守田です。(20110911 02:00)
911事件から10年目の日を迎えました。戦争と暴力の10年を思いつつ、この
日の記事として、放射線被曝のことについて触れたいと思います。
9月8日に東京で行われた「講演会 さよなら原発」において、発言者の一人
大江健三郎さんが肥田さんのこれまでの活動に言及され、その中で『世界』
紙上で、僕が肥田さんに対して行ったインタビュー記事のことに触れて下さ
いました。以下から当該発言部分が観れます。どうかご覧下さい。
http://www.ustream.tv/recorded/17137373
大江さんはまず、アメリカのジェイ・M・グールドが書いた『死にいたる
虚構』について触れています。「明日に向けて」でも何度か紹介してきた
もので、肥田さんが執念で訳された本です。グールドはこの中で、アメリカ
の被曝の実態について述べている。
大江さんはこの本に大変感銘を受け、ノーベル賞を受賞した時に授賞式の
行われるストックホルムにもっていき、ホテルで隣り合わせたノーベル物理
学賞の受賞者にその内容を提示したそうです。するとフランス出身の物理学
者は大江さんに同意してくれましたが、もう一人の受賞者は、大江さんの
ことをノーベル賞受賞者の風上にもおけないといったとか。
続いて大江さんは、肥田さんが、原爆による体内被曝の恐ろしさを訴え続け
てきたことを紹介しています。またグールドの本の内容にも触れて、アメリ
カが隠してきた低線量被曝の危険性を力強く訴えています。ここで大江さん
は、これら肥田さんの訳された本が、今後、次々と出て来る・・・と注目
すべきことを語られている。あらたな出版の動きがあるのかもしれません。
さて大江さんはさらに『世界』9月号のインタビューに触れて、次のように
紹介して下さいました。「『放射能との共存時代を前向きに生きる』という
文章は必読の文章であります。とくに福島の子どもたち、お母さんたちには
最良の支えとなるでしょう。ここにもきてくださっている若いお母さんの
ために、私は最も有効な励ましになるものだと思っています。」
そして大江さんは、このインタビューの中で、肥田さんが放射線被曝の恐ろ
しさを語りつつ、しかし被曝したらどうするのか、被爆者に力強い励ましを
行ってこられたことに触れ、とくにインタビューに掲載した、肥田さんが
信頼するアメリカのアーネスト・スターングラス教授から教わった言葉を、
読みあげて下さいました。
それは次のような言葉です。
「そういう被害をもう受けてしまったのなら、腹を決めなさいということな
のです。開き直る。下手をすると恐ろしい結果が何十年かして出るかもしれ
ない、それを自分に言い聞かせて覚悟するということです。」
「その上で、個人の持っている免疫力を高め、放射線の害に立ち向かうのです。
免疫力を傷つけたり衰えさせたりする間違った生活は決してしない。多少でも
免疫力を上げることに効果があることは、自分に合うことを選んで一生続ける。
あれこれつつくのは愚の骨頂。一つでもいい。決めたものを全力で行う。
要するに放射線被曝後の病気の発病を防ぐのです。」
さらに大江さんは次のように続けられました。
「今の肥田舜太郎氏の言葉を引き出したインタビューアーの質問への先生の
最初の明瞭な意志表示を、私の話の8番目に短いものですが引用します。
『一つは放射線の出るもとを断ってしまうことです。これが肝心です。』これ
が肥田先生の結論なんです。放射線の出るもと、この国の54基の原子炉の全廃
を、国家につきつけようじゃありませんか」・・・。
大変、感慨深く大江さんの講演を聞きました。もちろん大江さんが深く共感さ
れているのは、肥田さんの生き方に支えられた力強い言葉であり、僕はそれを
媒介したに過ぎません。それでもそこに関われたことが素直に嬉しいです。
同時になんとも不思議な縁を感じます。というのはこの大江さんの講演内容に
触れたとき、ちょうど僕は大江さんが1963年から65年に書かれた『ヒロシマ・
ノート』を読んでいたからです。しかもそのきっかけは、『世界』のインタ
ビューを読んだ被曝3世の友人が、原爆病院の歴史などを知って欲しいと、僕に
同書を送ってきてくれたことをきっかけとしています。
