして天保山にで、終日馬上で兵士の間を馳駆したが、演習のおわる頃には益々気分が悪くなり、終了するとすぐ帰城した。
 これが死病の発病であった。 。。。
十五日、斉彬は側役の山田壮右衛門を呼んで、
「わしのいのちはしょせんむずかしいように思う。周防(久光)殿や家老共を呼んでくれるよう」
と言った。山田がおどろいて、斉彬の脈をとってみると、すでに脈が感ぜられなかった。
。。。
 この伝記の初版を出した後、ほくの胸底にはいつも斉彬の死因についての疑念があった。その死がタイムリーにすぎると思われて、納得しかねるものがあって、考えつづけずにはいられなかった。
 ある日、
「これは毒殺ではなかったか」
と考えてみた。すると、一切が実によく納得の行く気がして来た。
 この仮説の当否を十分に判断していただくために、斉彬と父斉興とのいきさつを復習してみる。斉彬の父斉興は斉彬にあと目を譲りたくなかった。斉彬の積極的な生活は、せっかく苦心さんたんして建直した藩財政をまためちゃめちゃにしてしまうであろうと恐れたのだ。彼は乙子の久光が、最も寵愛する由羅の所生であるばかりでなく、保守的で、地味で、堅実な性質であるので、これを愛し、出来ることなら斉彬を廃してこれにあとを譲りたかった。そのために斉彬の子女の呪殺さわぎもおこり、斉彬自身も時々えたいの知れない病気になった。
 一方、斉彬は日本が最も多難となることの予想される時代に、いつまでも部屋住みでいたくない。早く藩主となって力一ぱい経綸を行いたい。幕閣の首席老中阿部伊勢守もまた斉彬を薩摩の当主にして相談相手にしたい。ついに二人の間に密策がめぐらされた。いわば公然の秘密となっている薩摩の琉球を通じての密貿易を問題にして、仕置家老調所笑左衛門を召喚して峻烈な取調べをし、どこまでも追求して、斉興の責任まで持って行き、隠居に追いこもうという策。
 かくて、調所は江戸に呼ばれて厳重な糺察を受けることになったが、その半ばに毒を仰いで自殺し、一身をもって追求を食いとめてしまった。
 斉興には、この検察の裏面に斉彬のいることがわかっている。斉彬にたいする怒りは仇敵にたいするような憎悪となり、金輪際世を譲るものかと思うようになった。
 そのために、藩内の斉彬びいきの分子はひそかに結束して、斉彬の襲封を促進するするために百方の運動をすることを申合わせたが、これが反対党に知れ、斉興に聞こえ、一網打尽に捕えられ、峻烈な処分が行われた。いわゆる高崎崩れ。
 斉興はこれで斉彬派は根絶しになったと安心して、翌年の春、江戸に出て来ると、幕府は昨年の家中の大量処刑を問題にして、家中不取締りの名目で、隠居をすすめた。斉興は無念やる方なかったが、いたし方なく隠居して、斉彬に世を譲った。斉彬にたいする憎悪の昂じたことは言うまでもない。
 斉彬は襲封すると、バリバリやりはじめた。血のにじむ思いで斉興のたくわえた金銀は湯水のように費消される。当時の日本に最も有用なことであるとの考えは、斉興にはない。
「案じた通りだ。家はまた昔の窮迫に返る」
と、はらはらせずにはいられない。
 一層心配なことがおこった。斉彬が外様大名にはいのち取りになる危険の多い天下の政治に関心を持っているばかりでなく、あろうことか、一族の娘を養女にして将軍に入興させたことだ。これは家を破産に瀕しさせた祖父重豪のやったこととそっくりだ。
「何たるやつだ!」
と、不安と怒りと憎悪はつのる一方だ。
 さらに斉彬は一層ゆゆしいことをはじめた。琉球政府に命じて、第一巻二九七頁に記述したようなことをした。薩摩が琉球を属領としていることの最大の理由は、ここで貿易の理を得ることが出来るためだが、斉彬のこの希望が実現されれば、琉球を持つことはもはや無意義となる。当然、琉球は解放することになると、斉興には考えられた。
「何たることをする!琉球は先祖家久公これを征服し給うて以来、代々持ち伝え、子々孫々に伝うべき土地である。やつ一人の考えで手離してよいものではない。やつは家をほろぼしかねぬやつじゃ」
と、重大な決意をし、国許の、多分島津豊後あたりにだろうが、至急に処置するようにと命じた。
 斉彬は襲封の事情が事情であったので、父の頃の家老・重臣らの職を免じていない。政治の実務から遠ざけているものの、依然要路においている。たとえば豊後は城代家老にしてある。だから、その党与はずいぶん多い。上級者にもいれば、下々にもいる。斉興が密命を下せば、、やる人間はいくらでもいたのだ。
 斉彬は政治と研究以外にはほとんど道楽のない人であったが、たった一つ釣魚を楽しんで、よく磯の別邸の前の海に舟を浮かべて糸を垂れ、釣った魚を調理して少量の麹と塩とを混じて蓋物に入れ、居間の違い棚におき、練れて鮨になったところを食べるのが好きであった。だから、置毒することは、さして簡単ではなかったはずである。
 斉興の密命はあったが、あまりなことなので、豊後らも踏み切れないでいたところ、引兵上洛のことが家中に触れ出され、兵の猛訓練がはじまった。その目的がクーデターによって幕政を改革するにあることは明らかである。
 斉興は身ぶるいした。これが幕府を激怒させ、お家滅亡となることは必至であると思った。
「今はもう致し方はない。君を重しとせず、お家を重しとするは、杜陵の臣の道である。おいたわしけれど、老公のおさしず通りにするよりほかはない」
と、決意して、斉彬の居間に立ち入ることの出来る者に命じて、蓋物の中に、毒を投じさせたのであろう。
 斉彬は兵の訓練のために天保山に行くにも、別邸の前から舟で行き、帰りも舟を用い、別邸の前の海でしばらく釣魚をするのが習わしであり、発病の前日もそうしたというのである。
 斉彬に信任されていた側役の山田壮右衛門の『順聖公御事蹟』にこうある。
「自分は公が大奥にご病床をお移しになってからも、大奥へ出入りしていたが、ある日、ご侍女のすま殿へ、内々ご容態のことをたずねたところ、すま殿はこう申された。
『こんどのご病気はこれまでとまるで違って、まことにおかしなご様子です。度々お厠へお通いになりますので、どんな工合かとあたずね申すのですが、いつもと違って一切ご返答なく、ただ溜息ばかりおつきになって、何か深く考えこみ遊ばしていますので、心配でなりません。たぶん天下のことがご心配なのであろうかと思っていますが』
 果たして天下のことが心配であったのか。ぼくには、父の手がまわってこうなったと覚って、こうまでおれは憎まれねばならないのかと、悲嘆し、絶望したのではないかと思われるのである。
 明治初年に外務卿であった寺島宗則は、この頃は松木弘庵と名のり、蘭学者で欄方医で、斉彬の信任の厚かった人だが、あたかも藩命で長崎に行っていて、斉彬の死後帰藩した。彼は、後年、こう言っている。
「公は酒がおきらいで、自ら釣った魚をもって作られた酒醸の鮨を食べるのがお好きであった。安政五年の夏も、釣魚をしてそれを一日貯えて鮨となったのを食べて下痢をおこされたと、後に聞いた。この年ロシアの軍艦が長崎にコレラ患者をのせて来て、コレラが九州各地に蔓延し、それに感染されたと言っているが、それは少し前のことで、公の病気はそのためではない。単なる下痢を救うことの出来なかったのは、おそらく薬効の足らなかったためであろう。実に残念である」
 寺島のことばには言外の深意があるように、ぼくには思われる。毒殺の張本人が斉興であったとすれば、旧薩摩藩士としては明治年代にはこの程度にしか言えなかったのは当然であろう。
 ぼくはその毒物についても、大体の見当をつけている。亜砒酸系統の毒薬であったろう。下痢と心臓の衰弱がその主たる中毒症状である。斉彬が死の前日、山田壮右衛門に脈をとらせて、
「脈がないじゃろう。助からぬいのちと知った」
といったことは書いた。心臓の衰弱を語るものである。
 。。。
 ぼくは斉彬の毒殺を、今ではかたく信じている。さらにまた、西郷もまたこの疑いを抱いていたと信じている。西郷が久光と終生合わなかったのは、こうとより考えようがないのである。
 。。。
 斉彬の急死による影響は、琉球政府にも強烈であった。沖縄史の中に、「三冤事件」という大疑獄がある。沖縄史では相当の大事件であるが、要するに党派争いで、前記の小禄良忠、恩河朝恒、牧志朝忠の三人が、反対党の誣告によって検挙され、最も惨烈に迫害され、非業の死をとげたり、廃人んになったりした事件である。しかし、これがおこり、こんな結果になったのは、斉彬死後の薩摩藩政府が斉彬がしたことには憎悪しか持たないものに改組されていたためである。藩から一言口を利いてやれば、この事件は直ちに雲散霧消したはずであるのに、それをしなかったのである。
。。。
 なお後段で月照事件のことを書くが、助けなければならない義理のある月照を、薩摩藩当局が見殺しにしたのも、その時の藩政府が斉彬のしたことに憎悪しか持たないものになっていたからであると、ぼくは解釈している。だから、これらの事実によっても、島津斉彬の死は単純な病死ではなく、毒殺であるとぼくは考えざるを得ないのである。
。。。
 さて、西郷である。 。。。

 彼はまだ江戸へは下らず、斉彬の寄託した手紙は、藩邸から公用便で江戸藩邸に送り、それぞれのあて先にとどけてもらうことにしている。幕府に天皇を関東に遷し申す計画があるという風評が高くなったからであろう。この風評は
「関東ではなく、彦根にお遷し申し上げる計画で、近くそのために大老が上洛することになっている」という風にかわって来ていた。
 西郷はとても江戸になぞ行ってはおられないと思ったのであろう。斉彬の到着前にそんなことになっては、万策やむだ。食いとめるにしても、斉彬に早く上洛してもらうにしても、台風の中心にいる必要があると考えたのであろう。
 彼は一旦大坂に下り、また京に出て来て、鍵直に入った。
 当時鍵直には吉井幸輔、伊地知龍右衛門のほかに、北条右門が福岡から出て来ていた。
 北条は前名を木村中之丞といって、薩摩士であり、先年のお由羅騒動の時、筑前に出奔して黒田斉溥に保護されていた人物であることは、ずっと前に述べた。北条は西郷がこんど筑前に立寄り、黒田斉溥に斉彬の手紙をわたし、斉彬のこんどの計画を物語って協力をもとめた時、西郷に会って、西郷から斉彬が容易ならない決意で間近く上洛するということを聞き、慷慨禁ぜず、西郷におくれること一週間ばかりして、博多を出て上洛してきたのである。
 筑前藩士平野国臣もまた、これは相当遅れるが出て来て、鍵直に投宿していることが、春山育次郎氏の『平野国臣伝』で明らかにされている。春山氏のこの伝記は世間にはあまり知られていないが、調査がよく行きとどいていて、珍重すべき書である。一体日本には伝記にはあまりよいものがないのだが、この書は稀有の名著といってよい。
 春山氏によると、平野はお由羅騒動のために薩藩を脱走して筑前に来た四人の薩藩士らとかねてから親交があったので、北条からこんどのことを聞いた。あたかも、その頃彼は同志らとともに楠木正成につづいて九州で勤王の兵を挙げ、事ならずして戦死した菊池武時入道寂阿のために、その墓のある博多近くの七隈原に碑を建てる計画を持っていて、その碑の文字を摂関家の誰かに頼もうということになった。彼は、
「わしが行こうたい」
と自ら買って出て上洛したのだという。
。。。
 もちろん鍵直には月照が出入りして、近衛家をはじめ堂上との連絡を受け持ってくれた。
 月照と平野国臣との間は、この数ヶ月後に月照が薩摩入りをする際、最も深い関係が出来るのだが、すでにこの時、双方相当に親密ななかになっているのである。
。。。
 このようにして、鍵直にいる西郷を中心とする一団は、斉彬の上京に一切の望みを賭けて、指おり数えてそれを待ちつつ、必要な運動を続けていた。

 ここで月照の事を書く必要があろう。月照は讃岐出身の大坂の医者玉井鼎斎の長男である。文政十年というから、三十一年前だ、父鼎斎の十手である清水寺の成就院の住職蔵海の徒弟となって寺に入った。。。。天保六年、二十三の時、叔父蔵海のあとをついで成就院の住職になった。以後、皇室に関係のある法会や読経などに参加し、江戸へ下って将軍に謁して金子や時服をもらったこともあるという。名僧として世に承認されていたことがわかる。嘉永五年には、同じ清水寺内の宝性院の住職を兼帯し、清水寺全体を総管するようになった。
 ペリーが浦賀に来たのはその翌年である。彼は四十一歳であったが、日本が最も重大な危機にさしかかったことが、非常な衝撃であったらしい。この年の十月から寺を出て行方不明になっているが、これは東北地方視察に出かけたのであった。 。。。しばらくは当時清水寺の支配をしていた奈良の一乗院から寺内に居住することを禁止されたという。これを近衛家を通じてとりなし、成就院に弟と同居する許可をもらってくれたのは、薩藩士で、近衛家の侍医であった原田才輔経允であった。原田は近衛忠煕夫人が薩摩から入興した時、附人として来たのである。月照と薩摩との因縁はずいぶん前から深いものがあったのである。この頃から、月照は近衛家や青蓮院宮に出入りし、天顔を拝するのをゆるされたこともあり、近衛家の祈祷僧となり。一方浪人学者や諸藩の志士らとも交った。斉彬のこんどの引兵上洛の大策においても、斉彬に頼まれて、斉彬に上京を命ずる勅諚や幕府に政治改革を命ずる勅諚の申し渡しなどのことで、ずいぶん朝廷方面に働いた。彼が民間と雲上との間の橋になったのはこの時からである。
 月照は後に幕府の取り調べ文書にも、「性質静かなるものにこれあり、格別左府殿(近衛忠煕)の気に入りまかりあり云々)とあるから、温厚沈静の性質だったのだ。その月照が最もはげしい政局の中心に飛びこまずにおられなかったのだ。前に述べた梁川星巌のことといい、これといい、当時の心ある日本人がどんなに強い危機感に襲われていたかがわかるのである。月照はこの年ーー安政五年に四十六であった。

 斉彬死去の知らせが西郷の許にとどいたのは、七月二十四日のことであった。
。。。
 斉彬によって、日本を蔽うていた暗雲は晴れ、日本は新しい日本として立ち直るはずであった。そして、今や機会熟し、準備成り、足を上げるだけがのこされていたのに、こんなことになったのだ。
「世は常闇」
ということばは、この時の西郷にとっては修辞ではなかったろう。しんじつその気持がしたに相違ない。
『実歴史伝」に、西郷がいつも俊斎に言っていたことばというのが出ている。
「余輩一たびわが公を喪ふの不幸に遇はば、余はこの生を聊んぜざらん」
というのだ。死んでしまうというのだ。
いまやその時が来たのである。
。。。
 西郷は近衛邸で月照に会って帰国の意を告げたのであろうか。それとも清水寺に行って告げたのであろうか。ぼくには西郷がかんたんに斉彬の死を報告し、
「ついては、拙者も一両日のうちに国に帰ろうと思っています」
と告げただけですたすたと鍵直に帰って行ったのを、月照が鍵直に追いかけて行って、じゅんじゅんとさとしたように思われ、そんなイメージが浮かび上がって来る。
 それは凶報を受取った二十四日の夜だろう。鍵直の一室で、月照はこう語ったろう。
「西郷はん、あんたが殿さんのご恩を思い、殿さんをお慕いして、おあとを追おうとなさるお気持は、わしにはようわかります。しかし、それでは殿さんは決してお喜びになりまへん。それどころか、きっと、なぜおれの志をつがん、なぜ日本の難儀を見捨てて来たと、きつうおこらはれまっせ。あんたの殿さんはそんなお人がらでごっせ」
 胸には火がつき、肥った顔は真赤になり、大粒の汗を吹き出し、大きな目からぽろぽろと涙をこぼし、大きなからだをふるえ出させ、おし出すような声で言ったろう。
「そうでごわした!そうでごわした!わしは間違っていもした!」

  

>>>(月照錦江湾)より

。。。
 しかし、西郷はもっともはげしい怒りを感じた。彼は義理がたい性質である。斉彬を神とも師父とも敬愛している。藩祖以来重畳する縁故の絡まっている近衛家からの依頼のある月照であり、その月照はもともとはといえば斉彬の引兵東上の秘策のために朝廷方面への運動の中継ぎをしたところからはじまって、密勅降下事件や、諸雄藩の連携蜂起運動や、井伊誅殺計画等にも大いに働くことになったので、幕府に追捕されなければならないことになったのだ。
(お家は和尚を庇護し通さなければならない義理がある)
と信じきっているのだ。
 だのに、藩の中枢部では、たしかに、誰が考えても義理がある。情勢上どうしても庇護できないから、関外の地に連れ去れという。庇護できないというのは、庇護する意思がないからだ、その意思があるなら、島津家の実力と、この広い領地があり、南方には多数の島々まで所有しているのにできないことがあろうかと思ったことだろう。幕府怖さに腰が抜けたのだと思ったろう。
(忠義公の襲封がまだ幕府の正式の承認をうけていないからといって、それが心配せねばならんことか!それはそれ、これはこれだ。こげんことぐらいで、お家がとりつぶられることなんぞ、ありっこないではないか。腰が抜けとるから、心配する必要のなかことを心配するのじゃ)
とも思ったろう。
 簗瀬が潜伏の場所として親切顔にすすめる法華嶽寺や紙屋は、藩領内ではあるが、関外の地であり、一部は天領である宮崎からわずかに前者は六里、後者は七里しかない上に、前者は譜代大名である延岡の内藤家の領分(内藤家の飛び領)と境を接している場所でもある。決して安全な土地とはいえないのだ。
 また、彼は斉彬の死は良死ではなかったと信じていたはずである。斉彬の襲封以前にもあり、襲封以後にもあったさまざまな奇怪事をよく知り、いつもこれを憤っていた彼には、斉興の毒手がついに先君に及んだと考えずにはいられなかったはずである。そして、今の藩政府は先君のなさったことを嫌悪し、先君のために働いた人間を迷惑がり、憎んですらいると思ったに違いない。

 西郷は本質は感情的な人だ。またお人好しではなく鋭い人であり、従っていくらか疑い深い人でもある。生まれながらの英雄的な風貌と、ストイシズムによって、めったにそれは外に出さないが、今やそれをあらわに出して、おそろしい顔になり、むっつりとしていただろう。
(藩は和尚をその捕吏共に捕縛させようと考えとるのじゃ。見下げた人々じゃ)
と、思ったに違いない。
 こうなった以上、抗弁しても、反論しても、効のないことは明らかだと見た。思い切りはよすぎるほどよい性質だ。
「かしこまりました」
と一言だけ言って、席を立った。
 かしこまりましたと答えるまでの短い時間に、西郷は一足とびに死ぬ決心をしたに違いない。
(和尚をここまでお連れして来ながら、むざむざと捕吏に渡すようなことをしては、申し訳がなか。しかし、どうにも方法がつかん。死んでいただくよりほかはなか。そのかわり、おいもお供する。せめてものおわびじゃ。おい自身と藩全体をこめてのおわびじゃ)
と思い、またこうも思ったろう。
(それにしても、おいは先君のおあとを追うて、あの時に死ぬべきであった。なまじご計画の精神を生かそうなどと考えて、いろいろやってはみたものの、先君を非業に失い奉った藩である以上、どうにもなりはしなかったのだ。あの時死んでいれば、こげんことにはならなかったものを)

 西郷の性格の一つに潔癖性がある。ぼくはしばしば彼は最も良心的な人間であると言ったが、その良心の鋭敏さは、この潔癖性から出てくるのだ。彼は濁流のなかに平然と泳いでいるにたえる人ではなかった。この潔癖性とその英雄的気魄が結びつくとき、彼は理想家となり、最も清潔にして最も道義的で、最も完備した理想社会を造ろうとする果敢な革命家となるのだが、彼の心気が疲れている時、彼は厭世家となる。
 彼には隠遁癖があり、ややもすれば田園に引退したがったと言われており、それは自ら功にいることを欲しない彼の無欲によると解釈されている。
 それもあろう。彼の好んだことばの一つに「労は自ら引受けて功は人に譲る」というのがあるのだから。しかし、ぼくは彼の生涯を通観して、彼のこの隠遁好きな性癖はこの潔癖性による厭世観から出ており、この場合の死の決意は、斉彬のために働いたために、この窮地に陥った月照にたいする義理立てのこころから出ていると解釈している。

。。。話変わって月照の方。
 田原屋に移されてからの待遇は決して悪くはない。座敷、食膳、寝具等、すべて注意に届いたものを供せられたが、藩庁からの番人が出張っていて、外出を一切禁止させられたばかりか、文通もゆるさない。面会人もあるようであるがそれを取次ぎもしない。
これらのことは自体が好転しているものとは思われなかった。最悪の場合を覚悟する必要があると思われるので、平野(国臣)にむかって、こういったという。
「万一、幕府の捕吏に引き渡されるようなことがあれば、京か江戸に引かれて、きびしい取調べを受けることになります。どんなむごい拷問にあっても、雲上のことや、近衛公のことや、また同志の人々を連累にするような申し条はしない決心はしていますが、人間は弱いもの、ひょっとして口を滑らすようなことがあるかも知れまへん。それでは申訳ないことになりますよって、危急がせまったらあんたわしを手にかけてください」
 悲痛言いようもない、心情である。快活闊達な平野も涙をこぼしたことであろう。...

。。。 P271
(月照の従者の)重助の連れ去られた日の夕方、平野にも申し渡しがあった。
「明朝、当地出発、大口街道を取って帰れ」という申し渡し。
平野が月照の墓碑や貴信の石燈籠のことなどについて、波江野と田原に後を依頼したことは上述した。月照の墓碑の費用は月照の遺留金から支払ったのでありその残額は重助の身柄とともに盗賊方共に引き渡されたのであろうが、石燈籠は平野の寄進だから平野がださなければならない。彼は旅費も残り少なくなっていたのだが、ちゃんと出して支払った。

 翌朝早朝、まだ暗いうちに護送の足軽が原田屋に来て、主人郷兵衛に平野を起こして早く出立させよと言った。よほどにせきたてたのであろう。宿屋では朝食の膳部もこしらえず、主人の郷兵衛が皮包みの握り飯を持って平野の座敷に来て、
「お役人が急いどられもすから、これを途中で上がることにして、すぐ立って下さりもせ」
と言った。そもそものはじめから、平野は藩庁のしうちに腹をたてている。カッとなった。
「わしはこれから七、八十里もあるところに帰って行くとばい。長旅の首途には縁起というものがあるばい。膾ぐらいつけた膳をそなえて祝うのはあたり前のことばい。こげんものが食えるか!」
と怒鳴りつけ、竹の皮包みを引っつかむと、郷兵衛の顔をめがけて投げつけた。郷兵衛が体をそらしたので包みは壁にあたって破れ、飯粒がぱらぱらと畳の上に散らばった。
郷兵衛は、恐れ入り改めて膾のついた食膳を用意させて備えたので、きげんをなおし、悠々と喫しおわったが、出発に際しては山伏の姿ではなく、侍烏帽子に素袍を着、刀を太刀のようにして佩き、笛を吹きながら座敷を三度めぐり歩いたという。鹿児島では「かまどはらいの神主のようなすがたであった」と長く言い伝えたという。

 平野が異装を好んだ人であることは前にも述べたが、この時の異装は俊斎や伊地知らに自分の出発を知らせる奇策であったという。策はうまく的中して、その夜になって平野が追い立てられて原田屋を出発したと言ううわさが俊斎と大久保の耳に入った。...夜明け前に鹿児島の北方五里、海沿いの町重富についた。ここは新藩主忠義の実父久光の城下である。
平野は藩領を出るまでは藩の足軽に送られて旅をするのだから泊まる宿屋もきまっている。俊斎と大久保とはそこに行って見ると、泊まっているという。
。。。
 平野は薩摩への密入国には自信をつけたのか、この翌々年の万延元年にも入国しており、その翌年の文久元年にも入国している。世に伝承されている有名な、
  わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙は薄し桜島山
の絶唱は、一説では二度目、一説では三度目の時の作である。平野は維新志士中の第一の歌人である。この他にも名吟が多い。思うに、彼の本質は詩人で、平和な時代に生まれたら、詩人となるべき人であったろう。
  君が世の安けかりせばかねてより身は花守となりてんものを
という作もある。平野の出発のことは大久保と俊斎によって、西郷に伝えられた。西郷はまだ衰弱がつづいて臥床していたが、日に快方におもむきつつはあった。われわれは仰臥している西郷が大きな目で天井を見つめながら、二人の話を聞いている情景を想像してよいであろう。おそらく一語もはさまず聞き、最後に、一言、
「よくそげんして下さった」
と礼を言ったろう。元来口数の少ない西郷は、いっそう寡黙になった。家人ともほとんど語らなかった。
(死にそこなった)
という屈辱感にたえられなかったのだ。 。。。

 家人や友人は西郷が自殺しそうなので、刃物類を全部隠して、目に触れるところにおかなかったと伝える。
 彼の手紙に、この後しばしば「土中の死骨」ということばが出てくる。必ずや、彼は、
「おいは、いったん死んだ人間だ。土中の死骨にひとしい。これからのいのちは、おいがものではなか。世のため、国のために捧げよと、天がおいにあずけたものだ」
と思ったに違いない。
「敬天愛人」ということばは、後に彼の最も好きなことばとなり、よくこの字を書きのこしているが、ぼくは彼の「敬天」とは運命感であると思う。彼は天が自分を殺さなかったのだと考えることによって、やっと心を落ち着かせることが出来たのだろう。
また彼はその生涯を通じて、運命の起伏最も大きい人である。切所にあたってしばしば運命が急落し、しばしば上昇すること、彼のような人物は最も稀である。こういう人物が一種の運命感を抱くようになり、天意にたいしては最も敬虔な信仰を持つようになるのは最も自然なことのように、ぼくには思える。
「敬天」の信仰は、さらに彼がさまざまな人生経験をし、いく度か生死の境を透過することによってかたまりもし、ふかまりもし、発展もしたと思われるが、この時からその心の底に根をおろしたろうと、ぼくには思われる。

