化粧 2006年08月31日 | 日めくり帖 8/31 「ひたすらに顔を弄りて化粧するこの子等なにを考えおるか()」 「さながらに化粧部屋のごとならんアフターファイブドトール二階()」 「本能といえど過ぎたる風潮か最近の子のどこでも化粧()」
徒然草(#175 一気飲み) 2006年08月31日 | 日めくり帖 8/31 「世の中に訳のわからぬこと多しいやがる酒を飲ませることや()」 「そもそもは酒にまつわるエトセトラ多くは害があると思えよ()」 「釈迦も説く酒を手にとり飲ませるは手のなきものに転生をする()」 「とはいえど捨てがたきもの酒の長、月夜や花見、雪降りし朝()」
銅鉾と銅鐸 2006年08月31日 | 字余り 8/31 中学で歴史を習い始めると最初に縄文式土器や弥生式土器、銅鉾・銅鐸文化圏等の話が出てくる。銅鉾というのは武器というのでストレートに理解しやすいが、銅鐸に関してはピンと来なかった記憶がある。それでも銅鉾と銅鐸の分布は明確に分かれていた。生まれが近畿の人間は銅鉾文化圏を敵視したように思う。奈良・京都という古い繊細な文化の地を野蛮人が侵略したと思っていた。一方銅鐸については岡山辺りまでと思っていたところ、出雲で大量に埋められていたりとか、九州でも初期の銅鐸が発見されたりとか分布に変化が出てきている。銅鐸文化圏は、九州が発祥の地だったというのがわかってきた。ただ、銅鐸については、諸説紛々していて、何に使ったのか、よくわからない。いまだに決定的なキラー仮説は出ていないような気がする。
安見児の歌 2006年08月30日 | 字余り 8/30 安見児の歌というのは、藤原鎌足が詠んだ歌である。天智天皇から美女の安見児を賜ったというので歓喜のあまり詠んだというのである。どんな歌かというと『吾はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり』である。歌そのものからは高揚は伝わってこない、天皇の安見児は随分美人で誰でもが思って手に入るものではありません、という社交辞令が聞こえてくる。ある本には家来が自分の服従を示すため自分の娘を釆女として差し出すという構図はあったが、安見児を授けるということはなかったと。天智天皇と藤原鎌足は、やはり特別な関係であったのだということである。天智天皇のときにはなかったが、天武天皇の代になり、鎌足も娘を二人ミメとして差し出しているらしい。 浮かれた安見児の歌の背後にある天武天皇と藤原鎌足の関係を見落としてはいけない。天智天皇のときとは関係が根底から変わったのだろう。