そもそも『ヒロシマ・ノート』は、『世界』に大江さんが綴ったものを新書に
まとめて出版したものです。当時、20代末から30歳に至ろうとしていた大江
さんは、若く、ナイーブなフランス文学者であり、新進気鋭の小説家でした。
その大江さんと、岩波編集者の安江良介さんが、連れだって広島を訪れる
ところから同書は始まっています。
そのとき二人は個人的にも辛い状態にあったことから同書は書きだされてい
ます。「僕については、自分の最初の息子が瀕死の状態でガラス箱のなかに横
たわったまま恢復のみこみはまったくたたない始末であったし、安江君は、
かれの最初の娘を亡くしたところだった。そして、われわれの共通の友人は、
かれの日常の課題であった核兵器による世界最終戦争のイメージにおしつぶ
されたあげく、パリで縊死してしまっていた。」(同p2)
しかもこのときの広島は、原水爆禁止運動が分裂していく中にありました。い
きおい同書は暗いトーンで進んでいきます。被爆者の過酷な現状とも相まって、
押しつぶされるような、重苦しい現実が横たわっている。そこに飛び込み、
人々の表情の中にうつりゆくものを作家は読みとろうと、全身を鋭敏な受信機
と化して、街を歩いてゆくのです。
さらにヒロシマへの訪問は何度も重ねられていきます。大江さんは米軍占領下で、
長年にわたって蓋をされ、ようやく明らかになりだしてから10年に満たない被爆
者たちの苦しみ、痛み、嘆きのつぶやきに寄り添おうとしてゆく。同時にその
現実に立ち向かわんとする医師たちのたたかいに、共感を深めていきます。
「モラリストの広島」という章から少し内容を紹介します。
「(中国新聞が)、自殺するよりももっと悪い深淵におちこんでしまったひとり
の老人についてつたえている。新聞記者がこの老人を訪ねて行った時、老人は
87歳だった。それより3年前、かれの孫は原爆症で死に、そして老人は、発狂して
(ママ)ずっとそのままだ。青年の両親はすでに死亡していたから、老人は、
かれの孫を独力で育ててきた。青年は東京の大学に入学したが、経済的にゆきづ
まって中退し、広島にかえり、そしてまもなく原爆病院で苦しい死をむかえたの
である。老人が東京の孫にどうしても送金できなくなった時、青年は職をさがす
べくつとめたのだが、すでにかれの体は労働に耐えることのできるものはなかった。
広島に戻ってからのかれはつねに疲労していて、ただ寝そべっていた。そして
青年が視力のおとろえに気づいた時、医者は彼の眼のみならず、腎臓がおかされ
白血球の数も減少していることを見出した。やがて青年は、眼底出血で失明し、
一ヶ月後、新聞の記述によれば、血のヘドを吐き、泣き叫びつづけ、もがき苦し
み、それから突然に静かになって≪寂しいよ、寂しいよ≫といい、そして
≪アーアーアー≫と三回泣きじゃくって、息をひきとったのであった、この
限りなく過酷な死。」
「青年の死のあと、永い期間、老人はじっと黙りこんで仏壇のまえに座ったまま
日をおくっていた。それから不意にかれは死んだ孫にむかって語りかけはじめ、
もう決して沈黙しなかったのである。≪あんた、10円の金がないいうたよのう。
あのときあさましい思いをしたんじゃろうのう、隆ちゃん≫、老人が青年の思い
出にむかって語りかける言葉はつねに金銭に関してであり、金銭的な困窮による
あさましい思いについてである。≪あんたが自転車を売るというたとき、おじい
さんはおこらずに売らせてやればよかったのう。隆ちゃん、ゼニがいったんじゃ
ろうにかわいそうにのう。≫死んだ青年は老人にとって、かれ自身の死のときに
いたるまで(そしてそれは発狂した老人にとって永劫回帰の永遠にかかわってと
いうことだが)つねに、金銭的な困窮によるあさましい思いになやまされている。
それを悔みつづけるこの老人の内部におけるほどにも、絶対に恢復不能のまさに
あさましい絶望があるだろうか?」(同p77,78)
被曝の苦しみに身を焼かれる被爆者の苦しみを前に、作家は無力であり、ただ彼は
必死になって、その痛みを自分のものにしようとしていきますが、まさにそれゆえ
に、作家自身もまた展望を見いだせず、苦しみ、もがいていきます。それはときに
読み手をして、作家はナイーブにすぎるのではないかという思いも感じさせてしま
