暇つぶし日記

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ブッシュ   (2008);観た映画、Nov. '11

2011年11月14日 20時39分17秒 | 見る


ブッシュ   (2008)

原題;  W.

130分

監督:  オリヴァー・ストーン
脚本:  スタンリー・ワイザー
撮影:  フェドン・パパマイケル

出演:
ジョシュ・ブローリン    ジョージ・W・ブッシュ(大統領)
エリザベス・バンクス    ローラ・ブッシュ
ジェームズ・クロムウェル  ジョージ・H・W・ブッシュ
エレン・バースティン    バーバラ・ブッシュ
リチャード・ドレイファス   ディック・チェイニー(副大統領)
スコット・グレン      ドナルド・ラムズフェルド(国防長官)
ヨアン・グリフィズ     トニー・ブレア(イギリス首相)
タンディ・ニュートン     コンドリーザ・ライス(大統領補佐官)
ジェフリー・ライト      コリン・パウエル(国務長官)
トビー・ジョーンズ     カール・ローブ(次席補佐官)
ステイシー・キーチ     アール・ハッド師
ブルース・マッギル     ジョージ・テネット(CIA長官)
デニス・ボウトシカリス    ポール・ウォルフォウィッツ(国防副長官)
コリン・ハンクス       デヴィッド・フラム(大統領補佐官)
マイケル・ガストン
ジェイソン・リッター
ノア・ワイリー
ロブ・コードリー
テレサ・チャン

「JFK」「ニクソン」のオリヴァー・ストーン監督が第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュの半生とその人物像に迫る伝記ドラマ。名門一家の出ながら酒やパーティーに明け暮れるばかりの放蕩息子として過ごしてきた“W”が、いかにして大統領にまで上りつめたのかを、パパ・ブッシュとの確執を軸にシニカルな中にもユーモアを盛り込みつつ描き出す。主演は「ノーカントリー」「ミルク」のジョシュ・ブローリン。

多くの政治家を輩出してきたアメリカの名門ブッシュ家。“W”(ダブヤ)ことジョージ・W・ブッシュも、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの長男として重い期待を背負っていた。しかし、偉大な父親の影に早々に押しつぶされていく。父と同じ名門エール大学には入ったものの、在学中も卒業後も厄介事ばかりを引き起こし、いつしか家名を汚す不肖の息子となり果て、父の期待は弟ジェブにばかり向けられるようになる。それでも、1977年にようやく“家業”の政治家を目指す決意を固めたW。同年、生涯の伴侶となる図書館司書のローラとの出会いも果たす。その後、88年の大統領選を目指す父の選挙戦を手伝うことになったWはその勝利に貢献するが、父の背中はますます遠ざかり、自分の存在はますます小さくなっていくと落胆する。そんなひがみ根性が募る中、Wは“お前が大統領になるのだ”と神の啓示を聞いてしまい…。

以上が映画データベースの記述だ。

奇妙な映画だった。 この間ケネディー家のことを描いたテレビ映画を完結ではないけれどいくつか観たところだった。 それについて次のように記した。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62092336.html

現オバマ大統領の幼少時映画は既に製作されたということを大分前に見聞きしたことがあり、どのようなものか興味はあるけれどあまり期待していない。 こどもの時のインドネシア現地の映画だそうだから現在とは距離をもったもので伝記映画とはいえないだろう。 オバマが大統領になるまでのドキュメンタリーはあるものの、劇映画となると現在在任中であり、初めての有色大統領、フセインの名前を持ち、様々な政治色がからんでいることからよっぽどのことでない限りそれを作るとなるとかなりの決断と覚悟がいり、完成しても全方向から放火を浴びるか無視されるかに終わるだけだろう。 だから任期も終わりひとまずほとぼりが冷めてからということになるのだろう。 クリントン大統領のものがあるかどうかは知らない。 あれば一般母子家庭から知事になり、大統領になったあとにはあのスキャンダルがあってという筋は定番だがヒラリーの扱いで難癖がつくのではないか。  それにセックスシーンは面白いかもしれないけれど娯楽作品としては退屈になりそうだ。 ニクソンは伝記というより自身は登場しないもののワシントンポスト紙のジャーナリストをヒーローとしたウオーターゲートもので早くから映画にはなっており日本ではどうということのないものがモラルが高いとされるアメリカでは政治がらみの悪、汚いイメージがすでに定着している。 エリザベス女王のダイアナの死を巡る数日間の映画でトニー・ブレアを演じた俳優がニクソンと対話した話でインタビュワーのデビッド・フロストを演じたものがあるがそれはニクソン失脚後の一面でニクソンの伝記ではない。 本作の監督が作った権謀術策一杯のニクソン伝記があるそうだが未見である。 

