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そのままVon

おもに31文字の語呂合わせ日記

万葉集の発案者について(11/02)

2019年11月02日 | 字余り

2019/11/02

 万葉集は誰の発案で編集が始まったのだろうか。最終的には大伴家持に委ねられたのは確かだが、誰かから引き継いだ事業であることは、確かである。引き継いだというのは第一、二巻は編集方法が違うし時間が飛鳥京、藤原京の歌が中心となる。
持統天皇かという説もあるが、編纂のマグマは日本書紀の成立における歴史の歪曲でないかと思う。
理由を論理的に述べるのは難しいが反藤原派からすると我慢がならなかったのだろう。日本書紀は元正天皇の時、舎人親王により奏上され、藤原不比等はその完成を見届けて死ぬが、翌年から、日本書紀の進講が始まる。太安万侶が講師であったらしい。この御進講がどんなものだったかは気になるが、反藤原氏の皇親派には物議を醸したのだろう。
 不比等(720年死)亡きあとは藤原四兄弟が活躍するが首皇子、安宿媛と長屋王のゴタゴタがありその結果長屋王は排斥され自尽に追いやられる。大宰府に追いやられていた旅人も帰郷するが、失意のうちに死んでいく。旅人や億良は歌を詠んだり集めたりはしていたが万葉集を編纂してやるという野望にはいたっていなかったと考える。聖武天皇は、人麻呂を顕彰しているし誰かに命じて万葉集の編纂を望んだのであろう。誰かに命じというのは橘諸兄で田辺福麻呂、家持に引き継がれていったのではないだろうか。

大伴坂上郎女、大伴旅人、山上億良等も重要な役割は担っていたのだろうが・・・。


小説について

2018年11月17日 | 字余り

2018/11/17

小説について考える。できればそれを1冊ものにしたい。
比較的よく小説を読み、文章についてもいい文章が書けるように、自分なりに努力はしてきたつもりである。それは小説を書くことと同じではない。小説または小説擬きを書こうという意思がないと実現しないのは明らかである。
明確な定義もあろうが、それを気にしすぎると前進できなくなる。曖昧なままでもいいから、とにかく自分で小説を実作していかないといけない。
ネタ探しをしよう。
 ①有名な万葉歌から額田と天武の関係を類推、一定の結論を得る。
 ②柿本人麻呂神社、歌、活躍と末路について一定の結論。
 ③藤原定家の行動、歌の成果から数学的発想の持ち主で晩年の仕事である百人一首がその証拠である。
 ④本居宣長は血液型がB型で、その粘着質の性格が古事記伝を著した。
 ⑤ガロアは二十歳で死んだ。死に至った真相を類推し、群論の発想の成果を説明する。
ざっと挙げていくとこんな感じなのだが日常に根付いた疑問や課題があがっていない。例えば老人社会とか、介護とか。本来実生活のあれこれを深く考える習慣がないから、致し方がないと開き直ってしまえばそれまでだが、ここは努力しても仕方がないので、嗜好の問題として割りきろう。とにかく何とかしたいものである。

「古希にして14歳のるりかちゃんに小説作法著作で学ぶ()」


ホームページ雑感

2018年09月13日 | 字余り

2018/09/13

「今日もまた 空どんよりと 曇りては 肌寒き日と なりにけり 例年ならば 空晴れて 残暑の候の 心配も 暑さは去って このままに 彼岸に至る 季になるか 『歌の小みち』も 6巻に 暑き夏去り 秋来れば 腕まくりして 歌詠まん みんな張り合い 持っていて いまは終わりの 気配なし この夏暑い 最中だが ふとしたことで リニューアル ホームページを やりました 当初は一ヶ月の 予定にて 取りかかれるも 三ヶ月 時間をかけて 果たしたり これは結局 人のため 役にはたたず 己のみ ポータル的に 利用して 利便をはかり 内装の 充実はかり 吾を知る 人への遺書の ごとなれる 丸裸にと なりにけん 十余年ほど 捨て置くも これからずっと こまめにと 更新をして ゆきましょう 更新するは 今のとこ 万葉集や源氏とか アップしてない 記事をのせ 時に雑感書いてみん さらに古事記や 日本書記 含む古代史も まとめたい 新しきもの 数学や 神学のことも 書きたして さらにガロアや パスカルも 書いてはみたい その他に ルービックキューブの 解法を 自分なりにと まとめんか いっそこのまま 短歌とか 俳句のことも まとめては 精神分裂したような 自己愛あふれる ページにと 進化させては いかがかと 妄想・膨張・爆発の ホームページの 未来はいかがな?()」