。。。
 十二月二十七,八日、西郷は大島行きの砂糖船福徳丸に載せられて鹿児島を出帆した。港には家族や親族のほか、同志の若者らも見送ってくれたろう。今や中央に事のあろうとするとき-それはこの時はついにものにならなかったのだが、皆は越前老侯慶永が斉彬の企画したと同じ事をしようとして着々と事は進行しつつあると疑わなかったのだ-、遠く離島におもむく人をどんな気持ちで見送り、おもむく人はどんな気持ちで同志の人々と別れたか、共に無量の思いがあったことだろう。
 福徳丸は、先ず鹿児島湾口の山川港に入った。ここで天候を見定めて、それから外洋に乗り出すのが例になっているのだ。ところが、風波が荒く、なかなか乗り出せない。ついに年が明けて正月になったが、それでも天候は回復しそうにもない。この港の近くには有名な指宿温泉があり、鰻池温泉がある。乗合の人々はそれに出かけて無聊を慰めたが、西郷はどこにも行かず、船中にとどまって読書したり、飽きると釣を垂れたりした。 彼の狩猟好きは有名だが、釣魚もなかなか好きなのだ。
 彼は罪人として大島に流されるのではなく、幕府の目からかくすために大島居住を命ぜられたのであるが、藩の都合ではいく年島の生活をしなければならないかわからない。この機会にうんと読書をし、自分を究明しようという気があったので、ずいぶん書物を持って行っている。
 どんな書物を持って行ったかを知ることは、彼の修養を知る上で重大だと思うが、今日わかってるのは、『通鑑綱目』『春秋左氏伝』『孫子』『韓非子』『近思録』『言志録』『鳴館遺草』等である。。。このときたずさえていった書物から見ると、諸派兼修で、特に陽明学に熱心であったとは考えられない。陽明学をやるつもりなら、なぜ『伝習録』を持っていかなかったろう。朱子学における『近思録』に相当する陽明学の書物は『伝習録』である。


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コメント
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西郷隆盛 / 海音寺潮五郎

2016-02-23 13:56:07 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第一巻海音寺 潮五郎朝日新聞社このアイテムの詳細を見る

 海音寺潮五郎さんの「茶道太平記」のことを記したなかで、ボクは列伝だいすき人間と書いた。そうしたらFB上で百足光生君からコメントを頂戴した。曰く、「そうか。史伝ものが好きなのだな。儂は主任教授から、歴史学徒である間は、司馬遼太郎は敬して遠ざけろ、と言われて、。。。」
うーむ、<歴史学徒である間は、司馬遼太郎は敬して遠ざけろ>か、なかなか、正鵠を射たことばだと感心。百足兄は著作をいくつも世に出している正統派の歴史のプロだが、まあ昔の同級生のよしみで、ナマイキにもこう返答した。
「。。。シロートの最たるボクにとって歴史上のできごとや探訪は、時間、経済、地理などの通年的な解析よりもその場に居合わせた人間の動きのほうが素敵だ、。。。司馬さんに、これは史実と違うと言って、小説ですから、と返され困惑していた人もいたようだが、そこは書き手の「史観」まして偏向というものではなく、読み手の力量によるものでしょうな。。。。」
 
 実は、力量もなく読み散らかしているばかりなのだが、なかに遠山茂樹先生の「明治維新」があって、時代と歴史のひとつの捉え方を教えていただいたことはあった。先生は「歴史的画期としての明治維新は、天保十二年(1841)の幕政改革に始まり、明治十年(1877)の西南の役をもって終わる、三十七年間の絶対主義形成の過程であると考え、ここに明治維新史の筆を擱く。」と結ばれていた。『遠山茂樹先生の「明治維新」』

 となると、西郷隆盛の一生はまさに「明治維新」そのものではないか。<司馬遼太郎は敬して遠ざけて>みれば、司馬さんは西郷についてはどうにもつかみかねたたような気はするのだが。。。司馬遼太郎を掘り当てたのが、一世代の上の海音寺潮五郎さんであったはずだ。「薩国貴重の大宝」まではいったが、幕末・明治維新期の人物を柱にしての一冊といえば、やはり海音寺さんの「西郷隆盛」だなあ、列伝大すき人間は、そっと思うのだ。この本での西郷の人生が完結するまえに、第9巻で海音寺さんの寿命が尽きてしまった。惜しいことであるが、海音寺さんを思えばこれでよかったのかもしれない。おお、いまではkindle販もあるんだ、眼と速読のためには、あっちがいいかもなあ。

>>>(海音寺潮五郎著・朝日新聞社刊「西郷隆盛 第一巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社 昭和51年3月25日 。。。は一部略す)

>>(「あとがき」より )

 私が西郷の伝記を書こうと思い立ったのは、私が西郷が好きだからです。
理由を言い立てればいくらもありますが、詮ずるところは、好きだからというに尽きます。
好きで好きでたまらないから、その好きであるところを、世間の人々に知ってもらいたいと思い立ったという次第です。

 伝記というものは、ほれこんで、好きで好きでたまらない者が書くべきものと、私は信じています。そんな者には厳正に客観視することが出来ないから、よい伝記は書けないなどという人がありますが、人間にはほれこまなければわからない点があるのです。「子を見ること親にしかず」という古語がありますね。
親は子供を愛情をもって、生まれた時からずっと見ているから、長所・短所、誰よりもよく分かるという意味であると、私は理解しています。人間はそういうものなのです。ほれて書けないなどという人は、人間というものを知らないのです。
単に公平であるというだけが取柄の伝記など、何になりましょう。貴重な時間を費して読む道楽は私にはありませんね。

 西郷という人は、在世中から大変評判のよい人でした。維新三傑の第一人者として、廟堂に列していた頃から、声明の高さは驚くべきものでした。彼を悪評するものは恐らく一人もいなかったろうと思われます。
西南戦争がはじまりますと、政府は西郷の声望の高いのを政府の不利として、御用言論人に命じて御用新聞にいろいろと西郷の悪口を書かせて全力を挙げましたが、国民は受けつけませんでした。それでも、一応沈黙はしていましたが、明治22年の憲法発布の祝典に、彼の賊名が除かれますと、その名声は爆発的に高くなりました。その彼に対して否定的議論が出て来たのは、昭和年代に入って、満州事変の直後あたりからです。理由はだいたい二様に考えられます。

 その一つ。満州事変の一時的成功のために、社会に右翼的空気がみなぎって来たことにたいする、知識人らの警戒と反撥によりましょう。西郷の本質には、右翼的なものはひとつもありません。
 そのもっとも有力な証拠は、西郷が物欲にたいして峻厳をきわめて清潔であったことです。金銭問題について不潔な人間を彼ほどきらった者を、私は知りません。金銭の授受に対してルーズな習性のある右翼人らは、とうてい彼に受け入れられるものではありません。これらのことは、本文をお読みいただければ、必ずご納得が行くはずです。
物欲、生命欲、名誉欲など、すべての欲を離れ切ることが、彼の生涯の修行目的であり、そうなることによってのみ、彼の「敬天愛人」の信仰的哲学は実行出来ると、彼は信じきっていたのです。これも本文をお読みいただければわかるはずです。

 西郷を右翼的人物と見る俗説の根拠の一つは、明治初年の政治情勢を進歩派と保守派の抗争と見て、進歩派の代表を大久保利通、保守派の代表を西郷ということにして、解釈しようとした歴史学者らの説にありましょう。しかしながら、この時代の正常情勢をこのような通俗的図式に当てはめて考えることが、すでに維新史をまるで知らない証拠であると、私には見えます。当時は世界を挙げて、弱肉強食、帝国主義全盛の時期ですから、西郷も大久保も、欧米の文物を輸入し、制度を改革することによって、日本の国富と武力とを豊富・強大ならしめ、日本を安泰ならしめたいと考えていた点では変わることはありませんでした。その実行の手段として、大久保はフランス式の内務省を設置し、日本を一種の警察国家の組織にすることを考えたのであり、西郷は富国強兵を超えた向こうに、道義国家の建設を考えていたのです。
「わしは欧米諸国は野蛮国じゃと思っている。国が富み、兵が強く、汽車が陸を走り、汽船が海を渡り、電信が一瞬にして数百里の外に信を伝えようと、何がそれが文明国なものか。彼らは道ならずして人の国を奪うではないか。真の文明国とは、外には道義を持って立ち、うちには道義の行われる国をいうのだ。国は道義を持って立ち、道義のためには国が滅んでもかまわないというほどの強い勇気を持つべきものだ。でなければ、決して存立もできないものである。」
という意味のことを、南洲翁遺訓の中で言っています。道義国家の建設を意図している人が、どうして保守主義者でありましょう。もっとも進歩的であるといわねばなりません。彼は理想主義者で、永久革命家だったのです。 ...

 その第二の理由は、人間にある変化を好む心理、マンネリを打破したい心理、異を樹てたい心理でありましょう。人間にはさかんなものや権威あるものに賛嘆し、景仰する真理もありますが、これを否定し権威の座から引きずりおろしたい心理もあります。特に知識人には既成の権威に盲従したくない心理があります。西郷が維新第一の英雄として半世紀以上も国民の尊敬の的になっているのをみて、何とか批判してみたい人が出てくるのは、もっとも自然の勢いです。
 その心で眺めますと、歴史上の人物は、どんな人にたいしても、ケチのつけられないことはありません。理屈はトリモチと同じで、つけたいと思うところへつけられるという諺がありますが、単なる思いつきで、白を黒、黒を白、善を悪、悪を善と、言いくるめることは決して難しいことではありません。
世間の多くは詳細にして正確な歴史知識を欠いていますから、表面の論理に誤りのないかぎり、納得するのです。その論理の操作が奇抜で犀利であれば、マンネリ打破の卓説として感心されもします。日本の一般知識人は、知識は欠いているくせに、いや、欠いているからでしょう、新説や逆説に対しては強い魅力を感ずる習性を持っていますから、容易に一世を風靡することになります。

 以上のような次第で、満州事変の直後頃から西郷に対する否定的な言説が、歴史学者や評論家らによって次々と発表されるようになりました。これらの言説は、私の見るところでは、全部、研究といえるほどの作業を経ていない、単なる思いつきの議論です。私は腹が立ち、苦痛にさえなりました。
「もっとも高名な歴史学者、たとえば津田左右吉のような人であっても、有名な学者たとえば安倍能成のような人であっても、高名な評論家であっても、その発言は深く広く研究した上での立論ではない。つまりは一知半解の知識を持ってする思いつきに過ぎない。しかし、高名な、歴史学者、学者、評論家の言説だけに、世間は信用してしまうだろう」と考え、
「どうしても、西郷伝を書かなければならない。おれが書いておかなければ、西郷はこの妄説の中に埋もれてしまい、ついにはこれが定説となってしまう」と思い立ったのです。最初は朝日新聞に書きました。
...
 内村鑑三の言葉に「西郷の伝記を書くことは幕末・維新史全体を書くことである」というのがあります。私も自ら書いてみてたしかにそうであることを知りました。西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからないのです。しかし、読者心理というものは性急なものでして、小説においてすら長く主人公が出てこないと、いらいらするのです。この読者心理とどう調和すべきか、ずいぶん悩みましたが、幕末・維新史全部を書かなければ、西郷の真の相が書けない以上、読者がどんなにいらいらしようが、書かなければならないと決断しました。さらにまた考えました。
「自分の知る限り、日本にはこれまで、詳細で、正確で、面白く読める幕末・維新史は出ていない。徳富蘇峰氏の『近世日本国民史』中の数十冊は正確で詳細ではあるが、引用の史料が生のままで、今日の読者にはたやすくとりつけるものではない。したがって面白さを感ずるところまではいかない。大佛次郎氏の『天皇の世紀』も、その点では史料を書き下し文に直しただけで、現代の読者には難解であろう。もし、自分が読みやすく、したがって面白く書くならば、現代の日本人はもっとも結縁し易い幕末・維新史を持つことになるはずだ」
 史料を原型のままに引用することほ、歴史学者の世界では普通のことですが、私は学術論文を書くのではないから、そうする必要はないと思ったのです。幕末・維新史においては、史料は日本史籍協会本にほとんど全部がまとめられていて、新しい史料はごく稀です。 ...

 比較が突飛になりますが、私は中国の史書を読んで、漢書は史料をそのまま使い、史記は筆者が十分にこなして書いていることを感じます。ともにすぐれた史書ですが、面白さは史記がはるかにまさっています。私は司馬遷にならったわけです。ともあれ、日本はこの書によって、詳細で正確で(いずれも比較的にという条件がつきますが)面白い幕末・維新史を持つことになるはずと自負しています。
 この書は西郷の伝記ですが、同時に幕末・維新史を兼ねています。西郷を主にしてして申しますなら「幕末・維新史と西郷」ということになりましょうか。どうかそういうつもりでお読みください。
。。。
  昭和五十一年一月二日水戸の旅舎にて        海音寺潮五郎 」


>>(第一巻 目次)
上野の銅像
明治維新と尊王論
薩摩藩の歴史とその藩風
稚児から二才へ
島津斉彬
調所笑左衛門
お由羅騒動
斉彬の襲封と西郷の建白
ペリーの来航と斉彬と西郷の江戸行き
西郷と藤田東湖
ペリーと吉田松陰
誠忠組の憤激と斉彬の訓戒
橋本佐内と相知る
将軍世子問題
魔人長野主膳の出現
一橋擁立行きなやむ
公家の集団デモ
堀田老中追い返さる
井伊大老登場
一橋擁立派の死闘
>>

(斉彬の襲封と西郷の建白)より

。。。

 斉興の隠居願いが提出されると、幕府は即座に聴許し、斉興隠居、斉彬襲封となり、同時に薩摩守に任官した。時に斉興六十二、斉彬四十三であった。
 最も血なまぐさい悲劇を経過したとはいえ、斉彬党の人々の悲願は達成したのだ。地下にある霊も、孤島に流されている人々も、さぞ満足であったろう。西郷ら誠忠組の青年らのよろこびも言うまでもない。
 この成功に最も直接に力のあったのは、井上出雲守以下四人が筑前に脱走して、黒田斉溥に子細を訴えたことにあるのだから、大功労者のわけだが、帰藩はゆるされず、斉溥の庇護を受けて他国にいなければならなかった。しかし、彼らはそれでも満足であったろう。この頃の武士の主家にたいする犠牲的心ゆきは、現代人には理解しにくいものになっているが、理解出来ないからとて、存在しなかったと思ってはならないであろう。真の宗教家の上にたいする信仰、真の芸術家の芸術にたいする献身、親の子にたいする愛情に似たものと考えれば、ほぼ推察がつくであろう。

 斉彬は襲封すると、翌月帰国の途についたが、途中寄り道して博多に行った。黒田溥に会って、多年の厚情、わけてもこんどの事件にたいする尽力の礼を言うためであった。溥は昨年領内が大洪水と台風につづけざまに見舞われたため、幕府に願って参観を延期し、もっぱら文書をもって伊達宗城や親戚の大名らと連絡をとって、斉彬の襲封を実現したのであった。 
 自分の画策が見事にあたって、斉彬が薩摩藩主になって初入部する途中立ち寄ったのだから、斉溥のうれしさは一通りではなかったろう。半日の間歓談したという。
 この時、斉彬は侍臣に命じて、井上出雲守ら四人に、多年の忠節にたいする褒詞と褒美の品物を伝えさせた。また住吉神社に参詣したのであるが、途中の茶店で待っているように命じ、行列がその前にさしかかると、乗物をとどめ、すだれを上げて、四人のほうを見やってうなずくことしきりであり、四人は茶店の軒下にひざまずき、両手をつき、滂沱たる涙にくれながら、斉彬を仰ぎ見たという。
 法は重いものである。江戸時代の大名は専制君主という立て前になっているが、勝手に法を破ることは出来なかった。理由はどうあれ、四人は脱藩の罪を犯している。藩主としては公然とはこれを引見し、その忠節を褒賞することは出来ないのである。芝居や映画や講談では、殿様が扇子でもひろげて、「あっぱれ、あっぱれ」とほめて帰参をゆるし、加増をくれるということになるが、そうは出来ないのが現実であった。
 しかし、この人々が筑前にとどまっていたので、後に月照事件の時、月照薩摩入りの劇的事件が出来るのである。歴史はーーつまり現実は、常に人間の思量をはるかに越えて複雑であり、微妙な脈絡をもっている。

 斉彬は五月二十一日に鹿児島についた。彼の家督相続の報せが鹿児島についたのは、二月二十日であった。城下といわず、全領内が複雑な緊張のもとに、その帰国を待っていた。
 国許で、斉彬擁立派であった人々は、あらしの夜が明けて、さわやかな日ざし照わたる朝を迎えるようなよろこびをもって、
「殿様は信賞必罰、必ずや、藩政をみだり、暴悪をほしいままにした姦人共に断固たる処置を下されるとともに、忠烈の義士らを顕彰されるであろう」
と、期待したし、久光擁立派は、
「どういう罪科に仰せつけられるであろう」
と恐怖していた。
 ところが、斉彬はなんにもしない。反対者の処罰もしなければ、犠牲者の赦免もしない。わずかに末川近江の収賄がひどいという理由で、家老職を免じたにとどまった。末川氏は島津の一族で、代々「久」字を名のることを許されているほどの家である。
 近江の収賄といっても、吉井七之丞の手紙などには、島津将曹の方がずっと手ひどいとある。これには、手を触れず、近江だけを処罰したのは、この処分が政略的なものであったことを語っている。将曹は調所の後釜にすえられたほどの斉興のお気に入りだ。手を触れては斉興のきげんを損うであろうが、
「近江ならそれほどお気に召しているわけではない。誰か一人くらい大物を処分しないと、家中の者がおさまるまいから、これにその役をつとめさせよう」
というのではなかったか。以後の斉彬の末川にたいする態度はなかなか温いのである。あるいは君臣談合の上の処置であったかも知れない。
 斉彬としては、一つにはここで急激なことをしては、父の非を天下に示すことになると思ったのであろう。「三年父の道を改めず」の儒教道徳は、当時の人には骨髄的なモラルであった。とりわけ、斉興は無理隠居させられたのだから、そのきげんを損ずるようなことは、避けなければならないと思ったのであろう。

 二つには、斉彬の襲封は斉彬が膳立てして、ずいぶん計画的にことを運んでいる。斉彬としては自分が薩摩の当主となることは藩のためでもあり、日本のためでもあるという大自信をもってのことであったに相違ないが、それにしても、あの騒動に関しての信賞必罰はやりにくかったにちがいない。
 三つには、これがもとになって、藩内に党派争いがおこっては、将来の禍害はかりがたいものがあると思ったのであろう。現に水戸藩など、光圀以来の藩内の党争がずっと尾を引いて、斉昭の襲封の時に再燃し、なまじきびしく信賞必罰したためにそれは激化し、ついには斉昭が幕命によって隠居を仰せつけられる結果となった。この時から七年前のことだ。
 水戸藩の党争はこの後も激烈につづき、たがいに殺し合ったために、維新運動首唱の藩でありながら、その達成期には一人の目ぼしい人物もいなくなっている。将来のことは別として、斉彬は賢明な人だし、親しい水戸家のことだしするから、よく知っていて、大いに他山の石としたろう。
「わが薩摩も、文化年間に近思録崩れがあり、今またこのさわぎがあった。共に言わば党争だ。水戸の二の舞をふむ危険は十分だ。この際、急激な信賞必罰など、党争を激化するばかりだ」
と、思ったにちがいない。

 斉彬は流罪に処せられて孤島に憂悶の日を送っている人々を忘れてはいなかったが、これを赦免するについては、慎重を要した。この人々は斉興によって流されたのだ。不用意に赦免命令を出しては、これまた父の過誤を天下にむかって証明することになる。
 彼は斉興がほしがっていた従三位をもらってやり、その祝いとして領内に大赦を行う計画を立て、しきりに幕府や京都方面に運動した。
 これは容易に運ばなかったので、遠島になっている人々はずっと長く、流人の生活をつづけなければならなかった。大久保の父次右衛門もその通りだ。従って大久保も役職につくことが出来ず、一家の生活はずっと窮迫をつづけなければならなかった。
 このような斉彬の気持ちは、一般藩士らにはわからない。久光擁立派のものは薄気味悪さはあっても、何となくほっとしていたろうし、斉彬擁立派の連中は失望もし、腹を立てもしたろう。
 とりわけ、西郷ら誠忠組の青年らは、年若くして一本気であるだけに、また同志である大久保の苦しみをいつも見ているだけに、歯ぎしりしたいほどのものがあったに相違ない。

 あたかも、斉彬はこんな布告を出した。
「今度宰相(斉興)様がご隠居なされ、余は家督をついだが、非才その任にたえるかと、常に心配している次第である。もしわしが気づかないことがあったら、遠慮なく意見を聞かせてほしい云々」
 このあとなおあるが、それは役人一般、一般武士、領民一統にたいする訓戒で、新しく領主となる人は大てい告諭することで、めずらしくはない。眼目はここに書きぬいたこれだ。こういう布告をする大名は、絶無ではないが、まことにめずらしいのである。とりわけ、むずむずしていた西郷の眼には炬のように映じたろう。
「ありがたかことじゃ。おいどんらが意見も聞いてくださるという」
と、思った。
 誠忠組結成の目的にも沿うことだ。誠実は彼の天性だ。斎戒沐浴して、想をまとめ、筆をとって、建白書をしたためた。
その要領はこうだ。
 一つ、ご治政のお手はじめとしては、何よりも従来専横ににして国政をあやまった者共を処分なさるべきである。
 一つ、お由羅の方以下の姦人らを処分なさるべきこと。
 一つ、今度の騒動で流滴されたり、脱藩したりした人々の罪を赦免,速かに召喚さるべきこと。
 一つ、兵制を改革し、範を水戸にとり、士気を振興あるべきこと。
 このほかになお二カ条あったというが、それは伝わっていない。しかし、これはかねてから胸に抱いていること、おそらく農政に関したことではなかろうか。

 書き終わると、西郷はそれを持って、母の兄椎原与右衛門の宅に行った。
「伯父サア、オマンサアは、お側用人の種子島六郎殿とご懇意でございましたなア」
「いかにも、親しくしていただいているが」
「そんならば、お願いがごわす」
 たずさえて来た建白書を出して、種子島の手から斉彬のお目にかけてほしいと頼んだ。
 椎原は責任上、一応建白書を見せてもらったろうが、この人は後年に至るまで西郷が尊敬しているほどの人物だ。この騒動について慷慨もしている。
「ようこそ書きやったな。よかよか。必ず頼んで上ぐるぞ」
と言ったろう。
 書類は種子島六郎を通じて、斉彬のもとに上った。
 斉彬は読んだばかりでなく、その余白に朱でくわしく答弁を書き、それを種子島六郎に下げわたし、六郎から西郷に説明させている。これはいかにこの建白書に心を打たれたかを語るものといえよう。

 西郷という人は、その書簡集を見てもわかるが、なかなか文章の上手な人だ。誠実感あふれるばかりの中に、豪快な措辞とくだけた言いまわしがあって、なかなか魅力的な文章を書く人であるが、もちろん斉彬は文章に参ったのではない。誠実さと、権貴をはばからぬたくましい勇気に打たれたのであろう。
 斉彬は前に述べたような理由で、こんどの賞罰には全然と言ってよいくらい手を下していないが、彼とても人間だ、自分を排斥し、自分の子女らを呪殺した者共にたいする憎悪もあったろうし、怨恨もあったろうし、もちろん奸悪を征伐したい正義感もあったろうし、本心を言えば、大いに信賞必罰したかったろうから、純粋な正義感をもって、堂々とそれを主張する西郷の建白には、胸のすくようなものがあったに相違ない。
 彼は一カ条、二カ条には、孝道の立場からそれが出来ない、「父は子のためにかくし、子は父のためにかくす。直きことその中にあり」という聖語もあるではないかといい、第三条には、もっともな意見ではあるが、これまた上述のような意味で、急には出来ない、自分は決して忘れてはいないから、必ず時機を見て赦免召喚するであろうと答えている。
 第四条の兵制改革のことも、斉彬には、足一歩も国外に出たことのない青年が、その時代こんなことにまで関心があるかと、相当感心させられたろう。しかし、これにも、
「その方の意見はしごくもっともである。水戸候が鋭意兵制を改革し、度々演習など催されるのは、時節柄もまことに適当で、勇ましいことではあるが、そのために何やかやと公儀から嫌疑を受けておられる。親藩たる水戸にして然りとすれば、外様なるわが藩はよほど注意しなければならない。追追とそう持って行きたい」
と答えている。
 五条目以下が湮滅しているのは残念であるが、これは農政に関したことであったに違いないと信ずべき理由がある。いずれ先に行って自然のうちに読者にもわかっていただけると思うが、果たしてそうであったとすれば、西郷は郡方書役として現実に農民の生活を見ているのだから、最も力のこもった建白であったろう。 

 彼は誠実で礼儀正しいと同時に、正を踏んではいかなる権貴をも恐れない勇気のある人だ。『近思録』研究に志して以来の彼の修養は一筋にこの精神の涵養にあったのだ。随分思い切ったことを書いたに違いない。
これも、斉彬には、
「頼もしい若者」と思われることであったろう。
 西郷のこの建白書の次第は『薩藩お由羅騒動』の中にあることで、三田村鳶魚は、
「これがすなわち南洲のはじめて意見を建白して、はじめて公(斉彬)に知られた時であります」
と書いている。
 この建白書にたいする答えの末尾には、
「以上は昨夜一通り思慮したまま朱筆を加えたもので、十分な思案を経たものではない。納得行きかねる点があるかもしれないが、意をもって補って、理解してほしい。ない今後とも、気づいたことは、何なりとも意見を申し出るように」
とあったという。

 当時の武士だ。感激しないはずはない。西郷はせっせと建言している。やがて、彼は斉彬に見出され、無二の寵臣となり、斉彬によって教育され、斉彬によって世に紹介され、斉彬によって「薩摩に西郷あり」と天下の人物に知られ、そのためにあれほどの大しごとの出来る素地が出来たのであるが、彼は晩年、斉彬に見出された動機をこう語っている。
「わしが順聖院(斉彬)様から目をかけていただけた動機は、なんであるか、はっきりとはわからんが、度々建白書を奉ったから、それではないかと思う」
。。。

===

(橋本佐内と相知る)より
。。。
(橋本佐内は)十六の時、蘭方医学を修めるために大坂に遊学し、緒方洪庵の適々斎塾(適々塾、適塾とも略称する)に入った。この時代緒方塾は大村益次郎が塾頭をしていたはずである。大村が後に長州藩陸軍の総裁的地位に上って幕府の長征軍を散々に撃破したこと、明治初年に新日本の軍制の基礎を定めたことは周知のことだ。この時代も大村が単なる蘭方医であったろうとは思われない。必ずや憂国の志があり、政治に鋭い批判をもっていたに相違ない。伝えるところはないが、左内にその面の影響があった可能性は大いにある、
 緒方塾においても、佐内は秀才の名が高く、師の洪庵が、
「橋本は池中の蛟龍である。他日必ずわが塾名をあげるであろう」
と言ったという。
 二年数か月の後、父の病気によって帰国し、同年冬、父の死によって家督相続して藩医となった。
一年の後、安政元年、藩の許可を得て江戸に出、坪井芳洲、杉田成卿、戸塚静海らについてまた蘭学を学び、一面塩谷宕陰について漢学を修めた。この頃の彼の日記に、毎日のように孟子を読む記事が出ている。
 彼が国事について熱情的な興味を持ちはじめたのは、安政二年の頃からである。この年彼は国に帰り、医籍を脱して士分に取り立てられ、書院番となり、十一月末学校制度取調べのためまた江戸に出て来た。
 彼が水戸藩の人々と交際をするようになったのはこの頃からであり、西郷と最初に出会いをしたのは、この二度目の出府一月目である。佐内はやっと医学書生から水離れしただけだ。斉彬の信任を得ている西郷の方がはるかに事情通なわけだ。俊斎の追憶談のあてにならない点はここにもある。この時、佐内はわずかに二十二。
「同輩の中で最も啓発された人物は橋本佐内殿」
と後年、西郷が言っているほどであるから、丹念に景岳全集を調べてみたところ、意外な発見をした。
俊斎はこの頃には佐内に会っていないのである。会う道理もない。俊斎はこの頃在国中であったのだから、 。。。。 
 西郷と佐内とのこの年(安政三年)中の関係は、景岳全集の日記にあるかぎりでは、次ぎの通りである。
。。。
 帰藩命令によって、間もなく帰国したのだから、二人がせっせと会うようになるのは、この翌年、それも秋頃からである。
 
