Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

わがくるま史

2012-05-05 23:51:51 | なんでもあり・ファミリー

禅のことを書いたという本の新聞の広告にあったのだが、昨年の大震災後の大変な今を生きて行くには「責めず、比べず、思い出さず」だとか。うーむ、そうは言われてもねえ、あまのじゃくだからなあ、かえって妙な事思い出した・・・。このところずっとつまんなくて、唯一の機動力だったムスコのお下がり原チャZOOMERもあろうことか、オイルを入れ忘れエンジンが壊れた様だ。あーあ!!修理は十万以上だと!!それじゃあ軽自動車買えるじゃないか、と思って雑誌見ても、なんと軽自動車ってえらく高いのだ。でもなんとか工夫してみれば、ウルトラCはあった!だから今日は機嫌がいい。思い出したり比較するのも悪くはないんじゃないかい。まあ、あまり自分を責めたりはしないのがよろしくないのだけれど・・・

最初のくるまがこれ。三菱のセレステであった。1970年代なかば、うっとりするようなクーペがぞろぞろ、トヨタ/セリカGTのブルルルル〜のエンジン音、なぜ今ああいう音がつくれないのだろう。セリカのハッチバックやギャランGTOの流れる様なフォルム、だけど高くて手が出ないので似た様なこれでがまんした。名前が掛け捨ての様で何とも・・・従姉妹がディラーにいて義理半分。おお、革ジャンはマクレガー、今どきの背広よりも高かった感じ!

ハッチバッククーペはいいのだが、うしろの座席などお空まで見えて乗れるものではない親不孝クルマなわけで、ギャラン・シグマのサルーンに乗り換えた。これはネイビーブルーの新車、海軍が好きだから色で決めた様なもの。三菱の車は鉄板が厚くて頑丈、だから重いわけでSLスーパーとかいうこれは装備はいいが1600の心臓だったからSLのごとくトロトロゆっくり走るのだった。東京転勤で社宅の駐車場空き待ちが2、3年、東京じゃ車もいらないなと義弟夫婦にくれてやった。

次は写真がみつからない。仙台に戻った30代半ば、そうだ、あの中古車にしようと、運転席とダッシュボードのデザインの開放感が気に入っていたホンダ/アコード・ハッチバックをチャリンコに乗って探して近所で買ってきた。ベージュ、なんか下着みたいな色だったなあ、このくるまの売れ筋カラー。パワステの軽さにはビックリ、こんなに運転が簡単でいいのかなあ、だれかとテニスなんかしていて、どうしてるかなあ。

遅ればせながらに出て来た息子誕生の前々日、またまた東京転勤とあいなった。ふた月以上たってから、猫2匹まで乗せて、そのアコードで首都圏に乗り入れたが、引っ越し前ひとりで遊んでいる間、いすゞ117クーペ/XCの6、7年経ったヤツを見つけてしまっていた。その昔、新車カタログをあきもせず眺めていた、あれだ。ジルジアーロの流線型、もう造ってないからこれを逃せばと・・・三角窓の風切り音はタイヘン、サンルーフ閉まらなくなって慌てたりオーバーヒートしたりと廻りから笑われ気を揉ませてくれたが、第3京浜では命拾いとなったから矢張り名車だ。ウトウトしていて出口の渋滞に突っ込む寸前、あっと思ってブレーキを思い切り踏んで前のくるまにあと10メートル残してピタッと止まった。つぎの車検どうしようと思った矢先10年目、10万キロでピタッとエンジンかからず、もはやアウト。

しょうがないので、お元気ですかあ〜の助手席の陽水さんのCMにひきづられて、日産のセフィーロを電話のやりとりだけで買ってしまった。ワインカラー、これまたカッコいいから。到れリ尽くせりというのか要らぬ装備なのか何でもついていて、オートクルージングなどというのは100キロ巡航などと覚えさせると、あとは胡座をかいていても走る。これは危ないね。トンネルに入れば、自動でライトはつくし・・・でも日産が元気出た頃だし、この初代セフィーロは素晴らしいデザインである。だんだんいじってゴツくしたのはバカなことだ。その後また仙台に戻ってからは女房が乗っていたがFRだから雪道は「お尻を振るので随分怖い思いをしたわ」マックのドライブスルーに入ろうと曲がった瞬間後ろからぶつけられて、それこそお尻が180度向きを変えたらしい、10年以上乗っていたから価値はゼロで全損扱い、セフィーロ君は、誰の手にも渡さずにワンオーナーで寿命を全うした。お元気じゃないってば・・・

仙台に戻った厄年あたりの時期は、若い頃の無理がたたって?の急病昏睡状態から奇跡的に目覚めて一命を取り留め、またまたの東京異動はドタキャンに。郊外から郊外への通勤くるまをなんにしようが気晴らし。BMWのクーペを見つけたので見に行くと同じ値段で隣にビカビカのネイビーブルーのVW/ゴルフ2型最終版。うわーこっちだ。これが終わった頃でも本国ベルリンではほとんど1型ばかりしか見掛けなかった。日本だけだよ、物を大事に長く使わないのは。タクシーなどポンコツベンツばかり、空港へ急げと女性の運ちゃんに飛ばさせてどのぐらい出てるのかと覗いたら、スピードメータなんかはずされててついてもいなかった!
さて、この4灯グリルに換えたゴルフは、サスペンション、足回り、ハンドリングはまことに立派、だけど冷却の循環器系統、ゴムホースなどよくふっちゃけて盛大にエンジンルームから白煙を上げた。あちらは標高差が大きいから日本と圧力が微妙に合わない感じ。最初は燃えたかとビックリ、何回もJAFやディーラを呼び出し、代車も数知れず。タイヤ、FOG、オーディオ、そして修理、ほぼ完璧になったらどういうわけか猫足に興味が向いてしまった。でもこのゴルフは名車だったね、今の大きくなりすぎた。このころの柴犬テッちゃんも名犬、クルマも犬も僕を助けてくれたね。ありがと。

猫足のワインレッドのプジョー306が見あたらず、偶然通勤途上で赤いルノー・ルーテシアを見つけた。これも自分しか乗ってないから写真みあたらないなあ、そのうち出て来るだろう。冷やかしに立ち寄ってこわごわ左ハンドルで走ってみると、走りと変速の柔らかさ、それにシートの出来が素晴らしかった。畳の文化からはあれは造れないだろう。アナログのオサレ〜な時計までついている。フランスというのもなかなかだなあ、と。これは2回は車検取った筈だが、エンジンブレーキの効きもいい感じのオートマがとつぜん壊れた。ミッション交換となると本国取り寄せ70万とか、これじゃ、となりにあるトゥインゴに替えるかと。トゥインゴは乗る程に面白くなる飽きのこないクルマだった。だから結果オーライだったけど、この正規ディラー、社長がおかしい、センサー部分かを直してまたいい値段で売りに出していたので付き合いを止めた。つぶれたようだ。このあたりから、わが正室もあきれて余り口をきいてくれなくなった・・・人物像はクレーム出そうなので、ゲンちゃんに出てもらおう。

 

ルノー・トゥインゴ、フランスじゃカローラみたいなものだけど、クラッチレスのマニュアル5速。オートマ全盛の昨今これがなんとも小気味よい。脚はツラズ、眠くもならない。左ハンドルだから運転しやすいし、停めやすい。お目目もなかなかカワユイのだが、小さすぎるから料金所でよくナンバープレートの色を見に来られた。失礼ではないか!うしろの車もニヤニヤしている。

 

  

こんなことで十数年、外車で釣りやら蕎麦うちやらと遊んでばかりいたらアラ還に。これじゃあ子ども達の将来はどーなるのだと一応自分を責めてみて、車検も残っているのを廃車にしてまで節約を決行し謹慎していた。それなのに、バイクまでこわれたらどーすればいいのだ。油絵運搬にルーフキャリアを載っけた(今や用なし)名車初代マーチは奥方専用だし、軽自動車なんてビンボーくさいしなあ・・・(実は自分こそほんとうにビンボーなのだ)あっ、あれなら乗ってもいい。そうして、生まれてはじめて黄色ナンバー、黒色のくるま、クロカンもどきパジェロ・ミニを、生まれてはじめてのネットオークションで手に入れたというわけだ。(新規様とか言われて・・・)一度目でプロみたいなヤツに競り負けたらばかばかしくてなってメゲたので、1時間ばかりじっくり?調べて別なのを即決価格で落としてしまった。真夜中1時のため!?、現物を見てもいないからリスクは大きいが安い、だから走行距離などは気にせず整備記録の残っている出物をねらった。皆さん気にする走行距離なんてだいたいがあてにならず、同じ時間乗っていても東京なら時速15キロ、田舎なら40キロだもの、クルマの賞味期限はこれじゃないな。メータも賞味期限も簡単に直すモラルレスの時代。この黒パジェロは毎年どんな点検、部品交換してきたか全部解る素性のいい物だからあと10万キロもなんなく走るだろう(そのまえに飽きるだろう?)。先方とのやり取りも速決、陸送であっというまに届いてしまった。(これが高いので湘南に取りに行くと云ったら、走るかどうかわかんないじゃないと責められた!)ともかく、うれしいなあ、黒でも品のいいガンメタリック(自分のはこう思うがヒトサマのはドブネズミに見える)、軽のくせにマーチより背が高いじゃないか(また、比べる)。ピカピカに磨きはしたのだが、でも、ジャスコのほかにどこへも行く所もないし・・・(そうだ、と思い出して、)母上のグループホームへ行って来た。「あらあ、何年振りかしらねえ・・・」(ぼけか、皮肉か、どうも前者のようだ・・・)

おい、使っていいぜといったとたん、ムスコはでかいバイクをやめて黒パジェロで、さっそうと出かけてしまった。むむむ・・・「責めて、比べて、思い出す」方がよっぽど今を前向きにやれるような気がした・・・それにしても、ジョーシキ人のように白いトヨタ車にでも乗っていれば、もっとマトモになれたのであろうか・・・、間違いだらけのくるま選びと我が来し方(いや、そーではないっ・・・)

 

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鹿児島阿房列車 ー 百鬼園先生

2012-04-01 15:43:38 | 音楽・芸術・文学
第一阿房列車 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 

百鬼園先生の連作第一回目「特別阿房列車」の出だし。「阿房列車と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどとは考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。何にも用事はないけれど、汽車に乗って大阪に行ってみようと思う。・・・」昭和25年のはずだから、戦後やっと少しは落ちついて来たころか、その時代の明るさの気分が、阿房列車シリーズ全体に感じられる。僕が生まれた年だ、ああ、生きた時代が重なっていてくれたと、百鬼園先生にますます親しみを感じる。

どの旅の感じもなかなかによいものだが、「鹿児島行」から先生が故郷の岡山を通り過ぎるあたりまでを記憶にとどめておこう。先生の「無用の用の旅」は昭和20年代後半から30年代初頭。僕はオヤジの転勤で仙台から福島に移った幼稚園前後の歳だが、汽車は特に夕方の風情、すれちがう最後尾の展望車の真っ赤なテールランプの記憶が今でも鮮烈である。駅裏にも住んだから、大きな蒸気機関車の入替、炭水車への石炭の搭載をながめたせいで、HOゲージの模型にはまったときもある。天賞堂、珊瑚模型、レールなどはイギリスのPECO・・・人間の模型の様な息子が現われてからは暇も金もなく止めてしまった。二十数年ぶりで段ボールを開けたら、クンロクや造りかけのD51、ディーゼルDD51もあってうしろは貨物車ばかり。「はと」か、銀河鉄道でも再現しようと思ったが「貴婦人・C62」もいないし客車も足りずとても無理。せめて特急ヘッドマークだけでも・・・

  

先生が出発して行った有楽町と新橋の間の高架線、何年かあの近辺で毎晩遅くまでアクセク働き、有楽町、日比谷、新橋、ガード下あたりもうろうろしていた。上から眺めてもしょうがないです先生、下の方が断然面白いのだ。あれからでもずいぶんたってしまった。もっと昔、寝台特急ハヤブサか、ついたのは西鹿児島、北ではニセコなんかも何回か乗ってるなあ。もう電気機関車の時代だったけど。しかし小樽の手前辺りのトンネルで窓閉めず煙が入ってきてあわてたのはいつであったか、ローカルかなあ、岡山へも何度かとんぼ返りをしたことがあった。あーあ、往時はただ茫茫・・・4月1日は旅立ちの日なのに・・・輝いていた頃と良き時代を思って何が悪いか・・・ぼんやりと、追いまくられない旅に行きたいものだ・・・・センバツの八戸・光星、ノースリーから打った、センターフライかとも思ったが越えろと走ったという、一生の宝になるランニングホームランだね・・・

 

>>>>>>以下、「第一阿房列車 内田百間 鹿児島阿房列車 前章より引用」

 (ちっとや、そっとの)

六月晦日、宵の九時、電気機関車が一声嘶いて、汽車が動き出した。第三七列車博多行各等急行筑紫号の一等コムパアトに、私は国有鉄道のヒマラヤ山系君と乗っている。二重窓を閉め切って、カアテンが引いてあるから、汽車が動き出しても外が見えない。歩廊の燈が後へ行く景色はわからないが、段段勢いづいて来る震動で、もう東京駅の構内を離れようとしている見当はつく。この列車は新橋には停まらない。

昔の各等列車は一等車が真ん中にあったが、今はそうでない。一等車二等車三等車の順に列んで、下りの時は進行方向の先の方に一等があるから、従って機関車に一番近い。だから発車信号の吹鳴が手に取る様に聞こえた。電気機関車の鳴き声は曖昧である。蒸気機関車の汽笛なら、高い調子はピイであり、太ければポウで、そう云う風に書き現わす事が出来るけれども、電気機関車の汽笛はホニャアと云っている様でもあり、ケレヤアとも聞こえて、仮名で書く事も音標文字で現わす事も六ずかしい。巨人の目くらが按摩になって、流して行く按摩笛の様な気がする。

巨人と云うのは日本の大入道の事ではない。ゴヤの描いた巨人の絵を写真版で見た事がある。半裸の巨人が大きな山脈の上に腰を掛けて、うしろの空に懸かっている弦月を半ば振り返って眺めている。その巨人は目くらではない。出目で、ぐりぐりした目玉に月の光が射している様な気がした。同行のヒマラヤ山系君は、柄は小さいが少し出目である。
「出目でない、奥目には、利口な人が多いですね」と或る時意味ありげな事を云った。

窓にカアテンが垂れていて面白くない。まだまだ寝るどころの話ではないから一方に片寄せて、硝子越しに外を眺めた。有楽町と新橋の間の高架線を走っている。走って行く方向の右側は、ドアがあって廊下を隔てているから、見えない。左側の数寄屋橋辺りから銀座裏にかけて、ネオンサインの燈が錯落参差、おもちゃ箱をひっくり返した様に散らばって輝いている。

これから途中泊まりを重ねて鹿児島まで行き、八日か九日しなければ東京へ帰って来ない。この景色とも一寸お別れだと考えて見ようとしたが、すぐに、そう云う感慨は成立しない事に気がついた。なぜと云うに私は滅多にこんな所へ出て来た事がない。銀座のネオンサインを見るのは、一年に一二度あるかないかと云う始末である。暫しの別れも何もあったものではないだろう。
こないだ内から、抜けかけた前歯がぶらぶらしている。帰って来る迄にどこか旅先で抜けるだろう。行く先は鹿児島だから遠い。鉄路一千五百粁、海山越えてはるばるたどりついたら、折角の事だから、抜けた前歯を置き土産にして来ようか知ら。宿は城山の中腹にあると云う話しなので、そこはもう立つ前からきまっている。城山に前歯を残して帰る亦可ならずやなどと考えながら、舌の先で押して見たら、思ったより大きく動いた。行き著く前に落ちない方がいいから、そっとしておく。
係りのボイが来て、菓子折の包みの様な物と手紙をそこに置いた。


お見送りの方から、と云ったので驚いて尋ねた。
「だれか見送りに来たのか」
しかし汽車はもう走っている。
ボイが云うには、お見送りにいらした方が、これを赤帽にお託しになって、赤帽が持ってまいりました。
腑に落ちないけれど請取って、手紙を見た。
夢袋さんの手紙である。表に麗麗しく私の名前が書いてある。ボイがどうして見当をつけたか解らないが、手紙の宛名通り、私は私に違いないから止むを得ない。しかし困った事である。これから明日の午頃まで世話になり、その間にいろいろ我儘をしようと予定している矢先に、そのボイにこちらの正体を見破られたくなかった。
手紙には、「御命令に従ってお見送りはいたしませんが、プラットホームを通って、車中の先生のお元気なお姿をひそかに拝し、」とあるけれど、カアテンが下りていて、発車前の寝台車は外から見ると霊柩車の様である。中身は拝見は出来なかったが、きっとそのつもりで、手紙はうちで書いて来たのだろう。

御命令に従って、と云うのは、抑も最初の特別阿房列車の時は、見送りに来てくれた椰子君が車室に侵入し、先生が展望車でえらそうな顔をしている所を写真に撮ろうと思って、写真機はこの通り持って来たけれど、フィルムがない。途中二三軒聞いて廻ったが、どこにもないので、残念ですと云った。フィルムがなかったので虎口を逃れたけれど、そんな事をされたら、同車の紳士の手前恥を掻いてしまう。
夢袋さんはこの前の区間阿房列車の時、三等車の窓際に起って、先生がお立ちになるのに、駅長はなぜお見送りに出ないのだろう。行って呼んで来ましょうか、と大きな声で云ったので肝を冷やした。

二件とも物騒な前例であるから、今度はあらかじめ両君に別別の機会に、お見送りの儀は平に御容赦下さる様頼んだ。
夢袋さんはそれでも是非にと云う事なので、事わけをわって話した。僕は体裁屋である。車中ではむっとして澄ましていたい。そこへ発車前にお見送りが来ると、最初から旅行の空威張りが崩れてしまう。僕は元来お愛想のいい性分だから、見送りを相手にして、黙っていればいい事を述べ立てる。それですっかり沽券を落とす。どうでもいい事で、もともと沽券も格好もあったものではないのだが、そこが体裁屋だから、僕の心事を憐れんで、見送りには来ないで下さいと頼んだ。

夢袋さんが私の話を納得したので、安心していると、顔を出さない見送りを敢行して、鞄にぶら下げた名刺にはヒマラヤ山系君のを使ってある程気をつけて隠した私の正体を、手紙の名宛で暴露してしまった。私がそれ程有名だと考えているわけではない。ただ商売柄、世間のどの筋かに私の名前を知った者がいないとは限らないから、用心したに越した事はない。現に係りのボイは私が心配した筋の一人だったと見えて、忽ち私を認識し、手紙を取り次いだ後は、人の事を「先生、先生」と呼び出したから、夢袋さんの諒解しない意味で私は肩身の狭い思いをした。


手紙に添えた包みには、サントリのポケット壜と私の好物の胡桃餅が這入っている。
しかし、旅中ウィスキイは飲まない方がいい。
「ねえ山系君」「はあ」「旅行中ウィスキイは飲んではいけないだろう」「飲まなくてもいいです」「その鞄の中に気附けの小壜も這入っているけれど、それは勿論飲む可き物ではない。夢袋さんのこれも、飲むのはよそうね」「はあ」「旅行中ウィスキイは飲んではいかん」
山系に申し渡したのか、自分に申し聞けたのか、その気持ちは判然としないが、今度の旅程八日の内、前半の4日目辺りには、どちらの壜も空っぽになっていた。

夢袋さんの手紙の最後には、こう書いてある。「ラヂオが颱風ケイトの来襲を告げておりますので心配いたしております。ケイトに向かって雄雄しく出発する阿房列車のつつがなきことを切にお祈りいたします」

ケイト颱風の事は、出る前から心配しているのであって、必ず無事だと云う確信はない。しかし旅先のどこかで、きっとぶつかるともきまっていない。うまく行けば、颱風が荒らした後へ行き著く事になるかもしれない。どうなるか解らないが、凡てはその場の風まかせと云うつもりで出かけてきた。

もうとっくに品川駅を出て、段段速くなっている。汽車のバウンドの感触は、いつ乗っても気持ちがいい。そろそろ車中の一盞を始めようと思う。
三七列車は、各等聯結の急行であるが、食堂車がついていない。それは前から解っているので、魔法壜を二本買って、お癇をした酒を入れて来た。夜九時の発車でそれから始めれば、いつもの私の晩のお膳が大概九時から十時頃に始まるのと同じ時刻である。その癖になっているから、腹がへってはいない。山系君はそうはいかないかも知れないけれど、いい工合に彼は腹がへった顔をしない男だから、それでいい事にしてほっておいた。

それでこれから始めようと思う。今晩の晩餐の用意には、二本の魔法壜の外に、有明屋の佃煮と、三角に結んだ小さな握り飯とがある。テエブルの代わりには、片隅の洗面台に蓋をしたのがその儘使える。しかしそれに向かって腰を掛ける場所は、後で寝台になる座席しかないから、そうすると私は山系と同じ方を向いて並び、気違いが養生している様な事になる。そっち側で一人腰を掛けられる物を、何かボイに持って来て貰おうと云う事になって、そう云ったら、丁度高さの工合のいい空の木箱を持ち出して、古いカアテンを幾枚もその上に重ねてくれた。それでクッションのついた腰掛けが出来た。山系君が木箱に腰を掛け、私は座席の上に坐り込んで、
「さあ始めよう』と云う段取りになった。
燈火は窓枠の上の蛍光ランプである。
魔法壜から、持参の小さな杯に注ぐのは中中六ずかしい。揺れているから、手許がきまらない。しかし暫らくすると、手の方が車の震動に順応して、調子が合わせられると見えて、もうちっともこぼれない。
カフェやバアに行けば、蛍光ランプは普通かも知れないけれど、私は知らないから珍らしい。しかし目が慣れれば別に変わった所もない。ただ窓の外の燈がへんな色に見える。今まで東海道本線の右側を走っていた桜木町線の電車が、東神奈川に近づく前から跨線で本線の左に移っているので、カアテンを片寄せた窓越しに上り下りの電車が走っているのが見える。電車の燈火の色が変で、赤茶けて、ふやけている。それを見た目を車室内へ戻すと、明るくて美しいと思う。

「蛍光ランプのあかりで見ると、貴君は実にむさくるしい」
「僕がですか」
「旅に立つ前には、髭ぐらい剃って来たらどうだ」
「はあ」
「丸でどぶ鼠だ」
「僕がですか」
「そうだ」
「鹿児島へ行ってから剃ります」
自分で鼻の下を撫でて、「そうします」と云い足した。
暫らく散髪にも行かないと見えて、頭の毛が鬱陶しくかぶっている。襟足が長いので、その先がワイシャツのカラの中に這入って、どこ迄続いているか、外からは解らない。熊の子に洋服を著せた様である。胴体は熊で、顔はどぶ鼠で、こんなのはヒマラヤ山の山奥へ行かなければいないだろう。
しかし、無理を云って、繰り合わせて同行して貰ったのだから、もてなさなければ悪い。
魔法壜を持ち上げて、「さあ一つ」と云ったが、思ったより軽かった。
「あんまりなさそうだな」
「あまり這入りませんからね」
山系君は杯を前に出したが、いつもの癖で猪口の縁を親指と中指とで持ち、その間の使わない人指指は邪魔だから曲げている格好が、人をあいつは泥棒だと云っている様である。
「またそんな手つきをする」
「はあ」
しかしそう云われても、持っている杯が邪魔になって、人差指を伸ばす事は出来ないらしい。
間もなく二本目の魔法壜に移った。横浜はもうさっき出た。
「我我は、どうも速すぎる様だ」
「お酒ですか」
「事によると、足りないぜ」
「それがですね、つまり、汽車が走っているものですから」
「汽車が走っているから、どうするのだ」
「走っていますので、ちっとや、そっとの」
云いかけて、つながりはなかったらしい。後は黙って勝手に飲んでいる。

保土ヶ谷の隧道を出てから、それは夜で外が暗くてもこちらで見当をつけているから、隧道は解るのだが、隧道を出たと思うと、線路の近くで蛙の鳴いている声が聞こえて来た。蛙の鳴く時候ではあるし、夜ではあり、そうだろうと思った。

放心した気持ちで、聞くともなしに聞いていたが、暫らくすると、或はそうでないかも知れないと思い出した。蛙の声にしては、あまりいつ迄も同じ調子である。又その調子が規則正しく繰り返しているのがおかしい。蛙の声でなく、車輪の軋む響きが伝わって聞こえるのかも知れない。そう思って聞くと、そうらしい。そうだろうと思った。

 車輪の音を放心した儘で聞きながら、その間に大分お酒を飲んだ。無口なヒマラヤ山系を相手にしているので、杯の間に議論の花を咲かせると云う事もない。しかし、何の話しもしないけれど、何となく面白くない事もない。外の音に気が散って、また耳を澄ました。さっきから聞こえているのは、矢っ張り田の中の蛙らしい。車輪の軋む音ではないだろう。尤も蛙だとしても、さっき保土ヶ谷の隧道を出た所で鳴いた蛙ではない。なぜと云うに汽車は走り続けている。違った蛙でも同じ声をしている。しかし本当に同じ声だかどうだか解らない。確かめようと思って気がついて見ると、汽車が動いているから、それは出来ない。はっきり聞いたと思う声は、実は幾つの声がつながっているのか、見当もつかない。どうも少し酔って来たらしい。総体に物事が、はっきりしない。蛙で面倒なら、車輪の音にして置こうかとも考える。そうは行かない。車輪なら車輪、蛙なら蛙、それはそうだが、ちっとやそっとの、と不意にさっき山系が云い掛けた文句が口に出た。

大船を出て、線路の真直い、汽車が速くなる辺りへかかっている。線路の継ぎ目を刻んで走る歯切れのいい音が、たッたッたッと云っていると思う内に、その儘の拍子で、「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」と云い出した。汽車に乗っていて、そう云う事が口に乗って、それが耳についたら、どこ迄行っても振るい落とせるものではない。「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」もう蛙なぞいない。今度著くのはどこだろう。お酒がないだろう。

ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」
「はあ」
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「お酒はどうだ」

口に乗り、耳に憑いたばかりでなく、お酒を飲み、佃煮を突っついている手先にその文句が乗り移って、汽車が線路を刻むタクトにつれ、「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」の手踊りを始めそうになった。
「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの、こう手を出して」
「何ですか、先生」
「ちッとやそッとの、ちッとやそッとのボオイを呼んで」
ボイがノックして這入って来て、
「お呼びで御座いますか、先生」と云った。
それでいくらか調子が静まった。お酒が足りなくなりそうだから、買ってくれと頼んだ。熱海で買いましょうと請け合って、出て行った。
ちッとやそッとの、ちッとやそッとは薄らいだが、まだ幾らか残っている。しかし線路の工合が変り、カアブが多くなったと見えて、さっき程切れ目を刻む音がはっきりしなくなったので、自然にそちらから誘われる事もない。

いつぞや一人で汽車に乗った時、線路を刻む四拍子につられて、ふと口の中で「青葉しげれる桜井の」を歌い出した。どこ迄行っても止められない。幸いだか、運悪くだか、私はその長い歌を、仕舞までみんな覚えている。それで到頭最後まで持って行って、済んだら、気が抜けた様な気持ちがした。
青葉繁れるをみんな覚えている馬鹿はいないだろうから、従って一番仕舞の所を知っている人も少ないだろう。念の為に記して置く。
  緋縅ならで紅の
  血汐たばしる篭手の上
  心残りは有らずやと
  兄の言葉に弟は
  これ皆かねての覚悟なり
  何か嘆かん今更に
  さは云え口惜し願わくは
  七たびこの世に生れ来て
  憎き敵をば亡ぼさん
  左なり左なりとうなずきて
  水泡と消えし兄弟の
  清き心は湊川
兄弟の兄は云う迄もなく正成、弟は正季である。 

汽車が熱海を出ると、ボイがお酒の壜を持って来た。
「先生買ってまいりました」
「先生」なぞ云わなくてもいい。不用の呼び掛けだが、これ皆夢袋さんの成せる業なり。何か嘆かん今更に、さは云えお酒は買ったれど、魔法壜の中身はお癇がしてあって、駅売りは冷酒である。後口に冷も悪くないかも知れないが、まだ魔法壜にいくらか残っているし、多分丹那隧道を出て、暫らくしてから冷酒に代ったと思うけれど、わざわざ買い足した程うまくもない。結局お行儀が悪く、意地がきたなくて、無くても済む物がほしかったのである。

二合壜を半分程飲んで御納杯にした。その残りの一合許りを鹿児島くんだり迄持ち廻り、どこの宿屋でも、それをお癇して出せと云うのを云い忘れて、翌くる日立つ時には又持って行った。到頭八日の間荷物にして、家に帰ってから九日目の晩に、家で飲んで、それでやっと片づいた。大きな顔をして一等車に乗っていても、根がけちだから、そう云う事でお里が知れる。そう思うけれど、実はそうではないとも思う。お酒と云う物は勿体ない。おろそかに出来ないと云う事が腹の底に沁み込んでいる。空襲の晩には、焼夷弾の雨下する中を、一合許りのお酒が底に残っていた一升壜をさげて逃げたが、その時のお酒と、コムパアトで飲み残したお酒と、勿体ないと云う味に変りはない。

それで今晩はお仕舞にした。洗面台のお膳を片づけ、臨時の木箱の腰掛けもボイが持って行って、もう寝るばかりになった。今どの辺りを走っているのか解らない。何しろ大分夜更けである。
寝台は上段と下段に別れている。ヒマラヤ山系が、お休みなさいと云って、小さな金の梯子を登った。どぶ鼠が天井裏に這い上がり、上でごそごそしている。何か、かじっているのではないか。上と下の境の天井は木の板だから、酒の勢いでかじって穴をあけて、落ちてこられては困る。その内に、うとうとして、天井の上は鼠が一ぱいいる様な気がし出した。いらいらし掛けたが、その儘寝てしまった。


(古里の夏霞)

朝になってから通る京都も大阪も丸で知らなかった。姫路を出て上郡を過ぎ、三石の隧道が近くなる頃に漸く目が覚さめて、気分がはっきりした。郷里の岡山が近い。顔を洗って朝の支度をした。
三石の隧道を出て下り勾配を走り降り、吉井川の川中で曲がった鉄橋を渡ってから、備前平野の田圃の中を驀進した。
瀬戸駅を過ぎる頃から、座席の下の線路が、こうこう、こうこうと鳴り出した。遠方で鶴が鳴いている様な声である。何年か前に岡山を通過した時にも、矢張りこの辺りからこの通りの音がしたのを思い出した。快い諧音であるけれども、聞き入っていると何となく哀心をそそる様な気がする。
砂塵をあげて西大寺駅を通過した。じきに百間川の鉄橋である。自分でそんな事を云いたくないけれど、山系は昔から私の愛読者である。ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから、一寸一言教えて置こうと思う。
百間川には水が流れていない。川底は肥沃な田地であって両側の土手に仕切られた儘、蜿蜿何里の間を同じ百間の川幅で、児島湾の入口の九幡に達している。中学生の時分、煦煦たる春光を浴びて鉄橋に近い百間土手の若草の上に腹這いになり、持って来た詩集を読んだと云うなら平仄が合うけれど、私は朱色の表紙の国文典を一生懸命に読んだ。今すぐその土手に掛かる。
「おい山系君」と呼んだが、曖昧な返事しかしない。少しくゴヤの巨人に似た目が上がりかけている。
「眠くて駄目かな」
「何です。眠かありませんよ」
「すぐ百間川の鉄橋なんだけれどね」
「はあ」
「そら、ここなんだよ」
「はあ」
解ったのか、解らないのか解らない内に、百間川の鉄橋を渡って、次の旭川の鉄橋に近づいた。
車窓の左手の向うに見える東山の山腹の中に、私はさっきから瓶井の塔を探しているが、間に夏霞が籠めて、辺りがぼんやりしている所為か、見つからない。子供の時いつも眺めて育った塔だから、岡山を通る時は一目でも見たい。瓶井と云うのは、本当は「みかい」なのだが、だれもそうは云わない。訛りなりに、「にかい」の塔と云うのが固有名詞になっている。岡山では何でも「み」が「に」に訛ると云うのではないけれど、私なぞ子供の時に云い馴れたのは、歯にがき、真鍮にがき、玉にがかざれば光なし、と覚えている。抑も先生がそう云って教えたかも知れない。
旭川の鉄橋に掛かる前、やっと霞の奥に塔の影を見つけた。
旭川の鉄橋を渡ると思い出す話がある。岡山の人間は利口でいやだと他国の人がよく云う。その実例の様な話なのだが、小さな子供を負ぶったお神さんが鉄橋の上を渡っていると、汽車が来て逃げられなくなった。非常汽笛を鳴らしている機関車の前で、お神さんは手に持っていた傘をぱっと開き、ふわりと下の磧に飛び下りた。尻餅ぐらいはついたかも知れないけれど、背中の子供も無事だったので、車窓からのぞいて固唾を嚥んでいた乗客が一斉に拍手したそうである。私の子供の時の事で古い話だが、傘をひろげて飛んだのは、後の世の落下傘と同じ思いつきである。

もっと古い、私などの生まれる前の話に、傘屋の幸兵衛と云う者があって、瓶井の塔から飛行機の様な物に乗って空に飛んだそうである。発動機がついていたのではないだろうから、滑空機の趣向だったのだろう。瓶井の塔は高いから、暫らく宙を飛んで、原尾島と云う村まで行き、毛氈をひろげてお花見をしてる所へ落ちた。落ちても無事だったのだと思われる。お花見の人人が驚いたのは云う迄もない。後でお上から、人ノ為サザル事ヲ為シタル廉ニ依リと云うわけで叱られて、お国追放に処せられた。

汽車が旭川鉄橋に掛かって、轟轟と響きを立てる。川下の空に烏城の天守閣を探したが無い。ないのは承知しているが、つい見る気になって、矢っ張り無いのが淋しい。空に締め括りがなくなっている。昭和二十年六月晦日の空襲で焼かれたのであって、三萬三千戸あった町家が、ぐるりの、町外れの三千戸を残して、みんな焼き払われた晩に、子供の時から見馴れたお城も焼けてしまった。

森谷金峰先生は私の小学校の時の先生であった。金峰先生の御長男は今岡山の学校の校長さんである。空襲の晩、校長森谷氏は火に追われて、老母を背中に負ぶって、旭川の土手を鉄橋の方へ逃げた。そのうしろで炎上するお城の大きな火焔が天に冲し、振り返れば焔の塊りになった天主閣は、下を流れる旭川の淵に焼け落ちて、土手を伝って逃げ延びる足許をその明かりが照らした事であろう。背中の老母は金峰先生の奥様である。よく覚えていないけれど、子供の時にお目に掛かった事があるに違いない。もう一度車窓から眺めて見ても、その辺りの空は白け返っているばかりである。
鉄橋を渡ったら、じきに岡山駅である。ちっとも帰って行かない郷里ではあるが、郷里の土はなつかしい。停車の間、歩廊に出てその土を踏み、改札口の柵のこちらから駅前の様子を見たが、昔の古里の姿はなかった。

・・・・(以下、略)








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まあだかい ー 百鬼園先生

2012-03-20 15:09:49 | 音楽・芸術・文学
まあだかい—内田百蟒言〈10〉 ちくま文庫
内田百
筑摩書房

 百鬼園先生、「昔の学生諸君」たちに還暦を祝ってもらったあとに毎年誕生日楽しい集まりがつづく。先生、ますます達者、未だか、未だかでずっと続く「摩阿陀会」とあいなった。昭和29年5月の五回目を抜粋しておこう。このときの一同の写真が「百鬼園写真帖」に載っている。「阿房列車」シリーズでヒマラヤ山系君こと平山三郎氏をお供に、あちこちへ<無目的の旅>で大いに意気が上がっていたときかもしれない。

さて、5回目の「きょうの瀬」の文章のなかに天長節の歌のことが出て来るから、ご本人の張りのあるお声も聴いてみよう。<youtube-内田百蝓嵒患官狡耕襦廖複押 百鬼園先生、歌う!NHK-1956年11月2日放送>。昭和31年だからこのとき67歳、ノラちゃんが家にいて先生もはつらつとした感じ、収録時のお顔も「写真帖」に載っていて、メディアというものはこれで完結!

翌年ノラちゃんがいなくなったころから数年間「摩阿陀会」の書き物は途切れる。復活後では喜寿のお祝いのときの写真もいいなあ。その昔立川で飛行練習していた法政航空部の学生におにぎりを作ってやっていた奥様も呼ばれてごいっしょだ。事実は小説より奇なり・・・百鬼園先生の人生は成る可くしてなったような自然なパフォーマンスの連続だったのかもしれない。そしておお、百鬼園先生のは元祖宴会ブログであったか。遠く及ばないがこっちもいくつか書いたっけな。先月のは出らんなかったし・・・メンゴ。

さても、先生稼業というのもいいもんだなあ・・・おっと、ムスメ、シンカンセンに乗ったって?教育実習申し込み?センセイにはならんだろうが・・・嵐が来てMAC占領される前にアップしとかないと・・・

>>>>>>>> 以下、「まあだかい—内田百蟒言〈10〉 ちくま文庫」より 

『きょうの瀬』 

きのうの淵はきょうの瀬となる世の中に、摩阿陀会が年年同じ事を繰り返して、五回目になったのは難有い。還暦の賀宴を加えれば六年目である。余り長くなるから首をくくって埒をあけようかと思った門の柳は去年の秋、庭に池を掘った時に水門の傍に移し植えたら、細い幹の上の方が半分枯れたので、背丈が低くなってしまって、当分その役には立たないだろう。私がまだ生まれない前、親戚に気丈なおじさんがいて、山屋敷と云う淋しい家に住んでいる所へ、強盗が押し入った。おじさんは抜き身の前に大あぐらをかき、腕を組んで、殺さば殺せと云ったら、強盗が片耳を切り落として行ったと云う。殺さば殺せ、続かば続け、しかし来年の今日がめぐり来るか否か、それは去年だって一昨年だって解らなかった。

例年の通り迎えの車で新橋駅楼上の会場へ行った。毎年の事なのでボイも帳場も顔馴染みである。こちらの肝煎りもすでに手慣れていて、何も気を遣う事はない。そもそも今夜は来会の諸君一人一人が主人なのだから、私がお客様なのだから、私が気を遣うと云う筋が有る可き筈はない。しかし、うるさい性分なので、又諸君の中の大部分は昔私の学生であったから、つい何か口が出したくなる。わざわざ私の前に顔を近づけて、今晩はようこそお出で下さいましたと挨拶するのがいるかと思うと、すっかり間違えて、どうも遅くなりました、今晩は難有う御座いますと云うのもいる。先生はいつ迄もお元気で、とか、お変わりがなく結構ですとか云うのは、いつ迄も変らぬわけがない、もうすでに元気でいる筈がないと云う判断が先に立っている。云われて見れば御尤も、摩阿陀会も五へん目だと云う事に思いをいたし、彼等の言葉尻をつかまえる事はよした。

出足の遅いのを待ち合わせて定刻を過ぎ、肝煎り多田の号令で目出度く著席した。例年の通り私の左右お医者様とお寺様である。お医者様は今日はお嬢さんのご婚礼で、昼間にその挙式を済ましてからこっちへ廻られた。ところがお寺様がまだ来ていない。或は檀家に新仏が出来て、そちらのお経で手間取っているかも知れない。
今日は肝煎りの多田君の身内にもお目出度があった。矢張りそちらを済ましてから来ると云っていたそうで、しかしモウニング・コートを著ているから、その儘の服装で摩阿陀会へ廻るのは変だから、一たん帰って出直すと云ったと云う。ちっとも御遠慮はいらないと思ったが、著換えるなら著換えてもいい。彼のモウニング・コートは、先年順ノ宮様の御披露宴によばれて行く時、借りて著たから私も知っている。もう大分古くて、ろくなモウニング・コートではない。その上彼の身体に合わせて仕立ててあるから、私が著ると脚の長さや胴の太さが違うので、息苦しくて、靴を穿く時、前にかがむ事も出来なかった。しかし又借りる機会があるかも知れないから、余り悪く云うのは差し控える。

写真を写した後、多田の音頭取りで、みんなが起立して私の為に乾杯してくれた。それを受けて私の前だけ置いてある大ジョッキを捧げ、みんなの見ている前で一呼吸に飲み乾した。だから、お変わりもなくて、と云う事になるのだろう。しかしそれは惰性であって、お変わりがあるかないかとは話が違う。
飲み乾した後、起った続きで挨拶した。

「毎年こうして誕生日を祝って戴いて、お礼の申し上げ様がない。言葉には尽くせないから、それは後日を期する。その内に摩阿陀会も済むでしょう。つまり僕が出て来なくなれば、それでお仕舞で、まあだかいが、もういいよとなる時機がある。その上で僕は皆さんの所へ化けて出て、ゆっくりお礼を申し述べる。生きかわり死にかわり。だから只今この席では省略する。
今にお酒が廻れば、お互いにがやがや騒いだり、歌を歌っていつでも同じ混乱の勝利である。その趣向を今年は少し換えるつもりで、テープレコーダーを持って来た。今年のお正月に宮城道雄検校の所へよばれて酔っ払い、口から出まかせの歌を歌ったのが、そっくり検校の所にある機械で録音された。始めから仕舞まで蜿蜿40分以上かかる。レコードでクロイツェルソナタの全曲を聴く位の長さである。そのテープを今晩は借り出して来た。それを廻して諸君の清聴を煩わす。僕はそれで歌を歌っているのだから、テープが廻っている限り、僕に用事はない。そこでこの席でゆっくり、諸君が感心している顔を見ながらお酒を頂戴しようと云う、こう云う寸法なのです。

何しろ僕は摩阿陀会の五年生、中身が古いのは止むを得ない。明治の中期に生まれて、日清戦争はおさな心の記憶に残り、日露戦争は中学生で提燈行列に参加した。しかしその時の軍歌はまだいい方で、諸君にはもっと耳遠い唱歌もある。僕の幼稚園の頃の天長節の祝歌が出て来る。

 きょうは十一月三日の朝よ
 朝日にかがやく日の丸の
 国旗は門並みひいらひら
   国旗は門並みひいらひら
 きょうは十一月三日の朝よ
 おかでも海でも勇ましく
 打ち出す祝砲どんどんどん
   打ち出す祝砲どんどんどん

テープの歌い出しは、水をたくさん汲んで来て、水鉄砲で遊びましょう、だったと思う。そう云うのを僕は一一、越天楽で歌いなおす。越天楽と云うのは、僕が酔っ払うと歌うあの、春のやよいのあけぼのに、よもの山べを見渡せば、の節であって、この旋律は平安朝以来、千何百年も続いて我我の先祖から歌い忘れなかったのである。尤もその旋律に「春のやよいの」と云う様な今様の歌をつけて歌い出したのは、平家時代からだそうだが、何しろあの節は古い。その越天楽で歌い直すから時間が掛かって、クロイツェルソナタの全曲のような事になる。お正月の宮城検校の席には、今日ここに御列席の小林博士も同座せられて、彼の博士は、明治時代に学生だったお医者の通弊で、酔うと義太夫を唸る。去年の秋のわずらいに、と唸られた後を、僕は越天楽で同じ文句を繰り返す。

小説新潮の四月号に、宮城検校が「百鬼園の越天楽」と云う随筆を寄稿したのを、諸君に中に読んだ人もいるだろう。その中に薬売りの文句が出て来る。これも諸君には耳新しいかと思うから、テープを廻す前にあらかじめ解説しておく。
その薬屋は、僕は漫然と富山かと思っていたが、そうではなく本舗は大阪だったのかも知れない。オイチニ館と云うので、そこから全国に薬売りを出して行商させた。制服制帽に手風琴を持って、歌に合わして鳴らしながら、オイチニ、オイチニと足拍子を踏んで行く。歌に曰く、

  そのまた薬の効能はオイチニ
  たんせき、溜飲、腹くだし
       オイチニ、オイチニ
又曰く、

  産前産後や血の道にオイチニ
そこで僕には新作がある。今にテープが歌い出す。
  神経衰弱房事過度オイチニ、オイチニ
  天才気ちがい低能児オイチニ

どうかごゆっくり御鑑賞を願う。その間僕はこれにてお祝いの御酒を頂戴する。

こうして僕が起立している序に、もう一言つけ加える。いつもはもっと後で、更めて起って諸君にお願いしたが、今日はこの後すぐにテープを廻し出すと四十分以上かかる。その間に僕は多分酔ってしまって、云う事に筋道が立たないだろう。又諸君の方でもがやがや、ざわざわして人の云う事をよく聴き取らないに違いない。早きに及んで、今日はこの儘そのお願いを申し上げる。

今から23年前、昭和6年の今月今日の、午前11時に、当時の法政大学法学部2年生栗村盛孝は国産の軽飛行機「青年日本号」を操縦して、羅馬に向かう為、羽田飛行場を離陸した。
今日の羽田空港の盛況は、僕は行って見ないから知らないが、23年前の羽田はまだ出来たばかりで、広っぱに何の設備もなく、草むらの中にただ一本の滑走路が走っていただけである。今日5月29日の前日、その学生機を今までの練習飛行場だった立川から空輸して羽田へ持って来た。羽田の新飛行場に初めての著陸の車輪を印したのは栗村の「青年日本号」である。
その晩は法政大学航空研究会の学生が、「青年日本号」を護って草原に夜を明かした。格納する建物なぞまだ出来ていなかった。そうして今日、5月29日の午前11時に、「青年日本号」は羽田飛行場を最初に離陸する飛行機として、学生訪欧飛行の壮途についた。

一本の滑走路の向うの端にいる「青年日本号」に向かって、僕が航空官の指示を受け、手に持った相図の旗をあげて、出発を命令した。滑走して来て、丁度、台の上に起っている僕の前あたりで車輪が浮いた。飛行場外れの向うの低い土手の上をすれすれに飛んで、次第に高度を取った小さな飛行機の後ろ姿を見つめて、僕はフロック・コートの手旗を持った儘、涙を流した。23年前の昔噺です。その栗村がそこにいます。彼の羅馬飛行の為に乾杯してやって下さい。栗村君、起ちなさい。」

乾杯を終わって、私の挨拶も済んだ。なぜ「青年日本号」に離陸の日と私の誕生日とがぶつかったかと云うわけは、学生訪欧飛行の準備がすでにととのい、出発の日取りをきめるだけとなった時、萬時その指導を受けていた逓信省航空局の航空官が、西比利亜にある梅雨の動きから考えて、5月末から6月初めに亘る数日の内がいい、その間ならいつでも結構だから、学校の方の都合でその日をおきめなさい。ただ日がらももがらを選んで、縁起のいい日に立つ様にと云う事であった。
一番新らしいと思われる飛行機の関係なぞで、案外そうした縁起をかつぐ。5月の末から6月初めと云うなら、5月29日が私の誕生日である。会長の私の誕生日なら、縁起は申し分ない。それでその日にきめたから、羅馬飛行の記念日と今日の摩阿陀会とぶつかるのはちっとも偶然ではない。

テープレコーダーが廻り出した。自分の声が外から聞こえて来ると云うのがすでに変な話で、それを自分の耳で聞くのは余りいい気持ちではない。そう云う不祥な事は成る可く避けたいが、しかし現にそこに機械から聞こえて来る。幸いな事にテープの中の私の声は、酔っ払っている。それを聞いている今夜の私は、まだ酔っていない。耳と声とは別人である。今に耳の方も酔って来るから、そうなると酔った声と酔った耳とが同一人になる恐れがあるけれど、聞く方も酔ってしまえば、自分の声を外から聞くのは気味が悪いなぞと、そんな面倒な事は考えないだろう。

このテープを音盤に取りなおしたのを、宮城検校から貰っている。12吋盤4枚の裏表で8面ある。私の家で蓄音機に掛けてみたが、どうも面白くない。廻転の工合の所為か、何となく陰陰滅滅として、幽霊がうなされている様である。今晩の肝煎りの一人平山がその座にいて、一緒に聞いたが、まだ済まない途中からいやだいやだと云い出した。悲しくなると云った。まあ我慢して聞いていなさいと、仕舞まで聞かせるのに骨を折った。
彼は口には出して云わなかったが、私が死んだ後の遺声を聯想したに違いない。音盤では自分で聞いてもそんな気がしない事はない。私が死んだ後で人が聞く声をまだ生きている内に聞いていると云う縺れた気持ちになる。

原音のテープではそんな風な所はない。陽気で面白い。面白いと云うのは聞いていてこっちが、酔って来たからである。自分が半年も前に歌った歌を聞きながら酒を飲んで、その歌に浮かされるなぞ、最も簡単な、或は非常に手のこんだ酒興である。そのどっちだって構わない。みんなが聞いているのか、いないのかそれもよくわからない。
遅参のお寺様が私の隣に座っている。左右にお医者様と対に揃って難有い。「新仏が出来ましたか」と尋ねたことは覚えているが、猊下がなんと答えたかは丸で記憶にない。テープが「とうとき血もて甲板は、からくれないに飾られつ」と歌うと、遅れて来た肝煎り北村が、テープの声にからんで、「からくれないに水くぐる」と歌い返した。それだけが耳に残っている。後は何がどうなったか、よく知らない。
つまりいつもの通りの摩阿陀会になってしまって、いつの間にかテープも終わってしまったのだろうと思う、一番仕舞の君ヶ代を聞いた様な気がする。そうして新橋汽車駅の桜上の床が、護謨を踏む様にふわふわして来て、みんなが、と云う中に私もいるかも知れないが、起ったり座ったりし出した。
新橋汽車駅と云ったので、肝煎り北村が起草した今年の案内文を思い出した。
 
   摩阿陀会回文

くうもに聳ゆる番町の 大根おろしは辛くして 靡き伏したる摩阿陀界 あおぐ今日こそ百鬼園ひじり 禁客寺を出て給えば 鉄路茫茫 粟散辺地の扶桑に跡をとどめ 阿房の道を弘めては 迷える衆生をみちびきて 精識を抽んで給う このひじりを師とし そのしりえに従いて 願いを同じゅうするわれ等 もとよりたくみ浅くして 才みじかきを嘆くと雖も 誰かひじりの千秋をこいねがわざらんや されば乃ち五月二十九日 黄昏六時 新橋汽車駅の桜上に 金壱阡五百円也を霧消せしめ ひじりの酔訓を浴びてその道に習わんとす 肴薄くして酒の軽きを 笑わば笑え 餓鬼共