万葉集・古代史の疑義

2018年06月13日 | 字余り

2018/06/13

「首にはおばに氷高皇女いて独身なれど帝位につける
 (聖武天皇のまえに。氷高皇女の本も読むが心の襞まで読めない)」
「不比等とか母が敷きたるままになり帝位につけど違う道行く
 (藤原氏の言いなりだったが、藤原広嗣の乱で関東に急に行くと言い出し、奈良の都を抜け出した。これは藤原氏への反逆だった)」
「石川郎女の歌集中に12ヶ所あり調べりゃ謎が(大津皇子と草壁王子が石川郎女を取り合った歌も入っている)」
「集中に判読不能な難解歌いくつもありてままにのせらる(難解歌はオリジナルか編集者の意図的変更かもしれない)」
「橘三千代は不比等の妻となり持ち駒のごと動けるのみか(橘三千代を悪女のように言うが実際は違うのではないか)」
「もし三千代よい人ならば諸兄と安宿媛にとよき影響を()」
「梅原の人麻呂刑死のキラー説いまひとたびのはじめに戻せ(人麻呂水死説も有力だが天然痘による病死説もある。また、中村説では鴨山五首は虚像といっている)」
「天皇や宮城のこと中心の一巻・二巻は天皇からむ
 (万葉集は勅撰集と言う説もあるが誰が命じたか明確でない。持統の発意との説も。あり得る。元明天皇という説が有力。)」
「家持に数では負ける人麻呂も密度の濃さでは群を抜きいる(人麻呂と家持で万葉集の20%以上の歌が占めている)」
「人麻呂にミツラといえる子のありて大津事件に連座したとか(人麻呂は大津皇子の暗殺事件での反逆罪で息子と共に流罪に)」
「原『古事記』、古事記、日本紀の順番で万葉集は古事記の直後(万葉集は記紀と成立した時代が異なると思っていたがあまり変わらない。ただし、巻1,2)」
「古事記とは稗田阿礼が誦むところ筆録したと安麻呂語る(記紀は言い伝えがベースになっており、とかく信憑性が議論される。筆録しただけというのは嘘っぽい)」
「古事記など古代歌謡の集録であれば万葉違う姿に
 (記紀にも歌謡があるが、誰が歌謡を集めようとしたのか。人麻呂くらいの能力がないと黴のように空間に漂っている歌を集めることはできない)」
「万葉の三巻以降の編集に家持かかわり路線は変わる
 (万葉集は家持が最初から携わったのではない。記紀は勝者側の歴史。特に日本書紀は改竄がはなはだしい。万葉集は誇り高き敗者の歌集)」
「(第一級資料として、三国志、碑文、考古学発掘資料等がある。歴史的事実とはどんな条件が必要か。)」
「(天武と持統から始まっている。不比等に詳しい大山誠一氏は天武は無能で治世の後半からは別物という)」
「(¶持統が不比等を組み入れたいきさつが重要)」
「(¶人麿は不比等に処刑された)」
「(¶持統・草壁・文武・聖武の皇統のシステムがキーポイント)」
「(魂降り、魂鎮め、言霊思想は重要。陰陽五行も。)」
「原『古事記』天武天皇撰録の勅命をだし編集はじむ(中村真弓によると天武天皇により『古事記』の編纂は始まる)」
「4ヶ月あまりで古事記は撰録も基がなければ不可能なこと
 (現在知られている古事記は711年に元明天皇が勅命し、翌712年に奏上された。現古事記が一年たらずで完成できたのは原『古事記』があったからである)」
「持統とか元明天皇すさまじき子を天皇にする宿願は(持統は日下部と文武を、元明は首ヲビトを)」




『美貌の女帝』を読んで

2018年06月07日 | 字余り

2019/06/07

いま永井路子さんの『美貌の女帝』を読んでいて、戸惑いを感じている。不比等と元明、元正母娘との関係の描き方である。氏は元明、元正を蘇我倉山田石川麻呂系の女系として不比等に対立させている。持統天皇も同類だが持統は、不比等を草壁・文武という皇統を実現するために協力者として選んだ。しかし、不比等は手に負えない怪獣化し、怪獣の子として宮子の産んだ首皇子、不倫の相手である三千代に産ませた安宿媛をマッチングさせ、藤原氏の天皇と皇后を作った。元明、元正のやろうとしたことは実現できずに、首皇子と安宿媛に引き継がれていく。この聖武天皇と光明皇后は、藤原氏のお飾りではなく反藤原的な天皇に育っていくのであるが、この天皇までに長屋王や安積皇子、大伴旅人等の不幸がある。
このように見ていくとやはり長屋王の変が分水嶺になっていそうだ。ほかに光明子を産んだ橘三千代の怪、首を産んだ宮子の謎、藤原氏の近江への回帰、皇統の行方など興味はつきない。