西行遊行柳図鐔 臨川堂充昌
西行遊行柳図鐔 銘 臨川堂充昌
平安時代末期から鎌倉時代初期というと、先に紹介したように、まず平氏と源氏の面々を思い浮かべる。だが、この時代に生きた西行もまた伝説的な生き方をしており画題に採られることが多い。もちろん全国の歌枕を訪ねて詠んだ和歌が絵になるだけでなく、その存在そのものも絵になるからであろう。奥の道へと入る辺り(現栃木県那須町)の柳の下に休む図は「遊行柳」として有名で、間々この図をみかける。
実は、遊行上人の精に誘われて来た西行を題に得た、謡曲の創作である。
西行も元来は武士であった。藤原秀郷の子孫で、鳥羽院を警護する武士であったが、二十三歳で出家し、それまでに得た文化的知識を和歌に注ぎ込んだのである。
鐔の作者充昌(みつまさ)は近江の鉄砲鍛冶の流れを汲む、江戸時代中期から後期の工。鉄砲鍛冶の流れというと、間など砂張を巧みとする工を思い浮かべるも、このような繊細な作風を展開した工もある。
西行遊行柳図鐔 銘 臨川堂充昌
平安時代末期から鎌倉時代初期というと、先に紹介したように、まず平氏と源氏の面々を思い浮かべる。だが、この時代に生きた西行もまた伝説的な生き方をしており画題に採られることが多い。もちろん全国の歌枕を訪ねて詠んだ和歌が絵になるだけでなく、その存在そのものも絵になるからであろう。奥の道へと入る辺り(現栃木県那須町)の柳の下に休む図は「遊行柳」として有名で、間々この図をみかける。
実は、遊行上人の精に誘われて来た西行を題に得た、謡曲の創作である。
西行も元来は武士であった。藤原秀郷の子孫で、鳥羽院を警護する武士であったが、二十三歳で出家し、それまでに得た文化的知識を和歌に注ぎ込んだのである。
鐔の作者充昌(みつまさ)は近江の鉄砲鍛冶の流れを汲む、江戸時代中期から後期の工。鉄砲鍛冶の流れというと、間など砂張を巧みとする工を思い浮かべるも、このような繊細な作風を展開した工もある。