鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

祗園社頭平忠盛図鐔 壽弘 Tosihiro Tsuba

2011-03-01 | 
源平合戦図が描かれた装剣小道具類を紹介する。室町時代には能楽で、江戸時代中期以降は歌舞伎などで取材され演じられたことで、殊に名場面が題に採られ、絵画でも表現されている。源平合戦に似た画題の題材として、古い例では中国の伝説の時代の武将や三国志の時代の合戦場面に取材した作もあり、いずれも武士が備えなければならない意識を暗に示している。植物や器物など身近な鐔の図柄も、実は多くの意味を示している場合が多く、単に図柄の美しさや奇抜さだけで武士は装剣具を選択していたわけではなかった。古代中国の賢人を題に得た図も同様、我が国の武家や公家の教養、勉学のテキストに深く関わるものであった。
 源平合戦図とは、寿永三年の一ノ谷の合戦から翌年の壇ノ浦の平家滅亡までの、直接の合戦のみを指すものではなく、前後して、これに関連する事件や場面が描かれている。
 直接に取材されたのは『源平盛衰記』であるが、それらの合戦記も、現実の合戦の場において事件を直接見た武士の記録を元にしている。ところが、『義経記』などのように特別の人物の行動に光が当てられたり、行動に意味が付されたりと、語り伝えられている間に創作が加わった例もある。
 ここで紹介する画題は、平家台頭の基礎を成した平忠盛から、おそらく義経が奥州に没する辺り、あるいは頼朝の時代までになろうか。作者の位列は別として、源平の時代を題とした図を楽しみたい。


祗園社頭平忠盛図鐔 銘 芸陽嘯竹堂中野壽弘(花押)

 平忠盛は清盛の父である。ただし、白河法皇が寵愛した祗園女御を、とある出来事によって賜り、後に産まれたのが清盛であることから、清盛の実の父は白河法皇で、それが故に栄華を誇ったという説もある。もちろん真実は誰も知らない。
 平家は瀬戸内の水軍を管理し、大陸との海上交易によって富を成した。殊に忠盛は和歌に通じていたことから院への昇殿を許され、単に武力を誇示する人物ではなかったことが分かる。東国の農村を管理した源氏の凋落と比較しても、平家隆盛の理由は明らかである。
 この図は、法皇が祗園女御の許へ向かう途中の出来事。頃は夕暮れ、辺りは薄ら闇に深まりつつあった。上皇の供をしていた忠盛は、その闇の中に不穏な人影があるのに気付いた。危険を察知した忠盛は、太刀に手を掛けて斬り掛かろうとしたが、法皇の前で血が流れることを嫌い咄嗟に素手で捕えた。するとその人影は悪鬼でも野党でもない、灯篭に火を灯す油坊主であった。
 太刀を使うことは容易な解決方法だが、それをせず、腕力のみで捕えた勇気により、忠盛が単に和歌に長じて貴族化しただけの武士ではなかったことを意味している。そしてこれ以降、平家の権力が急速に高まってゆく。
 この鐔の作者は、安芸国の金工で、江戸の浜野派に学んだ中野壽弘。真鍮地高彫金銀赤銅色絵の工法。浜野派らしい正確な構成と写実的表現で、表裏にわたって描いている。


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