その北村が起ち上がり、列座の一同を見渡して、諸君、これだけが、今晩のこの我我が、お通夜の顔ぶれだね。その時は又集まろうぜと云ったと云う。後から聞いた話で、その場では私は丸で知らない。しかしそんなに大勢が、当夜の列座三十四人、その中に私も這入っているからお通夜の時は別になるとして、三十三人も集まってどこへ座るつもりなのだろう。そんな広い場所で私が死ぬ筈はない。
いつ、そう云う時に、何のきっかけで切り上げたかわからないが、兎に角目出度くお開きになった。例年の例に依れば、これから更めて別の席へ出掛けるところである。大体三分の一ぐらいが一緒について来る。そこで又やり直すからいつでも夜半を過ぎ、身体がくたくたになって、私なぞは二日酔いでは済まない。三日目もまだふらふらする。しかしそう云う目にあっても一年に二度、お正月の三日とこの摩阿陀会の晩の事は、後悔しない事にきめてはいるが、そうなった後を後悔しないよりは、そんな事にならない方がまだいい。のみならず大変お金が掛かって、飛んでもない脚が出る。その後始末にいつも苦慮する。大概拭い切れないで、結局連中の中のだれかが背負い込むと云う事にもなり、甚だ相済まぬから、今後はどこへも廻らない、つまり梯子をしないと云う事を、摩阿陀会の随分前から肝煎りの多田君と相談し、約束し、ちかっている。
だから今夜はどこへも廻らない。

「多田君帰るよ」「それがいいです」と云うわけで、だれと一緒に車に乗ったか知らないが、家に帰って来た。
ところがその後から、ぞろぞろと大勢が、私の狭い家に這入って来だした。私を送って来たのか、私について来たのか、あるいは闖入したのか、昔、無声時代の活動写真の亜米利加喜劇で、一台の自動車が停まると、せいぜい五六人しか乗れないと思われる車の中から、次から次へと人が降りて来て、何十人かが自動車の前で犇めていたのを見たことがある。今夜の闖入者達は、勿論何台かの自動車に乗り分けて私の車の後を追っ掛けたに違いないが、別に後から加わった異性を加えて、総勢十六人が私の狭い部屋で押しくら饅頭を始めた。

狭いと云うのは、私の家は三畳の部屋が三つつながっているだけで、三つのなかの一つは書斎だからだれも這入らせない。這入らせもしないが、這入ろうとしたって這入る場所はない。三畳の畳の上に一畳敷ぐらいの大きな机を据え、その傍に小机を置き、字引を積み又列べ、抽斗箱を置き、その他諸品が羅列しているから、立錐の余地もない。
だから三つの部屋の内、その一つは丸で使えない。後の二つにも一方は中くらいの机があり、もう一つの方は大きな卓袱台、将棋盤、蓄音機、その他雑品が各その必然の空間を占めている。それで三畳を二つ合わせた六畳の内、実際に座れる所は四畳に足りない。その畳の上に十六人が座り込んだから、一畳に四人づついた計算になる。畳一畳に四人座れない事はない。又現に彼等はその場所でいい心持に落ちつき込み、一時を過ぎても、二時を過ぎてもだれも起たなかった。
狭いながらニ間に跨がって、目白押しに居並んだ諸氏の顔を眺めながら考えた。これで見ると、サロンだのカフェーだのは、矢張り無駄に存在するものではない。今度はどこへも廻らないと考えたその理由は、その儘残っているけれど、しかしこうして大勢が私の所へ押し入り、犇めいている有り様を見れば、いつもの通りそう云う所へ廻っていたら、この惨状はそこで解消した筈だと思う。

後から加わった異性の三人と云うのは、例年のそこからやって来たので、中の一人はマダムである。美人を踏み潰しそうだと云ったそのサロンから、今夜は彼女等が我我を踏み潰しに来た。風呂敷に包んで三鞭酒を持って来た。風呂敷に、と云うのは三鞭酒を冷やす桶、あれはなんと云うのか知らないが、その中に三鞭酒をつけた儘持って来たのである。
私の所にシャムパン・カップはない。もとはあったのだが、それは初めに話した羅馬飛行当時の記念でもあったが、空襲の火事で無くなった。だから茶碗やコップや杯を持ち寄って、それにこれから抜く三鞭酒を注ぎ分ける事にした。

三鞭酒の抜き方に二種ある。音がする抜き方と、音のせざる抜き方とである。古来ぽんと音をさせて、だから景気がいい、縁起がいいとしたもので、その音を祝ってボイに5円のチップを与えると云う話を聞いた。昔の事だから5円は大変である。私の知るところでも、5円あれば一寸した待合へ上がり、料理を取り寄せ、芸妓のお酌で一盞傾ける事が出来た。
私が郵船にいた当時教わった事だが、近来は三鞭酒を抜く時、ぽんぽん音をさせるのは、下品で物欲しそうで、はしたない不作法だと考える様になったと云う。多分それは英吉利風のサアヴィスの話だったと思う。何しろ私なぞ滅多に飲む機会もなく、よく知らない事だから、教わればその通り、そんなものかと覚え込んだ。
日本は戦争にまけて、すっかり格が下がり、品が落ちたから、たまに三鞭酒を抜けば、景気のいい音を聞かないと物足りないと云うもとへ逆戻りしているだろう。

さて、これから私は英吉利風にこの三鞭酒を抜く。そのつもりで壜の口を押さえ、少し傾けて針金をほどいた。私が余程上手だったのか、非常に下手だったのか、丸で音もせず勢いもなく、醤油壜の口を開けた様に栓が取れた。
先ずそれを注ぎ分けた。コップや杯や茶碗の数が多いから、みんなに廻らない。
次にマダムが二本目の壜を開けた。今度は素晴らしく景気のいい音がして、ポンと云ったらみんながよろこんだ。敗戦国の逆戻りだから、その心事は尤もである。
彼等が飲んだのは三鞭酒ばかりではない。その前から麦酒はもとより、お酒は冷やの儘で茶碗酒かコップ酒、冷蔵庫に入れてあったラムネまで飲み尽くし、お勝手にある凡そ食べられる物はみんな食べてしまった。

翌くる日冷蔵庫の麦酒を出そうと思ったら、なかったのみならず、まだ冷蔵庫に入れてなかった麦酒も一本もなかった。お酒は飲みさしの壜は勿論、貰った儘しまってあったのもみんな無くなっていた。ナポレオンの軍隊がモスクヴァで敗れた帰りに、独逸を通ったときの話に似ている。
北村がみんなの間で麦酒のコップを挙げてよろこんでいる。おい、諸君、よかったね。これでお通夜の予行演習が出来た。まあこんな調子だろうね。
私が云った。違うよ。今晩はこうして僕が坐っているが、当夜はのびている筈だから、この限られた空間の関係が変わって来る。その為二三人は食み出すだろう。尤も僕を座棺に納めるなら、その制限は緩和する。
いつ迄もみんな落ちついている。勝手にするがいい。どうせもう電車なぞありはしない。しかし自動車なら、市ヶ谷見附へ出ても、夜通しいつでも間に合う。御ゆっくりなされたらよかろう。

二時半を過ぎてから、もう帰ろうかと云い出した。夜明けは未だだが、近頃流行の半通夜よりは長くいて、汐が引いた様に、一どきに帰って行った。銘銘方角が違うだろうし、随分遠方なのも居る筈である。どんなにして帰ったか、その後会わないから私は知らない。

くたんくたんになって寝て、翌くる日遅く目がさめた。身体の調子、頭の工合がよくないのは申す迄もない。後悔はしない事になっている摩阿陀会の翌日だから、それで構わない。
別に入り用があったわけではなく、だから探したのではないが、何かの事で書斎の抽斗を開けたら、昨夜出がけに持って行った洋服のポケットの諸品が、各きちんと元の位置に納まっている中に、ただ蟇口がある筈の所だけが空いている。つまり蟇口がない。おかしいなと思った。
私は滅多に外へ出ないけれど、それでも偶には出掛ける事もある。出掛ける時は、著物はないからいつでも洋服を著て行く。洋服のポケットに外出用の諸品を入れる。それを支度に掛かる前にあらかじめ揃えておいて、数を点検した上で順順にポケットへ入れる。普通は総数12である。その内の3点は時に省略する事があり、この頃は大体いつも持って行かない。その一つは時計である。腕時計は持っていない。鎖のついた懐中時計である。古いロンヂンであって、家では正確であるがポケットに入れて持ち出すと、いつも平らに置いてある時計の姿勢が変わる所為か、或は体温で機械が膨張するとか、油が溶解するとかの関係か知らないが、必ず狂って来る。だからそっとして置くに限るロンヂンと云う事になるので持ち歩かない。又外に出れば大概人に会うし、一人では出歩かない様にしているから道連れもあるし、私が時計を持っていなくてもだれかが持っているから、時間が知りたかったら、それで間に合う。第一、時間が知りたいと云う様な事は余りない上に、知って見たところで何の役にも立つものでもない事を承知している。
それで時計を省略する。

三つの中で第二は手帳である。外へ出て何かの心覚えをする。人との約束をメモに取る。そんな事を考えるが、考えて見るだけで実地にそう云う場合があった試しはない。手帳を持つのも惰性であるから、先ず省略する事にする。
第三は版行である。昔昔の学校の先生だった時分からの惰性は一先ず消えたが、後に又郵船会社へ通う様になってから、矢張り版行をポケットに入れて出掛ける癖が戻った。戦争にまけてから郵船をやめたが、あの時分は一寸外へ出ても認印のいる事があったのでその習慣が残り、一たんそうなると、しなれた事は中中やめられない性分なので、ずっとその後も、外へ出る時は必ず版行を持っていると云う意味のない習慣を続けた、しかし使った事はない。いつかなぞ飲み屋で酔っ払って、何か出鱈目の酔筆をふるった後、落款だと云うのでその水晶の四角い版行を取り出した迄はわかっていたけれど、後で紛失した事に気がついた。いくらか因縁もある印形なので随分気を遣ったが、その時一緒にいたのが、私が随分酔っているからと云うので預かっておいてくれたのはいいが、その彼も酔っていたから預かった事を忘れてしまってい、無駄に私を心配させたと云う事件もある。諸品があるから亡失する。諸品の数が少なければ忘れる場合も少ない。そこで版行を持ち歩く事を省略する。

以上三点を省略した後の九つは、どれもよすわけに行かない。それ等を机の端又は卓袱台の上に列べておいて、洋服を著終わると、一つずつ順にポケットに入れる。ゲルハルト・ハウプトマンの「線路番ティール」と云う短篇に、ティールが出勤する前、そこに列べた諸品を次ぎ次ぎにポケットへ納めて行く叙述がある。時計の鎖につけた馬の歯を持って行く。馬の歯は私の諸品の中にはないが、大体する事がおなじなので、聯想するといやな気がする。しかし私の癖をやめるわけには行かないし、そんな気兼ねをする筋もない。洋の東西、時の古今を問わず、偶然の一致と云う事はある。況んや線路番ティールは作中の人物であり、私は現に実在している。

そうして出掛けて、帰って来る。帰った時は大概酔っている。或はひどく酔っ払っている。それでも帰ると同時に、酔った手先で、ふらふらする足許を踏み締めて、出掛ける時にポケットへ入れた諸品を、又一つずつ取り出して、もとの抽斗の、もとの位置に入れる事を忘れない。忘れた事は一度もない。翌くる日起きて、その通りしたかどうか覚えていなくて、半信半疑で抽斗をあけて見ると、必ずちゃんと元の通りに這入っている。私は知らなくても、習慣がそれを実行している。
その抽斗の中に蟇口がない。蟇口は九点の中の一つである。古い白蜥蜴で、年数を食っているからもう白くはなく、きたならしい色をしているが、余り小さくはないから、蟇口のある場所に蟇口がないのは、そこに穴があいていて目立つ。おかしいなと思う。昨夜九点が一つ足りないと云う事になぜ気がつかなかったかと考えて見たが、ここへ諸品を入れたと云う事を丸で覚えていないのに這入っている迄の事で、時分で物事を考える力は失せていたのだから、それは止むを得ない。

抽斗以外の場所を探して見たが見当たらない。沽券にかかわるとは思ったが、仕方がないから家人に尋ねた。知らないと云う。しかしそう云えば北村さんが、この蟇口はだれのだ、だれのだと云って、手に取り、中を開けて見たりしていたから、あった事は確かだと云った。
しかしどこにもない。白蜥蜴の蟇口の中身は、北村が開けて検べる迄もなく、私がちゃんと知っている。中の仕切りのこっち側に三枚、こっちの方に一枚、〆て四枚四千円這入っている。一体、蟇口や紙入れの中身を、宙で正確に知っていると云うのはいい事ではない。お金に困っている証拠である。私は去年の秋頃から萬時都合が良くない。右の四千円も蟇口の中に安眠しているわけではなく、費途がすでにきまっている。摩阿陀会は29日だから、すぐに月末が来る。無駄に中身の金高を覚えてはいない。
その四千円が無くなった。どうしたらいいか解らない。北村がいたずらをして持って行ったかも知れない。

盗難と云う事を考えて見るに、事件には泥坊と被害者とがいる。被害者は金品が無くなったと云う事でその害を被るのであって、なくなったお金なり品物なりが、泥坊の手でどうなったかと云う事に関係はない。泥坊が取って行ったお金で、酒を飲もうと女を買おうと博打に費消しようと、こっちの知った事ではない。盗んだお金を慈善事業に寄附しても、盗んで帰る途中、途に落として遺失しても、或は盗んだお金を別の泥坊に盗まれて、元の木阿弥になっても、つまり盗んで行った泥坊は何の得る所がなかったとしても、盗まれた側の、被害者の損害に変る所はない。私の白蜥蜴の蟇口がなくなって、中身の四千円が、その費途に充てられなくなったと云う事実の前には、本物の泥坊が盗んだのも、北村がいたずらをして持って行ったのも、ちっとも変わりはない。いたずらだったら後で返って来るとしても、お金というものはその時時のいのちの物だから、いつだって有る事はいいが、いつだって有りさえすればいいと云うものではない。

昨夜の酔いがまだ残っているぼんやりした頭で考え込んで、止んぬるかなと思った。
昨夜の肝煎りの平山が、夕方近く一寸した用事で玄関先迄来た。昨夜はどうしたと尋ねると、同じ方向へ三人同車して帰ったが、一人は彼が降りた後を乗り継ぎ、一人は彼の家へついて来て泊まったと云った。そうしてお午過ぎまで寝込んでいたそうだが、今日はいい工合に日曜日である。
時に僕は実に困っていると私が云った。蟇口のことを話すと、彼もまだ酔いが残っているらしい朦朧とした顔つきで聞いていたが、不意に思い出した様に蟇口は北村さんが額の裏に隠して行きましたと云った。
額と云うのは昔の秩父丸の絵皿である。すぐに起って行って見たら、長押の上の絵皿の陰に、蟇口の口金がきらきら光っていた。

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内田百(けん)集成24 百鬼園写真帖 (ちくま文庫)

内田 百

筑摩書房

 

 

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クルちゃん ー 百鬼園先生

2012-03-04 21:28:10 | ねこちゃん
ノラや (中公文庫)
内田百
中央公論新社

 ノラちゃんは帰って来ない、どこでどうしてるものやら、百鬼園先生は彼を思うたび泣いてばかりいる。「ノラや」の後半はそれがえんえんとつづく。いなくなったのが麹町だから半蔵門から皇居に入り込み正五位を与えられ女官たちに可愛がられた、という可能性もなくはない!?

ノラちゃん失踪の数ヶ月後、子猫が迷い込む。これがクルちゃん。尻尾があれだからジャパニーズ・ボブテイルか。布団にまで潜り込むこの猫も短い一生だがほんとうに可愛がられた。剛胆なようで実に繊細な百鬼園先生、毎晩猫を相手に晩酌しては、なにやらお話しをしているようだ。・・・

うちのたすけは、またガンの手術が要る様だなあ、人でいえばアラカンぐらいの歳。たすけ大丈夫だ。人の話を聞いてぜーんぶわかっているのだ、また病院かあと言ったら、水色のキャリーケージに鼻をつけて、そのあとぷいっと横を向いた・・・(もう切れず、とか・・・あと3ヶ月・・・あら、またきたの。ずっとひざの上にいなさい。2012.3.17)
   

>>>>>>> 以下、「ノラや 内田百蝓|羝文庫 昭和57年3月 1195-690179-4622」収録の『猫の耳の秋風』より、引用 

「クルや。クルや。猫や。お前か。猫か。猫だね。猫だらう。間違ひないね。猫ではないか。違ふか。狸か。むじなか。まみか。あなぐまか。そんな顔して、何を考へてる。これこれ、お膳の上を見るんぢやないよ。見たつてそれはジュンサイだ。酢がかかつてゐるよ。こつちは七味とんがらし。猫の食べる物ではない。猫には向かない。向いたつてここではやらないからおんなしだが、そもそもお前はたしなみが足りない様だ。その低い貧弱な鼻を動かして、そら、鼻が少しづつ動いてゐるぢやないか。よくそんなぺちやんこな鼻が動かせるものだね。小さな穴を片方づつ、ひろげたりつぼめたりするのか。成る程さうすれば穴のまはりが伸縮して、鼻が動いてゐる様な効果を現はす。それによつてお前はお膳の上の物に興味があると云ふ事を示す。それがいかんのだ。お前はお行儀が悪い。ノラはそんな事をしなかつた。第一、お膳のそばへは来なかつた。お前はノラが帰つて来なくなつてから、うちの中へ上がり込んで、お前の思つた通り勝手に振る舞つてゐる。お前はお前でそれは構はないけれど、ノラが今に帰つて来たら、仲よくするんだよ。喧嘩なぞしたら承知しないから。それまではさうやつて威張つてゐなさい。しかしそんなところでお膳の端からいつ迄もジュンサイのお皿を眺めてゐないで、お銚子のお代わりぐらゐには起つたらどうだ。もうこつちは空いてゐるんだ。猫の手も借りたいと云ふのは今だぜ。クルや」
ニヤア
「猫の様な声をするな」
ニヤア
「さては矢つ張り猫だな」
ニヤア
「猫にしても男のくせにニヤアスウ云ふのではない」
ニヤア

「何だ。何を云つてゐるのだ。お前の云ふ事は言語不明晰でよく解らん」
秋になつてから、家内が病気して入院した。後に残りし猫と私は、よそのをばさんや奥さんやお母ちやんが入り代りやつて来て家の事をしてくれるお陰で日日の明け暮れを過ごしてゐるが、病院の事は心配だし、身辺は淋しい。入院当日の夜は猫が私の寝床に這入つて来て、一晩ぢゆうかじりついて離れなかつた。幸ひに経過が良く、退院の日を待つばかりになつてからは、猫を相手に一盞を傾けるお酒の味もよくなつた。


「こらクルツ、お前は夕方もつと早く帰つて来なければいかん。心配するぢやないか。高歩きをしてゐる内に雨が降り出して道がわからなくなり、ノラの様に家へ戻れなくなつたらどうするのだ。一体お前は毎日出歩いてどこをほつついてゐるのだ。身体に虱菜の実を食つつけて来るところを見ると、番町学校の前の空き地の草原を馳け廻ついてゐるのか、あすこにはよく死んだ猫が捨ててあるから、あんな所をうろつくのはよしなさい。こつちの禁客寺のお庭の方から屏の下をくぐつて向うへ行くと、靴屋には権兵衛猫がゐるよ。権兵衛はノラとは大の仲好しだつたが、お前とは仲が悪い様だね。顔を合はせたらその儘には済まされない喧嘩相手なのだらう。お前がひどい怪我をして帰つて来る時はいつも権兵衛と取つ組み合つて、ふんづもぐれつやつて来るのだらう。いつぞやお前の口のまはりに何だか黒い物がついてゐると思つたら猫の毛のかたまりだつた。権兵衛は藤猫だから、その毛を食い千切つて、むしり取つてきたのだ。どつちが強いのか知らないが、喧嘩をするなら負けるな。しかし喧嘩には勝つてもお前が怪我をして帰るのは困る。成る可くそつちの方へ行かない方がいいよ。わかつたかい。わからないのか。わかつたのでも、わからないのでもないか。そんな所らしいな。仕様がないな。こん畜生」

入院中の手伝ひに来てくれるをばさんの家にも猫がゐるさうで、その話しに、猫に畜生と云ふと、何とも云へないいやな顔をしますよと云つた。クルツがいやな顔をした様ではないが、こつちの話しは聞いてゐるらしい。片方の耳の喇叭を少しづつ働かして、人の顔を見てゐる。内側に毛の生えた喇叭の耳は、今では一匹前に大きくなつて、ぴんと撥ねてゐるが、ノラが出て行つた後へ間もなく這入り込んで来た当初のクルツの耳は、小さくて貧弱で、親指の一節ぐらゐしかなかつた。篦で額の上を二タ所ぴつぴつと撥ねた跡が耳になつてゐると云ふ感じであつた。つまり彼はまだ一匹前に育つてゐなかつたので、大体ノラよりは七八ヶ月後から生まれたのだらうと思はれる。

ノラは隣家の縁の下で生まれたのだらう。少し大きくなつてから、隣との境の屏の上で親猫と日向ぼつこをしたり、じやれついたりしてゐるのをよく見掛けたが、その内に私の家で可愛がり出したのを見届けて、親猫はそれではこの子の事はよろしくお願ひ申しますと挨拶した様に私共に思はせて、どこかへ行つてしまつた。そのノラが去年の3月27日に出て行つたきり、こんなに長く帰つて来なければ、挨拶を受けた親猫にも申し訳がない様な気がする。
クルツは、クルツと云ふ名は、ノラの尻尾は封筒ぐらゐの長さがあつたのだが、クルツのは、短かく、おまけに小さなお椀の蓋の様に円くて平つたい。短かいから独逸語でクルツと名づけた。呼びいい様にクルとも云ふ。尻尾は長短著しく違ふけれど、前から見た毛並みや顔の感じはノラそつくりである。ノラの事を気に掛けてくれてゐるよその人は、クルツがゐるのを見て、おやノラちやんが帰りましたかと云ふ。私自身がノラの失踪の当初、屏を伝つてこつちへ来るクルツを見て、何度ノラが帰つて来たと思つたかわからない。




ノラの素性は大体わかつてゐるが、その後へ這入つて来たクルツは丸でわからない。私の家にかうして落ちつく迄、どこで育つたのか、どう云ふ家の飼ひ猫だつたのか、見当もつかない。野良猫で育つたのではない事は手許に飼つて見てすぐわかる。どこかの飼ひ猫が何かのはずみで自分の家に帰る道を失ひ、私の所に落ちついてしまつたのだらう。さうするとノラもどこかで同じ様な境遇になつてゐるに違ひないと、つい又そつちの方を思ひ出す。

クルツはくたびれたと見えて、お膳のわきで大変大袈裟な伸びをした。それから欠伸をした。
「これこれ、クルや。お前、それは即ち失礼と云ふものだぜ。こちらはまだお膳の上が峠を越さないのだ。そら、木戸の音がした。そうら、そら、お待ち遠様と云つた。全くお待ち遠様で、大概四五十分、どうかすれば一時間待たされる。お前なぞ待つてゐられるかい。をばさんがここへ運んで来るのを、お前も行つて手伝ひなさい。泰然として動こうとしないね。その癖、鼻をひくひくさせ出したぢやないか。いいにほひがするかい。蒲焼だよ、鰻だよ。うまいんだぜ。後で、あつちで、お前の皿で少し戴くか。お行儀をよくすればやつてもいいが、猫に蒲焼と云ふ語呂はあまり聞き慣れない様だな。クルや、蒲焼は高いのだよ。高いからうまいのだ。おさつやいわしも高ければもつとうまいだらう。安いからおろそかにされるのだ。もつと高くなつて、高くて食べられない程高くなれば、食べたらきつとうまいだらうと想像する事が出来る。わかつたかい。わからないかい。どつちにしてもおんなじ事だね。一体お前はさうやつて、伸びをした後もまたぢつと座つてゐて、矢つ張りお膳のおつき合ひをしてゐるのか。ここを離れるのが淋しいのか」


手を出して撫でてやらうとすると、頭を少し下げてその手に擦りつける様にする。手の平に当たつた片方の耳の端が割れてゐて、割れた儘になほつて毛が生えてゐる。いつぞやの藤猫権兵衛との出会ひの時、権兵衛に裂かれた疵痕である。その時の喧嘩ではクルツの方が分がよかつた様で、戦場がうちの庭だつた所為もあつたのだらう、門の内側のあたりで大変な声がしてゐると思つたら、お勝手口の前を権兵衛が矢の様に走り抜けた。すぐその後からクルツが追つ掛け、追ひついて石炭箱の上で又取つ組み合ひを始めたらしい。その声と物音でいつもの通り家内がお勝手から馳け降り、物干の三叉の棒でクルツの味方をした。
背中のあたりを叩かれた権兵衛が逃げて行つた後、クルツは家内に抱かれて、ふうふう云ひながら廊下の自分の座布団の上に帰つて来た。全身方方に傷をして血だらけである。家内がリヴノール液で疵口を洗つて消毒し、その後へクロロマイセチン軟膏を塗つた。クルツはおとなしく手当を受けて、済んだらそこへ寝たが、今迄にも怪我をして帰つた事は何度もあるけれど、今日はその程度が大分ひどいらしく、見てゐてもこちらが息苦しくなる程猫の呼吸が早い。ほつておいていいか知らと心配になつて来た。特に額の真向の骨に達する傷が気に掛かる。

初夏の夕方の暗くなりかけた時間であつたが、獣医に診て貰ふ必要があると判断した。心当たりを問ひ合わせ、さう遠くない所にある犬猫診療所へ電話をかけて往診を頼んだ。処置を受ける都合からも、費用の点からも連れて行つた方がいいにきまつてゐるが、全身傷だらけの猫を家の外に連れ出すのは、そんな事に馴れないから今の場合どうしたらいいかわからない。

ところが、ふだん猫のお医者を煩はすなどと云ふ事は考へた事もないので、丸で事情がわからなかつたが、矢つ張り忙しい時は忙しいらしく、当のお医者さんはこれからすぐに出掛けて三鷹へ往診し、そこから鎌倉へ廻らなければならない。お宅へ伺ふのは早くて11時、もつと遅くなるかも知れないと云ふことであつた。夜11時を過ぎてからの猫医の往診は困る。なぜ困るかと云ふに、その時間になれば肝心の私がお酒が廻つてゐて、こちらから頼んで来て貰つた人に会ふ資格なぞなくなつてゐる。又クルツの為に毎晩のその順序を変へたり省略したりしなければならぬ程、事態が切迫してゐるとも思へない。それでは今晩は一晩様子を見て、明日の工合で再めてお願ひしませうと云ふのでその晩来診を乞ふ事は止めた。

幸ひにクルツは一晩で大分らくになつたらしく、翌日はもうその必要もないくらゐ元気になつたから、猫のお医者がうちへ来ると云ふ事件は沙汰止みとなつた。
私の懇意な家が大森にあつて、私の主治医がまたそこの主治医でもある。その家には猫がゐる。或る日主治医の博士が往診されると、その後から猫の主治医が来て、人間のお医者と猫のお医者が鉢合はせをした。
人間担当の主治医の博士は大きな診察鞄を提げ、京浜線の混み合ふ電車の吊り皮にぶら下がつてやつて来る。猫担当の主治医は田園調布の辺りの遠い所から、自動車で、看護婦を連れて乗り込んで来る。世は逆さまと成りにけりの感がない事もない。しかしそんな事を気にしても、それは猫の知つた事ではない。


猫は何も知らないかと思ふ。しかしどうもさうではないらしい節もある。知らないのでなく、知つた事ではないと云ふ起ち場で澄ましてゐるのではないか。知る事は知り、しかもその記憶がある程度持続する例を実際に見た。ついこなひだ、手伝ひに来てゐるよそのをばさんと、そこへ来合はせた若い者が、あぢの干物を焼いて二人で小昼飯を食べてゐた。ちやぶ台の下でクルツが知らん顔をして香箱を造つてゐる。そこへ遅く目をさました私が出て行つて、自分で廊下の雨戸を開けたが、いつも勝手を知らぬお手伝いが雨戸の戸袋の始末にへまばかりやつてゐるのを、御飯中だが一寸起つてここへ来て、ここの所の壷の工合を見ておきなさいと云つた。お膳の前を離れて廊下へ出て来た二人に、ここをかうすれば簡単に開くのだと教へて、それですぐに済んだが、その間にちやぶ台の脚の所にゐた猫が這ひ出し、だれもゐなくなつたお膳の上のあぢに手を出さうとした所を二人に見つかつて、こらと叱られた。クルツは悉く恐縮してすぐに手を引いたさうだが、をばさんがおなかが空いてゐるのだらうと同情して、別の猫の場所に猫の御飯をこしらへて与へた。猫の御飯もあぢである。猫の小あぢは薄味に煮てある。クルツは自分だけ別にそれを食べ終り、うまかつたと見えて口のへりを舐め舐め今度は私のゐる方の部屋に来て、暖炉の前に座り込んだ。

さつきのちやぶ台のあぢの干物からは大分時間が経つてゐる。その間に自分の御飯も食べさして貰つたから、猫のおなかの工合は干物の焼いたのに手を出さうとした時よりは違つてゐる。又その干物事件も手を出さうとした所を叱られた、未遂に終つたのだから私の方ではもう忘れてゐた。
暖炉の所でクルツはらくに身体を伸ばさうとしてゐる。一眠りするつもりらしい。
「御飯を食べて来たのか、クルや」と云ひながら手を伸ばして背中を撫でてやらうとすると、私の手がまだ彼に触れない前に、ただ私の手がそつちへ動いたのを見ただけでクルツはどきんとしたらしく、全身を縮めてぴくんと跳び上がりさうな格好をした。
余程こはかつた様で、そのぎよつとした様子はさつきの干物の一件が彼の記憶にまだありありと残つてゐるのを示す様であつた。それを見て、クルは利口だと思つた。

ノラは利口な猫であつたが、クルも劣らず利口である。
「クルや、お前は利口だね。猫と雖も利口な方がいいよ。人間には利口でないのがゐるんだよ。知つてるかい。知らないかい。どつちでもいいね。利口だと思つてゐて、利口でないのもゐるしね。これ、なぜ人の顔を見る。そんな目をして、人をしけじけと見るものではない。何を考へてゐるのだ。お前の表情は昼でも晩でも、いつ見ても曖昧だ。もつと、はつきりしろ」
ニャア
「ニャアと云つたな。小さな声で。何だ。何だと云ふのだ。わからんぢやないか。これクルや、こつちはもう空いたんだよ。をばさんにもう一本つけて貰つて来な。心配するな。そろそろもうお仕舞だ。しかしその後が、それからあとが長いのだよ。その間が楽しみなのだ。わからんかい。おや、雨が降つて来た。雨の音がするだらう。耳を動かしたな。聞こえるだらう。トタン屋根の音だよ。クルや、雨が降ると淋しいね。病院にも雨が降つて行くだらう。クルや、お前は病院と云ふものを知らないね。長い廊下があつて、白い著物を著た人が歩いてゐるのだよ。行つて見るか。連れてつてやらうか。しかし途中が駄目だな」

少し頭を下げて、眠たさうな様子である。
「クルや、お前は今夜は随分おとなしいね。話しを聞いてゐるのか、おつき合ひをしてゐるのか。淋しいのか。考へて見ればお前には身寄りと云ふものがないね。お父つちやんおつかさんはどうしたのだ。ゐるかゐないかわからんのだらう。兄弟もゐたのだらう。みんなと別れ別れになつて、うちへ這入つて来て、人間の中に混じつて、人間ばかりをたよりにしてゐる。さう思ふと可哀想だね。猫は寂しがり屋だと云ふが、それは尤もなわけだ。お前は外から帰つて来ると、いつだつて大袈裟な声をして。ニャアニヤア家の者を呼び立てるぢやないか。門からお勝手口へ廻つた時も、庭から廊下の外へ帰つて来た時も、ニャアニヤア云ふから出て見ると、口を尖んがらかして、あれはわめき立ててゐるのだね、ただ今、帰りました、帰つて来たぢやないか、開けてよ早く、と云つてゐるのだらう。手伝ひのよその人が迎へに出ると、軒下の小石の上などに腹ん這ひになつて、小石にしがみついて、抱かさらない様に意地を張るだらう。我儘が過ぎるし、よその人の親切に対しても失礼でもある。かう云ふ非常な時は少しは遠慮するものだよ。どうだ、わかつたか。あれ、あんなに雨の音がし出した。あしたも雨が降つてゐたら、外へは出られないのだよ。いいかい、クルや、わかつたかい」

さう云つて平手でぽんぽんと頭を敲いたら、その拍子に乗つた様な動作でごろりと横にころがり、二本の前足を宙に浮かした中途半端な格好で、鯒の頭の裏の様な白い顎を前に突き出した。いつもする事で、そこを掻けを云つてゐるのがわかつてゐるから、彼が気に入る様に掻いてやつた。しかし必ずしも痒いから掻いてくれと云ふのではないだらう。人に甘えたい時の姿態、猫の気持ちを表はす一つの表情だらうと思ふ。
その儘クルツはちやぶ台の横の空いた座布団の上に寝ころがつて、すつかりくつろいだ顔をしてゐる。
「クルや、お前は猫だから、顔や耳はそれでいいが、足だか手だか知らないけれど、その裏のやはらかさうな豆をこつちに向けると、あんまり猫猫して猫たる事が鼻につく。そつちへ引つ込めて隠しておけ」

二三日前の夜明けの、人間の足首の事を思ひ出した。入院中の留守の家事を手伝つてくれる女連の外に、私自身の身辺を構つてくれる若い者が幾晩か家に泊まつた。私の隣の部屋に寝てゐたが、寝る時は暖かすぎる程暖かくて、夜中から冷え込んだ晩の夜明け近く、私は目をさまして手洗ひに立たうとした。廊下へ出るには彼が寝てゐる隣室の布団の足もとを通る。私が自分の寝床に起きなほつて、そつちの方へ目をやると、彼は夜中に寒くなつて、寝ながら掛布団を無闇に上へ引つ張つたと見えて、足の方は掛布団が切れて敷布団が出てゐる。驚いた事に、その白いシーツの上に足首が一つころがつてゐる。
びつくりして、こはくなつて、そつちへ行く気はしないが、なほよく目を据えて見なほした。間違ひなく足首で、シーツの上に無気味にころがつてゐる。ぢつと見つめたが、まだよく目がさめてはゐない。有り明けにともしてある電気の光も薄暗い。何かを見違へてゐるのだらう。暫らく眺めて、沓下だらうと思つた。沓下を穿いたなり寝て、後でもしやもしやするから脱いで足許へつくねたのだらう。さうだつたのかと思ひ直してもう一度よく見たら、矢つ張り沓下ではない。間違ひなく人間の足首である。
全く気味が悪い。ファウスト伝説に、寝て鼾をかいてゐるファウストを起こさうとして手を引つ張つたら、手が根もとから抜けてしまつた。足を引つ張つたら足が取れたと云ふ話がある。ここに寝てゐる彼が、まさかそんな魔法を使ふ筈もない。クルツがどこかの縁の下から、くはへて帰つたと云ふ事もないだらう。

クルツは夜は外へ出ない。あつちの座敷で寝てゐる。しかしそこにころがつてゐるのは足首に違ひない。どうにも合点が行かない。見たくないけれど、そこばかり見てゐる。

起ち上がって、電気を明るくした。それで私の寝ぼけた目もはつきりした。矢つ張り本物の足であつた。ただ、離れてころがつてゐるのではなく、彼につながつてゐた。彼は沓下を脱いで、ずぼん下は穿いたなりで寝てゐる。その足が引つ張り上げた掛布団の裾から出てゐた。ずぼん下が洗濯屋から帰つたばかりなのか、新らしいのか、真白である。シーツは下ろしたての新品である。白いシーツの上に白いずぼん下が乗つてゐて、こちらの目がよくさめない所へ電気がぼんやりしてゐるから、シーツでずぼん下は帳消しになり、沓下を脱いだ裸の足首だけが目に入つて、無気味な勘違ひをした。
足首の一件はクルの知つた事ではない。縁の下からくはへて来たかと押し詰めて考へたわけでもない。悪く思ふな。ただその足の裏の豆が気になつて、足首を思ひ出したばかりだ。

「おやおや、寝た儘で、脚の先だけで伸びをしたな。器用な真似が出来るものだね。指の間を随分ひろげたぢやないか。もうそろそろおつき合ひに飽きて来たと云ふのだらう。ところがこつちは、さつきから急にいい心持ちだぜ。猫が退屈して、こちらは廻つて来て、食ひ違ひだね、クルや。もう一ぺん起きてお出で。起きて来て、お前も何か食べさして貰へ。をばさんの所へ行つて、ニャと云ひなさい。くれるよ。お前の好きな物は、常食の小あぢの外に、出前の洋食屋が持つて来るコロツケのわきづけのヴインナソーセーヂ、あの揚げた味がお前は好きなのだね。猫は練り物が好きだと云ふ。お前もその例に洩れない様だ。しかしソーセーヂは今晩はないよ。取らないんだもの、ないよ。それから銀紙に包んだ三角なチーズ、あれも好きだね。矢張り練り物だからな。洗濯シャボンを齧る様で面白くもないが、猫の好む所へ容喙する事はない。あれはあつた筈だ。あつちへ行つて貰ひなさい。おやおや、起きて来たね。矢張り人の云ふ事がわかるのかい。しかし、起きた途端に、それ、またその小さな鼻をひくひくさせる。お膳の上をそんなに見てはいかん。あつ、さうか、忘れてたよ。忘れて食べてしまつた。お前に蒲焼を少し残してやる筈だつた。あぶらでずるずるしてゐるから、つい咽喉へ辷り込んだのだ。御免よ、クルや、チーズで我慢しな」

ノラも大体クルツと同じ様な物が好きだつたが、特にいつも取り寄せる握り鮨の中の玉子焼には目がなかつた。家で焼く玉子焼と違ふところは、魚河岸から買つて来る魚のエキスの汁で玉子がといてあるのださうで、猫の口にも別の味がしたのだらう。ノラが帰つて来なくなつてから、ノラがその玉子焼をあんなに喜んでゐたのを思ひ出すのがいやで、鮨屋に何のかかはりもないのに、それ以来鮨を取り寄せるのを止めた。勿論外の店から取る様な事はしなかつた。今度家内が退院して帰つたら、それを機会に、またノラがゐた時の鮨を取らうかと思ふ。但し、玉子焼は抜かせる。そんな事を指図すれば向うでは取り合はせに都合が悪いかも知れないが、先ずさう云ふ事でもともと贔屓の鮨を再び家へ入れる事にしよう。取らなかつた期間は一年八ヶ月である。その間にその店のご主人は他界し、ノラのゐる時、家へ届けて来たノラの馴染みの兄さんが今はお店で握つてゐるのだと云ふ。

クルツもその玉子焼を貰げばよろこぶに違ひない。しかしノラがゐないのに、それをクルツにやる気にはなれない。ノラが帰つて来たら、さうしたら一緒に与へてどちらもよろこばせよう。それ迄玉子焼はお預けにする。
家内の入院と云ふ事件の為に、もう一つ区切りをつけた事がある。ノラの失踪後、熊本在住の未知のひとから教はつた猫が帰つて来るおまじなひを続けて、毎晩お灸を据えて、その数が五百三十五になつたのが入院の前晩である。ノラを待つ気持ちに変りはないが、それを続けてゐられない事情が起こつたのだから止むを得ない。五百三十五回で一先づ打ち切つた。
そんな事をこのクルツはみんな知つてゐるのか、丸で知らないのかわからない。起きなほつてもとの通りお膳のそばに座り、人の顔を見てゐる。お酒がいい工合に廻つたところで、ついノラの事を思ひ出したから、困る。目の裏が熱い。

「ねえ、クルや、困るねえ。よさうねえ。そうら、あんなに雨が降つてゐる。段段ひどくなつて来た。雨が降るのも困るねえ。音がするからいけない。クルや、お前か」
膝の上に抱き上げたら、その儘自分ですわりをよくして落ちついた。辷らない様に片手で支へてやつてゐると、次第に膝が温かくなり、それを感じた拍子についクルの上へ涙が落ちた。
「クルや、何でもないんだよ。そらもうお酒もお仕舞だ。お仕舞にしようね。それで、そもそもお前は猫である。膝の上なる猫はお前か。お前が猫でクルでお前で、まみでむじなで狸ではなかつたか」

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ノラや ー 内田百

2012-02-25 22:11:20 | ねこちゃん
ノラや (中公文庫)
内田百
中央公論新社


ノラちゃん、あれからずいぶんになるから、先生と奥様に出会えたよね。また可愛がってもらってね。今晩も玉子焼もらいましたか。もう、はぐれることないからね。・・・もう書けないよ・・・うちの歴代ねこちゃんたちも、みーんな、のらちゃんだった、また会いたいなあ・・・後輩のたすけとハクは、おねんね。

      ねこのいっぱいいるまち まきこ

>>>>>>> 以下、「ノラや 内田百蝓|羝文庫 昭和57年3月 1195-690179-4622」 より引用

 「ノラや」 1

猫のノラがお勝手の廊下の板敷と茶の間の境目に来て座つてゐる。
外は夜更けのしぐれが大雨になり、トタン屋根だから軒を叩く雨の音が騒騒しい。
お膳の上は食べ残したお皿がまだその儘に散らかり、座の廻りはお酒や麦酒の壜で、うつかり起てば躓きさうである。
しかしもう箸をおいたので、後ろの柱に凭れて一服してゐる。
その煙の尾をみてノラは座りなほした。つまり両手にあたる前脚を突いた位置を変へたのである。
ノラは決してお膳には来ない。そのお行儀を心得てゐる。
猫は煙を気にする様である。消えて行く煙の行方をノラは一心に見つめてゐる。彼がもつと子供の時は、家内に抱かれてゐて私の吹かす煙草の煙にちよつかいを出し、両手を伸ばして煙をつかまへようとした。しかし今はもう一匹前の若猫だからそんな幼穉な真似はしない。ぢつと見つめて、消えるまで見届ける。

「こら、ノラ、猫の癖して何を思索するか」
「ニヤア」と返事をしてこつちを向いた。ノラはこの頃返事をする。尤も、どこの猫でも返事をするのかも知れない。私は今まで、子供の時家に猫がゐた事は覚えてゐるが、自分で猫を飼つて見ようと考へた事もなく、猫には何の興味もなかつた。だから猫の習性なぞ何も知らない。ノラと呼べば返事をすると云つても、外の猫にノラと声を掛ければ矢張り返事をするのかも知れないし、ノラに向かつて人間の名前を呼び掛けても同じくニヤアと云ふのかも知れない。さう云ふ実験をやつて見た事がないので、私にはどうなのだか解らない。
ノラはそこの間境に暫らく座つてゐた後、どう云ふきつかけか解らないが、腰を上げて伸びをして、それから人の顔を見ながら口一ぱいの大きな欠伸をして向うへ行つてしまつた。多分風呂場へ這入つて、湯槽の蓋の上にいつもノラの為に敷いてある座布団に上がつて寝たのだらう。

この稿は「彼ハ猫デアル」の続きである。一昨年の初秋、今は取りこはした低い物置小屋の屋根から降りて来た野良猫の子が、私の家で育つて大きくなつたので、私も家内も特に猫が好きだつたから飼つたと云ふわけではない。自然に私の家の猫になつたので、その経緯は右の「彼ハ猫デアル」に詳しい。その稿にもことわつてある通り、ノラと云ふ名前はイプセンの「人形の家」の「ノラ」から取つたのではない。それなら女であるが、うちのノラは雄で野良猫の子だからノラと云ふ。だからノラと云ふその名は世界文学史に丸で関係はない。

うちのノラが降臨した高千穂ノ峰は物置小屋である。そのもとの低い物置を去年の秋に取りこはして、後に新らしい物置が建つた。今度のは大分立派で、しつかりしてゐて、屋根も高い。屋根はペンキ塗りのトタンである。ノラは早速新物置の屋根に上がり、塗り立てのペンキの上を歩いて帰つて来て家内に抱かさつたから、家内の上つ張りはペンキだらけになつた。ノラの足の裏をアルコールやベンジンで拭いたり、上つ張りの始末をしたり、大騒ぎをしてゐた。

私の家には小鳥がゐる。目白二羽と赤ひげで、昼間は飼桶から出して座敷に置く。猫に小鳥は目の毒に違ひない。ノラが子供の時は、廊下から座敷の小鳥籠の方をぢつと見据ゑて、腰を揉む様な格好をした事がある。飛び掛からうとしたのである。叱つて頭をたたいて止めさしたが、さう云ふ事が習慣になつて、ノラは決して畳敷きの上には這入つて来なかつた。うつかり這入つて来ようとすると、私が睨めば止めて、そこへ座り込んでしまふ。猫を睨むにも気合ひがある。学校教師の時、学生を睨んだ目つきでは猫には通用しない。昔、四谷の大横町の小鳥屋に猫がゐて、目白や頬白の籠を置いた間で昼寝をしてゐたのを見た事がある。猫でもしつけをして馴らせば、小鳥に掛からぬ様になる実例を私は見て知つてゐる。

ノラが大分大きくなつて、私と家内と二人きりの無人の家にすつかり溶け込み、小さな家族の一員になつた様である。顔つきや、特に目もとが可愛く、又利口な猫で人の云ふ事をよく聞き分けた。いつも家内の傍にゐるので、家内は可愛がつてしよつちゆう抱いてゐた。わたしがこつちにゐる時、お勝手で何か云ついている様だから、声を掛けて、だれか来てゐるのかと聞くと、ノラと話をしてゐるところだと云ふ。
「いい子だ、いい子だ、ノラちやんは」
少し節をつけてそんな事を云ひながら、お勝手から廊下の方を歩き廻り、間境の襖を開けて、「はい、今日は」と云ひながら猫の顔を私の方へ向ける。ノラは抱かさつた儘、家内の前掛けの上で、先きの少し曲がつた尻尾を揉む様にしたり、尻尾全体で前掛けをぽんぽん叩いたりする。生まれてまだ一年経たない去年の夏、庭へ出るとよそから来た猫と張り合つて、喧嘩する様な声をし出した。しかし大体どの猫にもかなはない様で、さう云ふ声が聞こえると、いつも家内がやり掛けた事を投げ出して加勢に馳けつけた。ノラは私の家の庭から外へ出た事がないらしく、いつもそこいらの門の脇か屏の上で睨み合つてゐるのだから、加勢も役に立つわけである。

私の家には門が二つある。往来に面した門から両隣の間の細長い路地を這入つ所にもう一つの門がある。その門と門との間をつなぐ琨擬土(コンクリート)の通路の半分迄もノラは出て行かない。往来の門まで出て、外を見た事は一度もないだらう。たまに家内が郵便を入れに行つたり近所の用達しに出たりすると、ノラは内門の傍までついて行つて、そこから先きへは行かない。帰つて来ると、そこにちやんと待つてゐたと云ふので、家内は抱き上げて頬ずりしながらお勝手に這入つて来る。

庭から外へ出なくても、庭の屏を隔てた向うの靴屋の藤猫が子供の時からノラと仲好しでいつも遊びに来るから、友達には不自由しなかつたのだらう。その藤猫はノラと前後した頃に生まれた雄で、雄同士でも気が合ふと云ふ相手があるのかも知れない。いつも二匹揃つて,鼻を突き合はせる様にして日向ぼつこしたり、庭石の上にいつまでもならんでしやがんでゐたりする。ノラのお友達だからと云ふので、家内がお皿に牛乳をついで持つて行つてやると、靴屋の雄猫がうまさうに舐めるのを、ノラは傍から眺めてゐて、妨げもしなければ、自分が飲まうともしない。
しかし靴屋の藤猫でない外の猫が庭に来るとノラは怒るらしい。追つ払はうとするのだらうと思ふけれど、その実力はないので仰山な声をするだけで結局は逃げて帰る。
よそから来る猫の中に、一匹すごく強いのがゐて、玉猫でこはい顔をしてゐる。ノラはその猫には丸で歯が立たないらしい。一声二声張り合つてゐる内に、いつでもギヤツと云はされて逃げて来る。


夏の暑い日の昼間、ノラは茶の間の間境の廊下の隅で、壁にもたれる様にして昼寝をしてゐた。突然猫の悲鳴が聞こえて、どたばた大変な物音がするから、驚いて茶の間から私が飛び出して行くと、いつの間にかその玉猫の悪い奴が、暑いので開け放しにしてあつたお勝手の戸口から家の中に這入り込み、いい心持ちに昼寝をしてゐるノラの多分腰のあたりへ噛みついたのだらう。ギヤツと鳴いて跳ね起きたノラを追つ掛け、廊下の突き当たりの洗面所の下で団子の様になつて揉み合つた末、ノラが戸が開いてゐた風呂場の方へ逃げ込むのをまだ追つて二匹とも外へ出てしまつた。
中の間にゐた家内が飛んで来て、ノラの加勢に馳けつけたが、もうそこいらにゐなかつた。廊下や風呂場の簀子に、ノラが引つ掛けたと思はれる苦しまぎれの刹那小便の痕が点点と散らかつてゐる。無心に寝てゐるノラをいぢめた悪い奴に非常に腹を立てたが、家内は一層憤慨して、いつだつてノラをいぢめてゐる挙げ句にこんな事までした。もう勘辯しない。これからは見つけ次第、引つぱたいて、突つついて、追つ払つてやると云つた。
ノラは悪い奴の追跡から逃げのがれて、ぢきに帰つて来た。家内はすぐに抱き上げ、頬ずりしていたはりながら、怪我はしなかつたかと方方調べてゐる。抱いたノラの胸がこんなにどきどきしてゐると云つて可哀想がつた。

家内は悪い奴の声を聞き覚えてゐる。ノラがうちにゐる時でも悪い奴がよその猫を喧嘩する声がすると、出て行つて追つ払ふ。ノラが外に出てゐる時悪い奴の声がしたら、何をしかけてゐても投げ出して、長い物干竿を持ち出し、その現場へ行つて悪い奴を突つつく。ノラはうちの庭から外へ行かないので、大概家内の加勢が功を奏する。いつもさうするので、しまひには家内が出て行つただけで、悪い奴はその姿を見て逃げてしまふ。ノラは自分が強くなつたのかと思つてゐたかも知れない。

