3388 野球ブログ

日米を問わず名選手を紹介。

金田正一投手(2)

2009-07-23 21:01:58 | Weblog
昭和30年代に、出版された金田正一著による本や、彼の言葉からは、私の記憶に間違いが無ければ、沢村賞に関する記述や発言は無かったと思います。しかし約50年位前の事なので、もし違っていればご容赦下さい。前回も推測しましたが、金田正一から見れば、いくら伝説の速球投手とは言え、実績的には遥かに落ちる投手の賞を素直に喜べる気持ちはなかったと思います。その一つの例として、以前にも書きましたが1963年、防御率、無失点勝利で僅かに後塵を拝しただけで、他の部門では圧倒的に引き離していながら、読売ジャイアンツの伊藤芳明投手が沢村賞に選考された事に対して、彼の反論は聞かれませんでした。あの賞に対して貪欲な彼ですが、実力だけで取れる賞とは違い、選考での賞に対しての疑問もあったのでしょうが、自分こそ日本一の投手と自負している彼には、他人の名前の賞等、興味の対象にはなく、将来は自分の名前の賞が出来る筈だと信じていたのかも知れません。それ程自信の塊でもありましたが、それを裏付ける力をも当時は見せていました。

金田正一投手(1)

2009-07-22 21:49:33 | Weblog
ご存知自信の塊、今後間違いなく破られない400勝という、とてつもない記録を持つ左腕の大投手です。何故か急に、ふと気になった事があります。金田正一は1956年から1958年迄計3回沢村賞を受賞していますが、果たして彼はどういう気持ちでこの賞を受けたのでしょうか?最初の受賞の年1956年には、プロ入り7年目にして既に154勝を挙げている彼が、いくら伝説の投手であり、戦争の犠牲に依り寿命を短くしたとは言え、実働5年、通算成績63勝22敗、防御率1.74,554奪三振の投手の冠の賞を、素直に喜んで受けたのでしょうか?結構気になるものです。当時の受賞の際の彼のコメントの、記録及び記憶がないので何とも言えないのですが、多分彼の気持ちの内では、既に沢村栄冶を超えている為、喜びはあまりないと思います。歴代を通じて日本一の投手、及び日本一速い球を投げられる投手と言う事を常に自負している彼には、沢村賞はあまり重視すべき賞ではなかった様に推測します。

幸田優

2009-07-21 20:38:58 | Weblog
実働は1958年から1962年迄、大洋ホエールズに在籍した右腕投手です。リアルタイムで彼の投球を見たのは多分3回だけだと思いますが、何故か妙に印象に残っている投手です。先ずは1イニング4奪三振という、当時としては彼だけの記録を持っている為、どんな投手かという期待がかなりありました。ひょっとしたらかなりの快速球を投げるのではないかと期待もしていました。しかし実際に見た彼は、当時の投手としては公称182cmと長身ながら、球速はあまりなく、又投球フォームもかなりオーバースローに近いながら、打者に正対する感じで迫力にかなり欠けるものでした。現実は勝手な予想とは、かなり異なっていました。しかし高い角度から投げ下ろす落ちる球には、それなりの威力はあったと思います。もう一つは眼鏡をかけた彼の風貌が、全くプロ野球選手らしくなかった記憶があります。活躍したと言えるのは1959年,7勝を挙げた年のみかと思いますが、何故か約50年位経た今でも、彼の投球スタイルは忘れられません。



通算成績   83試合   10勝16敗   防御率 2.90    206奪三振

チィム・ウェイクフィールド(Tim Wakefield)(1)

2009-07-18 22:01:56 | Weblog
1992年から、現在までパイレーツ、レッドソックスで活躍し続けている右腕投手です。投球の約85%がナックルボールという、非常に稀有な存在の投手です。彼の投じるナックルボールは、本当に球速は全くないながらも、何処に収まるか解らない程、ボールの回転の殆どない、正に究極の魔球かと思います。テレビでスロー再生の画面を見ると、信じられない程回転がなく、この様な球を投じる事が可能なのかどうかもの凄く疑問を感じ続けているものです。今回彼は初めてメジャーのオールスターに選出されたのですが、そこで非常に興味を持ったのは、レッドソックスの正捕手のバリテックですらまともに受けられない彼のナックルをどの捕手が受けるかという事でした。結果として彼の登板機会はなかったのですが、もしあったとしたらどの様な、結果になっていたか非常に興味深いものでした。今年で43歳になりますが、残り11勝に迫っている200勝は間違いなくクリアーし、将来的にどの位の勝ち星を挙げるか、もの凄く興味のある投手です。




