鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

橋合戦図鐔 Tsuba

2011-03-10 | 
橋合戦図鐔


橋合戦図鐔 無銘

 赤銅魚子地高彫に金銀の色絵。この場面は、先に紹介したように、小柄を縦図にし、浄明の頭に手をついて飛び越す一来法師を描いた例が多い。縦に長い小柄を巧みに利用した構成である。この鐔では、平家軍の知盛であろうか、馬上の武士を描いており、一来法師に続く武将の姿も臨場感豊かに描いている。

橋合戦図小柄 Kozuka

2011-03-09 | 小柄
橋合戦図小柄

 
橋合戦図小柄 無銘

 京に通じる交通の要所であった宇治は、それ故に合戦の舞台となる。以仁王と頼政、これを討つ平知盛軍の対決、宇治橋を境にした戦いが橋合戦。橋板を外して知盛軍を足止めしているあいだに援軍を待つという計画であったが、その中で園城寺の僧が自ら宇治橋を渡って攻め込んだ。
 橋板のない宇治橋を駆ける筒井浄妙明秀と、その上を軽業師のように跳び越してゆく一来法師の活躍場面は好んで描かれた。筒井浄明は六十三本もの矢を射尽くすと、得物を薙刀に代えて攻め込む。一来法師は身軽ながら力自慢であった。

以仁王図小柄 Kozuka

2011-03-08 | 小柄
以仁王図小柄


以仁王図小柄 無銘

 後白河法皇の子であった以仁王が自らの処遇に不満を抱き、源氏など各地の反平家勢力に令旨を発して挙兵を促した。治承四年のこと。
 これに呼応した源行家などは東国へと行き来するも、その後、準備不足のまま計画が露見。以仁王は源頼政の軍勢を供に都を逃れて園城寺に身を寄せたが、寺衆の中には平家に通じる者があり、ついに平家の討手が迫ることとなった。園城寺を脱出して南都へむかう途中、ここが最期の地と悟った頼政は宇治の平等院に陣を構えて平家軍を迎えた。頼政の最期の地である。
 この小柄は、以仁王を女人に変装させて三条高倉御所から脱出させたという伝説を図にしたものであろう。

熊坂長範図小柄 夏雄 Natsuo Kozuka

2011-03-07 | 小柄
熊坂長範図小柄 夏雄


熊坂長範図小柄 銘 夏雄(花押)

能楽『熊坂』でも有名な熊坂長範 (くまさかちょうはん) 図であるが、この物語も知る人は少ない。
 牛若丸が京を離れて奥州へ向かう最中、赤坂の辺りで盗賊熊坂長範が襲ったのだが、逆に殺されてしまったという、牛若丸の武勇伝がある。
 赤坂の関辺りに出没していた熊坂長範は、物見の松の上から街道を行く旅人の姿を眺め、裕福そうであれば襲ったという。その様子を描いた作。牛若丸はここでは直接でてくるものではないが、関連する物語として紹介した。
 作者は、もちろん有名な加納夏雄である。赤銅地を高彫とし、薙刀を備える長範、その松樹の中ほどに三日月が出ている。薙刀の刃と三日月が対になっている構成は意図的であろうか、面白い。

橋弁慶図小柄 Kozuka

2011-03-06 | 小柄
橋弁慶図小柄


橋弁慶図小柄 無銘

 橋弁慶の題の通り、この図は牛若丸よりも弁慶が主人公。出生地として語られることの多いのが、紀伊国。母は三年ものあいだ胎内に子を宿し、その間毎日のように鉄を食らい、誕生したときにはすでに髪は肩まで伸び、歯も生え揃っており、身体の色は鉄のように黒かったという。
 もちろん弁慶の存在は物語の中のもので、実在は怪しい。しかし、母が鉄を食うというところは、超人誕生の伝説であると同時に、製鉄技術や鍛冶に関わる技術を有した集団との関連を強く匂わせており、頗る興味深い。
 長じた弁慶は、自らを託することのできる主を探すも目的で京は五条の橋辺りにたむろし、屈強の者を見つけては武器を賭けて対決したのである。その一人が牛若丸。
 弁慶にはもう一つ、鍛冶と関連する伝説がある。松江に刀鍛冶を生業とする叔父がいた。弁慶は叔父に太刀の製作を依頼したのだが、その切れ味が頗る高いため、同じような太刀を二つと製作され、他の者が利器を持つことを恐れ、叔父をその場で殺してしまったという。

