自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

「赤信号、私が渡れば怖くない」~憲法の歯止めを首相自らが壊す政治的認知症

2016-01-08 21:03:08 | 憲法を考える

 心の問題は生きている根源の問題だが、主観は科学的でないとされ、政治に関わる問題は中立性が保証されないとして教育から遠ざけられている。一方、道徳教育は重視されているが、道徳も心の問題だ。心の問題は科学的に取り扱えないとされているが、脳神経ネットワーク脳内ホルモンの関係(脳内ネットワーク)の概略を図示すれば客観的に論じることができる。図示しなくても心に描けば客観的に落ち着いて物事を考えることが出来よう。

 サルガドの写真は一瞬の場面を切り撮ったものだが、気高く、愛にあふれ、厳粛である。私は絵画により画家の心と技術が芸術を作り出すと思っていたが、写真に芸術を感じたのはサルガドが初めてだ。その人の心が一瞬で風景を切り取り、それを見る人は様々な印象を持つ。多くの人が感激するので芸術として認められるが、同じ風景でも切り取る人によって印象は違い、受け取る人によっても異なってくる。それが私たちの脳内ネットワークの日常的な活動だ。モノゴトにはいろいろな見方があるが、メディアを含めて大がかりで恐怖心を煽る、あるいは勝利を目指す意図的な物語を一方的に流せば大衆をその気にさせることができる。大衆は個人よりは集団の動きに従うからだ。

 人は育った環境と今いる場所で脳内ネットワークをつくりつつ生きているが、老化でこのネットワークが退化する場合と、あまりに特定のネットワークが強くなりすぎる場合があり、いずれも認知症と呼びたい。ことに「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」というのは、日本人の集団主義を揶揄したものだが、国の基本は国民を守る憲法にあり、憲法の理想を充実させることが政治家の義務である。

 「私が言うことには間違いがない。私は首相なのだから。」と憲法を無視することは、政治家として最悪の犯罪であり、政治的認知症であり、政治に携わる資質に欠けている。信念に基づくのであれば国会議員を辞職して活動すべきだ。そうしないのであれば、主権者である国民が政治家を公職追放すべきだ。

 公職選挙法の改正により、今年の7月に予定されている国政選挙の選挙権は「満18歳以上」に与えられる。一方、被選挙権の条件は何故か複雑ですっきりしない。国会議員はどこに住んでいようがどの選挙区からでも立候補できるようだ。住民票は自由に移せるので両親の墓のある場所から立候補すべきだと思ったが、安倍晋三家の墓は何故か静岡山口にあるようだ。地域から選ぶ小選挙区制の根拠はどこにあるのだろう。いろいろ理屈はつけられるが、独裁を生む弊害の方が大きいことをこの度の自公政権党は実証している。

 憲法を教えることは国の義務であり、国民の権利である。憲法のどこが問題で、何を変えようとしているのか、憲法改正の問題はどこにあるのか、立候補者の誠実な説明が求められる。

参考: 改憲軍拡史<本澤二郎の「日本の風景」(2229)
  日本人とは何者なのか~なぜ安倍政権は憲法を無視するのか
  安倍首相、祖父と父の墓参り 安保法成立を報告
  安倍首相が父・晋太郎元外相の墓参り 安倍晋太郎 安倍寛
  岸信介と真逆…安倍晋三が一切触れない“もう一人の祖父”は反戦政治家だった!
  羽田元首相の提言「安倍首相から日本を守れ」

初稿 2016.1.8 更新 2016.1.9

日本人とは何者なのか~この国の始まりの頃、そして今

2016-01-06 22:23:16 | 憲法を考える

 この国の始まりの頃、聖徳太子は「17条の憲法」を発布した。蘇我氏に代表される仏教信仰は物部氏に代表される日本古来の神道派を討って仏の教えを国の柱にした。そう教えられてきた。しかし、そもそも八百万の神は自然界にいたので教理の点で仏教と対立するものではない。それに、古代の有力氏族は渡来人であり、我々の考える古来からいる縄文人の可能性は限りなく低い。蘇我物部はいずれも渡来人であるが、政治的力を求めて争ったのだろう。それよりも支配者層が渡来人であった当時は、渡来人と言う言葉も必要とされなかったはずだ。歴史は勝者により語られるので真偽を確かめるすべを知らないが、平安時代に権勢を誇り「この世をばわが世とぞ思ふ」と詠った藤原氏出自も渡来人かも知れない。それにしても誰が、いつから渡来人という言葉を必要として使い始めたのだろうか。

 我々は日本史でも世界史でも支配者の歴史を教えられているので、日本人の祖先は縄文人なのか弥生人かという視点は持ち合わせていない。アイヌ人は先住民だという人権宣言をしているので、縄文人も先住民なのだろう。ならば日本国の始まりは農耕民族の弥生人、すなわち渡来人が祖先だと思うが、それでは誇り高き日本の歴史を語れない。だから古墳時代は考古学的に空白にされているのかも知れない。

