3388 野球ブログ

日米を問わず名選手を紹介。

バートロコロン(Bartolo Colon) (5)

2011-04-30 13:31:59 | Weblog
昨年1年間メジャーのどの球団にも所属のなかった、かってサイヤング賞の受賞歴のある豪速球投手です。今年ヤンキースに入団しましたが、多分チームは彼に大きな期待は寄せていなかったでしょう。シーズン当初の彼の登板は、大きな点差の付いた負けゲームでした。所謂敗戦処理の役割に過ぎませんでした。しかしこの役割ながらも、というよりもこの役割の為結構気楽に投げられたのでしょうか、思いの外好投し、更に昨年大活躍した先発投手フィルヒューズの不振もあり、彼に先発の役目が回り、現在2勝1敗、防御率2.77と好投しています。では彼は本当に復活したのでしょうか?テレビ中継やダイジェストシーンを見る限り、かなり全盛期に近い力を見せていると思います。かって試合後半になる程球速が増し、時には100マイルを越していた球速は現在最速96マイルまで回復し、彼特有の物凄く動くツーシームや、球の伸び、キレもかなり戻っていました。現時点では想像以上の投球を見せてくれていますが、今後の課題はここ4,5年殆ど故障がちの為、スタミナがどれだけあるか、常にどの位の球威の球を投げられるかにかかってくると思います。又5月に38歳になる年齢も気になりますが,是非とも頑張って欲しいものです。

2000奪三振(11)

2011-04-29 12:58:39 | Weblog
鈴木啓示の第二段階は入団7年目から9年目の低迷期と言っていい時期かと思います。年平均300イニング近くを投げていたせいでしょうか、明らかに球速に陰りが見えて来た時期です。この3年間に37勝43敗、642.2イニングで440奪三振、奪三振率6.16と数字にも如実に現れています。鈴木啓示の場合、球速は凄くあるのですが、伸びとか切れが物凄く優れているというタイプではありませんでした。更に悪い事に彼の球質は非常に軽いのですが、強気に勝負する為、この時期多くの本塁打を浴びていたものです。つまりこの時期は球速の落ち込みをカバーする術を未だ持ち得ていない為、どうやって勝負していいか解らず、その球威の衰えの為三振は奪えなく、逆に四死球は増えてしまうという彼にとっては最悪の時期でした。球速が落ちただけに彼の豪快な投球フォームが、妙にバランスに欠ける様に感じ、彼の速球投手及び一流投手としての寿命は、もう終わってしまったと物凄く寂しい想いを抱いたものでした。当時の彼を見ていると、頑張って200勝達成が可能かなという認識でした。

2000奪三振(10)

2011-04-28 13:42:33 | Weblog
鈴木啓示投手をその投球内容から大雑把に三段階に分けて、奪三振数、奪三振率に言及したく思います。先ずは前回触れました脚を高く上げて速い球を主武器としていた本格派、速球時期です。この時期は入団から6年目までが当てはまると思います。この時期に120勝を挙げ、投球回数1749.2イニングで1489個の三振を奪い、奪三振率は7.66になります。最も球が速く、パリーグの奪三振王の名前を欲しいままにしていた時期と言えましょう。しかし物凄く不幸な事に、彼より1年後にセリーグ阪神タイガースに快速左腕江夏豊投手が入団しました。同じ時期、鈴木啓示の2年目から6年目と江夏豊の入団から5年目までを比較してみます。この時期江夏豊は88勝を挙げ、投球回数1419イニングで実に1495個の三振を奪い、奪三振率は9.48になります。一方鈴木啓示は110勝、投球回数1560.2イニング、1329個の三振を奪い、奪三振率は7.66になります。鈴木啓示とて抜群の奪三振、奪三振率を誇っていたのに、同時期に江夏豊という存在があった事が、彼の印象を薄くしたのでしょう。この時期江夏豊は今も記録のシーズン401個の奪三振や、オールスター9連続奪三振の記録を作る等もあり、又人気チーム阪神タイガース所属もあって、非常に目立つ存在でありました。つまり鈴木啓示の速球が最も輝いていた時、本当に邪魔な存在が江夏豊だったと思います。

スピードガン(2)

