3388 野球ブログ

日米を問わず名選手を紹介。

張本勲氏(1)

2015-04-30 14:35:32 | Weblog
張本勲選手や張本勲ではなく張本勲氏としたのは、去る4月25日(土)東京時事通信社ホールにて開催された、岡安商事主催の2015経済講演会、張本勲氏による[私と野球人生]の講演会の内容に就いて書きたく思っているからです。約300名の収容人員のホールはほぼ満員であり、主催会社の狙いは投資FXセミナーにあるのだろうが、雰囲気的にはかなり多くの人が張本勲氏の講演に興味を持って駆け付けた様にさえ感じました。張本勲氏の講演は約1時間でありましたが、大きく非常に聞きやすい声、学生時代確か弁論大会で優勝した過去がある様に、話も上手く私の様な野球好きには本当に全く退屈もせず何時間でも話して欲しいと思う位でした。張本勲氏の体格ですが、サンデーモーニングを中心にかなりの期間見ている訳であり、同番組で何年か前に183cmの身長と話していたかと思いますが、背も高く胸板も厚く、直接見てもかっての強打者のイメージを十分に感じさせてくれるものでした。パリーグ時代の末期、チームの親会社が日拓や日本ハムに変わった頃の、お腹がポコンと突き出て横腹にも贅肉が目立ち、その為か故障が多く、彼としては長打力にも欠けていた頃の体型は何だったのか、改めて思わせてくれる感じさえ受けました。

昭和35年の野球記事(7)

2015-04-29 12:03:43 | Weblog
当時の表記で金田正一投手が金田正と称されているのは、同じチームに星雄と高義という右腕投手が所属していたので兄と言う表し方が出来なかった為であったかと思います。当時その表記もあり金田正一投手に弟の存在があるのは結構知られていたが、実力は雲泥の差があったみたいで二人共一軍の登板はなく短い期間のプロ生活を終えています。勝手な憶測ですが、ドラフト制もなかった当時チームで天皇と言われ、やりたい放題だったと報道されている金田正一投手の事なので、実力不足の弟を無理やり入団させた様な気がしてなりません。そういう経緯もあり昭和43年ドラフト4位で金田家の末弟、留広投手が東映フライヤーズに指名された時には、ノンプロの試合は殆ど観た事がない事もあり、どうせ兄の正一投手とは比較にもならない実力であり、二人の兄星雄、高義と同じく短いプロ生活で終わるだろうと勝手に推測していました。確かに比較にもならない実力は当たっていたのかも知れませんが、シーズン20勝や兄正一が獲得出来なかったMVPも獲得し、通算128勝を挙げる投手になるとは想像出来なかったものです。

昭和35年の野球記事(6)

2015-04-28 13:51:38 | Weblog
左の写真は前回の写真から土屋五郎氏の寸評の部分のみを抜き出したものです。この土屋五郎氏、改名をしたりしていますが昭和25年国鉄スワローズに入団、その年8月に入団した金田正一投手を最初から知っている人物かと思われます。その寸評には金田正一投手の球種として速球、カーブ、フォークボール、シュートが挙げられています。特にフォークボールに関しては、[ストンとまっすぐに落下し素晴らしい威力をみせた。全く最後の切り札である。]と記しています。新人の頃の金田正一投手を知り、盗塁王の記録を持つ元選手の寸評なので信頼性は高いかと思うのですが、当時の私の金田正一投手の球種に対しての意識としては、速球と当時はドロップと称されていたカーブ、それに加えて球速が物凄く落ちるスローカーブしか思い浮かばないものです。金田正一投手の球種としてフォークボールの名前が出だすのは私の知る限り、力の衰えた昭和40年代以降の事かと記憶しています。この時期前後から投じていたとすれば、矢張り恐るべし金田正一投手と言えるのでしょう。

昭和35年の野球記事(5)