ノラは子供の時おなかをこはして、洗面所の前で不始末をした事がある。自分の垂れたべたべたした糞を足拭きの切れの中に包み込んで、と云ふのは砂の上にした時の要領で後脚で切れを蹴つたから包んだ様な事になつたのだらうと思ふけれど、大いに信用を害して後始末をした家内から叱られた。
それから後はふんし箱の砂の中へする事をよく覚え、二度としくじつた事はなかつたが、あんまり覚え過ぎて、しなくてもいい時にもする様になつた。外から帰つて来ると、急いでお勝手の狭い土間に置いてあるふんし箱の砂の中に小便する。うちへ帰つてからしなくても、そとにいくらでもその場所はあるのだから、済まして帰ればいいのに、と家内がこぼす。さつき砂を代へたばかりなのにまた新らしくしなければならない。本当に事の解らない猫だと云ふ。そうして砂だらけの足で上がつて来たお勝手の板場や廊下を帚で掃いてゐる。
外へ出て行く時も同じ事で、砂箱にしやがんでゐると思ふと小便をして、ちやんと砂をかけて、そうした上で庭へ出て行く。庭へ行くなら庭でしたらよさそうなものを、と家内がぶつぶつ云ひながら又砂を代へる。

食べ物は、初めの内は私共の食べ残しを何でも食べてゐたが、一昨年の晩秋、まだ極く子供の時に風を引いて元気がなくなり、何も食べなくなつたので私共が心配した。大磯の吉田さんの所へよばれて行つた時の事なのでよく覚えてゐる。家内が可哀想がつて抱きづめにした。バタと玉子とコンビーフを混ぜて捏ね合はせた物を造つて食べさしたら、なんにも食べなかつたのにそれはよく食べた。それから元気になつた。

ノラはこの世にうまい物があると云ふ事をその時初めて知つたかも知れない。
猫にやる煮魚は薄味の方がいいと云ふ事を聞いて、別に薄味に煮てやる様にしたが、煮たのより生の方がいいと又教はつたので、生の儘やる様にしたら大変よろこんで食べる。猫を飼つた経験がないので、さう云ふ事はよく解らないが、いわしは好きでないらしい。小あぢの筒切りばかり食ふ。ノラは与へた食べ物をお皿の外へ銜へ出す事をしない。辺りをちつともよごさずに、お皿の中だけで綺麗にたべる。
和蘭チーズの古いのがあつたから、細かく削つて御飯に混ぜてやつたら大変気に入つて、いつ迄もそれを続けた。丸い赤玉のチーズが無くなつてしまつたので、新らしいのを買つて、又削つて食べさした。
その内に御飯はあまり食べたがらなくなつた様だから止めて、専ら生の小あぢの筒切と牛乳だけにした。小あぢは大概魚屋にあるけれど、うちへ来る魚屋に小あぢがない日もある。さう云ふ時には近くの市場のいつも薬を取つてゐる薬局に頼んで、同じ市場の中の魚屋から買つて来て貰つたり、近所のアパートから区役所へ通つてゐる未亡人に帰りの通り路の魚屋から買つて来て貰つたりして間に合はせる。
生の小あぢの筒切りのお皿の横に牛乳の壷が置いてある。彼は大概あぢの方を先に食べて、それから後口に牛乳を飲む。一合15円の普通の牛乳では気に入らない。どうかすると横を向いてしまふ。21円のグワンジイ牛乳ならいつもよろこんで飲む。生意気な猫だと云ひながら、ついつい猫の御機嫌を取る。

その他、カステラや牛乳の残りでこしらへたプリンは食べる。ノラの一番好きなのは、いつも取る鮨屋の握りの玉子焼であつて、屋根の様にかぶせてある半ぺらを家内が残しておいて、後で与へる。ノラは私共が何か食べてゐても決してその手許をねだる事はしない。後で与へるまで待つてゐる。こちらが済んで家内がお勝手に出て、流しの前の小さな腰掛に腰を掛け、さあお出でと云ふとよろこんでその膝に両手を掛け、背伸びする様な格好で長い尻尾を突つ立てながら、家内の手から玉子焼を千切つて貰つてうれしそうに食べる。鮨屋の玉子焼は普通に家でつくるのと違ひ、河岸から仕入れて来る魚のエキスの様な物の汁が這入つてゐるのださうであつて、猫の口にはうまひに違ひない。そのよろこぶ様子が見たいので家内はいつでもノラの為に残して置く。
しかし鮨屋が出前の桶を届けて来て、ノラが座つてゐるお勝手の板場に置いても、ノラはそれに手を出した事はない。お勝手の棚にも上がらない。魚屋が届けて来た切り身が棚にあつても、ノラがそれを持つて行つたと云ふ事は一度もない。
つまり食足りて礼節を知つたのだらう。落ち着き払つて、動作がゆつくりしてゐて、万事どうでもよささうな顔をしてゐる。

考へ込むと云ふ事のある筈はないが、一所にぢつと座り、何だか見つめて、学生が語学の単語の暗記をしてゐる様な顔をしてゐる事もある。
家内が手洗ひに立つと必ずついて行つて、戸口の外の廊下に座つて待つ。変に食ひ違つた森蘭丸だと思ふ。出て来れば、さもさも待つてゐたと云ふ風に大袈裟な伸びをして、欠伸をして、後をついて歩く。

家が少人数だから、食べ物の遣り繰りは利かない。猫が食べなければその始末は私共がしなければならない。小あぢを買ひ過ぎて残つたとなると、ノラにさう沢山押しつけても食べるものではないから、結局私共が酢の物にしたり天婦羅にしたりして頂戴する事になる。鮨屋の出前持ちがノラと昵懇なので、これをノラちやんに上げて下さいと云つて、身つきのいいあらを持つて来てくれた。家内が煮て与へたらちつとも食はない。しかし大変いいあらなので勿体ないから、もう一度人間の口に合ふ様な味に煮なほして、私と家内でしやぶつた。

私は去年の内に二度、春と秋に九州へ行つた。そのどつちの時であつたか、又行きか帰りかもはつきりしないが、多分帰り途だつたと思ふ、糸崎か尾ノ道かの辺りで寝台でよく眠られなくてうとうとしてゐた。夢ではなく、ぼんやりした頭でそんな事を考へたうつつだつたかも知れない。通過駅の駅の本屋の右手に物置か便所かわからないが小さな建物があつて、そこの小さな、半紙判ぐらゐな硝子窓にノラの顔が写つてゐる。
非常に心配になつて目が冴えてしまつた。留守の間にノラがどうかしたのではないかと案じながら東京に帰って、東京に着いたらすぐにステーションホテルに寄る事にしてゐたので、クロークの電話で家へ今帰つた事を伝へ、同時にノラはどうしてゐるかと尋ねたら無事で元気だと云ふので安心した。
家へ帰つて行くと、ノラは私を何日振りかに見て、ニヤアニヤアと幾声も続けて鳴いた。
元気でふとつてゐて何も心配する事はなかつた。段段に大きくなり、おとなになつた。家の中にゐればのそりのそりしてゐるけれど、庭へ出るとあつちこつちを非常な早さで馳け廻り、その勢ひで一気に梅の木の幹を攀じ登つたりする。運動は不足してゐないだらう。さうして次ぎ次ぎにうまい物の味を覚え、贅沢になつて猫の我儘を通してゐる。目に見えて毛の光沢がよくなり、目が綺麗になり、目方は掛けては見ないけれど一貫目以上、後には一貫二、三百匁はあると思はれる様になつた。


さうして去年の秋に生まれて初めての交尾期に入つた。つまり、さかりがついたのである。家の中にゐても業業しく騒いで外に出たがる。家には猫専用に出入口がないので、それを造ればよその猫が這入つて来る恐れがあり、這入つて来ればノラと違つて小鳥に掛かるかも知れないから造らなかつたが、その為にノラの出這入には一一こちらで戸を開けたり閉めたりしなければならない。出たい時は出たい様にせがむ。帰つて来ればお勝手の戸をからだで押す様にして、軽くどんどん音をさせる。同時にニヤアと云ふ。開け方が遅いと、這入る時にニヤオと鳴いて遅いぢやないかと云ふらしい。夜になつて帰つて来る時は、よく書斎の窓の障子の外に攀じ登つて、書斎の次の中の間で机に向かつている私に声を掛ける。ニヤアニヤアと云ふから起つて行つて、障子を開けるとそこに待つてゐる。しかしそこから座敷を通つてお勝手に行く事はしない。
「ノラや、帰つて来たのか。あつちへお廻り」と云つて障子を閉め、お勝手の戸を開けに行く間に彼は縁の下を斜めに走つて、もうお勝手口へ来てゐる。
仕事をしてゐる時、何遍起たされたか解らない。書斎の窓に上がるのは、庭から帰つて来る時だらうと思ふ。


初めてのさかりがついた時は、その出這入りが頻繁で、猫のサアスに起つたり座つたりしなければならなかつた。
そんな時でもノラは仲好しの靴屋の藤猫と一緒に行動してゐる。良く喧嘩をしないものだと思ふけれど、一匹の雌猫を挟む様に座り込んで、両方ともいい気持ちらしい。
一寸でも手を出さうとすると雌が怒つて大変な声をする。「何をするのさ、このいけすかない青二才だよ」と云つて引つ掻く。ノラは鼻の先を引つ掻かれて帰つて来て家内に何か薬で手当をして貰つた。


その時のさかりでは、ノラは恐らく得る所はなかつたのだらうと思ふ。それから寒い冬になり、ノラは家の中にゐる事が多くなつた。暖炉があるのでお勝手や廊下でもあまり寒くないし、又風呂場の湯槽の蓋の上には、いつもノラが寝る座布団が敷いてある。中のお湯のぬくもりでその座布団はいつでもほかほかと温い。その座布団にノラが寝てゐる上から、家内が風呂敷の切れの様な物を持つて行つて、掛け布団の様に掛けてやり、首だけ出してすっぽり包む。ノラはその儘の姿で寝入つて、下の座布団と上の風呂敷の間から、両耳をぴんと立てて真面目な顔をしてゐるのが可笑しい。私が湯殿に掛かつている手拭で手を拭く為に戸を開けると、眠つてゐるノラが薄目になつて半分目をさまし、眠たさうな声でニヤアと云つて私の気配に挨拶する。或はくるりと上半身だけ仰向けになる格好をして、顎を上に向けて、そこを掻いてくれと云ふ風をする。

そのつもりで戸を開けたのではないが、向うがそんな格好をすれば、つい簀子を踏んでノラの横へ行き、寝てゐる頭を撫で、首筋から背中をさすつてやりたくなる。
さすりながら顔を寄せて、
「ノラや、ノラや、ノラや」と云ふ。別に寝てゐる猫を呼んで起こさうと云ふつもりではない。もとの低い物置小屋の屋根から降りて来た野良猫の子のあんなに小さかつたノラが、うちで育つてこんなになつてゐる、それが可愛くて堪らない。「ノラや、ノラや、ノラや」と云つて又さすつてやる。

お正月を過ぎて2月初めの節分前後になると、又猫のさかりが始まつたらしい。庭の向うや屏の上で、よその猫が変な声をし出した。すでに一度目のさかりを経験してゐるノラは、家の中や風呂蓋の上にばかり落ちついてはゐられなくなつたらしい。
外には身を切る様な冷たい風が吹いてゐる時、ノラがお勝手口の出口の土間に降りて、ニヤアニヤア云つて出て行かうとする。
「お前行くのか、この寒いのに」と云つて家内はノラを抱き上げ、目糞がついてゐると云つて硼酸で目を拭いてやつてから、戸を開けて外へ出した。
中中帰つて来ない事もあり、すぐ帰る事もある。帰つて来ると家内はノラの足を濡れた雑巾で拭く。いつもさうするからノラも馴れていやがらない。小あを食べ、牛乳を飲んですぐに風呂場の湯槽の上に上がる事もあるし、家内に抱かれて合点の行かぬ顔をしてゐる事もある。
「いい子だ、いい子だ、ノラちやんは」家内が抱いたままお勝手から廊下を歩き廻る。顔を近づけると頬つぺたを舐める。或は抱いてゐる家内の手頚を軽く噛む。そこへ私が顔を寄せると、ざらざらした舌で私の頬つぺたまで舐める。

私の所は何年も前から、夕方暗くなると門を閉めてしまふ。閉まつてゐても門を敲いたり、門をこじたりする客が時時ある。今年の2月初め、節分の前日にその門柱に瀬戸物の標札を打ちつけた。
   春夏秋冬 日没閉門 爾後ハ急用ノ外オ敲キ下サイマセヌ様ニ
と書いた。しまひの所を、猫ノ外ハオ敲キ下サイマセヌ様ニとようかと思つたが止めた。ノラは夜になつてからでも出這入するけれど、門を敲いたり、こじたりする必要はない。書斎の窓に上がって私を呼び出してもいいし、門から帰るなら門を攀じ登つて、郵便受けの箱の上から屏に上がり、その上を伝つて洗面所の前の木戸の所で、家の者が気配がすればそこでニヤアニヤア云つてもいいし、いつでもお勝手口へ廻つて、からだで軽く戸を押してもいい。いつでもすぐに開けて貰へる。

冷たい風が寒雨を吹きつけた晩、ノラは家内が「およしよ」と云ふのを聞かずに出て行つた事がある。中中帰つて来ない。12時過ぎても1時になつても帰つて来ない。まだ帰らぬかロ思つてお勝手の戸を開けてみると、肌が凍る様な雨風が吹き込んだ。
その晩は、私はいつもの通り遅くまで夜更しをしてゐたが、到頭帰つて来なかつた。一晩ぢゆう帰らなかつたのはその時が初めてである。
しかし朝になつて、お勝手に家内の気配がしたら、すぐに帰つて来た。どこにゐたのだらうと家内を話し合つたがわからない。雨がひどかつたので、うちの廂の隅か縁の下にでもひそんでゐたかも知れない。いくら寒くても、その時はさうしなければならない猫の必要があつたのだらう。

 

2.

(昭和32年)
3月27日水曜日

快晴朝氷張るストーヴをつける。午後3時起4時前離床。昨夜は夜半2時過ぎに寝て今朝方6時から9時迄寝られなかつたが、その後に熟睡してこんなに遅くなつた。

 

3月28日木曜日

半晴半曇夕ストーヴをつける。夕方から雨となり夜は大雨。
ノラが昨日の午過ぎから帰らない。一晩戻らなかつた事はあるが、翌朝は戻つて来た。今日は午後になつても帰らない。ノラの事が非常に気に掛かり、もう帰らぬのではないかと思つて、可哀想で一日ぢゆう涙止まらず。やりかけた仕事の事も気に掛かるが、丸で手につかない。その方へ気を向ける事が出来ない。それよりもこんなに泣いては身体にさはると思ふ。午前4時まで待つた。帰つて来たら「ノラや、帰つたのか、お前どこへ行つてたのだい」と云ひたいが、夜に入つて雨がひどくなり、夜更けと共に庭石やお勝手口の踏み石から繁吹きを上げる豪雨になつて、猫の歩く道は流れる様に濡れてしまつた。

 

3月29日金曜日

快晴夕 ストーヴをたく。朝になつてもお天気になつても、ノラは帰って来ない。ノラの事で頭が一ぱいで、今日の順序をどうしていいか解らない。夕方暗くなり掛かつても帰つて来ない。何事も、座辺の片づけも手につかない。夜半3時まで、書斎の雨戸も開けた儘にして、窓の障子に射す猫の影を待つてゐたけれどもノラは帰らなかつた。寝るまで耳を澄ましてノラの声を待つたがそれも空し。
一昨日27日にノラが出て行つた時の事を更めて家内から聞いた。
私はその日は午後3時頃まで眠つてゐたが、私が寝てゐる間に、お午頃は家内はお勝手でノラを抱いてゐたさうである。その時ノラは昨夜から残してあつた握り鮨の屋根の玉子焼を貰つて食べた。一たん風呂場へ這入つて寝て、暫らくすると、2時頃家内が新座敷でつくろひ物をしてゐる所へ来て、板敷から片脚を畳の上へ出し、滅多にした事がない程畳の上へ伸ばして、家内の顔を見ながら大きな声でニヤアを云つた。
「行くのか」と云つて家内が起ち上がらうとすると、先に立つてもう出口の土間に降りて待つてゐる。家内は戸を開けてやる前に土間からノラを抱き上げ、抱いた儘で戸を開けて外へ出たが、物干場の方へ行くのかと思つたからそつちへ一足二足行くとノラは後ろの方を見て、反対の方へ行きたがる様だから抱いた儘そつちへ行き、洗面所の前の木戸の所からノラがいつも伝ふ屏の上に乗せてやらうとしたら、ノラはもどかしがつて、家内の手をすり抜けて下へ降りた。さうして垣根をくぐり木賊の繁みの中を抜けて向うへ行つてしまつたのだと云ふ。

・・・・・・ ・・・・・・

以下、略 

 

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贋作吾輩は猫である ― 内田百

2012-02-12 14:10:09 | ねこちゃん
贋作吾輩は猫である—内田百蟒言〈8〉 ちくま文庫
内田 百
筑摩書房

最近の新聞にはちょっといい話題などほとんどないのであまりまじめに読まず時にテーブルクロス代わり。ハッサクを食べてぐちゃぐちゃになって破れて見えた記事がどなたかが愛読書になさっている内田百蝓峇羣邯稠擇惑である」。おっと、全然読んでいないなあ、いえのねこライブラリから「ノラや」を探してもらったら出て来たが、昭和58年の営団地下鉄路線図が栞がわりにはさまっている。

『贋作・猫』や漱石、芥川との師事、交流の随筆抜粋版などの拾い読みでも、すばらしい人間関係、上質のユーモアがあって、おう、ことしは内田百蠕萓犬量膺諭覆海譴呂覆鵑澄)になろうかな。このかた、とんでもない生き方をされていたようだが、たいした人生であった。岡山の旧制中学時代に「猫」を読んで漱石に心酔、東大独文に入ってから当時入院中の漱石を見舞い押し掛け弟子の様な事になる。漱石という人はあれほど気難しく怖いひとだったにもかかわらず、まわりに人が集まった。半世紀以上も命日には集まり続けていたとか。いまごろはみなさんあちらで、また漱石山房にあつまっているのだろう。なにっ、内田君は「猫」の贋作書いたと。僕にはかなわんだろうが結構結構、ふん、形見の背広もボロボロになるまで着て捨てたと、ふん、まあいいか、みんなそれぞれに名を残すいいしごとしてくれた様だな・・・、こっちでは〆切も無いから胃も痛まんぜ(もっとも、胃など東大医学部に寄附してしまった!それを云ったら・・・)、寺田君、三四郎君、野上弥生子君ちょっとこっちに、その他は勝手に呑んでてくれたまえ。

こうして恩師から可愛がられた記憶で、30年以上の時を経て百蠕萓犬録榛遒噺を並べる「贋作・猫」を結実させた。ねこの恩返し、漱石先生のサロンをもう一度やってみせた・・・猫ちゃんは蘇り、アビちゃんという名前までいただく。これを書かれたのは、大変な戦争をはさんでの戦後、丁度僕が生まれた年、それからでももう60数年過ぎた。百蠕萓犬呂困辰反祐屬砲和腓い覆覿縮を抱いているが、このころには猫には大した注意は払ってもいない。それでもさすがに生き物への観察眼はなかなかだから主題の人間観察は置いといて、ねこジャンルとして猫の集会部分について拾っておこうか。

何十年と小鳥と暮らしていた百蠕萓犬猫を飼ったのは、昭和30年代初頭還暦をかなり過ぎてから例のノラちゃんからだ。水瓶に落ちた子猫の彼を拾い上げたというから因縁めいている。だが「彼ハ猫デアル」からのノラちゃんやクルちゃんの話はちょっとつらい。このころ、ノラちゃん失踪とともに親友の検校こと宮城道雄さんの事故死と、老翁には耐え難い日々が続く。夜中、帰らぬノラちゃんを思うと先生はわんわんと大泣きをする。先生のことをたどればそのむかし、若き(中年か?)内田榮造氏は、数年歳下の秀才芥川龍之介に海軍の教官の口も世話してもらったりなんどか金の無心もしたこともあった。大金もポンと貸すのだが、よろよろと芥川は小銭を両手に握りしめてきて帰りの電車賃までも差し出すのだった。二日後、彼は自ら命を絶つ・・・。百蠕萓検△燭い悗鵑覆海箸个辰りしているが、生涯を通して不思議で上品なユーモアと活力に溢れる。

漱石、芥川、鴎外・・・十代の頃あらかた読んだが後は忙しくてとんとご無沙汰だ。「猫」なぞは中学生のころ、だが面白さが解るのは無理だったね。全集をその辺に転がしておいて安直な遊び道具をシャットアウトでもしないかぎり、いまどきの人、知的な作業と興味への習慣は一生身に付かないのかも知れぬ。一番長生きしてこっちの時代にも近いし、枯れて来た百蠕萓犬里發里呂罎辰り読むにはいい味がして面白そうだ。ひとは百蠕萓犬鯤弦襪箸榔召Δ泙い、酒豪とは云ったのだろうね・・・

うちの「吾輩」はいま二匹、タイダノのり坊氏は、「ネコニオン」の眼にどう映っているのであろうか? たすけはげんき、ダンナはイケナイ・・・ 高みの見物  
そうだ、曽野綾子さんも書いてたんだっけ。ずっと時代下ったから今風にね、「ボクは猫よ 」


 >>>>>>> (以下、贋作吾輩は猫である—内田百 ,より、ほんの一部抜粋。)

・・・

町内の二晏寺の境内の薮で猫の協議会があるから出てくれと云って来た。ふれて来たのは杓子坂の小判堂の若猫である。小判堂は町内では仕舞屋だが、店が下町にあって代代の鰹節問屋だそうである。
少少億劫だけれど、小判堂にことわったわけでもないから、出かけなければなるまい。経験がない癖に、気位ばかり高い屋敷町の猫連にまじって、口熱臭い議論を聞かされるのは、劫を経た吾輩如きには全く迷惑であるがこれも町内のつき合いとあれば止むを得ない。
原典では、向う横町の角に二階建の西洋館を聳やかして威張っている鼻子夫人の金田邸や、新道の二弦琴のお師匠さんの家などを自ら蹈査して記述して置いたが、この贋典になってから、まだ五沙弥家の近隣の様子を紹介する機会がなかった。二晏寺の薮に出かける途中の道順に従って、猫のいる主な家を記す事にする。
概言するに、町内は大厦高楼、甍を連ねた貴族屋敷である。俗にブルジョアなどと云う程度より、もう一つ上の階級に属すると思われる。五沙弥家はその間に伍して、よその屋敷の屏の裏に食っついた物置小屋に類するものである。田舎から作久さんが出て来ても、泊める場所に肝を砕いたりする如きは、町内で五沙弥入道の家一軒ばかりである。

町内で祭礼の神輿を新らしく造る事になり、寄附金はすぐに集まって、吃驚する様な立派なのが出来上がったが、お祭りの当日出かけて行ってそれをかつぐ者がいない。若旦那や若殿が窓の奥で知らん顔をしているばかりだから、止むなく坂下の店屋の多い隣り町から、ふだん出入りの若い衆がやって来て、お義理に神輿をかついで廻った。
近所の小学校にピアノを据えつけたいと云うので寄附が廻って来た。しかし五沙弥家でその書附を見た時は、已に必要以上の額が町内の二三軒の筆で済んでいる。こう云う風に計らったから、御承知置き下さいと云うだけの事であった。


秋から冬にかけて、夜が長くなり、外が暗くて物騒な季節には、町内で特別に頼んだ巡査の詰所が出来る。そこに架設する電話も一本買ってある。そう云う費用も、どこかでとっくに済んでいて、五沙弥の所などに取りに来る事はない。
そういう四隣に囲まれながら、五沙弥は自分は自分と云うえらそうな顔をして、いつも茶の間の柱の前でふくれているのである。町内で五沙弥に構う者もいないから、結句それをいい事にして、吾輩の額ほどもない家の中に、羽目を外したり、取り繕ったりして過ごしているのだが、吾輩は猫として必ずしもそうは行かない。これから薮の中の協議会に出向く事にする。

猫の通路は屏である。がりがりと登った屏の上から、道を隔てた向うに木造の西洋館を望見する。それが五沙弥の家の真前である。宮家から分かれたれっきとした貴族であるが、吉原の花魁の様な源氏名の苗字を名乗って居られる。しかしそれを個々に記すのは憚る事にする。まだ若い癖に、何となく陰気で上品ぶった猫がいる。
屏を伝って行くと、隣は日本銀行の副総裁である。隣と云っても、間に手入れの届いた植え込みの広大な庭を隔てているから、金融界の権威と五沙弥入道の明け暮れとは風場牛である。この家にはアンゴオラ猫がいて、比隣に異彩を放っている。
その次は鍋島公爵の一門である。屋敷の広い事は町内で随一かも知れない。伝書鳩を沢山飼っている。吾輩など気にならぬ事もないが、訓練された伝書鳩は途中へ降りると云う事をしないから、徒に髀肉を歎ずるばかりである。ここには威望自ら備わった老猫がいる。恐らく今日の協議会でも、座長はここの鍋島老が勤めるものと思う。
その向う隣は音楽学校の校長である。官宅であるが、屋敷は余り広くない。混擬土建の洋館で、波斯猫がいる。
官宅の外れが杓子坂であって、坂上に小判堂の本宅がある。
道の向う側にも大きな邸宅が並んでいるが、一一叙説するは煩に堪えない。又猫のいない家を挙げる要もない。大きな門の並んだ半ば辺りに白い塗屏の屋敷がある。長唄の三味線弾きの家元であって、美しい銀猫がいる。


その外にも、まだ猫のいる家はあるが、省略して二晏寺の薮へ急ぐ事にする。或は少し遅れたかも知れない。途途のどこの屏にも、暖かい西日が射している。猫の集会は暗くなってからの方がいいのは勿論であるが、夜はみんな忙しいし、又却って物騒だと云う点も顧慮して、夕方近く明かるい内に開く事になったのである。
屏を伝っている間は気楽であるが、往来を横切る時は八方に気を配る。二晏寺の境内へ這い込むには、幅の広い舗装道路を渡らねばならない。馳け抜ける時間は僅かながら、向う側に辿りついて胸がどきどきする思いである。往来の気配を見澄まして馳け抜け、境内に入って、じめじめした土を蹈んで薮へ這い込む。

已にだいたい顔は揃っている様である。みんなばらばらに竹の根元にうずくまって、薄暗い下陰に爛爛と目を光らしている。出席者は雄猫ばかりである。以前は雌の協議員を交えた事もあったが、季節によっては相談事をそっちのけに雌猫に手を出す雄猫がいたり、それをいい事にじゃれ返して止まりのつかない雌猫もあり、又そうなると黙って見ていられなくて、お互いに背中を高くし、毛を逆立てて、いがみ合う焼餅猫も出て、収拾す可からざる事態に立ち到った事が一再でない。雌雄同権、人間で云えば男女同権で、人間の云い方は矢っ張り男が先きになっている。同列ではなさそうだが、しかし人間の言葉では二つの事を同時に云うわけに行かないし、無理に云おうとすれば、舌を噛むばかりだから、止むを得ないだろう。

猫の雌雄同権による協議会は、右の事情に依り、ほとほと持て余していたのだが、最近になって、またたびの塩漬を盗み喰いして来た雄猫が、町内の猫の安否にかかわる大切な相談事のある席上、無暗に興奮して、お寺の横町の路地の奥から這い出して来たきたならしい婆猫にいどみ掛かり、婆猫もいい心持ちになってじゃれ返している内に、気が入り過ぎて、婆といえども雌なる路地猫の鼻に噛みついたとか、腰に爪を立てたとかで大騒ぎになった事がある。ひとの事に、はたの猫がいきり立って納まりがつかず、もとはと云えば雌猫がいたからであって、またたびを喰って来たにしろ独りで興奮している分なら問題はなかったという所から、爾後は協議会に雌猫を入れない事になって今日に及んでいる。

みんなの集まったところを見渡して、鍋島老が口を切った。

「杓子坂の味噌問屋の事だが、倉の中に仕掛けた猫櫓に町内の黒が掛かったのを御存知か」

「猫櫓って何だ」「どこの黒だ」と云う私語が起こった。

「猫櫓と云うのは罠さ。通り抜けの筒になった細長い箱で、真中にうまそうな餌が置いてある。釣られて喰いに這入ると、下の板を蹈んだ途端に前後の戸がかたんと落ちて、出られなくなるものだ。大した装置ではない。昔からある簡単な仕掛けなのだが、事を知らない猫が引っ掛かったのだ。八番地の黒はこの頃何となくうろうろしてるからな。家がもとは陸軍の大佐だろう。羽振りのいい時は大きな顔をして、おれ達眼中にない様に振舞っていたが、今では半分泥棒猫だね」

「うん、あれはこの頃しけてる」と云う声がした。

「だから猫櫓に掛かる様な事になった。屋敷町の猫として、見っともない話さ。朝になって、家の人が倉へ行ってみると、猫櫓の戸が落ちているから〆たと思った。鼬か貂を捕るつもりだったのだろう。まさか猫を罠に掛けようなどと考えたのではあるまい。猫櫓の戸には,人間が中を覗いて見る為の小さな丸い穴が開けてある。家の人がそこに目を当てて見ると、暗い箱の中で目玉が二つ光っているから、その様子で、余っ程大きな獣だろうと思ったのだね。貂や鼬にしては大き過ぎる様だ。しかし猫だとは思わない。穴から棒を突込んで中を小突き廻すのだそうだ。黒は狭い箱の中で身体を躱す事も出来ないから、何度も腹や腰の辺りを突かれて、苦しくて堪らないから、ふうっ、ふうっと声を立てたんだね。それで、これはおかしい。猫の様な声をするじゃないか、と云う事になって、何しろ大勢その廻りに集まっていたものだから、その中の一人が、うっかり猫櫓の戸を持ち上げたんだ。その隙間から黒は飛び出し、丁度真ん前にしゃがんでいた味噌屋のお神さんの顔に飛び掛かって、目の下を引っ掻いて、頭の上を飛び越えて逃げたと云うのだ。その騒ぎで、お神さんが気絶したから、みんなそっちに気を取られている隙に、黒は逃げ帰る事が出来た」

「まるでライネケ狐のヒンツェだ」と吾輩が独り言を云ったら、鍋島老が聞き咎めた。

「五沙さん、ヒンツェと云うのは何だね」
「そう云う昔噺があるんですよ。吾輩は主人が読んでいたので聞き覚えている」
「みんなの心得になる事なら、話してくれないか」
「それは全く我我として覆轍の戒めとならぬ事もない。それではあらましをお話しよう。
猫のヒンツェが何の考えもなく、ライネケ狐の云うが儘に一緒に出掛けて、ぶらぶらと散歩したのだ。高い塀で囲まれている百姓家の傍を通る時、ライネケは丸でよそ事みたいな口調で、こんな事を云った。
『ここの主人は、一体、人は悪くはないんだけれどね、どう云うつもりか、どこもかしこも閉め切っているので、これには閉口するよ。ついこないだも、この家を訪ねる用事が出来たんだが』
ライネケはそこまで話したけれど、その用事と云うのは、百姓の飼っている雛を盗む仕事であったと云う点は黙っていた。『それだから君、這入って行くには自分で屏に穴をあけて、入口をつくらねばならないと云う始末さ。ところが、そうして一足這入ろうとすると、屏の内側は、足の蹈み所もない程、二十日鼠のやつが一杯、うようよしているじゃないか』
『何、二十日鼠だって』とヒンツェは夢中で叫んだ。『その鼠はどこにいるんだ。ねえ、おい』
『鼠なんかつまらないじゃないか』とライネケは落ちつき払って答えた。『しかし君が見たいと云うなら,この前僕の這い込んだ穴を教えて上げるのは何でもない。そら、ここがその穴だよ』


丁度その穴の内側には、この家の息子のマルチンが、しょっちうライネケに雛を盗まれるので腹を立てて、罠を仕掛けている事をライネケはちゃんと承知していたのだが、ヒンツェに向かっては知らん顔をしていた。
それでヒンツェは何の気なしにその穴から這い込んで行ったが、忽ち顎を締められる様な気がして、目が眩んで、何が何だか解らなくなった。
苦しまぎれに、にゃあにゃあ泣きたてていると、ライネケが穴口から『二十日鼠はどんな塩梅だい。与っ程お気に召したらしいね。しかし、君は随分いい声をしているじゃないか。そんなに歌がうまいとは知らなかった。君の歌を聞いていると、本当に僕は崇拝したくなる』と云い捨ててライネケは自分の家へ帰って行った。

ヒンツェは罠に掛かった儘、ぶら下がっているので、一刻一刻と苦しくなって来るから、夢中になってあばれ出した。その騒ぎを聞きつけて、マルチンが目を覚まして起き上がり、窓から覗いて見ると、何だか黒い物が、屏の内側にぶらぶら動いているので、大声をあげて家の人を起こした。
『お父さん、お母さん、早く早く、狐が捕まったよ』と云うが早いか、自分は棍棒を掴んで飛び出して来た。その後からお父さんが馳け出し、お母さんは提燈をともして、みんなと一緒にやって来た。
みんなが棍棒や熊手を振りかざして、そこの屏の穴の所をぶらぶら跳ね廻っている真黒な物を、ところ構わず殴りつけたので、あわれなヒンツェはその間に片目を潰されてしまった。ヒンツェはもう死にもの狂いで、気が違った様になってあばれていると、そのはずみで不意に罠の縄が切れたものだから、いきなりお父さんの顔に飛び掛かって、滅茶苦茶に噛んだり、引っ掻いたりした。あんまりその勢いがひどかったので、お父さんがその場に気絶してしまったから、今度はその方が大騒ぎになって、お父さんを家の中にかつぎ込んで介抱したが、顔や手に大変な傷をしているので、みんなその手当に気を取られて、ヒンツェの事なんか、もうだれも忘れてしまった。その間にヒンツェは屏を乗り越えて逃げた、とまあ、こう云った話なんだ」


あっち、こっちの竹の根もとに、嘆声が起こった。

「成る程」と鍋島老が思慮深く云った。「そっくりだな。古今東西、軌を一にする教訓だ。我我もよく心得ておかなければならん」
暫く辺りがざわめいていたが、その静まるのを待って、鍋島老が更に語を継いだ。

「八番地の黒と云い、今お話のヒンツェと云い、いずれも食べ物に釣られて招いた悲劇だ。ところが更に恐ろしい事を皆さんのお耳に入れなければならん。已にお聞き及びの猫もいられるかと思うが、この頃急に猫釣りが殖えた」

「猫釣りと申しますと」と長唄師匠の銀猫が聞いた。

「狐を捕る者を狐釣りと云うのだ。猫釣りも同じ事で、つまり猫捕りだ。昼間の内は滅多に来ない。と云うのは、人間の方から云えば泥坊の一つだからな。人目を憚って、多くは夕方暗くなった頃にやって来る様だ。その時分には、我我仲間がどうかすると、道傍を歩いている。そこをねらうのだ。またたびなどでおびき寄せる事もあるだろう。しかし、いきなり袋をかぶせて、つかまえるのが普通の様だ。用心しなければならん。人間同士では、飼い猫を盗む、盗まれると云う事に過ぎんので、単なる泥坊事件だが、我我としては、一命にかかわる重大事だ」


「どうしたら、いいのだろう」と副総裁のアンゴオラ猫が房房した毛を顫わして、不安そうに云った。

「又そのやり方が実に残酷で、猫として口にしたくないが、皆さんの心得の為だから止むを得ない。犬捕りの様に連れて行くのではない。その場でいきなり引き裂いて、くるくると皮を剥いてしまう。赤裸の死骸を道傍に投げ捨て、剥いだ皮を持って行くのだ」

「ああ、いやだ」と長唄師匠の銀猫が云った。

「うっかり垣根も伝われませんね」と宮様の分家の花魁猫が陰気な声で云った。
副総裁はまだ毛の先きで
顫えている。
長唄師匠は竹の根元から一足前に蹈み出して云った。
「漸くの事で世の中が長閑になり、琴三味線や謡もまた昔の様に盛んになりかかった矢先に、何と云う事だろう。人の世の春にそむいて、我我の目の前は真暗だ」

「お師匠さんの云われる通りです」と宮様の分家が相槌を打った。「しかし人間社会が長閑になった様に見えますのも、ほんの上辺ばかりの事では御座いませんでしょうか。古来の優雅な日本音楽が復興いたしまするのは結構な事で御座いますけれど、ついせんだって屋敷の大奥様がおひるねを遊ばしていたのですよ。違い棚の上のラヂオが開け放しになって居りましてね。大奥様が、うとうとと遊ばしているところへ、ラヂオで謡が始まったのです。一声二声聞こえて来たと思うと、途端に大奥様は、がばとお起き遊ばして、いきなりお庭へ降りようと遊ばしたところで、お気づきになりました。後で伺ったのですけれど、謡の声を空襲警報かと勘違い遊ばしたのだそうです。それでお庭の防空壕へいらっしゃるおつもりだったそうです。防空壕なぞはもう何年も前にお潰しになって、降りていらしても、今時そんな物は御座いません。ここで御座いますよ、問題は。ねえお師匠さん」

「面白くない話ですね。それでどうしました」
「それで御持病の動悸が起こりまして、その後が心臓の結滞になりまして,幾日もお苦しみになりました」
「これは我我としても考えなければならなぬ点がある」と鍋島老が又思慮深い口調で云った。「節分から彼岸にかけて、我我は家の外で鳴き交わす機会が多い。裏の庇で鳴いている声を人間が聞き違えて、消防自動車の警笛だと思ったから、火事はどこだと云う騒ぎになった」
「人間は臆病なものだな」とやっと落ちついた副総裁のアンゴオラが云った。
「いや、一口にそうと計りは云われない。人間に取っては、火事もこわいし、空襲もこわかったのだろう。こわい、こわいで間違いを起こし、その為に余計な災厄を招く事がある。我我としても、猫釣りに備えるには、冷静沈着でなければなりませんぞ」と鍋島老が窘めた。

「鍋島さん、結局我我はどう云う心組みでいればいいのでしょう」と長唄師匠が聞いた。
「君んとこの長唄の三味線なんか、よせばいいのだよ」今まで黙っていた校長の波斯猫が、にがにがしそうに云った。
「妙な事を伺うじゃありませんか。長唄の三味線をよして、どうするのです」
「長唄は結構では御座いませんか。謡などよりも賑やかで、俗でありながら優美で庶民的で、これに笛、鼓、太鼓の囃子をおつけ遊ばすと、一層引き立ちまして、全く邦楽の粋で御座います。およし遊ばす事は御座いません」と宮様の分家が肩を持った。
「そうですよね。いろいろな楽器の調子が合って、あの楽の調べの所なんか、何とも云われませんね」と云いながら、長唄の銀猫は顎の附け根で拍子を取る様な変な格好をし出した。
「意味はないよ」と校長の波斯猫が更ににがり切った。「原始音楽だよ。野蛮人のお祭り騒ぎだ。いくら楽器を持ち出しても、ハルモニイはない。拍子も殆んど四拍子の千篇一律で、君が得意そうに云う楽の調子なぞ、丸で桶屋が輪を叩いている様だ」
「ひどい事を云う。あんたは邦楽を侮辱するのか」
「昔は日本も西洋もおんなじだよ」
「いや、そんな事はない。音色と云うものがある。音色に古来の伝統がある、日本固有のこの典雅優麗な味わいが解らなければ、黙っていてもらいたい」
「愚劣、低能、無学、猥雑、君の考えている事は、猫の蓄膿症だよ」

銀猫が腹を立てて、尻っ尾の先まで、ぶるぶると顫え出した。
「僕はよす」
「何をよすのだ」
「今の家を出て行く」
「それがいいのだ。猫として、あの家の粟を食む可きではないのだ」
「違うよ。そんな事ではないんだ。しかし、飼い主の為にいろんな云い掛かりをつけられて侮辱された。出れば文句はあるまい。その上で徹底的に君と争う。君の邦楽に対する蒙を啓かずにはおかない」
「まあまあ」と鍋島老が取りなした。「そんな議論はいい加減にしよう。人間の音楽なぞどうでもいい。時に、何だって五沙さんは、さっきから、にやにやしていなさる。おかしい事でもありますかい」
「何ね、校長さんが楽の調べを、桶屋が輪を叩く様だと云ったもんで、ついおかしくて、いまだにとまらないんでさ」
「どうしてそれがおかしいかね」
「いや、それだけでないので、そら鍋島さん、風が吹くと桶屋が繁盛すると云う噺があるでしょう」
「はてね」
「校長さんの云う事が、それにからまってる様でおかしかったのさ」
「五沙さんは、たちが悪いよ。どう云うのです」
「風が吹くと、大風だよ、大風が吹くと往来に砂埃が立つ。砂埃が人の目には這入って、目病みがふえて、目くらになる。目くらの身過ぎに三味線を習う。三味線の皮にいるから猫を捕る。猫がへった隙に鼠がふえて、お勝手であばれる。おはちや桶をかじって、わるさをするから、桶屋が忙しくなるじゃないか」
「五沙先生は随分飛躍的な論理で片附けられますが、僕なぞはそんな風な運び方はいやです」と急に小判堂の若いのが、いきり立った。「風の埃が人間の目に這入れば、目くらになるとは限らんでしょう。仮に一歩を譲ってそうだとしても、盲人が三味線を習うとは、だれがきめたのです」
今の今まで、いるかいないかわからない位おとなしかった小判堂が、俄に気が立って来たのは、みんなが話し合っている間に薮の中の虫けらでも捕って食べたのかも知れない。
「小判堂君、吾輩が今ここでそうときめるわけではないんだよ。昔からそんな話があると云うに過ぎんのだ」
「いや、それでもさっき云われた事は変です。全然独断です。鼠が桶をかじらずに鰹節をかじったら、どうします。鰹節をかじったら、鰹節問屋が繁盛しますか」と少し嘲弄的に絡んで来た。
「君そんなに興奮するのはよしたまえ。鼠が桶をかじるのは桶を喰う為ではない。鼠はそう云う事をする必要があるのだ。そうしないと歯が伸びて来て役に立たなくなるのだ。だからと云って、鼠がかじるのは歯を磨り減らすためばかりと云うのではないよ。鰹節をかじるのは即ち鰹節を食う為だ。そう云う時の用に立てる為に桶をかじるのだ。解ったか」と云ったが、吾輩自身、若い者相手に一席弁じている内に、話をどこへ持って行こうとしているのか解らなくなってしまった。

「外の点は兎も角として」鍋島老がいい工合に口を出した。「三味線に使うので、猫の皮が必要だと云う事は、我我として実に困る。犬の皮も使うそうだが、矢っ張り猫には及ばないと云うので」
「その点だよ」と校長猫も口を挿んだ。「由来、三味線音楽は我我猫属に取って不倶載天の讎敵である筈だ」
「そう云えばそうなのだ。猫釣りの目的もそこにある。剥いで行った皮は、何も外の用途に充てるのではない。毛皮にするとか、頭巾に仕立てるとか、そんな事はないだろう。みんな三味線の胴に張られるのだ」
長唄師匠は風向きが悪くなったので、
猫斟酌を始めた猫の様に、一足ずつ後じさりをし出した。


吾輩が云った。「先年人間社会が食糧難でその日の食べ物に困り、従って我我を飼って置く余力もなかった事がある。自然、猫の人口も減り、種族保存の上から、前途はどうなるのだろうと暗澹たる思いをした時代がある。若い諸君は御存じないだろう。それで人間が困ったのは三味線の皮だ。猫釣りが来ても、猫がいないんだからね。窮余の策として人間が考え出したのは、絹に何とか加工したものを三味線の胴に張り、皮に近い音を出したのだ。今後ともそう云う物で間に合わしてくれれば、我我は安泰なのだが、一時の思いつきに終わった様だ。今となっては矢張り一刻の油断も出来ない」
「五沙さんは絹張りの三味線を聞かれましたか」
「いや、人間の話しているのを聞いたばかりです。一体、我我が三味線を聞くというのはよろしくない。つい踊り出したりすると、後が面倒な事になるからね」
「鍋島さんに伺いますが」と副総裁のアンゴオラが云った。「僕の家にはピアノが据えてありますけれど、三味線はないので、どう云う物か、まだ見た事がありませんが、そうして皮を張ると云いますと、三味線には毛が生えて居りますか」
「毛は生えてはいないね。毛は綺麗に抜き取って腹の皮を張るんだよ。だから乳の痕があって、四つ乳とも云うんだ。若猫の皮がいいそうで、十分に育ってはいるが、まださかりが附かないと云うところは一番なのだそうだ。なぜと云うに、さかりの附いた猫には、方方に相手の爪の痕が残っていて、皮に張った時にその疵が出るのだそうだ。君や小判堂や宮様の御分家などは、若いから気をつけなければいかんよ」
「特別にねらわれるのでしょうか」と云ったかと思うと、副総裁はもう顫えている。

「尤もそれは引っぺがして見る事なのだから、五沙さんやおれ達だって安泰だと云うわけもない。おいおい、君達はそこで何をしてるんだ」と鍋島老はみんなから少し離れた竹の根元に目を向けて云った。小判堂と宮様の分家が毛を逆立てている。猫釣りが若猫をねらう話などはそっちのけにして、どっちが押さえた虫を争っているらしい。
「そんなのないよ。僕だよ」と小判堂がいきり立った。
「それでは、ふうっ」と宮様の分家が一層毛を立てながら、しかしねちねちした調子で云った。「それでは君は、ねこばばを遊ばすのですか、ふうっ」
「静かにしないか」と校長が威厳を以って云った。「結局猫釣りの対象と云う事になると、どうするのだ。夕方暗くなってから外を出歩かないと云うだけか。それでは不十分だと思う。またそう心得るとしても、しかし是非外出しなければならん場合もある」
「本当にどうしたらいいのでしょう」副総裁がおろおろ声で云った。
長唄師匠もまた前に出て来た。
「猫釣りが来たら、来たという事をみんなに知らせる様にしてはどうだろう」と云った。
「駄目だよ」と校長が簡単に斥けた。「人を見たら猫釣りと思うとは行くまい。どれが猫釣りだか判明しない。解った時は、仮に町内で解ったとすれば、その時は已に町内のだれかが犠牲になっているのだ」

吾輩思うに、この話はどこ迄持って行っても埒はあくまい。こんなに纏まりがつかなくなった今日の協議会に、座長の鍋島老はどう結末をつけるのだろうと疑った時、不意に薮の垣根が、がさがさと鳴ったと思うと、隣り町の境にある羅馬教会の裏の出臼と柄楠と魔雛と云う三匹の猛犬が垣根を破り、鼻面を揃えて、協議会の席へ飛び込んで来た。
あっと云う間もない咄嗟にみんなが八方へ逃げ散った。
副総裁のアンゴオラが一番先に薮から飛び出した様である。
出臼と柄楠と魔雛は恐ろしい唸り声を立てて、そこいらを馳け廻った。
吾輩は、はっとした瞬間に薮の外れまですっ飛んで、丁度目の前にあった柿の木の幹をよじ登り、ここなら安心と思われる枝につかまって、後ろを振り返った。
その間に長唄師匠の銀猫は、薮の縁に生えた三味線草の実を蹴って逃げて行った。校長の波斯猫も周章狼狽して馳け出したのだが、柿の枝から見ていると、薮から出て向うの屏に上がってからは、凡そ何事もなかった様な格好で、いつもの様にのっし、のっしと歩いて行った。
宮様の分家と小判堂はどっちに飛び出したのか解らない。そこいらに影も形も見えないのだから、無事に逃げ延びた事は疑いないのだが、気がかりなのは、鍋島老の安否である。


鍋島老は今日の座長でもあり、又一座の年嵩なので、みんながこの危難を脱するのを見届けると云うつもりがあったかも知れない。少なくとも自分が外の者をおいて、真っ先に逃げ出す事は出来なかったのだろうと思う。その為に逃げ遅れて、出臼と柄楠と魔雛に取り巻かれた。
逃げ場を失い、自分の手近かの竹の節に爪を立てて、つるつるした竿を天辺までよじ登った。そこで竹の葉に身を隠し、目ばかり光らして下を見おろしている。出臼と柄楠と魔雛は根もとからその竹に取り付いて、吠え立てているのだが、せいぜい前脚で背伸びをするだけである。犬に竹竿を登る事は出来ない。だから鍋島老は竹の天辺で持久していればいい。そう思っていると不思議な事が始まった。ブレーメンの音楽師の噺にある趣向で、魔雛が一番下になり、柄楠が魔雛の上に乗り、出臼が柄楠の上に乗って、出臼、柄楠、魔雛が大変な背丈になった。
吾輩はこれを見て恐ろしくなり、愚図愚図してはいられないと感じたから、急いで柿の木から下りて、往来を越え、来る時に伝った屏の上に登って帰って来た。
屏の上から振り返って見ると、薮の上で、丁度鍋島老がよじ登った辺りの竹がゆさゆさと揺れ出したと思ったら、沈みかけた夕日を受けて、影絵の様になった猫の姿が、ふわり、ふわりと空中を泳いで薮の上を離れた。その下から、出臼、柄楠、魔雛の恐ろしい遠吠えが伝わった。見たくない事だったが、鍋島老は宙に浮かんで逃げたらしい。

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私の「漱石」と「龍之介」 (ちくま文庫)
内田 百
筑摩書房


ノラや (中公文庫)
内田 百
中央公論新社
 
  
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昔も今も ー サマセット・モーム

2012-02-10 01:35:37 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ
昔も今も (ちくま文庫)
サマセット・モーム
筑摩書房

このあいだリットン・ストレイチーの書いたフローレンス・ナイチンゲールはなんとか読み切ったが、どうにも疲れ切ったのであった。ナイチンゲール嬢が生まれた地は、たまたまフィレンツェであったから名前がフローレンスになったということはわかった。このお嬢、どうもちょっと怖いお人だったようだとも・・・。フィレンツェ、彼女の生まれた頃から300年遡り、マキアヴェリの生きた時代にいってみるか。

マキアヴェリがお友達という塩野七生女史には随分と教えられることが多かったのだが、十字軍にまでは従軍できず、置いてきぼりの昨今だ。先生わかきころ3、40年前の「チェーザレ・ボルジア・・・」は、ちょっと気取り過ぎの題名はともかく、すばらしい読み物であった。


いらい塩野さんの単行本は十字軍以外は手元にあって、もったいないので繰り返し読んで何かは沈殿して残っているのだが、あらかた忘れてしまった。「わが友マキアヴェッリ」からは、サンカシアーノの家にひっこまざるを得なかったころのマキアヴェリの手紙のことは覚えている。まあ、女史にならって箇条書きにでもする癖がつけば良かったのかしらん・・・