そうすると娯楽映画になる大統領の華はやはりケネディーということになる。 それに比べて本作はどうなのか、本作の意図はどこにあるのだろうか、ということを忖度してもどこにもW.を顕彰するというような意向は見出せないように見受けられる。 もしそれをするのであれば皮肉、3流週刊誌の暴露記事で綴る伝記の映画化か、とも思うもののそこは「プラトーン」、「JFK」、「ニクソン」等の監督であるから事実の検証をクリヤーしていることは確かであり、それに加えてかなり灰汁の強いものに仕上げたとみるのがここでは妥当だろう。 例えば世の不正、偽善、謀略を暴くことを方法にする作家がいるとすればその一人がこの人であるといえるかもしれない。 けれど、である。 大統領に関係したシリーズを今まで制作してきた本人だとして、今までの緊張感が本作のなかでは失速しているように見受けられるのはそれも明らかな意図としてつくられたものなのだからなのだろうか。 その理由を想像すると、大統領という現実の人物を動かす大元が政治ではないとみているのではないかと想像出来る。 つまり人物に迫る、ということか。 少なくとも大統領シリーズ前作までは世界と個人に関するサスペンスがあったけれどここでは完全にそれが欠落しているようにみえる。 話として緩んだ伝記とは何か、それもアメリカ大統領の伝記なのだからただ事ではない。 

それにしても父親コンプレックスが主題だとは興ざめで情けない、それが事実だとしても。 それが作家のw観であり、またそれがために自分も生きた世界がそんなつまらない男に支配されたという怒りが映画作家にはあるのではないか。 ただ、賢くはないけれど馬鹿ではない、というようなところは学生時代の新入生しごき場面で示唆されているようだ。 何か特に当時は記憶力に聡いとして描かれている。 けれどアルコールと淫行がどれだけ脳の破壊に貢献したのかは示唆はあっても検証はない。 彼方此方のサミットなどではそつがないように見受けられたファースト・レディーには当時から少し興味があった。 メデイアで見る限りは夫より賢そうに見えた。 けれど本作では普通の良妻賢母としてだけしか描かれていないのには単調の思いが否めないものの、ケネディー家の人々でのジャッキーに比べると単調なのは当然だ。 人間として主人よりローラの方が賢明なイメージがあったことだけで本当のことも知らずに半可通でそう思っただけで、本作ではテキサンの妻をちゃんと勤めたように描かれているし、夫をいたわる月並みなロマンチックな台詞もでてこちらを照れくさくさせるようなところもあり興ざめもした。

湾岸戦争当時の思い出が強いものにとって、また、メディアで戦争が同時中継として目の前で起こるのを経験したものにとってW政権下の閣僚達を本作で映画として見るのに思わず頬が綻んだ。 メディアや時々のインタビューでしか知らなかったそれぞれの人物が本作の中で動くのをみて悪役チェイニー、いいこちゃんコンドリーザ、真面目なコリン・パウエル将軍外務大臣、陰険老獪ラムズフェルドなどある種、80-90年代に楽しんだパペットショーでイギリスの政治世評皮肉諧謔番組「The Spitting Image」を見ているような気にもなる。

在任当時からWのスピーチをメディアで聞くことがあり様々なコメントを聞いていたものの本作で話されるWの米語には驚いた。 字幕なしで英米のものを観る習慣がついてもうかなりになり、犯罪ものギャングもの、さまざまな映画で話される言葉には慣れているつもりだった。 大抵映画に現れる英米語にはあまり驚かないのだがここでのWの話す米語というかテキサス語には余りのバイアスがかけられているのではないか、というような思いがしてならなかった。 それは話されている言葉が他の映画で他の人物が話せば別段どうということはないのだがWが話す、いう一点が驚かせるのだ。 それに対して仕事の場で「大統領」と言って仕えた周りのものの正直なW観を聴きたいものだ。 それは決して明らかにされないのは明らかではあるのだが、大統領だから当然だ、というのか、大統領だから仕方がない、というのかどうなのだろうか。 本作はストーンのW観を想像するのには最適の映画に違いない。 ストーンのこの手のシリーズにイタリア元首相のベルルスコーニを主役にした伝記が加えられることを期待する。 財政破綻の国をメディア支配と資金の灰色で染め、人間的な貪欲でローマ皇帝を自負しつつ統治し欲に溺れた挙句の果てにEUのリーダーから見放された姿と成り果てるストーリーはWにくらべて可愛げも色気もあって娯楽の種となるように思う。 アメリカ人の俺には他国の事情には興味がない、とアメリカ人の作家はいうのだろうか。

海外のことばかり述べるが日本の政治家の伝記となると批判的な作品に仕立てあげることができる映画作家はいるのか、その上にはたしてそのような政治家が昭和の後半、平成にいるのか、ということになると両方にたいしてため息が洩れるような気がして、そうなると日本人には政治は関係ないのだ、祭りごとなのだ、という冷めたシニカルな意見も聞かれるような気もしないではないがそのシニカルさを比べるのも一興ではある。