2015-04-27 12:14:17 | Weblog
昭和30年代の投手のローテーションとしては、先発投手としては中3日の間隔が多く日程によっては中4日もあるのですが、エース級の投手は抑えも務めたりしており、先発3本柱がしっかり揃っていれば投手陣の戦力としては十分であると言う感じでありました。現在の様に先発要員として5人ないしは6人必要という感覚は全くない時代でした。従ってこの試合の様に、国鉄のエース金田正一投手と広島カープのこの年エースに躍進した大石清投手が投げ合うという例は決して少なくはありませんでした。例えばこの時代の大エースだった稲尾和久投手と杉浦忠投手の通算対戦成績は24勝24敗の五分の数字が残っている様です。昭和33年入団の杉浦忠投手と44年引退の稲尾和久投手、30年代後半にはかなり衰えを見せていた両投手の対決は短い期間内に凝縮され濃厚に行われていたことが予想出来るかと思います。おおまかにいうとこの時代の4番手以降の投手達は中継ぎや敗戦処理に回る事も多く、現在の5人から6人の投手で回される投手に比べ気の毒とも思え、逆にレベルの低い投手を現代では先発投手として見せられている気さえしてしまいます。但し、ここでいうレベルはその時代毎の投手のレベルを指し、昔と現代との比較をしている訳ではありません。

昭和35年の野球記事(4)

2015-04-26 22:19:23 | Weblog
この試合両投手のシーズンを終えた成績を記して見ます。金田正一投手は延長13回まで無失点に抑える好投というか快投をしながらも勝ち投手にはなれなかったのですが、その後2勝1敗の数字でシーズンを20勝22敗、320.1イニングで284個の奪三振、防御率2.58、10年連続の20勝以上の数字を残しています、一方リリーフで延長13回まで12回を投げ同じく無失点に抑えた高卒入団2年目の大石清投手は、シーズンを26勝13敗、341イニングで215個の奪三振、防御率2.56と初の20勝以上を挙げ広島の新しいエースとして輝きだしたシーズンと言っていいかと思います。このシーズンの数字に関しては大石清投手の方が優っていたと思える程の投手であります。このシーズンから3年連続で20勝以上の勝ち星を挙げる大石清投手ですが、その後の数字が今一つの事もあり、その全盛期の実力程の評価がされてない様に思えてなりません。比較的最近刊行された広島カープの球団史的な本でも大石清投手の扱いが非常に少なく、この試合の如くの彼の実力を何度も目の当たりにした者としては、非常に寂しい思いをしております。

昭和35年の野球記事(3)

2015-04-25 16:35:55 | Weblog
左の写真は前回と同じ紙面の下の部分です。この試合だけで当時の投手の投球状況の一面が見て取れると言ってもいいかと思える部分があります。延長13回を戦った末に両チーム共0対0で引き分けになっていますが、金田正一投手は13回投げ完投しており、又広島リリーフの大石清投手もその後13回まで投げております。紙面を見る限り球数は分かりませんが、かなり多かったであろう事は容易に予想出来るかと思います。現在メジャーでは100球前後で交代、0点に押さえ続けている場合のみ完封を狙って投げさせることはありますが、どんな事があっても延長戦まで同一の投手が投げるという事は普通考えられません。又日本プロ野球でもメジャー程球数に拘ってはいませんが、それでも延長最後まで同一投手が投げ切る事はほぼ皆無かと思います。しかしこれだけの長いイニングの試合なのに3時間30分で終わっているという点も、現在より遥かに試合時間の短かった当時の試合状況の一面を表しているかと思います。

昭和35年の野球記事(2)

2015-04-24 14:34:43 | Weblog
前回少し触れましたが、投手記録十傑という書き方も何か時代を表している様に思います。見出しに昭和二十五年国鉄入団以来十一シーズン目、世界第二の大偉業とありますが、金田正一投手は高校中退17歳になったばかりの昭和25年8月23日がデビューなので10年と1ヶ月と、ほぼ10年と少しで通算奪三振3000とその時点での年度別成績を見て分かる様に、既に250勝を挙げています。現在81歳、口の方は全く衰えを知らずと言うか、球速180kmとか逆に勢いを増している感すらありますが、大口を叩くだけの実績は間違いなく残していると改めてその凄さを感じてしまいます。この記事で改めて驚くのは、少なくともこの頃からメジャーの記録と日本プロ野球の記録を混同していた事です。後の金田正一投手の奪三振3509個の時の世界新の記事や、更に後の王貞治選手の756本塁打の時の記事等、レベルの違う野球の記録を都合よく一緒にしてしまう原点を見てしまった気がしてならないものです。

