自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

発想の転換~砂漠化を防止し、気候変動を抑える反芻動物

2016-01-12 20:39:34 | 自然と人為

 これまでこのブログでは、講演資料の「競争から共創へ」、「部分から全体へ」「自然とデザイン -自然と人、人と人をつなぐ新しい時代の共創-」のポイントを図で示していたが、あまり説明をして来なかった。デッサン程度は描けても、システムの当事者としてデザインを具体的に提案できる状態にはなかったし、今も現場を離れているので明確なデザインを描けないもどかしさがある。

 現代の縄文人、斉藤晶さんは、戦後引き上げた満蒙開拓団(動画)の北海道開拓の一員として19歳で参加し、戦後残されていた山の開拓に挑戦した。しかし平野での農業技術は野生動物の棲家の山では成功せず、どん底の生活に行き詰った。そのとき経験豊富な大人の意見ではなく、自然の野鳥や動物から学び、『自然に立ち向かうのではなく、自然に溶け込んで生きていこう!』と牛の放牧を始めた。今では蹄耕法と呼ばれるこの方法が、斉藤晶さんが独自に辿り着いたホリスティック管理だと後で知る。

 私は斉藤晶牧場と出会い、ホリスティック管理のアラン・セイボリーの理論アメリカで実践している牧場を見学する機会も得て、これらの紹介をしていた。不思議な出会いが続いたものであるが、現場から学び現場のために仕事をしたいとの思いが、私にこの道を拓いてくれたのだろう。しかし、2013年にアラン・セイボリーがTEDで「砂漠を緑地化させ気候変動を逆転させる方法」の講演をしているのには気がつかなかった。この歳にして彼の理論をもっと勉強したいと思っている。

 牛に草地をつくらせるまでは現地で見て紹介もし、日本の里山管理に牛の放牧が有効であるので経営の問題だけでなく地域の問題として取り組むべきことを主張してきた。しかし、これまでの人類1万年の歩みで反芻動物や野生動物との自然な関係を壊したことが草原を砂漠化させたという考えは持たなかった。この砂漠を緑地化するために自然の一員としての人間の生き方と反芻動物の取り扱い方が重要で、気候変動の防止にまで彼の理論が応用されることは思いも及もばなかった。

 アメリカやオーストラリアの肉牛生産の繁殖は砂漠に隣接した荒れ地で実施されている。砂漠に隣接した荒れ地で可能なら、それを砂漠に拡大していけば良い。しかし、「砂漠」と「隣接した荒れ地」の境に無意識の壁があった。砂漠に近い荒れ地を反芻動物の放牧で草地化できるのだから、その放牧頭数を増やしながら砂漠に拡げて行けば良いだけなのに、考え方に壁を作ってしまっていた。それに温暖で降雨量に恵まれた日本では、自然を放置すると雑草が茂り山に還るので砂漠化の実感がなかった。ましてや一般の工場的家畜管理をしている人々は生産性の部分しか見ていないので、反芻動物はメタンガスを排出し、過放牧は砂漠化の原因と考えている。部分ではなく、もっと全体的なホリスティック管理に反芻動物を使えば気候変動さえ防止できる自然に戻るなんてことは信じられない話であろう。

 公害防止の問題に取り組み21年間の東大助手を務めた後に琉球大学教授に就任し、2003年に退職され名誉教授になられ、2006年にご逝去された宇井 純さんが、助手時代に公害と環境問題を全国で講演されているのを聴く機会があったが、「あなたはここまで新幹線で来ていますね。それはどう考えればいいのですか?」と質問した優秀とされる学者がいた。専門家としてかなり優秀でも技術の進歩を過信していると部分しか見えないということだろう。まさに科学が発達してホリティックな神は死んだのだ。同じように原発もリニア新幹線も技術への過信と想像力の欠如を感じる。