だいたいに「君主論 マキアヴェッリ著/河島英明訳」などは、ひじょうに有益すぎて寝転んで読めるものでもない。なにせ、訳注がマキアヴェッリ氏の本文よりも多いぐらいだ。藤沢先生も名を連ねたマキアヴェッリ全集などは中身といい金額といい手も出ない。そうだ、澤井繁男さんの「マキアヴェッリ、イタリアを憂う」をもう一度読まないと。レオナルド・ダ・ヴィンチは、チェーザレ・ボルジアのところにもいたから、マキアヴェッリとは、フィレンツェのために情報交換をしていたはずだという。うーむ、このときの3人の一瞬の出会いというか、すれ違いというのか、考えてみればタイヘンな同時代人たちであったことよ。そして、あのクロッキーだ。僕は、レオナルドの素描がチェーザレの本当の顔だとおもうのだが。

  Tre vedute di testa barbuta

さて、最近サマセット・モーム「昔も今も Then and Now」の天野隆司氏の名訳を見つけ楽しく読ませてもらった。モームがこれを書いたのが70歳頃というから、大したひとであった。これはぜひ買って読むべきだろうね。英文で簡単に手に入るといいのだが見つけられない、こちらはただで読めるべきだ。新訳は天野さんが言葉を足したりもしたというが、読みやすく楽しい。ということで、モームの「昔も今も」から、どんなんかを脳細胞から揮発しないようにメモってみた。1502年の秋、イーモラに派遣されたマキアヴェッリの役目は、ヴァレンティーノ公の要求する3万6千ドゥカーティ支払いの時間稼ぎと、公の本心を読むこと、それに情報収集と分析、であったが、自分で決められる権限は何一つとして持たされてはいなかった・・・かわいそうなマキアヴェッリ、チェーザレ・ボルジア殿のほうは、なにやら「君主論」や「ディスコルシ」などをしゃべってくれている様な気配、モームも勉強家ですねえ、こういうのも書いたのだ!・・・

(参考)

「わが友マキアヴェッリ 塩野七生著 中央公論社ISBN4-12-001612-9」
「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 塩野七生 新潮社 0093—30961−3162」
「マキアヴェッリ、イタリアを憂う 澤井繁男著 講談社選書メチエ ISBN4-06-258277-5」
「君主論 マキアヴェッリ著/河島英明訳 岩波文庫 ISBN4-00-340031-3」
「マキアヴェッリ語録 塩野七生著 新潮社ISBN4-10-309609-8」

>>>>>> 以下、「昔も今も サマセット・モーム 天野隆司訳 ちくま文庫/筑摩書房 ISBN978-4-480–42838-7」より引用。・・・は、一部省略部分 

・・・・
マキアヴェリは公爵にしたがってシニーガリアに到着していた。ようやく不安な一日が終わった。町のなかはまだ混乱しており、武器をもたずに一人で外を出歩くのは危険だった。避難所のおんぼろ宿からやむなく外に出るときには、かならずピエロと二人の従者を連れていた。酒を食らっていよいよ頭に血が上っているガスコン兵に殺されるなんて,真っ平ごめんである。夜八時に,公爵からお呼びがかかった。これまで謁見したときは、いつも秘書官か教会人、あるいは側近が同席していたが、今夜はおどろいたことに、案内してくれた将校もすぐに退出し、部屋には公爵がひとり椅子にすわっていた。マキアヴェリははじめてヴァレンティーノ公と二人だけでむかい合った。公爵はたいそう元気だった。赤褐色の髪に、きちんとした顎ひげ、つややかな頬に、きらきら光る眼、これまで会見したときよりも、颯爽として美しかった。顔にも、態度にも、凛然たる自信がみなぎっている。たしかに悪辣なスペイン人僧侶の私生児かもしれないが、まさに若々しい国主の風格・気品が感じられた。公爵はいつものように単刀直入、ずばりと問題の核心にふれてきた。

「書記官殿、わたしは、あなたのご主人たちのために仇敵どもを片付けてやった。これは大へんなサービスだよ。そこでシニョリーアに手紙を書いてもらいたい、すぐに歩兵部隊を召集し、これに騎兵もつけてわが軍に派遣せよ、とね。われわれは共同してカステッロか、ペルージアに進撃するんだよ」
「ええっ、ペルージアですか?」
公爵の顔に楽しげな微笑がうかんでいる。
「バリオーニは和平協定の署名を拒否したとき、こんな捨てゼリフを吐いて去ったそうだ。『チェーザレ・ボルジア、ペルージアで待っているぞ。おれの首がほしいなら、しっかり兵をそろえてやってこい』と。そこで、わたしはやつのお招きに与ろうと思うんだ。」
他のやつらも署名なんぞしなけりゃあよかったんだ、とマキアヴェリは思ったが、微笑するだけでがまんした。
「シニョリーアのみなさんがヴィテロッツォをぶっ殺し、オルシーニ一族をぶっ潰そうとしたら、途方もない金がかかったはずだ。しかも、わたしの半分も手際よくいかなかったろう。だから、みなさんは、すこしはわたしに感謝していいと思っている、ちがうかね?」
「閣下、もちろん、シニョリーアは感謝しております」
公爵はまだ唇に笑みをうかべていたが、鋭い眼がマキアヴェリを見すえている。
「それならひとつ、その感謝の意を表わしてもらいたい。みなさんは小指の一本も動かさなかったが、わたしはあなた方に、優に十万デュカートを超える仕事をして差し上げた。支払い義務は文字にこそしていないが、暗黙の了解ができていたはずだ。そろそろお支払いいただけると、たいへん有り難いんだが」
しかしそんな要求を耳にしたら、シニョリーアの連中は髪をつかんで憤慨するだろう。それがよくわかっていたから、マキアヴェリは何もつたえるつもりはなかった。それにうまい逃げ口上ができていた。

「閣下にお知らせいたします。じつはただ今、政府はわたくしの召還を要請しております。わたくしなどより大きな権限をもった重要人物を派遣する必要性を強調しておきました。したがってこの問題に関しては、わたくしの後任者とはるかに実質的な協議ができると思います」
「おっしゃるとおりだ。わたしはあなたの政府の優柔不断や,問題の先送りにはうんざりしている。私の味方になるか、それとも敵になるか、みなさんが決断すべきときは、とうの昔にきている。わたしは今日にもここを去るつもりだったが、いまわたしがいなくなったらどうなる?この町は徹底的な略奪に遭うだろう。アンドレア・ドリアは明日の朝、要塞を明け渡す。それがすんだら、即刻、カステッロとペルージアに進発するつもりだ。そのあとはシエナを始末しようかと思っている」
「しかし、閣下、スランス国王が、ご自分の保護下にある都市の占領をお許しになりますか?」
「まあ、許さんだろうね。わたしも、国王の許しが得られるなんて思ってもいない。それほど愚かじゃないよ。だが、わたしがシエナやペルージアを占領するというのは、何もわたし個人のためじゃないんだ。これはキリスト教会のためなんだ。自分の領地なら、ロマーニャ一国があれば、それでいいと思っている」
マキアヴェリはふっと息をついた。なんという心意気だ!不意にマキアヴェリの心の中に、心ならずも、この若い君主を称賛する感情が、火塊のように、胸の奥から湧きあがった。これほど強烈に、これほど確信をもって、望むものはなんであろうと全力で奪いとろうとしている。
「閣下、あなたが幸運の女神の寵愛を受けられていることは、どなたも疑いません」とマキアヴェリは言った。
「書記官殿、幸運の女神は、いかに好機をつかみとるか、その方法を心得ている者を寵愛される。要塞の指揮官はわたしにしか要塞を明け渡さないと言っていた。それがわたしに有利に働いたが、あなたはあれを幸運な偶然とでも思っておられるのか?」
「いいえ、そのような不当な判断はいたしません。今日までの出来事をつぶさに考えれば、閣下がうまく糸をひかれたことは、わたくしにも想像できます」

公爵は声をあげて笑った。
「書記官殿、わたしはあなたが好きなんだよ。こんなふうに話ができる相手は、そうざらにはいないからね。あなたがいなくなると思うと、ひどく寂しくなってくる」公爵は口をつぐんだ。そしていつまで続くかと思われるくらい長い間,探るようにマキアヴェリの顔を見つめていた。「まったく、あなたがわたしの部下であってくれたら、と思ってしまうよ」
「閣下、お気持ちはうれしく思います。しかしわたくしは共和国に仕えることにしごく満足しております」
「だが、それでどれだけ利益があがるのかな?あなたの受けとる給金はじつに哀れなものだ。やり繰りするのに,友人から借金しなければならんこともあるだろう」
マキアヴェリはその言葉を聞いて、どきんと心臓が高鳴ったが、バルトロメオから借金した件を公爵が知っていたことを思い出した。
「どうも金銭にうとい性質でして」とマキアヴェリはにこやかに笑った。「お恥ずかしい次第ですが、ときおり身分不相応の浪費をしてしまいます」
「だが、わたしに仕えれば、そんな苦労はしなくてもすむと思うよ。可愛い女の気をひくために、気軽に指輪や腕輪を買ってやるのも、けっこう楽しいことじゃないないかね」
「閣下、わたくしは、あまり美徳にこだわらない、やたら金や物をほしがらない、そういう女を相手にして、自分の欲望を満たすことを習慣としております」
「なるほど、それは結構な習慣だ。その欲望をうまくコントロールできるうちはいいだろう。しかい色恋沙汰となると、自分でも思いもよらないことが起こる。日頃はしごく賢明な男が、とんでもないバカをしでかすんだ。貞操堅固な女を好きになったら、どれくらい金がかかるものか、あなたは経験したことがおありだろうか?」
公爵はからかうような眼で、じっとマキアヴェリを見ていた。一瞬、マキアヴェリは疑った。・・・

フィレンツェの一使節の情事などにいちいち構っていられるほど暇な身分ではないだろう。今の公爵には、もっと重要な関心事がごまんとあるのだから。
「そうかもしれません。しかし、閣下、そういう金のかかる快楽は、わたくしの領分ではございません」
公爵は考え込むようにこっちを眺めている。こやつはいったい、どんな類いの男なんだ、とでも自問自答しているんだろうか。何か特別な意図でもあってというより、むしろ面白半分、暇つぶしに、そう、ちょうど控えの間で待たされているときに、眼の前のどこの馬の骨とも知れない男を眺めながら、そいつの用件や職業や、習慣や性格などを想像しているといったところだろうか。
「あなたほど聡明な男が生涯、下級官吏に甘んじて生きるとは、なんとも私の理解を超えているね」と公爵が言った。
「過大にもよらず、過小にもよらず、何事にも中庸であることが叡智の核心である、とアリストテレスに教えられております」
「だが考えられん、あなたには野心というものがないのか?」
「とんでもございません、閣下」とマキアヴェリは、にっこり笑った。「おのれの最善の力をもって共和国に奉仕することこそ、わたくしの野心でございます」
「だが、それこそ、あなたに禁じられていることではないか。共和国体制においては、能力ある者はつねに疑いの眼をもって見られる。だから要職につける者は、同僚の嫉妬の対象にならないぼんくらにかぎる。それが民主主義国家というものだよ。能力抜群の人物ではなく、誰にも、警戒も心配もされないお人好しが統治するんだ。あなたはご存知か、民主主義国家をむしばむ病根がなんであるか?」

公爵はマキアヴェリの顔をじっと見つめた。答えを待っているようだったが、マキアヴェリは何も口にしなかった。
「嫉妬と恐怖だよ。民主国家のケチな官僚どもは同僚を嫉妬する。仲間の誰かが名声を得ようものなら、連中はそいつの足をひっぱって、国家の安全や繁栄を左右するような政策の実行を邪魔してくる。そして、彼らは恐怖に怯える。まわりにいる連中が、どいつもこいつも、隙あらば後釜にすわろうとして、平気で嘘八百、偽計・姦策を弄するからだ。その結果はどうなる?正しいことをやろうとする熱意を燃やすより、過ちを犯すまいとびくびくして、細かいことばかり心配する。犬は仲間を噛まないというが、そのことわざの作者は、民主主義政府の社会で暮らしたことのないやつにちがいない」
マキアヴェリはやはり黙っていた。公爵の言葉が核心をついていることが、わかりすぎるくらいわかっていた。おれのような下級官吏のポストでさえ激烈な競争にさらされているし、おれ自身ライヴァルを蹴落として、この地位を手に入れたんだ。そしていまこの瞬間にも、おれの一挙手一投足を注視しているやつらがいて、こっちがうっかりミスでもしようものなら、たちまち、ご注進と、シニョリーアに飛んでいって、おれの首をとろうとする。公爵が話をつづけている。
「だが、わたしのような君主はちがうね。自分に仕える者をその能力に応じて自由に選んでいる。有力者の鼻息を窺ったり、派閥の力に配慮したりして、ろくに仕事もできない男を要職につける必要もない。仲間同士の争いの上に居るから,連中の足のひっぱり合いを恐れたり、心配したりすることもない。したがって、民主政治の破滅の原因となる凡才偏重から解放されて、能力抜群の男、気力充溢している男、勇猛果敢な男など、多士済々の者たちを見つけて、要職につけることができるんだ。あなたの共和国で国力が衰退しているのも、何も不思議なことじゃない。書記官殿、人を国家の要職につける必要な条件はただ一つ、誰であろうと、その仕事をこなす能力があるかどうか、それだけだよ」
マキアヴェリはかすかに微笑んだ。
「閣下、失礼ながら、君主の寵愛が移ろいやすいことも、周知の事実でございます。王侯君主の方々は、家臣を高い地位につけることもできますが、たちまち一転、奈落の底に突き落とすこともできます」

公爵はくっくっと喉を鳴らして笑った。
「なるほど、レミーロ・デルカのことでも言っているのか。そうとも、君主は褒めると同時に、罰することも知らねばならん。大いに寛大であるとともに、厳しく正義を貫かねばならん。レミーロは大罪を犯した。当然ながら死刑になった。フィレンツェならどうなったかな?やつの死刑に腹をたてる連中もいるだろう、やつの過失で利益を得ていた連中もいて、いろいろ命乞いをするかもしれない。するとシニョリーアのみなさんは決断をためらい、しまいにはフランス国王か、わたしの許へ使節として送り込んでくるんだ」
マキアヴェリは笑い出した。
「閣下、ご安心ください。わたくしの後任者は、清廉潔白、非の打ちどころのない人物です」
「なるほど、するとわたしは、死ぬほど退屈させられるということか。書記官殿、ほんとうだよ、あなたがいなくなると思うと、私はとても寂しくなるんだ」それから突然何か思いついたかのように、ヴァレンティーノ公は温かい眼差しでマキアヴェリを見た。「どうだろう、私の家臣にならないか?あなたの機敏な頭脳と豊かな経験を活かせる仕事をしてもらいたい。給金だって十分以上のものを出すつもりだ」
「閣下、お許しください。閣下にしても、金のために自分の国を裏切るような男を、どうして信頼できるでしょうか?」
「なにも国を裏切れなんて言ってやしない。わたしに仕えることによって、共和国に有利なことだってできる。第二書記局書記官としてよりも、はるかにフィレンツェの役に立てるかもしれん。すでにわたしに仕えているフィレンツェ人がいるが、彼らがそれを後悔しているとは思わんがね」
「メディチ家の主人とともに追放された者たちは、生きるためならなんでもやるでしょう」
「そういう連中だけじゃないぞ。レオナルドやミケランジェロは、わたしの給金をもらうのに、それほど遠慮をしなかったがね」
「あの連中は芸術家です。彼らは手当をくれるパトロンがいるところなら、どこにでも行きます。国民に対して責任を負わない者たちですから」
マキアヴェリを見つめる公爵の眼には、まだ微笑の光が現われている。
「書記官殿、イーモラの近郊にわたしの所領がある。ぶどう園があるし,耕作地も、牧場も森もある。あなたにそこを提供してもいい。あなたがサン・カシアーノにもっているわずかな痩せた土地の十倍の収益が得られるだろう」

イーモラだと?チェーザレはどうして、よりによってあの町のことをもちだすんだ?ふたたびマキアヴェリの頭を疑念がよぎった。・・・
・・・

公爵はほんの一瞬言葉をとめた。
「わたしはロマーニャとウルビーノを確実に支配している。近いうちにカステッロ、ペルージア、そしてシエナも支配下におく。ピサは自分から支配下にはいってきた。ルッカはわたしの言葉ひとつで降伏する。わたしが支配する国々に包囲されたら、フィレンツェ共和国の立場はどうなるだろうか?」
「もちろん危険なものとなりましょう。ただし、フランスとの保護条約が無ければの話です」
マキアヴェリの返答を聞いて,公爵は愉快そうにふふっと笑った。
「書記官殿、あなたに申すまでもないが、条約というものは,両国の共通の利害のためにむすばれる。そして分別のある政府なら、条約の規定がもはや有益でないとなれば、そんな条約などすぐにでも破棄するだろう。もしわたしのフィレンツェ獲得を黙認するかわりに、フランスのヴェネツィア攻撃にわが軍を参加させると言ったらフランス国王はなんて答えるだろうか?」
マキアヴェリの背すじに戦慄が走った。ルイ12世は自分の利益のためなら、平気で名誉を犠牲にする。それは世界じゅうが知っている。マキアヴェリはしばし返答に時間をかけてから,慎重に口を開いた。
「閣下がわずかな代償でフィレンツェを占領できると思われるなら、それは大へんな間違いとなりましょう。われわれは自由を守るために死ぬまで戦います」
「しかし、どうやって戦うつもりかね?フィレンツェ市民は金儲けにいそがしくて、国を防衛する自前の兵士を育成しようなんて思わないだろう。だから、代わりに戦争をしてくれる傭兵隊を雇い入れて、安心して商売に専念しようというんだよ。まったく愚かとしか言いようながない!傭兵どもが戦うのは端金が欲しいからだ。だが、金だけでは、彼らは死んではくれないよ。書記官殿、自力で侵略者に対抗できないなら、そんな国はかならず滅亡する。そして国を守る方法は一つしか無いんだ。十分に訓練された兵士、規律ある、装備のよい軍隊を市民のなかからつくりだすしかないんだ。だが、フィレンツェ市民は、そのために必要な犠牲をはらう用意があるだろうか?わたしは疑問に思うね。みなさんの国は商人が統治している。そして商人の頭には、いつでも金をはらって決済するという発想しかない。この風雲の時代に、どんな屈辱にも甘んじて、破滅の危機が襲ってこようと、平和第一、友愛精神、何事にも穏便に、薄利多売主義でやってゆく。あなたが愛読するリウィウスはこう教えているはずだ。共和国の安全はその構成員たる個々人の高潔な心意気にかかっている、と。ところがフィレンツェ市民は軟弱であり、政府は腐敗・堕落している。破滅して当然ではないか」

マキアヴェリの顔は憂愁の色にくもった。返すべき答えがなかった。公爵はぐさりと急所を突いてきた。
「いまやスペインは統一された。フランスはイギリスを追いはらい、強国になった。もはや群小国家がそれぞれ独立を維持できる時代は過ぎ去った。独りよがりの領主どもが維持する独立は見せかけのものだ。それというのも、その基盤に確かな軍事力がないからだ。彼らは大国の都合によって独立を保持しているにすぎん。今や法王領の国々はわたしの支配下にある。ボローニャもわたしの手に入ってくる。そしてみなさんの国フィレンツェは、この世から消滅する。やがてわたしは,南のナポリ王国から北のミラノ、ヴェネツィアまで、すべての国家の支配者になる。わたしには自前の砲兵隊にくわえて、ヴィテッリの砲兵隊も手に入る。ロマーニャ軍と同様に、力強いイタリア国民軍を作り上げる。フランス国王とわたしでヴェネツィアを分割して所有する」

・・・

突然、公爵は椅子から勢いよく立ち上がると、部屋のなかを歩きはじめた。
「この国を分裂状態にしている根源は、じつはキリスト教会そのものなんだ。教会はイタリアを統一して支配するだけの力がなかったが、一方、他の誰かがその気になると、かならずそれを妨げて来た。しかし、書記官殿、イタリアは国内が統一されないかぎり、繁栄することは出きんのだ」
「その通りです。哀れなわが祖国が蛮人どもの食い物にされているのは、その無数の君主や領主によって支配されてきたからです」
ヴァレンティーノ公は歩みをとめると赤く濡れた唇を嘲笑するかのようにゆがませて、マキアヴェリの顔を覗きこんだ。
「親愛なる書記官殿、その治療法を求めるなら、まずは福音書に眼をむけなければならない。あそこにはこう書かれている。<カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ>とね」公爵の言わんとする意味は明白だった。マキアヴェリは恐れと驚きで息を呑んだ。この男は全キリスト教世界に挑戦状を叩きつけて、恐怖を巻き起こすようなことをやろうとしている。それをなんの驕りや気負いもなく、もの静かに語っている。マキアヴェリはわけもわからずその姿に魅了されてしまった。
「君主は教会の精神的権威を支持すべきである」公爵は淡々と話しつづけた。「なぜなら、そのことによって、民衆が善良にして幸福に生きられるからだ。教会から世俗的権力の重荷を除いてやる以上に、教会に精神的権威を回復させる道はないと思っている。書記殿、そう思われないか?」
マキアヴェリは、このように冷酷に現実を凝視する言葉に、なんと答えてよいかわからなかった。・・・

・・・

「今や機が熟している。気運が高まっている。この事業に参加する者には栄光と功名が、この国の民衆には幸福と繁栄がもたらされるのだ」公爵はそう語りながら、その眼をぎらぎら輝かせ、まるで意志の力で相手を屈服させようとするかのように、マキアヴェリの顔をぐっと睨みつけた。「どうしてためらっているのだ?わたしにしたがうことを拒むイタリア人は、ただの一人もいないのだぞ」
マキアヴェリはチェーザレ・ボルジアを厳粛な眼差しで見つめていたが、やがて大きくため息をついた。

「閣下、わたくしの最大の願望は、われわれを蹂躙し腐敗させている野蛮人どもから、このイタリアを解放することです。われわれの国土を荒廃させ、われわれの女たちを陵辱し、われわれの国民の財産を奪い取る野蛮人どもを追い払うことです。たしかにあなたは、神がこの国を再建させんとして選ばれた人物かも知れません。しかしながら、あなたがわたくしに要求されている代償は、この身を生んだ都市の自由を死滅させる事業に参加させることなのです」
公爵は肩をすくめた。不機嫌そうでもあり、怒っているようでもあった。
「しかし、あなたがいようといまいと、フィレンツェは自由を失うだろう」
「であるならば、閣下、わたくしはフィレンツェとともに滅びるつもりです」
「まるで古代ローマ人のような物の言いようだが、分別ある人間の言葉とはとても思えん」
公爵は尊大に手をふって、会見が終わったことを告げた。・・・

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      Firenze.PalVecchio.  Machiavelli

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フローレンス・ナイチンゲール 第3ー5部  ― Lytton Strachey

2012-01-28 18:06:25 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ

Eminent Victorians − Lytton Strachey  フローレンス・ナイチンゲール嬢について。前回のつづきから第5部の終わり、これでおしまい。天使のようなナースというようなイメージはあろうが、はて、このひとはいったい何者であったか。看護婦でもないし、衛生学者でもなければ、政治家、宗教家でもないようだが、それぞれのところでそれなりの活躍をした。なにをやってもどうも専門家ではないようだ、ならば偉大なるアマチュアであったか。

なんともタイヘンなお人で・・・そうはいっても、あるべき人間像として偶像化し真実らしい伝説をつくるのもまた、人類にとっては大事なことなのだろう。
 

>>>>>>>>(Florence Nightingale  Eminent Victorians.  1918  by Lytton Strachey ( http://www.bartleby.com/189/201.html より のり坊訳。 画像:WIKI-Florence Nightingale  etc.


Florence Nightingale 

第3部 (つづき)

  Florence_Nightingale

恐ろしい危機が今や間近に迫っていた。シドニー・ハーバートは戦時
省の幹から枝葉までについての改革実施に同意していた。花綱で飾られた妨害物、絡み合った無責任さ、うずくまっている偏見、古めかさで融通がきかず硬直した悪習でいっぱいの熱帯のジャングルに撃って出る。これはまさに長年にわたって大臣たちを改革に誘い出しては破滅に追いやっていたことである。
    [ナイチンゲール嬢は言う] 戦時
省というのは非常にのろまで、非常に金がかかり、大臣たちの意図などは全部門から、さらにその下の他の部門それぞれからも無視されるところです。

それは真実だった。変革の噂が聞こえるや古い節骨の反応が、いつもの慣れた槍をもって林立する。その頂点には、ずっとバイソンを闇の外に追いやり続けていたアンドリュー・スミス博士はすでにいなかったが、またまた恐るべき人物、万年次官だったサー・ベンジャミン・ホーズがいた。「ベン・ホーズ」と、ナイチンゲール“内閣”は皮肉っぽくあだ名していたものだが、不都合な要求で困惑させる抜け目なさ、誤った意見の提起元、手短かに言えば泥を突つく公務の技術に長けた至上の司令官として公務員のなかでも驚くべき男であったのだ。ナイチンゲール嬢は言う。「我々の計略は、おそらくベン・ホーズの辞任に行き着くはずです。そしてもう一つの好結果を生むでしょう。」ベン・ホーズ自身は、しかし、まったく明るみの中では見ていない。彼の力でのあらゆる手段で大臣の意向に抵抗しようとする。闘いは長く死にものぐるいであった。

状況が進むにつれて、ナイチンゲール嬢には徐々にこれは何かシドニー・ハーバートに関わる問題ではないかと思えて来た。それは何であったろうか?健康のことだ、彼によれば、仕事の緊張下で崩壊の危険にさらされると決して強くはないのだと。そうはいっても、戦時
省が再編成されようかというときに、病気とはなにごとか?そのうえ彼は公けの生活から完全に引退すると言い始めたのだ。相談された医師たちは、すべてに必要なのは休養だと言明する。休養!!彼女は深刻な懸念を抱くようになる。最後の瞬間になって、勝利の王冠の花輪が彼女の手からひったくられるなんて、そんなこと有るの?彼女は医者たちの埒外に置かれはしない。彼らが言うことはナンセンス。必要なのは休養ではなく、戦時省の改革なのだ。そして加えて、死に直面している時でさえ人はやれるものだということを、自分の場合からして非常によく知っていたのだ。情熱的に、熱烈に忠告する。ゴールはもうすぐ、もうほんの少し。彼はもはや引き返せなかった!いずれにせよ、ナイチンゲール嬢には抵抗することができないのだ。妥協がなされた。とても不本意ながら、彼は上院の尊厳のため下院の混乱を収拾し、戦時省に留まった。彼女は喜んだ。「もっと闘いなさい、最善を尽して、最後まで。」彼女は言った。 20

数ヵ月のあいだ実に闘いは続いた。彼にのしかかった重圧はおそらく
彼女が知る以上に大きかった。省内の闘いに加えて、ベン・ホーズなどを上回る恐るべき敵対者、内閣のなかではグラッドストーン氏との果てしない闘いに直面しなければならなかったのだ,見積もりを超えて。健康状態はますます悪くなる。失神発作に襲われ、ブランデーのがぶ飲みによってようやく自分を保つ事が出来る日が幾分かあるぐらいになってしまう。ナイチンゲール嬢は激励と訓戒、熱意と自分の例でもって前方に拍車をかける。とうとう彼の精神は身体と同様に沈み始めた。もはや希望は無く、望んでもおらず、役には立たず、すべて無駄だった、全くどうすることも出来なかった。破綻した。追い込まれたほんとうに恐ろしい瞬間が来た。もはや戦時省を改革することは決して出来ない。だがまだ恐ろしい瞬間が背後に横たわっている。彼はナイチンゲール嬢のところに行き、自分は失敗し、もうだめだと告げねばならないのだ。 21


祝福は慈悲深い!なんと奇妙で皮肉な予言をアルバート公子は素直な心から、そのモットーをクリミアのブローチに選んだことだろうか?悲しいかな、言葉には二重の戒めが込められていた!彼女がついに事実を理解し救い難いことを知ったとき、旧友に向けたのは慈悲ではなかった。

        [彼女は叫んだ]うちひしがれた! あなたは単にゲームを捨てているのがわからないの?手のうちに全部の勝カードがあるのに!そしてこれほど高貴なゲームなのに!シドニー・ハーバートはうちひしがれた!ベン・ホーズに殴られた!ひどい不名誉だ・・・。
   [最後に完全な怒りを吐き出す]・・・スクタリの病院よりもひどい不名誉。  22

彼は彼女の前から身を引く。温泉に引きこもり健康の回復を無駄に期待するが絶望しイングランド・ウィルトンに戻る。夏の日差しの中に輝き立つ威厳のある家、サー・フィリップ・シドニーへ日陰を貸す大きな杉の間で、すべてが親しく愛する美の出没、それぞれが「あたかも人であるかのようにしている。ウィルトンで、彼は死んだ。聖体を受けた後、完璧に冷静になっていてその後ほぼ無意識だが、唇は動いているように見られた。身の廻りの者は体をかがめたときにちょうど聞こえた。 「哀れなフローレンス!哀れなフローレンス!・・・私たちの共同作業は・・・終わっていない・・・やろうとしたのに・・・」もう聞こえなかった。 23

強力な精神の前進ラッシュが弱いものを破滅に追いやるときには、道徳的な判断の決まり文句などは無い方がましだ。ナイチンゲール嬢の容赦なさが小さければ、シドニー・ハーバートは死ぬことがなかっただろう。しかし、その後の彼女はナイチンゲール嬢ではなかったであろう。生み出された力は破壊力である。それは彼女の悪魔の責任だ。致命的なニュースが達したとき彼女は激怒で克服した。嫌悪の感情のなかで死んだ人間の記憶の礼拝を行う。彼女の手によって壊された安直な道具を、これ以降「ご主人」と呼ぶ。
そうして、ほぼおなじ頃には別の衝撃も落ちてきた。シドニー・ハーバートとは大きく違うが、アーサークラフも仕事疲れですり減って死んだ。彼女の荷物をもう結ぶことはない。さらに災難は続く。忠実なマイおばさんは、確かに死にはしなかったが何か悪いことをしたのかナイチンゲール嬢のもとを去った。歳を取り、自身の家族に緊密なより大事な義務を感じたのだった。これを姪はほとんど許すことができなかった。実にひどい手紙のなかで、信仰心のなさ、思いやりの欠如、愚かさ、女性の愚かさを並べたて、あてにならないと激情的な罵倒をふり注いだ。

彼女の教義にはそれらの間に確固たるものは無かった。彼女は学ぶ方法を学んでいる人appris à apprendreを知らなかった。女性の秘書は使うことすらしない。「彼女たちは、閣僚の名前など知らないし、司教がいる教会といないところの違いもわからない。」自己犠牲の精神に関しては、シドニー・ハーバートとアーサークラフは男性で、実に献身を示していたから、これは善し。だが女性ときたら!

彼女は三つの未亡人の帽子を「おしるし」として掲げるだろう。最初の二つはクラフと「ご主人」のものだが、「一番大きい未亡人の帽子」はマイおばさんのである。怒リをかうに充分だ。必要なときに見捨てられた。結局は彼女は、男性さえ完全無欠だとどれほど確信出来たのだろうか?サザーランド博士はいつも無器用である。おそらく、彼さえもこの日々のいつかで逃げ出そうと思っていたのではないか?彼女が一瞥すると彼は震えて靴をはけない。だめだ! 彼女は冷たくにやりとして、ずっとサザーランド博士を使いつづける。そうしていつも自分には仕事があるとそのことだけを思い浮かべるのだ。 24



第4部

シドニー・ハーバートの死は、最終的に戦時省の改革というナイチンゲール嬢の夢に終止符を打つ。いっとき失望の最初の苦しみの中で、彼女は乱暴に“わら”を捕まえようとしたことはある。シドニー・ハーバートがしていた仕事の労をとってくれるようグラッドストーン氏に書き送ったのだ。グラッドストーン氏からは謹んで葬儀には出させていただくとの答えだった。1

国家の後継大臣たちは、改革の達成部分を取り消すよう尽力したが、全部は元に戻すことはできなかった。10年以上(1862年〜1872年)ナイチンゲール嬢は戦時省に強力な影響力を保ち続けたからだ。その後は軍との直接的なつながりは終わりを迎え、エネルギーは一般的な対象に向かい始めた。

彼女の仕事のうちでも病院の改革は大きな比重を占めると考えられる。病室と作業場の状況の改善を成し遂げ、最も顕著な論文の一つも1909年の救貧法委員会の勧告を先んじたものであった。イニシアチブ、制御、責任、闘いのすべてが込められた看護婦の訓練校は、普通の活力で少なくとも二つの命の努力すべてを吸収したゆえにそれ自体で十分なものだ。同時にインド軍の衛生委員会で始まったインドとのつながりの仕事は広がり、多くの方向に分岐してゆく。彼女の触手はインド省にまで達し、さらにその滑りやすい高い場所に支配力を確立することに成功した。長年にわたり英国を離れる前にナイチンゲール嬢を訪問することが新任総督の絶対条件だった。2

かなりためらった後で彼女はサウスストリートに小さな家をかまえ、残りの人生をそこで送る。その人生はとても長いもので、いったん死にかけた女性だが91歳にまで達したのだった。体調不良は徐々に治まり極端な危険をともなう危機はあまり頻繁にはならなくなりとうとうすべて消えた。肢体の不自由さは残ったままだったが、妙な不自由さであって階下に降りられないほど弱っていても殆どの閣僚よりもはるかにきつい仕事をするのである。病気がどんなものであるにせよ不便なものではない。引きこもりもあった。比べようもない引きこもりがナイチンゲール嬢の人生の原動力とさえ言えるかもしれない。サウスストリートの小さな二階の部屋のソファに横たわって、神話の神秘的でロマンチックさをもって世の中を支配する女性の強い生命力と結びつける。彼女の生涯は伝説であって自分でもそれをわかっていた。人に見えないことを基本に専制支配をする東方の皇帝のように、世に知られずにしかし名声は伴う満足で力を持つ喜びを味うのだ。

病気という手を使うのは、宮殿の儀式よりも男性の目に対するバリアとしては、効果が無いわけでもないことを知る。偉大な政治家や著名な将軍は会見を請うしかなかったし、外国から来た賞賛すべき王女たちは彼女の都合に合わせて会うかまたはまったく会えなかった。いつも死にかけているようでは、階下の居間のサザーランド博士の上にずっと居る以上の望みはもてない。不屈の弟子のほうは実に、見捨てることはなかった。落ち着かず休みなしでも彼はふんばる。「不治の思考停止」彼女からはそう名づけられたが、最後まで奉仕を続けた。一度だけ本当に休暇を取ろうとしたが呼び戻されたから、もうこの企ては繰り返せない。いつも階下に居なければならないのだった。そこに座っていて、仕事の取引をし、信書に答え、訪問者と会見し、階上の見えない権力者と無数の書き付けを交わす。時々ナイチンゲール嬢から訪問者の誰それと会ってもいいとの言葉が階下に降りてくる。幸運なお方は、上に案内されて陰った寝室のなかで震え、むろんそのあとの会見を決して忘れることは出来なかった。

非常にまれにおそらく年に一、二回だが、至上の秘密だから誰にも知られなかったが、ナイチンゲール嬢は公園内のドライブに出かけた。知る人の無い、生ける伝説は一瞬だけ人々の凝視の前にさらされる。だが予防策が必要であった。なんらかの公の催しの時には彼女が居るとの噂が広まって、女性たちの群れがナイチンゲール嬢のあとを追ったことがあった。押し合いながら熱烈に請い願う。「ショールに触れさせて」「腕をなでさして!」これが人々の心の中にある奇妙な憧れだった。

背後にはそのような
広大な力が横たわっている。彼女は望めば使えたはずだ。しかし決して使わないほうを選んだ。時にはそれを暗示しまたは脅かすことも出来る、一言によって一瞥によって、バイソンの頭上にダモクレスの剣のバランスを取ることも。小さな階上の部屋で会見したある燃えない大臣、説得できない総督を思い出すのだろう。彼女はただの病気の女性かなにかにすぎない、窓際に行ってハンカチを振って・・・続いて起きる恐ろしいことに。それで十分であった。人は理解する。神話はそこにある。明白な、尊大な、わかりにくさ。そして、それは最後まで続いた。 3


政治家や総督たちが背後に居て呼び出され、自分での百もの手ずるを持ち、足元には強大な田舎の地盤があり、外交政府からは躍起になって病院建設や看護婦育成の指導を求められる、これでも彼女はまだやることが十分ではないと感じるのだった。もっと、もっと世の中を征服したいとため息をつく。自分を省みると、なにが残っているだろう?もちろん!哲学!あとは、行動の世界、思想の世界。英国陸軍の健康状態を正常化した後は、今や人類の宗教上の信念のために同じく善い奉仕をしたいのだ。後悔とともに、長いあいだに気づいていた。神の職人の間で自由思想に向かう傾向が増していることを、全て驚くことではなく悔恨なのだ。キリスト教の現在の教育は、探し求めるのも悲しいほどだ。いや、キリスト教自体欠陥がなかったわけではない。自分はこれらの誤りを正し教会の過ちを直さねば。キリスト教がまさに間違っているところを指摘し事態の事実が本当になにかを職人に説明しなければ。クリミアへの出発の前からこの仕事を始めていた、そして今、他の労苦をはさんでそれを完了した。彼女の「英国の神の職人の間で真実の求める探求者の思考のための提言」(1860)は、堂々たる3巻のコースで複雑さを解明する。これまで不思議なことに解明されていなかった問題、神への信仰、創造の計画、悪の起源、将来の生活、必要性と自由意志、法律、および道徳の性質について。悪の起源のほうは、特にナイチンゲール嬢に難問を果たしてはいない。

彼女は論評する、「全能の正義者が孤独な存在のなかで満足を見つけようとは我々は想像することはできない。」唯一の残された疑問は、「神が作りたもうたことを人間はどう考えるべきか?」さて、神は完璧な人間を作成することができないが、「本質的に完全性は一つだけ、なのだから」神がそうするとすれば、自分自身に与えるだろう。したがって結論は明らだ。彼は不完全な人間を作るしかない。

全能の正義者は、孤独な存在の耐えられない行き詰まりに直面して、まさに事態の性質によって、スクタリの病院の創造に自分が結ばれるのを見たのだ。この論議が神職人たちを満足させたかどうかは、本がごく少数が私的な関係用に複写印刷されたため、解明できない。コピー一つは非常に丁重な手紙でそれを知ったミル氏に送られた。しかしながら彼はナイチンゲール嬢のいう神の存在の証拠に全面的に確信は持てなかったことを告白せざるを得なかった。ナイチンゲール嬢は驚き悔しがった。ミル氏のことは良く思っていたのに、これで確実に神の存在の証拠はほとんど改良することができない。彼女は指摘する「法は立法者を意味する。」今や宇宙は法則だらけ、重力の法則、中流除外法、および他の多くが。従って宇宙は立法者を有する。もしそれに満足しないならばミル氏は何に満足するのだろうか? 4

おそらくミル氏は、議論が論理的帰結にいきつかないのかを聞いたのかもしれない。明らかに、我々は人間の機関のアナロジーを信じるならば、法は実際問題として立法者によっては施行されず議会法に委ねられることを銘記すべきだろう。しかしナイチンゲール嬢は公的な生活のすべての経験において、神は立憲君主制ではなかろうとの疑問を考えつづけた。 5

さらに彼女の神の概念についていえば、確かに正統ではなかった。彼女は神を見せかけの衛生技術者に感じるもののごとくに対する。彼女の考察の一部においては神格と下水溝との間にほとんど区別が無いようである。人がこれらのページをひとつづつめくるとき、ナイチンゲール嬢はその手中にあまりにも全能の神を持ちすぎる、ひとが注意深くないときは彼女は過労で彼を死なす、という印象をいだくものだ。 6

そうして唐突に、形而上学の論考から枝分かれした一般論の真っ只中で予期しない展開がある。読者は、特別な個人的で強烈な経験とともに、吹き込まれた何か上流社会の女性の強い病原性の毒舌にすぐさま引き込まれる。高度な論議と神職のことと同じく忘れ難いのは、辛辣な人物がびっしりと百ページを通じて、イプセンやサミュエル・バトラーの精神をもって、家庭生活の偽りや結婚の愚かさ、慣行の空虚さについてののしり続けていることだ。親密な怒りに震える激しいペンは、裕福な家庭での未婚女子の恐ろしい運命を痛烈な文章で表わす。それは心の慟哭cri du cœurだが、つづいてまた唐突に、全能の正義者の性質をもって神職への教示にもう一度立ち返る。 7

彼女の心は、確かに、抽象的な哲学の一貫した体系を築くよりも、実生活での具体的でいやな果実を解明するほうに限定された。法則への尊重にもかかわらず、一般化には決して気安くはなかった。このために人生の偉大な功績として病気の科学的な治療に与えた計り知れない勢いはあるが、科学的方法自体の真の理解は彼女の精神とはかけ離れたものだ。行動を旨とする偉人たちのように、おそらくすべてが単に経験主義的である。自分が見たものを信じそれに応じて行動する。そしてそれ以上には踏み込まない。スクタリでは新鮮な空気と光が、対処しなければならなかった病気の予防に効果的な役割を果たすことを発見した、それで十分だった、それ以上は探求しない。その事実に横たわっている一般的な法則が何かについて、それが何であれ、考慮することをしない。パスツールやリスターの発見後の年月でも「ばい菌オタク」と呼んで笑ったものだ。「感染」などということはありえない、見たことがなかった、従ってそれは存在しない。しかし新鮮な空気の良い効果は知っていたので、それについては疑いの余地はない。したがって患者の寝室はよく換気することが必須なのだと。

これが彼女の教則だが、密閉された窓だった当時では非常に貴重であった。だがそれは純粋に経験的教則でしたがっていくつかの不幸な結果につながる。例えばインドにおけるの彼女の影響力が最高潮だったころに、病院の窓は常に開いておくべきとの命令を出した。暑い日に開いている窓が何を意味するかを知る当局は抗議したが無駄で、ナイチンゲール嬢は疑ぐり深かった。灼熱の気候は何も知らないが新鮮な空気の価値なら個人的な経験から知っている。専門家はナンセンスを言っている、窓は一年中開け放しておくべきだ。インドのすべての医者から大きな抗議があったが彼女は頑固でまもなく恐ろしい命令が実行に移されそうだった。だが、ローレンス卿は総督であるから問題に対し決定する十分な権限がある。ナイチンゲール嬢に親しく自分の決断が彼女の意に反しているとしても通さねばならないと告げる。彼女はそれを受けてゆずった、いやいやながら納得もできずに。ただローレンス卿の予想外の弱さに困惑しただけだ。疑問の余地なく、彼女が今に時代に生きその経験がコレラ症例群のスクタリではなくパナマでの黄熱症のなかにあったとしたら、新鮮空気オタクめとののしっているだろう。彼女が生涯もっていた病気に対する効果的な方法といえば、蚊の撲滅だけであった。 8 

  Florence_Nightingale_1887

だが彼女の心のなかには、
現実的なたいへんな思い込みと実現を超える奇異な反動という神秘主義と懐疑への不思議な雰囲気がある。時に、早い時刻から眠れずに横たわって長く奇妙な葛藤の瞑想に落ちいり、ペンを握るや魂の告白を書き留める。クリミア以前の日々の病的な願望がもう一度やって来て、自分を試し自己批判し自分から降伏するような思いを何ページにも埋め尽くすのであった。「おお、父よ、私は甘んじて受けます。自分自身をやめ、私の心すべてを汝の手に委ねることを・・・。それがいかに虚しく、無為ななかでの虚無にせよ、神ではなく男性どもの思考のなかに生きてきて,何という空しさ!」孤独だった、惨めだった。 「この恐ろしい二十年を通じて、哀れな看護婦にさえ完璧をもたらす神とともに働く信念に支えられていることをお知りのはずです。」だが、とどのつまり、結果はどうなのか?彼女は無益な召使いだったのではあるまいか?ある夜突然目を覚ますと薄暗い夜光灯のなかで壁にうつる陰気な影を見た。過去が彼女を引き戻す。「私はかつてクリミアの高みに立っていたあのひとですか?」荒々しく訊ねる。「『ランプを持った貴婦人は立っているべきです・・・。』ランプは私だけに、私のとんでもない難破船を見せるのです。」 9

 そうして神秘作家の著作とジャウエット氏との文通に慰めを求める。このベイリオルのマスターは長年にわたり彼女の精神的なアドバイザーを務めた。宗教と哲学の問題に関して一連の膨大な手紙で一緒に議論し、彼自身がまた世界的な聖職者なのだが、如才ない共感をもってその主題の彼女の著作を批評した。ときにはさらに自身の独特の上品さを彼女の反抗的な性質に注ぎ込もうとまでしたのだった。 「私は時々思う。あなたの仕事がどのように行なわれるべきか真剣に考えるべきだ。エネルギーを損なうことなく穏やかな精神で。私は過去は責めない・・・。神の平和が未来に来ることを望む。」「政府のお役所との闘争」に時間を費やすことをやめて、文学的な仕事を取り上げることを勧めた。フレイザーの雑誌のエッセイのシリーズでは「神の完璧性の著述を仕上げるように」と促した。彼女はそのようにした。

出来上がりがフルード氏に届けられた。この第2エッセイについて彼はいう。「最初のものよりさらに豊穣なものになっている。何と言ったら良いか、無秩序な知識でこの論文の効果がなんと衛生的なことか。」カーライル氏は、これまた別な言葉で言及する。山のうえで迷える子羊がメーメーと泣きごとを言っているのが残念ながらナイチンゲール嬢にも繰り返えされた。」ジャウエット氏の人の良さは平和を保つために必要だった。 14枚もの手紙で、彼は神秘主義思想の議論での痛みを伴う話題から彼女の注意をそらす。ベイリオルのマスターは言う。「私はわからない。なぜ活動的な人生が、受動的な人生のようなものになってはいけないのか。」そして、「人間の性格の可能性は、これまで現われたものよりもはるかにおおく存在しよう。」と付け加えた。彼女は青鉛筆でそれらにアンダーラインを引き、そのような感情が役に立つと知った。

お返しに彼女は、この友人が取り組んでいたプラトンの対話偏の翻訳第2版の大部分、詳細な長い一連の注釈を手伝った。徐々に関心は個人的な部分に向く。真夜中には決して仕事をするなと言い彼は従う。それから、「主たる神、裁き主の神、父なる神、友なる神」の題目のもとに詩篇から選択して、大学のチャペルの日々の礼拝に特別な形式を造るのを手伝った。 だがこの企ては実現されない。オックスフォードの司教はサー・トラバーズ・トウィスのアドバイスによって、法的権限を行使して変更を認めなかったのだ。 10

 関係は親密になる。 「詩篇、19篇と23篇の精神が私たちの人生に結びつくべきだ。」ジャウエット氏は言う。とうとう彼女はかわった好意を示すよう頼んだ。自分の宗教観から何を知リたいのか、ロンドンに来て聖餐を管理してくださいな?彼は躊躇しなかった。その後常にその機会を人生の厳粛なイベントとしてみなすと宣言した。彼は尽した、彼女への感情のほんとうの性質は明らかにはならないのに。彼女の気持ちはいろいろ混じり合ったものだった。はじめは「偉大で善良な人、真の聖者、ジャウエット氏」だったが、時が経つにつれ、性質のとげとげしさが自分自身を主張しすこし苦い胆汁が香油と混ざり合いになって行く。自分が受け取る以上に共感を与えていると感じる。彼と会話しても疲れて悩まされる。ある日、彼女の口は彼にこんな言葉を吐き出すのを抑えられなかった。「あなたはここに来ます,お話をします。まるで、私が誰か別の人みたいに。」11
 

第5部

一時期、彼女はセントトーマス病院の患者として、引退後の人生を終わろうとほとんど決心する。しかしジャウエット氏の説得によって気持ちを変えた。45年間サウスストリートに住まい、そしてサウスストリートで亡くなった。老いが近づくにつれ公的な世界での影響力は徐々に減少してくるものの、彼女の活動は以前と変わらず強く広範囲に及んでいる。病院の建設が予定されるとき、衛生改革の骨子が議論されるとき、戦争が勃発した
とき、彼女はまだまだ全ヨーロッパのアドバイザーであった。その特徴的な自信でもって、メイフェアの寝室からインドの福祉までを注視していた。さらに不屈の熱意でおそらく心のより近くにあってなにより自分自身にかなう仕事、看護婦の教育を押し進める。深い鬱のときに、自分の大きな成果がその光沢を失うように思えるとき、看護婦たちのことを考えると心が安らぐのであった。彼女は思う、神のやりかたは、実に不思議なものだ。 「クリミアでは私は、なんと役立たずだったことか、だけど,神は看護婦の教育を取り上げさせてくれた。」 1



 その他の時ではとても満足していたものだ。振り返ってみれば、幼少時からのとてつもない変化に驚かされる。病気治療のすべてに関して、公共および家庭内の健康の考え方すべてに関して、これらの変革において自分が役割を果たしたことを知っていた。インドでの彼女の崇拝者の一人アガカーンが訪れる。換気、排水、あらゆる衛生の仕事、病院の管理に関して、彼女は生涯見て来た素晴らしい進歩について長々と論じた。しばし沈黙があった。やがてアガカーンは尋ねた。「あなたは自分が向上していると思いますか?」彼女はあっけにとられた。「"向上"とはどういう意味ですか?」彼は、答えた。「より、神を信じることです。」彼が異なった神の観方を持っていることを知る。 「とても面白い人。」会見の後で書き留めた。「しかし、彼に衛生を教えることができなかった。」 2

老年期が実際に来たときに、何か奇妙なことが起きた。非常に辛抱強く待ち受けていた運命がナイチンゲール嬢に奇妙なトリックを演じたのだ。長い人生での慈愛と公共精神は、その苦味によってのみ同じものだ。彼女の美徳は頑固さのなかに潜む。唇に苦い笑みを浮かべて惜しみなく役立つことを注ぎ出していた。そして今、皮肉な歳月は誇り高き女性に罰をもたらす。これまで生きて来たように死ぬべきではない。辛辣さはなくならねばならない。柔和になるべきだ。コンプライアンスと自己満足で再生されねばならない。変化は徐々に来たが最後にそれは間違いようの無いものであった。シドニー・ハーバートを死に追いやった恐ろしい司令官に、ジャウエット氏はホメロス[ギリシャ] の言葉をあてはめた、荒れ狂う渇望。今は感謝で小さな賛辞を受け入れ、そして若い女の子との心からの友達にも浸れる。娘時代の罪がちりばめられた古典的な概論「看護の覚え書き」、これはスウィフトの復讐に燃えるおもむきで詳細にとげとげしく書かれたものだったが、この著者はいまや可愛がり面倒を見ているものへの思いやりに満ちた「看護婦見習いたちへ」の執筆に長い時間を過ごす。同時に相通じるように彼女の肉体的な体型に変化が現れた。薄く角張っていた傲慢な目と辛辣な口が消えてしまって、一日中笑顔の太った丸みを帯びた老婦人の巨大な形が彼女のものだった。その後、何か他のものが見えて来た。


   Florence_Nightingale_1906

スクタリで鋼のように堅くなった脳は文字通り柔らかくなった。老衰はすすむ、 ますます愛想のよい老齢に。終わりに向かって、意識自体はバラ色の霞で消失し、無に溶けていった。死のちょうど3年前(1907)87歳の時に、当局の担当部はフローレンス・ナイチンゲールの公的な名誉をたたえる時が来たとみなし、彼女はメリット勲章を授けられた。他の顕著な名前サー・ローレンス・アルマ・タデマとサー・エドワード・エルガーロールが含まれている勲章は、タイトルが示すように顕著な功績で評価される。ナイチンゲール嬢の代理人が受けとり、彼女の名前は多くの年を経過した後にふたたびマスコミに登場する。あちこちから祝賀の言葉が殺到した。古代の神話が最後に蘇ったような世間一般の熱狂があった。賛美の中には彼女に思いを表現する機会を得たドイツ皇帝のものがある。ドイツの大使は書く。「陛下はロムジーの近くあなたの旧宅の美しい近所で楽しい滞在中でしたが、尊敬の印としてお花をお贈りするようとのことでした。」王室の使いによってメリット勲章はサウスストリートに持って来られて贈呈の小さな儀式があった。サー・ダグラス・ドーソンは短いスピーチの後に進み出てナイチンゲール嬢に勲章を手渡した。枕に支えられ、彼女はぼんやりとなんらかの賛辞が払わされていることを認識した。「ご親切に、ほんとうにご親切に」彼女はつぶやいた。皮肉ではなかった。

 

 ( おわり )



 

Lytton Strachey

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Eminent Victorians.