七月七日、暑いさかりの日、斉彬は西郷を召して、一通の手紙を渡し、
「先ずそれを読め」といった。
「はっ」
 なにごとかといぶかりながら、西郷がひらくと、斉彬の手蹟だ。
「はっ」
とおしいただき、あて名を見ると、水戸の斉昭の名になっており、その日の日付になっている。西郷はふたたびおしいただいて、読んだ。忠告状であった。斉昭に出そうとして、いましたためおわったものに相違なかった。それを自分に読ませる斉彬の考えがどこにあるか、西郷にはわからないが、自分を信頼しているからであることはたしかだ。あまりのありがたさ、もったいなさに、西郷の大きなからだはふるえた。

 斉昭の不平の理由は色々ある。
その一
 彼の幕府内における評判がおそろしく悪かったこと。彼は天保年間に領内の寺院の梵鐘や仏像を鋳つぶして大砲をつくっているが、幕府の顧問になるとこれを建議して幕議とし、朝廷に奏上して、日本全国の爺の梵鐘のうち、本山の鐘、古来の名鐘、時報の鐘の三種を覗いては全部鋳潰して大砲にせよという太政官符を下してもらい、天下に公布した。
。。。
 実際この時代の水戸思想はおそろしく国粋的になっている。光圀の時代には神・儒・仏・老、いずれにも偏せず、よいものはいずれも採用して調和するという行き方であったのが、時勢に激せられたためであろう、儒教と神道だけをないまぜにしたものになって、仏教をひどく排撃している。光圀の策である『梅里先生行状記』と斉昭の作である『弘道館記』とをくらべて読んでみれば、その変化が最も瞭然とわかるのである。
。。。
その二 幕府が米国と和親条約を結んだあと、英・蘭・露と、次ぎつぎに条約を結んだことだ。
 骨髄からの攘夷主義者である斉昭にとっては、米国と条約を締結したことだけでも心外千万なことであるのに、こうなっては痛憤せずにはおられることではなかった。 。。。
その三
 この前年(安政二年)十月九日に、下総佐倉の城主堀田正睦が新たに老中、しかも首席老中になったことだ。
 。。。
その四
 昨年来、幕府は大軍艦をつくることにして、斉昭がこれを担当し、佃島で建造にかかり、それがこの頃出来上がり旭日丸と名付けられ進水したのだが、出来がすごく悪く故障続出で鐘ばかりやたら食うので、世間ではこの船のことを厄介丸とあだ名し、
 。。。
その五
 国防のことに幕府が金を出し渋り、思うようにしごとができないこと。
その六 藤田、戸田の死によって、彼自身が有能な輔佐の臣を失ったばかりか、藩内の党争がまたさかんになって、いろいろこまる事態が生じてきたこと
 大体以上に尽きるが、その一つだけでも相当気を腐らさずにおられないことなのに、一ぺんに湧きおこったと来ては、斉昭は怏々として楽しまず、いまでは決められた隔日の登城もせず、屋敷にとじこもっているのであった。
 斉彬の手紙はつまりこのことについての諌言の手紙であった。
。。。
 感激に目を輝かせている西郷に、斉彬は手紙に書けなかったことを話した。
 西郷は小石川の屋敷に言って、安島帯刀に会った。
 。。。
 これまでも西郷は斉彬に最も目をかけられ、最も深い愛情をもって遇せられて来たが、これまでは純粋に教育の時期で、天下のことにはタッチさせられなかった。この時からそれがはじまるのである。
。。。
 どんな働きをしたかは、他に参照すべき書もなければ、伝承もないから、はっきりとはわからないが、大体の推察はつく。斉彬の命をふくんで、幕府の要路者や諸藩主、たとえば越前候松平慶永、たとえば宇和島候伊達宗城、たとえば黒田斉溥などのところへ言って、大いに運動したのではないかと思う。
 後年、安政大獄の直前、西郷は土浦の土屋家の用人大久保要や肥後細川家の家老長岡監物などと親しく往来して情報を得たり、ことを依頼したりしているが、その人々との交際もこの時ひらけたのではないかと思う。 。。。
富強天下に冠たる雄藩の主であり、賢名天下に仰望されている斉彬ほどの人がこうまで信頼しているとあっては、西郷の名は上らざるを得ない。
「薩摩に西郷あり」
と、天下の有志らは皆知ったろう。
 この名声、この交友関係、これは当然後年の彼の大活躍の素地となるのである。斉彬は西郷にとって単なる主人ではなかった。良師でもあり、また、世におし出しくれた人でもあったのだ。
 。。。

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西郷隆盛 天命の巻 歴史小説 西郷隆盛
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茶道太閤記 / 海音寺潮五郎

2016-02-20 19:50:00 | 音楽・芸術・文学
茶道太閤記
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グーテンベルク21

 

海音寺潮五郎さんといえば、やっぱり、西郷隆盛かなあ。ここでは、海音寺さんの直木賞受賞作をもとにした名作「茶道太閤記」。戦前に書かれたものだし、今ではのちの文庫本も絶版。こういう名作が「kindle」版で出ていることは、まことにうれしいことだ。もっとも僕は「kindle」版もツンドク状態だった。読めば作家の力量のせいで、ブックを開けばあっという間、せっかく復刻してくれたデジタル・アーカイブのツンドクは実にもったいない。

海音寺さんというかたは、歴史学者になったかもしれぬ人らしい。そのひとが書いた歴史小説、物語の主題、文学としての豊かなイマジネーション、歴史的な事柄への深い造詣などなどがあいまって、このような佳作が生まれ、われわれの眼前に利休も生き返るのであろう。この作家には反骨精神旺盛「筋を通す」という心も満ちあふれてようだ。利休の最期も「名こそ惜しけれ」であった。

海音寺さんの描く対象人物への思い入れの深さは、やはり西郷隆盛。最後となった一冊は絶筆、上野彰義隊でおわっている。こういう知性が、対象にした人物への情感をかかえたまま、いなくなってしまう。。。列伝大すき人間に読む気をおこさせ、永く遺産になるような史伝文学、わが時代では誰が誰を書いてくれているのだろうかなあ。。。

>>>(以下、「茶道太閤記 / 海音寺潮五郎」2011.3.15 グーテンベルク21 デジタルブック」より、引用)

>>売買問答

 茶室を出ると、すぐ、宗易は妻のところに行った。
「お吟は行ったか」
「まいりました。先刻から少し風が出てまいりましたので、さむくならなければよいがと案じております。
 水色の夕明かりをうけた明障子が、風に微かに鳴っていた。
「大したこともあるまい。しかし、きつう寒くなるようであれば何かもたせてやるがよいーーーわしは、これから出仕する」
「御出仕?」
 時ならぬことなので、宗恩はいぶかった。
「うむ、ちと、思いついたことがある」
 宗恩と女中に手伝わして、身支度をととのえて、宗易は屋敷を出た。
 薄ら寒い風のそよいでいる灯ともし頃だった。

 秀吉はすぐ会ってくれた。
「妙な時刻にきたの」
 いつもの闊達な態度である。
「恐れ入ります。折り入って、お願い申し上げたいことがございまして、時刻もはばからずまかり出ました」
「ほう」
「拙者、娘の儀でございますが、先般来、縁談が持ち上がりまして、佐々陸奥守殿の御家中の者と内談調いましてございますれば、恐れながら、ご許可を賜りたく存じまして参上つかまつりました」
 秀吉の顔はにわかにきびしくひきしまったが、宗易は、うやうやしく、だが、物静かな調子でつづけた。
「拙者如き者の子女の婚姻について、御心をわずらわし奉ることの憚り多きは千万ぞんじておりまするが、御家人の片端につらなる身、また当人は大奥へもお出入りいたしておりました者、かたがた御許されを蒙って決定いたすべきものと心得まして、お願い奉ることにございます」
 やっと、秀吉は口を開いた。
「娘というは、万代屋の出戻娘のことか」
「さようでございます」
 秀吉はからからと笑った。
「はははははは、が、だな、下世話にも、恋に上下のへだてなしというぞ、わしが許さぬと申したら、そちはどうする?」
 微笑のかげに、鋭く眼が光っている。
 冗談めかした微笑をふくんでの言葉だが、それが冗談でないことは、異様な眼の光を見ても察せられる。
「おたわむれを仰せられまする」
 宗易は冗談にしてしまおうとした。
 が、秀吉は笑いながらなおも言う。
「ははははは、ずるいぞ、ずるいぞ」
「拙者は、拙者の所存のままを申し上げているのみでございます」
「それがずるいというのだ。ははははは、一体、その佐々が家人というのは、およそどのくらいの身分だ」
「あるいは、御耳に達しおるかもしれませぬ。もと佐々家の重臣半右衛門が嫡子でございます」
「ほほう、半右衛門が倅か、では、与左衛門が甥にあたるわけだの」
「御意」
 秀吉はなにやらしばらく考えこんでいるようだったが、不意に、半身を乗り出して、ささやくような声になった。
「どうだ、おれにくれぬか」
「何と仰せられます」
 宗易は笑おうとしたが、笑えなかった。声も咽喉につかえてかすれたものになった。こんなに露骨に出て来ようとは思いもかけないことだった。
「おれは本気で言っているのだぞ。おれはそちの娘にほれているのだ。白状すれば、はじめ口説いた時までは、そぞろ心に過ぎざった。が、今ではちがう。本気なのじゃ」
 宗易はうつ向いていた。黙っていた。思い切って打ってみた戦術が、見事に逆手に取られたことを知った。手も足も出ない感じだった。
「その方が、本人にとっても、そちにとっても、ずんと倖せだぞ。考えるまでもないことではないか」
「‥‥‥」
「どうだ。くれぬか。くれい。頼む」
 必死ともいうべき眼の色だ。
 やっと、宗易は口を開いた。
「身にあまる有難きお言葉ながら娘は一度嫁しました者、それも賤しき町人の家に嫁しましたもの、あまりに恐れ多くございますれば‥‥」
「断るというのか!」
 秀吉の言葉は激しかった。
 むくりと頭を上げて、ひるまぬ顔で相手を見つめながら、宗易は言った。
「ご辞退申し上げます」
 秀吉は微かに青ざめた。じっと宗易をにらんでいた。かつて、宗易の見たことのない、鋭い憎悪のこもった眼だった。
 臆せず、宗易は見返していた。
 息づまるように険しい幾瞬間かが過ぎた。
 がらりと、秀吉は態度を崩して、身をゆすって笑い上げた。
「ははははは、ははははは、そう愛想のない返事をせずともよかろう。いずれ考えました上でぐらいのことは言えぬものかの」
「恐れ入りました。では、考えました上で、何分の御返事を奉りまする」
「では、ということがあるか、では、ということが。では、こちらも色よき返事を待っているぞ」

 宗易は思い心を抱いて退出したが、屋敷に帰りついて着がえをする間もなく、取次の家来が来客を報じて来た。
「殿下よりの御使者として、東条紀伊守様いらせられましてございます」
 東条紀伊守が、どんな使命を以て訪ねて来たか、宗易はすぐ推察がついた。当惑した。怒りが感ぜられた。圧倒的な秀吉の態度にたいする怒りでもあったが、藪から蛇をつつき出した自分の策の誤りにたいする怒りでもあった。しかし、躊躇しなかった。すぐ立って迎えに出た。
 東条紀伊守は、六十に近い年輩だったが、一筋の白い毛も見えぬ真黒な髪、痩せてこそいるが皺ひとつない顔、見事にそろった丈夫な歯、軽捷そうな小柄なからだ、若い時の心身の酷使に老衰することの早かった当時の人としては驚くばかりに若々しかった。
「まず、前もってお祝いを申し上げて置き申そう。あめでとうござる」
客間に通るとすぐ紀伊守は言った。きさくな、剽軽な態度だった。
 宗越は、つめたいぐらい、重々しい調子で受けた。
「一向にわかり申さぬ。何のことでござろうやら」
「そうしらばくれずともよろしかろう。かほどまでの殿下の御執心お羨ましく存ずる。今後、如何なる御身分にならせられるにしても、これまでのおなじみ甲斐に、お見捨てなくお引立てのほどを、平に頼み入りまいさせますぞ。ははははは」
 軽佻な言葉づかいと、歯の浮くようなへらへら笑いが、鋭く癇に立った。どなりつけたいほどの思いを、やっとのことでこらえて、宗易はうながした。
「とにかく、御上意のほどをうけたまわりましょう」
 紀伊守は話はじめた。
 先刻の秀吉の言葉のくりかえしである。娘を差し出せ、そなたにも、娘にも、誓って悪いようにはからわぬ云々‥‥。
 宗易は、黙りこんでこれを聞いていたが、口上が終ると、落ちつきはらって言った。
「御辞退仕りまする」
 取りつきようもない、きっぱりとした返事に、紀伊守は面食った。自分の耳を疑った。
「な、な、なんと仰せられた?」
「有難き仰せごとながら、御辞退つかまつりまする」
 冷静な態度が、牢固たる決心を示していた。
 しばらくの間、紀伊守はぽかんとしていたが、忽ち狼狽した。こんなことがあってよいはずのものではない!腹を立てた鼠のように、その見事な歯をむき出して、ほとんど叫んだ。
「さ、さ、さような‥‥。誤解されるな。殿下でござるぞ。殿下でござるぞ。殿下の仰せなのでござるぞ」
 殿下ーーという言葉にききめのないはずがないと信じ切っているもののように、紀伊守は幾度となくくりかえしたが、宗易の態度は一層冷静になった。ただ眼のみが、いつものおだやかな光を捨てて大きく爛と見ひらかれて来た。
「承知いたしております」
「ご承知?ご承知?ご承知の上で‥‥?悪い思案じゃ。なぜさような‥‥ははははは、わかった。拙者をからかっておるのだな」
「拙者は本気で申している」 うろたえきっている相手を、冷ややかに見ながら、意地悪いくらい静かに、宗易は言った。
 紀伊守の狼狽ぶりは見るもみじめだった。宗易の鋭い眼に射すくめられて、穽に落ちた鼠のようにうろうろとくりかえすのだ。
「悪い思案じゃ。悪い思案じゃ。ちょっとつもって見られてもおわかりになろう。お娘御の御出世、ひいては、貴殿にとっても‥‥」
うやうやしいくらい宗易の態度はしずかだった。
「仰せまでもなく、よく承知しています。が、殿下はすでにご承知のはずでござる。娘は、さる人につかわすことに、すでに内談が整うております。他の理由によって、ならぬ、と殿下が仰せられるのであれば、従い奉らぬわけにはまいりませぬが、その理由で破約は出来申さぬ。拙者は茶道をこそ売ってはいますが、功利のために娘を利用しようとは露考えませぬ。ーーーお聞き候え。拙者ことは、茶道においては古今の名人、末代あるまじき者、と自負しています。その拙者が、娘を売って立身をはかったなどと、世に取沙汰せられようものなら、拙者一人の恥ではござらぬ。日本茶道の恥ではござるまいか。殿下の御命令を拒み奉るなど、まこと恐れ多きこととは存ずる。が、平に御辞退仕る」
 おどろき、あわて、呆れて、紀伊守は口が利けなかった。宗易が剛愎な人間であることは、彼もかねてから知っている。しかし、これはあまりだ。事もあろうに、殿下の懇望をこばむなど、自ら禍を求めるものではないか。第一、こんな返事を持って行って、自分がどうなるか。どんな禍が降りかかるか。恐怖に胸がふるえて、はげしい勢いで頭の中が廻り出すように感じた。何を言っているのか、自分でもわからないで、べらべらと言っていた。
「よくわかりまする。貴殿のいさぎよき御心事はよくわかりまする。感嘆の外はござらぬ。しかし、考え過ごしてはおられぬかな。誰あろう、殿下でござるぞ。加賀守殿(前田利家)、飛騨守殿(蒲生氏郷)、近江守殿(京極高次)、歴々の大名衆さえ、あの通りに、お娘御や御姉妹をさしあげていらせられるではござらぬか。世に従わぬを狂人と申すとか。貴殿はもと堺の町人、何の恥になり申そう。売るの、買うのと、さようなことにこだわりまされては、かえって世の人は笑い申そう」

 宗易は眼を閉じて端坐していたが、その眼をみひらくと、低い声で語った。
「なるほど拙者はもと堺の町人、今お並べなされた大名衆にくらべてはものの数にならぬ身分のもの。が、それ故にこそ、この話にこだわれずにおられぬのでござる。大名衆では、何とお言いなされているか存ぜぬが、町人の世界では、利得を目的として物を人に渡すを売ると申す。娘を殿下に差し出すことは、拙者の利得となり申す。されば、これは売るのでござる。売買を本業とする町人の世界でも、娘を売るは恥ずべきことと致しております。平に御辞退‥‥」
 宗易のこの言葉は、結婚といえば、いや、結婚にかぎらず、そのあらゆることが、政略的なもの、利益追求以外はなにものもなかった、当時の上流武家の社会にたいする、町人の痛烈な皮肉であった。
 大名衆全体を罵る、宗易の痛烈な皮肉にも、紀伊守には、極く浅い意味にしか受け取れなかった。紀伊守は(貴殿はもと堺の町人)といった自分の言葉が相手を怒らしたのだと考えた。あわて、ふためいて言う。
「いや拙者はさようなつもりで申しあげたのではござらぬ。町人とは申しながら、堺の納屋衆とあれば、別でござる。拙者はただ歴々の大名衆でさえ世に従いなされている故、貴殿がそうなされても、誰も何と申そうはずはないと申しあげたまででござる。誤解なられぬよう」
「御念のいったこと。しかし、拙者の心は微塵動きませぬ。大名衆がどうなされようと、拙者にはかかわりのないことでござる。今でこそ、御威勢に恐れて、誰も何とも申しませぬが、殿下百年の後、何と申そうやら、決して御自慢にはならぬことと存じます。しかし、あの人々は、詮ずるところ、ただの大名衆。百年の後、二百年の後、三百年の後、名前の残る人々ではござらぬが、拙者は芸道に生きる者、自ら申すもおこがましくはござるが、いつの世までも名の残る者でござる。一言一行、かりそめなことは出来ぬ身でござる。何と申されようと無駄。平に御辞退仕る。御前体よろしくおとりなしの上、御披露くだされとうござる」
 何という自信の強さ!この茶坊主は、百二十万石の加賀守より、四十万石の蒲生殿より、自らを高しとしている。紀伊守は茫然として眼を見はったが、次第に相手が憎くなった。
「さ、さような‥‥まるで‥‥果報を知らぬとは貴殿のことじゃ。貴殿が今日のその御身分になられたというは、ひとえに、殿下の御高恩ではござらぬかーーくどいようではござるが、貴殿の御為にもなること、いいではござらぬか。羨ましく思う者はあっても、どこにそしる者がござろう‥‥」
 おどしたり、媚びたり、紀伊守は必死だった。が、ここまで言って、ふと気がつくと、宗易は真暗な庭先に眼を向けて、嘲るような微笑を浮かべている。紀伊守は、かっとした。
「聞いてござるのか。拙者、貴殿のおためを思うて申しているのでござるぞ‥‥」
宗易はゆっくりとこちらを向いた。
「聞いておりまする。なるほど、拙者は殿下の御懇ろなる御恩を蒙っている者でござる。が、御報恩はその他のことでいたす。拙者は男でござれば、男としての御報恩を心懸けます。いくら申されようと無駄でござる。相手が殿下でござろうと、天子様でござろうと、つまり娘を売ること。拙者はふつといや‥‥」
「さ、それが悪い。悪い合点じゃ。貴殿は今、盛衰、いや生死の岐れ路に立ってござるのだぞ。その辺のこと、よく御勘考なされたか。もし、拙者が貴殿であれば‥‥」
 宗易は笑い出した。
「ははははは、貴殿が拙者ならば一もなく二もなくお受けなさるであろう。存じておる。いかさま、貴殿などには似合わしいことでござろう」
 露骨の嘲弄を見せた言葉に、さすがの紀伊守もきっとなった。
「何と仰せられた?」
「貴殿などには似合わしかろう、と申したまで」
 はげしい眼つきで、二人はまたたきもせず、にらみ合っていたが、やがて紀伊守はおびやかすような声で言った。
「これほど申してもお聞き入れないのだな」
「ござらぬ」
「殿下のお怒りがどのようなものか、貴殿、よく御承知でござろうな」
 宗易はにこりと笑って、自分の頸筋をおさえた。
「なにほどのことがござろう。ただ、これを召されるまでのこと」
。。。。。


>>雲鳥風帆
。。。。
 利休が堺に帰って十四日目、嫡子の道安と、次男の少庵とが、不思議な噂を聞いて来た。大徳寺の山門に上げてあった木像が、聚楽の大門戻橋に引き出されて、磔刑にかけられたというのだ。側に立札があって、数々の罪状を書きしるしてあるという。
 曰く、山門に木像を上げた、曰く、茶器の鑑定に依怙が多い、曰く、竹べらを削った茶杓を数十金という高価で売る、曰く、権勢に狎れて心術、行為ともに不遜である、曰く何、曰く何‥‥。
 寿像の運命は、そのままに利休の運命を示すものと見るべきだった。
「無念でございます。無念でございます」
 道安と少庵とは、悲憤の涙を膝にゆりこぼしながら、代る代るさけぶように言った。
 山門に像を上げるのは、世間に例のないことではない。それを何故父上にかぎって咎めねばならぬのか‥‥。
 茶器のめききに依怙が多いとは何をさして言うのか。父上は天下第一のこの道の宗匠だ。父上以上の人でなければ、そのめききに非を打つことは出来ないはずだ。どこに父上以上の人がいよう‥‥。
 竹べら一つを削って茶杓となし、法外の高価を以て人に譲るというが、父上の手にかかればそれはもう単なる竹べらではない。すでに一個の芸術品となっているのだ。原料の値段を標準として芸術品の価格を定めることが出来ようか‥‥。
 権勢に狎れて不遜であるとは何をさして仰せられるのであろう。お吟のことであろうか‥‥。
 妻の宗恩も、お吟も、半之丞も、皆、一様にすすり泣いた。
 ひとり、利休は、平静だった。彼は、笑って、息子達の言葉をさえぎった。
「言うな、言うな。天下人に悪まれていれば、いずれは、こうなることはわかりきったことだ。御愛顧盛んな頃には、御寵愛を強めることに役立ったことでも、一旦御寵愛が失せれば、それがかえっておにくしみをそそることになるのだ。かれこれ申すは愚痴と申すもの。ーーともあれ、わしは、茶道の純粋さと、おのれの精神の清らかさとを守り通した。天下人の権力を以てしても、わしのこの守りはどうすることも出来なんだのだ。孟子という書物に富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず、これをこれ大丈夫というとある。一介の茶坊主ながら、わしはその大丈夫として死んで行くのだ。はははははは」
 そして、半之丞に向かって、お吟との祝言を即刻この場で取行っていただきたいと言うのだった。
「え?」
 咄嗟には返事が出来ないでいると、利休は、いそがしげに言う。
「祝言済みました上は、お吟を連れて、直ちに九州に向けて落ちていただきたい。博多の神谷宗湛殿は、拙者年来の友故、すでに、数日前、事情を認めて書面を以て依頼して置きましたれば、悪しゅうはなさらぬはずでござる」
「‥‥」
「さらに今一つのお願い、いや、これは忠告と申すべきことでござるが、貴殿に武士をやめて、宗湛殿の許で町人となる道を学んでほしいのでござる。それは単に、天下の一統によって武士が、身を立てにくき世となった、という理由からのみではない。武士らしき魂を持つ者にとって、甚だ住みにくき世となったと思われるが故でござる。武士の道は、おのれの誇りを重んじ、おのれの名を重んずるに在る。が、それを通そうとすれば、その人は、やれ時勢知らずじゃの、やれ頑固者じゃのと言われて、必ず悲しき運命に陥らねばならぬ今の世です。故陸奥守がそうであった。高山右近殿がそうであった。そして、また、わしがそうだ。わしは武士ではない。町人であり、一介の数奇者であるにすぎぬが、宮仕えしていれば、かような破目に落ちざるを得ないのだ。かたがた、わしは半之丞殿が、武士をやめて、町人となり、新しい運命をきりひらいてくださるようにと、おすすめせずにいられないのだ。この忠言を、お聞き入れくだされようか」
 ほろほろと涙を流しながら、利休は言うのだった。
 これは、そのままに半之丞が八王子落城の時に感じたことだった。
 そうか、利休殿もそうだったか!せきを切ったように半之丞の両眼は涙にあふれた。
「か、か、かしこまりました。拙者も、拙者も‥‥」
 泣き泣き半之丞は、八王子攻めの時からの心境の変化を物語った。利休は喜んだ。
「重畳、重畳、貴殿もそれに気づいておられたか。では、早速に祝言にとりかかろう。いつ最後の命がまいるかも知れぬ時だ」
 あわただしく、祝儀が行われた。
 ただ、盃を交わしただけのものだった。

 あぶない瀬戸際だった。
 二人を、裏口から送り出して、しばらくすると、中村式部少輔一氏が上使として京都から到着した。
「自刃を命ずる」
という主命である。
 利休は命をかしこんで、一期の思い出に茶を喫したいと乞うた。中村は多年の門人である。快く許してくれた。
「かたじけなく存ずる」
 利休は、死装束にかえて、門人を従えて、茶室に入ったが、再び書院にあらわれた時、手にした一片の箋を式部少輔に示した。
「辞世でござる」
 そして、朗々と誦した。

 ひつさぐる
 わが得道具の
 一つ太刀
 今、この時ぞ
 天に抛つ
 人生七十力囲希
 咄々、吾這宝剣
 祖仏共殺
  
「遊ばしたり」
式部少輔はほめた。
「ははははは」
笑って、刀をのせた三方を引き寄せると、式部少輔は、
「ごゆるりとなされよ」
と言ったが、ふと、
「ほう、海の青いこと」
と言って、海の方に目を向けた。
 知っているなーーーと思って、じろりと式部少輔の顔を見ると、式部少輔は、まぶしげな眼を細くして、眼下の町並みをこえて港の方を見て微笑しているのだった。
 利休もゆるやかに微笑した。
「ほんに、青い海‥‥」
よく晴れた、うららかな日だ。美しい陽がさんさんと照る青い海には、きらきらと何がきらめいて、そこを出て行く船があった。満帆に風を孕んで、真白にかがやいて、白い鳳の翔けるようにすべり出て行くーー半之丞とお吟の乗った舟‥‥
 利休は、涙に、ぼうと視界のぼやけるのを覚えながら言っていた。
「ほんに青い海、ほんに青い海‥‥」

>>>>

  まだまだ寒いね

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一休 / 水上勉

2016-02-18 09:46:36 | 音楽・芸術・文学

一休 (中公文庫)クリエーター情報なし中央公論社

  室町末期はなんともたいへんな時代だったようだ。あのころに生きた一休さんの本をよんでいた。水上勉さんの書かれた「一休」、簡単に通読できるしろものではなかった。あとがきでは、「九歳から仏門に入って得度した寺が臨済派の相国寺。。。塔頭を二寺転々し瑞春院、玉龍庵に童行、喝食の生活を送った。。。子供じぶんから、天皇の子でありながら小僧をしていたその人に少なからず関心はあった。この関心の持続は、寺を逃亡して三十六年、五十六歳まであって、。。。、日がたつにつれ不思議がつのった。。。。一休の生涯に筆をそめてみたくなった。。。」という。