2011-04-27 14:36:33 | Weblog
先日メジャーの快速左腕、レッズのチャップマン投手がパイレーツ戦で106マイル(170.6km)を投じ、結構テレビでも取りあげられました。私も何回か繰り返して見ましたが、物凄く腕の振りが速く、打者の内角高めに食い込む球は、本当に恐ろしい程の速さでした。打者がメジャーきっての将来の超有望株マカッチェンという事もあり、非常に興味深いシーンでした。しかしこの表示は球場のスピードガンであり、テレビ画面の表示は105マイル、又メジャーが全球場で統一採用している測定器では102マイルという数値でした。従ってメジャー機構としてはかってジョエルズマヤの104.8マイルやチャップマン自身の105.1マイルの記録を超えている訳ではなく、新記録(?)扱いはしないみたいです。ここにスピードガンの欠点と言うか限界があるかと思います。各球場同じ機械で測定しても、設置場所の条件まで同じという事はあり得ないと思います。日本でも由規投手が161kmの最速を出した時、テレビ表示は152kmだったらしいです。前述の様にかなり差の出ている例もかなりあり、厳しく考えれば、スピードガンはあくまでもどの位の球速かの目安と見るべきかもしれません。

2000奪三振(9)

2011-04-26 13:06:10 | Weblog
2000奪三振達成者の通算奪三振率を見ると、必ずしも高い投手だけではありません。これは2000以上の三振を奪う為には、若い頃の速球を主体とした投球スタイルから脱皮、モデルチェンジをしないと、かなり困難な事を表していると思います。その結果通算での奪三振率は低くなった投手は多いものです。しかしそれらの投手の若い頃の例えば5年間とか,1000奪三振までのイニング数とか調べるとやはりかなり凄いペースで記録しています。代表的な例が快速左腕鈴木啓示だと思います。堀内恒夫と同じ高卒同期入団の彼は、堀内恒夫とは比較の対象にならない程三振を奪う力がありました。昭和41年,189イニングで160奪三振、奪三振率7.62と当時の投手としては物凄く三振の奪える投手としてデビューしました。その翌年から6年連続奪三振王となり、セリーグの江夏豊投手と並び、この当時奪三振と言えばこの2人と言ってもいいかと思える時代だったと思います。2年目に右脚をより高く上げる様になり、脚のあまり上がらない金田正一の省エネな投球フォームと異なり、かなりダイナミックな投球フォームに変身し。この投手はこのままのフォームでいつまで投げ続けるのか妙に心配したものです。

スピードガン(1)

2011-04-25 20:41:51 | Weblog
スピードガンが日本に登場して約30年余りになるかと思います。スピードガン導入当時、中日ドラゴンズの小松辰雄投手が150km台の快速球を投げて、スピードガンの申し子と呼ばれ、非常に話題を呼んでいました。ある意味この時代から、計測による投手の球速ランキング付けが始まったと言えるかと思います。それ以前の投手に関しては、打者や捕手、或いは主審等の直接目の当りにする球の速さ、つまり体感速度や、我々ファンが球場やテレビで見て投手の球速をどの位と感じるかによって、速球投手ランキングが決められていた様に思います。つまり客観的な数字の裏付けは全くありませんでした。その為か、自称快速球投手の自慢話は数多くありました。このブログでも執念深く触れている金田正一投手の場合、勿論本当に速かったのですが、今なお世界一の快速球投手と自負している様です。確かに彼の球が速かったのは事実なのですが、メジャーも含めて最速の記録が変更される都度、彼の球速がアップするのには怒りを通り越して、そのプライドを賞賛したくも思うものです。

2000奪三振(8)

2011-04-24 16:38:55 | Weblog
通算2000奪三振達成者は現在19人に対し、通算200勝達成者は24人います。単純に数だけで言えば、2000奪三振の方が難しいとも言えるかも知れませんが、実際はどうなのでしょうか?少し調べて見たく思います。200勝を達成順に調べますと、7人目の金田正一が初めて2000奪三振を記録しています。彼より年長の6人は誰一人として達成していません。その内には、球が速かったと言われていた人や、自称速かった人、速さに関してはあまり評価されていない人等いますが、概してその時代の投手の奪三振率は非常に低いものでした。投球イニング数が非常に多かった為、奪三振の数自体増えていた訳ですが、本当の意味での三振を奪う力はなかったと言えるのでしょう。三振も奪い、勝ち星も挙げる状態を長く保ってきた初の投手が、矢張りあの金田正一という事なのでしょう。ここにも彼の偉大さが現れているかと思います。その後200勝、2000奪三振双方達成者は現在までに13人います。その内で、球が決して速くはないと言える投手は山本昌投手しか思い浮かびません。他の12人は皆球速には高い評価を受けていました。200勝以上で2000奪三振以下の投手ですが、上記の6人以外では北別府学、東尾修、皆川睦雄等前述の堀内恒夫を除き、その球速を考えれば納得いくものと思えます。それにしても山本昌という投手、傑出したシーズンはなくとも、もっともっと高く評価されて然るべきかと思えてなりません。

2000奪三振(7)