Florence Nightingale  

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(1918  by Lytton Strachey)


日本語訳 のり坊:佐竹則和  2012/1/28

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             目 次



 
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(ref.) Bibliography

Sir E. Cook. Life of Florence Nightingale.

A. W. Kinglake. The Invasion of the Crimea.

Lord Sidney Godolphin Obsorne. Scutari and its Hospitals.

S. M. Mitra. Life of Sir John Hall.

Lord Stanmore. Sidney Herbert.

Sir G. Douglas. The Panmure Papers.

Sir H. Maxwell. Life and Letters of the Fourth Earl of Clarendon.

E. Abbot and L. Campbell. Life and Letters of Benjamin Jowett.

A. H. Clough. Poems and Memoir.

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フローレンス・ナイチンゲール 第2ー3部  ― Lytton Strachey

2012-01-21 23:18:58 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ

Eminent Victorians − Lytton Strachey  ビクトリア朝時代の傑出した人たちとでもいうのかな、ストレイチー氏は4人のことを書いてくれているが、抜きん出ていたお人?、それとも奇人変人?それはともかくフローレンス・ナイチンゲール嬢について。前回のつづきで第2部の終わりあたりから第3部の終わり近くまで。

さてナイチンゲール嬢は、彼女の人生の一代エポック、伝説の元になったクリミア戦争最前線での大活躍が一段落したようなところから物語は続いてゆくようだ。ビクトリア女王様といい、ナイチンゲール嬢といい、病弱そうでタイヘンに見える割には、どちらもそれなりの長寿を全うされたから体力はあった。それよりなによりなかなかに向こう気は強かった鉄の女、男どもをきりきり舞いさせて、使っているではないか。はて、彼女の場合は、これからどんなことが人生で待ち受けていたのであろうか、ナイチンゲールの止まり木はいったいどこに?・・・

>>>>>>>>(Florence Nightingale  Eminent Victorians.  1918  by Lytton Strachey ( http://www.bartleby.com/189/201.html より のり坊訳。 画像:WIKI-Florence Nightingale  etc.


Florence Nightingale 

第2部 (つづき)

この幸せな瞬間は、医療の専門家たちにくすぶっていた敵意が炎のように燃え上がった時に、ほとんど来たようだ。ホール博士の労苦はK.C.Bによって報われた。これはナイチンゲール嬢がシドニー・ハーバートへの手紙に書いたように、「クリミア埋葬の騎士 Knight of the Crimean Burial-grounds」を意味すると思われるが、その名誉たるものは彼の頭を混乱させていた。彼はサー・ジョンなのだ、もはや阻止されまい。ちがごろ紛争がナイチンゲール嬢とクリミアの病院の看護婦の一部との間に生じて、宗教上の不和の噂から状況は悪化している。クリミアの看護婦たちはローマンカトリック教徒だったが、スクタリでの多くのものにはピュージー博士の教義は遺憾とする傾向が見て取れた。ナイチンゲール嬢はこれら宗派の違いに決して邪魔は入れなかったが、陸軍の全看護婦に対する最高権限について疑問があるとの言いかたは彼女の怒りを奮起させるのに十分であった。「クリミアの母」師たるブリッジ夫人が、あえてその権威に疑問を投げかけたことでこれが表面化した。サー・ジョン・ホールはチャンス到来と思いブリッジ夫人を強くたきつけ、なんならナイチンゲール嬢が呼んでいるように自分も「レンガのつぶて師」と呼ぶよという。すさまじい争いが生じナイチンゲール嬢の怒りはすさまじい。「ホール博士は、クリミアから自分をひっくりかえそうと懸命になっている。」と言い切った。もはや耐えられない。

戦時省はあてにならなかったが 一つのことだけはなされた。シドニー・ハーバートは一般の人々なら彼女と敵との間でのことを判断できようと下院へ書面を送りつける。またたいへんな困難があったが彼女を鎮める。彼女の覇権に疑問の余地はないとの指令が急送され、「レンガのつぶて師」は、争いの場面から撤退した。それでもサー・ジョンはしぶとかった。数週間後、ナイチンゲール嬢と看護婦たちが最後のクリミア訪問をしたときに、とても簡単な手段、飢えさせて押しつぶそうとの素晴らしいアイデアが思い浮ぶ。彼女たちにはいかなる食料も支給されないようにと指令したのだ。かつて存在が邪魔だった気の毒な医者にこのプランをすでに試して大変効果があったのだが、そんなトリックがナイチンゲール嬢にはとうに見破られていたことを知ることになる。彼女の方は素晴らしい先見の明で充分な食糧を持って来ており、自費でより多くを得ることにも成功した。この過酷な国で10日間、自分と24人の看護婦を養うことができた。最終的に軍当局は彼女のほうに組し、サー・ジョンは敗れたことを告白しなければならなかった。 22

平和宣言のあと4ヶ月も経った1856年7月、ナイチンゲール嬢は英国に向かってスクタリを後にした。彼女の評判は今や巨大なものであり、人々の熱気は果てしがなかった。女王の称賛が私的な手紙を添えてブローチの贈り物で表わされた。

      [女王陛下は書いた] あなたがこの大きな血なまぐさい戦争中に示されたキリスト教の信仰を尊ぶ高い意識をよく承知しています。私の憧れはあなたの奉仕にいかに暖かいことか、ほとんど繰り返しを必要としないでしょう。これは、あなたが苦しみを慈悲深い方法で緩和する特権を及ぼした私の愛する勇敢な兵士たちに対する気持ちとまったく同じものです。私の気持ちがお伝え出来るかを案じておりますが、お気に召されることを信じて、それゆえ、あなたの偉大な祝福されるお仕事を記念するエンブレムをかたちとして、このお手紙とブローチをお送りします。君主の高い賛同を得たお印として着用なさっていただけることを!  23

 女王陛下は付け加えた。「私たち女性の明るい模範となるようなお方に知己を得たことは私にとってとても大きな満足です。」 24

  プリンス・コンソートがデザインしたブローチは、聖ジョージの赤いエナメルのクロスのうえに、ダイヤモンドで女王との文字が載せられていた。全体は銘刻に囲まれる。「祝福は慈悲深く。」 25

  the jewel awarded to Nightingale by Queen Victoria


第3部 


フローレンス・ナイチンゲールの名前は、クリミアのぞっとするが英雄的な冒険の善行によって世界中の記憶に留まっている。英国に戻ったとたんに死んだとしても、実際そうなりかけたのだが、彼女の評判はほとんど違っていなかったはずだ。伝説はいずれ我々が今日知っているようなものになっていただろう — スクタリで病気の兵士たちの尊敬の目の前にまずは形をなした、女性の美徳の優しい光景に。だが、実際のところ、彼女はクリミア戦争の後に半世紀以上を生き、その長い期間のほとんどにたいへんなエネルギーと普通ではない自然な献身が最高のピッチで働いていた。知られざる労苦のその歳月で達成されたことはクリミアでの栄光よりも輝かしいものではなかったにせよ、それはあきらかにより重要なものだった。真の歴史は神話よりもはるかに不思議である。ナイチンゲール嬢の目によればクリミア半島の冒険はほんの一事件にすぎず、自身のキャリアに於いてはほとんど使える踏み台以上のものではなかったのだ。彼女が世間を動かすことを望むための支点であり、唯一の支点だ。世代が変わっても彼女は秘密の席に座って、強い意志の洗い桶で働いている。ありきたりの想像が終わりをつげるまさにその時から、彼女の本当の人生は始まる。 1

彼女は健康がさんざんになった状態で英国に帰り着いた。過去2年間の苦難と絶え間ない尽力が神経系を痛め心が冒されているのは明らかで、失神の発作や体力の衰弱のひどい攻撃に絶えず苦しむ。医師たちは救う道は一つだけだと言う、完全かつ長期間の休養だ。だがそれはまったく相談に乗れないことだった。休む習慣など決してないからだ。なぜ今始める必要があるか?いま、ついに好機が来た。鉄は熱いうちに打て?そうではない。するべき仕事があればなにが来ようとやるだけなのだ。医師たちは反対したが無駄である。家族は嘆き懇願するが駄目、友人たちはそんなことは狂ってると指摘してもこれも駄目。狂っている?気違い持ち、おそらくそうだ。悪魔のような熱狂が取り憑いている。あえぎながらカウチに横たわり政府の報告書をむさぼり読み、手紙を口述し動悸の合間に熱っぽいジョークをもらした。数ヶ月のあいだ横たわったきりでベッドから離れられなかった。そして数年間というもの、毎日死の予感がつづく。だが休まないのだ。この調子では死なないとしても人生を棒にふると医者たちは請け合った。やらなければならない作業がある。どうしてもそうはできなかった。休むことについては、やれば出来たはずだった。 2


ロンドンや国中、ダービーシャーの丘ではたまたエムブレーのシャクナゲの中でも,どこに行っても幽霊にとりつかれた。それは、軍病院の組織の恐ろしい光景であるスクタリの亡霊だ。その幻影をそのままにするのか、それとも痛めつけるだろうか。陸軍衛生部の全体のシステム、軍医の教育、病院の手続きの規制・・・その他の残り?これらの事をそのままの状態でどうして放置しておけようか、同じような事が起きたときに、似たような結果が続くではないか?さらには、平和で気楽な時でさえも陸軍の衛生状態はいったいどうなっているのか?兵舎での死亡率は市民生活でのそれの倍に近いことを彼女は知った。「毎年1100人をソールズベリー平原に引き出し、銃殺しているのと同じです。」チャタムで病院を視察した後、顔を歪めて微笑んだ。「そうです、これはクリミアで16000人も死に至らしめたシステムのもう一つの症状です。」スクタリは、彼女に知識を与え、また力をも与えていた。いまや巨大な名声が背後にあり、計り知れない力となっていた。他の仕事や職務は前にたくさんあるかもしれないが、すべてのなかで最も緊急で明白なことは、陸軍そのものの健康を見てやることであった。 3

    Florence__Nightingale_1858

一番最初のステップは、ビクトリア女王が記念ブローチと一緒に、クリミアの彼女に送った招待状を活用することだった。帰国から数週間もたたないうちに彼女はバルモラルを訪問し、女王と王配殿下に幾度かの謁見をした。公子は日記に記す。「彼女は現在の軍病院のシステムの欠陥と必要な改革のすべてを提起した。」東方での経験の全体的な話に関連して、殿下は形而上と宗教上での長い打ち明け話ができた。公子に彼女がもたらした印象はすばらしかった。「Sie gefällt uns sehr, ist sehr bescheiden. 」女王陛下のコメントは違っていた。「なんという頭脳!戦時にいてくれたらいいのに。」 4

しかしナイチンゲール嬢は戦時にはいない。じつに簡単な理由、女性だからだ。だが、パンミュール卿はいた。(実に理由はそれほど単純ではない)ナイチンゲール嬢の改革のための努力の問題は主にパンミュール卿に依存しなければならないことによる。このたくましいスコットランド貴族は真剣な努力にもかかわらず、戦時相として滅多に空いた時間が取れなかった。彼はセバストポール攻略戦のさなかに就任したが、かつて陸軍のヒューザールの指揮官として内部知識を得ていたので、この地位がとても適っていると感じていた。「英国英兵士は送金動物ではない」と言ってみたときにナイチンゲール嬢の権威を内々に知ることが出来ていたのである。そしておそらく彼をして、義務を無視しているようにみえる現場の最高司令官のラグラン卿に、次からは事態を改善するようにと指摘した至急便を書くことを駆り立てたのも、この課題への同じ意識からだった。ラグラン卿の返信は受取り手が地面に落ち込むように計算されたものだったが、誤りが何であれそれを関知出来ないことで責められたことの無いパンミュール卿には、なんの効果ももたらさなかった。しかし問題はおさまった。まもなくラグラン卿は死んだのだ、すり減らして。仕事と不安のせいでと言う人もいた。

  Fox Maule-Ramsay, 11th Earl of Dalhousie as The Lord Panmure between 1852 and 1860

誰もその名を聞いたこともなかった優秀な赤鼻の老紳士シンプソン将軍がその後を継ぎセバストポールを掌握した。 だがパンミュール卿の将軍との関係はラグラン卿よりも満足のいくものではなかったのだ。ラグラン卿は独立独歩すぎたが、一方哀れなシンプソン将軍は反対の方向で誤りを犯す。いつもアドバイスを求めて来て、腰痛に苦しみ、疑念にかられ鼻は日々に赤く赤くなり、ポストに適任かと言ってきたり別便では辞任を撤回してみたり。実にこんなふうに大臣と将軍はどちらも、有用な新発明の電報のおかげで悩まされていた。ある時シンプソン将軍は釈明の必要を感じた。
        [彼は書く]卿の名前の保護にあるもののおそらくご存知ないと思いますが、権限の下では送信ができないはずのいくつか電報がこちらに届いております。例えば、昨晩起こされました。竜騎兵がこんな言葉の電報を持ってきました。『パンミュール卿からシンプソン将軍へ ジャービス大尉はムカデに噛まれています。彼は今どうですか?』シンプソン将軍はこれを放っておこうとしたのだろう、「暗闇の中で数マイルも竜騎兵を走らせて軍の司令官に許されているわずかな睡眠から叩き起こすのも、ずいぶんつまらないことだ。」だが、彼が耐えようとした以上のことが見つかった。「朝、別の竜騎兵は4マイルを飛ばしてジャービス大尉に聞いたが、どこもかまれてもおらずだが激昂していたがまもなく直った。」パンミュール卿にも悩みがあった。お気に入りの甥ドゥビギン大尉が前線にいる。大臣が最高司令官あてに送った電報の一つに以下の注意を追加したことがあった。「ドゥビギンを推薦すると知らせしておきます。欠員が出れば、彼が適任かどうか。」不幸にも電報の初期の頃で通過メッセージは、電文を圧縮する電信技師の裁量に任された。結果はパンミュール卿の繊細な魅力がその宛先に到達するときには、簡潔な形式で「ドゥーブの世話を見よ」になった。総司令部のスタッフははじめはとてもに困惑し、後にはとても面白がった。物語は広がり「ドゥーブの世話を見よ」は長年にわたり、援助するに値する甥のための公式な暗示を記述するためのよく知られた例文として残った。 5 

そして今、すべてこれはおわった。セバストポールはなんとかして確保され、平和はともかくももたらされた。お役所の抱える問題もついに終わりに来るのは確かなようであった。病院の状態と衛生改革の必要性についてナイチンゲール嬢は言って来て、舞台に現われて出たのである。最も飽き飽きすることであった。パンミュール卿は何かもっと気に入った仕事、おそらく、大いに興味があったスコットランドの自由教会の憲法の議論に関わりたいと希望し始めた。しかしそれはないだろう、義務は最優先事項だ。辞めたいともらしつつも、出来うる最低限の責務は果たせねばならなかった。 6

「バイソン」、友人たちは彼をそう呼ぶ。名前は肉体的な挙動と精神の習慣の両方を言い当てている。大きくずんぐりした頭は、他の何のためにではなく頭突きのためにとさえみえる。彼は改革の戸口に立って四方を威嚇していた。それにはたいへんな量があり、ラグラン卿の嘲笑の辛辣な矢さえ的を絞れない堅さが隠れていたが、彼がナイチンゲール嬢の圧力の影響を受けやすいことがあきらかとなる。彼は戸口に一人きりで立っていたのではなかった。専門家の保守主義的屋台骨、時代遅れの頑固な支持者、崇拝者たちと戦時の作業の犠牲者たち、これらが彼の後ろにかすんで見える。これらの中でも、陸軍衛生部のトップのアンドリュー・スミス博士が卓越していたのはごく当然だ。アンドリュー・スミスはナイチンゲール嬢が英国を出発する前に「スクタリで何も必要な物は無い」というような保証をしていたときの相手だった。このようなのは反対者であったが、また同調者がないわけでなかった。自分のことは何かしら王室の耳にも入り、いろいろな機会で一般のひとびとの耳に達する事にも、彼女は大きな喜びを感じた。
彼女はおおぜいの崇拝者や友人たちを持っていた。個人的な資質はいうまでもなく、知識、粘り強さ、気配りもあったが、さらなる有利さは、当時は今よりもとてつもない重さがあった社会の最上級のサークルに属していたことだ。貴族たちや内閣の大臣たちの間を自然に行き来し、みずからも集合の一員ではあった。当時の集団はとても狭いものである。そのような人たちが、陸軍看護の素晴らしい経験と病院の改革に一見識をもつとはいえ、よく知りもしない中産階級の女性に、どれほどの注意を払うものだろうか?彼らは丁重に無視した。だがフロー・ナイチンゲールを無視することはできなかった。話せば聴かざるをえず、いったんそうすると、これでうなずかなくてよいのかと?彼女は自分の力を知りそれを活用する。そして親しみを込めた機知に富む書き方で影響をたかめる覚書きを支えた。バイソンは、これは大物だと感づいた。難しいことかもしれず、とてつもなく困難かもしれないな、淑女の白い手にのまえに頭をさげるのは。 7

ナイチンゲール嬢の友人たちのなかで最も重要なのはシドニー・ハーバートだった。彼には良き妖精が愛情を注いでいるようで、うらやましい贈り物に囲まれ揺りかごに横たわっている男であった。生まれがよく、ハンサムで、富裕で、いくつかの大きな館の一つウィルトンの主人公である。英国での特段に栄光のある歴史的魅力をまとい、そのうえに、いかにも活気にあふれ、魅力的で、優しく、近よる者は誰も彼の敵になることがない。実際、完璧な英国紳士だと言わずにいられないような男だった。幸運にもまして徳も同じく備わっている。信仰心に厚く、深い。何年か内閣の大臣をしていた時に書く。「私は日々ますます確信する。政治では、他のすべてのように、福音の精神に調和しないもので正しいことはなにもない。」自分本位でない者など誰もいない。彼は慈善心に富み驚くほどに慈悲深く、公の奉仕に揺るぎない誠実さをもって全生涯を捧げた。このような性格とこういう好機に、いかに高い望みが彼の前で踊っていることか、ますます増える必要性と慈悲心に富むその責務の遂行にどんなに思いが放射されようか!いくつかは実際、実現されたが、最終的にはシドニー・ハーバートのキャリアは寛大に言っても、いくつかの贈り物はあるにせよ他に何があったか?良き妖精が差し控えていた大事な贈り物、これがあった。完璧な英国紳士の特質をもってさえ苦悩、屈辱、敗北に対してはいかなる防護にはならなかった。 8

   Sir_Sidney_Herbert

彼のキャリアは確実に、ナイチンゲール嬢と知り合うことがなければとても違うものになっていただろう。スクタリへの彼女の任命に始まる両者の連携は戦争が終わるまでますます緊密になり、発展して彼女の帰国後は最も素晴らしい友情になる。それは公的な要因への献身という共通の思いによる男と女の友情であり、むろん相互の愛情は当然大事な役目を果たすがそれはたまさかのことにすぎない。相互の関係でのすべての魂は仕事の上でのコミュニケーションにあった。

おそらく英国の外ではこのような親密さはほとんど存在しえなかったかもしれない。全くの情熱そのもののみならず疑わしさでも着色されない親密さを。ながい年月の間、ほぼ毎日ナイチンゲールと会う。シドニー・ハーバートは長い時間一緒にいて、離れているときは絶え間なく文通する。スキャンダルの噂は静かだった。彼女の崇拝者の最も献身なひとりは彼の妻である。しかしこの関係で驚異的なのは、二人の間の役割が分けられていることである。男の方は、行動し,決定し、達成する。女性は称賛し、遠くから、影響を与えて激励する。連携はごくふつうである。しかしナイチンゲール嬢はアスパシアでもエゲリアでもなかった。彼女の場合、役割が逆だということはほぼあたっていよう。しなやかさと同情の資質は男のほうにあり、指令とイニシアチブのそれは女の方にあった。これはナイチンゲール嬢に公的な人生の肩書きがないだけのことによる。彼女は成功する政治家につきものの公的な権力と権威をもたず、また持つ気もなかったろう。その力と権威はシドニー・ハーバートが保有する。事実は明白だが結果のほうは小さなものではない。彼女は男性を通して、自分の意思での仕事をした。彼を握って、教え、形成し、取り込んで、始終支配した。彼は抵抗しなかったし、したくなかった。自然な傾斜は彼女と同じ道にあったからだ。素晴らしい人格が彼女の激しいペースで執拗なストライドで前の方へと彼を押し出しただけのことだ。どこへ?ああ!なぜ彼はこれまでナイチンゲール嬢を知っていた?パンミュール卿がバイソンなら、シドニー・ハーバートは、疑いなく、森の中を跳ねる顔立ちのよい牡鹿、勇敢な生き物だった。しかし森は危険な所だ。猫みたいに狡猾な何かに、何か強いものに急に魅せられる広い広がりのイメージを人は持つ。中断があって、そのあと、雌虎は腰を震わして爪を持って、そして・・・!  9

シドニー・ハーバートのほかに、より限られた世界に必要不可欠な友人たちがいた。身体を壊している状態で必要と決心したことを達成するためには、他人の関心や手助けが絶対に不可欠だ。ヘルパーや支援者たちを持っている必要があった。こうして黙っていても依存できる愛情とエネルギーを持つ献身的な弟子たちの小グループがそこに形成される。献身的、確かに、これらの弟子たちは言葉の普通の意味どおりだった。確かに彼女は簡単な仕事の主人ではない。ナイチンゲール嬢にとって有用な者ははじめから、持久力と能力の限界までに善き勤勉で役に立つと分かるきらいがあった。おそらく限界を超えて。なぜだろう?自身が与えていた以上を他人に求めていたから?長椅子で青息吐息で横たわっているのを見られ骨惜しみと言われかねないから? なぜ、そうして他人無しで済まそうとするのか?これらの言い分は自身のためではない。自分のために、確かに!違う!まわりはすべて知っていた!仕事のためだった。これほど少ない一団、その奇妙な主従で結びついた身体と魂たちは、嫌々ながらではなく働いたのだ。

中でも最も忠実なのは、父の妹の「マイおばさん」である。早い時期から彼女のそばで家族生活での奴隷状態から抜け出す手助けをしておりスクタリでも一緒で、ほとんど母親のようにすべての行動やどうなるかわからない健康状態に限りない注意を払って見守ってくれた。他の付き添いは義理の兄ハリー・ベルネイ卿で、議会の用件で特に貴重な人であった。アーサー・クラフは詩人、このひともまた婚姻でのつながりで、彼女が他の方法で活用した。オックスフォード運動の時に信仰を失って以来、クラフは、詩作の実践が衰え増え続けるかなりの不安の状態で人生を過ごしている。復活への信念と一緒に消え失せた興味の存在目的を決める事が出来ずに精神は体調不良でさらなる低きに留まり、収入もあるべきものとはかけ離れていたためアメリカに解決策を求める。しかしそこにも解決はなく少し後政府部門でのポストを受けてロンドンに住むようになり、すぐにナイチンゲール嬢の影響下に入った。存在の目的は依然として不確実かもしれないし性質もまだ不快なのに、ともかく、この霊感を受けたような女性の目の下には、本当の何か、熱心になれる何かがあった。唯一の疑問は、自分は何の役に立てるのだ? 確かに彼はできるのだ。誰もが手を付けない雑多な小さな仕事が膨大にあった。例えば、ナイチンゲール嬢が旅行中、鉄道切符をとる必要があった、証明証の修正が要った、茶色の紙で小包を造らねばならない、そして郵便局へ運ぶ。確かに彼は役に立つはずだ。そうしてこのようなしごとにアーサー・クラフはついたのだった。 振り返って見て自分を慰めた。「私は知っている。これがすべてではない。私がしたことはほとんどないが、だけど良かった、何もしないよりは。」 10

時間が経つとともに、彼女が言うところの「内閣・キャビネット」は大きくなっていった。彼女が仕事に引き込んだその対象に共鳴する役人たちは,その奉仕に感銘した。クリミア時代の旧友たちは英国に帰国後、回りに集まって来た。なかでももっとも根気よく続いた人が、衛生の専門家で30年以上も信頼の厚い個人秘書を務めたサザーランド博士である。文字通り彼女のために人生のすべてを投げ出した。このようにして続けられ,支援され、かしずかれ、敬われて、彼女はバイソンへの反抗の準備をした。 11


まもなく二つの事実が浮上しすべてがそれに重なって続く。まずはその印象的な大きさが動かせないことであり,第二にはその活動がゆっくりと動き出すとすぐに速くなることだった。 バイソンは女性とは戦いにならなかった。頭を置いて、地面にしっかり足を植えつけても無駄だった。耐えることができない、白い手は彼を引き戻す。だがその過程はとても緩やかだった。アンドリュー・スミス博士と戦時の密集軍は背後に立って、逃げ道をブロックする。哀れバイソンは内面でうめき、スコットランド自由教会の幸せな牧草地に向かって物思いに沈んだ目を投げる。こうしてゆっくりと、かぎりなく不本意に、一歩ずつ、彼は地盤を1インチずつ撤退する。 12


女王、内閣、国の統一見解に支持され、抵抗もできない最初の大きな措置は、王立委員会が陸軍の健康に関して報告するとした確約であった。すぐさま委員会の構成が問題になり、パンミュール卿とナイチンゲール嬢との最初の取っ組み合いの衝突以上のことが起こった。両者が相対しナイチンゲール嬢は勝利した。シドニー・ハーバートが会長に任命され、彼女と意見を異にする委員会のメンバーはアンドリュー・スミス博士だけだった。インタビューの中でナイチンゲール嬢は重要な発見をする。「バイソンは弱いものいじめだ」ということに気づく。隠すにはメキシコの水牛の皮をかぶるが、精神はオルダニー島の子牛のものだった。他のすべて以上に巨大な恐ろしい創造物、世論への訴えというものがあった。そのような恐ろしい事態の暗い暗示が彼の中で溶けだした。何もかも同意しよう。ライチョウ撃ちは切り上げよう、それよりアンドリュー・スミス博士さえ退けよう。ナイチンゲール嬢は恐ろしい脅威を持っている、知っている事をなんでもしゃべるだろう、全世界に真実を公開し、全世界の判定に委ねるだろう。最高の伎倆で彼女はダモクレスのこの剣を持ちバイソンの頭の上に構え、一回といわず実際にそれを落とすだろう。彼の手に負えないことがどんどん大きくなる。委員会の顔ぶれが決まるや、その権限の性質からいって半年間も続く闘争がそこに生じた。完全な調査と幅広い精査の正しさで武装し、効率的な体になるべきなのか、それともアンドリュー・スミス博士を追放するための丁寧な公式の仕掛けなのか?戦時の密集軍はその階級を問わず歯と爪とで戦ったが敗北した。バイソンは弱いものいじめだ。
        [ナイチンゲール嬢は最後に書いた] この日から三ヶ月、私はクリミア方面作戦での経験および改善のための提案を一般に公開する。改革のために公正かつ具体的な誓約がなされる時が到らない限り。
誰がそれに直面するのか? 13

必要が生じれば彼女は言葉のとおり善く振る舞わなければならない。委員会の運命がどうなろうと、今論争中の問題に関する報告書を書き上げることを決心していた。かかる労働は膨大なもので健康状態はほぼ絶望的だったが尻込みはしていられない。半年後に信じられないほどの著述「健康、効率性、および病院管理にかかわる覚書き」を自分の手で書き整理した。800ページにびっしりと印刷されたこのとてつもない論文は、遠大な改革の大原則を提起し、多くの物議をかもす話題のごく詳細までを論じ、軍事的、統計的、衛生上、建築関係など様々な膨大な情報量を含むものだった。これらはいままで必要もなかったために一般向けには示されなかったのだ。だがこれは王立委員会報告書の基礎を形成し、今日まで軍隊の医療行政における指導的な権威として生き続けているものである。 14

それが完成される前に、委員会の権力争いが勝利の近くにまで来ていた。パンミュール卿はもう一度方法を指示していた。すぐさま女王に同意を得るために走る。女王陛下のイニシャルが直せない形で最終文書に貼付されていたときにのみ有効との承諾を得るために。アンドリュー・スミス博士にはあえて伝えるかどうか。委員会が開かれ、別の巨大な負荷がナイチンゲール嬢の肩にかぶさる。この日彼女自身は、むろん委員会の一人だったろう。だがその時点ではそんな能力で示される女性の考えなど前代未聞であって、誰もナイチンゲール嬢がそうすることなど考えもしなかったのだ。その結果、彼女はずっと舞台裏に居残り続けざるを得なくなる。すべての重要な岐路においてシドニー・ハーバートに私的に教え、そして彼や委員会の他の友人に、証人の検証にとても大事な専門家としての膨大な知識の蓄えを伝えるために、手紙、覚書、数えきれないコンサルによって。礼儀が彼女に証拠を認めるかどうかさえ疑わしかったが、妥協として、謙虚さは質問に対する書面回答の形で示される。そうしてとうとう大きな出来事は終わった。言葉という言葉がナイチンゲール嬢の提言を具現化する委員会報告書は、シドニー・ハーバートによって裁定された。たったひとつ答えねばならない問題がある。結局何かなされるのかいな?さもなくばこの王立委員会も以前や今後の他の多くの委員会と同じように、とても分厚い青本を高い棚の上に飾る以外の何ものも残さないようになってしまうのだろうか? 15

そしてついにバイソンと死にものぐるいの闘いが始まる。彼に委員会の効果的な力を認めさせるのに半年かかり、そのあいだは委員会の仕事に忙殺された。さらに半年が、委員会の勧告が実際に実行される手段を彼に強要することに費やされた。しかしついに事は成就した。ナイチンゲール嬢はこの数ヶ月の間に死の瀬戸際まできていたようであった。忠実なマイおばさんを伴ってバーンイン、ダービーシャー州、ハイゲート、ハムステッドとあちこち移動するが、どこでも健康を見つけるのはむなしい努力であった。仕事のための願望は今やほとんどマニアと区別できない。あるときはシドニー・ハーバートに「最後の手紙」を書いている。次の時には暴動での被害者の看護にインドへ出かけたいと申し出ている。サザーランド博士は彼女が休暇を取ることを嘆願するように書き送ったが、彼女はわめいた。「休めだって! 」
        私は頭を使わず爪も無く横たわっていますがあなたはすべてに私を突きます。それは厳格な、義務のものです。あたかも教会に行く人の帽子に何か言うように、この3ヶ月というもの毎日110回も私は言われています。それはバイオリンでのオブリガートで、ロンドン中に夜12時に時をうつように12のバイオリンが一緒に演じます。マイスター・ザビエル、ほんとにわかってます、わかってますってば,というまで続くのです。私は悔悛しませんが、あなたは厳しいことを言うR.C.の告白者のようです・・・。

知恵にスイッチが入り拘束するものはなかった。鉱山奴隷のように働いた。スクタリで信じ始めたと同じように信じ始めた、仲間たちのだれもが仕事に熱心でない、なぜ彼らは自分と同じように働かないのか?周りには、たるみと愚かさしか見ることができなかった。サザーランド博士はもちろん奇怪に頭が混乱している、救い難いほど怠惰なアーサークラフ。シドニー・ハーバートさえも・・・ああ、彼は率直で知覚と素早さがあったが、間違いなく折衷主義者であった。バイソンが最もいじめに出てくるときに、アイルランドに釣りに行ってしまう人にどうして望みが持てようか?バイソン彼自身も、何ヶ月ものスコットランドに逃げ出しじっとしていた。委員会報告書の死活に関わる勧告の行方は、提案された改革の細部決定と実行のために4つの小委員会に委ねられていたが、、まだ釣り合いを取るなか宙に浮いていた。 バイソンはいったんすべてに同意したが、ロンドンへ飛んで来て同意を撤回し急ぎスコットランドに戻ってしまった。その後何週間もすべての業務が中断される。彼は痛風で、手の痛風のため書く事が出来ない。「彼の痛風はいつも便利だわ。」と、ナイチンゲール嬢。しかし、とうとうゲームが終わり避けられない降伏が来たことはバイソンにさえ明らかとなった。 16

しかしながら、彼がナイチンゲール嬢に勝利する一つのポイントがあった。 彼の命令でのネトレイ病院の建設が彼女の英国帰国の前に始まっていた。彼女は到着後すぐに計画を検討し、病院建設で時代遅れの不適切なシステムで最悪の障害をまた生み出すだろうことがわかった。それゆえ問題は再考されるべきだと主張し、しばらく建設は止まった。しかし、バイソンは強情だった。非常に高くつく、いずれにせよもう手遅れだ。彼にどんな印象をも与えることができず、問題の極端な重要性を確信した彼女はより高い権威に訴えることに決める。子どもの頃から知っていたパーマストン卿が総理大臣であった。彼は父親の近くに住むニューフォレストでの隣人である。病院や関連の情報の提案計画で武装しニューフォレストに行く。パーマストン卿の家に泊まりネトレイ病院の再構築の必要を説いた。
        [パーマストン卿はパンミュール卿あてに書く] ネトレイでもっとも考慮すべき患者の快適性と回復が、建築家の虚栄心に犠牲にされているように思われる。サザンプトン川から見たときに、はねよけを減らさなければならないという・・・。祈る、したがってさらなる進展をはばむ問題が正当に考慮することができるまで・・・。

しかし、バイソンは有無を言わせぬ文字にも動じることはなかった、内閣総理大臣からであっても。彼はすべての力で先に延ばし、パーマストン卿はこの命題に興味を失くした。英国の中核的な軍病院は、換気のない部屋での不衛生な定めのなかに勝ち誇ったように完成した、、すべての患者の窓が北東に向けられて。 17

しかし、バイソンがこれ以上トラブルを起こしかつ被ることもない時がいまや来ていた。下院の選挙結果はパーマストン卿の政府の崩壊をもたらしパンミュール卿はスコットランド自由教会に残りの人生を捧げるための自由を得た。すぐ後にシドニー・ハーバートが戦時相となる。ナイチンゲール・キャビネットの歓喜は格別だった。達成の日がついに明けた。次の二年半(1859年〜1861年)で、ナイチンゲール嬢があれほど苦労していた改革の全体システムの導入を見る。戦時省でのシドニー・ハーバートの在職期間において、英国陸軍の歴史の中で重要なエポックを画する改革がなされた。大臣の直接制御下にしっかりと設けられた4つの小委員会は、ナイチンゲール嬢の執拗な忍耐力で急がされ前向きに意欲的に仕事に立ち向かった。兵舎や病院は改装され適切に換気されはじめて暖房もされて灯りもついた。水道が設けられ実際に水が供給を与えられ、調理場では不思議なことに、調理が可能なのだ。その後偉そうな御用達役人の大きな問題、スクタリの悪夢のような権力とその権力の欠如が取り上げられ、新たな規制で正確に責任と職務が定められる。小委員会の一つが、陸軍の医療統計の再編成を行う。別のほうは陸軍医学学校を設立した、所管部が痙攣する抵抗にもかかわらず 。最終的に陸軍衛生部自体が完全に再編成され、管理基準が策定され、病気の兵士の世話のみならず兵士の健康の面倒を見ることが当局の義務の一部であることが確立された。このほかではついに公にも道徳的、知的側面を持つことが認められコーヒールームと読書部屋、体育館やワークショップが設けられる。じつに、新しい時代が始まっているようだ。既に1861年までに陸軍の死亡率は、クリミアの時代から半分に減少した。広大な可能性をナイチンゲール嬢が前に開いたためにいまや始まったことは不思議ではない。一つのことがまだ完了せず勝利を保証するためには必要であった。陸軍衛生部は実際に改組されたが、大きな中央のマシンはまだ手つかずだ。戦時自体が! もし彼女の心に近い願望が沸き上がるなら、勝利は確かなものになろう!最終的な施策が完成されるまでに、将来の歯車の気まぐれな変更で別の大臣おそらく変わらぬ役人ギャングの操り人形でシドニー・ハーバートが置き換えられたら、どのように彼女の仕事の残りは担保されるのだろうか、一瞬にして忘却の渕に追いやられてしまうのだろうか?  18


一方、彼女の活動は多くの作業をともないつつ貪欲に新たな方向にも枝分かれする。インドの軍隊のことが注意をひいた。彼女の提案で衛生使節が任命され、後援の下で活動し4つの小委員会がきめた改善策をわが軍隊のために実行する。この年月の間、まさに軍の医療業務の全体に近代的なシステムの基礎が築かれたことを示すが、彼女がまた自分の知識、影響力、広く国中の奉仕活動をもたらしたことも見えてくる。「病院に関する覚書き」(1859)は、病院建設や病院経営の理論に革命をもたらす。すぐに彼女は関係する全問題の第一人者として認められ、彼女の心の印象を感じられない大きな病院は今日は存在しないがごとくに、アドバイスは絶え間なくあらゆる方向に流れていた。それですべてではない。セントトーマス病院のナイチンゲール看護婦養成学校の開設(1860)により、彼女は現代の看護の創始者となったのだった。19


(第3部 あとすこし つづく)

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フローレンス・ナイチンゲール 第1ー2部  ― Lytton Strachey

2012-01-09 22:41:40 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ

ビクトリア女王が兵士たちに心を寄せたクリミア戦争といえば、思い浮かぶのはナイチンゲールだ。女王のちょうど1歳年下だから全く同じ時代を同じく長生きしたかたなのだ。ストレイチー氏は、ビクトリア女王伝では彼女にほとんどふれなかった、というより,数行でかたずくようなおひとでなかったからだが、おかげでまたまた根気のいる解読をする仕儀とあいなった。

おりしも、わが時代の世相は、大災害、避難、介護福祉、ボランティア、お上の無策、・・・こんなことをミス・ナイチンゲールの足跡と結びつけるのもいかがなものかとも思うが、時代の相違はあるにせよじつに学ぶべき事も多いのだ。人類は何も進歩などしていないか。それより、身を捨てて人のためになどとは尋常なことではない。どうしてこういうことができるのだろう、こうなってしまうのだろうか、そもそもなにをなさっていたのであろうか、このお嬢様・・・

>>>>>>>>(Florence Nightingale  Eminent Victorians.  1918  by Lytton Strachey ( http://www.bartleby.com/189/201.html より のり坊訳。 画像:WIKI-Florence Nightingale 

 

Florence Nightingale 

第1部

 

誰でもフローレンス・ナイチンゲールの評判のよい概念は知っている。聖人のような、自己犠牲を捧げた女性、苦しむものを助けるため人生の安楽を脇に投げた高度に繊細な乙女、ランプの貴婦人、スクタリで病院の恐怖のなかを滑るがごとく、死んでいく兵士の寝台に善なる輝きを奉げながら、その光景は皆におなじみである。しかし、真実は異なっていたのだ。事実のナイチンゲール嬢は彼女を描いたファンタジーのように穏やかなものではなかった。異なる装いで仕事をし異なる結末に向かう。ありきたりのイメージでは居場所を見つけにくいような刺激のストレス下に移動する。悪魔が彼女を所有しているようだ。今や、彼らが何ものであれ興味津々である。それゆえ実際のナイチンゲール嬢には伝説より興味深いものがあったことをあきらかにするはずだ。納得出来ることもまた少ないのだ。1

家庭は非常に裕福であって、他の裕福な家庭とはサークル内の結婚で広がり結びついていく。ダービーシャー州に大きな館を持ち、ニューフォレストにも別にある。ロンドンの社交シーズン用にメイフェアにも部屋があって素晴らしいパーティーが催される。イタリアオペラの通常公演をしのぐぐらいの巡演が来て、パリの名士たちも顔を見せる。このような恵まれた中で育てば、フローレンスが神の意図に従う、言い換えればダンスやディナーパーティで適格な紳士にめぐり合い結婚し幸せに暮らす人生で神に感謝をするのはごく自然なことだろう。姉、いとこ、知り合いの若い女性たちはその準備中かもうそのようにしていた。だれもフローレンスが他の夢を見るなど想像もできない。だがそうしたのだ。ああ!彼女をお召しになって神が望む人生の様相への責務を課すとは!確かに任務を行うことに気後れはないだろう、しかし人生のどこまで、神は彼女を必要とするのだろうか?それが問題だった。神の呼び出しは多々あり、それらは不思議なことであった。
    
シャーロットコーディ、またはハンガリーのエリザベスを召したのは、人生のどのような状態までなのか?呼び出しでないとすれば、彼女が耳にした秘密の声は何であったのか?なぜ若い時からそれらの神秘的な促しを感じていたのか・・・周りのものとは大きく異なるものに向かっていることを知っていないのか?保育所での子供のころ、姉がバラバラに人形を引き裂いて喜こんでいた時、縫って直すほうにおよそ病的なそれを示していたのは何故だ?
なぜ貧しい人々に彼らの小屋で世話をし、病人のベッドを見張り、犬の傷ついた足に人間のように精巧な義足をつけてやったりと、導かれてしまうのか?エンブレーので奇妙な想像力に満ちていた頭が、いくつかの魔法によって、病院のベッドの中を動き回る婦長の彼女自身にかわってしまうのか?なぜ天に対する観方も、苦しみに満ちた患者に自分が有用だということでいっぱいなのか?夢みては不思議がり、日記を取り出し魂の扇動をふり注いだ。ベルが鳴った、着替えてディナーに行く時間だった。 2


年が経つにつれ、落ち着きのなさが現われ始める。自分は幸せではない、ついにそう思い詰めた。ナイチンゲール夫人のほうもまたおかしいことに気づく。とても妙なのだ。かわいいフローがどうしたんだろう?ナイチンゲール氏は夫を与えるのが賢明と示唆したが、妙なことに彼女は結婚には関心がないように見えた。さらに惹き付けるもの、なしとげたことも、また、ない!本当に素晴らしい挑戦を行うのを妨げるものは世界に何もなかった。そう、ないのだ!何かをしたいという特異な思い以外何も考えられないようだ。ふつうに気楽にでは、どんな事もするまでもない。陶器は
好きだった、夕食の後に本を読んでくれる父はいた。ナイチンゲール夫人は理解することができない。ある日混乱は極まり狼狽し警報が鳴った。フローレンスは、看護婦として数ヶ月間ソールズベリー病院に行きたいというとんでもない望みを言い出し、いずれは近隣の村で自身の家をもち、そこで「誓約ではなしに、教養のある女性の感情にかなうプロテスタントの婦人団体のようものを創設したい。」と告白したからだ。全部の計画がおよそ非常識だとこきおろしてナイチンゲール夫人は、テロの最初のショックの後、多少は平静に戻ることができた。しかし今や25歳のフローレンスは人生の夢が砕かれたと感じ絶望の渕に立つ。 3

じつに彼女のたどった道の困難は大きかった。この時代、女性が世間で自分の道を切り開き独立して生きること自体がほとんど想像をこえるだけでなく、フローレンスが直観と能力の双方から目星をつけた特殊な職業は当時は風変わりに見なされ尊敬にも値いしなかったからだ。 そのころ「看護婦」といえば、
無知でいつも汚く残忍で粗野な老女が普通で、下劣な服装の一団でブランデー瓶片手に深酒しては羽目を外す悪事に走る「こうもり傘夫人」を意味した。病院の看護婦は不道徳な行いのゆえに特に悪名高かったのだ。節制などどこ吹く風で、ほとんど最も簡単な医療業務を行うにさえ信頼がおけなかった。確かに事情は当時からは変わってきてはいた。変わって来たのは、他のだれでもなくはるかにナイチンゲール嬢自身によるものだ。両親がそのような職業に人生を捧げた娘の考えに身震いするのは不思議ではない。彼女自身後に言っているが、「それは、あたかも私はキッチンメイドになりたいとでもいうようなものです。」だが、欲求は非現実的で不合理ではあったが、心に微動だにせず固くあるだけでなく、日一日と強くなって行くのであった。心痛は病的な憂うつにまで深まっていく。かかわるすべてのものが不道徳ならば自身が苦難に値するのはあきらかだ。周囲よりも堕落しているのだ。そうだ、彼女は罪を犯したと宣言する。「神の裁きの座の前に立って。誰も自分ほど聖霊を痛めていない。」そのことを確信する。虚栄と偽善から解放されたいと祈っても無駄であった。笑うことにも陽気であることにも耐えられない。「罪を悔い改めていないかのように、自分の笑い声を聞く神を嫌っているために。」4

弱い精神の持ち主であったなら悩みの重さで押しつぶされるか、放棄したりプッツンしていたかもしれない。しかしこの尋常でない若い女性は堅固さを保ち勝利の道へと突き進む。ソールズベリー病院への思いは拒絶され続けるが、
驚くべき持続性で8年間も苦労して行動し計画をねった。表向きには上流社会での華麗な少女の人生が続いているが、いっぽう内面的には後悔のと後悔の拷問の犠牲となっているその間、知識を収集し、最終的に独りでなすべきことを決断できるエネルギーを保ち続ける。秘かに医学委員会、衛生当局のパンフレット、病院や家庭の歴史のレポートをむさぼり読んだ。ロンドンの社交シーズンの休みの間をみすぼらしい学校や作業所で過ごす。家族と一緒の海外旅行では、いままで知らなかったヨーロッパでの大きな病院や通ったこともない大都市のスラムの探訪に空き時間をあてる。ローマの修道院の学校でいくらかの日々を過ごすことができ、パリで「ラスールドシャリテ」に数週間いた。そのあと母親と姉がカールスバッドで水浴している間にはカイザースウェルトの看護機関に潜り込み、3ヶ月以上もとどまることに成功した。これは人生における重大な出来事であった。カイザースウェルトでの看護婦としての経験は将来の行動の基盤をつくり最終的に彼女のキャリアをきめたのだった。 5

しかし他の試練が彼女を待っていた。世間の誘惑は軽蔑と嫌悪で脇にどけてかすかなものにも抵抗していたが、時には弱気の虫が出て芸術や文学に困惑しつつもエネルギーを費やすこともある。とうとう望ましい若い男が登場して来てしまった。これまで恋人などは負担以外の何ものでもないと嘲笑すらしていたのだが、しかしこんどは揺らいだ。新しい感覚があおる。いままで知ることもなかった今後二度と知ることもない感情。人間性のすべての本能の中で最も強力で影響の深いものが要求したのだった。しかしその本能が、ビクトリア朝の結婚の必然的な装いとともに目前に来た時、ほかにどんな対しかたがあったろうか?彼女は足元にそれを踏みつける強さを持っていた。
 [彼女は記す]        私には満足を求める知的な性質があるのですが彼にもそれはあるでしょう。私は情熱的に満足をもとめる性質ですが彼もそうでしょう。私は道徳心があり行動的にその満足を求めるのですが、彼の人生でそれを見つけることはできません。時々、あらゆる出来事が私の情熱を満たすだろうと思うのです。・・・
しかし、いや、心の中ではそうはできまいとわかっていた。 「現在の生活の継続と誇張に釘付けされてしまう・・・自分自身のために真に豊かな人生を造る機会をつかむことができるように私の力でそれらを追い出す。」— 自殺になる。彼女は選択をした、もう決して来ないかもしれないよい見通しの少なくともある種の幸福を拒否する。そして今までの待ちと苦渋の生活に戻った。
 [彼女は書く]       私は今持っている思考や感情は6歳のときから思い出すことができます。職業、取引、必要な職業、すべて能力を活かし満たす何ものかはいつも私に欠かせない感じており、いつも切望しているのです。思い出せるはじめのそして最後の考えは看護の仕事ですが、これがないとすれば、勉強のおつとめが若いときより悪くなるようにはたらいた。・・・すべてのものが試されているのです、海外旅行、親切な友人、すべてが。神さま!私に何ができるのでしょう?望ましい若い男?埃と灰!あんなあのようなものに望ましいものがあるのでしょうか? 」日記に記す。「31歳の私には、死の他に望ましいものが見えない。」6


三年以上が経過し、そしてとうとう時間の圧力が告げる。家族は彼女が十分な歳で自分の道をゆく強さがあることをわかったようであった。ハーレー街の慈善特別養護老人ホームの監督となり貧弱な器であったが独立を得た。母親はまだ完全に納得はしていない。確かにフローレンスは少なくとも田舎で近しいものたちのなかで夏を過ごすかもしれない。ナイチンゲール夫人は泣くように「わたしたちは野生の白鳥を孵化させたアヒルです。」と目に涙を浮かべて言ったが、あわれな母親は間違っていた、孵えしたのは白鳥ではなかった、それは鷲だったのだ。 7