二宮至

2009-07-17 21:15:51 | Weblog
1977年から1982年まで、読売ジャイアンツのみに在籍した右投右打の外野手です。彼はある意味、三拍子揃った阪急ブレーブスの簑田浩二をスター選手に押し上げた選手と言って良いかと思います。二宮至は中畑清、平田薫と共に駒大トリオの一員として期待されて入団していますが、悲しいかな彼には、その類稀な強肩以外には長所はなく、打撃に関しては、所謂ドアースイングで全く取り得がなく、悲酸な成績に終わっています。しかし1977年の日本シリーズでは、二塁走者が走塁センス抜群のあの簑田浩二以外の走者であったなら、彼の強肩がもの凄い評価を得ていたかと思います。今でもはっきりと覚えていますが、二宮至は、もの凄く守備勘が悪く、異常な程肩の弱い張本勲の替わりにレフトの守備に尽き、結構浅いレフト前のヒットに対し、もの凄い送球を捕手に返していますが、簑田浩二の芸術的な走塁が上回り、本塁で刺す事が出来ませんでした。しかし守備固めで出て来ただけあって、その送球の素晴らしさは未だに忘れられるものではありません。野球にれば、たらは禁物でしょうが、もしあのままレフトを張本勲が守っていたとしたら、普通のレフト前ヒットで、代走の俊足選手が生還した事で終わっていたのでしょう。又代走が簑田浩二以外の選手であれば、多分本塁アウトの可能性が高く、その後の二宮至の選手の野球人生は変っていたかもしれません。


通算成績   239試合   8安打   0.113   0本塁打   2打点

土橋正幸投手(4)

2009-07-16 21:00:44 | Weblog
豪腕土橋正幸投手は、昭和37年東映フライヤーズ優勝の年の頃から、球威の衰えを見せ始めたかと思います。それでも17勝を挙げ、日本シリーズでは大活躍を見せています。その翌年には20勝を挙げ、更に次の年も20勝を達成していますが、明らかに球速は衰え、その結果として奪三振、奪三振率共に著しく落ちてきています。多分昭和38年のシーズンだったと思いますが、当時台頭して来て、後に189勝を挙げる阪急ブレーブスの石井茂雄投手との投げ合いをしっかりと見ましたが、決して速球派投手とは言えない石井茂雄投手の球の方が、より威力を感じたものでした。当然たった1試合のみの感覚だけでは論じられないものでしょうが、矢張り土橋正幸の投手としての衰えを感じざるを得ないものでした。昭和40年土橋正幸投手は4勝に終わり、翌41年も6勝と復活出来ず、42年を最後に引退となりました。彼の急激な衰えは矢張り、上体の力だけに頼ったフォームに依るものと、ストライクを取れる制球には優れていましたが、小山正明投手の様な精密なコントロールではない為、球威のはっきり落ちた晩年には、そのストライクを投じられる力が逆作用した気がしないでもありません。しかし昭和30年代の東映フライヤーズのエースは紛れもなく土橋正幸である事は間違いないでしょう。

土橋正幸投手(3)

2009-07-15 21:21:59 | Weblog
土橋正幸投手の存在を初めて知ったのは、実際に彼の姿を見る以前に、昭和33年に達成した1試合16奪三振の当時の新記録と、同じ試合で達成した9連続奪三振の梶本隆夫に並ぶタイ記録を達成した投手という事からだと思います。初めて彼の投球を見た時は、多少戸惑いを感じました。もっと理にかなった、華麗な投球フォームの投手かと勝手に想像していましたが、全く予想と違い、正しく我流の、悪く言えば手投げに近いフォームに驚きました。しかし球は浮き上がる様に速く、切れ伸び共にすばらしいものでした。当時のパリーグの代表的な投手では、稲尾和久、杉浦忠、米田哲也等が挙げられますが、この3人に共通しているのは、殆ど欠点を見つけられない程の理想的な投球フォームをしていました。比較的短命に終わった稲尾和久、杉浦忠の2人に就いては、投球フォームには全く問題がなく、間違いなくあまりにも酷使され続けて為の結果かと思います。しかし土橋正幸の場合は、どうしてもその投球フォームがもの凄く気になった投手でした。