 私が斉藤晶牧場を絶賛すると盲目的信奉者のように批判する人もいた。お金を掛けない施設が衛生的でないと言うのだ。しかし牛乳アレルギーの子供さんと牛舎まで牛乳を買いに来ているお母さんは、この牧場の牛乳は安全だと知っている。牛の反芻胃だけでなく農場全体の膨大な微生物が有害菌を抑えていることも考えられる。一方、清潔な加工処理ラインだと信じられていた工場で、雪印乳業食中毒事件が起きている。口蹄疫や鳥インフルエンザも屋外飼育における野生動物や野鳥が感染源として危険視しされているが、屋外飼育のような自然に近い状態で増殖したウイルスが家畜から家畜へ伝染を引き起こすことは考えにくい。ウイルスが増殖するのは畜舎内である。
 「銀行だって きれいに見えるけど、あんなにバイ菌だらけのお札に触れるのは私なら嫌だ。 どこに、きれい、汚いの価値観を置くかが問題。ある視点をかえると、みんなひっくり 返っていくの。」
 自然よりは人工的なものや仕事を優れていると考える人が多いが、自然の力は時に脅威にもなるが、自然の一員と考える私たちには基本的には優しい。

 今、混沌として先が見えない時代とされている。それは今まで進歩だと思っていた考え方に限界が来たということだと思う。高度経済成長期のように「アメリカに追いつけ追い越せ」の目標があるときは競争もありうるが、今は混沌とした目標のない時代だ。それは過去からは解放されている若い人にはチャンスであり、成功事例を含めて過去の何かにとらわれた大人の支配する時代ではない。他国との優劣にこだわる時代でもない。

 試験で点数を競うことは正解があることが前提となり、正解を求めて競争することになる。そして有名校に進学することが目標になり、そこに届かないものに劣等感を抱かせる仕組みになる。しかし、世の中には正解はない。正解は過去の歴史から考え方を含めて設定されるものだが、我々は未来に向かって生きている。これからは競争の時代ではなく、共創の時代だ。競争も最前線を生きる人にとっては皆と同じ目標に向かって競い合うことではなく、自己に克つこと。組織や国においても、それぞれの個人の強みを見つけて集団で強みを引き出すこと

 一億総活躍とか1億総動員と言う言葉がこの国の政治家は好きだ。1億総動員は戦争中につくられた国家支配体制であり、「1940年」から抜け出せぬ日本経済 (コピー)と批判する学者もある。情報化の時代に地方分散ではなく、あらゆる組織や会社の本部が東京一極集中となるのは、この国家支配体制によるもの。主権在民の憲法の目的を充実させるのではなく、憲法改正をしてまで国家支配を強くしようとしていることに、国民が強くなるような錯覚を持たないで欲しいNHKスペシャル「日本国憲法誕生 全編」を紹介している提供者が何故か「自滅した日本」と名乗り、憲法制定までのいきさつを詳細に記録したこの番組を評価しない人もいる。

 今の時代は競争と自己責任が当然のように言われている。その一方で、あまりに平等を第一に考えて、小学校の運動会ではあらゆる競争が避けられていた時代も知っている。個人の資質を生かすことと、全てを平等に考えることは違う。しかも今はイジメの問題がある。どうもこの国は個人の多様な能力を伸ばすことや他者を尊重することを本気で考えず、個人と集団の関係を取り扱うのが苦手のようだ。

 心の問題は「脳内ネットワーク」の活動の問題であり、人それぞれにとって神様も仏様もこのネットワークにある。死ぬことは脳がすべての活動を休止することなので、納得のいく生き方をし、他者の心に残ることを期待するしかない。家族はお墓で忍んでくれようが、これからは孫の代までお墓を大切にしてくれるかどうか分からない時代だ。せめて他者に迷惑をかけたり嫌われるような思い出だけは残したくない。

 今回はホリスティック管理のアラン・セイボリーのTEDでの講演を中心に考えた。「新しい年こそ、共創と協走を常識とする時代のスタートの年に!」と、「戦争と自然~右と左の中心は自然だ!」をいつも考えながら、さらに共創と協走の問題を掘り下げていきたい。

参考:
 イノベーションを生み出す「共創」の仕組み
 競争から共創へ―場所主義経済の設計
 競争から共創へ
 システム設計における共創という姿勢
 コミュニティ活動における「共創」の類型化の試み
 政策研究としての地域共創アプローチ
"競争"から"協走"へ~スン・ヒョンチャン(ハンズ・コーポレーション)

初稿 2016.1.12 更新 2016.1.15