暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

久しぶりの母校なのだが、、、

2011年02月05日 03時01分56秒 | 日常

2011年 1月 5日 水曜日

師走28日に帰省して温度差に戸惑ったのか晦日から元旦にかけて寝込み、そのあと3日から久しぶりの故郷を一日15kmほど歩いた。 晴れて気持ちのいいのが一つとオランダから戻って気持ちの切り替えをすること、それにただ単にゆっくり歩きたいということもあった。 それに加えて幾つもすることもあり気が急いてもいた。 生まれ育った町や村なのでどこに何があるかは分かる。 この30年間の変化は大きいものの地球の上下はまだ変わっていない。 車も自転車もないので歩く。 バスはこのあたりは既に10年ほど前には実質上廃止になっているし、ここに住んでいれば皆車やバイクを使うからバスの出番がない。 国道、府道があちこちで交差しバスが交通の邪魔にさえなるのではと見違える田舎の変わり方でもある。 4年前の帰省の時には家族と慌しくあちこち回ったり熊野古道を歩いたりしたから地元を一人でゆっくり歩く機会がなかったのだろう。 山に向かって2kmほど歩くと高校の同級生が院長の病院がある。 そこまで行かずに右に折れ1kmほど歩くと子供の頃今の時期には水を抜いて鯉や鮒、鰻などを攫い蓮根を収穫した池が二つあるのだがそういうことは既に何十年も前に終えていて今は水を溜めてあるだけだ。 50年前には周りは2,3軒の農家と牧場があるだけのところが今は池だけが建物に囲まれている。

池の間の坂を上ると遠い親戚が設立した精神科の病院がありそこは親戚筋の竹薮の土地を開いたところでその竹薮に続いて墓地があり、そこは50年前子供の頃にはここに来るのが恐ろしいくらいの崩れかけた焼き場がある忌むべき暗い森だったのだ。 村の青年団の肝試しにしてもここは選ばなかった。 その藪からは時期になると自宅の土間に早朝掘られた筍が泥や粘土がついたまま届けられていてその後は大鍋に風呂場の灰を入れて灰汁抜きをし若布を加えて柔らかく煮られたものだ。 けれどその森も木が間引かれ墓地には日が射し霊気が消えた。 それに森も小さくなりそのあたり一体は新興住宅地、地元ゼネコン、大葬儀センターが並び、スーパーなどの大型量販店が昔の山があったところに連なっている。 そこを折れて戦没者を奉った、淡路島が遠く望める墓地公園を抜け坂を反対側にダラダラと下り市役所に行った。 もし、70年代前半の職員採用凍結がなければ今頃はそこで定年の日々を数えて過ごし、先ほど歩いてきた祖父の土地があったところに家を建ててそこから役所に歩いて通うはずだったのだが、どこでどう歯車が外れたのかそれから30年間オランダで暮らしている。 そして、妙なことにその市役所の長は中学から知る高校の同級生だ。 もう何年も前に彼が市長になったときに母親は、N君はなぜわざわざ破産した町の頭になりたいのかねえ、賢くないわねえ、と笑いながらいったことを思い出す。

役所で老人介護医療とその施設等の情報をもらい、必要書類に書き込みもし、これから3週間でしなければならないことのプランを立てるべくそこを出て駅まで歩いた。 そこから一つ目の自宅近くの駅で降りようかと思ったけれどそのまま通り越して通った高校のある駅で降りた。 この何年かで知られるようになった「だんじり祭り」のある城下町のその城が母校の敷地内にある、と在校生のころ教えられたのだが、学校の隣にあるその城の神社にこの町のいくつもの地車(だんじり)が宮参りにくる。 在学中に何かの具合で試験曳きかなにかでいくつかの地車が来た折には皆授業を放り出して高校と神社の境と飛び越えて祭りに走ったものだ。 友人の町の大工町や紙屋町の地車を引いて周ったこともあるが60年代後半には今ほど大きくはなく、まだ他から来て曳ける余裕があったようだが高度成長のあとの膨らみ具合には驚くものがある。 もともとダンジリには代々血が騒ぐ。 自分が育った村も今は当時とはまるで変わって賑わうようになっている。 それだけ人口が増えたということと地元が一体になることの少ないことも示しているのだろう。 子供の頃には試験曳きで隣村を周って来たものの日暮れて少ない人数で道にダンジリを放り出して戻ったこともあるのだから人数を制限することもあるような今からは想うべくもないことだ。 母親やその親達も夏の暑気が引き秋風がそよぐと共に練習しだす太鼓の音にはいてもたってもいられないような気持ちになると言っていたものだ。