土橋正幸投手(2)

2009-07-14 20:24:12 | Weblog
土橋正幸投手の球は非常に速かったのですが、それ以上とさえ思えるのが投球テンポの早さでした。そのちぎっては投げの投球フォームと同様、捕手からの送球を受け取ると同時に投げている感じさえするものでした。この投球間隔の早さは、後の松本幸行に次ぐものかと思います。何故彼の投球間隔が早いかと言うと、一つには快速球以外に、スライダー、カーブ、シュート等投げていましたが、その素晴らしい快速球と比較してあまり武器となる変化球がない事もあり、多分基本的にそんなに考えた投球をしていなかったかと思います。つまり全盛期の彼の場合、あまり球種、コントロールに拘らなくとも十分に通用しただけの球威がありました。特に昭和36年のシーズンには自己最多の30勝、防御率1.90、奪三振298の抜群の成績を残すも、全ての部門で鉄腕稲尾和久には及ばず、又チームの優勝も少しの差で逃し、非常に惜しかったものでした。翌年東映フライヤーズは優勝し、土橋正幸もそれなりの活躍をしましたが、この頃から彼の投球には衰えが見え始めて来ました。

土橋正幸投手(1)

2009-07-13 21:12:55 | Weblog
1956年から1967年迄、東映フライヤーズ一筋に大活躍した右腕投手です。投球フォームは本当に上体の力だけに頼った感じで、腰の捻りも少ないスリークォーターよりやや低い位置から投じていました。しかし投じる球は非常に速く且つ重く、何故この様な素晴らしい球があのフォームから投じられるか不思議な程でした。人並み外れた上体の力としか思えないものでした。更に彼の素晴らしい点は、腰の捻りが少なく打者に正対しているフォームの投手の特長として、非常にコントロールが良い事でした。通算四死球率1試合当たり1.43という数字は歴代の投手の内でも、抜群の数字であります。昭和30年代中頃までのパリーグで、どの投手の球が一番速いかという話になると、土橋正幸の名前は米田哲也、梶本隆夫、小野正一等と共に必ず名前が挙がったものです。しかしそれ程速い球を投げていた土橋正幸ですが,昭和37年に同チームに、怪童、豪速球の尾崎行雄が入団して来た時には、あっさりと球の速さでの負けを認め、とても尾崎行雄には太刀打ち出来ない旨の発言をしていました。

田尾安志

2009-07-11 21:50:18 | Weblog
1976年から1991年迄、中日ドラゴンズ、西武ライオンズ、阪神タイガースで活躍した左投左打の殆どを外野手として過ごした選手です。田尾安志と言えば、今でも中日ドラゴンズ時代しか思い浮かばない程、ドラゴンズの選手としてのイメージが強いものです。3割以上4年連続で4回も全て中日ドラゴンズ時代に経験しています。確かに残した実績を見れば、3年連続最多安打を記録した様に、こと安打の製造に関しては長けている様に感じますが、現役時代の彼を見ていて常に思っていたのは、本当にこの選手の打撃術は優れているのかという事でした。具体的に言えば、打撃に柔らかさは殆ど感じられませんでした。藤田平や篠塚和典とは異なり、バットが撓る様な打撃は全く見せられず、投球への対応力には欠けているものがあったかと思います。更に榎本喜八に見られる選球眼抜群のプルヒッティングとも異なりました。又打撃フォーム自体もあまり柔らかくなく、投球に柔軟に対応出来ているとは思えませんでした。本人は歴代屈指の打撃力の持ち主と、自身満々の様でしたが、私には彼がそれ程の打者とは思えませんでした。かなり批判的に書きましたが、正直優れた打者には間違いなく、世間の評価や本人の自身程の打者ではないかと言う事を書きたかっただけかもしれません。



通算成績   1683試合    1560安打    0.288    140本塁打    574打点