第2部

   Florence_Nightingal circa1850's

運命がドアをノックしたのはナイチンゲール嬢がハーレー街で介護の家にいた年である。クリミア戦争が勃発しアルマの戦いがあってスクタリの軍病院のひどい状態が英国にも知られるようになった。全能の神プロビデンスの意図には時々従うのがほとんど困難なことが起こるものだが、このときの場合は単純であった。出来事への完全な協調があったのだ。数年間ナイチンゲール嬢は準備してきていて、とうとう整ったのだ。まだ若く、自由で、経験も積み、成熟しており、指示にも慣れて奉仕の願いも強かった。ちょうどその時に偉大な国家には絶望的な必要性が生じ、それを満たす彼女がいた。もし戦争が数年早ければおそらくそのような仕事の知識や力に欠けていただろうし、数年遅ければ疑いの余地なく義務的作業に組み込まれていたはずでさらには歳も取りすぎていただろう。時の偶然は驚くべきことであった。しかも内閣でシドニー・ハーバートが戦時相をしていたが、彼はナイチンゲール嬢の親密な友人でその慈善活動への個人的な経験知識から、彼女のとても優れた力量を確信していたのだった。このような前提の後で、彼女が東方への奉仕を望み、シドニー・ハーバートが彼女に依頼する手紙が郵便局で交差するのはけだし当然のことだった。すべて滞りなく進んだ。任務が決められそれはナイチンゲール夫人さえ冒険の大きさにたじろぐものだったが、役目を受けるだけであった。忠実な友人のペアは個人としての付き添い役として身を提供し、38人の看護婦が集められた。手紙の交差から一週間もたたないうちに、ナイチンゲール嬢は人々の熱気が燃え上がるなか、コンスタンチノープルに向けて発った。 1


 Sidney_Herbert,_1st_Baron_Herbert_of_Lea ,1847

彼女の出発にあたって受け取ったおびただしい数の手紙のひとつに、そのころベイズワータのカトリック司祭としてどちらかと言えば世に知られず働いていたマニング博士からのものがある。彼は書いた、「神はあなたをお守りします。私の祈りは、あなたの礼拝の一つの対象、まねるべきかたち、そして慰めと強さの源が私たちの神、主の聖心であられることを。」どの程度マニング博士の祈りが応えられたかは疑いの余地があるが、なおも祈りが要るとすればそれはフローレンス・ナイチンゲールのためにだった。スクタリでの事態の様子の深刻さはタイムズの特派員の至急便や民間での多くの手紙によってわかってきてはいたが、それでもなお英国の民衆にはまだまだ現実は見えないままであった。なにが起きていたかというと、簡潔に言えば、戦争の場での医療面の措置は完全に崩壊していたのである。このひどい失敗の大本は複雑で多様なものだ。英国の平和と不注意によって長年にわたって引き延ばされて来ていた。これは行政の果てしない管理の無能力、混乱したシステムに固有な障害から二流の職員のささいなへま細工まで、閣僚たちにつきものの無知から狭い範囲の定常作業の致命的な細かさまでが列挙できる。引き続く調査で、現実にすべての悪いことが特に何が原因で発生しているか、特定の誰も責められないことも明らかになった。戦争マシンの全体の組織は無能で時代遅れであった。老公爵は近衛騎兵連隊で鉄の手で革新を抑制する世代として居座っている。権限の異常なほどの重複がありほとんど信じがたいほどの責任の所在の移動があった。軍隊での十分な医療業務の創建と維持のための概念に関しては、このような年寄りのカオスの雰囲気のなかで、どうして誰かの頭にでも入るであろう?戦争前にウェストミンスターのいい加減な官僚たちはすべてがうまくか少なくとも期待出来る程度だと説得された。誰かが陸軍の看護婦部隊の編成を提案したが一笑に付され宮廷を追い出されてしまった。
戦争が始まったとき、事務を取り仕切る勇敢な英国将校たちは医療組織の瑣末よりも考えねばならぬ他のことがあった。誰が半島でささいなことで困っているのか?確かにこの場合には我々はかなりよくやったのだ。あきらかな注意事項は無視され、最も必要な準備は日延べに放置される。軍医長のホール博士はインドから即刻呼び出されたが、前線で職務をとる前に英国を訪問することができなかった。こうして我々はスクタリで病院施設は千人以上の収容が必要なことを戦争に入って何ヶ月も、アルマの戦いが起きるまで知らされなかったのだ。個人の部分での過失や愚行や悪徳は確かにある。しかし全体としてみれば、それらは政治の身体の深刻な病すなわち管理の崩壊による巨大災害における、軽微な現われにすぎなかった。 3

ナイチンゲール嬢は1854年11月4日、ボスポラス海峡のアジア側、コンスタンチノープル郊外のスクタリに到着した。バラクラバの戦いの10日後、インケルマンの戦いの前日であった。すでにアルマの戦いの圧迫下にあった病院の組織は、これら二つの絶望的な血を見る取組みでは、暗黙のさらなる圧力にさらされることになった。膨大な負傷者の一団が既に流れ込んで来ている。クリミアの小さな病院でおおざっぱな治療を受けた後に男たちは黒海を横切ってスクタリに200人単位で転送される、この航海は、通常なら4日半の行程だが時はもはや正常ではない、今や航海はしばしば二、三週間も続き、いうまでもなく"中世の航海"と呼ばれた。このあいだじゅう時にはデッキ上に負傷者、病人、死にかけているものが溢れ、あるものはいましがた手足の切断を受けたばかり、あるものは発熱や凍傷でピンチ、あるものは赤痢やコレラの末期段階にあったが、ベッドはなく時には毛布もなしでしばしば服も着ていなかった。一、二人の外科医が乗船していて出来る限りのことはしている。しかし医療の場が欠けていて看護の唯一の形態は通常、航海中だけ従う一握りの役立たずの兵士がつくだけなのだ。食物は航海用の塩蔵配給食以外にはなく、時々は水さえ弱いものには手の届かない所にある。何ヶ月もの間、この航海中の死亡者の平均は千人中で74人にのぼり死体は海中に投棄されたが、人は彼らが最も不幸だったと言うだろうか?東洋の巧妙さでの邪悪な造りのスクタリには、上陸段階でも非常に近づくのがむずかしく荒天ならお手上げであった。船で生き延びた男たちは上陸しても病院への4分の1マイルの急斜面を上らねばならない。最も深刻なのは担架でこれはあまりにも少ない。載れないものは回復期の虚弱ではない兵士によって丘に引っぱりあげられ運ばれた。こうしてやっと旅が終わる。ゆっくり、ひとつずつ生きているか死ぬかしながら、負傷者たちは病院に着く。病院で彼らは何を見つけたのだろう? 4

ここから入ったあなたがた、すべての望みを捨てよ。人を惑わすドアにはこんな銘文は耐えられない。その背後には地獄があくびしている。欲求、怠慢、混乱、悲惨、これらがあらゆるかたちと強さの度合いでもって、見通しも備えも無しに急造された戦争の犠牲者たちの避難所、無限の回廊と巨大な兵舎群を満たしていた。じつに建物自体に根本的な欠陥があった。巨大な下水溝が下にあり汚水だめに汚物が上の部屋のほうに毒を漂わせながら運び込まれる。床の多くはゴシゴシ洗う事ができず腐って壁は汚れがぶ厚い状態だ。信じられないほどの害虫の群れがどこにでも群がっている。巨大な建物ではあったがそれでもまだ小さすぎる。長さにすれば4マイルものベッド数があり、ぎゅうぎゅう詰め込まれていたのでそれらの間の通路だけがちょうど部屋のようなものだった。このような条件下では換気の精巧なシステムでさえよく故障するだろうがここには換気装置さえなかった。悪臭は言葉で表せないほどだ。 ナイチンゲール嬢は、「私はヨーロッパの大都市の多くでの最悪な部分の住居をよく知っていましたが、今夜見た兵舎の病院のひどさと比べられるところはどこにもありませんでした。」と述べた。構造上の欠陥とともに病院で使用する最も一般的な物資の不備も同じであった。十分な寝台架が無く、シーツはキャンバス地のため負傷している男たちは嫌がって毛布のほうを懇願するありさまだ。いかなる寝室家具もなく、空のビールびんが燭台として使われている。洗面器も無く、タオル、石鹸、ほうき、モップ、トレイ、プレートもなかった。スリッパもはさみも靴磨きや靴墨も、ナイフやフォークやスプーンもない。燃料の供給は常に不足している。料理の手配はおどろくほど不十分で、洗濯は茶番だ。純粋な医療材料に関しては、これも話にならなかった。担架、添え木、包帯はすべて欠乏しほとんどの普通の薬も同じであった。 5

これらを改善し困難と闘いつつ居たのは、絶え間ない作業の歪みで過負荷になっている男性一握りだったが、老齢または経験不足か全くの無能のいずれかで疲れきっていた。彼らはその責務にはとうてい値しないような状態になっていた。主任医師は老人性楽観の無能に陥っている。卑劣な役人の仕事といえば病院の要求についてはその手足を赤のテープで速やかに縛ることだけだった。少数の若い医師は勇敢に苦戦したが、いったい彼らに何ができよう?
備えも無く組織化もされずに、回復期の兵士たちが病気の仲間のほうへ選別されないよう手助けできるのみで、最もおぞましい形で種々雑多にますます増え続ける病気、傷、そして死に直面していた。彼らは難破船の男たちのようだった。戦いながら、だが安全のためではなく次の一瞬を生き延びるために、別の熱狂的な努力によって、破壊の海からいくらかの短い休息を得るために。 6


これらの環境では、長く人間の苦しみの場面に慣れていた人たち — 激痛に関して世界的な知識を有する外科医 屍の山に慣れている兵士たち、飢饉や悪疫の想起できる宣教師たち — 彼らさえこれまでこれほどの恐怖の深さを見てきてはいなかった。そして、時がきた、場所があった、スクタリのバラック病院。そこに震えるような最強の手が下された。大胆な目がその視線を向けるだろう。 7


ナイチンゲール嬢がやって来た。この地獄でどんなことがあるにせよ望みを捨てはしない。一つには彼女は物質的援助をもたらしたのだった。ロンドンを発つ前に軍医療委員会の会長のアンドリュー・スミス博士に、スクタリにあらゆる種類の物資保管が要るかどうかを聞いたが博士は、「何も必要とされていない。」と伝えていた。おそらくシドニー・ハーバートすら同様の保証を与えていた可能性がある。観測によれば医療の物資のいくらかの配達遅れがあるようであり、彼によると、「それらは英国から大量に送られてきており、4日間のうちにはこれが是正できよう。」彼女は自分の直観を信頼する方を選んだ。マルセイユにおいてスクタリで使う準備品を最大限、大量に購入した。東方での滞在の間にすべてをまかなうための充分な資金を用意して来ている。私的なツテからが約7000ポンドに達し、自身の別の貴重な手助けの手段に利用できる。同時にタイムズのマクドナルド氏がスクタリに到着していた。マクドナルド氏は傷病兵の援助のために新聞代理店を介して集まった大量のお金の管理の任務を帯びていたのだった。彼はタイムズ基金の利用はナイチンゲール嬢の采配にまかせるのが最善との感覚を持ち合わせていた。
  [目撃談]      私は想像することができない。インケルマンからの負傷者の到着後の最初の3週間を振り返ってみると、マクドナルド氏からの彼女の采配に委ねられた手段で、そしてナイチンゲール嬢がそこにいなければ、想定外の余りにも悲惨な物事の状態をどのようにして避けることができただろうかと、私は今、冷静に思う。
しかし、公的な方面からの見方は異なっていた。何が!公的なサービスが、外からの慈善を受け入れることで、私的な正式でない慈善の援助なしでは本来の任務を遂行出来なかったことを認めざるを得なかったからか?そうだ!それだから、コンスタチノープル大使のレッドクリフ・ストラットフォード卿は、いかにタイムズのファンドが最も効果的なものかとマクドナルド氏から問われたとき、ペラでの英国プロテスタント教会の建設のほうが実にたいへん献身的な対象だったと答えたものだ。 8

マクドナルド氏はストラットフォード卿とこれ以上時間を無駄にせず、すぐにナイチンゲール嬢と力を合わせた。しかし、このような最高の人種の燃える心をもってしてもアマチュアと女性の組の突然の侵入であるから、普通の士官と軍の外科医の心を嫌悪と警戒感で満たしたことは容易に想像できる。彼らは理解することができなかった、女性が戦争となんの関係があるのか?オネスト・コローネルズは「鳥」についての辛辣な冗句をとばして彼らの不機嫌を和らげた。いっぽうで、自分の職業のトップにのぼる道ばかりを気にしていた男、惨めなホール博士は人間としては荒っぽいテリア犬だったが、驚いて急に黙り込みついにはナイチンゲール嬢の任命はとんでもないお笑い劇だと見なした。 9

彼女の地位は確かに公式のものではあったがあまり厳密なものではない。病院では、彼女自身が用意する奉仕だけが義務であり看護婦は医師たちに頼まれた時だけでそれまでは何も出来ないのであった。最初は外科医たちは声もかけず、わずかなものから歓迎されたものの大多数は敵対的で懐疑的な態度だった。しかし徐々に彼女は地歩を得た。善意は否定できず能力は無視することができなかったのだ。絶妙な伎倆と最高度合いの強さと優しさは、彼女を
取り巻く影響を受けやすく神経が高ぶり落胆し無力な権威ある男たちに、ついに彼女の人格を示すことになった。荒れる大海にゆるがず立つ怒れる岩であった。安全、快適、人生は彼女ひとりのものだった。それはスクタリで夜が明けた希望なのだ。混沌の支配と昔の夜は衰退し始める。秩序が現場に生じて来て、常識、先見、意思決定が、バラック病院の昼夜をとわず淑女総監督が職務につく小部屋から大ギャラリーへと放射される。進歩は遅いかもしれないが確実であった。

大きな変化の最初の兆候は、病院が数ヶ月も放置していた必需品に現われる。病人は、タオルや石鹸ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシの使用を楽しむようになった。ホール博士はそれを聞き鼻を鳴らし、兵士が歯ブラシで何を望むかとうなり声で尋ねるのであった。しかし良い仕事は続く。最終的に病院での必要品調達の全体業務は、実質的にナイチンゲール嬢によって実施される。彼女だけが、どんな不測の事態であろうと、必要とされる物をどこに手を差し伸べるべきかを知っているようであった。彼女ひとりが準備済みで品物を供給出来る、彼女ひとりがすべての上に覆っている公式な決まりの悪影響を回避する技術を保有する。これは最大の敵で大いに困惑させられたものだ。ある時本国政府から彼女の提案による2万7千着のシャツが到着、陸揚げされ解梱待ちになっていた。しかし公式の"御用達"が介入し、「役員会がないため解梱できない」と言う。ナイチンゲール嬢が懇願したが」無駄に終わる。傷病兵たちは衣類の配給を待って半裸で震えていた。シャツを配給する役員会まで3週間が経過していた。少し後同じような機会に、ナイチンゲール嬢は自身の権威を主張できると感じた。あわれな"御用達"部門が手をもみ絞り待ち受ける間、彼女は政府委託物の強制開梱を命じた。 10


イギリスから送られてくる貴重な大量の物資がトルコの税関の底なしの深淵に飲み込まれ横たわっていることを彼女は見つけた。バラクラバ宛の戦争の軍需品の下に埋もれて、他の船の積荷は確認無しでスクタリを通り過ぎ、病院の材料は時々三回も黒海を往復しながら運ばれてきた。システム全体が明らかに異常である。ナイチンゲール嬢は、受付と荷口の配布のための政府貯蔵所がスクタリの設置を本国の当局に提案した。彼女の到着後半年してこれが実行された。 11

その間に彼女は病院の厨房と洗濯場を再編成していた。病人の食事は不規則でひどい調理の肉の塊だけだったが、これを規則的な食事に置き換える。よく準備され食欲をそそり、体力をつける特別な食物、スープ、ワイン、ゼリー(「非常識な贅沢品だ」と、ホール博士がうめいた)が 必要な人たちに配られた。しかしあることに変化を与えられなかった。肉から骨を分けるについては公式の料理法のいかなる部分にもない。規則は等しい部分に分割される、すべてが骨でもしょうがないというもので、運次第なのだ。規則はおそらく良いものではなかった。しかしそれにも変化があった。「新たなサービス規則が必要なはずです。」彼女は「骨を肉にする」、と言われた。洗濯設備に関して大変革が起こる。ナイチンゲール嬢の到着の時に当局が洗浄に成功していたシャツは7着だ。彼女は病院の寝具類が冷たい水で「洗浄」されるのを発見する。ボイラーが付いているトルコ人の家を買い、兵士の妻を雇って洗濯物の作業をさせた。費用は彼女自身とタイムズからの資金でまかなう。これ以降は傷病兵たちは清潔なリネンの快適さを得る。 12


それから彼らの衣服に目を向けた。軍事的な緊急事態のために、膨大な数の男たちは兵士用キットがなかった。彼らのナップサックはもう失われて何も所有していない、身ひとつだけ、普通では破滅を早めるだけであろう。もちろん"御用達"は、規則によって兵士が病院衣類の適切な供給時に持参しろと指摘するだけで、欠品を補うのは自分の仕事ではないと言うのだった。どうやらこれはナイチンゲール嬢の業務のようだ。彼女は靴下、ブーツ、膨大な量のシャツを調達、ズボンを作らせ、ガウンを装備させた。「事実は、私は今イギリス軍に
軍服をまとわせているということよ。」、シドニー・ハーバートに語った。13

突然にクリミアから、新たに傷病者が多数出る突発的な出来事がまもなく起きるとの知らせが来た。彼らをどこにやればいいのか?病棟内すべての利用可能な場所は塞がっている。事態は深刻で差し迫っており当局は驚愕し立ち尽くすだけであった。そこに人間の住まいとして適さない兵舎兼病院の一部老朽化した部屋はあったが、ナイチンゲール嬢は措置が速やかにとられれば数百床を収容できるだろうと信じていた。医師の一人は同意したが関係者の残りの部分は優柔不断だ。非常に高くつく仕事になる、建物までを伴うだろう、誰が責任を取ることができる?妥当な道筋はロンドンの陸軍衛生部の局長に説明をおくることだ。その後事務局長は近衛騎兵連隊に委ねる、近衛騎兵連隊は兵站部にまかせる、兵站部は財務省に問題をなげる、財務省が同意を与えれば、もはや必要が去った数ヶ月後になってから作業は正しく進み始めるはずだ。ナイチンゲール嬢はストラットフォード卿を説得しようと決心していた、説得出来れば、必要な支出に彼の決裁が貰えると考えた。125人の労働者がすぐに従事し作業を開始した。労働者は驚く。ストラットフォード卿は、全体の業務のどこにおいてでも手を汚さなかった。ナイチンゲール嬢は、自らの権限で他に200人の労働者を従事させ彼女自身のリソースから費用を支払う。病棟は必要な日付までに準備ができていた。500人の病人はそこに収容された。ナイフ、フォーク、スプーン、缶やタオルを含めすべての器具は、ナイチンゲール嬢によって供給された。 14



この驚くべき女性はまさに管理責任者の役割を果たした。どのようにしてこうできたのか?じっさい単なる看護婦ではなかったということ?任務はただ病気の対応だけではなかったというべきか?そしてまさに実際、同世代の人の心を感動させる穏やかな「ランプを持つ淑女」、聖職者の天使のはずではなかったのか?疑問の余地なく、そうではある。だがまだ、彼女自身が言う確かなことがある。看護での特定業務は彼女が強いられたことではもっとも重要度が低い。スクタリの病院での組織が機能しない状態は差し迫るまさに重要なことで、その改善は看護以上の何かであるのは明らかだったのだ。文明的な生活のために必要な要素、つまりごくありふれた物品、ごく普通の清潔さ、秩序と専門家の初歩的な習慣である。

コンスタンチノープルに近づいていたころ一団の一人が言った。「おお、親愛なるナイチンゲール嬢、上陸したら遅れること無しで気の毒な仲間の介護にまっすぐ向かいましょう!」「強い意志が洗い桶いっぱい要りますよ。」がナイチンゲール嬢の答えだった。それが入った洗い桶がすべてのことに置かれ、彼女は最大のエネルギーを費やした。まだおそらく言うべきことがもっとある。果敢な勇気で警戒を怠らず昼となく夜となくベッドからベッドへと動き病人を見回る。仕事中の彼女を見た人には、あたかも、分けられない比類なき献身の集中力をもってしても、彼女独りの責務だけではとうてい十分でないと思われたことだろう。どこであれ広大な病棟の最悪の苦境で助ける必要が最も高いところには、魔法のように、ナイチンゲール嬢がいた。彼女の超人的な平静さは恐ろしい手術の時でも患者を耐えさせ希望を与えて勇気づける。同情心は死の苦しみを和らげるとともに、生けるものたちには忘れられた生命の魅力の何たるかを取り戻させるのだ。たゆまぬ努力は何度も何度も、外科医が治療の見込みを放棄した人たちを救った。

彼女の存在はそれだけでも不思議な影響をもたらす。情熱的な偶像の崇拝が男たちの間に広がった。通りすぎた後に彼らは彼女の影に口づけをする。さらにより多くをした。兵士は言う「彼女が来る前には厄介者と悪口があったけど、後では教会の聖者だったよ。」戦う男たちの最も大切な特権はナイチンゲール嬢のために放棄された。彼女自身が言うように、これらの「人間の悲惨さの最も低い沈下」のなかに身を置いても「それが貴婦人を苦しめるだろう」という言葉は聞いたことがなかった。15

彼女は英雄的である。これらは山ほどの高い質の稼ぎ頭に支払われる謙虚な賛辞である。確かに、彼女は英雄だ。だがその勇敢さは単に小説の読者と聖人伝、人が選んで好むロマンチックな感傷的な武勇伝として受ける類いのものではない。それはのっぴきならぬ素材からできている。苦悩する負傷兵の寝台の前に彼女はよく慈悲の優雅な天使を装って現れるかもしれない。しかし軍医、当番兵、彼女の看護婦、"御用達"、ホール博士、さらにはストラットフォード卿たちは別の物語をするであろう。彼女がスクタリ病院において混沌を脱し秩序をもたらしたこと、自身の持出しで英国陸軍の軍服を着せたこと、おおやけの世界での居並ぶ消極的な勢力の上に支配権を広げていったこと、これらは優しい甘さと女性らしい自己犠牲によるものではない。厳密な方法、断固とした規律、細部までの厳格な配慮、絶え間ない労働、不屈の意志でのゆるがぬ決心、これらによって行ったのだ。

クールで穏やかな物腰の下に激しい情熱的な災が潜む。地味な服装でいかにも静かに控えめに病棟を通ってゆくとき、完璧な淑女として気まぐれな観察者を直撃するが、しかし鋭い眼にはそれを超えるなにかが感じられた。ひろい眉に認められる高度な思案の沈着さ、細い鼻の曲線が支配的する力のしるし、そして過酷で危険な気質の痕跡、どこか気難しくどこかあざけるように、だが几帳面で、小さく繊細な口からはそう見える。顔にはユーモアがただよう。しかし妙な観察者は非常に楽しい種類のユーモアかどうか疑問に思うかもしれない。自問するだろう、笑い声を聞き、患者の精神を鼓舞するジョークを気に留めてみても、どのような冷笑的な陽気さもこの女性にはプライバシーの煙突を通らないかもしれない、と。

声に関しては表情からよりもそれは真実だ。それは「人はその中に主人を喜んで呼ばなければならなかったからだ。」明確なトーンは強調の必要がなかった。仲間のひとりは言う。「彼女が声を大きくするのを聞いたことがない。」皆は彼女が話しただけで従順に従うことしかないように思われた。あるとき彼女が何かの指示を出したとき、医師はそれはできかねると一言した。 「しかし、やらねばなりません。」ナイチンゲール嬢は言った。そばでこの言葉を聞いた陪席者は、彼らのこの抵抗し難い権威者を生涯を通して忘れなかった。実際、彼らは静かに、非常に静かに話しかけられたのであった。 16

 

夜も更けてベッドの長い列が暗闇に包まれるころ、ナイチンゲール嬢は小さな部屋に座って通信の仕事に携わっていることだろう。それはすべての職務の中でも手強いものの一つだ。兵士の関係者や友人たちの数百通の手紙があった。処理すべき巨大な量の公文書があった。返事を要するプライベートな手紙があった。なかでも最も大事なものは、シドニー・ハーバートへの長い機密報告の文章である。これは決して公式な通信文ではない。広大な責任の取得と制限で終日鬱積する彼女の魂は、今最後に開いている水門を通じて溢れるかのように自然な激しさでこの手紙に自分自身を注ぎこんだ。ここでは少なくとも控えめに書く必要はなかった。とり囲む恐ろしい情景を最も暗い色で描き、容赦なく憎むべき真実を覆い隠している最後のベールを引き裂く。それから、不測の出費の複雑な計算、組織の細部にわたる批判、徹底的な分析と息もつかぬ意気込みで積まれた統計資料、これらの推奨や提案で冒頭から終わりまでのページを埋めるだろう。彼女のペンは口達者の毒性をもって、無能な外科医や軍属の看護婦への冷やかしの非難といった個人の議論にも殺到する。

彼女の皮肉は機関銃の厳しい非情な精度であらゆるランクの役人たちを探し出す。彼女がつけたニックネームは手厳しいものだ。誰をも尊敬しない。ストラットフォード卿、ラグラン卿、レディ・ストラットフォード、アンドリュー・スミス博士、ホール博士、警視総長、御用達、彼らすべてに対して雷を落とした。人類への耐え難い役立たずが悪夢のように彼女に取り憑く、それに彼女は歯ぎしりする。「私は怒っているごとくうまくやれる。」これが重責の叫びであった。スクタリでこのような男がどれだけいたか?病状すべてに手を打つどれほどの人がいたろうか、またはその救済のために何かを行っていた人々がどれだけいたか? 10人いたのか、それとも5人? 一人しかいないのか?彼女には確信が無かった。 17

あるとき、数週間の間、彼女の憤激がシドニー・ハーバート自身の頭上に落ちた。彼は彼女の願いを誤って解釈し前向きの教示に反対した。誤りを認めてまた好意を得たいとのみじめな言葉で絶望的に謝罪するまでそれはおさまらなかった。この誤解は貴族の若い紳士が大臣の勧めでスクタリに到着したとき頂点に達する。彼は夢の天使のヒロインに敬意を捧げようとロマンチックな望みいっぱい英国を発って来た。彼によれば、安楽で豪華な人生を脇に放り出し穏やかな女性への奉仕に昼と夜を捧げるという職務をし、彼女の「たばこ」、召使いのように、笑顔で報いられる感じだという。ただの笑顔は確かにあったがそれは要らぬ親切だった。ナイチンゲール嬢は最初は会うことすら拒否したが、論争を間違った方向に彼女を置かぬようシドニー・ハーバートから送られた使者だと信じて、会話のメモを取ってその終わりには彼の署名を要求した。若い紳士は、次の船で英国に戻った。18

シドニー・ハーバートとの喧嘩は、例外的な事件だった。彼と同様に、戦時相の後継者パンミュール卿によって彼女はしっかりと支援されていた。スクタリでの滞在の全体で背後に本国政府がある事実は、病院当局との関係で彼女の切り札となった。それどころか助かったのは彼女が背後にいた政府の方だった。英国の世論はすぐに彼女の使命の高い重要性を認識し、彼女の仕事への熱狂的な感謝はすぐに異常な高さに達した。女王はみずから深く感動しナイチンゲール嬢の福祉活動のことを繰返し訊ねた。負傷者数の報告を求め王位と軍の間の仲介をする。
     [戦時相に手紙を書いた]   ハーバート夫人に知らせなさい。私はナイチンゲール嬢と淑女たちがこれら哀れで高貴な負傷者と病人に伝えることを願います。女王ほどに、あなたがたに暖かい関心を抱きその苦しみのために多くを感じ、勇気と英雄の精神を賞賛するものはいないことを。昼も夜も最愛の軍のことを思います。公子も同じです。ハーバート夫人に請う、私達の共感が高貴な仲間によって高められていることを私は知っているとあの女性たちに伝えることを。

手紙は、牧師によって病棟で読み上げられた。「これは非常に感動する手紙です。」男は言った。 19

そして数ヶ月が過ぎ、インケルマンに始まりセバストポルの包囲の長い苦しみを通して引きずって来た長い冬はついに終わった。1855年5月、半年の労苦の後にナイチンゲール嬢は、スクタリの病院の状態が満足のいくものになったと見た。置かれていたひどい歪みに耐えて生き残るよりほかに何もしていなかったとしてもお祝いに値することであった。しかし彼らはるかに行い見事に改善していたのだ。病棟での混乱や重圧は終わりに来ている。清潔と秩序が行き渡り、支給品は適切で豊かになった。大事な衛生のしごとは続けられている。状態の単純な比較でも十分に驚くべき変化が明らかだ。治療中の死亡率は42%から千人あたり22人まで低下した。それでも不屈の女性は満足しない。主要な問題は解決され男たちの身体面での措置は整って来たが彼らの精神的、神経面のケアが残っている。彼女はそれに手を付けて、読書室と娯楽室をととのえ学級を設け講義を始めたのだ。士官たちは彼女が兵士たちにあたかも人間のように対するのを見て驚嘆し、「獣性を損なう」だけで終わるだろうと請け合った。が、ナイチンゲールの意見は違い、そして正しかった。兵士たちの飲酒量は減り始め、あまつさえ、不可能と思われていた給与の貯金すらしはじめたのだ。ナイチンゲール嬢は軍隊のための銀行家になって、毎月膨大な額を受け取っては彼らの家庭に送金する。ついに不本意ながら政府はこれに追随し送金の専門組織を設けた。パンミュール卿はしかし懐疑的で、言った。「良いことではなかろう、英国の兵士は送金動物ではない。」だが半年の間に、実に、7万1千ポンドが送金されたのだ。20 

これらの活動のあいだに、ナイチンゲール嬢はクリミア自体にある病院の調査の仕事に手を付けた。労苦は極端なもので、生活の条件はほとんど耐え難いものだった。彼女は鞍の上で日がな過ごし、あるいは荷物のカートのなかで荒涼とした高い岩山を引き回された。時にはひどく降りしきる雪のなかを何時間も立ちつくし、険しい渓谷を何マイルも歩いて夜になって死んだようになって小屋に着くこともあった。彼女の抵抗力は信じられないほどだったが、しまいにはみな疲れてきっていた。発熱に襲われ一瞬死にかけたときがある。それでも働き続けた。動けなくても少なくとも書くことはできる。そして気持ちが続く限り書き、その心が去った後は死そのものの混濁した忘我のなか、それでもまだ書いている。何週間かたって旅行できるまでに回復したとき、イギリスに戻るべきだったかもしれないが断固拒否した。戻るつもりはない、兵士たちの最後がスクタリを去る前には。 21

(第2部 まだつづく)

 

 

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ビクトリア女王 第10章  ー Lytton Strachey

2011-12-30 20:00:02 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ

リットン・ストレイチーの「ビクトリア女王」第10章 これで終りビクトリア女王、とうとう亡くなってしまった。生まれる前から知っているから辛いなあ。人は死すべきものとはいえ・・・よくやったよね、ビクトリアさん。最後の数行はもう目が潤んでタバコばかり吸っていたよ。

ストレイチーさんよ、ありがとう。これが書かれたのはもう90年前になるのだが、もっと読まれていい本であろう,特に日本では。読むのに4ヶ月もかかってしまったけど、うーむ、すばらしいことが書いてあるものだ。専門家でもないから膨大な文献などおそらく目に触れる事もあるまいし、それよりも調べたら一生かかっても終わらないだろうしね。これはという画像を貼り付けてみたが、写真より絵の方が赤黄青緑金銀の彩りあっていいね。日本人で誰もやってくれないのでついでにやってみた。自分にはもう何の役にも立たないのかもしれぬが・・・

おおっと、何か今年コピー大賞とかもらった名文句があったな、確か「一生を棒に振るような仕事をしたい」。
  来年は少しまともになろう・・・ビクトリア女王を見習って。 I will be good.


>>>>>>>>(Queen Victoria  by Lytton Strachey /(The Project Gutenberg EBook of Queen Victoria, by Lytton Strachey  より のり坊訳。 画像:wiki/Queen_VictoriaQUEEN VICTORIA: IMAGES OF HER WORLD etc.)

CHAPTER X. THE END

第10章  終章

 Queen Victoria at breakfast in Nice, 1895, with Princesss Helena of Schleswig-Holstein and Princess Beatrice and Indian servant

夕方は黄金のようだったが結局、一日は雲と嵐で終わることになった。帝国の要求、帝国の野望は南アフリカの戦争に国を巻き込んだのだ。頓挫と敗北と流血の災難で一時期国家は揺さぶられ、女王も人々の難儀を親密な心遣いから感じとった。しかし彼女の精神は気高く勇気も自信も一瞬たりとも揺らがない。戦争には心と魂を傾けて戦闘の詳細まで関心を持ち一層の活力で国家の大義への奉仕をあらゆる手段に求める。1900年4月、81歳のとき、フランスへの毎年恒例の旅行を断念し、軍隊に特に多くの新兵を出していたアイルランドを訪問するという驚くべき決断をする。ダブリンには3週間滞在し、顧問たちの警告にもかかわらず武装護衛なしで街なかを騎行する。訪問は大成功だった。しかしその行程中に、はじめて年齢による疲労の兆しを見せはじめた。

戦争によって長い緊張と絶え間ない不安を強いられ不調がとうとう現われたのだった。生まれつき強固な体質に恵まれ、失意の時代には時々自身が無価値だと思ったこともあったが、実際のところビクトリアは生涯を通じてとても良好な健康状態に恵まれている。晩年には関節のリウマチに悩まされ杖に頼りさらには車椅子の世話になるが他の疾患はそれまでにはなかった。1898年に初期白内障で視力に影響が出る。読み書きにはますます困難が伴ったが、署名し難儀しながら手紙も書いていた。 1900年の夏、より深刻な症状が現れる。長い間強さと精度を誇りしていた記憶力が時々彼女を見捨るようになり失語症の傾向も出るがそれでも特定の病気は見られなかった。だが秋には体調の崩れの紛れもない兆候があった。この最後の数ヶ月でさえ、鉄のような奮闘は健在である。毎日の仕事が続きそれどころか実際には増える。女王は驚くほどの根気強さで、増え続ける戦争に苦しむ男性や女性たちとは個人的に文通すると言い張ったからだ。

年の終わりまでには衰退しつづけ残る力も限界に来ていた。新しい世紀のはじめの日々には、意志の努力だけによって生きながらえているのが明らかだった。 1月14日、オズボーンで、数日前に南アフリカからの勝利の帰還を果たしたロバーツ卿と1時間ばかりの謁見を行う。戦争の深刻な不安で細部までを尋ね、なんとか力を保っているようであったが、謁見がおわったときに崩壊がきた。翌日侍医たちは状態は絶望的であると認識するが、2日間まだ不屈の精神で戦いつづけ英国女王の職務を履行したのだった。だがやはりそれも終わりがくる。最後の希望的観測もなくなっていた。脳は働かず命は静かに滑り出すようであった。家族は周りに集まる。言葉もなく明らかに何も分からないようであったが、少しのあいだ名残り惜しそうにして、1901年1月22日、彼女は亡くなった。


二日前に、最期が迫っているとのニュースが公表されたときは、驚きと悲しみが国中を駆け巡る。自然の成り行きにどこかに巨大な逆転が起きたかのように思われたのだった。国民の大半は、ビクトリア女王がいつ君臨されたかさえ知らない。物事をなす全体のすがたの一部にずっとあり続けたために、失ってしまうことにはみなの考えが及ばなかった。
盲目と静寂のなかに横たわっている彼女自身はすべての思考を止め、忘却の淵に消え去って行くように見えた。

だが、きっと、秘密の意識の部屋に自分の思いもしまっておいていたのだ。

たぶん消え去る心はもう一度過去の影たちを集めそれぞれの前に漂い浮いて、長い時間のなかで見えなくなっていた光景にこれでお別れと引き返す。年ごとの雲を抜けて昔へ昔へと遡り、古いもっと古い思い出のかなたへ・・・・ビーコンズフィールド卿にあげるさくら草が満開のオズボーンの春の森、パーマストン卿のへんてこな服装と高慢ちき、緑のランプの下のアルバートの顔、バルモラルでアルバートが初めて仕留めた雄鹿、青と銀の軍服の凛々しいアルバート、ストックマー男爵が戸口から入ってくる、M.卿はウィンザーで楡の木を廻るカラスを見て夢のなか、カンタベリー大主教が膝を折るあの夜明け、先きの王の七面鳥言葉,クレアモントでのレオポルド叔父の優しい声、地球儀の脇にレーゼン、ママが私に向ける羽毛のような気持ち、亀甲ケースに入った父親の大きな古い二度打ち時計、黄色のじゅうたん、小枝模様のモスリンの心地よいフリル、ケンジントンの木々や草花たち。

( 完 )

 

 

   Queen_Victoria_60._crownjubilee_1897 

 

Lytton Strachey

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Queen Victoria

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(First published by Chatto & Windus 1921)


日本語訳 のり坊:佐竹則和  2011/12/30

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             目 次

第1章 先祖たち     1−4節

第2章 こどものころ   1−3節   4−5節

第3章:メルボーン卿   1−4節   5−8節 

第4章 結婚       1−3節   4−7節  

第5章 パーマストン卿  1−2節   2−3節

第6章 王配殿下の晩年  1−2節   3−4節

第7章 やもめ暮らし   1−4節

第8章 グラッドストンとビーコンズフィールド卿 1−2節  3節

第9章 老いのとき    1−3節  3−4節

第10章 終章

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BIBLIOGRAPHY AND LIST OF REFERENCES IN THE NOTES, ARRANGED ALPHABETICALLY.

引用文献と参照注釈一覧 −  アルファベット順

Adams. The Education of Henry Adams: an autobiography. 1918.

Ashley. The Life and Correspondence of H.J. Temple, Viscount

          Palmerston. By     A.E.M. Ashley. 2 vols. 1879.

Bloomfield. Reminiscences of Court and Diplomatic Life.

          Georgiana, Lady  By     Bloomfield. 2 vols. 1883.

Broughton. Recollections of a Long Life. By Lord Brougton.

          Edited by Lady Dorchester. 6 vols. 1909-11.

Buckle. The life of Benjamin Disraeli, Earl of Beaconsfield.

          By W.F. Monypenny  and G.E. Buckle. 6 vols. 1910-20.

Bulow. Gabriele von Bulow, 1791-1887. Berlin. 1893.

Bunsen. A Memoir of Baron Bunsen. By his widow, Frances, Baroness Bunsen. 2 vols. 1868.

Busch. Bismarck: some secret pages of history. By Dr. Moritz Busch. (English translation.) 8 vols. 1898.

Childers. The Life and Correspondence of the Rt. Hon. Hugh  C.E. Childers. 2 vols. 1901.

Clarendon. The Life and Letters of the Fourth Earl of  Clarendon. By Sir Herbert Maxwell. 2 vols. 1913.   Cornhill Magazine, vol. 75.

Crawford. Victoria, Queen and Ruler. By Emily Crawford. 1903.

Creevey. The Creevey Papers. Edited by Sir Herbert Maxwell. 2 vols. 1904.

Croker. The Croker Papers. Edited by L.J. Jennings. 1884.

Dafforne. The Albert Memorial: its history and description. By  J. Dafforne.   1877.

Dalling. The Life of H.J. Temple, Viscount Palmerston. By Lord   Dalling. 3     vols. 1871-84.  Dictionary of National Biography.

Disraeli. Lord George Bentinck: a political biography. By B.Disraeli. 1852.

Eckardstein. Lebens-Erinnerungen u. Politische    Denkwurdigheiten. Von Freiherrn  v. Eckardstein. 2 vols. Leipzig. 1919.

Ernest. Memoirs of Ernest II, Duke of Saxe-Coburg-Gotha. 4 vols. 1888. (English translation.)

Fitzmaurice. The Life of Earl Granville. By Lord Fitzmaurice.   2 vols. 1905.

Gaskell. The Life of Charlotte Bronte. By Mrs. Gaskell. 2 vols. 1857.

Girlhood. The Girlhood of Queen Victoria. Edited by Viscount     Esher. 2 vols.  1912.

Gossart. Adolphe Quetelet et le Prince Albert de Saxe-Cobourg. Academie Royale de Belgique. Bruxelles. 1919.

Granville. Letters of Harriet, Countess Granville. 2 vols. 1894.

Greville. The Greville Memoirs. 8 vols. (Silver Library  Edition.) 1896.

Grey. Early Years of the Prince Consort. By General Charles Grey. 1867.

Halle. Life and Letters of Sir Charles Halle. Edited by his Son. 1896.

Hamilton. Parliamentary Reminiscences and Reflections. By Lord  George Hamilton. 1917.

Hare. The Story of My Life. By Augustus J.C. Hare. 6 vols.  1896-1900.

Haydon. Autobiography of Benjamin Robert Haydon. 3 vols. 1853.

Hayward. Sketches of Eminent Statesmen and Writers. By A.Hayward. 2 vols.  1880.

Huish. The History of the Life and Reign of William the Fourth. By Robert Huish. 1837.

Hunt. The Old Court Suburb: or Memorials of Kensington, regal, critical, and anecdotal. 2 vols. 1855.

Jerrold, Early Court. The Early Court of Queen Victoria. By Clare Jerrold.   1912.

Jerrold, Married Life. The Married Life of Queen Victoria. By  Clare Jerrold. 1913.

Jerrold, Widowhood. The Widowhood of Queen Victoria. By Clare  Jerrold. 1916.

Kinglake. The Invasion of the Crimea. By A.W. Kinglake. 9 vols. (Cabinet Edition.) 1877-88.

Knight. The Autobiography of Miss Cornelia Knight. 2 vols. 1861.

Laughton. Memoirs of the Life and Correspondence of Henry  Reeve. By Sir John   Laughton. 2 vols. 1898.

Leaves. Leaves from the Journal of our Life in the Highlands, from 1848 to1861. By Queen Victoria. Edited by A. Helps. 1868.

Lee. Queen Victoria: a biography. By Sidney Lee. 1902.

Leslie. Autobiographical Recollections by the late Charles  Robert Leslie, R.A. Edited by Tom Taylor. 2vols. 1860.

Letters. The Letters of Queen Victoria. 3vols. 1908.

Lieven. Letters of Dorothea, Princess Lieven, during her  residence in London,1812-1834. Edited by Lionel G. Robinson. 1902.   The London Mercury.   Lovely Albert! A Broadside.

Lyttelton. Correspondence of Sarah Spencer, Lady Lyttelton, 1787-1870. Edited by Mrs. Hugh Wyndham. 1912.

Martin. The Life of His Royal Highness the Prince Consort. By Theodore Martin. 5vols. 1875-80.

Martin, Queen Victoria. Queen Victoria as I knew her. By Sir Theodore Martin. 1908.

Martineau. The Autobiography of Harriet Martineau. 3 vols. 1877.

Maxwell. The Hon. Sir Charles Murray, K.C.B.: a memoir. By Sir Herbert Maxwell. 1898.

More Leaves. More Leaves from the Journal of a Life in the Highlands, from1862 to 1882. By Queen Victoria. 1884.

Morley. The Life of William Ewart Gladstone. By John Morley. 5vols. 1903.

Murray. Recollections from 1803 to 1837. By the Hon. Amelia Murray. 1868.

National Memorial. The National Memorial to H.R.H. the Prince Consort. 1873.

Neele. Railway Reminiscences. By George P. Neele. 1904.

Owen. The Life of Robert Owen written by himself. 1857.

Owen, Journal. Owen's Rational Quarterly Review and Journal.

Panam. A German Prince and his Victim. Taken from the Memoirs of Madame Pauline Panam. 1915.

Private Life. The Private Life of the Queen. By One of Her Majesty's Servants.  1897. The Quarterly Review, vols. 193 and 213.

Robertson. Bismarck. By C. Grant Robertson. 1918.

Scott Personal and Professional Recollections. By Sir George Gilbert Scott.     1879.

Smith. Life of Her Majesty Queen Victoria. Compiled from all available sources. By G. Barnett Smith. 1887.

Spinster Lady. The Notebooks of a Spinster Lady. 1919.

Stein. Denkschriftenuber Deutsche Verfassunyen. Herausgegeben  von G.H. Pertz.  6 vols. 1848.

Stockmar. Denkwurdigkeiten aus den Papieren des Freiherrn  Christian Friedrich  v. Stockmar, zusammengestellt von Ernst Freiherr v. Stockmar.          Braunschweig.     1872.

Tait. The Life of Archibald Campbell Tait, Archbishop of  Canterbury. 2 vols.     1891.

The London Times. The Times Life. The Life of Queen Victoria,  reproduced from The London Times. 1901.

Torrens. Memoirs of William Lamb, second Viscount Melbourne.  By W. M. Torrens. (Minerva Library Edition.) 1890.

Vitzhum. St. Petersburg und London in den Jahren 1852-1864.    Carl Friedrich  Graf Vitzthum von Eckstadt. Stuttgart. 1886.

Walpole. The Life of Lord John Russell. By Sir Spencer Walpole. 2 vols. 1889.

Wilberforce, Samuel. Life of Samuel Wilberforce, Bishop of  Oxford. By his son,R.G. Wilberforce. 3 vols. 1881.

Wilberforce, William. The Life of William Wilberforce. 5 vols.    1838.

Wynn. Diaries of a Lady of Quality. By Miss Frances Williams Wynn. 1864.

== the end ==


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ビクトリア女王 第9章 3−4 ー Lytton Strachey

2011-12-30 13:52:43 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ

リットン・ストレイチーの「ビクトリア女王」第9章 老いのとき 後半の第3〜4節。3節の最後あたりから第9章おわりまで。ビクトリア女王の老年期、晩年をあぶり出す。よく考えてみればビクトリアの治世というより君臨は、東洋で不名誉な孤立をしていた島国でいえば天保から明治末期までがすっぽり収まる60数年なのであった。わがナデシコの国のことなどほとんど大英帝国の王様の頭にはなかったと思われるが・・・"Approved."

>>>>>>>>(Queen Victoria  by Lytton Strachey /(The Project Gutenberg EBook of Queen Victoria, by Lytton Strachey  より のり坊訳。 画像:wiki/Queen_VictoriaQUEEN VICTORIA: IMAGES OF HER WORLD etc.)