さらには、ツンドクだったこの単行本の帯に<著者のことば>がある。
「乱世を生きる禅僧が、権力者に抗し、教団を捨て、地獄の地平に降りた場合、どのような風狂禅者の生きざまを見せねばならなかったか。まことしやかな持戒僧たちを告発し、人間の放埓性を謳歌した破戒三昧のその生活と精神をのぞき、あわせて晩年に至ってめぐりあった盲女森侍者と三生を約して、臨終をむかえる人間一休の面目を、私なりに見つめてみたかったのである。」
これでもうボクは、いろいろ思うところはあるものの蛇足になるから、水上さん描く一休最期のひとやすみの部分を、味わってみよう。


<<<< (「以下、一休 水上勉著 中央公論社 改版20版 1996.3.30」 より引用、一部改行を入れた)

。。。。
「文明九年、師八十四歳。春夏恙無し。牀菜庵の南畔に修竹林を成し、涼を納るに宜し。師、毎夏熱に苦しむこと甚し。竹間に小亭を構え、蘆を刈りて葺を為り、竹を編んで牀を為る。師、轎子に乗りて行き半日逍遥し、亭に扁して多香と曰う。多福、香厳の風流慕う可しとなり。仍りて偈を作りて以て亭の側に題す。九月、河兵、津に入る。二十八日、籃輿して泉の小嶋に赴く。居ること半月余、十月十八日、嶋を発して安松の草舎に宿す。十九日、雨を衝いて墨の江の旧栖に帰る。神主出で迎えて驩ぶこと甚し。月尾、微恙あるも、病まずして間あり」
 酷暑の夏は苦しかったので、前年に建てた牀菜庵の南に竹林をめぐらせ、その中に茅葺きの亭を造って、竹であんだ寝台によこになってすごした由である。九月に再び河内、摂津に乱が起きたので、輿に乗って、泉州の小島に避けたが、十月には小島を出て、雨の中を住吉の旧居に入った。親しかった者が出迎えて驩ははなはだしかった様子である。幸い持病も月末まで出なかったと、墨斎は記すのだが、さて、この薪村を留守にした期間、一休は森女をどこへあずけたものか。八十四歳の瘧持ちの身ならば、輿に乗っても四人の伴衆は必要であり、晩年随侍の資料もある墨斎他数名の弟子たちも、輿に尾いてきたか、そこのところは不明である。しかし盲女を同行すれば、この場合、足手まといだろうから、酬恩庵に置いたとみてよい。とすると、この住吉の仮住いは、かつて薬師堂で森女に出会った地でもあるし、一路の思い出もあるし、「月尾、微恙あるも、病まずして」とあっても、寂寥莫々たる心懐だったと想像できる。騒乱はいつまでもつづいていた。『年譜』には「河兵、津に入る」とあるが、山城一帯は、洪水直後のことでもあるから、ただの混乱ではない。最後までねばっていた畠山義就が領国河内に敗戦して、残党が諸方に散って小ぜりあいがあった。応仁元年に火を噴いた乱は、十一年の歳月を経てもまだ終幕をみていなかった。興福寺尋尊は書いている。
「天下のことは、さらにもってめでたいことなどいっこうにない。近国とはいえ近江・美濃・尾張・遠江・三河・飛騨・能登・加賀・越前・大和・河内などはまったく将軍の下知に応ぜず、年貢などもいっこうに進上することのない国々だ。そのうえ、紀伊・摂津・越中・和泉はまだ国中戦乱の地方で、これも年貢の進上など問題にならない。けっきょく、将軍の下知がおよぶ国といえば、播磨・備前・美作・備中・備後・伊勢・伊賀・淡路・四国ばかりだ。だがそれらの国々でも守護が将軍の下知を奉じているだけで、じっさいにその下知が実施される段になると、守護代以下の在国の者どもがいっこうに承知しない。だからけっきょくのところは、日本国中ことごとくもって将軍の御下知には応じないということなのだ」(永原慶二氏訳)
 尋尊は一条兼良の子で、興福寺の大乗院門跡の地位にあったが、歿落する側にあってよく時勢をみている文章だと永原氏はいわれる。

「計ラズモ万歳期セシ花ノ都モ今何ンゾ孤狼ノ伏土トナラントハ、適々残ル東寺北野サヘ灰土トナルヲ、古ニモ治乱興廃ノナラヒアリトイヘドモ、応仁ノ一変ハ仏法王法トモニ破滅シ、諸家悉ク絶エハテヌルヲ感嘆ニタヘズ、飯尾六右衛門一首ノ歌ヲ詠ジケル。
 汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ツルナミダハ」
『応仁記』の一節は、哀調をおびている。尋尊の父兼良も「さしも甍を並べて蜂の巣の如くありし東山の堂塔も、ことごとく焼きはらわれ、打ちやぶられ、今は一寸の青葉ものこらず、八重の白雲路をうづむばかりなり」と京のけしきをうつしている。
 仏法王法も壊滅したと嘆かれるこの季節に、それでは将軍義政は何をしていたか。永原氏の『下剋上の時代』によると、文明六年三月、義政は小河の新邸を造り、富子、子の義尚を御所にのこして一人で移った。「天下公事修リ女中御計、公方ハ大御酒、諸大名ハ犬笠懸、天下泰平時ノ如ク也」と尋尊はいったが、つまり天下の政事は富子がひきまわし、将軍は大酒を呑み、大名らは犬笠懸というゲームに夢中で、まことに天下泰平の世の中だというのである。八年に、室町御所が焼失すると、富子親子は小河の新邸へ移る。入れちがいに義政は長谷聖護院に逃げる。騒乱の世に絶望、孤独をまぎらわしたくても、よるべない義政は、武将にも妻にも心の支えを失い、無力な境遇にある後土御門帝と懇ろになり、連歌をやりとりしていたという。

 前記したように、日野富子は尼将軍の名にふさわしく、「現実の利益のためには格式や儀礼を無視するばかりでなく、長い目でみれば自分の支持者たちに打撃を加えるようなことさえも平然とやってのけた。たとえば、このころ将軍家の経済的基盤は、畿内やその周辺の荘園にたいしてかける臨時税のうえにおかれるようになっていた。だから義政は大名たちの荘園侵略を極力おさえようとしていた。ところが富子は山名政豊などにたいしても、自分との個人的つながりを確保するために、但馬の荘園の侵略を公然と認めるようなことを平気でやっている」(『下剋上の時代』)。刹那的な利益の追求に走る富子は、さらに京都七口関を設置して、やがて起きる文明十二年の大一揆の因をつくる。七口関は一揆に破壊されるが、富子はまた関所を修復して、ついに民衆と対立する。もともと関銭の収入は、禁裏の修理費、諸社祭礼費となっていたが、富子はそれを着服してそれらへ廻さない。富子は、その金で豪奢な生活をおくり、関白一条兼良をまねいて『源氏物語』の講義をやらせたり、武家の女としてはあるまじき振舞いだが、しかも兼良も大金をつかまされれば、没落の宮中貴族よりは室町御所へきた方がよかったのだろう。義政は、それで富子に背をむけ、やがて東山に東求堂を建てて、三代義満が北山第を改造して別荘をつくったのに対抗して銀閣造営にのりだすことになるが、いってみれば、これもながい戦乱と天災で灰塵に帰した山城・大和の庶民が、復興もかなわず地を這いまわる地獄をそっちのけの、ぜいたくな厭世浄土希求の生活といえぬことはない。正直いって、厭世浄土をねがいたいのは、飢餓の民衆であったろう。

「残民争い採る首陽の薇、処々炉を閉し竹扉を鎖す。詩興吟は酸なり春二月、満城の紅緑誰が為にか肥ゆる」後花園帝が寛正二年の飢饉の際に詠まれた詩である。「誰が為に」は義政をさしている。「炉を閉し竹扉を鎖」した庶民は、餓死寸前であった。死ぬ前に親は子を売った。「桜川」も「隅田川」も「さんせう太夫」も、みな子供を売ったり盗まれた悲劇から物語をおこしている。子売りばかりでなく、零落した農民が一家をあげてみずから他人に身売りする「身曳き」があったと永原慶二氏はいわれる。金で買われていっても、やがて酷使に耐えかねて逃亡流亡する。人通りの多い路傍には「片輪者・乞食が群らがっていた」とある。「さんせい太夫」の母親は、眼がつぶれていた。そして足の筋を切られていた。鳥追いがその仕事だったが、足の筋を切ったのは雇い主が逃亡をふせぐためやったのである。食えない人びとは、打ち続く天災のなかを、どうして生きたか。犬を殺し牛を殺し、馬を殺して食った。皮肉なことに、仏法は殺生戒をいい、生物を殺して生きねばならぬ貧窮民を蔑視した。この国にカースト的な身分感が生じるのも、じつはこの中世の地獄においてであった。河原者とよばれて村での居住を拒まれた人びとの群れが、放浪遊芸のくらしをたてる。このけしきは、厭世浄土希求のこころから、東山に豪壮な別荘を建てる将軍や上層階級の精神飢餓とはくらべものにならぬ悲惨である。『応仁記』は仏法も王法も亡びたといったが、つまり仏者も帝王も、混乱の最中では、地獄を這う民を救いえなかった。

 一休も地獄へ降りてひと工夫するにしては、はや年をとりすぎていた。そこで、一休は、「詩文は元地獄の工夫」といい、『狂雲集』をあむことになるが、それは八十七歳の時のこと。いまは文明十一年、八十六歳であるから、大徳寺内に大用庵、如意庵の再建を終り、法堂の建立に力をつくす年まわりである。
 一休が、戦火で焼失した大徳寺の諸堂を復興するのは、堺の豪商尾和四郎左衛門宗臨の寄進があってのことである。
『堺市史』に、
「堺の富豪で貿易の利を占め、能く財を散じて施与を好んだ。一休宗純に参禅し道号を祖渓と称した。永享年中、一休の為に大徳寺内に真珠庵を創建した。応仁、文明の乱、大徳寺兵火に罹り塔頭の未だ再建せざるものが多かった際に、一休は宗臨に謀り、文明年中本寺を始め其塔頭の徳禅寺、大用庵、如意庵を再興し、猶如意庵へ田地を寄進した。真珠庵は一休が徳禅及び大用如意二庵の再興を急ぎ、先ず之に着手した為に存命中復興を見るに至らなかったが、其没後宗臨は前約を履んで再建に着手し延徳三年に至って竣工を告げた。宗臨は貿易に従事した船舶の帆柱を大徳寺の棟梁とし、船板は庫裡の腰板に使用したと伝えられている。一休の住吉牀菜庵時代には宗臨数々此草庵を訪れた。文亀元年十二月二十日没し真珠庵に葬った」とあるのがその事情である。これによると、富豪宗臨の帰依をうけていた一休が、すでに住吉の竹林に起居した当時から、大徳寺復興の話はもちあがっていて、一休が宗臨にあてて再建について謀った手紙も残されていると『堺市史』は述べている。

一休が本山復興に熱意を傾ける八十五歳から二十年前の六十三歳時の養叟攻撃、本山攻撃の熱意も思い出されてくる。龍宝山に仏法なしといい切った当人は、かつて如意庵にわずかにしろ住持した際、「常住物を庵中に置き、木杓笊籬は壁東に掛けたり。我れに此の如き閑家具無し。江海多年、箕笠の風」といい、また「住庵十日、意忙々たり、脚下の紅糸線甚だ長ず。他日君来って、如し我れを問わば、魚行酒肆、又婬坊」あるいは「山林は富貴、五山は衰う、ただ邪師のみあって正師なし。一竿を把って漁客と作らんと欲す、江湖近代逆風吹く」と詠んだ気魄と、二十年後のこの本山復興をどうかさねてみればいいか。
また富豪宗臨との接近も、「堺は繋ぐ養叟が布施の船、一句商量す市町の禅。垂示参禅又入室、一生の工夫米銭に在り」「堺浜近日、商船着く、飛魚を売らず只だ禅を売る」「人家の男女魔魅の禅、室内に徒を招いて玄を悟らしむ」(『自戒集』)と養叟とともに堺衆を諷したはずだが、養叟没後は、すべてを拭い去って、堺衆への接近があったとみなければならない。宗臨はつまり後の参禅者の一人であって、個の財力で、巨大な龍宝寺復興は、尋常でない一休崇敬の証といえる。かつて一休の風浪箕笠の精神と伽藍禅拒否の順禅固持を讃歎してきた私もこの大徳寺伽藍復興に多少の感慨がないわけではない。たとえば、龍宝山の焼亡をみて、いよいよ街頭禅の機来ると伽藍跡は草の茂るにまかせておいても一休らしい態度といえるのだが、ここのところがわからない。「河兵、津に入る」の時期である。いまだに大和は一揆がくすぶり、極苦飢寒一身に迫る民衆が、三界の火宅に五尺の躰を焼き、苦辛の地を這いまわっていたことを知らぬはずもない。「寛正の年無数の死人、万劫を輪廻する旧精神。涅槃堂裏懺悔無く、なお祝る長生不老の春を」と歎じた一休に、洛陽にみちあふれる飢餓の民はどう映ったか。一休こそ、底辺の農民、河原者と茶をくみ談じあえる禅者であったはずだが、そのさなか、文明十年の大徳寺復興への情熱は、私もいささか唐突すぎてとまどうのである。
「狂雲子は、どこに位置したのであろう。幕府の権力と五山の官寺と、一揆する土民とのいずれにも属しなかったことだけは、たしかである。遺骸を野に捨てて獣にほどこせといった一遍、鴨川にすてよといった親鸞とちがって、一休は生前に墓所『慈楊塔』を建て、その偈を森侍者との因縁において詠じたかと想像させられる。それにしても、大徳寺の再建と『楊岐の屋壁古来疎なり』とは、どのようにつながるのであろうか。『具眼の衲僧、誰か一拶』というところなのか」とは、市川白弦氏の述懐だが、私もこれと似た感慨をもてあます。しかし、これも、私のさかしらだろう。

もてあまさない人がいる。清太夫である。もはや病躯の一休には大徳寺再興騒ぎも吹き抜ける風にすぎぬといいたげである。死は迫っている。かりに骨は鴨川にながせ、犬にくわせろといってみたところで、それを自ら確かめ得た人はいまい。死ねば一休どころか万事休すだ。すなわち『行実譜』は次のように、晩年の心懐を描出してみせる。
「ひがん衆のあつまりて、とやかく一日仏事をしたまひ、さいほうにほとけの国のあるなしをやかましくいひはべるをききて森侍者のいへるに、われに彼岸はなきなり、人さまは三毒の彼岸といふなり。和尚ききとめられ、森のみる此岸をこそ彼岸といふなり、さればかつて法語にものべしごとく、此岸の闇は三毒すなはち貧喰痴をつくる人の地獄をいふなり、地獄とてべつに余のせかいにあることにあらずと。ひがん衆の問ふ、されば極楽とはいづれのところなるぞ。和尚こたへていはく、極楽浄土とてほかにあるべからず。、汝らが心中に三毒をはらふところ、すなはち浄土なり、仏とは衆生とへだててあることなし、まよひの衆生この貧喰痴わが本心にてなきことを知らず、この一念愛しにくむによりて地獄におつるなり、この三毒をもととなして八万四千の煩悩おこるなり。これすなわち地獄なり、仏といふもさとるといふも名はかはれどもおなじ道なり、森をみるべし、わが本心をいへり、森はうまれたるときすでに闇なり、しかれば、わがこころのほかに仏なきことこころえたれば、闇をも彼岸と申せしなり。現在の果をみて過去未来を知ると経にも説かれさぶらふ、このこころは、いまここにて悪心逆行をこころにわすれずして、いまそのこころを取りいだし行ふことなり、いまこの生にてそのこころをわすれず又いまそのこころを未来へひきて、人のうまれいづべきとのことなり、仏はよろづに自在をえたりといへどもみあたらざることなり、しかれども慈悲は福徳の家にうまれ、けんどんは貧苦の身にいたる、柔和忍蓐のこころすがたよくうまれ、殺生したるものは短命にうまれる、かくのごときみな前世の悪行をえたる人、この理をしりて此岸に悪行をつくらずば善果をうべし、すなわち極楽なり」

 彼岸衆とは、おそらく春秋いずれかの彼岸七日の一日に、酬恩庵にいとなまれた仏事に出席した弟子連中のことだろう。仏事を終えての茶飲み話に、彼岸論議に花が咲いた。そこへ森女が顔を出したとみえる。いや森女は盲目ゆえ、そんなところへしゃしゃり出はしなかったかもしれぬ。日向へ出て縫い物をひろげていた盲女のところへ、弟子たちが囲んでの雑談であったか。森女が、自分は浄土彼岸はもちろんみたこともない。此岸もみたことがない。それゆえ、自分は闇が彼岸だ、といったことに感銘をうけた一休が、その森女の心懐を誉めて、さらに自分の浄土論を教えたとみてよい。もっとも『行実譜』のこの項は、有名な「一休法語」に出てくる一部分だが、考えさせられるのは、一休が森女の心境に敬意をもちはじめている雰囲気である。盲目の女が、地獄の旅ぐらしに培った精神のゆたかさに、一休は目をみはり、眼あきの弟子どもにはみえぬ此岸を説いているとみてよい。この一事から推察して、森女はもはや、悟入といわれぬまでも、有漏地、無漏地のさかい目のひとやすみの場所に、どっかとあぐらをかいた存在にみえてくる。
闇から悟りへ、地獄から極楽へ。もしこの世に、経にいうが如く、そんな経路があったとするなら、森女は幼にしてそこを歩いた。眼あきが努めて見つける道を、森女は生まれながらに会得していた。しかし、清太夫は、酬恩庵の彼岸会の一日の弟子と森女の座談風景を、何げなく披露しただけで、何の理屈もつけていない。たとえば私などは、一休はこれまでに、住居の名を瞎驢などと称してきたことに多少こだわる。というのは、一休が瞎驢庵を結んだのは、五十九歳、享徳元年である。若狭に土一揆が起き、醍醐、播磨、京都にも攪乱の兆しがあった。前々年の宝徳年間は、洛中に疫病流行、都大路に野たれ死にする者、盲いたる者、物乞いはみちあふれた。一休は、眼があいていたのに、自らを「めくらろば」といった。瞎驢の名称には、一休らしい思いつきだけではなくて、めくらにたいする卑下意識がある。どうせ己れはめくらだ、というのは結構だが、町へ出れば盲者道にあふれ、しかもこの盲者らは必死に生きていた。幕府も救済の手をさしのべる余地はなかった。その地獄への恩虜の有無を、いま一休にいってみてもはじまらぬが、一休は盲者をどこかで差別している。それは養叟を癩者にすることで、こきおろしたつもりになった心象と同じ根でる。癩者にも盲者にもみえている極楽がある。瞎驢がその極楽の庵だったなら、森女とめぐりあって肉体関係が生じ、情をかわし合ってから、二度の森女出奔に眼をつぶっている挙動もおかしい。ここはやはり、一休が、七十七歳になって住吉の薬師堂で邂逅した時に、昔とちがった、盲女への理解とふかい愛情が新しく芽生えたと解さねばならない。そうでないと、森女が闇の此岸を彼岸といったのに、一休が感じ入る光景が躍動してこない。一休は年老いて森女に教えられた。まことに、「森也が深恩若し忘却せば、無量億劫畜生の身」である。「生涯の雲雨、愁にたえず、乱散の紅糸、脚頭に纏わる。自ら傀ず狂雲佳月を妬むことを、十年の白髪、一身の秋」である。こころみに、これより以前に一休が詠んだ瞎驢の詩篇はどうか。
すなわち、『狂雲集』に「盲」と題して
 瞎驢は受けず霊山の記、
 四七二三須らく傀慚すべし。
 豈に光影辺の事に堕在せんや、
 銅晴鉄眼是れ同参。
私流に解すると、達磨も六祖も瞎驢に傀じるべきだ。瞎驢は霊山の記をうけてはおらぬ。だが、その境地は、有相の仏や浄土の光影など糞くらえ。そんな分別に堕ちてはいない。森女がそうである。仏も、色も、光も、影もみておらぬ。一休の瞎驢は観念上のめくらだったが、森女にめぐりあって、そこに本物がいることに眼を瞠っている。

「聾」と題して詠んでいる。
 払を掛けて呵せらる百錬の金、
 天生懐海耳根深し。
 真聞真箇何の処にか在る、
 為に鼓す無絃一曲の琴。

「啞」と題して、
 一句披かんと欲す吾が鬱襟、
 舌頭顎を挂えて笑吟々たり。
 雲雲は答えず長生の問、
 誰か識る金言猶お心に在るを。

「盲」「聾」「啞」を一休は詠んで、盲世界は有相の光影にとらわれない真眼の持主といい、「聾」では、百丈懐海が払子をかけて馬祖に大喝されて耳が三日もきこえなかった故事を下敷きに、天性百丈は耳根がふかかったゆえに真聞真箇が悟れたとし、「啞」では、雲雲和尚が昔、長生の問いにこたえなかった故事を下敷きに、金言は心にあるとしている。これらの詩篇を詠んだ一休は、森女に遭って、真箇の瞎驢が、そこにいるのをみたのである。そう深く立入れば、先に掲げた森女との交情詩は、急に生彩を放ってくる。「盲女が艶歌楼子を咲う、楚台の暮雨、滴蕭々たり」「楚台まさに望むべしさらにまさに攀ずべし、半夜玉床愁夢の顔」「十年、花の下、芳盟を理む、一段の風流、無限の情」すべて真眼真箇の盲女への情愛と愁苦である。ここでは眼あき一休が、瞎驢の森女に土下座している。花下の一匹の虫だ。
「森よ、色即是空という、色があって色はすなわち空ならば空、有ならば有じゃ、色がなければ、空即是色の悟るまでもないことじゃ、万法色において差別あり、色において常滅なり」(『狂雲森春雨』)
森女に説いてみてところで、じつは森女は色も空もみえやせぬ。墨一色の世界に差別はない。そんな虹のような口説きを、森女はどううけとめたか。「おもひねのうきねのとこにうきしづむ、なみだならではなぐさみもなし」
思い寝の温かみに泣く森女の涙は深いといっておいたのは、このけしきをいってみたわけである。

「文明十三年、師八十八歳。孟夏下浣、龍山の正門及び偏門を興新し、且つ廃城の磩銅池を築く。 。。(中略)。七月十日、設斎して門成るの賀儀を修す。孟冬の朔、瘧発る。三日、駆瘧の薬を服して、瘧散ず。然れども、衰憊喘々としてこれを殆くす。十又九日、江の刺史来り謁す。対話すること常の如し。十一月七日、疾病篤く、水漿も口に入らず。二十一日、卯時、泊然として寝るが如くにして坐逝したまう」
墨斎『年譜』における文明十三年十一月二十一日の、一休永眠の記述は右の如くである。例によってわかりにくいけれども、夏のうちから再三の瘧が見舞っている。大徳寺正門、扁門が落成しているが、酬恩庵から輿にのってそれをみにゆけたかどうか。十一月二十一日、卯の刻なら早朝六時前後の永眠である。傍に誰かいたろう。墨斎は、一休が死の直前まで大徳寺の建設に没頭していたように記すけれど、同じく『一休和尚行実』では、「辞世の頌に曰く、須彌南畔、誰か我が禅を会す。虚堂来るも、半銭に直せず」とある。死に近づいて辞世の用意があったという。すると、輿にものれない一休は、龍宝山の山門落成の音を遠く聞きながら、時にいたむ瘧の腹をおさえて、墨蹟に余念がなかったか。「須彌南畔」の筆蹟も現存しているところをみると、清太夫の臨終の記述にも現実性がある。

「辛牛の年は瘧のつづきし年なり。和尚夏のころより床はなれたまはず、床わきに硯はこばせ、こころむくときは墨蹟す。されば、森侍者かたはらをはなれたまはず、和尚のくるしまるる声のすればすなはちよりて腹さすり足をもみ背なでしてつくしたまふもけなげなり。和尚の申さるるに、われは八十有余年の孤独を生きしと思ひきや、十年そなたをえて芳盟なり、われ謝するに何をもつてせん、三生を約すとはうはごとなりと申されてわらひゐたまひしが、十六日ひるは秋風のたちはじめて、南園の萩に小ぶりなる紫花のさきそめければ、ことしは花のいと小ぶりなり、そなたにみせたけれど詮なしとて眼に涙をためたまふも気よわきふぜいなりければ、森侍者、ひねもすすりおきし硯石など枕べの燈もとにかたづけたまひてわき近くにはべり、看護つづけたまふに、和尚ここちよく眠りたまひてありしが、卯の刻にふと眼をあけたまひ、さしとむるもきかばこそいかが思されけん、半身起したまひて、みよ森よ、そなたのすりおきし硯池に虫のおちてをるわ、みよ、秋虫の燈を恋うてきて墨汁に身をひたして果てたる姿のあはれよのと申さるるも、見えぬ森女にはわかりもあへぬことなり。げに和尚の眼にとまりし小つぶなる羽虫にて、燈によりておち、しばらくは身うごかずにありしが、ややありて燈かげの硯石にのぼりて身をふるはせ羽をたたみ硯池に近づけり。渇をばいやすならん。力いでて羽ばたきをるうちに、墨のねばりに羽とられ、やがてこときれたり。身のうごかずになりうづくまりたる羽虫のむくろは、和尚のこの世のみをさめられしけしきとおぼゆ。息ひきとられたまひしはこれよりまもなきことといへり。えみえぬ闇をさきに歩みゆかれしと森侍者のいひしに、弟子の感じ入りたりといふ。げに此岸は闇なれば盲者は和尚をもみてあらざりしなり。死とは何ぞやと弟子にとはれてさきをいそがるる人のことなりといひしもむべなり」

 つけ足すことはない。一休臨終の床のわきに盲目の森女が孤独にすわっていたけしきを想像すれば足りる。盲者にみえた人の死のあろうはずもない。庭前の風に、軒端の竹の葉がそよぐ音と、途切れがちな虫の声がしたほかに、一休は急に半身を起して説明してくれた、硯池に落ちて死んでゆく虫の羽音がし、それがやがて絶えたぐらいのことだろう。それが森女の闇世界である。「老師さま、老師さま」と森女はよんだかもしれぬ。師の応答はなかった。すなわち坐亡である。だが、その姿も森女はみていない。弟子たちが走ってきて、何やかやいい、廊下にあわただしい擦り足の音がしだし、あるいは小僧のすすり泣きがしたかもしれぬ。が、それも眼あきの狼狽し悲しむすがたであって、じつは、森女の眼には一休は生きていた。いくらよんでも声をかえしてくれないので、森女はいざって手をのばしたが、弟子の誰かがそれをとどめた。秋虫の羽音がしなくなったのと同様に、森女の世界から一休は遠ざかった。

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 有漏地、無漏地のさかい目のひとやすみ。。。

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日本人とは何か。 / 山本七平

2016-02-09 19:50:14 | 音楽・芸術・文学
日本人とは何か。―神話の世界から近代まで、その行動原理を探る (NON SELECT)
クリエーター情報なし
祥伝社