その駅をでて駅前のアーケードに入るところにある細道を左に入り次を右に入ると路地にこの地域で唯一のジャズ喫茶がある。 35年ほど前、務めていた大阪市内の商社からの帰りに時々寄っては何枚か聴いていたところで、オランダに越して以来何年かに一度忘れた頃に訪れていた。 こちらはそこを忘れないものの向こうにとっては自分は客の一人であるから覚えていることもないのだが朧ながらどちらもそれまでに話したことを忘れている。 まだシャッターが降りた店はまるで廃屋のようであり看板は剥がれ今回見たときはああ、もう定年で止めたのかと思ったもののそのとなりの喫茶店で聞いたらまだやっている、3時に開くよ、と言う。 それまでまだ大分時間があるのでアーケードを海のほうに降りて高校生のときにときどき入ったお好み焼きやでビールを飲み自分で焼いたものを腹に入れたあと、母校の周りを散歩しようとその店を出た。 太鼓焼きの店で熱いのを一つデザート代わりに買って公衆電話の場所を聞いた。 オランダでも携帯は使わないのに今回はその必要性を認めないからそのようにして母校の途中にある緑の電話機に100円玉を何枚もいれ午後1時ならオランダは午後9時、自宅に電話を入れようとしても繋がらない。 それに国際電話の繋ぎ方を記したものが何処にも見当たらないのか探せないのか、幾通りか試みたものの嫌気が差し受話器を叩きつけ、温かく甘い太鼓焼き、もしくはドラ焼きと呼ばれるものを頬張りながら母校のグランドに来て見ればまだ冬休みでもあるにもかかわらずというか、それが普通なのかサッカー部の練習に行き会った。 

この前ここに来たのは8年ほど前で日本語が分からない中学生の息子と一緒だった。 あの時は城の掘りを一周して戻ったのだったが、冬場の体育の時間には先ほどのグランドで柔軟体操、そのあと城を3周してからグランドにもどりラグビーやサッカーなどのスポーツをしたように記憶している。 こちらから反対側の城門があるところに茶店があって冬場は何時もおでんが煮えていた。 腹を空かせた高校生達は小銭をトレパンのポケットに入れて熱いものをランニングの途中に腹に入れていたけれど当然教師はそこまで来るわけもなく堀端を見渡せるグランド近くに立っているだけだから何人かは竹輪のにおいをさせて戻ってくる。 教師が立つ下にはもう一つの茶店があり、そこは昼休みに生徒が菓子や飲み物を買うところになっていたのだが二つの茶店はとうの昔に消えており今は小さな不動の祠と小屋が年寄りの待合所になっているだけだ。 

考えてみると在校した3年間でこの城に上がったのは2、3回でしかない。 もともと天守閣は文政10(1827)に焼け戦後の昭和29年(1954)コンクリート造りで再建されたものらしく中には小さな市立図書館があった。 天守閣に上がっても前には校舎が並び海側には淡路島から神戸あたりがみえるか見えないかだけだったのではないか。 その記憶もない。 校舎の屋上からいろいろなものを城に向かって投げたけれど殆ど届かなく堀に落ちたけれど紙飛行機はかなりのところまで飛んだのではないか。 冬の暖かい昼休みには校舎下、水辺近くの岩が露出している所に何匹もの亀が甲羅を乾していて、それはこの城が千亀利城といわれる理由でもあるのだが我々はそこに石を投げて気持ちよさそうにいる動物を水に落とすというような邪悪なこともしていた。 けれど今はどういう岩も見えず果たして当時から水位が上がっているのかどうか。 そういえば、あるとき教師が、お前らのような頭の悪い奴らは殆ど浪人するのだから失敗しても堀に飛び込んで死のうとするような馬鹿なことをするなよ、そんな馬鹿がいて、そいつは底に頭を打って溺れかけたけれど足が立つから無駄だったぞ、と言った。 それが果たして本当だったかどうか知る由もなく、そこで魚を釣っていた老人に深さを聞いたら溺れるに充分なほどの長さの釣り糸がウキの下にあった。 後年、恩師の一人から我々の年は開校以来最低の成績だったと苦笑混じりに言われ、それをある種誇りにも思ったのだが、そいう1968年だったのだ。