 CHAPTER IX. OLD AGE

第9章 老いのとき

III 

・・・(つづき)

活動的な生活のかたわら余暇は、文学や芸術の鑑賞の探求よりも漠とした娯楽に費やされた。ビクトリアは膨大な財産を持つ女性だったが,またたいへんな物持ちでもあったのだ。家具、装飾品、陶器、皿、あらゆる種類の貴重品の莫大な量を受け継いでいる。そして長い人生を通してその蓄積にたくさんの買い増しまでをしたのだった。加えて世界中のあらゆる地域からの贈り物が次々と流れ込んで来る。この膨大なものを絶え間なく念入りに見極めをし、細部まで気をくばった配置と鑑賞は心底からの満足感で彼女を満たしたのだった。

収集本能は人間性のとても深いところにその根源を持つ。ビクトリアの場合には二つの支配衝動の力のゆえと思われる。人格として自身に備わっていた強烈な感覚、それに渇望。これが歳とともに高まり老年ではほとんど強迫観念にまでなっていた。ゆるがず、堅固で、変化と時間への憤りに対するたしかなバリアを設けるために。所有するおびただしいものについて考え、自分にかなったものを選び出すとき、個々の資質のもつ鮮やかさと豊かさが満喫できる。すばらしい百万もの切り子に照らされている自分を見、奇跡のように無限の地域の上に君臨していることを実感して、きわめて満足するのだった。それはまさにすばらしいが次には落胆の思いがやってくる。すべてが滑り落ち、消失し、砕け、ディナー用セーヴルは綻び、金の鉢は不可解なことに灰皿になり、さらには自身が築き上げてきた思い出と経験さえも、変動し、消滅し、溶解する・・・しかし、そうではない!そうであってはならない!何ら変わらずに失うものなど何もない!何ものも、過去も現在も、少なくとも自分自身は少しでも、動いてはいけない!たいへんに粘り強いこの女性は、貴重品を買いだめしつつ、不屈の魂で、それらが永遠なことを定めるのだった。ひとつの記憶もひとつのピンも失うことはない。

どんなものも捨ててはいけないと命令し、そうされた。こうして引出しという引出しに、ワードローブのつぎにまたワードローブがと70年間の衣装が休眠することになった。衣装だけでなく、毛皮、マント、フリル、マフ、パラソル、ボンネット、すべてが日付をつけて完全に年代順に整理される。大きな食器棚は人形たちに捧げられていて、ウィンザーの陶器の部屋には特別なテーブルに幼年期につかったマグカップが置かれ同様に子供たちのマグカップがある。すし詰めの過去の記念品の山に囲まれていたのだ。どの部屋のテーブルも親族の写真で厚化粧をしている。壁は彼らのすべて年齢が明らかにわかる肖像画で覆われ、台座から固い大理石の彫像が立ち上がり、また金と銀の彫り物が張り出し棚からきらめいている。ミニチュア、磁器、大きな実物大の油彩といったで様々な形で、死者は永遠に彼女をとりまいている。ジョン・ブラウンは純金で執筆卓上に立っている。お気に入りだった馬や犬は新たな耐久性に恵まれて彼女の足もとをにぎわしている。ダイニングテーブルは銀と金箔でシャープに磨かれて、少年とボズ=チャールズディケンズが新鮮さを失わない青銅の花の間で一緒に横たわっている。過去のものたちが金属や大理石の安定性を与えられただけでは十分とはいえない。全体のコレクションが、存在だけにおわらずに配置までが変わらず固定されねばならない。追加されることはあっても変化してはならなかった。どのチンツもかえてはならない、カーペットもカーテンも別のに置き換えられてはいけない。長い経過でとうとう替えることになっても織物と模様は鋭い目で見ても違いが分からないように全く同じとおりに再現する。ウィンザーの壁にはもはや新しい絵がつり下げられることはない。その場所はアルバートが配置済みでその決定は永遠だった。それはじつにビクトリアのものでもあった。

     Prince Albert's present table, Christmas 1860, Windsor

これらを確実なものにするために、カメラの助けを借りることになる。女王の所有物はなんであれいくつかの角度から撮影された。写真は女王陛下に提出され慎重な検査の後に承認されればゆたかに束ねられたアルバムのシリーズに加えられるのだった。そうしてそれぞれの写真の見開き側には見出しがもうけられ、物の数、保管されている部屋番号、部屋内の正確な位置とそのすべての主要な特性が記された。このプロセスを受けて対象物の運命は今後抹消不能として密封される。膨大な全体はこれを最後に不動の姿勢に入るのであった。ビクトリアはいつも2つの無限カタログ、巨大なボリュームを横に置いて目を通し長々と話し熟考し、この世界は自分の力の増幅によってトランジスタ化されてしまったと、二重の満足を感じるのだった。

このようにして、このコレクションは本能の奥にある自身に根ざした意識の新分野を広げ、不可思議なその存在を支配する影響の一つともなった。単に物や思想のコレクションではなく,心の状態と生き方のコレクションなのであった。記念日のお祝いはその重要な枝葉になっている。それぞれにかなった感情が必要な誕生日や結婚の日と死亡の日は、それを適切に現わす形で表現されねばならない。もちろん喜びや嘆きの儀式の形は決まりきったものとして残される。それもコレクションの一部だ。特定の日には例えば、花はバルモーラルのジョン・ブラウンの記念碑に散らばっていなければならない。毎年のスコットランドへの出発の日付はその事実で確定されねばならない。必然的にそれは死、人間の可変性の最後の目撃者、死の中心的な状況のまわりに記念の欲求が最も厚く集積する。ひとは存分に思い出すことができて、あまるほどの情熱で繰り返して強め、永遠の愛を明らかにすることが出来たなら、死それ自体さえ平伏するのではなかろうか?ビクトリアのすべてのベッドには、背面、右側、枕の上に、造花のリースに載せられてアルバートの頭と肩の写真が亡くなって横たわっているときのように取り付けられていた。

思い出がとても身近に重なっているバルモラルでは、たしかな記憶のかたちは驚くほど豊富に登場する。オベリスク、ピラミッド、墓、銅像、ケアンズ、彫られた花崗岩の腰掛けは、ビクトリアの死者への献身を物語っている。そこで年二回、到着の次の日に見学と瞑想の厳粛な巡礼が行われた。8月26日のアルバートの誕生日には、ハイランド衣装を着けた銅像の足下で,女王、家族、宮廷、使用人、借地人が一緒に集い、静寂の中で死者の記憶にひたった。英国においては,このような記憶の現れが群がることはほとんど稀である。幾重にも折りたたまれたなんらかの遺物 ー ロスの金の像、パイパー、中世の衣装のビクトリアとアルバートの等身大大理石、台座には刻まれた「明るい世界に魅了され、その道を示す。」
オズボーンの植え込みに置かれた花崗岩の石板は訪問者に教える。「ウォルドマン:ビクトリア女王が非常に好きだった小さなダックスフント、彼はバーデンから1872年4月に連れて来られた。1881年7月11日没」

      Waldmann by Victoria


フログモアの偉大な霊廟は永続的に高められ宮廷がウィンザーにあるときは女王はほぼ毎日訪れた。だがこれとは別にひそやかな聖なるとはほとんどいえない神社があった。アルバートが城にもっていたスイートルームは,彼の死以来誰の目からも閉ざされて最も特権的に保存されている。境内には公子の死の時のままにすべてが残され、ビクトリアの神秘的な関心事は、毎晩夫の衣類はベッド上にゆったりとあらためられ毎晩洗面器には水がはられること。あたかもまだ生きているかのように。この信じられない儀式はほぼ40年間綿密な規則性でおこなわれたのだった。

このようなことは、内的な礼拝である。まだ健全な精神は肉体に宿る。依然として日々の労働の時間が、死者の理想に向かってのビクトリアの奉仕を強いるのだった。年とともに自己犠牲の感覚は薄れるが熱心さの自然なエネルギーで満足感をもって公的な業務の経路に身をおく。少女時代から強かった仕事への情熱は活力をわきたたせたものだが、老年期になると書き物からも失せて仕事の箱は救いではなく苦痛にもなる。労多き閣僚たちはため息をつき悩まされるが政府の全体のプロセスは、彼女の前を素通りしながらもまさに最後まで続いた。それだけではなかった。古くからの先例で王の署名手引きどおりに膨大な数の公式文書が署名を要し女王の労働時間の大半はこの機械的な作業に費やされるのだ。だがそれを軽減してほしいそぶりも見せない。それどころか自発的に、議会法によってもはや解放されたはずの中年期には放棄さえしていた軍隊における将校辞令の書名までを再開したのだった。

   Queen Victoria, her collie dog Noble, and the Munshi, Abdul Karim.

いかなる場合でもスタンプを使うという勧めにはのらない。だがとうとう業務が増える一方耐え難い時代遅れの方式が遅延を招いたため一定のクラスの文書には口頭承認があれば十分と認めざるをえなかった。文書は彼女の前で高らかに読まれそして最後に言う。「承認。Approved.」しばしば一時に何時間もアルバートの胸像の前に座り、「承認。」という単語が唇から間隔を置いて何度も何度も発行されるのであった。言葉は雄大な音色をもって口にされた。いまやその声はなんと、少女時代の銀鈴を振る高音から音量響きとも充分な力強いものに変わっていることか。


 IV

最後の年月は、神格化の年だった。彼女の臣民たちの目がくらむ想像のなかでビクトリアは、高潔な栄光の後光のなかを神性の領域に向かって上昇した。批判は崩れ去っていた。二十年前にあまねく認められた欠陥はいまや問題にもならなくなった。国民のアイドルが国家の非常に不完全な代表であることなどほとんど気づかれない状況になり、またそれはあきらかに本当なのだ。 1837年の英国から1897年の英国を作り出した広大な変貌は、とうてい女王を感動させているとは思われない。アルバートにはその重要性が完璧に理解されていたこの期間の巨大な産業発展は、ビクトリアにはじつに意味のないものであった。アルバートがそれに劣らず高く評価していた驚くべき科学上の動きにもビクトリアは完全に冷ややかなままであった。

人間の居場所としての宇宙への、自然と哲学の膨大な問題に関する概念は生涯を通じて全く変わらなかった。宗教は、レーゼン女男爵とケント公妃から学んだ宗教である。ここでもまたアルバートの見解が影響を与えた可能性をおもわせる。アルバートに関しては宗教の問題では進んでいた。悪霊は全く信じず、ガダラびとの豚の奇跡にも疑いを持っていた。さらにはストックマーはプリンス・オブ・ウェールズの教育での驚くような
覚書のなかで「子供はあやまりなく、英国の教会の信条のもとに育ってゆくべき。」となげかけたが、にもかかわらず彼の宗教的な訓練は信仰の説く「キリスト教の超自然的教義」を閉め出す時代の精神とは調和するものだ。


しかしながらこれではあまりにもかけ離れすぎるから、王室の子どもたちはみな完全な正統性の信仰のもとで育てられた。正統に対する自身の概念はあまり正確ではなかったがなにものもビクトリアを悲しませはしない。しかし、想像力と繊細さがとても小さな場所しか占めない性質のゆえに、本能的に高聖公会の複雑な恍惚には反跳した。スコットランド長老派教会の素朴な信仰に最も安らぎを感じているようである。これは期待されていたとおりだったかもしれない。レーゼンはルター派の牧師の娘であり、ルター派と長老派には多くの共通点があったからだ。長年にわたりノーマンマクラウド博士、無垢なスコットランドの大臣は大事な精神的な顧問だった。彼が呼ばれてバルモラルの小百姓たちと一緒に生と死の静かなおしゃべりをしていると大きな安らぎを得るのだった。信心深さ、全き純真、それは老ジョングラントの落ち着いた爽快さ、P.ファーカソン夫人の敬虔さに見られよう。14歳の子ども時代の
彼女は真摯にチェスター司教を賞賛し、彼らが「聖マタイの福音書を実にわかりやすく真実と良き感情で示してくれた。」ミルとダーウィンの時代に名前を与えられた女王であったが、それより先に進んだことはなかった。

ビクトリアは時代の社会運動からも同じように距離を置いている。大きな変化よりももっとも小さな変化に対してさえも柔軟性が無いままであった。若年と中年時のころは喫煙は上流社会では禁止されていたが、生きているあいだじゅう喫煙への呪いを撤回しなかったはずだ。王たちは抗議しウィンザーに招かれた司教や大使たちは散々だ、自分の寝室で隠れて床に長々と横たわって煙突に向かって吸う、禁令がずっと続いてるために!

これは女性君主がすべての変化のなかでも特に目を開かされた女性解放という大事に肩を持ったためと思われるが、一方ではその要求の言いたい放題には頭に血が上ったのだった。 1870年、女性の参政権を求める会合の報告書が目にとまった。マーティン氏あてに王の怒りを書く。「女王は、"女性の権利"に関する狂った邪悪なおそろしい検討に話したり書いたりして多くのものが参加することをとても心配しています。付随するすべての恐ろしさとあいまって女性のか弱い性がゆがめられ、女性らしい感情と適切さのあらゆる感覚を忘れてゆくでしょう。淑女は、善き猟犬係であらねばなりません。女王は怒りのあまり関わりたくないほどです。神は男性と女性を別のものにお造りになり、それぞれの立場をお与えになった。テニスンが"王女"にて、男性と女性の違いについていくつかの美しいことにふれています。女性から性がなくなれば、女性は最も憎むべき無情な嫌になる人間になってしまうでしょう。か弱き性に対してするように仕組まれた男性の防御はいったいどこにいってしまうのか?女王はマーティン夫人も同意してくださると確信します。」

反駁の余地はなかった。マーティン夫人は同意するが、世に潰瘍は広がっていった。

別の方面においてビクトリアの時代感覚、これは常に明確に示されているところだ。奥ゆかしい歴史家と礼節な政治家が憲法に対する女王の正しい態度を補う慣習も長く続けられた。だが事実からはこのような賞賛は正当化されるにほど遠いようだ。後年ビクトリアは一度ならずと寝室女官の危機の際の行動に遺憾の意をほのめかし、あれ以来賢明になったことを分かってもらおうとした。だが実は生涯を通じて、憲法に関わる問題での彼女の理論や実践のどちらにも根本的な変化を見出すのは困難である。ピールとの交渉を絶つに至った専制的で個人的な精神状態はパーマストンに対する敵意においても、ディズレーリの退任への怖れにも、ブルガリアの残虐対応会議に出席しようとするウェストミンスター公爵への訴追願望にも同じように現れた。


憲法の複雑で繊細な原理は、彼女の精神的能力のコンパス内に収まっていたとは言えまい。治世中におきた実際の進展のなかでは受動的役割しか果たしていない。1840年から1861年までに英国での王の力は着実に大きくなったが1861年から1901年にはそれは着実に減少した。最初のプロセスはプリンス・コンソートの影響力によるものであり、第二のものは一連の偉大な大臣たちのせいであった。第一のときにはビクトリアは実質的に単なるアクセサリーだった。第二の権力のスレッドの期間には、アルバートが非常に苦労してかきあつめた権力は彼女の手からぬけ落ち必然的にグラッドストン氏、ビーコンズフィールド卿、ソールズベリー卿の積極的に握るところとなった。おそらく日常的な繰り返しに埋没し些事と重要事の明確な峻別が出来かね模糊とした認識しかなかったと思われる。こうして治世の末期には、王の力は英国の歴史の中のどの時よりも弱くなった。まったくのところ逆説的に、ビクトリアは最高の不快感に満たされていたものの、政治の進化に賛同しその完全な実現をもたらし最高の称賛を受けたと言える。

さらにいえば第二のジョージ3世だったと思ってはならない。課す意志が熱烈にあっていかなる原理にも制限されないと望んでも、まだ特定の辣腕によりチェックされるのだ。並外れたけたたましさで大臣に反対するだろうし、論拠と嘆願を全く受けつけないままだろうし、決心の根気強さは不屈なものと思われるしれない。だがすべて最後の瞬間では頑固さは道を譲るのだ。生来の尊重と業務の能力が、またおそらくはあまりにも極端な道は回避するというアルバートの記憶が、これまで行き詰まりから彼女をまもってきた。事実があまりにも手にあまると直観的に理解しそしてそれらに常に屈服するしかなかった。結局のところ他に何ができようか?

しかしもしこれらのやりかたすべてで女王とその時代にたいへん溝があるとしても、それらの間の接点も少ないものではなかった。ビクトリアはとてもよく権力と富の魅力を理解していたから英国の国家もまたそれに学び、ますますその達人になって行ったのである。治世の最後の15年間、1892年の短い自由党政権下は単なる間奏にすぎないが、帝国主義は国の支配的な信条であった。これはビクトリアも同様で、他になにもなければこの方向に自分の心を向けた。ディズレーリの指導下に海を越える英国の自治領はかつてないほどに彼女に多くの意味をもたらすようになって来て、特に東方に夢中になった。インドの思想に魅了され、踏み込んで少しヒンドゥスターニ語を学んだ。数人のインド人召使いを使ったが彼らは離せない従者になり、なかでもムンシ・アブドゥル・カリムは次第にかつてのジョン・ブラウンの位置を占めるまでになった。

  Queen Victoria, the Munshi and Sir Arthur Bigge , 1890s

それと同時に、国家の帝国主義的気性は、まさに自分の心の奥の性癖にかなう新たな意味を政府にもたらした。英国の方針はその中心は常識的な構造にあったが、しかし常に常識が入り込めない、どういうわけかまたは別の曲がり角があり、これは普通のルールが適用されずふつうの物差しで測れないものだった。それゆえ私たちの祖先は知恵を出して、人間の所業から根絶することができないその神秘的な要素に対して、はけ口を与えていた。当然に英国の指針の神秘主義は国王に集中する、国王、由緒ある古代、神聖なつながり、壮大な配列。しかしこの2世紀に関しては、常識は大きな建物のなかで優勢を保っており、少しの未踏の不可解な角がわずかに注目を集めるくらいであった。それが帝国主義の台頭とともに、変化があった。

帝国主義はビジネスと同じぐらいに信仰でもあった。それが成長するにつれ英国人の公的な生活の中での神秘主義も成長した。同時に新たな重要性が王冠に加わり始めた。象徴としての必要性 ー 英国の力の象徴、英国の価値、英国の超然たる神秘的な運命、 以前にも増してこの必要性が緊急のものになる。王冠はその象徴だ。そして王冠はビクトリアの頭上に鎮まっていた。こうして治世の末期には君主の力がかなり減少した一方で、君主の威信がおどろくほど大きくなる結果となった。

さらには、この名声は単に公的な変化の表出にとどまらなかった。それはまたかなりに個人的な問題でもあった。ビクトリアは英国の女王でありインドの女帝であり、全体の壮大な機械が回転する真髄の回転軸であり、それ以上の物は他にないのである!一つには、彼女は、英国において人気を得るほぼ必須の資格である偉大な年齢に達していた。永続的な活力という経歴に於ける最も称賛される特性の一つを証拠として示して来ている。60年間も君臨してきて、まだやめていない。そして次にはその性格があった。自然の輪郭ははっきりと描きだされ、ロイヤリティを包む霧を通してさえも明瞭に見える。親しみやすい姿は人気の想像力を掻き立て、充分に満足させ、明瞭に記憶に残るところに満たされた。一方では自然に国民の大多数の称賛の共感を呼ぶような姿でもあった。


善きこと、人はすべての人間の特質の上でそれを称賛する。12歳のとき、私は善くありたいと言ったビクトリアはその言葉を守ってきたのだ。義務、良心、道徳、そうなのだ!それらの高い閃光の輝きの中に女王は常にあった。娯楽ではなく仕事に、おおやけへの責任と家族への気づかいで日々を送って来た。ずいぶん前にオズボーンでの家庭内の幸福の中で築き上げられた堅固な美徳の水準は、一瞬たりとも下がることがなかった。半世紀以上も、離婚した女性は宮廷内に近づくことができない。ビクトリアは、確かに、妻にふさわしい忠実さを熱意をこめて厳格なきまりを定めている。再婚した未亡人にはひどく眉をひそめる。彼女自身が寡婦の再婚での子だったことを考えると、この禁止は偏心と見なされるかもしれない。だが疑いの余地なくそれは正しい側に寄っている。まがいものの真鍮の世間体に凝り固まっている中産階級は、女王の最も立派な尊敬に値する態度に特別な喜びを得た。彼らは確かに、彼女がほとんど自分たちの一人だと主張する。これは誇張になっているはずだ。特性の多くがしばしば中産階級の間に見られるとしても、他の点、例えばマナーにおいて、ビクトリアは明らかに貴族だった。そして一つ特に重要なことには彼女は貴族でも中産階級のどちらでない。自分自身に向かっての態度は、単に帝王だということだったのだ。

 

そのような資質は明瞭で重要なものだ。だが個性の強烈さのなかで,より深い何か、そのすべての資質の基礎に共通する何かが実際に伝わってくる。ビクトリアにおいて、この特筆すべき要素の性質を識別することは容易である。それはたぐいまれな誠意だ。彼女の誠実さ、一心不乱、感情の鮮やかさとその奔放な表現は、この中心にある特性がかもしだす様々な形態であった。それは、印象的なことを一度に取り込む誠実さ、魅力、自家撞着なのだ。彼女は、周囲にまたは自分自身にもどちらにも隠すことが出来ない堂々とした確信をもって人生を貫いた。

ここに彼女はある。英国女王、完全かつ明白に、彼女のすべてである。世界は彼女を取り上げるかもしれないし置き去りにするかもしれない。これ以上さらけ出す、説明する、飾り立てる何もない。比類のない姿勢で自らの道をゆく。質問から隠蔽されているだけでなく、寡黙、自制、さらには尊厳自体が時々なくなるようにも思われる。

レディ・リトルトンが言うように、「彼女には真実なる透明性があって、これはとても衝撃的なことだ。事実や感情の表現に誇張の色合いがない、これは私が今まで知っていた人たちにはまったく見られない。多くは真実であろう。だが私は、しばしば寡黙がついてまわていると考える。彼女は多かれ少なかれ,ありのままにすべてを言う。」彼女はすべてを話し、またすべてを書いた。手紙は驚くべき表現の噴出で変わり身のタップを思わせる。即座に溢れ出るものがのびやかに突進する。全く文学的でないスタイルは、少なくとも彼女の思考や感情に適した道具であることの利点ではある。彼女の決まり文句さえ妙に個人的な色合いをかもしだす。彼女が著作を介して人々の心をゆさぶっていたのは疑いのないところである。私的なできごとが衒いや困惑もなくありのままに書かれた穏やかな編年史"ハイランド・ジャーナル"にとどまらず、国民に対する驚くべきメッセージも時々新聞に掲載され人々は実に彼女に親近感を覚えた。彼らは本能的にビクトリアの圧倒的な誠実さを感じ、彼らは応えた。真実、愛情のこもった特徴的なことであった。

人格と地位もまた、あまりにも素晴らしい組み合わせで、おそらく最終的に魅力的だったものだ。人が見かけるところでは白髪の地味な喪服の小柄な老婦人は車椅子かロバ 馬車にのって、そのすぐ後には風変わりで神秘的で力のありそうなインド人の召使いがいる。これはおなじみの光景で、それはそれで立派だった。しかし時にウィンザーの未亡人は女王に完全になりかわるのであった。このような機会での最も輝かしい最後は、1897年のジュビリーだった。

 Diamond Jubilee photo of Queen Victoria, 1897

セントポール大聖堂へ感謝を捧げにゆくビクトリアの華麗な行列がロンドンの大群衆の喚声のなかを通って行くとき、人々の称賛と国の偉大さはともに輝き出た。涙が、彼女の目に溢れ、「彼らはなんとわたしに優しいことか!なんと優しいのか!」彼女は何度も繰り返すのだった。その夜、彼女のメッセージは帝国上空を飛翔した。「心から愛するのみなさまがたに感謝します。神のご加護があらせられますように!」
長い旅はほとんど終わろうとしていた。しかし旅人はこれほど遠くまで来て、これほどの不思議な経験を通して、古いしっかりした階段を上にと移動する。少女、妻、熟年の女性は、いつもかわらなかった。活力、誠実さ、誇り、そして素朴さは、最後の時まで彼女のものであった。

(第9章 おわり)

 

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ビクトリア女王 第9章 1−3 ー Lytton Strachey

2011-12-25 23:03:34 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ

リットン・ストレイチーの「ビクトリア女王」第9章 老いのとき 前半の第1〜3節。3節はもうすこし続くのだが根気が途切れたのと字数オーバのためいったんここまでとしよう。こんなものは自分とGoogleのロボットしか読まないからどうでもいいか。だがまてよ、ENDまでもう一息だ。継続は力なり、ビクトリア女王さまは、歳をかさね円熟して立ち直ったのだからえらいものだ。このころの老年期というのは、50ぐらいからなのだろうなあ、それにしてもすごいというかたいへんな、ばあさまであった。見習らわなくちゃなあ、のり坊よ,孫までいていい歳なんだからなあ。

 そういえば孫のひとりが顔を見せるがこれがちょっとかわったドイツ皇帝になるはずだ。なんという世界だ、これは。

>>>>>>>>(Queen Victoria  by Lytton Strachey /(The Project Gutenberg EBook of Queen Victoria, by Lytton Strachey  より のり坊訳。 画像:wiki/Queen_VictoriaQUEEN VICTORIA: IMAGES OF HER WORLD etc.

 

CHAPTER IX. OLD AGE

第9章 老いのとき

I
一方、ビクトリアの私生活では多くの変化と発展が起きていた。年長の子供たちの結婚によって家族の輪が広がり、孫たちが現れ新しい家族として関心をあつめては跳びはねている。 1865年に国王レオポルドの死によって旧世代による支配がぬぐい去られ、彼がつとめていたドイツと英国の親戚の大きなグループのまとめ役と助言者の役割はビクトリアに委ねられることになった。彼女はこれらの役割を膨大な通信を交わしながら、枝分かれした従兄弟世代の生活の細部にも通じるほどの関心を持ち勤勉に果たす。こうして一族のおおきな喜びと愛情の痛みをともに味わった。特に孫はかわいがり両親にはよくは思われないわがままを通したが、必要なときには孫たちにさえ厳しかった。彼らのうちで最年長のプロシアのヴィルヘルム王子はじつに頑固な子であった。彼は祖母にさえも我慢出来ないときがある。あるとき、彼女がオズボーンで客にお辞儀をするよう命じたとき彼は言いつけに背いた。これはしない。命令は厳しく繰り返され、祖母が急に最も恐ろしい女性に変わったことに気づいたわんぱく坊主は我意をひっこめて従い、とても低いお辞儀をした。
  Wilhelm with his father in 1862

女王自身の家庭での悩みも同じように容易にかたづけばよかったことだろう。より深刻な難題はプリンス・オブ・ウェールズの行動にあった。若者はもう独立して結婚しているが、親のくびきを揺るがし好き放題にし始めていた。ビクトリアはたいへんに狼狽させられる。1870年には離婚訴訟協会の証人となってしまい最も恐れていたことが現実となる。まったく認めたくない人々たちに王位継承者が近づきすぎることは明白だ。どうするべきか?彼女は、責められるべきは息子だけではなく社会の全体のシステムだと見た。そのためタイムズの編集人ディレーン氏に手紙を書き訊ねた。「あなたはこれから頻繁に、上流階級の生活と印象についての不愉快な軽薄さと軽率のとてつもない危険と悪を指摘する記事をお書きになるつもりですか。」5年たってディレーン氏はまさにその対象の記事を書いたのだが、ほとんど効果はなかったようだ。

ああ!上流階級が、自分がバルモラルの聖域で家庭の静けさのなかで暮らすごとく生きるのを学んでくれたなら!ますます彼女はハイランドの根城に癒しと蘇生を見つけ、年に2回春と秋は安堵のため息をついて顔を北帰行に向ける。大臣たちの謙虚な抗議にもかかわらず。彼らは,かなり政府の苦労が増す600マイルもの距離で国事をさばくのかとつぶやくが女王は聞く耳をもたなかった。
おそばの淑女たちも特にはじめの頃には、長い巡礼の行き来には障害がないわけではなくわずかにためらいを感じた。女王の保守的傾向は長年にわたりディーサイドまでの鉄道の延長を禁じていたため、旅の最後の行程は馬車になる。だがほんとうは馬車には利点があったのだ。乗り降りが容易,これは大事なことだ。というのは王室の列車は近代的な利便から長い間免疫なしに取り残され、プラットフォームもない辺地の湿原ではしつけの良い貴婦人たちが危険な踏み台をつかって地上に降りることを余儀なくされたからである。クリノリンをまとったこの時代そのような瞬間はたいそう危ないものだった。たった一式の折りたたみ式ステップは女王陛下の客車のみに使われる。 時にはカレドニアン鉄道の背の低いが頑丈なマネージャーのジョンストン氏が召喚された。彼は一度ならず強風とどしゃぶりの雨の中たいへんな苦労で、不運なレディ・ブランシュやレディ・アガサを彼女たちのコンパートメントに、彼が言うには「押し上げた」。だがビクトリアには与り知らぬことだ。彼女の思いは出来るだけ早く自由の回復を、魅惑的なお城へである。そこではすべての場所が思い出に満ちすべての思い出が神聖で、ごくありふれた出来事の繰り返しの暮らしが楽しくまわってゆくのだった。

 Balmoral Castle     painted by Queen Victoria in 1854 during its construction

愛した場所は他にもあった。「素朴な山男」に惹かれていた。「彼らから忍従と忠誠の多くの教訓を学びました。」スミスとグラントとロスとトンプソン、彼らすべてと心はひとつになった。だがそれにもましてジョン・ブラウンをひいきにする。公子の狩猟案内人は今や女王の、一時も離れないボディガードで騎行にお供し終日待ちつづけ、夜は近くの部屋で眠る私的な従者になっていた。彼の強さ、堅実さ、身体警護の安心感がたまらなく好きで、無骨なマナーと大ざっぱで無愛想なしゃべりを愛し、誰にも考えられないような気ままを許す。女王をいじめ、命令し、しかったりする、いったい誰がそんな大胆不敵なことをしようと夢想できようか?さらには、ジョン・ブラウンからそのような扱いを受けても積極的にそれを楽しむようにも見えた。ご執心は異常なほどだった。だがつまりは信頼する召使いに親戚や友人には禁止し妬みをかう態度をゆるすという独裁的な寡婦にありがちな珍しくもないことだった。

        Queen_Victoria_and_John_Brown

自身が影響されてしまう時でさえ心理的にたけた手段と自身の力によって服従させる力はずっと健在である。子分のぶっきらぼうな命令に言われるがままポニーから降りたりショールをまとったりするとき、ビクトリアは最高度に意志の力を表に出さないのだろうか?人々は不思議に思うかもしれない、こうふるまうことに満足を感じるがそれには限りがある。息子や大臣に判断をゆだねるときは賢明でより自然に見えようが、その場合は本能的に独立性を失うように感じるのかもしれない。だが彼女は誰かに頼りたくてたまらなかった。長い過程での支配の日々は重かった。原野の上を静かに馬車に揺られる時、上体をそらしふさぎ込み弱気にもなる。だが,何と安心なことか、ジョン・ブラウンが後ろの従者席にいる。降りるときには頼りがいのある強い腕があるのだ。

心のなかで、彼もアルバートとは特別なつながりを持っている。家族での遠征のときは公子はいつも誰よりも彼を信頼していた。しわがれた優しい毛むくじゃらのスコットランド人のことを彼女は、いくらか神秘的な亡者からの遺産と感じるのだ。とうとうブラウンが近くにいるとアルバートの精神がより近くにあるかのように思えるようになった。しばしば、政治的または国内のいくつかの複雑な問題へのインスピレーションを探す時、夫のような胸に深い視線をこらす。疑問やためらいの女王陛下の表情がジョン・ブラウンによってしゃきっとなることもあった。

しだいに「素朴な山男」は、国家的な人物になっていった。彼がふりまいた影響は見過ごされるべきではない。ビーコンズフィールド卿は、女王あて手紙のなかで「ブラウン氏」に礼儀正しいメッセージを送信するために始終注意を払ったものだったし、フランス政府は英国女王の訪問の間、彼のご機嫌取りにも気をくばった。王室の年長のメンバーの間で人気がないのは当然であり、ことに彼の欠点 ー スコッチ・ウイスキーの愛飲、ビクトリアは全く気にしなかったが、これが厳しい宮廷でやり玉にあがっていた。主人に忠誠を尽くした彼を無視するのは伝記作家へも失礼のしるしとなるだろう。女王は、愛情あふれる友情の秘密をまもるどころか、世間に公開するために意を注いだのだ。彼の死の1883年、長い賛美の死亡記事は王室日誌に掲載され,女王の命令によって2つの記念金メダルが鋳造される。さらに片面はジルの頭、もう片側には王室のモノグラムの金のブラウン記念ブローチが女王陛下によってデザインされハイランド人の召使いと使用人たちに贈られる。彼らは命日には喪に服してスカーフやピンとともにメダルを着用するのだった。 1884年に出版された女王のハイランド日誌からの抽出物の第2弾では、「献身的な個人的な付け人および忠実な友人」は、ほぼすべてのページ上に現れてきてこの本の実質的な主人公のようだ。王室の人々がおどろくほど口を閉ざすなか、ビクトリアはこの私的で微妙な話題に関して全国民の同情を求めるように見えた。だが、世の中はそんなものかもしれない、実際、君主と召使いの関係については野卑なあざけりでみるばかりであった。


II

多忙な年月は過ぎ去った。タイムズのひとを驚かす筆致の痕跡が明らかになくなっている。老年期が近づいてビクトリアには温和さがそなわる。灰色の毛は白く、成熟した表情はゆったりし、背の低いしっかりした体形でゆっくりと動き、杖が必要になった。と同時に、女王の存在の色合いが格別に変わるときがきた。国民の態度は長年批判的で敵対的さえあったがそれも変わってくる。ビクトリアの気性、自身の心のなかにも相応する変化があった。

    La_regina_Vittoria_e_Lady_Florence

多くの出来事がこの結果につながっている。その中に短い残酷な年月に次々と女王を襲った個人的な不幸の打撃があった。 1878年にヘッセン・ダルムシュタットのルイ王子と1862年に結婚していたアリス王女が悲劇的な状況で亡くなっていた。翌年、ビクトリアが1870年の悲劇以来献身的に目をかけていたユージェニー皇后の一人息子の皇帝王子がズール戦争で戦死する。2年後の1881年に女王はジョン・ブラウンを1883年にはビーコンズフィールド卿を失う。 1884年には生まれた時から虚弱だったレオポルド王子・アルバニー公爵が結婚後まもなく夭逝した。ビクトリアの悲しみの器はじつに溢れんばかりであった。人々は未亡人である母親が子供たちと友人のために泣き続けるのを見て、絶えずに増えつづける同情を示した。

1882年に発生した事件は国民の感情を明らかにし強めるものだった。女王がウィンザーで列車から馬車へ乗換えに歩いていた時、デリック・マクレーンという若者が数ヤードの距離から拳銃を向けた。発射される前にイートン校の少年が傘でマクレーンの腕を打ちあげたため打撃は実行されず犯人はすぐさま逮捕された。これが女王の40年の期間にわたって散発的な間隔で7回起きた似通った異常な事件の最後のものである。一つの例外のほかのすべての動機は明らかに殺人ではなく若者の神経の不安定さによるもので、それゆえマクレーンの場合は別として彼らの拳銃に弾は装填されていなかった。これらの不幸な若者の行動、安い武器を買って火薬と紙を詰め発射してみてすぐさま露見するのを承知の上で王族の顔に銃口を向ける、これは心理学者に不可思議な問題を提示する。しかしそれぞれの事件での行動と目的は非常に似ているように見えるものの、彼らの運命は著しく異なる。それらの最初でビクトリアの結婚の数ヶ月後に銃口を向けたエドワード・オックスフォードは、大逆罪と審判され精神異常を宣告され終生救護院に送られた。
しかしながらこの判決はアルバート自身によい印象を与えなかった。2年後ジョン・フランシスが同じ咎で逮捕され同じ判決を受けたが、公子は事件には狂気がないことを言明する。 彼は父に告げたのだった。「不愉快な人物だが心のうちからではなくまったくのいたずら者だ。彼の判決が充分な厳密さで実施されるのを望む。」いずれにせよ、陪審員は公子の観方を共有はしたが心神喪失の訴えは取られずフランシスは大逆罪で死刑を宣告されたことは確かだった。だが殺意と傷を負わせる意図の証拠がないとしてこの判決は、内相と裁判官の間での長い審議を経て流刑に減刑された。
法はこれらの攻撃が未遂だとしても大逆罪として扱うだけだという立場にあった。実際の行為と付随する驚くような罰則の間の不一致が明らかに異常なのだが。そしてまたこれもはっきりしている、陪審員は有罪判決が死刑を暗示するがそれが変わる方向にあること、そして囚人は無罪で心神喪失であるという結論がより合理的であると見出されることを。

したがって1842年に、女王を傷つけるようとする企みを不行跡と見なし、3年間での前科がなければ7年の流刑または懲役有無での収監、加えて「宮廷が指示する方法や形で三度まで、しばし公的,私的にもむち打たれるべき。」という宮廷の裁量権が付く。後続の4つの事件はすべてこの新しい法律の下で裁かれた。1842年にウィリアム・ビーンは18カ月の禁固刑を宣告され、ウィリアム・ハミルトンは1849年に7年の流刑に処せられ、1850年にピカデリーで杖で女王の頭を叩いたロバート・ペイト中尉にも同じ判決が下された。これらの非行少年たちのなかでペイトのみが成熟した年齢であった。彼は陸軍将校でダンディとして通っていたが公子は宣言した。「明らかに狂っている。」1872年に17歳の若者アーサー・オコナーがバッキンガム宮殿の外で女王に無装填の拳銃を向けたが、すぐにジョン・ブラウンに取り押さえられ1年の懲役刑と樺の枝鞭20回を宣告された。この時の勇気によってブラウンは金メダルを贈られた。

これらすべての事件で法廷は心神喪失の訴えを退けていたが、1872年のデリック・マクレーンの出来事には別の争点があった。この場合では拳銃に弾が装填されていたことが判明し、ビクトリアの人気の高まりによって人々の憤りも大きかった。それゆえか他の何らかで過去40年間の先例は放棄されマクレーンは大逆罪を求刑されるが、期待されていたように陪審員は「無罪、心神喪失」との評決をもたらした。囚人は女王陛下の安堵の中に救護院に送られた。彼らの評決はしかし驚くべき結果をもたらした。オックスフォードの事件で同様の判決があったときアルバートが不満を示した記憶がビクトリアの心に蘇り、非常に悩んだ。そして尋ねた、マクレーンは無罪だと言う裁判官はどういうことですか?彼が拳銃を発砲したのを自分は見ており彼が有罪なのは明白である。女王陛下の憲法顧問は、犯罪の意図があったことが証明されないかぎり、何ものも有罪にはできないことが英国の法の原理であると説いたが無駄だった。ビクトリアは非常に不信を持った。 「それが法なら、法律は直されるべきです。」1883年に同法は、心神喪失の場合には評決の形を変えるよう修正され、そして異常な混乱は法令集に今日まで残る。

しかし女王と人々がより近くにともに引き寄せられた個人的な共感は、同情や立腹といった感情を通じてのものだけではなかった。両者がついに公務の遂行に関して密接で恒久的な合意に至リはじめたということである。グラッドストン氏の第二次政権(1880〜85)は失敗の連続で災難と不名誉で終わる。リベラリズムは国中に不信を招き、ビクトリアは人々の大臣たちへの不信が増していると喜びをもって受け取った。スーダンの危機のあいだ一般の気分は彼女自身のそれとおなじだった。ゴードン将軍の壊滅的な死のニュースが来たとき、第一にハルツームへの遠征の必要を促す彼女の声は政府に対する非難の合唱を指揮する。グラッドストン氏へ怒りにみちて雷を落とす電報を送るがこれは通常の暗号も用いず平文なのだ。彼女はゴードン嬢へのお悔やみの手紙のなかで、大臣たちの誓約の違反をなじっておりこれは広く公開され、防衛相ハーチントン卿にも送られて猛烈に彼をたきつけているとも噂された。彼は友人にもらしたといわれる。「彼女は,あたかも私が従僕であるかのようにみなすのだ。なぜ執事に送らないのかね?」「ああ、執事というものは一般的にこのような場合には距離を置こうとするね。」

もはや放置することはできない時が来た。グラッドストン氏は敗北し辞任した。ビクトリアは最後の謁見ではいつもの好感で対したが、一方この機会での公の発言では、グラッドストン氏ご本人を思いやるといまや休息が必要だと示唆したのであった。1874年の同じような謁見で王位の補助者として信頼を表明していたではないか、彼に無念さが蘇える。だが驚きもせずにその変化を日記に記録する。「彼女の心象と考えはあの日からはおそろしく歪んできている。」

グラッドストン氏の見解はこのようであった。しかし国民の大多数は決して彼に同意していない。1886年の総選挙ではビクトリアの政治哲学は人々とまったく同じだということを決定的に示すものとなる。そうしてこの自治権の考案者を、荒地への嫌悪感から暗闇の外側に放逐しソールズベリー卿を後釜に据えたのだった。ビクトリアの満足度は深いものだった。新しい稀なる希望に満ちて奔流は驚く力でもって彼女の精神の活力を刺激した。人生での習いは突然に変わったのだった。ディズレーリの説得で一時的にはやめたこともあった長い引き蘢りを抜け出し多くの公的な活動に積極的に身を投じる。引見室に現れコンサートに姿を見せて手始めの石を置くや、国際見本市の開会ではリバプールに行き大雨のなか無蓋馬車で街中の通りを走行、群衆の拍手喝采を浴びる。至る所での歓迎に喜び仕事に熱中する。エディンバラを訪問したときはリバプールで出会った熱烈な歓迎はここでも繰り返されそれをも凌ぐものであった。ロンドンではハイ状態でサウスケンジントンでの植民地・インド博覧会の開会に臨んだ。このような機会では儀式は特に重要である。トランペットのファンファーレが女王陛下の臨席を告げ「国歌」が続き、金で打ち出された華やかな玉座に座って女王は、参列者に自らの唇で式辞を述べる。そして立ち上がり堂々たる入口を備えたプラットフォームに進み、たいそうな堂々とした優雅さと大勢の参会者の会釈の連続によって大きな歓呼を浴びるのだった。

翌年は治世の50周年であった。6月の素晴らしい記念日は厳粛な壮麗さで祝われる。ビクトリアは王国の最高官たちに囲まれ輝く銀河のような王と王子たちにエスコートされ、首都の群衆の熱狂のなかを神への感謝を捧げるためウェストミンスター寺院に騎行した。輝かしい時間のなかで、これまでの反感と食い違いはともに痕跡を残さず一掃された。女王は人々の母として帝国の偉大さの具現の象徴としてもてはやされることになり、彼女は精神のすべての情熱をかたむけその二重の感情に応えた。彼女は知り,感じていた、英国と英国の人々が素晴らしい、ごく自然なマナーを有することを、それは彼女のものでもあった。歓喜、愛情、感謝、義務への深い感覚、限りない誇り、これらが彼女の感情であった。それに加えて特色づけられ強調される他の何ものかがある。

     Her_Majesty's_Gracious_Smile_1887

最後に、本当に長い時の後に偉大さに込められて紛れもなく真実に、幸福が彼女のもとに帰って来たのであった。慣れない感情によって満たされ意識は温めらる。バッキンガム宮殿での再度の長い儀式が終わったとき、いかがですかと問われて「とても疲れましたが、とてもしあわせです。」と、彼女は言った。


III


そうして、一日の骨折り仕事と大嵐の後、金色の栄光が灯る長い夜が静かに穏やに続く。成功と崇敬の比類のない雰囲気がビクトリアの人生の最後の期間にもたらされた。彼女の勝利は、最高潮に達する繁栄の国家のさらに大きな勝利の要約、王冠そのものだった。ビクトリアの2つの祝祭の間の年月の堅実な素晴らしさは英国の年代記においてほとんど並び立つ時期はない。ソールズベリー卿の賢明な助言は富と権力だけではなく安心をももたらすように見えた。国は静まり穏やかな保証とともに確立された偉大さを享受する。そしてビクトリアもまた落着くのは当然である。彼女はその確立の本質的な部分の一部、しかも欠かせないもの、国家の巨大なサルーンにおける重要で動かすことのできないサイドボードだったのだ。彼女がいなければ1890年の最高潮のバンケットは、重厚な魅力の背景を背にした実のある料理の、快適なオーダのたぐいまれな出来ばえを失っていただろう。視界からなかば半分が落ちて。

   3rd_Marquess_of_Salisbury

彼女自身の存在はいよいよ周囲との調和がしっくりしてきた。いつの間にかしだいにアルバートは引いて行く。彼が忘れられてゆくのではない ー それは不可能である。しかし彼の不在で生じた空白はより苦渋が小さくなり、どころかしまいには目立たなくもなってしまった。ついにビクトリアは「親愛なるアルバート」の「常に我々はそれを変更できない、あるがままにするしかない」をすぐに取り入れることなく、悪天候を遺憾とすることが出来ると分かった。「親愛なるアルバート」がいかにバター焼き卵を好きだったかと考えずに良い朝食を楽しめるようになった。その姿が徐々に薄れるにつれてその場所はビクトリア自身によって必然的に占められる。長年回転する外部の物体に丸められて今やその動きを変え、自分自身がその中心にいるのだった。そうならなければならなかった。国内での地位、公的な仕事の圧力、義務への不屈の感覚は、他の何ものでも代え難かった。エゴイズムはその権利を宣言する。年齢とともにさらに周囲との相違は際立ち、潤いが長じて現われ出てきた性格の力量は、専制的意志を通す意識的な努力によってそのまわりの環境に絶対的に及んでゆく。

少しずつアルバートの死後の支配が表面に現われることがほぼなくなってゆくようであった。宮廷においては哀悼の厳しさが緩和される。女王が後ろにハイランド人を付けて無蓋馬車で公園を騎行するとき、看護メイドたちは小さくお辞儀をする頭上の飛び出る付属物でボンネットのなかで紫のベルベットのパッチが大きくなるのを熱心に観察していた。

ビクトリアの勢位がその最高点に達したことには家族にそのわけがあった。子どもたちすべては結婚した。子孫の数は急速に増え、第3世代の結婚も多数あった。亡くなる時点では少なくとも37人のひ孫がいた。この時代に撮られた写真でウィンザーの大きな部屋に50人以上の王家の家族が集まり、帝国の女家長が中央に座すものがある。彼らのすべてを強力な影響力で支配した。最年少に寄せる小さな関わりは情熱的な関心を呼び、年長者たちにもまだ子供であるかのように接する。プリンス・オブ・ウェールズは特に母親への驚異的な畏怖の念を抱いて立っている。彼女はきっぱりと彼に政府の業務にわずかでも関与させることを拒否している。彼は他の方法で処するしかなかった。そればかりか彼女に隠れて楽しみを見出すことを禁じられている。その侮り難い風采のなかに、大いなる人間性は惨めな失墜に苦しんでいた。一度オズボーンで、過失ではないがディナーパーティーに遅れたことがあり柱の後ろに立ち額の汗を拭き女王に謝るべきか悩んでいる彼がいた。ようやくそうしたが母親は硬いうなずきで応えたから別の柱の後ろにすぐに隠れパーティーが終わるまでそこに残った。この出来事の時にプリンス・オブ・ウェールズは50歳を超えている。

女王の家庭内の動きが高度な外交の領域に近づいてしまうのは避けられないことである。長女のプロシア皇太子妃の関心事については特にそうであった。皇太子殿下はリベラルな考えを持ちしかもずっと妻の影響を受けていたから、両人ともこの英国婦人と母親はプロシア国への脅威だと口ぎたなく強調していたビスマルクに嫌われていた。先きの皇帝の死(1888)で、皇太子が即位したとき確執はさらに深まる。家族の絡み合いがおそろしい危機をもたらしたのだ。新しい皇后の娘の一人が、最近ロシア皇帝の敵意からブルガリア王位から放逐されたバッテンブルクのアレクサンダー王子と婚約していた。皇后だけでなくビクトリアもとてもよいと思っていた。アレクサンダー王子の兄弟のうち、兄は彼女の別の孫娘と結婚していたし弟のほうは娘のベアトリス王女の夫である。3人のなかでも一番ハンサムだと思う若者を好ましく思い三番目の兄弟の見通しを喜び、家族の一員にすることを考える。しかし残念なことにビスマルクはその目論見を反対した。彼は外交政策に不可欠なドイツとロシアの間の友好関係を危険にさらすと認識し、この結婚は行われるべきでないと言明、皇后と蔵相との間で激しい闘争が続いた。

ビクトリアは娘の敵がらちがあかないことに業を煮やして、争いに参加するためシャルロッテンブルクにやって来た。ビスマルクは、パイプをくゆらせビールを飲みながら警告を吐き出す。彼によると、英国女王の関心の対象は全く政治的事項であってドイツとロシアを疎遠にすることを望んでいる、そして自分のやり方をぜひ通したいと思っている。彼は付け加えた「家族の問題では彼女は矛盾ということに慣れていない、旅行かばんに牧師とトランクに花婿をつめこんできて、その場で結婚させに来る。」しかし、血と鉄の男でさえそう簡単に阻止することはできなかったので、女王に私的な会見を求めた。会話の詳細は不明だがその過程でビクトリアがこの恐るべき人物に抵抗することの意味を理解せざるをえなかったことは確かであり、彼女は結婚を阻止するためにすべての影響力を使うことを約束した。婚約を破談にされ、翌年バッテンブルクのアレクサンダー王子はダルムスタットの宮廷劇場の女優ルイジンガー嬢と結ばれた。

しかしこのような痛みを伴う出来事はめったになかった。ビクトリアはとても老いた。導いてくれたアルバートもなく、燃え上がらせてくれたビーコンズフィールドも既になく、ソールズベリー卿の知恵に外交の危険な問題を委ねて良しとして、より近い琴線に触れたものにエネルギーを集中することで十分に喜んでいた。それらには文句なしの制御ができたから。家庭、宮廷、バルモラルのモニュメント、ウィンザーの家畜、取り組みのまとめ、日課、そのような事柄の多くが今まで以上に人生における重要な役割を果たした。日々は素晴らしい正確さで過ぎて行く。一日でのあらゆる時間は事前に割り振られ取り組むことの流れは変わらずに固定される。旅の日程も、オズボーンへバルモラルにフランスの南にウィンザーにロンドンにと、ほとんど毎年毎年変わることはない。取り巻く人々から厳密な詳細を求められると、定めたルールからわずかな逸脱を検出するのも異常に速かった。そのような性格の魅力的な奥深さには、自分の意志へのたいへんな盲目的服従があったこと以外には考えられない。時には誰かが時間にルーズなことがあれば、時間を守らないことは罪の中で最も凶悪な一つであった。そうして不快感はあまりにも恐ろしい目に見える不満になった。そのような瞬間、彼女は規律家の娘であったこと以外の何ものでもないように見えた。

しかし直さねばうんざりさせられるこの嵐はすぐに終わり、皆はよりよく例外的になっていった。幸福が戻ってくるとともに、優しい恵み深さが年老いた女王から溢れ出てくる。かつて悲しみに沈んでいた姿ではめったに訪れなかった笑顔が、いとも容易にその表情をよぎるようになった。射るような青い目、そのいつもの無表情から突然に明るく柔らかに変化する顔全体は、それを見た人に忘れられない魅力をふりまく。晩年には、若いころの鮮やかな衝撃には欠けていた愛嬌にいま
ビクトリアの魅力があった。近づくすべての人に、まさにすべてに、彼女は格別な呪文を投げかけたのだ。孫たちは崇拝し、お付きの淑女たちは畏敬の念に満ちた愛を捧げた。奉仕する名誉は幾千もの不便さをものともしなかった、宮廷生活の単調さ、身分から来る疲労、いかなる時と場所でもこの超人に払わねばならない周到な注意を。彼らは自分の素晴らしき任務を行うとき、脚はウィンザーの無限の通路で痛み、裸の腕がバルモラルの寒さの中で真っ青になるのも忘れてしまうのだった。

これらすべてに関して、そのような奉仕の心地よさは女王を取り巻く環境についてのこまかな関心事であった。家庭生活の快適な平凡さ、小さな危機、繰り返す感傷に対するあくなき情熱は常にその活動のための広い場所を求めつづける。彼女自身の家族のすがたは巨大だったがそれでもまだ十分ではなかった。レディたちが仕切る家政についての熱心な親友になった。思いは宮殿の奉公人にまで達しさらに家政婦や皿洗いにまで要求の対象は及んだ。彼女の心からの気遣いよって愛するものたちは外国の駅にまでくるよう命令され、さもなくば叔母たちは、いつもの急性以上のリウマチの攻撃に悩まされた。

それにもかかわらずランクの区別は完全無欠に保たれていた。女王の単なる存在感だけでは十分だった。加えて宮廷でのエチケットの支配が重要だ。優先順位に応じてソファとラウンドテーブルに他の客を静かに侍らすといったことについては、メルボーン卿のつくった精緻なきまりにしたがってこれまでずっとなされてきた。ディナーの後に毎晩、王家の神聖さとヒースの敷物が近寄り難い栄光のなかで俗衆の前に待ち受けている。一、二の素晴らしい機会に実際に深淵のまさに向こう側に磁石のごとく釣り上げられるのであった。女王はその時間が来るとゲストの方に移動し順番に制約の多い対話、困惑する対話を続けるが、残りの者は言葉もなく立ち続けていた。
失態をゆるさないエチケットの厳しさは唯一特別なものであった。治世の大部分を通して、閣僚が女王と謁見するときには絶対に立ったままでいる規則が貫かれた。首相のダービー卿は深刻な病気の後に女王陛下の謁見があったが、後に彼は王の好意の証拠として言及した。女王は言ったのだ。「おかけになるよう勧められないのは残念です。」そのつぎにディズレーリは、痛風の発作後、ビクトリアの側の特別な計らいで椅子を用意されていたが彼はその特権をことわるのが賢明だと考えた。しかしながら晩年においてはいつも女王はグラッドストン氏とソールズベリー卿に座るよう求めたのであった。

時に夜の荘厳は、コンサート、オペラ、あるいはお遊びさえもあって彩りを添える。やもめ暮らしの奴隷の状態からビクトリアが解放された最も顕著な兆候の一つは、30年もの空白をはさんで、ウィンザーの宮廷の前で演技させるようロンドンから劇団をよぶ習慣を再開したことだ。そんなときは彼女の精神は高揚した。演技を愛し良いプロットを愛しさらには茶番劇まで愛した。舞台で進行するべてのことに子どもっぽい素直さで夢中になり、物語を思い起こし、よかったと叫びすばらしい空気を感じる。結末が来たとき、「あれよ!あなたはわからなかった?」

ユーモアの感覚は原始的なものであったが活発であった。王配殿下のジョークを理解できる数少ない一人になっていたので、もはや砕け散ってしまったときでも、家庭内での秘密で、楽しいいくつかの出来事、どこかの大使の風変わりさ、無知な大臣の失言、これらにはときに大声で笑ったものだ。冗談が微妙になったときにはあまりいい顔をしなかった。えげつない範囲に近づく場合危険は深刻だった。解放のためにすぐに女王陛下の最も破壊的な不同意がすぐに落ちてくる。なにかしら不適切なものは、すべておおきく自由を奪うのだと。そして王の唇が隅で沈没し驚愕して見つめ、実に王の表情は最高度に不機嫌になった。夕食のテーブルで「面白がっていない。」と言われ違反者は身震いし黙りこくる。その後、女王は問題の人物、私的な側近が「慎みがなかった」と非常に恐れていることがわかる。訴えるものがない評決だった。

おおむね審美的な嗜好は、メンデルスゾーン、ランドシーア、ラブラーシュから変わっていない。いまだイタリアオペラのルラードを好んでおり、ピアノのデュエット演奏では高い水準を要求する。絵画に関する観方は定まった。サー・エドウィンは完璧で、たいそうレートン卿の手法に感銘を受け、ワッツ氏はどうにも嫌だ。始終王室のメンバーを描いた刻印肖像画を注文したが、この時はまず第一に試作を持ってこさせ、念入りに細部までを調べた。画家に過ちを指摘し訂正する方法まで同時に示す。画家たちは常に女王陛下の示唆が優れたものであるのに気づいていた。文学での関心はより制限されたものだった。テニスン卿にのめり込んでいる。王配殿下はジョージ・エリオットを賞賛していたので、彼女は「ミドルマーチ」を熟読したが失望させられた。しかしながら、女王陛下の臣民の下層階級に人気のある別の女性作家のロマンスは、一時期、大量すぎ無害で役に持ったないために陛下の意にそぐわずあまり読みなかったというのは信ずるに足る。

あるとき、女王の目は無視することができない出版物に注がれた。グレビルの回顧録は特段に重要な歴史的な情報量で満たされているが、またリーブ氏によってもたらされたジョージ4世、ウィリアム4世、および他の王室の人々へのお世辞以外の何ものでもない表現に溢れている。ビクトリアはこの本を読んで愕然とした。グレビルの本に関して「恐ろしいまでに、まったくの暴露本」であって、「いかに恐怖で憤慨したか」と言うこともができなかった。「軽率な行為、わいせつ、友人への忘恩、信頼と君主への恥ずべき不忠の裏切り。」彼女は自分の意見を伝えるためにディズレーリに書き送った。「この本は厳しく非難され信用に値しないとされることが非常に重要です。彼がロイヤリティのことを話すトーンは、ひとが歴史の中で見る何ものとも異なっており最も非難されるべきです。」

怒りは「このような憎むべき本」を出版したリーブ氏に対してもほぼ等しい熱情で向けられた。さらにサー・アーサーに深い不満を伝える役を負わせた。リーブ氏はしかし頑迷だった。アーサーが女王の意見として「本はロイヤリティを貶めている」と告げた時彼は答えた。「全然。かえって現在と現存しない出来事の間の対比によって高められるものだ」しかしこの巧みな防御はビクトリアにどんな印象をも生み出さなかった。リーブ氏が公的な奉仕から引退したときには慣習となっていたナイト号は与えらなかった。女王が、リーブ氏が出版された回顧録のなかで如何に多く彼女に対する辛辣な注釈を密かに抑制していたかを知っていたなら、おそらく彼女は感謝していただろう。しかし、その場合でもグレビルについてはどう言っただろうか?想像は思考に出会って驚く。近代的なエッセイでの同じ話題に関して女王陛下は、それらは恐ろしいもので「慎み深くない」と特徴づけるはずなのだ。

(3節の最後、4節へつづく)

 

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ビクトリア女王 第8章 3 ー Lytton Strachey

2011-12-19 23:45:15 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ

リットン・ストレイチーの「ビクトリア女王」第8章 後半の第3節は、いっぷう変わったお人だったようなディズレーリ氏の魅力について。魅力といっても、まあ彼女から見てのお話。彼女とは、畏れ多くもビクトリア女王、女王はこの人にスエズ運河も手に入れてもらい(?)、さらにはインドまでも・・・。で、インド女帝の名までかってに戴いてしまったようだ。おっと、そのまえにこのひとからは、妖精というニックネームまでちょうだいしていたのだった。よかったね、妖精女王さま。

さあて、雪が降って来た。Snowdrop ・・・これも野の花なのだろうな。

>>>>>>>>(Queen Victoria  by Lytton Strachey /(The Project Gutenberg EBook of Queen Victoria, by Lytton Strachey  より のり坊訳。 画像:wiki/Queen_Victoriawiki_Gladstone wiki_Benjamin_Disraeli QUEEN VICTORIA: IMAGES OF HER WORLD etc.

