断片的だったけれど、TVで観た「三丁目の夕日」の続きが気になっていたので、映画館近くの買い物ついでに、映画を2年ぶりぐらいで観ました。
久しぶりに時間に余裕ある日だったので、丁度上映開始時刻の5分前ということもあって、ロス時間がないことから衝動買いみたいに「ALWAYS三丁目の夕日’64」のチケットを買ったのです。(数編の予告編が15分あったので、ロス時間と上映開始時刻とは関係なかったけれど)
ALWAYS三丁目の夕日’64の時代背景は、丁度東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)であり、私的には2度目の海外旅行(東南アジア一人旅)をした同じ年だったし、親類縁者に預けられて肩身の狭い思いをする経験もあり、自信の身に置き換えてノスタルジーと深い親近感がありました。
それに又、自宅住所も三丁目なのです。
今の世相とは違う何かと言えば、発展著しい日本の活力の源みたいな明るい家族愛や親子関係と、下町の素直な人情と人間関係や、一生懸命さで未来に希望を持つ前向きなくらし方、後継ぎ問題将来性と可能性などがぎっしり詰まっているので、観る人の胸中に届きます。
他人の足跡だけに頼り、物欲に走って裕福になることを考えるよりも、自分の意思で自分の身の丈の幸せに向かって前進することで、必ずくる明るい明日を確信できる象徴が夕日なのでしょうか。
コミックな場面には素直に笑い、哀愁だけではないじんわりと伝わる思いに、心を揺さぶられる感動的な映画でしたから、何度も流れ落ちる涙をぬぐいました。
漫画本や原作のことなど、何の予備知識も無かったけれど、東京タワー・模型飛行機CGでの見事な特殊撮影には脱帽です。
トヨペット、パブリカ、オート三輪車やエレキギター、シェーなど懐かしかったー。
映画の内容とは別に、テレビジョンの普及が始まった頃に関して、上映中のストーリーにからんで出てくるモノクロTVやカラーTVのことに興味深く感じながら観ていました。
資料によれば、モノクロテレビは1953年に、カラーテレビは1960年に本格放送開始され、テレビの普及率はモノクロで1958年(昭和33)15%です。
カラーテレビの普及は1964年(昭和39年)の東京オリンピックを契機に急に普及し始めたのす。
1966年(昭和41)サンヨーカラーテレビCMソング「うちのテレビにゃ色がない」をエノケンが歌うなどPR合戦盛んでしたが、普及率は1966年(昭和41)で0.3%ですから、あの時代に高価なTVを買うのは富裕層でした。

当時のカラーテレビの価格は、東芝は1960年(昭和35)7月に国内初のカラーTVを発売し17インチで42万円、日立のCT-150型で52万円、三菱が1965年(昭和40)発売した19CK-650型19万8千円、パナソニックはカラー1号機1960年(昭和35)が50万円。
SONYは1968年から発売開始
http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-c.html
(パナソニックTVの価格は当時大卒初任給が1万円でTVは20~25万円(ちなみに電気冷蔵庫5~6万円 電気洗濯機2~3万円)
最初の頃は、夕刻の時間帯だけのTV番組で、TV放送の時間帯にはTVのある裕福な家庭の座敷は、ご近所さんに解放されました。
そんな光景を思い出し、時代と人情の移りゆく様を痛感したのは、この映画「ALWAYS三丁目の夕日’64」でした。
久しぶりに時間に余裕ある日だったので、丁度上映開始時刻の5分前ということもあって、ロス時間がないことから衝動買いみたいに「ALWAYS三丁目の夕日’64」のチケットを買ったのです。(数編の予告編が15分あったので、ロス時間と上映開始時刻とは関係なかったけれど)

ALWAYS三丁目の夕日’64の時代背景は、丁度東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)であり、私的には2度目の海外旅行(東南アジア一人旅)をした同じ年だったし、親類縁者に預けられて肩身の狭い思いをする経験もあり、自信の身に置き換えてノスタルジーと深い親近感がありました。
それに又、自宅住所も三丁目なのです。
今の世相とは違う何かと言えば、発展著しい日本の活力の源みたいな明るい家族愛や親子関係と、下町の素直な人情と人間関係や、一生懸命さで未来に希望を持つ前向きなくらし方、後継ぎ問題将来性と可能性などがぎっしり詰まっているので、観る人の胸中に届きます。
他人の足跡だけに頼り、物欲に走って裕福になることを考えるよりも、自分の意思で自分の身の丈の幸せに向かって前進することで、必ずくる明るい明日を確信できる象徴が夕日なのでしょうか。
コミックな場面には素直に笑い、哀愁だけではないじんわりと伝わる思いに、心を揺さぶられる感動的な映画でしたから、何度も流れ落ちる涙をぬぐいました。
漫画本や原作のことなど、何の予備知識も無かったけれど、東京タワー・模型飛行機CGでの見事な特殊撮影には脱帽です。
トヨペット、パブリカ、オート三輪車やエレキギター、シェーなど懐かしかったー。
映画の内容とは別に、テレビジョンの普及が始まった頃に関して、上映中のストーリーにからんで出てくるモノクロTVやカラーTVのことに興味深く感じながら観ていました。
資料によれば、モノクロテレビは1953年に、カラーテレビは1960年に本格放送開始され、テレビの普及率はモノクロで1958年(昭和33)15%です。
カラーテレビの普及は1964年(昭和39年)の東京オリンピックを契機に急に普及し始めたのす。
1966年(昭和41)サンヨーカラーテレビCMソング「うちのテレビにゃ色がない」をエノケンが歌うなどPR合戦盛んでしたが、普及率は1966年(昭和41)で0.3%ですから、あの時代に高価なTVを買うのは富裕層でした。

当時のカラーテレビの価格は、東芝は1960年(昭和35)7月に国内初のカラーTVを発売し17インチで42万円、日立のCT-150型で52万円、三菱が1965年(昭和40)発売した19CK-650型19万8千円、パナソニックはカラー1号機1960年(昭和35)が50万円。
SONYは1968年から発売開始
http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-c.html
(パナソニックTVの価格は当時大卒初任給が1万円でTVは20~25万円(ちなみに電気冷蔵庫5~6万円 電気洗濯機2~3万円)
最初の頃は、夕刻の時間帯だけのTV番組で、TV放送の時間帯にはTVのある裕福な家庭の座敷は、ご近所さんに解放されました。
そんな光景を思い出し、時代と人情の移りゆく様を痛感したのは、この映画「ALWAYS三丁目の夕日’64」でした。
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