います。しかし作家はそこから逃げ出そうとはしない。全身で痛みを共有し、痛み
そのものになりきっていく。「痛みをシェアする」。作家はおそらく無自覚な選択
としてその道を歩み、自らを被爆者たちの痛みの中にくぎ付けにしたのだと思います。
そこからすでに45年。その年月を大江さんがどのようにすごされてきたのか、僕は
良く知りません。また大江さんが今、『ヒロシマ・ノート』を読まれてどのように
思うのかも僕にはよく分からない。
ただこのように被爆者の痛みに寄り添おうとしてきた大江さんだからこそ、僕は
今回のインタビューの中で、肥田さんが次のように語られたことに、深く共感され
たのではないかと思うのです。
肥田さんはこう語られました。
「一番不幸を背負って、誰にも助けることができない広島・長崎の被爆者に、
きちんと理屈を説明し、自分の身体を自分で守って放射線の影響と闘って、授けら
れた寿命いっぱい生きるのがあなたの任務だと悟らせ、勇気を持って生きさせるの
が正しい援助なのです。お金やものをあげるのは邪道だ。本人の生き方を変える。
そこまで僕は教わってきました。」
肥田さんのお話を聞いた時に、僕はその前向きな姿勢、力強い姿勢に深く感動しま
した。しかし大江さんの『ヒロシマ・ノート』を読むことで、あらためてそれが、
本当に過酷な運命を背負った被爆者の方たち、その嘆き、苦しみ、涙を共に越える
中から紡ぎだされた言葉であることをあらためて知る思いがしました。
そして今、思うのは、私たちもまた、私たちの前にあるさまざまな嘆き、苦しみ、
涙を越えながら、このように強く、逞しくなっていく必要があるし、きっとまた、
なれるだろうということです。なぜって私たちには素晴らしい先達がいるから。
広島・長崎から紡がれてきたものを私たちは受け取って未来に投げればいいのだと
僕は思います。それもきっとまた未来世代に受け継がれていく。私たちはけして
放射能だけを未来に送るのではないのです。
大事なのは勇気と優しさ、そして諦めない心なのだと思います。
・・・ゆっくりでも、互いに励まし合って、前に進んで行きましょう。
911事件から10年目の日を迎えました。戦争と暴力の10年を思いつつ、この
日の記事として、放射線被曝のことについて触れたいと思います。
9月8日に東京で行われた「講演会 さよなら原発」において、発言者の一人
大江健三郎さんが肥田さんのこれまでの活動に言及され、その中で『世界』
紙上で、僕が肥田さんに対して行ったインタビュー記事のことに触れて下さ
いました。以下から当該発言部分が観れます。どうかご覧下さい。
http://www.ustream.tv/recorded/17137373
大江さんはまず、アメリカのジェイ・M・グールドが書いた『死にいたる
虚構』について触れています。「明日に向けて」でも何度か紹介してきた
もので、肥田さんが執念で訳された本です。グールドはこの中で、アメリカ
の被曝の実態について述べている。
大江さんはこの本に大変感銘を受け、ノーベル賞を受賞した時に授賞式の
行われるストックホルムにもっていき、ホテルで隣り合わせたノーベル物理
学賞の受賞者にその内容を提示したそうです。するとフランス出身の物理学
者は大江さんに同意してくれましたが、もう一人の受賞者は、大江さんの
ことをノーベル賞受賞者の風上にもおけないといったとか。
続いて大江さんは、肥田さんが、原爆による体内被曝の恐ろしさを訴え続け
てきたことを紹介しています。またグールドの本の内容にも触れて、アメリ
カが隠してきた低線量被曝の危険性を力強く訴えています。ここで大江さん
は、これら肥田さんの訳された本が、今後、次々と出て来る・・・と注目
すべきことを語られている。あらたな出版の動きがあるのかもしれません。
さて大江さんはさらに『世界』9月号のインタビューに触れて、次のように
紹介して下さいました。「『放射能との共存時代を前向きに生きる』という
文章は必読の文章であります。とくに福島の子どもたち、お母さんたちには
最良の支えとなるでしょう。ここにもきてくださっている若いお母さんの
ために、私は最も有効な励ましになるものだと思っています。」
