Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちが死んだ後も完全に消えるわけではないという三つの理由、人は死んだ後どうなるか

2022年12月22日 | お説教・霊的講話

死についての説教

2022年11月13日 ドモルネ神父

はじめに

11月に入って、秋が深まり、葉が落ち、寒くなる季節になりました。この季節は、死について黙想するのに適しています。葉が色づいて落ちるように、私たちは年を取って、この世での人生の終わりに向かっています。また、寒さが次第に大気中に入り込んでくるように、死という寒さも、ますます私たちに近づいてきます。11月2日に、私たちは死せる信者の記念を行いました。この記念は、いつか私たちにも死ぬ番が来ることを思い起こさせるものです。墓地を訪れると、いつか自分もそこに入るのだと思わずにはいられません。今日は、私たちの人生の中で最も重要な瞬間、私たちの将来全体を決定づける瞬間、つまり私たちの死についてお話しします。

死ですべてが終わるのではない

私たちの人生でただひとつ、絶対に確実なことは、私たちはいつか死ぬということです。いつ、どこで、どのように死ぬかは分かりませんが、私たちは皆、いつか死ぬということだけは絶対に確実です。そうすると、当然生じる疑問があります。死んだ後は、どうなるのでしょうか?

ある人は、「すべては終わり、死んだ後には、全く何もなくなる」と言います。私たちが死ぬと、私たちは消えてしまい、無に帰するというのです。私たちの人生は、まるでまったく存在しなかったかのように消えていく船の航跡のようなものだというのです。これは真実ではありません。また、それはカトリック教徒でなくても理解できることです。その理由の一つは、私たちが肉体だけでできているのではなく、肉体と霊魂でできていることです。私たちの肉体は、壊れたり消耗したりする物質的要素でできているため、死んでしまいます。しかし、私たちの霊魂は、そのような要素でできているのではありませんから、死ぬことはできません。私たちの霊魂は霊的なものであり、壊れ得ませんし、当然不滅のものです。したがって、死に際して、私たちの肉体は死にますが、霊魂は死なないのです。

また、私たちが死ねば、完全に消えてしまう、というのも間違いです。なぜなら、それは、私たちの内にある最も深遠な望み、すなわち完全な幸福、つまり生きたい、永遠に生きたい、という望みと矛盾しているからです。実際、私たちの幸福が、ある日終わってしまうものであるならば、それは完全な幸福でではあり得ません。もし、私たちが死ねば完全に消えてしまうのなら、それは、私たちの、生きたい、という計り知れないほど大きな望みが、空しいものであることを意味します。しかし、それは、私たちの周りの宇宙で見られることと矛盾しています。宇宙を見れば、すべての生きものの自然な傾向が満足させられていることが分かります。たとえば、どんな動物にも、ある特定の食べ物を望む自然な傾向があり、実際、その動物は、その食べ物を見つけることができるのです。同じように、人間には終わりなき命を望む自然な傾向があります。ですから、人間には、終わりなき命がなければならないのです。

私たちが死んだ後も完全に消えるわけではない、という第三の理由があります。この理由は正義です。なぜなら、悪い人々が、この地上で生きている間には、彼らにふさわしい罰を受けないことがあり、逆に、良い人々が、この地上で生きている間には、彼らにふさわしい報いを受けないことがあるのを、私たちは見ているからです。もし、私たちが死んだ後、完全に消えてしまうとすれば、悪人は罰せられず、善人は報われない、ということになるでしょう。このような考えは、不正義を助長することに等しく、ぞっとするものであるだけでなく、私たちが知っている宇宙の秩序とも矛盾しています。

死んだ後どうなるか

確実なのは、私たちは死んだ後、無となって消え去るのではない、ということです。では、死んだ後はどうなるのでしょうか? この問題は、私たちの将来全体に関係することであり、すべての人に関わることですから、非常に重要です。ある人はこう言います。「死の瞬間に、実際どうなるかわかるだろう」。しかし、そんなことを言うのがいかに愚かなことか、誰もが理解しています。それは、自分のお金を使い切る人が、「私のお金が全部なくなったときに、実際どうなるかわかるだろう」と言うようなものです。ある人は「自分は何かに生まれ変わる」と信じていますし、またある人は「自分は全宇宙に融合する」と信じています。死んだ後どうなるかについては、さまざまな信念があります。しかし、これらの信念が正しいという証拠が存在しないだけでなく、そのような信念は、多かれ少なかれ馬鹿げたものです。