橋弁慶図目貫 Menuki

2011-03-05 | 目貫
橋弁慶図目貫


橋弁慶図目貫 無銘

 牛若丸が、京五条の橋を渡りかかった時、その行く手を遮るように現われたのは弁慶であった。牛若丸、後の義経と弁慶の出会いの場面である。
実はこのとき牛若は、五条の橋に怪僧が出現し、帯びている太刀や薙刀を奪い去るという事件が起きていることを知り、自らが天狗から学んだ剣術を試すべく、太刀を携えて通り掛かった態を為して、まさに怪僧弁慶を誘き出したのである。
 牛若丸は女人の風体を為していたが、その下には鎧を着込むなど用意は周到。下駄を履いたまま、弁慶の薙刀をひらりとかわし、欄干から欄干へと飛び渡る。天狗の秘術が伝授されたことの証し。怪力を誇示する弁慶を難なく懲らしめ、力がすべてではないことを思い知らせるのである。以降、弁慶は牛若丸の影のようにその生涯を共にするのである。

牛若丸図鐔 正光

2011-03-04 | 
牛若丸図鐔 正光


牛若丸図鐔 銘 正光(花押)

この場面について、恐らく誰もが知っているであろうと筆者は思ったが、そうでもなさそうである。
源義経が、まだ牛若丸と名乗っていた子供の頃のこと。源義朝の子である牛若丸は、義朝が平治乱において敗北したことにより、一族処刑されるところであったが、まだ幼いが故に鞍馬寺にて僧となることを条件として助命された。
 その後、牛若丸の近辺には天狗なる者が訪れ、夜毎、剣術と天狗が持つ秘術の手ほどきしたという。もちろん源氏の再興を義経に託した東国の手の者である。
 能の題の一つ『鞍馬天狗』はこれを演出したもの。
 この正光(まさみつ)は会津正阿弥派の金工。正確な描写を得意とし、山水図や歴史的に意味のある場面などを題に得ている。

頼政鵺退治図鐔 龍鳳軒良宣

2011-03-03 | 
頼政鵺退治図鐔 龍鳳軒良宣


頼政鵺退治図鐔 銘 龍鳳軒良宣(花押)

鐔の作者は浜野派の龍鳳軒良宣。赤銅地を高彫にし、金銀朧銀素銅のそれぞれの色金を的確に配して現実感を高めている。鵺とは、顔が猿、身体は狸、尾は蛇、手足は虎の怪獣。その様子が巧みに描写されている。背景描写である雲の様子も面白い。

頼政鵺退治図目貫 Menuki

2011-03-02 | 目貫
頼政鵺退治図目貫


頼政鵺退治図目貫 無銘

 源平合戦の登場人物では、脇役になってしまっているが、平家の世から源氏の世への大きく動き始める切っ掛けを成したのが源頼政である。
 内裏の警護を行っていた攝津源氏、頼政は、それ故に和歌に長じ、平家とも近しい関係にあった。だが、平治乱以降、河内源氏の嫡流である頼朝は伊豆に流され、源氏の復活は容易ならざる状況。平家の懐に入り、昇殿を許された頼政でさえ、平家にあらずんば人にあらずの譬えのように、それ以上の活躍は望めない状況であった。
 このような状況下の治承四年、後白河法皇の子であった以仁王が自らの処遇に不満を抱き、源氏など各地の反平家勢力に令旨を発して挙兵を促した。源頼政はその先鋒として立ったのである。
 さて時は遡り、この頼政が昇殿を許されることとなったのは、近衛天皇の仁平年間のこと、夜な夜な出現して天皇を脅かす鵺(ヌエ)なる怪物を、得意の弓で退治したことによる。頼政は鬼退治で有名な頼光の子孫。そしてまた得意とした和歌で、信頼を得たという。
 この目貫の図が鵺退治の場面。弓を携え、松明で様子を窺うのが頼政。鵺の首を押さえ、短刀を突きつけるのが郎党である井早太。
 赤銅地を的確な容彫で写実的に彫り出し、金銀素銅の色絵も効果的に施している。