ジャズ喫茶にもどれば店は開いていた。 ウイスキーのシングルと水を頼んでLP片面を2,3枚聴いた。 1時間半弱である。 相も変らぬひげもじゃの男とポツポツと話しているともう何年も前に聞いていた事を思い出した。 彼は一年生の時半年ほど在籍していた柔道部の顧問であり数学の、ブルドックと渾名された教師の息子だった。 自分より半年ほど年上で学校は違うものの共通の同級生も何人かありこの40年ほどの消息を聞いて今までそのようなことを話さなかったことにも互いに気付き妙なことだと笑いあった。 

そろそろ食事を作りに帰る時間にもなったので、オランダに帰るまでにもう一度寄るといいそこを出たのだがその後いろいろなことが慌しく起こり結局そのままになった。 けれど夏にはまたここに戻りそのときには胸をはだけてレーコー(冷コーヒー)かちりちりに冷えたビールを口に元気なジャズを聴くことになるはずだ。

LILJA 4-EVER ;観た映画、Jan ’11

2011年02月04日 15時15分53秒 | 見る


リリア 4-ever <未>  (2002)

原題; LILJA 4-EVER

105分

製作国 スウェーデン

監督: ルーカス・ムーディソン
製作: ラーシュ・ヨンソン
脚本: ルーカス・ムーディソン
撮影: ウルフ・ブラントース
音楽: ネイサン・ラーソン

出演:
オクサナ・アキンシナ
アルチオン・ボグチャルスキー
エリーナ・ベニンソン
リリア・シンカレヴァ

ベルギーの国営放送で放映されたものを本作の主人公より4つは年上の娘をもつ初老の夫婦が声もなく見終わりその後声もなく各自の部屋に移動して夜が更けた。

棄民ということばを聞いたか見たかしたのは60年代、70年代だったように思うがそれは社会の流れや社会の変化から取り残されたものたち、もしくはそういう状況下に取り残されたくないゆえ人を棄てて去るような人々、というような意味もあったかもしれない。 本作を見ながらその言葉を思い出した。 ここでは明らかにその言葉の両方が関係していて、とくに棄てられた娘が主人公になっているから棄てる、というより棄てられたものの姿が棄てるほうの事情も語られるとともにその結果が映し出される。 

壁の崩壊後、人が雪崩となって旧東欧圏から西欧に押し寄せた。 モスクワ郊外の嘗ては栄えた町の今は見る影のない無残な風景が本作開始後延々と続く。 それはバルカン諸国で嘗て戦われた戦争の残骸をうつしているのかとも見えるほどの荒廃なのだがそのうちロシア語と棄てられた老人、子供達の風景、そこでの生活とその荒廃の様子にああ、ここはロシアなのだとわかる。 本作で示される子供達の様子は壁の崩壊後にすでに伝えられたモスクワの地下鉄にたむろする児童浮浪者たちがシンナーや接着剤で酔いしれる姿とも重なるのだが疲弊したロシア社会の様子を如実に示すこととして再現される。 再現というのは既にないものがあらわれるということをも意味するけれどまたここにも現れているということでもあり今でもありえるということでもある。 その現象の一つとしてソ連からロシアになり飲酒に対する統制が緩くなった結果アルコール依存症というより酒毒による死亡者の数が急上昇したと伝えられるのももう新しいことではない。 

耐えられない現実を逃れて夢の国アメリカに男と一緒に移民する母親にくっついて荒廃したアパートを出るはずのブリトニー・スピアースと誕生日が同じ高校生の娘である。 無残に出発間際のアパート前で母に棄てられ捨て去られた残り何もないところでどう生き残るか、そこで生き残る力は若さのほかに何があるか、その力のベクトルはどのように動くのか、というのは図式的展開は想像できるものがあるが、それが実際に生身の少女の上に起こるのを画面の前に座る安全な我々が眺めるとき我々の中に何がおこるのか、ということだ。 次から次へと移る動きに、ああかわいそうに、なるほどそうなるだろうな、というような感想はおこるものの、それでは自分がそのような中に置かれた場合どうするのか、となると天を仰いでその後、自分はそうではないことを確認して画面に戻るということになるだろう。 所詮はよその国のことだ。 日本にはこれはない。 、、、、か。