 もう、はじめからが引用だ。見開きの出版社のビックリマーク付きでの謳い文句。
>>>(見開き 出版社の再刊の辞 より)
山本七平が築き上げた「日本学」の集大成ーーー日本人はなぜ、明治維新を成功させることができ、スムーズに近代化ができたのか。また戦後はなぜ、奇蹟の経済復興を遂げ、民主主義を抵抗なく受け入れることができたのかーーーそんな素朴な疑問に答えるべく、著者は、神代から幕末までの日本人の意識と行動をたどっていくことで、その秘密を解き明かそうとする。その試みは奇しくも、著者が長年にわたって独自に築き上げてきた「日本学」の集大成の感を呈するにいたった。著者他界の二年前に上下二巻で刊行された名著を、今回一巻にまとめて再刊!ーーー  とのことだ。 

 陸奥宗光のお父上の紀州藩士伊達千広は、徳川時代までの日本の歴史を「骨の代」「職の代」「名の代」に三分する見方にたどりついたという。この先人に勝るとも劣らない古書・歴史研究によって山本七平氏が書かれたこの本は、じつに興味深いテーマでの詳細な論説の、まさに山本学、七平史観の集大成である。

  たとえば、「12章 貨幣と契約と組織ー中世の終わり」という章題だけでは分かりにくいが、具体的にはーーーなぜ足利将軍は豪奢な生活が可能だったのか、「中国土下座外交」の元祖、各種金融機関に支えられた室町幕府、徳政一揆にかかげた幕府の制札、部下が主君の行為を規定する法律制定、起請文にみる毛利元就と家臣団の力関係、その四十年後の毛利家起請文、なにが戦国時代を終息させたのかーーーという内容になる。とても拾い読みで済むようなものではない。

 本論からすこし外れるのかもしれないが、< 多数決は「数の論理」ではなく「神意」の表れ >との論を、そういうものかと思ったので、引いてみた。がってん、がってん!!すこし立ち読みもよかろうか。。。

>>> ( 序文  新しい”菊と刀” より。 。。。は中略)

 毎年のように何回か外国で文化講演会を行ない、また東京の貿易研修センターで、これから日本で活躍しようとする外国人ビジネスマンにも講義をした。そしてそれは私にとって、自らの文化を再把握して説明する良い機会となり、また彼らのまことに遠慮のない質問によって、いかなる点がかれらにとって不可解なのか、どこに疑問を感じているのかを知る良い機会となった。また著名な外国の日本学者との討議、外国の友人との討論でも、これから日本が、なにをどう説明して理解を求めたら良いかの、よきヒントが得られた。

 それらの講義や講演の草稿を基にして、それに聴衆の質問への答えを加え、さらにそれを日本学者の討論を参考にしてまとめ、それを歴史的に排列して整理し、不足の部分をおぎなったのが本書である。 。。。
 ところがいざ手をつけるとこれが意外な難物であり、。。。
 難行の最大の理由は、質問・応答をいかに生かして本文に組み込むかという点にあった。日本学者や、日本について相当の知識を持つ人の鋭い質問は、ある意味では処理しやすかったが、一般聴衆の突拍子もない質問の処理には手を焼いた。今でも脳裏に浮かぶさまざまなケースがある。時には映画から得た印象に基づくらしい質問、また現地の新聞記者かららしい相当に意地の悪い質問等々、質問それ自体は「無知・無理解に基づく無価値な質問」といえるものが決して少なくない。

 しかし、それを「無価値」と無視しては意味がない。われわれはこれからも、その「無理解」に対して根気よく説明して理解を求め、「無知」には正しい知識を提供していかなければならない。そうでなければ日本を理解してもらうことはできないが、これは相当にしんどい仕事であろう。 。。。
 とはいえ、「一般聴衆の質問」の総体的な印象をいえば「フジヤマ・ゲイシャ」的水準の質問は皆無で、その時代はすでに過ぎ去り「ハイク・ウキヨエ・ゼン・カブキ」のいずれかは、すでに彼らの言葉になっていると感じた。。。。また「モノマネ」だけの民族といった評価も影が薄くなってきた。はっきりと「モノマネ」と言われたのは韓国だけであったと思う。 。。。

 「ハイク・ウキヨエ・ゼン・カブキ」とともに「なにやら理解しかねる行き方と不気味なエネルギーをもつ民族」といった印象を、ちょうど一昔前の『菊と刀』のような形で彼らは抱いている。それが、さまざまな質問から私が得た結論であった。それは「光」と「闇」といってもよい。そして「光」部分には、少なくとも欧米人は好意的印象をもっており、また私以上に専門的知識を持っている人は決して少なくない。 。。。

 しかし「闇」に当たる部分は決してそうはいえず、この部分を彼ら自身が、どう見てどう捉えてよいかわからないといった焦燥感に似たものをもっているように感じた。そしてそれが、時には、さまざまな面に猜疑心を抱く結果になっている。それが「闇」というものであろう。
 しかし別に日本人に「光」と「闇」があるわけではない。明治以降の日本人がいかに発展しようと奇蹟を行ったわけでも、手品を使ったわけでもない。 。。。

 われわれであれかれらであれ、異文化の中に、自己が興味をもつ部分しか見ていないのがふつうである。「光」に例えた部分は彼らが興味をもち、時には彼らの方が日本人より先にその価値を発見した部分もある。そしてそれ以外の部分を見ようとしなければ、それはその人にとって「闇」になる。当然であろう。  。。。
 そこで私は「文化講演会」では、今まで彼らがほとんど聞いたことのないような部分、いわば「闇」の部分を少しでも彼らに紹介しようとしてきたーーーロンドンで鈴木正三と石田梅岩を、デュッセルドルフで律令制を、フランクフルトで日本の切支丹政策を、モントリオールでは日本の宗教を、そして貿易研修センターで貞永式目を、といったように。そして質問に答えて徳川時代の民法・商法さらに堂島の米会所に触れ、その他多くのことを語った。 。。。

 しかしどこからはじめようと、その結果は、十九世紀末に西欧の衝撃を受ける前の日本が、それまでにどのような政治文化・経済文化および固有の思想を蓄積してきたか、それが西欧の衝撃を受けてどのように発展してきたかという方向に話を進めることにしてきた。 。。。

 本書を日本で出版することに果たして意義があるであろうか、という気持ちがあったことは否定できない。しかし次のような言葉を聞いたこともまた一再ではないのである。「このごろは本当に英語がうまい日本人が増えましたね。しかしそういう日本人に日本について質問すると何も知らず、何も答えられないのに驚きます。まるでアメリカ人に日本のことを質問しているようですよ」それは決して彼らに敬愛される状態ではない。そして本書がそういう状態にならないための一助となってほしいというのが私の願いである。 。。。 

平成元年七月 山本七平

>>>(目次より)

プロローグ『大勢三転考』の日本

第一部「骨の代」から「職の代」へ
1章 日本人とは何か 、2章 文字の創造 、3章 律令制の成立 、4章 神話と伝説の世界、5章 仏教の伝来 6章 <民主主義>の奇妙な発生

第二部「職の代」から「名の代」へ
7章 武家と一夫一婦制 、8章 武家革命と日本式法治国家の成立 、9章 武家法の特徴 、10章 エコノミックアニマルの出現 、11章 下剋上と集団主義の発生 、12章 貨幣と契約と組織

第三部 名の代・西洋の衝撃
13章 土一揆・一向宗・キリシタン 、14章 貿易・植民地化・奴隷・典礼問題 、15章 オランダ人とイギリス人 、16章「鎖国」は果たしてあったのか 、17章 キリシタン思想の影響

第四部 伊達千広の現代
18章 家康の創出した体制 、19章 幕藩体制の下で 、20章 タテ社会と下剋上 、21章 五公五民と藩の経営 、22章 幕藩体制下の経済 、23章 江戸時代の技術 、24章 江戸時代の民衆生活 、25章 江戸時代の思想 、26章 現代日本人の原型 、27章 現代日本国の原型

エピローグ 明治維新の出発点 

 
>>>(以下、「日本人とは何かー神話の世界から近代まで、その行動原理を探る / 山本七平著 祥伝社  平成18年12月10日第3刷 より引用)

>> 第六章 <民主主義>の奇妙な発生

ーー日本で民主主義が成功し、キリスト教が失敗した理由ーー

 数年前、帰国する老アメリカ人夫妻の、別離の小宴に招かれたことがあった。実は、この夫妻と親しかったわけではなく、なぜ私が招かれたのか、よくわからなかった。この老夫妻は若き日に中国伝道を志して中国に渡ったが、共産党の政権樹立後しばらくたって、敵性外国人として中国を追われて日本に滞在し、ついでベトナムとカンボジアに行ってそこも追われ日本にもどってきた。そしてしばらく逗留していたが、ついに帰国することとなったわけである。

 私は学生時代の殆どを、「宣教師のいる学校」で過ごしたので、戦前の「善意のかたまりのようなアメリカ人」をよく知っていた。私はこの老夫婦にその面影を見、彼らが「石もて追われるが如く」アジアを去っていくのを、複雑な感慨を抱きつつ見ていた。彼らの生涯は決して成功とはいえず、むしろ失敗と挫折の連続だった。だが彼らはそれに失望せず、失敗は貴重な資産だから、経験を後進に伝えたいといった。

 彼らの疑問は、アメリカは政治的に日本で成功して他のアジアの国々で失敗したが、その日本でキリスト教伝道に失敗したのはなぜか、ということである。善良なる古きアメリカ人の彼らにとって、キリスト教とアメリカン・デモクラシーは切り離せないはずであった。彼らは私の意見を聞きたいといった。

 だがこういう難問にはそう簡単には答え得ない。そこで私は矢野暢氏(数学者・元京大教授)の「掘り起こし共鳴理論」を極端に要約した形で話した。氏の理論を大分”誤訳”したかもしれない。私は言った。アメリカは建国わずか二百余年、一歩アジアの国はみな古い、その中ではむしろ新しい部類に属する日本でも、自らの文字を創り『竹取物語』『伊勢物語』を記してから千百年近い。いわばアジアの国々はみな古い文化的蓄積を持っている。この蓄積の内容は外国人はもちろん知らないし、本人ですら自覚していない場合がある。そこへキリスト教と民主主義が来る、いや国によっては占領や軍事援助によって強制的に持ち込まれたし、持ち込まれようとした。

 こういった場合、古い文化的蓄積の中からそれと共通するものが「掘り起こされ」、それが外部からきたものと「共鳴する」。この場合、共鳴したものは受容されるが、共鳴しないものは受容されない。したがって日本の民主主義といっても、それは共鳴現象だからアメリカと同じとはいえないが、全く違うともいえない。一方キリスト教の方は、共鳴する文化的蓄積が無かったか、宣教師が日本を知らなかったため、共鳴する蓄積を見い出し得なかったのか、どちらかであろうと。

 「では一体アメリカン・デモクラシーは何を掘り起こし、何と共鳴したのか」。これは当然に出てくる質問である。それに対して私は思わず「仏教」と答えてから、「しまった」と思った。こういう返答は最も誤解を生みやすい。

 前にあるアメリカ人が拙書『日本資本主義の精神』の英訳を読み「禅が日本の自動車工業を造った」と言っているという話を聞いたとき、全くこまったことになったなと思った。後述する鈴木正三が「勤労」を宗教的規範としたことは事実だが、これはトヨタの工場を禅宗の坊さんが指導しているということではない。結局、自分が知っている二つの日本語の単語「禅」と「トヨタ」がそのひとの脳の中で結びついて、勝手な結論を出してしまう。「仏教」といえば同じ現象が起こるのだが、言ってしまったのだからもう致し方ない。あとは冷や汗をかきながら何とかたどたどしく説明する以外にない。

 だがここでまず、民主主義の原理とは何か、を少し考えてみよう。それが最も単純な図式で現れているのが「直接民主制」であろう。もちろんどんな組織でも執行部があるが、全員を拘束する法や規則の制定、さらに全員に行動を起こさせるような重要な決定は、その成員の是認に一人一票の秘密投票で賛否を問い、多数決をもって全員の意思として決定する。これが最も初歩的な段階で、ついで執行部の選出も秘密投票で行い、この執行部内の議決も秘密投票で行なうという形に進んで行く。そして組織が複雑で規模が大きくなれば第二段階から第三段階へと進むが、この発展は、直接民主制という第一段階がない限り、あり得ない。

 そこで問題はこの第一段階が、その国の文化的蓄積の中にあったか無かったか、次には、それが一国の中の特殊な集団内のみで行われていたのか、得な集団内から広がって全国的な規模となり、庶民に至るまでそれを当然とする状態を生じ得たか否か、それが文化的蓄積の有無の分かれ目となる、この第二の問題は後に述べるとして、最初の段階についてまず記すことにしよう。

ーーー日本に民主主義の文化伝統は存在したかーーー

いま「一人一票の秘密投票」といったが、これが完全に行われている国は今でも少ないであろう。共産圏のような挙手なら、反対者への報復や排除は簡単にできる。この問題は古代に於てはさらにむずかしい問題がある。というのは、人が氏族や大家族に属している場合、家長権等を無視して「個人として」「自由な投票」を行うことなど、まず望めないからである。この場合もっともそれが行いやすかったのは「出家」のはずである。僧は原則としてこの世の社会のあらゆる「縁」を断ち切って「出家遁世」し、「個人」となって僧院に入り、平等な立場でブッダに仕えているはずだからである。

 だがこの「はず」もなかなか原則通りに行かず、組織には組織の上下があり、その組織の長は人事権を握っているから、その人間はもちろん自由ではない。さらに平安時代の大寺院の僧は「鎮護国家」を名乗る国家公務員だから、俗世の序列がそのまま作用しやすい。だがそうだとしても、全員が一つの目的を持つ宗教的組織的集団は、氏族や大家族とちがって血縁順位がなく、その意味では平等な「一味同心」であり、重要な決定に対しては全員で会議をし、多数決で議決のうえ決定するという方式があっても不思議ではない。

 一体、この方式が仏教によって日本に持ち込まれたのか、それともこれまた「掘り起こし共鳴現象」で、仏教の渡来以前から似た方式があったのか、これは明らかでないが、大体、原始仏教の議決方法「多語毘尼」(もしくは「多人語毘尼」)その他にその根拠が求められるという。
 これは教団内の諸問題の解決法を示した教典で、その一つとして多数決があり、公開投票、半公開投票、秘密投票の三つが示されている。だが、この通りにしたため大乗と小乗の分裂をひき起こし、以後は用いられなかったといわれる。おそらく日本人は、仏典は輸入しても、仏教史は知らなかったのでこれが用いられたのであろう。

 いずれにせよこれに基づいて、「満寺一味同心」という形で寺院全体の意思決定をし、それに基づいて行動を起こすには、「満寺集会」という衆徒全員の出席する会で「大衆僉議」という評決を行い、そこで多数決によって議決しなければならなかった。そしてこの「大衆僉議」には細かいルールがあった。

 延暦寺のルールは、『平家物語』に詳しく出ている。そしてこの寺は当時の指導的寺院だから、他の寺院も似たようなものであったと見てよいであろう。そしてこの「満寺集会」の「大衆僉議」に出るのは神聖な業務で、出席しないと罰せられたらしい。延暦寺は何しろ門徒三千だから、集会の場は当然に野外で、一同は大講堂の庭に集まる。そのときの服装は異形であり、全員が破れた袈裟で頭を包み顔をかくす。
 たとえなんびとといえども、また天皇の命令でも、頭をむき出し、顔をあらわにして出席することはできない。そして全員が堂杖という杖をもち、小石を一つずつひろって出席し、その石を置いてそのうえにすわる。さらに声を出すとき、鼻を抑え、声をかえねばならぬから、隣にすわっている人間がだれだかわからない。いわば師と弟子が隣り合わせにすわっても絶対にわからないようにしなければならないのである。

 すると、これもだれだかわからぬ一人が、声をかえた大声で「満山の大衆は集合したか」と叫び、提案の趣旨を説明し、一ヶ条ごとに賛否を問い、各人の判断に従って賛成の場合は「尤も」、反対の場合は「此の条謂なし」と叫ぶ。このようにして一条ずつ議決され、終われば「僉議事書」「列参事書」という文書にまとめられる。これは「多語毘尼」の「半公開投票」にあたるであろう。

 いま読むと、まことに巧みに秘密投票の原則が守られていると思うが、彼らの異形や異声が、果たして近代的な合理主義から出たのかといえば、おそらくそうではあるまい。だがこの問題は後で触れるとして、まず、この討議に付する議案はどうのようにして決定されたのかが問題である。それはよくわからないが、高野山と同じなら「合点」という方式をとったものと思われる。この「がってん」という言葉は今も使われ、芝居の台詞などにも登場し「わかった」「承諾した」の意味に使われるが、元来は少人数の評決の結果すなわち「点の合計」を意味する言葉であった。

 勝俣鎮夫氏の『一揆』{岩波新書}に、やや後代のものだが、典型的な「合点状」として弘和四年(1384年)の高野山違犯衆起請文があげられている。年貢を滞納した荘官罷免に関する評定で、公正に投票することを神に誓約し、その起請文の余白に「荘官罷免」または「罷免せず年貢取り立て」の二つの投票課題を記し、それぞれの余白に、投票者が短い線を引くという方法をとっている。どんなルールで線を引いたのかは明らかではないが、「線」は元来秘密投票のためだから、一人一人立っていって、見えない場所で線を引き、もとの座に戻るという方式をとったものと思われる。この起請文では線が前者が四十一、後者が二十三だから、荘官は罷免されたわけである。これが「合点」で、ここから後代の「がってんだ」が生まれたものと思われる。これが「多語毘尼」の秘密投票であろう。

 

ーーー多数決は「数の論理」ではなく「神意」の表れーーー

 現代では「多数が賛成したから正しいとは言えない」という議論がある。新聞などにもしばしば現われる議論で、前記の「合点状」でも、四十一対二十三だから、四十一のほうが正しい決定とは、必ずしもいえないのだろう。ではなぜそれが、反対二十三を含めて全員の決定とされるのか。実をいうと「多数が賛成したから正しいと言えない」という前記の言葉は、多数決原理発生の原因を忘れてしまっていた議論なのである。

 この原理を採用した多くの民族において、それは「神慮」や「神意」を問う方式だった。面白いことにこの点では日本もヨーロッパも変わらない。古代の人びとは、将来に対してどういう決定を行ってよいかわからぬ重大な時には、その集団の全員が神に祈って神意を問うた。そして評決する。すると多数決に神意が現われると信じたのである。これは宗教的信仰だから合理的説明はできないが、「神意」が現われたら、それが全員を拘束するのは当然である。これがルール化され、多数決以外で神意を問うてはならない、となる。

 そしてこれはあくまで神意を問うのだから、「親が‥‥、親類が‥‥、師匠が‥‥」といったようにこの世の縁に動かされてはならない。それをすれば「親の意向‥、親類の意向‥師匠の意向‥」と問うことになってしまうから、神意は現われてくれない。もちろん賄賂などで動かされれば、これは赦すべからざる神聖冒瀆になる。これらは日本でも厳しく禁じられている。そして、延暦寺の異形・異声とか、高野山の「合点」とかは、こういう考え方の現われである。おそらく、異形・異声になったとき、別人格となったのであろう。このような信仰に基づけば、多数決に現われたのは「神慮」「神意」だから当然に全員を拘束し、これに違反することはゆるされない。

 多くの国での多数決原理の発生は、以上のような宗教性に基づくものであって、「多くの人が賛成したから正しい」という「数の論理」ではない。コンクラーベという教皇の選挙は、今では多くの人に知られている。だがこれは決して枢機卿が教皇を選出するのではなく、祈りつつ行われる投票の結果に神意が現れるのだという。従って教皇は神の意志で教皇となったので、「当選御礼」などを枢機卿にする必要はない。

ーーー中世に諸大寺が強訴を繰り返した理由

 以上に共通する考え方は、多数決は神意の現われだから絶対だという考え方で、「多数が賛成したから正しい」と考えているわけではない。ただ神意・神慮を問うのだから、自己の良心のみに従って投票しなければならないという考え方と、そのためのさまざまなルールは、何ものにも拘束されない議決を生み出したことは事実であろう。そしてさまざまな「縁」を断ち切った「出家」が、神という絶対者を前にしたとき、この方法が最も採用しやすかったのも事実であろう。

 この行き方は確かに民主主義の基にはなりうるが、問題はそれが寺院内に限定されたか、その枠をやぶって一般世俗社会の規範になり得たか、という問題がある。確かに氏族制や大家族の社会では一般化しにくい。まして平安時代は「閥族時代」といわれるほど「閥」がすべて決定の基本になっている。ではそれがどう発展していったのか。だが、それを問う前に、別の問題にふれねばならない。

 というのは当時の大寺院がこれを行った場合、当然問題が起こる。というのは、延暦寺や南部の大寺は、前述のように元来は「鎮護国家」を祈願する寺で、その僧は今でいえば、「国家公務員」、当然に朝廷の命令に従わねばならない。では、満寺集会の議決の「僉議事書」や「列参事書」の内容が、朝廷の方針と違って、両者が真っ向から対立したらどうなるか。一方は「神意」一方は「天皇=律令」の規定である。

 この関係は白河法皇(院政=1086~1129年)のあまりにも有名な「賀茂川の水、すごろくの賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬ者」に現われている。院政最盛時の白河法皇がどうにもできないなら、他の者にはどうにもならなくて不思議ではない。もちろん満寺集会の議決が寺内に限定されるのなら問題はないが、当時の大寺院は多くの荘園をもつ政治勢力であり、それが満寺集会の議決を絶対的な「神慮」として政治的要求をつきつけて来てはたまらない。当時の人間には神罰・仏罰という意識があるから、なんともできないのである。

 彼らは「嗷訴(強訴)」という方法をとった。有名なのは延暦寺と興福寺だが、先鞭をつけたのは熊野の大衆で、彼らは神輿を奉じて白河天皇の永保二年(1082年)に入洛して強訴した。これに刺激され興福寺の衆徒が、榊の数枝に鏡をつけた春日神社の神木を先頭に押し立てて入洛強訴した。ハスが神社は藤原氏の氏神なので、これが来ると藤原一族は神罰を恐れて出仕しない。こうなるとすべての政務がストップするから、否応なく彼らの要求に応じざるを得ない、もしもこの際、藤原一族のだれかが興福寺に不利なことをしたら大変で、すぐ「放氏」されてしまう。

。。。

>>>

  ひとつづつ袋に入った「長崎恋みかん」をいただいた。甘くてすばらっしい!!

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播磨灘物語 / 司馬遼太郎

2016-02-04 21:00:28 | 音楽・芸術・文学
播磨灘物語〈上〉 (1975年)
クリエーター情報なし
講談社

 はやいもので、司馬遼太郎さんが亡くなって今年でまる20年。2月12日が「菜の花忌」。回顧展で見た色鉛筆、加筆削除だらけの桶狭間探訪の原稿と、テレビでの流れるようなそのまま文章になる「太郎の国の物語」の語り口、実に対照的だった。残された貴重な作品と、その裏に横たわる膨大な史料渉猟と博学。いったいあれらの作品群は歴史小説なのか、探求書か、人物譚、はたまたエッセイか、なんなのか。。。描く人物はときに群像までの数となり、はて主人公はだれだったなどと。。。まあ、いい、作品の分類なぞ無用のことだ。こういう稀有な遺産こそ、ほんとうは全文検索の光をあててみたいものだ。

 さて、ずっとツンドクで猫ちゃんの爪研ぎアト残る、司馬さん描く黒田官兵衛、「播磨灘物語」である。この才気と能力では、秀吉の嫉妬も被ったであろうひとかどの傑物、くわんのひょうえ。この作品からは、あの「中国大返し」の緊迫した場面。引用といえば差し障るほどだが、ダイジェストで味わってみよう。

 先月1月26日が寒梅忌。直木賞受賞の夜が一度だけの司馬さんとの対面だったという藤沢周平さんは、遅読癖と熱中しすぎるというので司馬長編作の完読は、「ひとびとの跫音」「関ヶ原」「項羽と劉邦」と追悼文に書かれていた。そういえば、武田信玄を書いた新田次郎さんの命日は2月15日、この二足草鞋の作家は新聞記者司馬さんの執筆依頼を超多忙タイムスケジュールを示して断ったという。ついでに言えば、彼らと同年代だった僕の親父の命日は2月13日、半世紀も経つか、受験直前のあの日わが人生でもっとも長い一日だった。。。さても2月というのは大変な月だなあ。立春とはいえ、春は名のみぃーの~。。。まだまだ寒い時節柄、みなさんご自愛のほどを。。。以上、余談のことながら。。。(!?)