私たちが死んだ後どうなるかを知るためには、私たちに命を与えてくださったお方から、教えていただかなければなりません。実際のところ、私たちの命は、私たちのものではありません。私たちは、自分自身に命を与えたのではなく、命を受けたのです。それは、誰からでしょうか? 最初の存在、つまり誰からも命を受けない存在であり、宇宙と私たちの命と存在の源であるお方からです。この最初の存在が天主です。私たちに命を与えてくださった天主は、私たちの存在の目的が、天主を知り、天主を愛し、地上で天主に仕えることで、天主の永遠の命と幸福にあずかるにふさわしい者となることであることを、啓示されました。私たちの主イエズス・キリストは、このすべてを教え、その教えが真実であることを証明する、多くの奇跡を行われました。イエズス・キリストは、ご自分の教会であるカトリック教会を通して、このすべてを教え続け、今日もこの教えの真理を証明する多くの奇跡を起こし続けておられます。死んだ後、私たちは裁かれます。聖パウロは、「人間は、一度だけ死んで、その後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)と言っています。天主を知り、愛し、この世で仕えた人は報われ、そうすることを拒んだり、怠ったりした人は罰せられるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、皆さんは、すでに、このことをすべてご存知です。しかし、私たちは、死んだ後の実際の結果を、簡単に忘れてしまいます。私たちの死の時には、私たちの富は何の役にも立たず、私たちの学歴や学位も何の役にも立たず、私たちの職業上の業績も何の役にも立たず、私たちの社会的関係も何の役にも立たないのです。私たちの死の時に重要な唯一のことは、その時の、私たちの天主への愛の強さなのです。ですから、学業や仕事を理由に天主に対する義務を怠ることは、なんと愚かなことでしょうか。私たちは、時間を無駄にしてはなりません。一日一日、私たちは死に近づいているのです。過ぎ去っていく一日一日は、二度と戻ってきません。ですから、私たちは毎日、天主への愛を育んでいかなければなりません。では、どのようにすればよいのでしょうか? それは、天主と教会の掟を忠実に守ることによって、また、私たちの日々のすべての行動を、天主をお喜ばせする意向で行うことによって、また、心の中で頻繁にイエズスとマリアに祈ることによって、また、天主への愛のために他人に善を行うことによって、そして、私たちの主イエズス・キリストと聖母がお示しになった模範に従って、すべての聖徳を実践することによって、です。


聖ピオ十世会 聖伝のミサ報告 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年12月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年12月18日、待降節第四主日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計107人でした。
大阪では46人でした。大阪の最高記録でした。天主に感謝!
名古屋では14人でした。新幹線の停電で運転が停止してしまい名古屋でのミサが少し遅れてしまいました。お待ちの間にロザリオのお祈りをたくさんしてくださっておられたことを感謝します。
多くの方々が聖伝のミサ聖祭に与ることができて大変うれしく思います。

YouTubeチャンネルの「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」ですが、チャンネル登録者が千人を超えました。愛する兄弟姉妹の皆様の応援をありがとうございます!
「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」は、カトリック信仰をなにも変えずにそのままを伝えようとしています。信仰の真理をそのまま発信しています。ですから、登録がまだの方は是非お願いいたします。お友達にも勧めてください。

【クリスマス特別献金のお願い】
日本に住む人々のために、私たちの子供たちのために、カトリック教会が二千年の間信仰し続けてきたことを信仰し、やり続けてきたことをやり続けることができるように、聖ピオ十世会を応援してください。

愛する兄弟姉妹の皆様の支援は、全世界で広がっているカトリック聖伝の再建運動が日本でも発展するために大変重要です。

私たちの主イエズス・キリストへの愛を表すために、カトリックの聖伝のミサをより荘厳に捧げるために、聖伝のミサ聖祭だけが捧げられる教会が東京にできるように助けてください。

次の「緊急事態」のとき、聖伝のミサだけは捧げ続けられなければなりません。聖伝のミサは、私たちの絶対に必要でなくてはならないものです。いわば命の「ライフライン」です。聖伝のミサを守る聖堂が聖ピオ十世会に与えられるように、祈ってください。支援してください。聖ピオ十世会日本は、善意の方々の支援だけで活動しています。

クリスマスの献金をしてくださるすべての兄弟姉妹の皆様に感謝するために、今年の12月25日から1月1日まで八日間ミサを連続してお捧げするつもりでおります。
イエズス様と聖母と聖ヨゼフが、その温かいお気持ちに報いてくださいますように!
無原罪のおんやどりの聖母が、愛する兄弟姉妹の皆様の寛大な愛徳に対して百倍の報いをくださいますように!