1980年代に日本で援助交際という言葉が言われ始めた。 要は少女売春であるのだがその言葉が新しいのはその売春の形態が新しいからでもあるのだろう。 本作で少女が売春するその形態はクラシックなものであり目的は自分が生き残るるためであり、ここでは必要な部屋代から生きのびるのに必要なものとウオッカ、タバコ代を稼ぐためだ。 それまではドラッグまがいのものが命をつなぎとめるものだったのだ。 金を手にした後は貧しいスーパーで以前には金がないために食料を買えずそれを戻さなければならなく荒廃した態度と対照して金を持ったがゆえにレジの厳しい女に対する態度が優しくなったことに我々は気付くべきだろう。 そこでは労働の内容には嫌悪があっても労働した対価で生活物資を買える誇りがみられるのだ。 

援助交際というのはどういうものだったのだろうか。 ごく普通の何不自由のない家庭で学校に通う娘が嗜好品が欲しいために中高年に体を売って欲しいものを手に入れるというような売春の形態だったと説明されていたのではないか。 言葉というものは風化するのだがそのそれ自体は風化せず今も「健全」に残っているのかどうか。 それともそれはバブル時代の一時的な娘達の行動でそのような娘達の欲望追求のかたちはいまの「つつましい」社会に生きる娘達にはないのだろうか。 あれはブランド物の横文字が一挙に増えた時代だったのではないか。 本作でもそのようなブランドは登場するが、それはつつましく「マールボロ」であったり少女がスウエーデンに売られていく前に若く魅力的なラバー・ボーイとかヒューマン・トラフィカー(人身売買業者)と食事する「マクドナルド」であったりするだろう。 更に彼女が売られていくとも知らずはじめて一人で乗るスウエーデンまでの飛行機内でだされる機内食に接するときにそれまでの彼女のおかれていた環境との格差にここでも天を仰ぐこととなる。 それはつい最近そのように地球を半周以上移動してきた自分のことをも思い返し、あの旅客の中にもそのようなドラマがあったのかとも想像したのだけれど、それは統計としては遥かに旧東欧諸国から飛んでくる旅客とは比べられないとは思ったものの、日本から出て外国に住み着く日本人の大半は女性だとも聞くから緩いヒューマン・トラフィキングと考えるとそれはただ単売春と援助交際のことばの違いのようではないかとも考える。 若い女はどこでも欧米を目指す、というのは今のところ流れなのだ。

本作の主人公はどこにでもある陳腐な物語と同様、幸福、愛を求めてラバー・ボーイにすがりここでも裏切られ続けられる。 売られた挙句の強制労働中に眼前に次から次に現れる男達の魚眼レンズ様に見える映像はドキュメンタリー映画に勝る強度を持つ。 そこでふと思ったのは、例えば村上という作家が日本にいて、80年代なかばに援助交際などの世界を描きその娘、女たちが話すテキストに秀逸なものを残した。 村上の60年代後半、70年代と映像をものして来た経験から当時の援助交際の娘達にのしかかる男達の映像を本作に対応して撮るとするならばどのような映像が現れるのかに興味が行く。 男達の欲望を満たす顔には変わりがないと見せるのか、そこには批判性をもった村上の観察眼が日本の男の性癖をどのように描くのだろうか。 ここでいうのは男の眼だ。 「売る」と「買う」の姿が露になる瞬間だ。

本作をみていてもうほぼ25年ほどになるのだろうか、フランス映画でフランス内をさまよい死んでいく救いようのない少女の映画、「冬の旅 (1985) 原題;SANS TOIT NI LOI」を観たことを思い出した。 観た後はざらつく想いしか残らなかったものの厳しく、また強い作だった。 それは30になった自分がヨーロッパに住み始めた頃であり、欧州中心国フランスを自由を求めて放浪する娘の映像だったのだが、そこでは本作より希望をつかむ難しさがみえるものだったように思う。 本作では物、愛を強く希求する少女がいて悲惨な目に逢うものの美しく描かれていて、それと同じく置かれた状況の救いがたさにバランスをとるためか、また蛇足でもあるのか、淡いファンタジーまで添えられているというのは監督の要らない同情心、弱さの表れ、逆に言うと優しさでもあるのかもしれない。 

世界が動く中、ここは晴れていていい天気なのだがこの寒さはどうもいただけない

2011年02月01日 22時27分09秒 | 日常


2011年 1月 30日 (日)

オランダに戻ってこの一週間ほど気持ちのいい青空が続いている。 けれど寒い。 大阪でも日中は陽射しがあり、うちの中から見ていると暖かそうだったが外は寒かった。 オランダも大阪も寒いのだがそれでもその寒さにはかなりの違いがあるようだ。 大阪では陽射しのなかで風がピューピュー吹きそのとき体感温度が下がる。 これで風がなければぽかぽかと縁側で居眠りできるほどなのだがそれはほとんどなかった。 