 日本人の誇りを持てと言うけど、人類皆アフリカから旅した兄弟であることは遺伝子解析から証明されている。歴史を学ぶことは人類皆兄弟だということを学ぶこと。皆がこの地球に生まれた奇跡を喜び仲良く暮らすこと。歴史から学ぶことは、せっかく与えられた人生を、差別したりされたり、支配したりされたりして暮らすことではない。競争ではなく共創と協走を目指す人生を歩むべきだ。私は1万年以上も里山でクリの栽培等で平和に暮らし、大陸から移住してきて平野で稲作で暮らした弥生人と共住し、我々の遺伝子に受け継がれている縄文人を誇りにしたい。農耕民族の弥生人はモミの保存性が優れ、集団で水の管理をする必要から有力氏族が生まれたが、縄文人が絶滅しなかったことは戦争より交遊を好んだことを暗示しているのではなかろうか。

 戦前はマスメディア仏教界までが戦争に協力した。戦争は国の支配者が国益を理由に始めて、国民の自由を奪う絶対悪である。国が平和のため、国民の命を守るためと称して集団的自衛権を持つことを憲法は禁止している。日本が美しい国であるということは、政治家が世界に誇る憲法を守り充実させることで、国民からも世界からも尊敬されること。日本は万が一、他国から攻められたら国民が自発的に総動員で守る誇り高き国を目指すのか。しかし自発的に国と関わるには、あまりに国が国民から離れてしまっている。本日のニュースでは北朝鮮が水爆実験をしたことをトップで取り上げている。北朝鮮でも「国民の命と暮らしを守るため」と説明されているのだろうが、そのためにならやることは一杯あるはず。支配者の延命を考えての愚行が世界からの孤立を生み、日本では集団的自衛権の格好の理由とされよう。資源もなく戦争を放棄した誇り高き国を水素爆弾で攻めてくる理由は私には見つからない。軍事力による抑止力への期待は軍備拡大の連鎖を生む。相手と信頼して付き合うためには武器をを放棄した誇り高き国こそ、戦争の真の抑止力になる。それとも北朝鮮も日本も、抑圧され生きる意味も目的も失い、絶望した若い人たちがイスラム国のように国ではなく戦争に命をささげる国となってしまうのか。

 教祖がこの国に絶望したオウム真理教はこの国の統治に関わろうとして総選挙に出馬して惨敗し、テロで国家転覆をはかろうとしたことはよく知られている。しかし、彼らの想定した省庁制(仮想国家?)には食糧生産部門がなかった。自然を愛することを知らない彼らは、この国に疑問や不満を持ち、盲目的に支配者に従い、被害者まで出して生きる意味と目的を失う悲しい人生となったと思う。自然を愛すること、人を愛することが生きる原点。それなのに今、神社界が憲法改正の後押しをしているという。オウム真理教は絶望の教祖に従い、神社界はアメリカに従うしか道が見えていないのに、日本の美と伝統を守るとうそぶく(本人は信じているかもしれないが)、日本の認知症的支配者に従う。日本人の個人と組織の関係がそうさせるのだろうが、それにしても日本の神様は、個人の幸せは他者と生きることにあることを大切にしないで、どうして独裁者になるための戦争準備の気配、空気に手を貸すのであろう。

 一方、キリスト教の「創造物語」では、自然は人間に仕えるために創られたとされている。西洋のキリスト教は個人と科学を生んだが、流転する万物から人間を分離したのは人間のおごりであり、科学的にも真実ではない。私は自然を大切にしない宗教は信用しない。私の尊敬するアーミッシュの人々は近代化を拒否した質素な宗教的生活をしている。愚かな人間社会の悲劇を報道写真で世界に摘発し続けて、セバスチャン・サルガドが辿り着いた「創造物語(ジェネシス)」は地球であり、自然だった。

 国民の基本的人権を守るために憲法はある。特定秘密保護法がある限り、国民の命を守るため、平和を守るため等、なんとでも自衛隊派遣の理由は作られる。個人情報保護法で各種委員会の議事録さえ公開されない日本だ。しかも委員は現場を知らず、国民の代表という意識よりは学会代表という特権意識があり、現場に責任を持とうとしない悔しい思いがこのブログの原動力の一つだ。

 農業は産業ではなく生活なのだ。コスト競争とグローバル化で洗脳された国民には自然も「共創」「協走」も見えなくなっている。普通に見えている世界や考え方が我々の判断を狂わせる。そういう危ない時代になっている。今回は少し長くなりすぎた。もう少し「共創」と「協走」については別の機会に考えてみたい。

初稿 2016.1.6




新しい年こそ、共創と協走を常識とする時代のスタートの年に!