昭和35年の野球記事(1)

2015-04-23 13:45:11 | Weblog
左の抜粋写真は、昭和35年9月金田正一投手が通算3000個の奪三振を記録した翌日のスポーツニッポンの紙面です。この紙面でいくつか面白い事に気づいてしまいます。金田正一投手は入団11年目でこの記録を達成していますが、表の三振奪取記録十傑を見て分かる様に数も率も比較にすらならない程他の投手を圧倒している数字になります。強いて言えば入団7年目の梶本兄が2016.2イニングで1554個、奪三振率6.94の数字がありますが、矢張り金田正一投手のその時点での奪三振率7.56とはかなりの差と言っていいかと思います。金田正一投手以前の投手達が如何に三振を奪っていない或いは奪えていないかという事も、示しているかと思います。又梶本兄との表記になっている様に、梶本隆夫投手には当時同チームに梶本靖郎という右腕投手の弟も所属していましたが、通算3勝2敗の数字しか挙げる事は出来ず引退しています。その存在は知っていたのですが実働6年、通算64試合の登板の投手の為、投球を見た事は一度もありません。次回続けます。

城之内邦雄(4)

2015-04-22 15:06:59 | Weblog
城之内邦雄投手は昭和43年の5月対大洋ホエールズ戦でノーヒットノーラン試合を達成しています。テレビ中継で観たその試合での城之内邦雄投手の投球は約50年近く前の事なのですが今でも鮮明に覚えています。この年やや衰えが見え始めて来た城之内邦雄投手ですが、その試合では本当に調子が良く、腰の入りが通常より遥かに素晴らしく、それに伴い投球フォームがダイナミックで、球速、球のキレも彼としてはほぼベストだったかと思います。当時も今もそうですが、読売ジャイアンツが大嫌いな私としても、ノーヒットノーランが達成できるかどうかは運もあるので別としても、到底相手打線が打ち崩せる状態にない事をすぐ直感せざるを得ない程の調子に感じ、大洋ホエールズの勝ちは早目に諦めたものです。城之内邦雄投手はその翌年から急激に数字を落とすのですが、当時テレビ中継で多くの解説者がその時代以降の彼の球をお辞儀する球、つまり伸びがなく打者の手元で威力が全くないという意味の表現を常に使っていた事も何故か記憶に新しいものです。

城之内邦雄(3)

2015-04-21 12:05:31 | Weblog
城之内邦雄投手の奪三振数と奪三振率に触れます。通算では実働11年間で1977.2イニングを投げ奪三振数は936個、奪三振率は4.26になります。シーズン毎には、新人の年の昭和37年の280.2イニングでの173奪三振、奪三振率5.55が数、率共に最高になります。又他のシーズンも殆ど2イニングに1個の奪三振、奪三振率4.50以下となっています。当時の投手は最近の投手と比較して奪三振率はかなり低いものでしたが、城之内邦雄投手は一流の数字を挙げそこそこの球速がある割に数、率共にかなり低いものでした。打者に背をむけ首を振りながらのサイドに近い投球フォームは、一見打者に恐怖感を与えそうですが、公称177cm、79kgの体格もあり打者に高低差を感じさせる事が少なく、更にシュートを武器としている事もあり三振を奪える投手ではなかったと思います。新人の年から5年連続して250イニング前後以上の投球イニング、2点台の防御率と素晴らしい実績があり、当時人気球団所属の投手の割に注目度、人気が今一つだったのは余計なお世話だがそのルックスと投球内容にある様に思えてしまいます。