一方、オランダでは風はなく、青空の下、日中最高気温がマイナス2度ほど、夜中には星空でマイナス4,5度ほどだ。 普通の1月後半の気候であるのだがこれで風が吹けば堪らない。 けれど普通はそういうことはない。 屋外で立っていると徐々に寒さが体内にしみこんでくるのだが風がないから口に出して寒い寒いといいながら地面を踏んでうろうろすることもないが、その分静かに深くジンジンと骨まで染み渡るようなのだ。 自転車で走ると急に風が吹いているように感じ皮膚の温度が急降下する。 

空気が重く、沈んで動かない中を自転車で走ると普通は感じないような寒さとなり、風を受けているようにも感じるのだろう。 たぶん普通でもこのような感じはあるのだろうが寒くなければそれは多少の快感であったり普通に無視してしまうということだろう。 いずれにせよ、空気が重いと感じ、風があるのか、とも思って周りの木立を見渡しても裸の枝や常緑樹の高木のてっぺんはまったく動かず無風だということがわかり、ではこの寒さは動かない空気と自転車で走る自分とが擦れて感じる空気の温度なのだと実感する。

オランダは寒いけれどエジプトでは熱い。 それは今まで長く独裁政権と言われてきたムバラク大統領の施政に人々が「オー、ノー、もういやだ、これではだめだ、今の政府はやめろ、どこかにいけ、、」という声の現れだし、そうなったのはその隣国のチュニジア政権の崩壊からで、そこから派生もしくはそれに影響されて起こったことなのだ、とも説明されている。  自分の周りや近所には、かつて20年ほど前には名古屋近郊に住んでいてちょっと日本語を話すイラン人家族、バルカン半島での戦争のために15年ほど前にそこから避難して住みついた家族、ポーランドから出稼ぎで来て本国の家族に送金し出来れば家族を呼びたいと思っている男達、旧植民地のインドネシア、南米スリナム、インド、パキスタン、中国から来て既に難世代もに亘って住み着いている人々がたくさん居るのは衆知のことだ。 それにヨーロッパ内でも移動してきて住み着いている人々も多いしベルリンの壁崩壊以後は徐々に旧東欧といわれるポーランド、チェコ、スロバキア、ロシア、バルト海諸国などから住み着く人々が従来のトルコ系、北アフリカ系、モロッコからの人々に加えて増え、町のあちこちでスラブ系の言葉が聞かれることも普通になっている。 けれど量としてのエジプト人はあまり聞かないし私の周りにはエジプト人はいない。 

今のところエジプト軍は人々には危害を加えないと言っているようで、それにつれて今まで強権を行使して鎮圧に当たっていた警察も街頭で事務所や店舗に押し入り強奪をする無法者達には警察活動をつづけるけれどデモの人々にはその態度を改めるように権力者から指示があったようで、皆このあとどうなるか固唾を呑んで観測している。 固唾をのんでいるのは人々だけではなく、中東政治の重要な部分を握るエジプト政府に対して戦略的に友好的であるアメリカもその対象は政府から人民もしくは人々にへとその態度をシフトさせているようで、そのシフトの仕方は嘗て中国の天安門広場で軍を指揮して人々を殺傷しその功により政府のトップに立ち、その際政府に批判的、民衆の意思を反映した若者たちを弾圧し、そのリーダーにノーベル平和賞が与えられると笑いものになるような賞を建てて対抗するような世界の大国のようにはならないだろう、とも観測されているようだ。 

一方、この寒い時期スイスのダボスでは世界の経済の鍵を握る政府関係者、企業の指導者達が集まって恒例の会議をしているようで夕食後台所で皿洗いをしながらBBCラジオのワールド・サービスを聴いているとそこに参加した4カ国の代表的人々がパネルとなって討論、意見交換をする番組に行きあたった。 その内容は別として彼らの話す英語に興味が行った。 四人とはこの会議のホスト国フランスの経済財政担当大臣(女性)、 インドの著名な財界人(男性)、 アメリカ人アナリスト(男性)、 政府にも多大な影響をもつ中国財界人(男性)だったのだがここでの話題は近未来の経済に対して大きな影響力を持つ新興国、インド、中国に対する欧(フランス)米という構図でありそれは既に進んでいる国と今かなり進みつつある国の分け前をどのように配分するかというような際限なく続くようなお喋りではあることながら奇妙なことに現在世界で紛争が続く地域のことはバイプレーヤーとして彼らの利益に関係するときだけはかすかに現れるものの殆ど話題の中心になることはない。 経済的に強くない国には発言も話題にものぼらないのだ。 日本の代表も参加しているはずなのだがその発言に関しては全く聞こえてこないのは世界が日本をどのように捉えているのかの証でもあるのかもしれない。 それはそうとして彼らが話す英語だ。 世界のトップの話す英語だ。 