>>> (以下、「播磨灘物語 / 司馬遼太郎 (上中下)1975 第4刷 講談社」より引用 。。。部は中略 )

>>(安国寺殿)

ーーー信長に味方せよと申されるや。

 清水長左衛門宗治は、宇多田小四郎がもたらした手紙を読み終えて、つぶやいた。
 手紙は、毛利輝元の署名と花押があり、吉川元春、小早川隆景の連署がある。毛利家としての堂々たる公文書である。
 筆蹟は、小早川隆景だった。
 宗治は、かれの代から毛利方に属した小勢力の主ではあったが、直接には小早川隆景に属してきた。宗治にとって毛利家とは隆景のことであり、さらには宗治は隆景がよほど好きであったかと思える。

 隆景が毛利氏の譜代や外様のひとびとに信頼され好かれていたのは、その人柄の温かさによるものらしい。隆景は地元貴族の子にうまれたにしてはめずらしく人へのいたわり心があり、かれの思考はかれのすぐれた智恵から出ているというよりも、その人柄から出てその聡明さで濾過されたといった感じの場合が多かった。このあたりは、創業者である亡父の元就とのちがいであろう。元就はその勢をきずくために表には出せないような悪業を多くかさねてきたが、隆景にはその必要はなかった。隆景にとって必要なのは、流血と陰謀でできた大毛利氏を中国の大地に根付かせることだったから、かれの人柄の温かさは、そのまま毛利氏にとって重要な政略的態度でもあった。

 隆景は、宗治の立場を、そういう感覚の中で思いやっていた。
 いま城南の丘陵に三万の軍を展開しているとはいえ、とてもその程度の戦力では宗治を救えないとわかった以上、宗治とその城兵を無意味な犠牲に供するに忍びなかった。
 清水宗治のような小地域の豪族というのは、たとえば毛利氏のような大勢力に庇護されたいがためにその勢力下に入ってきているのである。小勢力としては大いに大勢力に忠誠をつくすが、しかしいったん他から小勢力が侵されようとした場合、大勢力としてはそれを救う義務がある。でなければ大勢力はその傘下の他の小勢力群から愛想をつかされ、自壊してしまう。毛利氏は、清水宗治を救うべきであった。しかし宗治の急を眼前に見つつも救えない以上、隆景は、「どうか敵に降伏してくれ」と宗治に言う方針をとったのである。このあたりの隆景の温情は、戦国の治乱興亡の歴史のなかでも類がないといってもいい。降伏せよというだけでなく、さらに宗治の立場を考えて、
「信長に味方せよ」
といってよこしたのである。清水宗治のような外様の人間が毛利氏につよい忠誠心を持っていたのは、そういうような隆景の人柄が好きだったからに相違ない。

 しかし清水宗治は、そういう毛利氏の思いやりを、不本意とした。
「いまさら信長につけと仰せられるは、私としてはお承け仕ることはできぬ」
と、使者の宇多田小四郎にいった。
「逆意せよ(信長に味方せよ)などは、もしその気があるなら、私ははじめからそれをやっている。それをやる気がなかったればこそ、このように甲斐なき籠城をしてきたのである。しかしながら仰せのようにせねば、この城に籠るひとびとを、勝つ見込みのない戦いのために殺してしまうことになる」
 宗治は、一語一語考えながらゆっくりいった。
 やがて物を言わなくなり、二時間ばかり考えている様子であったが、ついに思案を決めた。
「信長には味方をしない」
 私は、ここまでたたかった、わたしにとって欲しいのは名である、私に残されているものはそれだけである、水攻めにされてからおめおめ命たすかりたさに信長に味方をして何になるか、と宗治はいった。
「死ぬのは、私ひとりでいい」
 それを羽柴がゆるすだろうか、とも宗治はいった。宗治一人が腹を切って、他の城兵はすべて助命されるのである。そういう形式は以前にはなかったといっていいが、羽柴秀吉がそれを播州三木城攻めにおいて考案し、城主の切腹を劇的に仕立てあげることによって戦いの終了を形式づけ、かつ敗者の兵たちは無用に命をおとすことなく好きな方角にむかって散ってゆく、ということなのである。
「羽柴秀吉は播州三木城において別所殿に腹を切らせ、城の衆の命を助けた。播州でやったことを備中においてやらぬということはあるまい」
どう思うか、と宗治は、使者宇多田小四郎にきいた。
宇多田も、よくわからない。
「それを、毛利家において、秀吉に掛けあってもらいたい。私はそのように決めた。返事はそれである」
と、宗治はいった。

 宇多田小四郎はその旨を認めた宗治の書状を細く観世縒にし、油紙につつんで、自分の髻に結びつけた。
宗治は、水際まで送った。
 宇多田は着物と刀を頭にのせ、ひもをあごにかけてむすび、やがて水に入った。闇の中を北にむかって泳ぎ去った。
 宇多田は泳ぎながら、自分の使命がはたして果たしおえたのかどうかを考えた。
(清水宗治のみが腹を切って五千の城の衆の命をすべてたすけるなどという、秀吉にとって損なことを、秀吉がうべなうかどうか)
 この交渉は相当むずかしかろうと思った。

 毛利家には、安国寺恵瓊という僧がいる。
 早くから外交をうけもち、京の情勢をさぐり、まだ早い時期に織田家と接触した。すでに触れたことだが、安国寺恵瓊には、京から発したかれの本国への報告文で、信長と秀吉の後年の運命を予言した有名な文書がある。繰りかえし、触れる。
 信長之代、五年三年者、可被持候。明年辺者、公家などに可被成候かと見及候。左 候て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見え申候
 藤吉郎、さりとてはの者にて候。

 安国寺恵瓊がこの報告書を本国に送ったのはこの時期から十年前、秀吉がまだ木下藤吉郎といった天正元年のことである。この時期、織田家にはそのまわりに強敵が多く、見様によってはとても大勢力をなせるとは思えない脆い面もあった。まして秀吉は数多くいる織田家の侍の中の一人にすぎず。毛利家の使僧である恵瓊との関係は、信長から命じられてその応接役をつとめていただけである。そういう「藤吉郎」を、「藤吉郎、さりとてはの者にて候」と評した恵瓊の目は、後年からふりかえれば大きな予言性をもっていたといっていい。
しかも信長については、公家の身分にのぼってから「高ころびにあふのけにころばれ候ずると見え申候」などと、十年後の本能寺の変を予言しているのだが、その十年後が、この備中の陣の時期である天正十年なのである。

 この恵瓊が、備中高松城の南方の丘陵上に陣どっている毛利氏の陣中にいた。
 恵瓊は、安芸のすでにほろんだ名家の遺児としてうまれた。
 安芸における室町期の大名は、武田氏である。
 いまの広島市よりやや北方に銀山(武田山)という山があり、そこに居城があった。戦国当初には多くの室町期の大名が衰弱してしまったように武田氏も同様で、その衰亡を早めたのは、西方の周防・長門両国を本拠とする大内氏の勢力拡張だった。当時、毛利元就は大内氏に属し、武田氏と戦った。恵瓊の曾祖父の武田元繁が毛利元就と戦って戦死したというから、恵瓊にとっては毛利氏は主家ながらもかつてはその家系にとって仇敵であった。恵瓊の父信重の代に銀山城が毛利氏に陥とされ、信重は自殺した。恵瓊は、その遺児である。
 恵瓊は幼くして寺に入った。寺は、安芸の安国寺(広島市)である。安国寺は安芸における臨済宗の中心的な禅林である。

 成人して、恵心という師についた。次いで恵瓊は、安国寺の本山である京都の東福寺に入り、修行した。すでに安芸は毛利氏のものになり、師の恵心は毛利氏からされていた。恵心はやがて京都の東福寺の住持になったが毛利氏との関係はつづき、毛利氏の京都における外交係のような役目をはたした。やがて恵瓊は、恵心のその面での仕事をも相続した。

 安国寺恵瓊というのは、僧としての学殖もこの乱世では第一等であったかのようである。ただし禅僧として悟をひらくには、才気がありすぎたようであった。師の恵心は、この点に多少の不安を感じていたかのように思える。 。。。
 毛利氏は元就の時代に中国十ヶ国の覇者になったが、元就の基本方針として天下に対する野心はにぶく、むしろ中国をかためることに重点を置いた。
 それでもなお、京を無視できない。京の将軍家や朝廷がすでに衰弱していたとはいえ多少の権威は生きており、さらには都市としての京は依然として諸国の情報の集散地でもあった。毛利氏は中国に蟠踞しつつも京との関係をふかめた。
恵心は、臨済宗の五つの本山の一つである東福寺の住持になり、京の権威的な存在群とのつながりが濃くなった。毛利氏はこの恵心に京都外交をまかせた。
 恵心の活躍時代には、織田氏はまだ京に勢力を伸ばすに至らなかった。恵心が引退してその弟子の恵瓊が毛利氏の外交を担当するころに織田氏の勢力が注目され始めた。恵瓊はその意味ではいかにも時代の人物で、対織田外交のために登場したと言ってよく、織田氏についての研究も入念だったと思える。

 。。。

 秀吉が播州三木城をかこんでいるころ、恵瓊は京の東福寺の退耕庵の庵主になった。つまりは京に常駐した。しかしながらこの備中高松城攻めがはじまったころ、毛利家によびかえされた。毛利氏が恵瓊を必要とするということは、織田家との正面きっての軍事的対決を避け、外交で処理しようとする肚が、たとえば小早川隆景に最初からあったという証拠になるかもしれない。

 日差山の小早川隆景の陣営に宇多田小四郎がもどってきたのは、夜があけてからである。
 。。。

 隆景は宗治の手紙を読み、宇多田の口から宗治の言葉もきき、しばらく考え込んでしまった。
「いい男だ」
と、隆景は嘆声をもらしつつも、その胸中は複雑でもあった。
(こまったことになった)
と、隆景はかたわらの安国寺恵瓊に視線をやった。隆景は毛利家の専制者ではない。兄の吉川元春の意見をつねに十分尊重せねばならぬ立場であったが、兄の元春はその子とともに決戦論者であり、さらには配下をはげまして羽柴方を備中の野で全滅させるなどという意気ごみを秘めていた。これに対し、隆景は兄をなだめつつ決戦という危険な賭けを避けようとしている。そのためにこそ京から安国寺恵瓊をよんだ。

 隆景は、清水宗治に、
ーーーわれらへの忠誠はよくわかった。しかしこの状況ではどうにもならず、これ以上は戦うことなく信長に味方せよ。
という旨の書簡と使者を送ったのは、単に人情だけではない。毛利家そのものを救うためでもあった。高松城主清水宗治が織田家に味方して、秀吉と一つになって毛利氏を攻めるという新状況を隆景は作りたかったのである。
 そういう”新状況”がおこれば、毛利氏としては秀吉に講和を申し入れやすい。講和の条件として、相当に土地を割譲することも隆景は覚悟していた。つまりは、屈辱を覚悟していた。
 しかしながら、戦いもせず、いまこのように全軍を展開して早々に屈辱的な条件で講和を申し入れるわけにはゆかなかった。そのようにすれば配下どもがごうごうと非難し、毛利家として配下への統帥をうしなってしまう。
 それを避けるには、清水宗治が城ぐるみで裏切ってくれればもっともよかった。清水宗治が裏切ったとあれば、毛利軍は羽柴軍との兵力の均衡をうしない、講和を申し入れる理由が立つのである。毛利軍の陣中にある譜代衆も外様衆も、非難をひとすじに清水宗治の裏切りに向け、毛利氏に同情しこそすれ、その措置を非難する者はいなくなる。
 ところが、宗治は奔敵をことわったのである。むしろ自分一人が切腹するという。宗治は、隆景の肚を読んだのか、そうでないのか、隆景にも後世のわれわれにもよくわからない。 

 そのあと、小早川隆景と安国寺恵瓊は、二人きりになった。
「五ヶ国を割こう」
と、隆景はささやいた。
 隆景のいう五ヶ国とは、備中、備後、美作、因幡、伯耆で、毛利氏にとって全版図の半分である。  。。。
 隆景にすれば、
ーーー眼前の羽柴が敵ではない。
ということを、何度も兄の吉川元春にいって、なっとくさせた。問題は背後の信長だった。信長はすでに甲州の武田勝頼の始末を終え、東方の脅威を消滅させてしまっている。その信長が、数ヶ国の兵をこぞって大挙この山陽道に来援するという情報は、毛利氏の本営に入っていた。入った情報によれば、山陽道に動員される諸将は、以下のようであるという。
 明智光秀、筒井順慶、細川藤孝、池田信輝、高山右近(長秀)、中山瀬兵衛(清英)。
といった連中で、その兵数は十万をくだらないであろう。ちなみにこの情報は正確だった。
。。。

 その朝、まだ靄がたなびいている時刻に、安国寺恵瓊は日差山を降りた。蛭ヶ鼻の羽柴秀吉の陣営へゆくためである。
。。。
 かれは四十の半ばになっていて、齢には不足はない。色白で痩せ型なその容貌は老けておらず、とくに灰色がかってよく光る瞳は、青年のものだった。声も、ひとを包みこむような丸みがあり、色気のようなものさえ感じられた。かれが俗人であればあるいは好色であったかもしれず、その好色もいや味のないものであったかもしれない。 
。。。

 黒田官兵衛は、安国寺恵瓊という高名な毛利家の外交僧をみるのははじめてである。
対面早々、恵瓊は、
「もと、小寺殿という御苗字でありましたな」
と、いった。官兵衛はいかにも小寺と申しておりました、というと、恵瓊は、
「お名前はかねがね頼もしき思いでうかがっておりました」
ぬけめなくいった。
 恵瓊は、同席の蜂須賀小六に対しても、御武功のかずかず、伺っております、という。口だけかと思うとそうでなく、恵瓊は小六がたてた武功のいろいろを知っているのである。
 官兵衛についても、同然だった。
「官兵衛殿には、岡山のこと、これは拙僧の負けでござった」
 岡山のことというのは、宇喜多氏のことである。恵瓊はいまから十年ほど前に宇喜多氏を毛利氏の傘下に引き入れる外交に成功し、これによって中国における毛利氏の覇権は確立した、それを三年前、官兵衛がくつがえして宇喜多氏を織田方に寝返らせた。毛利氏にとって織田氏との関係で宇喜多氏に鞍替えされたことは大きな痛手であった。
「あれは、痛うござったな」
「秘密を明かすようでござるが」
官兵衛は、いった。
「あのことは安土殿(信長)のお気にいらず、筑前守(秀吉)はずいぶんお叱りをうけたようにきいております」
と、いった。信長は宇喜多に対してはこれを攻め潰して宇喜多領をそっくり手に入れるということを考えていたから、宇喜多が傘下に入ることを好まなかった。このため、宇喜多を調略したことを、いまなお、ほめてはいない。
。。。
 恵瓊は、官兵衛のことばで察した。いずれも外交官としてはこの時代だけでなく、歴史を通じて最も高い水準にあるといっていい。
 恵瓊は雑談をやめた。
 かれは毛利家の家風が堅牢であり、しかも天下に野心がない。これほど善美な家というのは、たとえ天下が織田のものになっても有用な存在であると思う、よろしくいたわり残すべきである、そのためには織田家に多少の馳走ーー領土を割くことーーをしてもよいと思っている、などと弁じた。恵瓊の本心だった。
。。。
 官兵衛は、小六が、織田家が覇者としていかに壮んな成長を遂げているかということを説明しているあいだ、
(無用のことを)
と、思いつづけていた。そういうことはごく最近まで京にいたこの恵瓊がよく知っているはずであり、それをくどくどしくいうのは田舎くさい脅迫だとも思っている。

官兵衛はしばらくたってから
「退耕庵どの」
と、恵瓊の東福寺での塔頭の名をよぶことによって、恵瓊をよんだ。そのことによって恵瓊への尊敬をあらわすとともに、恵瓊の個人としての意見を聞きだそうとした。
「まずこの座では、織田・毛利などということを離れ、恵瓊どのとしては天下はどうあればよいか、ということを伺いましょう」
「毛利から離れて?」
「この場だけは。ーーー」
 官兵衛は、軽やかな微笑をうかべている。恵瓊は、その微笑に釣られた。
「それは、天下万民を安んずることでございましょう」
 百年におよぶ乱世を終わらせて万民を安んずるということは、この時代、天下に志をもつ誰もがいっていることであり、べつに恵瓊だけが新規なことをいっているわけではない。
「それが、恵瓊どのの願いであるとすれば、私はよき友を得たことになります。この官兵衛も恵瓊どのにおとらず、その気持ちでおります」
「それで?」
恵瓊は、あとをうながした。官兵衛はきまじめな表情にもどって、いや、それだけでござる、といった。
 膳が運ばれ、酒も出た。給仕のものは、十六、七の色白のものばかりで、このあたりにも恵瓊への心づかいが見られる、恵瓊は酒好きであるとともに、少年が好きであった。
(羽柴方は、講和を受け入れるだろう)
恵瓊は、安堵する思いだった。
「過ごされよ」
小六がしきりにすすめた。が、恵瓊は酒をのんで浮かれているわけにもいかず、目の前の高松城はあと一雨で水没するかもしれないのである。
「毛利は、戦いとうはござらぬ」
恵瓊は、いった。むしろそれよりも織田氏の天下のために役に立つことを輝元はのぞんでいる、小早川、吉川も同腹である、といった。
「織田家の天下のために、何国かを割いてもよい」
「とは?」
小六は息を詰めるような表情できいた。
「正直に申します。この備中のほかに小早川の本拠である備後もさしあげましょう。吉川の本拠である因幡、伯耆、それに美作も割いてよろしゅうござる。都合五ヶ国に相成ります」
と、恵瓊がいったから、官兵衛はおどろいた。

 恵瓊がいうべきことを言ったあと、官兵衛と小六は、木像に化したようにうごかなくなった。
(‥‥‥‥大毛利家というに足る)
 毛利家はいま版図の半分を割こうとしている。割くことによって決戦による滅亡を避けようとしているのだが、このことは古来例のないことかもしれない。自他の力を冷静に量り、その結果の事実を勇気をもって認めるということがあったればこそ、これだけの外交に打って出ることができたのである。官兵衛は毛利家においてなにか壮大なものを見た感じがし、そのことに心をうごかされていた。
 しかしこの一件は、官兵衛や小六の一存ではどうにもならない。羽柴秀吉もまた、その一存ではゆかないであろう。
「しばし、ご休息ありたい」
 官兵衛と小六は恵瓊をその場にのこして山坂をのぼった。やがて秀吉の営所に至ると、秀吉は待ちかねていた。
両人は、恵瓊の申し条をつたえた。
秀吉もよほど驚いたらしく、潜めている声が大きくなった。
「まさか、恵瓊だけの存念ではあるまいな」
「両川(吉川・小早川)の肚から出たものだと恵瓊は申しますが、これは信じたほうがよいと思います」
「思いきったことをするものだ」

 たとえ織田家がさらに大きな軍事力を投入しても、五ヶ国を斬りとることに大層な日数と犠牲を必要とする。毛利家は戦わずしてその版図の半分の五ヶ国を進呈しようというのであり、織田家にとってこれほど大きな利益はない。が、信長はどういうだろうか。
 信長の意図は、毛利家の全版図をことごとく覆滅してそれを奪いとることにある。秀吉はそのことをよく知っている。
「官兵衛、これはよほどむずかしい」
 秀吉はこの男の性格が無用の合戦を好まず、かれ一個の好みからいえば、毛利家の申し出をうけ容れることであり、できるだけその旨に添って事を運びたかった。しかし織田家は信長の専制で動いている。何事につけても、実務者としては眼前の判断よりも信長の思考法、思考癖、好悪というものを第一番に想定して現実との調整を考えてゆかねばならぬということがあった。
「どうすべきか、官兵衛」
 秀吉は、両眼を充血させている。かれが決断するにはよほど荷の重い事であることを、その異様な表情は示していた。
「おうけなされませ」
 官兵衛は小首をかしげ、表情を動かすことなく、それもほとんど聞きとれないほどに小さな声でいった。

。。。。

  官兵衛はわかっている。
 かれは秀吉のために考えていた。かれは信長の天下構想をかれなりに想像しつつ、秀吉が信長にどう説くかという理屈を考えていたのである。
「織田家にとってこれほど得なことはございませぬ」 。。。

 官兵衛は、信長の直轄領についての計算がわかるような気がしている。織田政権が樹立した時の行政費と直轄軍の軍費は、それでまかなわねばならず、直轄領ができるだけ多いほうが政権は堅牢なものになる。室町幕府が、開創以来滅亡まで政情不安定のなかで漂いつづけたのは、将軍領が一大名程度でしかなかったためであり、信長はそのことをよく知っているであろう。
「いや、むずかしい」
 秀吉は、なお浮かぬ顔をした。信長の方針を秀吉はよく知っていた。信長はできれば日本中の既存勢力をすりつぶして滅ぼした上に織田の天下を確立したいという願望をもっている。いま毛利の講和をうけ入れれば、四国、九州の大勢力も毛利同様のまねをするであろう。その先例を信長は作りたくないかもしれない。 。。。

ともあれ、秀吉は講和の意見をなんとか信長に説得してみようと思った。しかし自信があるわけではない。
「五ヶ国とは、大きい。‥‥‥」
 秀吉はなにかつぶやき、この材料が信長の心を動かしてくれることを願った。同時に、五ヶ国割譲という思い切った外交に出てきた毛利家に好意をもった。毛利家を保全してやるためにも、信長への説得はなんとか成功させたいとおもっている。しかし繰り返し秀吉は思うのだが、自信はない。
「官兵衛よ、わしにも立つ瀬をつくらねばならぬ」
 つまり、出先の軍司令官としての秀吉の立場がある。 。。。
「敵に、負けたという印を示させねば、毛利家が救えたとしても、わしの立場はあるまい」

。。。

 が、官兵衛は首をひねっている。官兵衛にも秀吉の脳裏にある案とおなじものがうかんでいるのだが、この男は人の死に関することにつねに怯みを感ずるくせがあって、言い渋っている。
小六がいった。
「播州三木のごとくなされば如何」
三木では、城兵の命をことごとく救うという条件で、城主とそれに準ずるものに腹を切らせた。 。。。

「しかし、恵瓊坊主にはあからさまにいうな」
 あからさまに要求することは、ひとに死を強いることになり、秀吉自身にもむごいという感覚があったのかもしれない。この点、晩年の秀吉と異なっている。
。。。

やがて、小六が座に戻った。ひきつづき官兵衛ももどってきて、恵瓊に中座の失礼を詫びた。
「いかがでござった」
 恵瓊は、目の下が赤い。酔いがまわっているのである。
。。。

「五ヶ国を割くということについて、羽柴殿はどう申されたか」 
 恵瓊がいったが、官兵衛は、十五日ばかりお待ちくだされよ、といった。恵瓊はさとい男だけに。そうきいただけで、十五日とは、使者が安土へ往復する日数であることがわかった。
「で、羽柴殿のお顔色は?」
「目をうるませて」
いた、と官兵衛はそう表現することで、秀吉自身はこの講和に好意的だということを報せようとした。しかしそれ以上は、言いにくい。

 しばらく話してから、安国寺恵瓊は、蛭ヶ鼻の本営を辞去した。官兵衛と小六が、それを送った。
「御両所」
 恵瓊は、坂の途中で足をとどめた。松林をとおして、湖水がみえる。城が浮かんでいる。
「あの城まで、行かせてもらえまいか」
「ご用は?」
小六がきいた。
 官兵衛はきかでものことを、と思った。恵瓊がいまからやろうとしていることは、恵瓊の性格と立場、それに羽柴・毛利両軍の状態や備中高松城の城主清水宗治の性格と立場、‥‥それらを総合し、その上、先刻までの話し合いで仄めかされた秀吉の意向らしきもの考え合わせれば、想像のつくことであった。
 恵瓊は、小早川隆景らに対しては独断で、清水宗治に腹を切らせようとしているのである。

。。。

 堰堤に立っている官兵衛の視野から、恵瓊の舟がしだいにとおざかってゆく。官兵衛は、その舟が敵城に着くまで見守るつもりだった。自然、あれこれと感慨が湧かざるを得ない。
(恵瓊は、毛利からやがてきらわれる)
と、おもった。
 官兵衛にはわかっている。恵瓊が隆景に相談することなく独断で清水宗治に腹を切らせるという策は、このさい最高の政治的解決である。隆景にはいわずということが、みそ、であった。
。。。

恵瓊が、
ーーーなにもすぐとは申しませぬ。お覚悟をうかがっているだけでござる。
というと、清水宗治は恵瓊のくどさをわずらわしがる体で、
「この長左衛門の心底は、ご覧のままでござる。いちいちことばをもって念を押さずともよい」
ただし、と宗治はいった。
「犬死にはなるまいな」
羽柴への念押しは間違いなかろうな、という意味である。宗治は切腹しても、城兵が助からなかったり、毛利家が安泰でなかったりすればかえって物笑いの死になる。物笑いの死は武門のもっとも恥じるところであり、そのこと、安国寺殿にとっては間違いなかろうな、と繰り返した。
「まちがいござらぬ」
恵瓊は、目の前の宗治の命をもてあそぶということでやや後ろめたく思ったが、かげりなく断言した。この断言は、宗治にとってはなによりの引導でもあった。
あとは、恵瓊のしごとになる。
 恵瓊はいそぎ辞し、小舟にもどった。
彼の小舟が堰堤に着くころ、官兵衛がそこに待っていた。官兵衛が手をさしのべると、恵瓊はそれにすがって堰堤にのぼり、
「長左衛門の覚悟、まことに涼やかなものでござった。城兵のいのちに代わること、毛利家の安泰のためになること、この二つのためならばよろこんで腹を切るということでござったが、さて、官兵衛どの」
恵瓊は、おそろしいばかりに緊張した表情で、官兵衛の鼻さきまで顔を近づけ、
「羽柴殿のお気持ちを固めて下されよ。ゆめ、この一事で外れてもらっては、長左衛門の犬死になる」
といった。
。。。 。。。

「こまったことに相成りました」
恵瓊はわざとしょげてみせた。当方の御三方(輝元、元春、隆景)が、清水宗治の切腹については反対である、とおおせられている、どう仕りましょう、といった。
。。。
小六が、秀吉に報告した。
「毛利家としてはそのように言うのが当然だ。しかし清水長左衛門に腹だけ切ってもらわねば、わしは身動きがとれぬ」
と、いった。小六は座に戻り、恵瓊に伝えた。恵瓊はうなずき
「それではいまから清水の元にまいりましょう」といって立ちあがった。ぐずぐずしていれば信長がやってくるのである。信長が来てしまえば、宗治が腹を切るも切らぬも、すべて話は白紙にもどってしまうおそれがある。
 恵瓊は、清水宗治のもとにゆくにつき、羽柴側の意志の証人としてどなたか同行してほしい、と頼んだ。
 その旨、小六が秀吉にいうと、秀吉はその役目を小六と甚介に命じた。官兵衛に命じなかったのは、秀吉は官兵衛の性格や気分がよくわかってたからかと思える。
恵瓊は、右の顔ぶれとともに高松城にゆくと、宗治は多くをきかず、
「明後六月四日の朝、水に舟を押し出して腹を切りましょう。毛利家の御三方の御意に背き奉ることに相成るが、しかしよもやお叱りはござるまい」
と、さわやかに言いきった。


>>(変報)

 ここに、信じがたいことがおこった。
 信長・信忠父子が死んだ、という。かれらはこの時期、わずかな手まわりの人数をひきいて京に入り、五月二十九日、信長は本能寺に、信忠は妙覚寺をそれぞれ宿館として、滞留した。
 信長が京へ入ったのは、各地から秀吉の応援をすべく中国へむかいつつある諸勢の総指揮をとるためであった。
。。。

 少なくとも五月中ば前後までは、中国は考慮の中心ではなかった。信長はすでに旧武田領の東山道(信濃・甲斐など)を平定し、天下の半ばを得たおもいで、いわば安堵感をふくめた得意の絶頂にあったといってよく、それもあって永年の同盟者である徳川家康を安土に招待し、五月十五日より三日間、贅美をつくした振舞いをして、労をねぎらったのである。明智光秀がその接待役を命ぜられた。
 信長がその光秀に、突如接待役をとりあげ、中国への出征を命じたのは、秀吉からーー中国へきてほしいーーーとの懇願があったからであり、信長自身、そのために京に出た。その信長を、六月二日の早暁、丹波から南下した光秀とその軍勢が本能寺に襲った。

。。。。

 番士が、飛脚を土間につれてきた。官兵衛は、番士を去らせた。
「京の刑部卿法印(長谷川宗仁)さまからでござりまする」
 飛脚は、土間から伸びあがり、ささやくような声でいった。官兵衛は膝をついて、耳を飛脚に寄せた。
 つぎに飛脚の口から漏れたのは、秀吉や官兵衛の運命だけでなく、日本中のすべての人々の運命を変えたともいっていい変報である。
 二日早暁、信長・信忠が襲われて討たれたこと、おそばのひとびとは大てい討ち死にしてしまったこと、襲ったのは明智日向守光秀であることなどを、飛脚は口上し、やがて着物の縫い目をやぶり、油紙につつんだ書状を差し出した。
「宗仁」
と、差出人の署名がある。 。。。

 官兵衛は平素驚きを見せない男だったが、口中がからからになったにちがいない。
同時に
(敵の毛利方に漏れていないか)
と思い、漏れれば講和も何もあったものではなく、羽柴軍は孤軍になってしまう、と思った。しかしこの飛脚の速度から考えてこの男がおそらくもっとも早かったのではないかと思いなおした。

。。。

 秀吉は熟睡していた。 。。。
官兵衛は宿直のものをすべて廊下に出し、小六と二人で部屋に入った。
「なんだ」
秀吉は、巻き上げた寝床の前にすわっている。秀吉は寝起きがよく、両眼が光って、たったいままで熟睡していた男とも思えないほどであった。
 官兵衛は、だまって長谷川宗仁の書簡を差し出した。秀吉は読んだ。
 頭をあげたときの秀吉は、溶けた鉛でものんだように目も鼻も口もへし潰れたような表情をし、息も忘れているようであった。その表情がさらに崩れ、顔をあげたまま泣き出した。
「刻をいそぎます」
官兵衛は秀吉を叱咤した。的確な手をできるだけ早く打たねばならず、愁嘆に暮れている場合ではなかった。