2011-04-23 15:34:00 | Weblog
通算2000個以上の三振を奪った投手の多くは、最も球の速い時期であると思われる若い時代、或いは一流投手に育った時に、奪三振の数も率も優れている数字を残す投手が多いものです。至極当たり前の事を言っている様に思う方が多いかと思いますが、実際はそうではない投手が二人存在すると思います。一人は400勝投手、金田正一です。彼は入団2年目から20勝以上を連続して挙げ、エースとして素晴らしい成績なのですが、彼としては意外にもこの入団2年目から5年目までの間には、一回たりとも300奪三振に達していません。その後6年目から10年目は、毎年300以上の三振を奪っています。その頃の彼の投球を数字で見ると、明らかに四死球の数が減って来ています。つまり制球が良くなり、従来ボールだった球がストライクになり、類稀な球威と上手く合致し、より多く三振を奪える投手になったかと思います。根性主義の彼の事ですから、制球が良くなった事による、投球術の進歩の割合はあまり高くないかと思います。もう一人は川口和久です。彼の球は非常に速いものでしたが、抜群の球速ではなかったかと思います。彼の場合も入団6年目頃から、奪三振、成績がアップしてきています。彼の場合は、切れ味鋭いスライダーを巧く活用する投球術の習得にあるかと思います。当時の彼は、打者の視界から消え去るかの如く変化するスライダーで多く三振を奪っていたものです。つまりこの二人の奪三振アップには、制球や変化球の要素が多く絡んでいる様に思えてなりません。

2000奪三振(6)

2011-04-22 22:35:14 | Weblog
昭和30年代中頃、大きく割れるカーブの持ち主として必ず名前が挙げられていたのが左腕、権藤正利投手です。公称177cm,60kgと物凄く細身の体型も有名で、一見プロ野球の選手とは思えない感じでした。スリークオーターより投じられるカーブは物凄く大きく割れていた記憶があります。残念ながら、球も結構速かったと言われ、200個以上の三振を奪っていた頃の彼の投球は見ていません。この権藤正利も堀内恒夫より通算で500イニング以上少ないながらも、100個近く多い三振を奪っています。あくまでも推測ですが、権藤正利の球速が堀内恒夫より、速いとは思えず、又カーブの切れが上回っていたとは思えないものです。工藤公康投手も大きなカーブと切れの良い速い球を武器にし、歴代7位の2859奪三振を誇っている左腕投手で、奪三振率も堀内恒夫を遥かに上回っていますが、球速、カーブの切れで凌いでいるとは思えないものです。以上色々と比較したり、考えて見ましたが、正直何故彼の奪三振率が低いのか、もう一つ解らないのが現状です。強いて言えるとしたらあまりにも切れの鋭いカーブの為、打者が見送ったり、手が出なかったりした球が、その制球の悪さの為か、ボールになってしまった可能性はあるかと思いますが、当然何らかの方法でアウトをとっているのだから、説明にはなり得ないと思います。堀内恒夫の制球や投球術は、入団5,6年目頃からかなり良くはなって来ましたが、その当時の多くの投手がそうである様に、球速もその頃から落ちて来た為、結果的に投球術と球速が相殺され、常に決して高くはない奪三振率に終わった投手と言えるのでしょう。

2000奪三振(5)

2011-04-21 22:28:41 | Weblog
堀内恒夫の投球フォームですが、三振を奪うのに欠ける点は特にないと思います。球に威力がありながら三振を奪えない投手の多くは、右腕の引きとか動きが打者に見え易かったり、腰の捻りが鈍い為か、打者に正対した投球フォームになり、押し出す様な投球をするタイプが多いものです。堀内恒夫のフォームは決してそうではなかったと思います。彼と同じ様に速いストレートと大きく割れるカーブを武器とする、比較的似たタイプの投手で比較して見ます。先ずはほぼ同時期に活躍した外木場義郎投手です。決して大きくはない体格ながらも、十分に上体のタメを活かしたスリークォーター気味の投球フォームからの、重く速い球が武器の投手です。投手としてのイメージはやはり異なるものですが、球速、大きく割れるカーブの威力等、遜色のないものがありました。外木場義郎はその武器を巧く活かし、初の20勝を挙げた昭和43年には、自己最高の260個の三振を奪う等、球に物凄く威力のあったシーズンは江夏豊に次ぐ奪三振数を記録する力を見せており、堀内恒夫より三振を奪う力はかなり上だったと思います。二人を比較すると四死球を出さない制球力の差でしょうか?外木場義郎とて精密な制球力がある訳ではないのですが、かなり多くの四死球を献上する堀内恒夫より制球に関しては優れていたと思います。