そして大江さんは、このインタビューの中で、肥田さんが放射線被曝の恐ろ
しさを語りつつ、しかし被曝したらどうするのか、被爆者に力強い励ましを
行ってこられたことに触れ、とくにインタビューに掲載した、肥田さんが
信頼するアメリカのアーネスト・スターングラス教授から教わった言葉を、
読みあげて下さいました。
それは次のような言葉です。
「そういう被害をもう受けてしまったのなら、腹を決めなさいということな
のです。開き直る。下手をすると恐ろしい結果が何十年かして出るかもしれ
ない、それを自分に言い聞かせて覚悟するということです。」
「その上で、個人の持っている免疫力を高め、放射線の害に立ち向かうのです。
免疫力を傷つけたり衰えさせたりする間違った生活は決してしない。多少でも
免疫力を上げることに効果があることは、自分に合うことを選んで一生続ける。
あれこれつつくのは愚の骨頂。一つでもいい。決めたものを全力で行う。
要するに放射線被曝後の病気の発病を防ぐのです。」
さらに大江さんは次のように続けられました。
「今の肥田舜太郎氏の言葉を引き出したインタビューアーの質問への先生の
最初の明瞭な意志表示を、私の話の8番目に短いものですが引用します。
『一つは放射線の出るもとを断ってしまうことです。これが肝心です。』これ
が肥田先生の結論なんです。放射線の出るもと、この国の54基の原子炉の全廃
を、国家につきつけようじゃありませんか」・・・。
大変、感慨深く大江さんの講演を聞きました。もちろん大江さんが深く共感さ
れているのは、肥田さんの生き方に支えられた力強い言葉であり、僕はそれを
媒介したに過ぎません。それでもそこに関われたことが素直に嬉しいです。
同時になんとも不思議な縁を感じます。というのはこの大江さんの講演内容に
触れたとき、ちょうど僕は大江さんが1963年から65年に書かれた『ヒロシマ・
ノート』を読んでいたからです。しかもそのきっかけは、『世界』のインタ
ビューを読んだ被曝3世の友人が、原爆病院の歴史などを知って欲しいと、僕に
同書を送ってきてくれたことをきっかけとしています。
そもそも『ヒロシマ・ノート』は、『世界』に大江さんが綴ったものを新書に
まとめて出版したものです。当時、20代末から30歳に至ろうとしていた大江
さんは、若く、ナイーブなフランス文学者であり、新進気鋭の小説家でした。
その大江さんと、岩波編集者の安江良介さんが、連れだって広島を訪れる
ところから同書は始まっています。
そのとき二人は個人的にも辛い状態にあったことから同書は書きだされてい
ます。「僕については、自分の最初の息子が瀕死の状態でガラス箱のなかに横
たわったまま恢復のみこみはまったくたたない始末であったし、安江君は、
かれの最初の娘を亡くしたところだった。そして、われわれの共通の友人は、
かれの日常の課題であった核兵器による世界最終戦争のイメージにおしつぶ
されたあげく、パリで縊死してしまっていた。」(同p2)
しかもこのときの広島は、原水爆禁止運動が分裂していく中にありました。い
きおい同書は暗いトーンで進んでいきます。被爆者の過酷な現状とも相まって、
押しつぶされるような、重苦しい現実が横たわっている。そこに飛び込み、
人々の表情の中にうつりゆくものを作家は読みとろうと、全身を鋭敏な受信機
と化して、街を歩いてゆくのです。
さらにヒロシマへの訪問は何度も重ねられていきます。大江さんは米軍占領下で、
長年にわたって蓋をされ、ようやく明らかになりだしてから10年に満たない被爆
者たちの苦しみ、痛み、嘆きのつぶやきに寄り添おうとしてゆく。同時にその
現実に立ち向かわんとする医師たちのたたかいに、共感を深めていきます。
「モラリストの広島」という章から少し内容を紹介します。
「(中国新聞が)、自殺するよりももっと悪い深淵におちこんでしまったひとり
の老人についてつたえている。新聞記者がこの老人を訪ねて行った時、老人は
87歳だった。それより3年前、かれの孫は原爆症で死に、そして老人は、発狂して
(ママ)ずっとそのままだ。青年の両親はすでに死亡していたから、老人は、
かれの孫を独力で育ててきた。青年は東京の大学に入学したが、経済的にゆきづ
まって中退し、広島にかえり、そしてまもなく原爆病院で苦しい死をむかえたの