。。。。

  秀吉の萎れようはひどく、今後どうするかという思案が浮かばないらしい。秀吉にとって信長は格別の存在であった。信長によって思わぬ才能を引き出せれ、才能に相当する仕事を与えられ、さらにその仕事に相応する地位をつぎづぎにあたえられてきたが、もとは尾張の一塊の土くれにすぎないことを、秀吉自身が知っている。秀吉は信長ただ一人の手でできあがった。信長が息を吹きかけて、いわば化性が幻影をつくるように今日の秀吉をつくりあげたのだが、その信長が死ねば秀吉も存在そのものが消えざるをえないような虚脱の思いをこの男はもったのであろう。
少なくとも官兵衛はそう見た。
(この男は、このままでは自滅する)
と、思った。
 何しろ大軍を正面にひかえているだけでも尋常の事態ではないのに、羽柴軍といっても、その多くは信長から借りた織田家の直参部隊であった。さらには信長という保証によって味方にころがりこんだ岡山の宇喜多勢である。信長が死んだとなれば、味方が蜂起して秀吉は孤立せぬともかぎらない。
 この羽柴軍のすべての矛盾と弱みを、敗亡の危険からすくいだすものは、軍中の諸将に暗黙裡の希望をわきあがらせることであった。
ーーーあるいは、この機に乗ずれば天下がとれるのではないか。
ということであった。
 羽柴秀吉を押し立ててかれに天下を取らせれば自分たちも一国一城の大名になれるのではないかとという、自分の人生に対する諸将の投機的気分をあおれば、それによって全軍崩壊の危機を一気に消滅できる。。。が、それには、士卒の希望の源泉である羽柴秀吉そのひとがその気になってくれねばどうにもならないのである。
 。。。

 伝承では、このとき官兵衛は微笑し、秀吉のひざをしずかにたたき、
   さてさて天の加護を得させ給ひ、もはや御心の儘になりたり。
 と、なぞのようなことをいった。
 秀吉は不意に雷鳴をきいたように頭をあげ、とっさにその意味をさとった。もっとも秀吉としては喜色をうかべるわけにもゆかず、
「ーーー仇討ちのことか」
と、別人のように目の下を紅潮させた。
 。。。

 秀吉方の検使堀尾茂助は、宗治らの切腹が終わると船を近づけ、二つの舟ばたを互いに合わせた。堀尾茂助の装束は、肩衣の礼装である。
 。。。

 とうぜんなことだが、秀吉が宗治と月清の首を必要としたのは京の信長へ送り、その見参に供するためである。ともかくも信長が健在する体にして、検使の堀尾茂助はそれを受け取った。。。。

 宗治の切腹がおわると、秀吉は蛭ケ鼻の陣営で、講和に関する誓紙を、安国寺恵瓊の前で書いた。
 。。。

>>(東へ)

 毛利軍についての秀吉の戦場外交は、一応おわった。あと、本能寺の一件にやがて気づくであろう毛利軍が、羽柴軍に対して追撃するかどうか、秀吉の運一つにかかっている。
(そのときはそのときのことだ)
 人間はそれ以上のことを考えても甲斐はない。官兵衛はそうおもった。秀吉もそうおもっているらしく、ほおに血がのぼっている。秀吉は堰堤の上の床几から勢いよく立ち上がった。
かたわらの官兵衛にささやき、
ーーーあとは、大返しぞ。
と、いった。明智光秀を討つことを、一刻も早く急がねばならない。他に先んじられれば、秀吉は織田政権の相続者たることを失うであろう。
。。。

「吉川がたとえそのように逸っても、小早川がおさえましょう。毛利の家法により、山陽道における物事の決定は小早川がおこなうことになっております」
 官兵衛はさらに言葉を継いで
「でなくとも、大丈夫かと思います」
といって、高松城とそのまわりの絵図をひろげた。絵図には長大な堰堤がえがかれている。官兵衛は、その一か所を指さし、
「今日、ここを切りましたが、水は湖のごとくなお多く、水の退きは三日以上かかりましょう。それがしが退くとき、二十ヶ所以上を一時に切り放ちます。湛えられた水は毛利にむかってながれおち、野はことごとく水浸しになりましょう。追おうにも、馬も人も動きがとれますまい」
と、いった。秀吉はだまって官兵衛の肩をたたき、奥へ入った。 。。。

。。。。

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司馬遼太郎の世界
クリエーター情報なし
文藝春秋

 気合を入れて~ 琴バウアー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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武田信玄 / 新田次郎

2016-02-02 14:52:33 | 音楽・芸術・文学
武田信玄 風の巻 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋

 司馬さんの描いた北条早雲の次は、武田信玄という人物を、この度は信州人たる新田次郎さんの小説で読んでいた。新田次郎の人物の描き方は半ば事実、半ば美しき造型、その主人公への思い入れと暖かさは僕みたいに感情の量に乏しいものをも魅了してやまない。孤高の人、銀嶺の人、アラスカ物語、芙蓉の人、栄光の岩壁。。。この「武田信玄」は「歴史読本」で三千枚の長編、完結までの百ヶ月は信玄がいつも新田さんの頭のなかに居続けたという。

さて、信玄公は何をお考えだったのだろうか、少し考えすぎだったようでもあるし、はたまた緻密すぎて情報も集めすぎではないの、わからぬ。わからぬでもいい、いまさら、豆知識を得てもなあ。。。何かが沈殿してくれるようなこんな人物譚がいいのだ。
♪♪ かぁーいーのやまやーまぁー ひにぃーはあーえーてぇー わぁれぇーしゅつじーんにぃー うれぇーいぃーなぁしぃー 。。。。
 最後はこうではなかったろう。信長とのつばぜり合いでの大軍を率いての西上は、宿痾の肺患での残された寿命との賭けであった。しかし、天は彼に運を与えなかった。。。。。

「風林火山」と、信玄の名乗りのあたり、新田次郎はどう描いたか引いてみよう。テレビでは急に「真田丸」、チトうるさすぎる。おっと、どこの釣り船だったかな?などと、仙台湾のカレイ釣りと加齢ネコの世話ばかりの昨今。おおおっと、地震だ。タスケ、ダイジョーブか?

<<<(「武田信玄 新田次郎著 文春文庫 新装版第3刷2006,10,15」 より引用)

。。。

 晴信は静かなその日を送っていた。書見と施策と、恵林寺の住持鳳栖に会って禅要を聴く以外はあまり頭を使わないことにしていた。戦争のことは家来たちにまかせておいた。諏訪、高遠、上伊那、小県、佐久は武田のものとなった。その領地をうしなわないようにかためていくことが今は大事なことだと、自分でも考え、重臣たちにもそういっていた。信方も虎泰も高白斎も晴信の意を解していた。晴信は本当はいくさが好きであり、馬上にいるときの彼がもっとも幸福そうな顔をしているのを知っている家来たちが、たとえ、病を得たとしても、禅僧のような生活をしているのを見ていると気の毒でもあった。

 晴信は意識的に妻妾を遠ざけた。会えば欲情が奔流となって、彼をおし流そうとした。医者の立木仙元にすすめられて、午睡もした。栄養になるというので諏訪の味醤と大田螺を取りよせた。
 微熱はやはり出た。軽い咳も続いた。熱としてはっきり感じられるようになり、倦怠感が全身をおおうようになると、起きているのがつらくなった。
「思いきって休まれてはいかがでしょうか」
仙元は晴信に寝て養生することをすすめた。
「余が病でふせっていると聞けば、敵はここぞと動き出すだろう」
「外の敵は御家来衆にまかせておいて、今は中の敵と戦うことがお館様にとっては大事なことでございます」
 立木仙元は晴信に床に伏すことをすすめた。

 晴信は午前中起きていて、午後は寝ることにした。起きているときは書を読んだ。久しぶりで、ゆっくりと文字に接することは楽しいことだった。四書五経諸子百家の書を読み、孔孟の経書に目を通すことは興味あることだった。だが、彼はその書に飽きた。晴信の若さを、中国の古典にしばりつけておくことは困難だった。彼は古書の中の観念的な理想主義が鼻につき出してくると欠伸をした。中国の兵書においてもそうだった。それはきわめて常識的なことをもっともらしく、いささか誇張して扱ったものにすぎなかった。実戦に役立つものは少なかった。晴信は中国の兵書にけっして陶酔しなかった。むしろ彼は、著書の文学的表現に敬意を払った。孫子の兵法に出てくる 

 疾如風徐如林侵 
 掠如火不動如山
 はやきこと風のごとく しずかなること林のごとく
 しんりゃくすること火のごとく うごかざること山のごとし

の名字句も読めば読むほど平板なものにしか思われなかった。大声をあげて読めば、調子がよかった。それだけのことだった。実戦について教えられるものはそのなかにはほとんどなかった。だがその字句を晴信は捨てはしなかった。その字を幟旗に書き、陣中に立てておけば威勢がよかった。孫子のその教えは晴信には通じなかったが、家臣達のなかにはその文句を口に出したがる者がいた。寄子、被官を引きつれて参戦して来る、寄親と称する者も、馬上姿はいかめしかったが、なかには自分の名前を書くのがやっとの者がいた。そういう郷士の集団こそ実戦の場の花形であり、武田を支えるものであった。
 晴信はそれらの土豪たちに風林火山の読み方を教えてやると、彼等は好んでそれをそらんじた。彼等は疾こと風のごとしと、口にとなえては馬を風にように走らせた。
(戦術というものは原則としてきわめて常識的なものである)
晴信はすでにそれを知っていた。きわめて常識的な戦術を使って戦に勝つには、その戦を形成する個人にかかっていた。人と馬にかかっていた。
「そうだ、人を作り、人を治むることに迂遠ではなかったか」
。。。。

  晴信は諸国に放してある、御使者衆、間者等のもたらした報告を整理し、地図を前に半日も過ごすことがあった。
永禄二年(1559)の四月になると、長尾景虎は再度上京した。上京したままさっぱり越後に帰る気配を見せないのは、いろいろの理由もあろうが、やがて景虎自身が大軍を率いて京都に入って、将軍職の足利氏にとってかわろうという心構えがあっての上の、顔の売り込みと見てまず間違いがなかった。
 今川義元はもっと積極的だった。今川義元に、大軍を率いて京都に上り、天下を掌握しようという野心があることは、もはや誰が見てもあきらかであった。今川義元が、西上の準備のために一生懸命であることは、駿河にばらまいてある間者たちから、次々と報告されてきている。
 相模の北条氏康は、古河公方の足利晴氏を攻め、上杉憲政を追って、その勢力を関東一円に拡張しようとしているが、いまのところ西上の意志はない。
 晴信は三十九歳、来年はもう四十である。いつまでも草深い山の中で戦いに明け暮れしていてもばかばかしい。晴信の希望は天下を掌握することであった。
 側近の飯富三郎兵衛が、古府中長延寺の実了が来たことをつげた。長延寺は浄土真宗の寺であった。
「ご苦労だが、また越中に行って貰わねばならぬ」
 晴信は実了を近くにまねいて地図を示した。越中、加賀の一向宗の勢力範囲が地図に記されてあった。
「いま長尾景虎が京都にいることは存じておろう。景虎がいつ京都を発って帰途につくかはわからないが、景虎の帰途を討ち取るのが、越中、加賀の一向宗を安泰に置く随一の道ではないかと考えられる。景虎は西上に際しては、なんとかかんとか、うまいことを云って、越中、加賀をと通り抜けて行ったが、心では、越中、加賀の一向宗を根絶やしにしようと考えていることは間違いない。越中、加賀の一向宗が立ち上がって景虎の帰途をおさえれば、飛騨の江馬時盛殿も一向宗に味方して兵を出す。こちらも木曽を通じて、兵を江馬殿のところへ送ろう。なお越中、加賀の一向宗の軍資金の一部として、甲州碁石金を用意してあるから、持って行って貰いたい」

 晴信はかねてから準備してあった金一千両の入った金櫃の輸送隊として屈強なる者十名を選んで実了につけてやった。
 実了が去ってから飯富三郎兵衛が
「お館様はいつから一向宗の門徒になられました」
といささか皮肉をこめていった。
「余は一向宗にかぎらず、ありとあらゆる宗派の門徒じゃ。宗派にこだわらず、保護してやっている。仏教ばかりでなく、神社に対しても同じことだ。あらゆる神社に供物をそなえて、戦勝を祈願するのと同じように、あらゆる寺に寄進をおこたらない」
「それはよく存じております。お館様の考えはまちがってはいません。宗派、神仏の別なく保護してやるということは、結局は、その神・仏につながる人民の心をとらえることだと思います。だが、一向宗にあれほど多くの軍資金を出すということは‥‥‥」
 飯富三郎兵衛は晴信とそれほど年齢が違ってはいないから頭脳の回転もはやい。ごく気軽に自分の意見を云うかわりにそれほど深く固執するということもない。駒井高白斎は学者であり、戦術家でもあったから、この老人が云い出したことは、そうおろそかにはできなかったし、板垣信方や甘利虎泰のような宿老は、いい出したらなかなか引かないので苦労した。
 それらの、うるさいが、ためになる宿老たちは次々と世を去って、いま晴信の周囲には彼等ほどの見識を持った者がいなくなったことは淋しい。
(それだけ余が年齢を取ったのだ)
そう思えばそれでもよいが、現在のように、世が大きく変転しようとしているときには、信方、虎泰、高白斎などの頭脳が欲しかった。

「何を考えておられますか。拙者の云っったことが、お気に召さなかったのでしょうか」
 飯富三郎兵衛が心配そうな顔で聞いた。
「いやそうではない。ちと古いことを考えていた。高白斎が生きていたころ、よく云った。金をおしむな、人をおしめとな。無駄金と思っていても、いつかその利息は返って来るぞ」
「ごもっとものことと存じますが、これからは大きな戦をいくつか控えておりますから、軍資金はなんぼうあっても足りません。黒川金山の金にしても、際限なく出るというわけにもまいりませぬ」
「というと、金の産出量が減ったというのか」
「産出量は変わりませんが支出が急に増えてまいりました」
 飯富三郎兵衛はちょっと言葉をにごしてから
「金山奉行の今井兵部が、いま新しい採取法をいろいろと工夫しておりますが」
「金の採取法か」
「いいえ、金の吹き方の新しい方法です。もしこの方法が成功すれば、金の産出額は一躍倍になるでしょう」
「いつその方法が分かるのだ」
「それは‥‥‥」
「当てにならないことは待ってはおられぬ。今川義元殿は、明日にも西上を始めるかもしれぬ。こうなると、大乱が起こることになるかもしれぬ」
「大乱でなく、大好機ではございませぬか。大好機だとすれば、尚更のこと、金が要ることになります。昔と違って金がなければ、戦はできませぬ」
「どうすればいいのかな、三郎兵衛」
「さよう、取り敢えずは、金を無駄に使わぬことです。越中の一向宗に一千両はいかにももったいのうございます」
「晴信にしみったれ領主の汚名をかぶせたいのか」
「別にそう云っているのではありません。お館様の金の消費先を調べてみますと、神社や寺に納める金が多過ぎるように思われます」
「やめろというのか」
「他になにかうまい方法はないかと考えております」
「ほかにな。‥‥金や領地を与えないで、坊主の心を掴む方法となると、この晴信が出家するしかない」
 晴信はそういって、頭に手をやった。黒髪が触れた。
 晴信は一瞬霊感に触れたような気がした。晴信は、はつと立上がると、ものも云わず回廊に出ると、そこから
「馬を曳け」
と大声で叫んだ。晴信はそんなところで、そのような大声をあげたことは一度もなかった。怒鳴ってから晴信は、平常の晴信ではない晴信を感じていた。
 晴信は馬に乗ると一気に長禅寺に駆けつけた。一度は恵林寺とも思ったが、恵林寺より距離的に近い長禅寺を選んだ。恵林寺も、長禅寺も、晴信が諸宗派のうちでもっとも厚い信仰の念を持っていた臨済宗妙心寺派であった。
 飯富三郎兵衛は、なぜ急に晴信が長禅寺に向う気になったのか分からなかったが、なんとなく不安だったので、すぐ馬に乗って晴信の後を追った。走りながら家来にこのことを重臣たちに告げるよう云いつけた。

 長禅寺には岐秀大和尚がいた。
 そのとき岐宗は庭の牡丹に水をやっていた。突然の晴信の訪問にも、たいして驚くこともなく、手桶の水を手ですくって、ばしゃばしゃと音を立てながら牡丹に掛けてやってから、手拭いで手を拭くと、ものは云わず、眼で晴信を書院に案内した。
 岐秀は禅僧にあり勝ちな、きびしいいかめしい顔つきをしていなかった。岐秀は、いつでもその顔から陽炎が立昇っているような、のどかな顔をしていた。かなりの年齢だが歯は一本も欠損なく、笑うとき、若者のような白い歯を見せた。
「牡丹の花はもう一刻半ほどたってから見るのが一番美しい。夕暮れの淡い光の中に見る牡丹の花は幽玄そのものじゃ」
 岐秀は晴信にではなく牡丹に云った。
「では、その牡丹の花が幽玄に見えて来る時刻を待って薙髪の導師になっていただきたい」
「誰が薙髪なさるのじゃ」
「この晴信が薙髪して、授衣、授戒を与えられたいのだ」
「なんのために」
「理屈をいうと面倒になる。要するに、世はまさに動こうとしている。近いうちに大変動が来るのだ。その変動する一足先に余は変動してしまいたいのだ。つまり気を改め、生まれかわった、新鮮な気持ちでその時に臨みたいのだ」
「それは殊勝な心がけでござるが、一度薙髪してから還俗するとなると、いろいろと面倒なことが起る」
「還俗はしない覚悟だ」
「それならばその用意をしましょう」
 岐秀はにっこり笑った。

 飯富三郎兵衛の他、主なる家臣がつぎつぎと馳せつけてきた。晴信が出家すると聞いて
「お館様、いまこの大事のときに出家、御隠居なされて、後をどうなさるおつもりです」
口をとがらせて食ってかかって来る小山田弥三郎に向って晴信は云った。
「誰が隠居すると云った。余が出家するのは、人の世を超越した戦をしたいからだ。出家とは仏の弟子になることだ。これからは、この晴信には、仏という味方がつくのだ」
 晴信の薙髪は日の暮れ方岐秀大和尚の手によって行われた。
「法名は信玄と授けよう」
 岐秀はおごそかに云った。
 晴信はその法名を有難く受け取った。玄は、ハルと読ませることを晴信は知っていた。『大鏡』にも「いま一人のみやすところは玄上の宰相の女にや」ということばがあった。また玄は、は火光明朗の意があって、即ち晴と同意であることを、かつて鳳栖から教わったことを思い出していた。晴は天皇から頂いた字である。そのハルを玄として残心させたことは見事だと思った。
 晴信は寒々となった頭を庭から吹き込んで来る風にさらしながら、暮れなずむ庭に咲く牡丹の花を幽玄だといった岐秀大和尚のことだから、或は牡丹の花から玄を着想したのかもしれないと思った。

 永禄二年(1559)五月の末のことであった。

>>>

 

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箱根の坂 / 司馬遼太郎

2015-12-12 15:25:07 | 音楽・芸術・文学
箱根の坂〈中〉 (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社

 司馬遼太郎さんの「斎藤道三」をみたあと、北条早雲を描く「箱根の坂」。この小説は好きで登るのは三度目。これは歴史小説というのか、史談だろうか。司馬さんは歴史に題材をとった小説を書くのは、完結した人生を俯瞰することが面白いからとおっしゃっている。早雲の若き頃が不透明なため造型を入れて、これで早雲の人生、よき完結だ。

 司馬さんは歴史に疎い読者のために丁寧にいろいろなことを教えてくださる。室町の頃の「箱根の坂」の東方、坂東事情を抜き書きした。早雲の大きな節目になった今川氏親擁立のことも、ついでにメモして抜き書きも完結。早雲はこのあとずいぶんと時間をかけ伊豆を切り取る。西方から箱根を越えて小田原を落とし、期せずして世を戦国の時代に突入させた。さて、かれはいくつまで生きたのだろうか。子年生まれだろうが、どこからか決め手が出てこないものかな?

>>>(以下、「箱根の坂(上中下) 司馬遼太郎著 講談社 1989.9 」より引用 。。。は略部)

>>(富士が嶺)

。。。

たかが駿河一国の相続問題についての混乱ではあるが、その本質、もしくは拡がるところを理解するには、京の室町に幕府をもつ足利将軍の体制というところから考えねばならない。
 なんとも、前時代はおろか、後世でも理解しがたい日本統治の体制をとっている。
「公方」
というのは、いうまでもなく将軍のことだが、もともとは天皇・朝廷をさした。しかし室町の世から将軍をさすようになった。
 足利第三代義満は明国の国書に「日本国王」と称したが、そのことはともかく公方という語感には国王といったふうなひびきと尊敬がこめられていたであろう。
 しかしながら、将軍の直接的な統治は、関東と九州には及ばないという仕組みになっている。九州は九州探題が統治し、関東は関東公方が統治していた。

 関東は、箱根山塊以東の八ヵ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野、常陸)のことである。室町幕府はこのほかに伊豆と甲斐をくわえ、十ヵ国の支配を関東公方にゆだねていた。
 関東公方は足利氏の一族で足利姓を名乗り、公方を称している以上、将軍である公方と同格であるに似ている。事実、早雲が駿河に入った文明八年から三十七年前に非業に死んだ関東公方足利持氏(1398~1439)などは、ほとんど政治的独立を謀って京都の公方と対立しつづけた。
 関東公方の居館は、鎌倉にある。その政庁は「鎌倉府」とよばれた。あたかも前時代の鎌倉幕府のようであり、げんに京都の幕府で、
「関東」
ということばがつかわれるときは、一大敵国であるかのような語感がともなった

 ともかくも室町体制は、血統信仰がつよく、公方という貴種さえその地に存在すれば、国々の土民は弓を伏せて惧れ伏せるとおもいこんでいるところがあり、それが統治原理であったといえる。
 この文明八年から二十二年前、関東公方の後嗣紛争がこじれ、足利成氏という者が鎌倉から奔って下総(茨城県)の古河に移って古河公方と称した。
 京都の幕府はこれをおさえるために将軍義政の弟政知を鎌倉へ送ったが、政知は箱根山塊を越える勇気がなく、伊豆の堀越(現在の韮山町)にすわりこんで堀越公方とよばれた。
 関東に二つの国王ーー公方ーーができた。

 ともかくも、箱根から東はつねに騒然としている。
 駿河国は北東の天に富士山をいただき、国ぜんたいが南をうけ、海には暖い黒瀬川(黒潮)がながれている。気候は温暖で、夏季に雨が多く、田畑の物成りがいい。
 まことに天府の地といっていい上に、東方に箱根山塊が地を盛りあげて天然の長城をつくっているために、争乱のたえまない関東の戦火の影響をうけることがすくなかった。
 箱根山は、越えがたい。奈良・平安時代のころは、この大山塊を越える道は、箱根火山群の北の外輪山ともいうべき金時山の北斜面を通った。この北斜面のことは古来足柄山とよばれていた。それを越える峠を足柄峠という。
 が、この古道は延暦二十一年(802)の富士山の噴火でつぶれたため、その南方にあたる箱根路がひらかれた。山塊を越える道は二筋になったが、鎌倉時代ぐらいから足柄路はあまりにも北へ迂回しすぎるために廃道にちかくなり、もっぱら箱根路がつかわれた。
 箱根路が嶮岨であることはいうまでもない。である上、西方の軍勢がこの坂を東に越えることは、より一層勇気が要った。そこは関東という西日本に対する独立圏であり、兵はつよく、馬は騰っている。
 さきに、京からあらたな関東公方として派遣された足利政知が、この坂を越えることをおそれて伊豆堀越に居すくむようにしてとどまったように、西人にとっては関東はおそろしいところだった。

 足利将軍家に三代(義満、義持、義教)にわたって深い帰依をうけ、ついには幕府の内政・外交の枢機に参与して「黒衣の宰相」とよばれた三宝院満済(1378~1435)は『満済准后日記』をのこしている。
かれは関東をおそれ、足利将軍の権威のおよぶ東のはしが駿河であると規定し、駿河のことを
「国堺」
とよんだ。室町将軍が日本国の王とすれば、「国堺」とは、極端にいえば日本国の国境とさえ考えていいほどにつよい意味をふくんでいる。

「そのような関東から」
と、早雲が駿河に入った最初の夜、小川の長者法栄は、いった。
「軍勢が駿河に入ってきております」
それも、二派やってきている。伊豆の堀越公方足利政知の派遣した上杉政憲の軍と、関東から来た足利定正の家臣太田道灌の軍のふたつで、それぞれが駿河近くに駐屯しているのである。

「主を失うた国とは、もろく弱く、あなずられやすいものでございまするなあ」
と、小川の長者法栄はなげいた。
「もともと駿河の国は、東の国堺。今川の御家は京の室町なる公方さまのご直参にて、室町殿の命令のみをうける国でござりまする。であるのに関東から駿河の内紛に干渉するための軍勢が二派もきているというのは、駿河人の恥というほかありませぬ。駿河は関東の命令をうけぬ国でございます。関東とは、何でありましょう」
異国に似たものではありませぬか、とはげしくいった。
「まさか」
早雲は、笑った。
「関東は、武勇の地、よき鎧の産するところ、京とならんで日本国を支える二つの大きな柱の一つでござる。鎌倉の世も関東で興り、足利の世も関東の足利庄よりおこりました」
早雲には法栄の憤懣がよくわかっている。法栄のいう関東は地理的呼称ではなく、関東公方(古河公方と堀越公方)のことをさしているのである。
法栄にすれば、
ーー駿河は京の公方の御支配の国である。関東の公方が駿河のことについてさし出がましく物言いすることは、京の公方に弓を引き奉るのとおなじではないか。
ということを言いたいのであろう。
 早雲も、そう思っている。しかし新来の者が、感情をまじえて物言いすることは、どういう誤解をまねくかわからず、法栄がじれったがるほどに温和にかまえていた。
「今川新五郎範満と申さるるお方は、いかなるお心映えのお人に候や」
と早雲はきいた。この一点については、あらゆる人にきいてみたいとおもっている。
「よく舞い、よく謡い、連歌などにおいてもなかなかのお方でござる」
歌舞音局や歌道にたしなみがあることは今川一門の風儀といっていい。
「ご一門でのご評判は」
「ご一門ではかねがね如才なく、御連枝ご一族、こぞって新五郎どのをこそと、もはや物狂いの体にて」
と、法栄はいう。
「新五郎どのは、地下(国人・地侍)をいたわれるか」
早雲がききたいところである。
「なんの」
法栄はいった。
「新五郎どのにとって今川の血こそ尊し。駿河地生えの者どもは土くれか地虫であるかのごとく思占されております」