2016-01-02 10:22:01 | 自然と人為
 先が見えない混沌の時代から希望の共創と協走の時代の幕開けを期待し、新しい年を迎えたことを祝いたいと思います。

 昨年末は2015年12月27日放送、サンデーモーニング 年末スペシャル(part1part2part3)を考えながら年を越した。ことに「なぜ若者はイスラム国へ~格差と絶望、そして生きる意味と行動」(part2, 50:22~53:44)は、「神は死んだ」と言うニーチェのニヒリズムを身近に考えさせてくれた。

 社会心理学者の加藤諦三氏は、若者の絶望と生きる意味を求めての行動の関係を次のように説明している。
 「人間は自分の人生に意味が欲しい。しかし、現実には生きている意味も目的も得られない若者たちがいる。絶望感ですね。絶望感は向き合うのがつらい。イスラム国に集まる若者は、自分の絶望感から必死になって、目を背けようと思って道を外していった。絶望というのはいろんな形で姿を現します。絶望は変装がうまい。政治的な過激主義は絶望から目をそらしている。絶望は快楽主義にも変装してきます。あるいは拝金主義もそう。資本主義の典型的な人達と「イスラム国」とは全く違うと思うでしょうけど、それは行動が違うだけで動機は同じ。全部、絶望からくる。」



 「はじめにロゴス(言葉)あり」のキリスト教は人間中心主義を認め、それは白人中心主義の人種差別を生んでいるのではないか。アフリカから旅立った人類みな兄弟は、まずヨーロッパでは3万年前に先住民だったネアンデルタール人を絶滅させ、15~16世紀の大航海時代にメキシコの占領、マヤ文明崩壊を経てインド、中国、そして日本を植民地化しようとし、南北アメリカでは先に住み着いていた先住民から土地を奪った。今も日本は実質的にアメリカの植民地的統治国家だ。

 人は生まれ育った環境と、今いる場所から世界を見ている。科学は心を主観的と否定しているので、多くの人は自らに由って自由に世界を見る。しかし、世界の断面をテレビで観れても、見せたいものを見せるメディアもあれば、見たいものしか見ない人もいる。神や仏を通して世界を考える人もいるだろうが、日本は神の国だと誇りにして、強き者に従い弱気ものを虐げている人もいる。そして虐げられている人の中にも、強き者を求めている人が多い矛盾をどう考えれば良いのか。

 もう一つ考えさせられたのは、人生の半分をパソコンを道具にして来ながら、「つくる道具」から「使う道具」となり、「使われる道具」を拒否しながら、私にとっては「使えない道具」になろうとしている時代の変化である。ただの箱のパソコンをBASICで作る道具にしながら使う道具とした喜びの時代からMS-DOSの時代を経てWINDOWSを迎え、インターネットの時代となると、私にとってはブログしか作る道具としてのパソコンを使えなくなった。知識や文化は親から子へ伝えていくものだと思っていたが、パソコンのトラブル解決は子から親に指導される時代になってしまった。

 そこで考えた。使える道具が世界を変える。スマホやiPadの操作が世界標準となり、やがて手話や点字や歌と翻訳をミックスした共通語が使われるようになり、言葉の壁も容易に越える時代も来るだろう。国益と言われるものが、国民の利益よりも国の支配者の利益が優遇されるとき、国境は何を意味するのだろうか。多くの人の人権が大切にされる社会を求めて、人類の大移動が起きる可能性も予期される。

 日本では国が作られた古墳時代の歴史は、なぜ空白にされているのか。幕末の英雄、坂本竜馬を誰が暗殺したのか。ケネディーも誰が暗殺したのか。明らかにされないのはその後の政権と黒幕が絡んでいるからだろう。そうだ、これからは過去の歴史を明らかにする一方で、これまでの歴史の視点に欠けていた未来を考える時代だ。そういう意味で若い人たちが夢を語らねばならない。武力や集団的自衛権が抑止力になるというのは、過去に拘った支配者的たわごとに過ぎないと思う。

 人類みな兄弟、ネルソン・マンデラの言う「おもいやり」(ウブントゥ:人間は他の人々の存在を通して人となる)」も、サティッシュ・クマール(1)(2)「君あり、故に我あり」も、人類の生存を説明する生物学的にも科学的な真実である。他者を尊重することで自分も尊重され、絶望とは無縁の社会を構築できる。
 
参考:サティシュ・クマール講演 with 辻信一
 サティシュ・クマール、辻信一メッセージ
 平和思想の巨匠が語る日本が失くしたもの(サティシュ・クマール)
 【プロモーション映像】サティシュ・クマールの今、ここにある未来

初稿 2016.1.2