である。老人が東京の孫にどうしても送金できなくなった時、青年は職をさがす
べくつとめたのだが、すでにかれの体は労働に耐えることのできるものはなかった。
広島に戻ってからのかれはつねに疲労していて、ただ寝そべっていた。そして
青年が視力のおとろえに気づいた時、医者は彼の眼のみならず、腎臓がおかされ
白血球の数も減少していることを見出した。やがて青年は、眼底出血で失明し、
一ヶ月後、新聞の記述によれば、血のヘドを吐き、泣き叫びつづけ、もがき苦し
み、それから突然に静かになって≪寂しいよ、寂しいよ≫といい、そして
≪アーアーアー≫と三回泣きじゃくって、息をひきとったのであった、この
限りなく過酷な死。」
「青年の死のあと、永い期間、老人はじっと黙りこんで仏壇のまえに座ったまま
日をおくっていた。それから不意にかれは死んだ孫にむかって語りかけはじめ、
もう決して沈黙しなかったのである。≪あんた、10円の金がないいうたよのう。
あのときあさましい思いをしたんじゃろうのう、隆ちゃん≫、老人が青年の思い
出にむかって語りかける言葉はつねに金銭に関してであり、金銭的な困窮による
あさましい思いについてである。≪あんたが自転車を売るというたとき、おじい
さんはおこらずに売らせてやればよかったのう。隆ちゃん、ゼニがいったんじゃ
ろうにかわいそうにのう。≫死んだ青年は老人にとって、かれ自身の死のときに
いたるまで(そしてそれは発狂した老人にとって永劫回帰の永遠にかかわってと
いうことだが)つねに、金銭的な困窮によるあさましい思いになやまされている。
それを悔みつづけるこの老人の内部におけるほどにも、絶対に恢復不能のまさに
あさましい絶望があるだろうか?」(同p77,78)
被曝の苦しみに身を焼かれる被爆者の苦しみを前に、作家は無力であり、ただ彼は
必死になって、その痛みを自分のものにしようとしていきますが、まさにそれゆえ
に、作家自身もまた展望を見いだせず、苦しみ、もがいていきます。それはときに
読み手をして、作家はナイーブにすぎるのではないかという思いも感じさせてしま
います。しかし作家はそこから逃げ出そうとはしない。全身で痛みを共有し、痛み
そのものになりきっていく。「痛みをシェアする」。作家はおそらく無自覚な選択
としてその道を歩み、自らを被爆者たちの痛みの中にくぎ付けにしたのだと思います。
そこからすでに45年。その年月を大江さんがどのようにすごされてきたのか、僕は
良く知りません。また大江さんが今、『ヒロシマ・ノート』を読まれてどのように
思うのかも僕にはよく分からない。
ただこのように被爆者の痛みに寄り添おうとしてきた大江さんだからこそ、僕は
今回のインタビューの中で、肥田さんが次のように語られたことに、深く共感され
たのではないかと思うのです。
肥田さんはこう語られました。
「一番不幸を背負って、誰にも助けることができない広島・長崎の被爆者に、
きちんと理屈を説明し、自分の身体を自分で守って放射線の影響と闘って、授けら
れた寿命いっぱい生きるのがあなたの任務だと悟らせ、勇気を持って生きさせるの
が正しい援助なのです。お金やものをあげるのは邪道だ。本人の生き方を変える。
そこまで僕は教わってきました。」
肥田さんのお話を聞いた時に、僕はその前向きな姿勢、力強い姿勢に深く感動しま
した。しかし大江さんの『ヒロシマ・ノート』を読むことで、あらためてそれが、
本当に過酷な運命を背負った被爆者の方たち、その嘆き、苦しみ、涙を共に越える
中から紡ぎだされた言葉であることをあらためて知る思いがしました。
そして今、思うのは、私たちもまた、私たちの前にあるさまざまな嘆き、苦しみ、
涙を越えながら、このように強く、逞しくなっていく必要があるし、きっとまた、
なれるだろうということです。なぜって私たちには素晴らしい先達がいるから。
広島・長崎から紡がれてきたものを私たちは受け取って未来に投げればいいのだと
僕は思います。それもきっとまた未来世代に受け継がれていく。私たちはけして
放射能だけを未来に送るのではないのです。
大事なのは勇気と優しさ、そして諦めない心なのだと思います。
・・・ゆっくりでも、互いに励まし合って、前に進んで行きましょう。