最近ご紹介した半沢士郎と同じ昭和39年、同じ国鉄スワローズに入団した右腕投手です。但し高校卒の半沢と異なり明治大学を卒業している為、年齢的には4歳上となります。この投手の最大の特徴としては、殆ど真上に近い位置からの投球でした。当時の投手としては長身の182cmの体型を巧く活かし、腰の捻りには問題があるものの、本当に角度のある投球を見せてくれました。変化球には落差の大きい、当時の呼称としてはドロップがあり、見ていて非常に楽しい投手でした。しかし本当に悲しいかな、この投手には本格派の投手として必要不可欠な球速には、やや欠けていました。つまり球速で打者を圧倒する事は出来ませんでした。又比較的打者に正対する投球フォームのせいもあり、球質は非常に軽いものでした。しかし入団1年目のみ活躍した半沢士郎と異なり、徐々に実力を発揮し、決して強くはなかった昭和40年代には、チームにとって欠かせない投手でありました。この投手の球の速さ、軽さ、更にもう一つ迫力に欠ける綺麗な投球フォームは、後に同じ明治大学卒の星野仙一投手と似通っている部分がもの凄く多い様に感じてなりません。
多分つまらない昔話を続けます。当時南海ホークスの本拠地大阪球場は、帰り道から逆方向にはなるものの、歩いて約5分の距離にありました。決して強くはなかった南海ホークス、更には現在ともの凄く違い人気に乏しかったパリーグという事もあり、いつ行っても、混んでいる事も全く無く楽に入れる球場でした。決して大きくはない球場ながら、そのすり鉢状の形態の為、何故か非常に高い位置から選手の動きを見つめていた記憶があります。規模こそかなり違うものの、後に訪れたドジャーススタジアムに、似ている感がありました。当時友人と観戦に外野席に行った際、その外野席には他に家族一組しかいなかった事もありました。又大阪球場近くの居酒屋で、南海ホークスの勝利の際、割引をしてくれる居酒屋があり、確か3連勝で3割引までやっていたと思いますが、南海ホークス自体が弱かった事もあり、残念ながらその恩恵にあずかった記憶はないものでした。どう贔屓目に言ったとしても、近代的や綺麗な球場とは程遠いものの、何故か印象に強く残る球場でした。
昭和39年、鎌倉学園から入団した投手です。まだドラフト制のない当時、非常に騒がれて国鉄スワローズに、その将来をもの凄く期待されて入団した右腕の本格派投手でした。右腕の後方への引きが素晴らしい感があり、ほぼオーバースローに近い位置からの投球は威力抜群でした。しかし球速はあるものの、浮き上がる快速球という感じにはやや乏しく、もの凄く悪く表現すれば球を置きに行く感じは否定出来ないものでした。とは言え球速は素晴らしく将来、どの様な投手に育つか非常に期待させてくれました。昭和39年は何故か、新人研修制度があり、高校卒の新人は6月からしか出場出来ない規定がありながらも、8勝を挙げ、当時かなり喧伝された右の金田、金田二世の名称もあながちオーバーではなかったかと思います。その当時日曜日の午前の番組でミユキ野球教室という30分番組があり、メインキャスターを務めるパリーグ会長の中沢氏が新人投手の半沢士郎に対して、国鉄スワローズの最速投手の渋谷誠司を超える快速球を投げられる様、目指して欲しいという会話を何故か忘れられないものです。その中沢氏の発言には、永遠の自称最速投手の金田正一の名前を出していない事に、氏の媚びない姿勢と慧眼を思い出してしまいます。
大阪は私にとってもの凄く好きな都市です。仕事の関係で昭和54年から56年迄、兵庫県西宮市に住み、難波球場近くに事務所のある会社に通っていました。野球好きの私にしてみれば、最高の環境と言えるかと思っています。当時関西にはセリーグで阪神タイガース、パリーグでは阪急ブレーブス、南海ホークス、近鉄バッファローズと実に4球団が揃っていました。本当に嬉しい環境と言う以外の言葉はないかと思います。当時阪神電鉄沿線の香枦園に住んでいましたが、この駅が帰宅の際、甲子園駅の少し先と言うことで、かなり多くの回数ナイトゲームの照明に引っ掛かり、甲子園球場のナイトゲームを見にいったものです。多分現在と違い、試合展開、時間によっては格安になるダフ屋のお世話にも度々なった経験があります。又帰宅時間が遅く、甲子園でのゲームが終わった頃の阪神電車に乗り合わせていた場合も、これ以上単純明快な存在は有り得ないと思われる阪神タイガースの熱狂的なフアンの態度、振る舞いで当日の試合の結果は勿論の事、展開までも想像させてくれるものでした。