駿河の地生えの国人・地侍にとって、今川氏というのはもともと外来の血族である。
足利の世も初期のころは日本国は二つに割れていて南朝という敵があり、諸国の密度濃く散在する南朝方と無数の地方戦をかさねることによってすこしずつ世の基礎をかためて行った。駿河守護職の初代今川範国が足利幕府の祖尊氏から駿河をもらったのは早雲の駿河入りから百三十八年前のことで、当時、国中にも南朝が多く、もらったといっても名目というにちかく、すぐには実質的なものにならなかった。
 駿河の地下人が、実質上今川氏の統治に随順するのは、百年ほど前ともいえるし、いっそう煮詰めて考えれば八十八年前の三代将軍義満の三十一歳のときかとおもえる。
 そのころには南朝勢力も衰弱しきっており、敵といえるほどの力はなかった。それよりも義満にとっての敵は、むしろ同族である関東公方であった。
 義満は嘉慶二年(1388)九月、公家や守護、諸山の僧、さらにはあまたの軍勢をひきいて駿河にくだり、富士山を見物した。義満の富士遊覧といわれるもので、駿河国にとっても古来、これほど多くの文武の高官、貴顕紳士が一つの軒に会するのを見たことがない。 これに対し、地元の守護である今川氏は全力をあげて接待した。義満にとっては一方では遊覧であり、一歩では箱根以東に対し、京の威福を示す示威運動でもあった。
 守護の今川氏の基礎がためにとってこれほどの出来事はなかった。駿河一国の大小の地下武士どもは、心から将軍と今川氏に服した。
 それから四十余年後の永享四年(1432)九月にも、義満の先例にならい、六代義教が富士遊覧をした。目的は関東への威圧にあったが、このときも、今川氏にとって一国支配の土がために役立った。
ーー今川の御屋形様は、あの京の公方様のご一門なのだ。
ということが、駿河人に今川氏への崇敬の感情をもたせ、さらには忠誠心ともなった。
 元来は、今川氏の統治力は、土俗の貴種信仰や、あるいは京の将軍の示威運動の上に成立している。
 とくに今川一門の連枝とよばれる田舎貴族たちの意識のなかでは、自らの血液についての過信が、ほとんど常態化していた。
 このたびの義忠戦死のあと、一門が結束し、
「ぜひ今川新五郎範満どのを守護に」
という気分がみなぎったのも、新五郎範満が齢に成熟している上に、新五郎がもっとも今川貴族らしい風貌と文学、遊芸についてのすぐれた才能をもっているということによる。

 早雲は思う、人間のむれが、他のむれにした親しみをもったり、あるいは反発、抗争するもとというものは、おもしろいものだ、と。
ーーー駿河と関東とは仲がわるい。
という簡単な図式にはならないのである。
「御家門衆」
と、土地で敬称している今川家の一門のいわば”今川貴族”たちは、地元の駿河の国人や地侍にむしろ気をゆるしていない。
ーーー地下者は、肚がわからぬ。
と、おもっている。
それよりもむしろ伊豆堀越に住む公方足利政知や関東管領の上杉氏といった武家貴族のほうに同じ身分としての親しみを感じ、ときには心をゆるし、たとえ利害が合わぬ場合も、話しあえばわかりあえると思っていた。
 縁組も、そうであった。今川一門は地下の豪族と嫁取り婿取りすることはまれで、家格のあう関東の貴族たちとのあいだでおこなってきた。
鎌倉の上杉氏は、関東公方の管領の家として関東に卓越した名門であった。
いうまでもなく、鎌倉に居館をもっている。
 この時代の通弊として、日本共通の相続法が確立していないため、上杉家は最初は一軒であったが、途中、四軒になった。おなじ鎌倉府のなかでも、その居館のある地名によって称びわけた。扇谷上杉、宅間上杉、犬懸上杉、山内上杉の四流である。おの四流がたがいに抗争し、うち二軒が衰亡し、いまは扇谷と山内が両上杉とよばれ、両家は交戦をかさねつつもたがいに隆盛を誇っている 
小川の長者法栄が、今川新五郎範満について早雲に語ったとき、
「新五郎どのの母御前の御実家は、扇谷どのでござる」
といった。
新五郎範満の母は、いまをときめく関東管領上杉(扇谷)定正の叔母であるという。
「ご存命でござるか」
早雲がきいた。
「息災にあられます。この御前のお里誇りは常ならぬものにて、一にも鎌倉、ニにも鎌倉。‥‥今川ごとき御家にきて、それも世嗣にあらぬ婿どのをもったということがながい嘆きでございましたが、このたびご当主義忠どのが非命に果てられたのを幸いとなされ、御子新五郎どのに望みをおかけあそばしております。さらには、新五郎どのの烏帽子親こそ」
 伊豆の堀越公方足利政知であったという。新五郎の意識が、駿河と関東の貴族社会から出ないというのも、むりのないことであった。

 早雲は法栄らの話をひたすら聴き入るのみであったが、ときに意見をさしはさんだ。早雲がいうことばは、一見、法栄らには迂遠にきこえた。法栄らは、さしせまっての相続問題や竜王丸の身の危険について語り合いたいのだが、早雲がいうのは、のびやかにきこえる。
「世は、変りつつありまする」
ということであった。
「駿河にあっても、上つ方は気づいておられぬようでですが、地下の地面はゆるやかに地すべりをしているように思います。駿河のむこうの関東の地下は遅れて動いておらぬようですが、いずれは大揺れにゆれるでしょう」
とか、
「上方の地下は地すべりがおわって、むしろあらたな大地になっております。駿河の村々も、しさいに見るに、上方と似てきているようです」
と、はじめ、法栄には何のことやらわからなかった。

早雲は、先進地帯の村々が変化しつつあることをいっている。
「変わったのだ」
と叫びたかった。
むかしの、さらにそのむかしは、京の公家貴族や寺社の荘園支配は気楽なものであった。京に居すわったままおのれの荘園から運ばれてくる米などを蔵に入れさせているだけでよかった。すべては荘園の管理人まかせだった。
 その管理人ーー源平の武士ーーが力を得、公家支配の体制を武力で蹴倒し、鎌倉幕府を奉じて土地管理人の世にした。武家の世である。
 鎌倉幕府も、それにつづく足利幕府も、諸国を管理するのに守護や地頭を置いた。守護も地頭も、まだ政治原理というほどのものをもたず、農民の世話まではしなかった。
 武家の世とはいえ、土地管理は公家のむかしとさほど変らず、支配層のご都合主義でまかりとおっていた。たとえば一つの村でも、いまののし餅を切って分けるようにして何人もの地侍が寄生していた。ここの農民からいえば、かれが隷属している地頭とのあいだのタテ関係しか持てなかった。
 そのうち、鎌倉から室町の世にかけて鉄器が廉くなり、鉄製農具や鉄製農業土木用具を、どういう貧農でも買えるようになり、農業生産が全国的に飛躍した。
 ともかくも、日本国始まって以来、農民が力をもつようになった。村が一枚ののし餅になり、団結し、顔役をえらんで、地頭たちと交渉するようになった。その顔役どもも成長し、国人・地侍といった、非正規な武装者になって、武装農民をひきい、ときには村々が大連合するようになった。

「世の移り変わりほどおもしろいものはござらぬな」
早雲は、物憂そうにいうのである。
「たとえば、渡しに従っております大道寺太郎、荒木兵庫、それに山中小次郎、かれらは京に近い山里である田原郷の者でござる」
あの連中は侍装束こそしておりますが、根っからの武士ではござらぬ、といった。
「かれらの祖は、平安の天皇の世では、あわれな農奴であったかもしれませぬ。鎌倉の右大将(源頼朝)の世になっても、当座は似たようなもので、田のどろをひっかきまわして、年貢をとられたあとは食って生きるのがやっとでござったろう」
 その後、どうも世が変わってきたのだ、と早雲はいう。
「たれが、変えたのです」
と、相伴している連歌師の宗長がきいた。宗長は、漢籍をよみ、唐土の史書にあかるいために、唐土のように日本でも英雄豪傑が出て、その政治思想によって世の中を変えたのかとおもったのである。

「日本には、古来、左様な者はおりませぬ」
早雲は、いう。日本の支配層は支配層のためにたがいに争うのみで、農民のために思って政治をなした者は一人もおりませぬ、ともいった。
 要するに、日本では世の中そのものが力だ、と早雲はいう。百姓が以前より深く土を掘りくずして米の物成りをよくし、また水路をひらいてあらたに水田を作り、さらには山の斜面を平らにして新規に畑地を造った。日本中がそのようになったために農民に余裕と力ができ、農民が横に結束して共同体となって都からの貢とりにたいこうするようになったのだ、という。
「山城(京都)や近江でいう惣をご存じか」
と早雲はいった。

今様のあたらしい村のありかたを、先進地帯では「惣」という。惣とは「すべて」というほどの意味で、連合と解釈してもよい。字々の大百姓(たとえば田原の大道寺や荒木のような)が広範囲に寄り合い、その仲間で代表者会議をひらき、自治代表をえらぶ。自治体代表のことを近江では年行事とよび、その補助者を肝煎といい、その下の役人のことを目明という。これが、惣という連合自治組織の自主的な行政機関であり、近江甲賀郡にいたっては郡中が一つの惣になっており「郡中掟」という法律までつくっていた。守護・地頭という武家貴族の世は終わりつつある。
「伊勢どのは。室町殿(幕府)のご名族の出でありますのに、地下のことをよくご存じでございますなあ」
小川の長者法栄が声をあげた。
(なにが、名族の出なものか)
早雲は肚のなかで自嘲した。
(一枚の田ももたぬ傍流の身では、地下も地下、惣のなかの水呑百姓より劣るわい)
早雲のいうとおり、世の変わり、というのは、にわかな時間内のことではない。
磯の岩に立っているときなど、気づかぬままに岩が沈んであわてることがあるように、潮のほうがにわかに満ちたのではなく、人が気づかなかっただけのことである。
(そういう世なのだ)
と、早雲が突きとばされたような思いで感じたのは、応仁三年が、その四月に年号がかわって文明元年(1469)になった年の九月のことである。事変は、備中国(岡山県)でおこった。備中は伊勢氏の所領のある国だけに、早雲の関心もふかい。備中国の新見庄は古来、大きな地域だったが、ここの村々がことごとく団結し、「惣」を組み、守護細川氏の命令をはねつけてしまったのである。
守護細川氏は、早雲に有縁の備中伊勢氏に鎮圧を命じたが、伊勢氏にもその力はなく、伊勢氏は寺町又三郎という者に代官をたのみ、軍勢をひきいて新見庄に進入させようとした。
が、惣の結束は固かった、この惣は、いくつかの地頭に分割統治されていたが、そのなかに京の東寺があった。東寺のみが、租税が安かった。
 それによって新見庄の「惣」みずからが、地頭は東寺だけだ、ときめた。

 東寺より外ハ地頭ニもち申すまじく候

と、惣中の男という男が一人のこらず「惣」の惣社ときめた八幡宮にあつまり、この旨「一味神水」した。心を一つにする旨、神水を飲んで盟ったのである。
そのとき、大鐘をつき鳴らした。
結局は「惣」が勝ち、この「惣」の代表格である多治郎氏や新見氏などの国人の合議体制が支配権を握ったのである。
 早雲がそのようなことを語ると、法栄は
「駿河も、似たような潮が満ちております」
と言い、いくつも例をあげた。
応じて、早雲はいった。
「囲碁、備中では、守護細川氏の力が無きにひとしくなりました。まだ駿河の守護今川氏が、国中から慕われているだけでもよいほうでござる」 

 早雲は、駿河に入って十日ばかり経るうちに、この紛争についての本質が見えてきた。そのころ、もう一度、法栄と宗長にあつまってもらって、語り合った。
「物事は、心を虚しうして見ねば誤ります」
と、早雲はいった。
 法栄どのは商人であり、宗長どのが連歌師であるのがいい、と早雲はいう。ふたりとも今川一門ではなく、また地所もちでもなく、利害関係としては局外にある。だから、見える。
「しかも、駿河一国の命運については、つよい忠実心がおありだ」
これがなければ、たとえ物が見えても、実行がともなわない。早雲はかさねて、
「要は、駿河一国のためということです」
しかし駿河一国といっても漠然としている、といった。かれの論理は大岩を理に沿ってたがねで割ってゆくように分析的であるとおもえば、飯粒をへらで練りにねってそくいをつくるようにねばっこい。たしかに駿河とは今川氏をさすのか、国人・地侍をさすのか、それともその日の暮らしにも事欠くひとびとをさすのか。
「駿河とは、そこに住むすべてのひとたちを指します」
と、早雲の定義は、両人があっと息をのむほどに明快であった。いままで一国についてこうも明かあかと言った者はなかったろう。
「今川家は、大切です」
 早雲は、そこにもどった。なぜなら、この国はいまの段階では今川家が守護であればこそ国中がまとまっている。今川家が存在せねば、国中がみだれ、西方は尾張の斯波氏に斬りとられ、東方は関東の上杉管領家に食いとられるだろう。他国の植民地になってしまえば、難渋するのは地下だ、と早雲はいった。
「私の話、退屈ですか」
早雲は、途中、ふと愛敬を見せて首をかしげた。
「いやいや」
 法栄は苦笑してかぶりをふったが、正直なところ、なにをわかりきったことをいうのか、と早雲に不審を感じていた。が、早雲はいった。物事とは、底の底から掘りだして見直してみる必要があるのです。
「その今川家をまとめるのに、齢熟し、万事にそつのない新五郎範満どのがよい、それが駿河一国の安泰のためだ、となればそれを立てるべきです」
といったために、両人は唖然とした。新五郎を倒し、幼主竜王丸の相続権を不動のものにする、というためにその外伯父早雲をよんだのではないか。 
 早雲が、
「今川御家門衆」
とよんでいる筆頭に、瀬名氏がすわっている。
今川氏の系譜のなかで、五十余年前に死んだ今川了俊(1325~1420)という人物が、足利市の鎮西探題になり、九州における南朝勢力を討伐し、高麗・李氏朝鮮との外交の衝にあたるなど、室町幕府の九州における基礎をつくった。
 その功が卓越したため、三代将軍義満に警戒された形跡すらあり、今川氏が国家の中枢から遠い駿河に移されたのは義満の感情によるとみるのが自然である。
 了俊は、武略から政治だけでなく、文事についても一世にぬきんでていた。義満にとっていよいようれしからぬことであったろう。著作が多いが、代表作というべきものに『難太平記』がある。
 すでに世上に『太平記』が流行していた。鎌倉末から説きおこし、武家と公家の抗争を劇的にのべた巨編で、義満の代でおわっている。作者はわからないが、編中、楠木正成という南朝方の英雄的存在が造形されるなど、南朝びいきの色が濃く、この点、武家方(北朝方)の了俊としては気に入らず、その誤謬の箇所を指摘し、反駁している。
 『難太平記』とは『太平記』を難ずるという意味で、後人がつけた題らしい。了俊としては、もともと自分が義満に誤解をうけたことを弁明し、子孫に理解をもとめるという別の主題から書きおこされたものである。

 人は其身の位にしたがひて忠を致すべきなりけり。身のほどより忠功の過ぎたるは、かならず恨の可出来かとおもふ故也。

という処世訓が書かれているのは、注目されていい。この時代は、一体に、貴族が子孫にのこす処世訓がはやる時代で、早雲の伊勢氏の長者伊勢貞親ですら「伊勢貞親教訓」をのこしている。了俊のそれは、はしりといっていいが「人間は分相応の働きをしていればいいのだ。出すぎた功名をたてれば人のうらみを買う」というかれのことばは、子孫に事なかれを望む思想で、その後の他の家訓も似たようなものといっていい。
 瀬名氏の家系は、その了俊から出ている。その子孫一秀の代に瀬名(今の静岡市域)の地を領し、その地名を苗字とした。当代は瀬名陸奥守氏貞といい、一門に対する政治に長け、発言権は大きい。
他の御家門である関口、新野、名古屋の諸氏も、瀬名氏を押したてて新五郎範満を擁立しようとしている。

 一方駿河国の谷や野で、郷村をかため、力をもちはじめた国人・地侍たちは、それぞれ、
「御譜代衆」
とよばれる有力者たちを頼んでいた。かれらは御譜代衆の寄子(寄騎・与力)であり、御譜代衆を通して今川家にむすびついている。かれらは、父親が拓いた田地をもち、
ーー天が下、たれに遠慮があるものか。
という自尊心をもつ一方、それとは矛盾することながら、御譜代衆を「寄親」と頼んで、自分の地所が他の勢力によって冒されぬように自衛している。そういうかれらからみれば、貴族化した今川御家門こそ、自分の地所を平然と侵してくるかもしれぬ勢力であった。
ーー新五郎範満どのがたてば御家門衆のお力が大きくなる。このこと、わが身にとってうれしからず。
という利害の感情を強烈にもっていた。寄子たちのそういう気分を寄親たる御譜代衆たちは代表せざるをえない。
 御譜代衆は、今川氏が駿河に入部する以前からこの地に勢力の根を張っていた大いなる地下衆たちである。御譜代衆の代表的な存在として、まず庵原氏がある。いおはらとも言い、葦原、菴原とも書く。庵原郷の田園のなかから勢力を築き、今川氏に仕えることによって、その自家の本領を安堵されている。
 朝比奈氏は、駿河湾西岸から西方に入った山地の朝夷郷から興った。ほかに、三浦氏があり、また由比氏がある。
早雲は、法栄や宗長に
「それら御譜代の面々について、どうおもわれるか」
と、問うた。
「言うに及ばず」
と、法栄はいった。
法栄は御譜代衆とそれにつらなる下々こそ駿河の骨であり、肉であり、また血である、と言い、そのほかに駿河はない、といった。
ーーー御家門衆は、そういう駿河の血を吸う蛭のようなものでござる。
とまではいわなかったが、たとえそう口走っても文脈としておかしくないほどの語気だった。ただ、御譜代衆をふくめた地下衆は、一村一郷がたがいに仲わるく、一国に一人尊貴なる御人を戴かねばまとまりませぬ、と言い、
「尊貴ということは、筋目でございます。筋目は竜王丸さまを措いておわさず、このお一人のみを擁し奉れば駿河一国の士気は大いに奮いましょう」
といった。
ともあれ、早雲は駿河という国を検討しぬいたことで満足した。

。。。

>>(急襲)

。。。

早雲は、今川新五郎範満を討ちとった。
 駿河における守護今川義忠が戦場で死んだのは文明八年である。以後、十一年になる。この間、駿河に守護は存在しない。
ただ、混乱と、降りやまぬ五月の雨のような小戦がつづいた。その元凶はこの新五郎であったといえる。

「御首級、頂戴つかまつった」
という声をきいたとき、早雲はあらためて平服をぬぎ、甲冑に身をかためた。新五郎の首級に対する敬意であった。母屋の階の下の白洲に首を据え、炬火をかざさせ、仮りの首実検をした。礼の筋でいえば、正規に首実検すべき者は丸子の今川氏親であって、身分の軽い早雲であるべきでない。早雲はそのことはよく心得ている。

「仮りに御首級をあらため奉る」
と、ことさら自他に対してことわった。
 正しく首実検すべき人として、氏親を迎えるべく、すでに人数を出している。首実検の場も、茶阿弥の荼毘所である南郊の辻に設けるべく、亡き今川義忠の旗、幔幕などを用意させ、場所のしつらえ一切を指示した。この首実検そのものが、氏親の相続を国中に知らしめる示威になるであろう。早雲は、万事、その一点を主題にして配慮していた。
 武士として敵を討つということは、ふつうにははなばなしいことであったが、早雲のやることを見ていると、そういう部分は押し包まれている。すでに、新五郎を討った。ただしこの行為の華は、麻や錦や練絹、生絹などで厚くくるんでいる。
 このため、早雲の手の者は、新五郎を討ってからのほうが多忙だった。国中でおもだつあらゆる者を首実検に立ち合わせるべく、氏親の名をもって触れを出した。
 今後、氏親が駿河において寄って立つべき地侍・国人層を中心に、旧階級の御家門衆もふくめ、さらには社寺にまで使いを走らせた。これまで新五郎派とみられていた者も、当然ふくめた。すべての旧怨をこの首実検で解消させるつもりだった。
「小鹿孫五郎どのは、いかがなされます」と、問う者がいた。早雲は、虚空のその霊に敬意を表するように小さく頭をさげ、かのお人は勇士であった、と言い、つづけて
「ただ、慮外者であることに変りはない。荼毘については願阿弥どのにまかせよ。この騒動で命をおとした町方・村方の者より礼を薄くせよ」
と、いった。

 早雲は多忙をきわめた。
 しばらく駿府にとどまらねばならないということで、士卒のためには駿府西北方の手越の磧に寝小屋をたて、自分自身はさらにひきさがり、願阿弥が滞留している寺を宿館とした。
「目の前の駿府館が空きたるに」
なぜ宿とせぬのか、と願阿弥がからかうようにいったが、
「ご坊、この大事のときに虚仮をおおせられることよ」
と、にがい顔をつくった。
大事とは、新五郎を討って氏親を駿府館に迎えるについてのことである。この時期十日間ばかりのあいだに、氏親の生涯の治世の基礎固めをしておいてやらねばならない。
「駿河という国を屋形にたとうれば、柱の五十本は立ちたる屋形でござろう。その五十本の柱のために五十の基礎石をして奉れば、あとは若きお屋形が、よきように棟を組み、漏らぬように屋根をふき、そのあたりの土をこねて壁を塗りあそばす」
といってから、あとはおどけて、
「わしが駿河でやることは、それだけさ」
と、俗なことばでいった。
「面妖なことをいうよ」
願阿弥はいった。
「それと、伊勢(早雲)が駿府館を仮りの宿にするのと、どうかかわりがある」
「伊勢か」
早雲はひとごとのようにいった。
「伊勢は、もはや駿河には無用の者」
もし早雲が、新五郎を討ったあと、たとえ仮りの宿でも駿府館に入れば、ひとは何というか。簒奪したかとまではおもわないまでも、早雲を国中第一の出頭人とおもい、早雲につき従う者が多くなってしまう。
「たとえ、いまにわか雨が降ってきても、駿府館には駆けこまぬ」
と早雲は願阿弥にいった。
 早雲には、あるいは馬上天下を切り取るほどの勇気と才があるかもしれない。しかしかれはすこしもそれを露わにせず、かれがいまやろうとしている氏親治世についての基礎固めというのは、すべて礼法の発想から出ている。そのあたり、いかにもこの男の生立にふさわしい。

 たとえば、駿府館に人数を入れ、血を浄めるばかりか、拭ききよめ掃ききよめ、破れたるは補修し、駿河の神聖者の座所にふさわしいものにしつつある。
そのための人数は、地侍・国人からさし出させた。
ーー駿府館は、今川一門の私邸ではなく、一国の地侍・国人がかつぎ押し立てる神輿である。
という意識が、この礼法によってできるはずであった。

 早雲が最も気をつかったのは、国人たちに対してであった。
 じかに農地に根ざしているかれら在郷武士たちは、室町の武家貴族からみれば百姓の大いなるものというにすぎない。しかし、かれらの独立自尊の気分は、人気の温和な駿河でさえ、年々膨らんできている。
ーー御家門はおさえる。国人をたてる。
という早雲の思想は、御家門代表の今川新五郎を一挙に屠ったことで、国中にひびきわたった。
つづいて、
ーー駿府に参集せよ。
という氏親名義の号令によって、かれらは馬蹄をとどろかせてあつまりつつある。駿府においてそれらのひとびとを世話する肝煎の人数を早雲は組織した。これら肝煎衆は、朝比奈太郎など、在来、氏親に忠誠心をもっていた国人たちを網羅し、すべての花はかれらに持たせた。早雲自身、いっさい表に出ることはしなかった。
「伊勢どのこそ、名簿の筆頭人であられるのに」
と、朝比奈太郎は眉を暗くして恐縮したが、しかし早雲は意にも介しなかった。本心は、存外、駿府あたりで国人仲間にまじり、序列の上下をあらそっても仕方がないという気持ちであったかもしれない。ただ、心から
「私は、ちがう」
とくりかえしいった。ひとつは他国者であること、いまひとつは出家して法外にいるつもりだから、という意味をこめていた。

 この間、早雲は関東の情勢について気をくばりつづけていた。
新五郎を討ったとき、その旨、関東管領上杉定正に通報せねばならなかった。
ーー扇谷どの(上杉定正)が、軍を催して新五郎どのの後盾になるべく駿河入りをくわだてている。
という噂が、その後もきこえてきている、これを食い止めるためには、
ーー氏親様の命によって新五郎どのを討ち奉った。
という旨、定正に報ずればよい。定正としては新五郎が親戚であるとはいえ、他国の政治にとやかくはいえず、要請者が死んだとあれば軍をひるがえすほかない。
 が、一片の通帳では、定正の感情をなだめることはできないであろう。このため早雲は使者をえらんだ。今川家の御家門のなかで氏親方だった者二人を正使、副使とし、国人のおもだった者を目付としておもおもしく出発させた。
すべて、礼である。早雲がこの事態のなかでやったさまざまのことは、ほとんど礼法の延長のようなものであり、それが十分に政治になっていた。

。。。

やがて氏親を駿府館に迎えた。
この日の盛儀は、すばらしいものだった。
氏親と北側殿が朝比奈館を出、丸子を経たころから、沿道に出むかえた国中の侍、神官、僧侶がみな土下座し、あらそってつき従った。駿府に近づくと人の群れは大きくなり、百姓、漁夫もこの列に加わった。
「駿河一国の生まれかわる日ぞ」
ということばを、あらかじめ早雲が国中の侍という侍に吹聴しておいたために、たれもがその気になっていた。なぜ、どのように生まれ変わるのかは、当の氏親も早雲もよくわからないが、しいていえば、
「駿河一国は百姓(地侍・国人を筆頭にしている)の持ちたる国」
という国一揆の気分だった。生の国一揆ではなく、その気分を持ちつつ、一揆の象徴としてーー矛盾はあるもののーー守護たる今川氏親がいる、ということだったろう。

 ついでながら、国一揆とは、国人の一揆のことをいう。
「守護」
というのは、外部(幕府)から任命されて領主権を得たもので、国内の慣習、実情、利害から超然としている。超然としていながら、じつは欲深に収奪して領主権をふりまわすために、国人という地生えの村落領主層の反発を買った。
 室町幕府の初期には播磨の国一揆(1429)があり、つづいて九州南部の三州国一揆があり、またこの年から七年前には丹波の国一揆があり、さらに二年前には、早雲に衝撃をあたえた山城国一揆がおこっている。いわば、国一揆の時代であるともいえる。
 一揆は、共通の目的をかかげた者たちが平等に結束し、不意に爆発するというかたちをとるため、ついに濫妨狼藉ということがつきものになりがちである。
 早雲の政治学では、氏親の下に国人代表の合議機関を設け、かれらの権利を守り、不満を解消させつつ、エネルギーだけを抽出し、氏親という存在に吸収してゆこうというものであった。
 吸収するには、礼が必要であった。
国人は御家門衆とちがい、礼に習熟していない。かれらに礼という秩序の所作を教え、すくなくとも駿府館に伺候しているときは行儀よくさせるというもので、その礼は、伊勢や小笠原流でなく、今川流に拠った。

 話は変るが、江戸期に「今川」というだけで、初冬の修身書のことをさすまでの普通名詞になった。「今川帖」といえば手習本のことであり、「女今川」は女子修身書という意味につかわれた。

>>

  尻尾立ててシャンとしてるなあ。。。

 

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