いよいよ待望の『今里純野球展』が、1月17日~2月26日の会期で、西脇市立郷土資料館で開催されました。
今里純氏は、西脇市で歯科医院を開業されていました。歯科医師として働く傍ら、大リーグの全球団と常に連絡をして情報を集め、それを日本の球団や選手に提供されていました。
戦後間もない1946年、大阪歯科大学生の頃から、今里氏は進駐軍向けの短波放送で大リーグ中継を聴いて試合のスコアをつけていたそうです。そして、彼は放送局へ手紙を書き、何度も連絡を重ねるうちに、「ドクター・イマザト」の名前が、大リーグ各球団に知られるようになりました。
その後、1963年の阪神タイガースがフロリダキャンプを行うに当たっての下交渉や同行、大リーグが来日した時の通訳等、大リーグの関係する多くのことを西脇に住む今里さんを経由して行われていたそうです。
私は、今里氏のことを竹本武志先生から聞きました。竹本先生は、『大リーグ研究に生涯をかけた今里純実行委員会」委員長として、今回の野球展の開催にまでこぎつけられました。大変なご苦労があったと思いますが、竹本先生の熱い志に、心より賛辞を贈りたいと思います。
今回の野球展には、ハンク・アーロンほかサイン入りのバット13本、メジャーリーグ選手サイン入りボール166個、日本プロ野球選手サイン入りボール164個、キルブリュー選手ほかのユニホーム5着、鈴木啓志選手ほかのジャンパー・Tシャツ9着、帽子32個、色紙38枚、アルバム60冊などなど、大リーグ・日本プロ野球の素晴らしい記念になる品物ばかりです。大変見ごたえがありました。
今里氏は、2003年に74歳の生涯を閉じられています。「今回の企画展が、日米野球の橋渡し役として大きく貢献された今里純氏の功績に対し、市民として少しではあるが報いることができたならばこの上ない喜びである」と竹本先生は話されています。ぜひ、皆さん、見学に行ってあげてください。
今里純氏は、西脇市で歯科医院を開業されていました。歯科医師として働く傍ら、大リーグの全球団と常に連絡をして情報を集め、それを日本の球団や選手に提供されていました。
戦後間もない1946年、大阪歯科大学生の頃から、今里氏は進駐軍向けの短波放送で大リーグ中継を聴いて試合のスコアをつけていたそうです。そして、彼は放送局へ手紙を書き、何度も連絡を重ねるうちに、「ドクター・イマザト」の名前が、大リーグ各球団に知られるようになりました。
その後、1963年の阪神タイガースがフロリダキャンプを行うに当たっての下交渉や同行、大リーグが来日した時の通訳等、大リーグの関係する多くのことを西脇に住む今里さんを経由して行われていたそうです。
私は、今里氏のことを竹本武志先生から聞きました。竹本先生は、『大リーグ研究に生涯をかけた今里純実行委員会」委員長として、今回の野球展の開催にまでこぎつけられました。大変なご苦労があったと思いますが、竹本先生の熱い志に、心より賛辞を贈りたいと思います。
今回の野球展には、ハンク・アーロンほかサイン入りのバット13本、メジャーリーグ選手サイン入りボール166個、日本プロ野球選手サイン入りボール164個、キルブリュー選手ほかのユニホーム5着、鈴木啓志選手ほかのジャンパー・Tシャツ9着、帽子32個、色紙38枚、アルバム60冊などなど、大リーグ・日本プロ野球の素晴らしい記念になる品物ばかりです。大変見ごたえがありました。
今里氏は、2003年に74歳の生涯を閉じられています。「今回の企画展が、日米野球の橋渡し役として大きく貢献された今里純氏の功績に対し、市民として少しではあるが報いることができたならばこの上ない喜びである」と竹本先生は話されています。ぜひ、皆さん、見学に行ってあげてください。
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