祗園社頭平忠盛図鐔 壽弘 Tosihiro Tsuba

2011-03-01 | 
源平合戦図が描かれた装剣小道具類を紹介する。室町時代には能楽で、江戸時代中期以降は歌舞伎などで取材され演じられたことで、殊に名場面が題に採られ、絵画でも表現されている。源平合戦に似た画題の題材として、古い例では中国の伝説の時代の武将や三国志の時代の合戦場面に取材した作もあり、いずれも武士が備えなければならない意識を暗に示している。植物や器物など身近な鐔の図柄も、実は多くの意味を示している場合が多く、単に図柄の美しさや奇抜さだけで武士は装剣具を選択していたわけではなかった。古代中国の賢人を題に得た図も同様、我が国の武家や公家の教養、勉学のテキストに深く関わるものであった。
 源平合戦図とは、寿永三年の一ノ谷の合戦から翌年の壇ノ浦の平家滅亡までの、直接の合戦のみを指すものではなく、前後して、これに関連する事件や場面が描かれている。
 直接に取材されたのは『源平盛衰記』であるが、それらの合戦記も、現実の合戦の場において事件を直接見た武士の記録を元にしている。ところが、『義経記』などのように特別の人物の行動に光が当てられたり、行動に意味が付されたりと、語り伝えられている間に創作が加わった例もある。
 ここで紹介する画題は、平家台頭の基礎を成した平忠盛から、おそらく義経が奥州に没する辺り、あるいは頼朝の時代までになろうか。作者の位列は別として、源平の時代を題とした図を楽しみたい。


祗園社頭平忠盛図鐔 銘 芸陽嘯竹堂中野壽弘(花押)

 平忠盛は清盛の父である。ただし、白河法皇が寵愛した祗園女御を、とある出来事によって賜り、後に産まれたのが清盛であることから、清盛の実の父は白河法皇で、それが故に栄華を誇ったという説もある。もちろん真実は誰も知らない。
 平家は瀬戸内の水軍を管理し、大陸との海上交易によって富を成した。殊に忠盛は和歌に通じていたことから院への昇殿を許され、単に武力を誇示する人物ではなかったことが分かる。東国の農村を管理した源氏の凋落と比較しても、平家隆盛の理由は明らかである。
 この図は、法皇が祗園女御の許へ向かう途中の出来事。頃は夕暮れ、辺りは薄ら闇に深まりつつあった。上皇の供をしていた忠盛は、その闇の中に不穏な人影があるのに気付いた。危険を察知した忠盛は、太刀に手を掛けて斬り掛かろうとしたが、法皇の前で血が流れることを嫌い咄嗟に素手で捕えた。するとその人影は悪鬼でも野党でもない、灯篭に火を灯す油坊主であった。
 太刀を使うことは容易な解決方法だが、それをせず、腕力のみで捕えた勇気により、忠盛が単に和歌に長じて貴族化しただけの武士ではなかったことを意味している。そしてこれ以降、平家の権力が急速に高まってゆく。
 この鐔の作者は、安芸国の金工で、江戸の浜野派に学んだ中野壽弘。真鍮地高彫金銀赤銅色絵の工法。浜野派らしい正確な構成と写実的表現で、表裏にわたって描いている。