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 107 including children.

09:00 mass
M: 22 (incl. 3 children)
F: 29 (incl. 5 children)
Total: 51 (incl. 8 children)

11:30 mass
M: 26 (incl. 4 children)
F: 32 (incl. 4 children)
Total: 58 (incl. 8 children)

Total of 2 masses (excl. 2 people who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 7 children)
F: 60 (incl. 9 children)
Total: 107 (incl. 16 children)

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本


待降節の黙想|「悔い改めよ,天の国は近づいた!」洗者聖ヨハネは現代に生きる私たちにも声を響かせています。御降誕の目的とは?私たちが今ここに存在している目的とは?

2022年12月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年12月18日は待降節第四主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「待降節第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


2023年5月ゴールデンウイーク:愛する兄弟姉妹の皆様を秋田の聖母への巡礼にご紹介いたします

2022年12月15日 | 秋田巡礼_Akita Pilgrimage

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会日本は、2023年の5月にも恒例の秋田への巡礼を計画しております。

2023年の秋田巡礼には、シンガポールで働いておられる聖ピオ十世会フランス人司祭ゴミス神父様(Fr Gomis)を含めて、指導司祭が三名つくことが予定されています。

毎日の霊的講和については、小野田神父は「旧約聖書において示された聖母の勝利の前兆」をテーマにお話をすることを考えています。ドモルネ神父は「涙を共に流された、秋田の聖母とラ・サレットの聖母」についてお話をするつもりです。ゴミス神父の霊的講和のテーマは、しばらく後にお伝えします。

子供たちのためには、来年も特別のプログラムが用意されています。公教要理、野外での活動、同じ年代の子供たちが楽しい時間を過ごしながらカトリックの精神を習得しながら、良い思い出を作ることができるようにお手伝いします。

毎日、司祭・助祭・副助祭による荘厳ミサを執行する予定です。巡礼だからこそできる最も荘厳なミサをお捧げしたいと思っています。また、午後は、美しい大自然の森林の中を、聖母行列、御聖体行列などを行う予定です。

多くの愛する兄弟姉妹の皆様が参加されることをお待ちしております。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【日時】
2023年5月2日(火)~5月6日(土)まで(一部参加だけも可能です) 

※巡礼は5月3日(水)の早朝のミサから始まりますが、
ご宿泊は、5月2日(火)からとなります。(チェックインは15:00から、夕食付きです)
5月2日(火) 18:00ごろ ミサ聖祭  19:00ごろ夕食
5月6日(土)は早朝のミサの後、無原罪の聖母の騎士入会式。お昼くらいに巡礼は終了いたします。

【費用】
巡礼費用は合計で、全日程参加で45,000円です。(四泊五日、朝食夕食付)

※新型コロナ禍の感染拡大防止のために、現在、聖体奉仕会訪問禁止となっています。それが継続している場合は、巡礼団は聖体奉仕会の訪問ができない可能性があります。ご了承ください。

詳しくは、次をご覧ください。

聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITA


【参考資料】デヴィッド・ウェムホフ(David Wemhoff):第二バチカン公会議と米国のディープ・ステート

2022年12月14日 | カトリック・ニュースなど

第二バチカン公会議と米国のディープ・ステート

Vatican II and the American Deep State

第二バチカン公会議から60年

デヴィッド・ウェムホフ(David Wemhoff) 2022年11月14日

第二バチカン公会議のときタイム誌の記者だったロバート・ブレア・カイザーは生前、記者たちは「(第二バチカン公会議の)草案(schema)に影響を及ぼす参加者兼観察者」だったと話していた。これは、カトリックの教理に対する世界的な攻撃の一部だったのであり、何年も前から知られていたことだった。また、米国の「ディープ・ステート」と「グローバリスト」にとって、第二バチカン公会議は、カトリック教会を彼らに奉仕させる立場に置く機会を提供した。この公会議は、歴史上最も血を流した戦争の終結からほぼ17年以内に開催されたため、多くの参加者の心の中には、その戦争が鮮明に残っていた。同時に、世界は冷戦状態に固定されており、一方はソ連共産主義、もう一方は米国という二つの異なる世界観の間で激しい闘争をしていた。前者は暗く不吉なもの、後者は明るく豊かなものとして描かれていた。米国のメディアは、そのような絵を描くのを助けていたのである。