 

CHAPTER VIII. GLADSTONE AND LORD BEACONSFIELD

第8章 グラッドストンとビーコンズフィールド卿

 


III

しかし彼女にはとても異なる運命が予約されていた。共和主義の爆発は、実に消える間際の最後の火花であった。改革法案以来順調に流れていたリベラルな潮は、グラッドストン氏の最初の政権で最高潮に達し、政権の終わりに向かって必然的な引き潮が始まる。跳ね返りが来たときは突然で完璧であった。1874年総選挙は政権の顔ぶれ全体を一新する。グラッドストン氏と自由党は退けられ、保守党は40年間以上経て初めて英国で疑う余地のない支配権を達成する。驚異に値する勝利はまずもって完ぺきなディズレーリのスキルと活力によるものであった。不満足をかこつ主人の怪しげな司令官としてではなくドラム叩きと旗振りによる征服の英雄として彼は政権に復帰する征服の英雄としてビクトリアは新首相を歓迎した。


   Benjamin_Disraeli_1878

そうして、興奮の魔法の、至福の栄光のロマンスの6年間がやってきた。今やついに、70歳にして異常な闘争の生涯の末に、少年時代の途方もない夢を現実にした人物は絶対的な完璧さで淑女君主の従僕かつ主人たる心持ちと自身を処す術を知る素晴らしい円熟を遂げていた。彼は女性の心の中を常に開いた本のように読めるようだ。すべての経歴は不思議な資質の上に照り返っている。しかも不思議なのはあるべきそのとおりに親密で気安くなれることだ。レディ・ビーコンズフィールドは砕け散った心酔、ブリッジズ-ウィリアムズ夫人は足かせと肥満と遺産によって、いなくなっていた。さらに驚くべき現象がそこにあった。彼は過去の達人の目をもって目前にするものを調べ一刻たりとも無駄にしない。

すべてのことを充分すぎるほどにわかっていた。ー 環境と性格が織りなす相互作用の複雑さ、個人の傲慢さが密接に混ざりあった立場の自尊心、有り余る感情というもの、外見の巧妙さ、頑固さ、みせかけや妙な気まぐれな気質で不釣り合いに撃ちだされる労多き体面、知性の一つの限界、神秘的にも全体であらゆる粒子を印象づけるに不可欠な女性の要素というもの。

冷静な表情に微笑を漂わせながらビクトリアに「妖精」とあだ名をつけた。この名前がいいね。この機知の曖昧さが心地よく女王への自分の思いを正しく言い当てるものだったから。グローリアナの優雅さを思い起こさせるスペンサーのほのめかしはとても喜ばしい。だがそれよりも多くのものが含まれていたのだった。魔法と神話の特性豊かな小柄な人物への暗示だ。ほとんど信じられないほど彼女のメークアップの仕上げが残っていること。であるから彼は心に決めた、妖精は自分のためだけに杖を振ってくれ。超然としているのは稀なる特質で、ほとんど誰にもないものでおそらく政治家にも。だがベテランのエゴイストさまには最高度にそれがある。行うべきことを知っているのみならず、すべきことをわかっているようだ。彼は舞台と同様聴衆の中にいてさらには鑑定家の豊かな趣きでもって受け入れた、楽しめる場のすべての表現、繊細なドラマのすべての場面、彼自身の至上のパフォーマンスの細部すべて、を。

笑顔は漂い消え去り、東洋風の厳粛と東洋の従順さでひれ伏し責務の上に身を置いた。妖精を手なづける適切なアプローチはグラッドストンのまさにアンチテーゼだと最初から分かっているし、しかもそのような流儀は彼の自然なものなのだ。公式に念入りに長口舌をふるい熱心に勧め詳説するなどは性分にあわない。友情と控えめな礼節で心中をほのめかすために、幸せな言い方で重い論点を縮めるために、仕事の道筋に沿って花々をまき散らすのが好みなのだ。個人的であらねば彼は何ものでもない。人柄が妖精の心を開く鍵だと認識している。したがってしばらくの間は決して個人的なトーンを失わないよう気をつけ、親しみ深い会話の魅力で国家のすべての業務を包み込むことにする。彼女は常に王家の淑女、敬慕し崇拝さるべき女主人なのだ。

ひとたび個人的な関係がしっかりと確立されるとすべての困難は消失した。むろん円滑に途切れずに良き関係を保つには細心の注意が必要だ。ベアリングはとても根気よく潤滑されねばならない。だがディズレーリには潤滑油の性質などの心配など不要だった。マシュー・アーノルドに言ったことがある「あなたは私がお世辞のうまいと言われるのを聞いたことがあるだろう。それは本当だ。誰もがお世辞が好き、とくに王権に近づくときにはそれをコテで塗り込めるべきだよ」

彼は自分が説いたように実践した。お世辞は絶え間なくとても厚塗りの壁で用いる。「ずっと陛下の親切な考えと思いを同じくすることができることでは、自分には名誉も報酬もいらない。自身のすべての思考や感情と義務との愛情は今、陛下に集中している。人生の残りの年月、陛下に奉仕する以外何も望まない。もしその奉仕が途切れても、最も興味深く魅力的だった人生の期間として記憶に生き続けるだろう。」彼女にはこう言った。「人生において、人は自らの思考のための神聖な保管庫を持たねばなりません。ビーコンズフィールド卿はこれまで君主陛下にそれを求めることを想定してきました。」彼女は彼のみの単独な支援者ではない、国家の一小道具である。彼は重大な政治危機の間に書く。「陛下が病気の場合は、彼自身も落ち込むことは確かです。すべて、実に、陛下に依存しております。」そして断言してみせる。「彼は陛下のためにのみ生きており陛下のためにのみ働き、陛下なしではすべてが失われます。」

彼女の誕生日に大げさな賛辞の手の込んだお菓子を作ってさしあげた。 「本日、ビーコンズフィールド卿は、帝国統治の強力な君主、帝国の広大、そして艦隊と軍隊の成功と強さについて、おそらく、適時に祝福すべきでしょう。しかし心は別の気分になっていて、そうすることができません。唯一考えることができますのは、彼は素晴らしいかたの下僕になっている運命の不思議、そのかたの無限の優しさその知性と意志の堅さと明るさが、彼をして、全く異なるだろう勤めの遂行を可能ならしめるのです。困難の時には魅力と刺激にまさる丁寧な同情によってすべてのことで彼を助けてくれることを。多くの国土と多くの心を治める君主の上に、全能のプロビデンスが賢人が望み有徳の士が値するすべての恵みをお与えくださることを!」この専門家の手によってコテは、ある高尚な石工の象徴の質、装飾的となり不敬に隠された真理のきらびやかな媒介物となっているようだ。

このような賛辞は心地よいことだったが、言葉での漠然としたままの領域にとどまっている。ディズレーリは甘言のなかに重要な確かさを与えようと決めた。ビクトリアの心にある生まれつきの高い地位による見識、これはアルバートの原理原則とストックマーの教えによって強化されていたのだが、これを意図的に常に励ました。そして政府の議会にて君主の指導的な立場を与えるという憲法の理論に信念をおくと装った。しかしこの問題での発言は不明瞭であった。「本来の玉座」であるべきだときっぱりと言い切るが、おそらく王座はじつに非現実的なものでその占有者はお追従者たちに従順ではないという精神上の付け加えにすぎない。だが言葉の曖昧さがあるにせよそれ自体でビクトリアへの刺激の追加になった。

巧みに女性と女王を困惑させながら個人的な敬意の行為を演じて、壮大なジェスチャーでもって彼女の足もとに英国の政府を投げかけたのだった。政権復帰後初の謁見の中で、「望むことはすべからくなされるべきです。」と確約した。複雑な奉拝規制法案が閣議で議論されていたときには妖精に告げる。「私の唯一の目的は、この問題に陛下のご意志を関わりなくすることです。」

スエズ運河に関する偉大なクーデターをやってのけたときには、彼は取引による唯一の受益者はビクトリアだとほのめかす。「うまくいきます。マダム、あなたのものです。・・・四百万英ポンド!それでほぼすぐに。できる唯一の会社があります、ロスチャイルド家。彼らは見事に振る舞う。低利で資金を提供し、カディフの関心はまったく現在陛下にあります、マダム。」スパイスの効いたほのめかしを抑えられない。政権の権限で書きながら、
女王が下院の大多数に支持された大臣すら罷免する憲法上の権利を持っているなどと助言する。そうするように促しさえもした。これが彼女の意見であればと言いつつ、「陛下の政府は我儘から、あるいはかなり弱腰から、陛下をあざむいた。」グラッドストン氏の恐怖の前例から、女王に内閣業務の一般的な段取りに関して知らせただけでなく、個人的なメンバーとして議論に取り込まむことにする。先きの首相の息子でディズレーリの内閣の外相ダービー卿は、重大な不信でこれらの進展を見る。「彼女の個人的な力に過大な考えを奨励してしまうリスクはないのか、大衆が期待するものとあまりにかけ離れることはあるまいか?私は尋ねますが、あなたが判断することであります。」

ビクトリアのほうでは一つの良心の呵責もなしにすべてのもの、賛辞、お世辞、エリザベス朝の特権を受け入れる。夫との別れの長い暗がりの後に、グラドストーンの規律の寒さの後に、彼女は太陽の花のようなディズレーリの献身の光線を浴びたのだった。状態の変化は確かに奇跡だ。業務の複雑な細部にわたるパズルに時間を取られることももはやない、いまやディズレーリ氏に説明を求めれば最も簡潔に、とても面白く、そんな方法で答えを与えてくれるだろう。もはや新しい出来事に驚かされる心配はない。もはや、ハイカラーの畏敬の念に満ちた紳士によって自分自身が治ったと知ることもなかろう。あたかもギリシャの難解な知識による体現例であるかのように。彼女の救世主は確かに人間として最も魅力的であった。ナポレオン三世が彼女を無意識のうちに魅了したいかさまの奮闘はディズレーリの場合で同じ魅惑的な影響をもたらした。

日常退屈な節酒で過ごしている下戸と同じように彼女の洗練とはほど遠い知性は、独特の熱意と彼のロココ風誘惑を一気飲みして、うっとりと酔いつぶれてしまったのだ。彼に言われたことすべてを信じて、アルバートの死に続く暗い時期を通して滑り落ちていた自信を完全に取り戻す。新たな高揚感で膨れ上がった。彼が彼女の前ですばらしい東洋への計画を魔法にかけているあいだ、唯一ぼんやりと夢見ていた帝国の壮大さに目がくらんだ。説得力の影響を受けてまさに態度が変わった。短身肥満の姿、黒いベルベットのその襞、モスリン吹流し、猪首に重い真珠は、ほとんどまわりの空気を威嚇する。表情からは若い頃の魅力はとうの昔に消えてしまって、まだ年齢による和らぎもなく悲しみと失望と不満の痕跡はまだ見えていたが、それらは有無を言わせぬ傲慢の鋭利な外観と重ね合わせられている。唯一ディズレーリ氏が現われたときには瞬時に、こわい顔が笑顔に変った。

彼のためには何でもしよう。激励にこたえて彼女は隠遁生活から出てくるようになった。不充分ながらも病院やコンサート、議会の開院式にとロンドンに現われ、オルダーショットで部隊の観閲と勲章の授与にあたった。だがまだ一般への好意の兆しは私的な関心ごとに比べれば些細だった。謁見時の彼の振る舞いの間、彼女はほとんど興奮と喜びを抑えることができない。 

ある時友人あての手紙に書く。「本当に彼女が私を受け入れようとしていると思っていると伝えられればそれでいい。笑顔でリースを造ったようになって、おしゃべりし、鳥のように部屋中を飛ぶのだ。」事実彼女は、彼が来ないと絶えず彼のことを話しつづけ、健康への心遣いからいつもとちがう心底からの書き付けをした。ディズレーリはレディ・ブラッドフォードに告げる。「ちょうどオズボーンから着いたばかりのジョン・マナーが言ってるよ。妖精は誰か一人のことだけしか話さない、それが彼女のプリモだと言うんだ。彼によれば、政府が私の健康を内閣の問題にすべきだというのが優雅なご意見だったというよ。親愛なるジョンは彼女が言ったことにかなり驚いたようだね。だけどあなたはこれらの沸騰には慣れっこでしょう。」

彼女はしばしばプレゼントを送ってよこした。いつもクリスマスの日にはウィンザーから挿絵入りのアルバムが送られて来る。最も大切な贈り物はオズボーンの森の中で彼女自身とレディたちによって収集された春の花束で、暖かさと優しさの感情が込められてあった。これらの中で彼のお気に入りは桜草で、「春の使者、自然の珠玉と宝石」だと言ったものだ。「たくましく見えるからとくに桜草が大好きなのです。オズボーンの牧神ファウヌスと木の妖精ドリュアスからの贈り物のように思えます。陛下の王笏が魅惑の島に触れていることを示しているようです。」花をどちら側のボールにも山と積んだディナーの席に座りゲストたちに言う。「すべて今朝オズボーンから女王が送ってくださったものです。私の大好きな花をご存知なのです。」

  Prolećno_cveće

時間が経つにつれ、妖精の隷属状態はますます明らかに
なって来て、彼の公言も着実でより高度に、誇張され気後れもないものになっていった。とうとう彼は甘言のなかにほぼ自ら認めるロマンチックな敬愛の極みを注入してみようとした。バロック風渦巻きのような言い回しで彼の心のメッセージを示唆する。「業務の圧力はたいへんに彼を消耗させ,疲労させてきており手紙を書く時間にすら、彼の考えや事実をもったいなくもお考えいただける最も愛され輝かしいかたに伝えるに適切なほど精神が明瞭にならず。ペンを握る活力すらないほどです。」

桜草が送られて来たのでその返信に「まことにもって、彼が敬慕する君主からこのようなときに到来するこの花は"ルビーより貴重な"ものであります。」雪の花を送ってもらった時には彼の感情は詩的なまでに溢れ出てしまう。 「昨晩、ホワイトガーデンに王家の表題のある繊細なケースが届きました。それを彼が開けたとき最初に考えたことは、陛下が慈悲深くも第一番目に指す星の上に彼を置いてこれを贈ってくだされたということでした。」確かに彼はあまりにも優雅な幻想をいだき深く感激している。多くの星とリボンで飾られた花束をもらい心にいくつかの雪の花を置いてみると、彼自身も親切な女王に飾られていると言いたくなる誘惑に勝てなかった。

  Snowdrops


そして深夜、すべての魔法かもしれないことが起こった。多分、それは妖精の贈り物だが、別の君主から来たのだ。穏やかな海に取り囲まれた島でティタニア女王が宮廷で花を集め、そして魔法の花房を送って来て、人が言うには、受け取った者はこちらに顔を向けよ。

妖精の贈り物!彼は言葉に書いたように微笑むだろうか?おそらくは。だがまたそれは彼の熱烈な宣言は概して誠意がないという結果に向かって疾走するだろう。俳優と観客の両方とも、2つの性格が奇妙な作品のなかでこうも密接に不可分一体なのだから、どちらが他よりも純粋ではないと言うことはできない。ひとつあげれば彼は冷たく妖精の知的能力を評価して多少の驚きを持って記す。「彼女はときに、最も興味深く、面白い。」しかし皮肉な厳粛さでもって塗り込める小手を使い続ける一方、相手とともに王室の昔ながらの鎧に圧倒され、彼自身奇妙な上昇感とともにスリルを味わい、王冠と権力と騎士道の愛の華麗な空想に身を置く。

ビクトリアにこう言う。「どこかロマンチックで想像力をかきたてられる人生のあいだでも、これほどに興奮し活気づけられるかたとの公的な交流が興味深々と起きたことはかつてありませんでした。」彼は結局熱心ではないのだろうか?彼は宮廷についてある女性あてに書いている。「私は女王を愛している。おそらくこの世界で唯一、私が愛を捧げる人だ。」彼は憂鬱とスパンコールに満ちてアラビアンナイトの外に魔法をかけられた宮殿を創造しているのではないか、実際に信じて?ビクトリアの心の状態ははるかに単純なものだ。想像力豊かなあこがれで問題も起こさず感情と空想が混じる精神の漠然とした領域でも自分を失わなかった。感情は強さと誇張のよって日常生活の普通の質感を保っている。表現は同じようにごく普通のものだということだ。首相への公式な手紙の最後に記す。「親愛を込めて V. R. and I.」このような句にみられる感情の深いリアリティはそのままマニフェストである。 妖精の足はしっかりと地上に立っている。空中に漂うのは策略を労する皮肉屋のほうだった。

  Queen Victoria by Angeli, 1875


彼がは教えた課題を彼女は驚くべき速さで学んだ。第二のグローリア、彼はそう呼ぶのだろうか?それは結構、そうして賛辞に値することを示すだろう。不穏な情勢がすぐに続いた。1874年5月、ロシア皇帝は娘がちょうどビクトリアの次男、エディンバラ公と結婚したためロンドンにいた。不幸な行き違いによって彼の出発は高貴な女主人が以前からバルモラルに行くことに決めていた日の二日後に設定されていた。女王陛下は計画を変更を拒否する。皇帝は必ずや不快にされること、さらには最も深刻な影響が続く可能性があることを指摘する。ダービー卿は抗議し、インド担当大臣ソールズベリー卿はたいへんに狼狽した。妖精は関知しない、18日にバルモラルに行くことに決めていて18日がくれば行くだけだ。とうとうディズレーリはすべての影響力を行使しあと二日間だけロンドンに滞在してくれるよう誘導した。「私の頭がまだ肩の上に残っている」彼はレディ・ブラッドフォードに語ったものだった。 「偉大な女性は完全に出発を延期した!誰もが失敗しプリンスオブウェールズさえも・・・私は間違いなく嫌われよう。どうしようもない。ソールズベリーは私はアフガン戦争を救ったという、ダービーは私の他の追随を許さない勝利を褒めてくれる。」

ずいぶん前になるが別の問題では勝利は妖精のほうにあった。突然新しい帝国主義に向かって方向転換していたディズレーリは、英国の女王がインド女帝となるはずの提案を放置していた。ビクトリアはどん欲にアイデアに飛びつく。そして時宜にかなおうがかなうまいが首相に提案を実践に移すようにと圧力をかけてきて彼は躊躇したが彼女はくじけない。1876年になって彼自身と内閣の気力にもかかわらず、帝国の名称を変える法案で議会の嵐のような紛糾に輪をかけることを余儀なくされる。彼のコンプライアンスはしかし最終的に妖精の心を征服する。多数派は両議院で怒りの攻撃を受けたがビクトリアはディズレーリがそれを守った不屈のエネルギーに深く感動した。彼女によれば、彼にかけた「心配と迷惑」の悲しみにあって、それが原因を恐れ借りを造った「親切で善良で思慮深い友人」のことは決して忘れないという。同時に彼女の雷は野党側に落ちた。彼らの行動は、「並外れて理解できず、それと誤解」であると言明し、これまでとは矛盾する強調文で抗議した「自分はそれが女王の意志だと一般に知られているなら喜んでいるだろう。なのに人々はそれが強要されていると思っているのだ!」事案が成功裡に終わったとき、帝国の勝利がふさわしく祝われた。デリー宣言の日に、新ビーコンズフィールド伯爵は、新インド女帝のディナーにウィンザーに行った。その夜妖精は、通常は家庭的な服装なのに、彼女が君臨するラジャの王子から贈呈された巨大なノーカット宝石のきらびやかな盛装で登場する。食事の最後に首相はエチケットを突き破って花の演説で女王、女帝の健康を祝した。大胆さは好評で、彼のスピーチは笑顔の礼儀で報われた。


これらは重要なエピソードだった。しかし翌年ビーコンズフィールドの人生の最高の危機の中に、ビクトリアの気性がさらに重大に現れてくる。彼が押し進める帝国主義、英国力と威信を拡大したいという願望、彼の主張する「気鋭の外交政策」は、ロシアとの衝突につながって来ていた。険悪な東方問題が間近に迫り、ロシアとトルコの間で戦争が勃発したとき事態の重大さは極端なことになった。首相の施政方針は困難と危険に満ちている。まったくまずそうな英露戦争の含みを理解しながらも、まだ彼は他の方法で収拾出来ればそのような事態に直面することもなくロシアは現実的にまだ破裂の少ないほうを望むと信じている。十分な大胆さと如才なさでゲームを演じた場合ポイントに来れば彼女は衝撃なしで必要なすべてをもたらしてくれよう。

だが彼が選別していた道筋は運任せで異常な度胸が必要、一つでもつまずけば彼自身か英国が破滅に引き込まれるかもしれないことは明らかだった。彼の神経で欠けていることはない。高い確信をもって外交の卵ダンスを始めたものの、ロシア政府と自由党とグラッドストン氏のほかに数えてみるとさらに二つの危険な厄介があることがわかった。最初の場所には戦争のリスクを犯すには不本意な外相のダービー卿に率いられた閣内の強い一派がいたが、しかし彼の極度の不確定要因はじつに妖精にあったのだ。

最初から、彼女の態度は断固としていた。クリミア戦争によって引き起こされたロシアへの昔からの憎悪は再び高まる。アルバートの古くからの敵意を思い出し自身の偉大さのうずきを感じ情熱的な心で混乱に身を投じたのだ。野党への憤り、トルコとの争いでのロシア側に同情しようとする誰にでも、こうして彼女の憤りは倍加する。ロンドンで開催された反トルコ集会、これはウェストミンスター公とシャフツベリー卿が主宰しグラッドストン氏や他の著名な急進者たちが参加したが、それを知って叫んだ。「検事総長はこれらの人間を拘引すべきだ。憲法にかなわないことです。」彼女の人生で寝室女官の危機でさえこれほどの猛烈な抵抗を示したことはない。不快感は急進派に向けられたものではない。後戻り保守派は平等に威力を感じた。ビーコンズフィールズ卿さえもが不満である。

女王は彼の政策の微妙な複雑さを理解することはできず常に積極的なアクションを要求した。善き態度など弱気と見なし、犬喧嘩の戦争に巻き込まれる転機にそなえよと。状況が進展するにつれて不安は熱っぽくなった。 「女王はとても不安に感じている。猶予が遅すぎないこと、永遠に我々の威信が失われること!夜となく昼となく心配です。」 ビーコンズフィールドはレディブラッドフォードに言った。「妖精は、毎日手紙をよこし、毎時間電報をよこす。ほぼ文字通りのケースだ。」彼女はロシア人を声高く非難する。 「そして言葉、ロシア人の私達に対する侮辱的な言葉!それは女王の血を煮えくりかえさせる!」少し後で書いた。「ああ、女王が男だったなら、行くわよ、そして信用出来ない言葉を吐く彼らを打ち砕く!それが終わるまで我々は決して友人になるまい。こう女王は堅く思う。」


不幸な首相、一方でビクトリアに強硬に促され、かたや積極的介入のいかなる方針にも基本的に反対する外相に対処しなければならなかった。女王とダービー卿の間に、彼は嫌がらせの道順をもうける。女王の信書でダービー卿を刺激し、ダービー卿の意見を否認して女王をなだめる、相互への働きかけでかすかな満足を得るのだ。ある機会に実際、ビクトリアの要求で同僚を攻撃する手紙を書き女王陛下が速やかに署名したものを変更することなく外相に送信した。だがこのようなしかけは一時的な救済にすぎず、すぐにビクトリアの武道的情熱はダービー卿に対する敵意の横道などではないことが明らかになってしまう。ロシアに対する敵意はもともと彼女が望み持とうとし持たねばならぬものなのだ。

今や節度など残骸として脇に放り出し常にない威嚇の連続で友人を攻撃し始める。一度や二度でもなくかなりに、彼女は彼の頭上に退位は差し迫っているとの恐るべき脅威を掲げてやった。ビーコンズフィールドに書き送る。「英国がロシアの足元に接吻をすることになれば、私は英国の屈辱の当事者であろうと思わないし王冠を下に置くでしょう。」そして首相も同感なら内閣に彼女の言葉を繰り返すことを付け加えた。 「この遅延、海外で威信と地位を失ってしまうこの不確実性、ロシアがコンスタンチノープルに向けて前進しそこに達するまでにもう時間はない!そうして政府は恐ろしく非難され、女王は屈辱のあまりすぐに退位するだろうと考えている。大胆に!」そして改めて、「彼女は感じている、前にも言ったように、彼女は国の君主を、この世に存在するすべての自由と文明の遅延剤たる野蛮人の足下に伏し接吻をする立場に置くことは出来ない。」

ロシアがコンスタンチノープル郊外に進出したときは戦争を要求する一日に3通もの燃えるような手紙を送りつけた。だが内閣がガリポリへの艦隊派遣のみを決めたと知るや言い放った。「彼女の最初の衝撃は、この国の位置が今のままに留まるなら保持するに全く満足できないイバラの王冠を下に置くということです。」ビーコンズフィールド宛のこのような信書のかく乱効果は容易に想像できる。これはもはや妖精ではなかった。彼が軽率にも彼女の瓶から呼んでしまった精霊であり、今や天空の力を示すつもりでいる。一度ならず当惑し意気消沈し病気によって粉々にされ、彼はゲームから完全に撤退する考えに到った。苦笑して、彼を妨げたたった一つのことをレディ・ブラッドフォードに語った。「私が辞任したとして司令部に起きる場面を見てみたいものだ。私はすぐにでもそうするよ。」

彼は最後には勝利に抜け出た。女王は心が柔らいだ。ダービー卿は更迭されソールズベリー卿に代わった。デラルテ・ジュードのベルリン会議は思い通りに運ぶ。彼は勝利とともに英国に帰国し、確信し喜んだ。ビクトリアがこれまでとはちがって、ほんのすぐさま「ヨーロッパの絶対権力者」になることを。

ところがすぐに予想外の逆転劇があった。1880年の総選挙で保守党の積極策への不信とグラッドストン氏の演説に引きずられ、国は自由党に権力を返したのだ。ビクトリアは恐怖にとらわれたが、一年とたたずにほとんど適合する。

壮大なロマンスは終わりに来ていた。ビーコンズフィールド卿は、年齢や病気で消耗していたがそれでも活動的で、勤勉なミイラはディナパーティーからディナパーティへと動き回っていたがそれも突然にとまってしまった。彼女は最後が避けられないことを知ったとき、悲しい直観で心を痛め、密やかな優しさをもって彼のそばにいた。王たる身分も投げ出し女性としてそれ以外の何ものでもなく。 

いじらしい純真さで書き送る。「オズボーンの桜草を送ります。今週すこしお邪魔します。でもほんとうに静かになさっていてくれたほうがよいと思います、お話もあまりせずとも。よくなられることを、お医者様の言うことをよく聴いて。」会うつもりなのだ、「オズボーンから戻ってくるのに、長くはかからないでしょう。みなが、あなたがよくないのでたいへん落ち込んでいます。・・・変わらぬ親愛を込めて aff'ly V.R.I. 」

王室の手紙が届いたとき風変わりな老コメディアンは死の床に横たわっていたが、それを手に戴き深く考え込んでいるように見えた。そしてささやいた、「これは枢密院で私のために読みあげられるべきだな。」

( 第8章 終わり )

 

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ビクトリア女王 第8章 1−2 ー Lytton Strachey

2011-12-19 22:32:38 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ

リットン・ストレイチーの「ビクトリア女王」第8章は、グラッドストンとビーコンズフィールド卿という章題、この1、2節。長過ぎて3節は「つづく」になってしまった。それはどうでもいいとして、黄金のビクトリア期の首相たちの系譜ということになる。系譜というよりパックスブリタニカを作りあげて行った男たちの人間描写,はたまた女王様の好き嫌いがどんなものかと、まあ,そういうことを楽しむことになろう。

うっかり誰かがいったとおりに表題自体を「ビクトリア女王伝」としていたがこの本は女王そのひとのいわゆる伝記ではなく、鶴見祐輔さんいうところの「史伝」というべきものなのだろう。そうか「伝」を取ってしまおう。女王との関わりのなかで首相がたが入れ替わり立ち代わり現われるわけだが、ちょうどよいことにこれで、この時点までの首相のお顔はすべてこの章までで拝見出来た。さても後世に残るというのは実にこういうことであろうか。


>>>>>>>>(Queen Victoria  by Lytton Strachey /(The Project Gutenberg EBook of Queen Victoria, by Lytton Strachey  より のり坊訳。 画像:wiki/Queen_Victoriawiki_Gladstone wiki_Benjamin_Disraeli QUEEN VICTORIA: IMAGES OF HER WORLD etc.

 

 

CHAPTER VIII. GLADSTONE AND LORD BEACONSFIELD

第8章 グラッドストンとビーコンズフィールド卿

I

ウィーン会議とピットの時代から鳴り響いていたパーマストン卿の奇妙な金属的な笑い声「ハッ!ハッ!ハッ!」はピカデリーで聴かれなくなった。ジョン・ラッセル卿は老衰でもういけない。ダービー卿は舞台ではおぼつかない。こうして新しいシーンが開けた。新たな主人公、グラッドストン氏とディズレーリ氏は脚光を浴びつつお互いに争っている。ビクトリアは優位な地位から、あいかわらず政治にそそぐ情熱的かつ個人的な関心をもってこれらの進展を見ていた。彼女のひいき目は予期しないたぐいのものであった。グラッドストン氏は彼女の尊敬するピールの鍛錬を受けアルバートからのお墨付きも得ていた。ディズレーリ氏はおぞましい辛辣さでサー・ロバートを悩まし破滅させ、公子は「彼の資質のなかには紳士の要素がひとかけらも無いもない。」と言ったものだった。だが、彼女はグラッドストン氏を着実に深まる不信と嫌悪をもって見なし、彼のライバルには信頼と尊重とメルボーン卿自身も知らないようなうな愛情の豊かさををふりそそいだのだ。
アルバート記念碑の助成金が下院に計られたときは、ディズレーリは野党のリーダーとして雄弁にプロジェクトを支援した。

公的な人間のなかで彼一人がアルバートの死による気持ちをわかってくれていると知ったとき、トーリィ党の頭目に対する彼女の態度が急に変わった。他の人は「哀れんでくれるが,私の悲しみにではなく」、だがディズレーリ氏は理解してくれていた。すべての弔意は故人への畏敬の念を称揚する形を取っていた。女王は表明する「彼は公子を高く評価する唯一の人だ。」特別な好意を示し始め、彼と妻にはセント・ジョージ礼拝堂でのプリンス・オブ・ウェールズの結婚式には切望された席二つを与え、彼にはウィンザーで一泊するよう招待までした。

   Benjamin Disraeli

 
彼は女王の手になる書名入りの白いモロッコ皮で結ばれた公子のスピーチの写しを賜った。感謝の手紙で彼は「神聖なテーマに思い切って触れた」と言い、文面の感情は見事な忠実度で反響しつつアルバートの絶対的な完璧さに及んだ。 「公子はディズレーリ氏がこれまでに知っている、理想を実現した唯一の人物です。彼を知る人は誰一人として今までそれに達したことはありません。男らしいの優雅さと崇高な素朴さが結びついたもの、アッチカアカデミーの知的な素晴らしさを備えた騎士道精神、が彼の存在でした。いくつかの点で彼に近い英国史の中で唯一の性質といえばサー・フィリップ・シドニーでしょうか。同じく高い調子、同じように普遍的な成果、同じく優しさと活力の混じり合い、そして同じく騎士道のロマンチックなエネルギーと古典的な安息の稀に見る組み合わせ、です。」

公子と知己を得たことについて彼は言う。「自分の人生における最も満足なできごとの一つでした。洗練された美しき思い出のかずかず、そして実践は自分の残りの存在を通して慰めと高揚する影響を与えてくれます。」ビクトリアは「これらの言及の深さと繊細さ」に非常に影響を受け、それゆえ彼女のディズレーリのへの好意は揺るがぬ場を占めるようになった。 1866年に保守党が政権を得たときには、当然に大蔵大臣と下院のリーダーとしてのディズレーリの位置は君主との緊密な関係にまで及んだ。2年後にダービー卿は辞職し、ビクトリアは強烈な喜びと特段の好意をもってディズレーリを首席の大臣として歓迎する。しかしわずか9ヶ月間のあわただしい期間しか彼は権力の座にとどまれなかった。彼の内閣は総選挙で下院での少数派に転落し、消滅してしまったからだ。だがその短い期間によっても女王と首相との結びつきはこれまでよりもはるかに強くなってゆく。彼らの関係は単に感謝する女主人と献身的な召使いとの関係ではなかった。友人なのだった。

    14th_Earl_of_Derby

彼の公式の手紙はいつも個人的なことがらも認められたものだが、クラレンドン卿が言うように「最高の小説のスタイルで」興味をそそる政治ニュースや社会的なゴシップにも及んだ。ビクトリアは喜んだ。人生でこんな手紙をもらったことがない、すべてが知らないことばかり。お返しに春が来たときに、自身の手で摘み取った花のいくつかの房を彼に送った。お返しに彼は自分の一連の小説を送ってきたが、彼女は「とても感謝し,たいへんためになった。」彼女自身は最近「ハイランドの生活誌からの一葉」を出版していたところなのだ。そのためこの時期に女王陛下との会話では、「我々は作家、マアム」と首相は常に口にするのだった。政治的な問題に関しては彼女は彼の忠実な支持者だった。「本当に、野党らしい行為があったことはない。」政府が下院で敗北した時には、「実に下院の行方にショックを受け、彼らは本当に憲法政府に不信をもたらす」と、変化を恐れた。自由党がアイルランドの教会を廃止するよう主張した場合、戴冠式の宣誓が岐路に立つことを恐れていた。しかし交代は必然であった。ビクトリアはいらぬことにディズレーリ夫人に貴族号まで贈与しお気に入りの大臣を失う慰めにしようとした。

ハワーデンに王室からのメッセージが来たときグラッドストン氏はシャツの袖をまくり木を切っているところだった。手紙を読んで「とても重要だ」と言ったが樹木を伐採し続けた。彼の隠れた思考はより明示的であり、日記に示される「全能の神は、自身の何らかの目的のためこの私ですまそうとするようだ。値しないことを私自身がわかっているのだが。彼の名に栄光あれ。」

     Gladstone in relaxed mood

女王は、しかしながら、全能の神の意図への新大臣の見解は共有していなかった。グラッドストン氏が実施することに決めた抜本的な計画の変更のどこにも崇高な目的があるとは信じられない。しかし彼女に何ができよう?鬼神のごときエネルギーと下院での強力な過半数を持つグラッドストン氏は抑えがきかない。5年間(1869〜74)ビクトリアは、果てしのない改革にかき乱される雰囲気にいることを余儀なくされた。アイルランド教会と土地制度の改革、教育の改革、議会選挙改革、陸海軍の組織改革、司法組織の改革。これらに賛同しかねて煩悶し次第に怒りが増す。アルバートが生きていたらこんなことにはならなかったろうに。だが抗議も不満も同じように無効であった。

増え続ける洪水のように注がれる文書の量に取り組むのは単なる努力とはいえひどく疲れるものであった。四つ折り12ページにびっしりと書かれたグラッドストン氏の説明の手紙とともに長文の難解なアイルランドの教会法案の草案が来たときには、彼女はほとんど絶望した。法案から説明文を辿り説明から再び法案に戻り、ついにはどちらがひどく難解なのかがわからなくなったほどだ。しかし義務は果たさねばならなかった。読むだけでなくメモを書いた。しまいにはオズボーンに滞在していたマーティン氏に書類の山全体を渡し、梗概を作ることを要請した。彼に頼んでいる間に不満はこれまで以上に高まって来た。しかしそれが政府の強さだった。もっと悪いことにならぬようには野党のほうに向けて中庸を促しておくべきだと思ったのだった。

この危機のさなか、アイルランド教会の将来がバランスのなかで宙づりのとき、ビクトリアの注意が別の改革提案に向けられた。それは海軍の水兵は今後は髭をつけるのが許されるべきという案件だった。女王は海軍長官に不安げに書き送る。「チルダーズ氏は髭の件に関して何も確かめていないようですが?」おおむね女王陛下は変化を支持しているようだ。「私自身の個人的な感情は髭はいいとして口髭は無しです。後者はむしろ陸軍兵士の外観じゃないでしょうか。」だが彼女の見解は通らないだろう、すなわち、髭剃りの必要性を無くせないことで。そうして、短く清潔に保つことを条件に提案通り髭すべてが良しとされた。つぎの週に問題を考え抜いた末に女王は最終的な手紙を書いた。「髭に関して一つだけ言わせていただきたい。すなわち、他の髭なしでの口髭だけが許されることはあってはならない。明確に理解する必要があります、それは。」と彼女は言い、そう望んだ。

これで海軍の変化は大目に見られることになろう。だが陸軍に手をつけることはより深刻な問題だった。記憶にないほどの昔から陸軍と国王の間には特別に密接な関係がずっとあったのだ。アルバートは、フレスコ画、絵画や、援助に値する貧しい人々のための衛生院などの計画にもまして、軍事的な業務の詳細にさらに多くの時間と関心を捧げていたものだ。しかし今やここに大きな変化が生じる。グラッドストン氏の厳命はその先を行っていた。最高司令官は君主への直接の臣従から離され上院と国防相に従属するとされた。すべての自由主義的改革のなかでもこれは、ビクトリアには最も大きな苦渋を引き起こす。彼女は変化は自身の個人的な位置、ほとんどアルバートの個人的な位置に対しての攻撃であると考える。だが彼女は孤立無援であり首相は押し通した。

恐ろしい男がまだ別の改革が企図していると聞いたとき ー 彼は将校職の購買をまさに廃止しようとしていたのだが ー、何が起きるかを感じることができた。すぐさま上院が助けになることを望みピールズは予想外の勢いで変更に反対したが、グラッドストン氏はこれまでよりも全能の神の支援をより意識し独創的なしかけでの準備ができている。将校職の購買はもともと王室御用達で許可されていたが、今や同じ代理店では許されないことになるのであった。ビクトリアは妙なジレンマに直面する。購買廃止をいやがっているにもかかわらず自身の嗜好にかなう君主権の行使によって裁可するように頼まれたのだ。長い間を躊躇しなかった。内閣が正式に令状に署名を要請すると彼女は潔くそうした。

グラッドストン氏の考えが受け入れがたいばかりでなく、ビクトリアには彼についてさらに不快な何か他のものがあった。彼女は自分に向かっての彼の個人的な態度を嫌った。グラッドストン氏がどれほどにしても彼女への対し方で礼儀や敬意に欠けていたためではなかった。それどころか特別な畏敬の念は会話と君主への書簡のどちらも彼の態度に滲み渡っている。確かに、彼の不可解な性格にそのような予想外の色合いを与える根っからの情熱的な保守主義で、信じられないほどのキャリアの最後の最後まで、グラッドストン氏は、ほとんど信仰のように敬うべき由緒の神聖な表現としての畏敬の霞を通して、議会立法制下での女王、英国憲法に不可欠な要素としてのビクトリアを観ていた。

    William-e.-Gladstone

しかし残念ながらこの女史はお世辞に感謝していない。よく知られている不満「公的な集会にでもいるかのように彼は私に話す。」信じるべきかどうか、言い回しは確かに真のビクトリアにしては少し寸鉄風だが間違いなく反感の本質的要素は表現している。彼女はそれがおなじみのものだと考えるのに異議はなかった。彼女もただの一人、それを理解はしていた。だが一方で彼女は女性だった。自分だけはと考えると耐え難かった。こうしてグラッドストン氏の熱意と献身、厳かなフレーズ、低いお辞儀、堅苦しい礼儀正しさまですべてが、全く無為に帰した。忠誠心を超えて突き進み、彼の崇拝の対象のほうに責めを負わせた。追従的な無分別、知性の繊細さ、幅広い読書、彼自身が持つ大きな熱意、これらをもってして誤解は完全になってしまった。現実のビクトリアとグラッドストンのイメージによる不思議な神性との不一致は、悲惨な結果をもたらした。彼女の不快感と嫌悪はとうとう決定的な敵意に至ってしまい、礼節は完璧に保ったものの決して一瞬たりとも直らなかった。彼の側は失望と当惑、無念に打ち勝つしかなかった。

だが彼の忠実度は不動のままであった。閣議では首相は至福の観に満ち、問題に関する女王の手紙を1時間も声を出して読むことからはじめるのであった。みなが全く静かに座しているあいだ、次から次へと特異な文法的な特質を持つ王の信書が強調され吐き出され、グラッドストン氏の厳かな話し振りに気合いが入るのだ。このことにはいかなる注釈もかつて出されたことはない。しかるべき中断の後、内閣は一日の業務を進めるのであった。

II

ビクトリアは彼女に対する首相の姿勢をまったく評価せず、それはそれなりに役立つとわかった。彼女のやみそうにない雲隠れへの民衆の不満は長年にわたって大きくなり今新しい警戒の域に破裂しようとしていた。共和主義は大気中に満ちていた。ナポレオン三世の没落、フランスの共和制政府の樹立によって刺激された英国内の急進的な意見は1848年以降で突然に極端な高まりをみせていた。内容も初めてまともなものになっていた。チャーチスト運動は完全に下層階級の関心事になっている。しかしいまや、上院議員たち、有識者、称号を有する夫人たちは最も破壊的な景観だと公言してはばからない。君主制は理論と実態の双方で攻撃されきわめて重要な点を攻められる。それは非常に高くついているということである。問われているのだ、国家はどのような利益を、君主制に費やされる巨額な経費と引き換えに刈り取ることができるのだろうか?

ビクトリアの隠棲は論議に不愉快な方向を与えてしまう。国王の儀式の機能は事実上消滅していることが指摘され、他の機能のいずれかに年間38万5千ポンドをかける価値が本当にあるかどうかが厄介な問題として残される。王室のバランスシートが興味津々調べられた。「彼女はそれで何をするのか?」と題する匿名のパンフレットが現れ出て、悪意をこめて財務体質をやりこめる。それによれば、毎年シビルリストで女王は私的な用途として6万ポンドを付与され、莫大な年金の残りは法に従えば「王室の費用を賄い、王位の名誉と尊厳を支援する」ものだという。

今や公子の死去以来、これら両方の支出は大幅に減少されるべきことは明らかだ。多額の金銭が議会で規定される用途から毎年転用されたという結論にあがなうことは困難、ビクトリアの私財は膨潤している。その私財の正確な量は解明することは出来ないが巨大なことを推定できる根拠もありおそらく合計500万ポンドに達しよう。パンフレットはこのような事情に抗議しその抗議は新聞や公開会議で精力的に蒸し返された。ビクトリアの富の総量が非常に誇張されたことは確かであるが、非常に裕福な女性であったこともまた確かである。おそらくシビルリストから年間2万ポンドを蓄え、ランカスター公国からの歳入は着実に増加し王配殿下からかなりの遺産を相続し、1852年には50万ポンドの不動産を風変わりな金持ちジョン・ニールドから遺贈された。このような状況では1871年に議会が、ルイーズ王女のアーガイル公爵長男との結婚に際し3万ポンドの持参金と合わせて6千ポンドの年金の裁可を頼まれたとき、真剣な抗議の声(*)があがったのも驚くことではなかった。

(*)1889年に公式に述べられている。シビルリストからの蓄えは82万4025ポンドに達したが、この大部分は外国からの特別な賓客にもてなしに費やされていた。年間6万ポンドのランカスター公国からの収入と王配偶殿下の貯蓄およびニールド氏の遺産を考慮に入れると妥当なことと思われる。ビクトリアが亡くなった時点での個人的資産は200万ポンドに達した。

世論をおさめるために女王は上院の開院式に出て投票はほぼ全会一致で可決された。だが数ヶ月後アーサー王子が年齢に達し年額1万5千ポンドの年金に支給を国家は依頼された。抗議の声は倍加した。新聞論調は怒りにみち、ブラッドローは、トラファルガー広場でのこれまでない数の群衆を前に「王侯貧民」に対して雷を落とした。サー・チャールズ・ディルクは、ニューカッスルでの選挙民への演説で共和国の場合のことをぶちあげた。王子の年金は、最終的には大多数で下院で認可されたが、50人の少数派は1万ポンドに減額することほうに賛成した。

この不快な問題のあらゆる側面に向かって、グラッドストン氏は鉄壁の構えで対した。彼は信奉者たちのいう極端な部分を絶対に取り上げなかった。女王の収入の全体は個人的な使途で公正であると言い王室の資産への不満は単に王家の贅沢を促すものだと主張した。そして厳密に先例に則るものと指摘した芳しからぬ年金額は上院を通じて護送された。1872年に、チャールズ・ディルクはもう一度下院に、シビルリストの基本と枝の改革を視野に入れて女王の支出の完全な調査動議をかけたが、首相は強力かつ独創的な雄弁の資源をすべて用いて女王の支援をした。彼は完全に成功し大きな病的なシーンの中で動議は不面目にも却下された。ビクトリアは安心した。だが彼女はグラッドストン氏に好意を増すことはなかった。

おそらく人生の中で最も惨めな瞬間だった。大臣、報道、国民は、すべてのあらゆるところで冷淡で無礼になり行動を誤解し非難する。「彼女は恐ろしく理解し難い女性である。」彼女に加えられた不当な攻撃への激しい不満をマーティン氏に語った。「十年間の助けもないたった独りでの大きな心配と不安とハードワーク、忍び寄る年齢と決してとても強くはない健康」が彼女を落ち込みさせ「ほとんど絶望に導く。」状況は本当に嘆かわしいもので、彼女の全存在がゆがんでいくかのように、取り返しのつかない拮抗が女王と国家の間で増幅してゆくかのように。ビクトリアが70年代はじめに亡くなっていたとしたら、世界は彼女の過ちを声高に言っていただろうことは疑いがない。


(第8章 3節につづく)
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