スランス人が英語が話せないというのは間違いである。 すでに30年前フランスの田舎で英語で通し充分通じる経験をしている。 経済的エリート、知的エリート達には英語はいくつかの言語の一つであり分かっても必要なとき以外には話さないということだ。 相手がフランス語が話せない、というときにはそういう人たちは時には嬉々として流暢な英語で対応する。 女性の経済財政担当大臣の英語は、アクセントがあるいくたのフランス人官僚、外交官に比べても格段ぬきんでて美しいものだった。 一方、長く英国の植民地であった国インドの有力財界人は一般のインド人の話す巻き舌で灰汁の強い英語に比べると理解できるもののインド人だと直ぐ分かるアクセントをもち、インド人の誇りというものを垣間見せる話し方であり、中国人のスマートなイギリス英語と比べて旧植民地であることをあからさまに示すようだった。 ここでダボスに登場する中国人の英語には印象を新たにするものがあった。 中国人の成金が話す英語ではアメリカアクセントをもつものを散々聞いてきたけれどしっかりした定見をもち中国の問題にも或る程度の理解をもつこの人物には明らかにオックスブリッジの影響が認められるようだ。 世界には星の数ほど中国人が散らばっているのだからそんな英語を話すものもいるのは当然のことなのだがこのような番組に登場する人物が話す英語が問題になるのだ。 

この番組は英国BBC放送であるから英語関連で言えば偶然にそうなったのだろうけれど上手なイギリス英語を話す人間たちを集めたものだ、と思った。 そしてその中でも多少ともそれぞれの違いも感知されて興味深いものだった。 そこでのアメリカ人の米語は内容は別として依然として50年代60年代にヨーロッパに団体旅行で来て強いアメリカ訛りの騒々しい米語のように響くのだったし、それは意図せずたまたまそうだったのだろうが結果としてイギリスの言葉に対するある種のスノッブ、意地悪さを垣間見せたようでもある。 たくさんいる私の知人のアメリカ人たちの中でももっと整ったアメリカ的で美しい英語を話す人間はたくさんいることを承知しているのだがそれもその人柄と分野により、特にこういう経済畑のレスリング場ではアメリカ的マッチョを示すのに適した米語だったのだと受け止める。

帰省の折、今年から日本の小学校で英語が義務教育として導入されると聞いた。 日本人の日本語が怪しいと憂慮されている中、日本語がまだ怪しい子供達に英語を詰め込むらしい。 子供達が自分の思うことを自国語でちゃんとはなせない、かけない、表現できない、というよりコミュニケーション能力が低いのだとも聞いた。 そんな子供達によその国の言葉を詰め込んでどうするのだろうか。 大人たちが喋れないようなちゃんとした日本語が話せるようなら外国語もいいのだろうが自分の国の言葉を粗末にするような風潮の中で文部省の指導方針とその流れにのるのかテレビで小学生が中身のない英語をオウムのように話す塾かなにかのコマーシャルをいくつか見た。 これから日本人の全てが英語を日常的に使って生活するとでも思っているのだろうか。 カタカナがこれだけあるのだから英語的生活にあふれているなどという陳腐なことをいう人がいたらカタカナ言葉がどれだけ外国人に通じないか確認してみるといい。 カタカナは日本人同士のみの限定的で、ましてや海外とのコミュニケーションでは日本独自の蛸壺的閉鎖型にしか機能しないことを知るべきだ。 80年代後半から頭を使うことを放棄した官僚が政府の公式文書にとめどなく丸投げカタカナを使い出した現象があり、国のエリートが自国の言葉を遺棄しつつあるというような評論をかつて読んだことがあるのを思い出す。 その影響がここに現れているのだとも感じる。

ああ、寒い寒い。 物言えば唇寒し秋の風、というのがある。 それは秋の風だけには限らない。 秋でも冬でもこれだけ寒くなってきたら夏でも同じことかもしれない。