タイム誌は、ヘンリー・ロビンソン・ルースが創刊したものだ。ルースは長老派の牧師の息子で、その血筋は米独立戦争までさかのぼることができた。彼はタイム誌を創刊することで、ニュース雑誌を発明したのである。ルースは、ウォルター・リップマンの指導の下、新しく生まれ出た心理操作の科学かつ体系化を実践して、画像【写真や絵】、言葉、感情を用い、米国内や海外の見解、思想、認識を、多面的に形成し、それらに影響を与えた。ルースの何点かの雑誌は、彼を米国、ひいては世界で最も強力で影響力のある人物の一人にした。ルースは、合衆国憲法――米国社会を組織する原理を政治的に表明し代表するようになった米国憲法――について、言い換えれば、米国のイデオロギーについて語らない日はなかったと言われている。このイデオロギーの中心にあったのが、憲法修正第1条【国教の樹立を禁止と信教の自由】の教義である。

ルースは長い間、教会と国家に関する教理を持つカトリック教会に注目していた。教会は、米国や世界を支配するという富豪たちの利益計画に対する障害物であると同時に、さらに大きな権力と支配という目的を推し進める好機でもあったのである。ルースは、反カトリック・リベラル派のバイブルとなった「米国の自由とカトリックの力」という著書を持つポール・ブランシャードと同じ感情を抱いていた。ブランシャードの観察によれば、司祭は「ローマの霊的かつ政治的な財産の代理人(エージェント)」であり、「位階階級に従属している」[1]。司祭は、どんな思想に対しても信頼性を与えるため、神学者である司祭は、より一層の権威者となるのであった。ブランシャードは、教会が権力を維持するのを助ける点で、神学の果たす役割を理解していた。ブランシャードによれば、

「教会と国家に関する教会の哲学は、独自の切手や旗を持つ小さな土地が存在し続けることよりもはるかに重要である。実際、バチカンが支持している教会と国家に関する哲学は、カトリックのシステム全体の中で最も重要なものであり、それは司教や司祭が世界中で追求する政治的かつ社会的な政策を決定するものだからである」[2]。

そのため、ルースと、彼が推し進める利益を所有する社会経済的エリートたちは、米国の社会組織のシステムの承認を支持する一人の神学者を必要としていた。社会の法の基礎となるいかなる宗教も設立しない【国教を設立しない】と定め、また、言論の自由と報道の自由の条項をもって私的利害関係者に実権を与えるという「国教条項」(Establishment Clause)のある憲法修正第1条を、米国のエリートたちは教会に承認してほしかったのだ。ウッドストック大学教授で、「神学研究」(Theological Studies)の編集者であるジョン・コートニー・マレー(イエズス会)(John Courtney Murray, SJ)が、その神学者となるのであった。

1948年4月26日、ニューヨークのビルトモア・ホテルで、「全米キリスト教徒およびユダヤ教徒会議」が主催する秘密会合が開かれた[3]。出席者は、プロテスタント、ユダヤ教、カトリックの代表者だった。主要議題は、教会と国家の関係だった。マレーは、一つの解決すべき問題があることに同意した。教会と国家の関係については、米国ではなく、カトリックの方が問題だった。すなわち、後に彼が言っているように、「教会と国家の問題は、非常に特殊かつ独特な意味で、カトリックの問題、つまりローマ・カトリックの問題である」[4]。教会と国家の関係に関するカトリックの教理の「もっと自由な解釈」を提供することに同意することによって、マレーは、カトリック信仰の最も重要な教理の一つを、多くのカトリック指導者の心において、最終的に弱めるという事業に着手したのである。

それから間もなく、米政府は、米国カトリック大学の裕福なカトリック信者で教授であったエドワード・リリー博士の指導の下、教理戦のプログラムを考案した。教理戦は、「心理戦の中核。思想戦あるいは教理戦」と考えられており、「自国システムの基本的思想を積極的に支持すると同時に行われる、基本的な敵対システムに対する計画的な攻撃」[5]を含むものだった。教理戦とは、言い換えれば、社会の秩序を再編する方法だったのである。教理戦は、「大衆の行動に影響を与えること、実際、それは直ちに大衆を対象とするのではないが、意思決定者とそのスタッフを対象とする」[6]ものだった。教理戦が標的にしていたのは、「発展した心。概念と合理化を発展させることに従事し、同じことを他者に投影することができるこの心は、明確にし、分析し、総合する能力を持っている」のであり、「自分たちが受け入れているイデオロギーに満足しなく」なる心だった[7]。

1953年までに、この計画は発展して、PSB D-33として知られる機密文書に含まれた。この教理戦プログラムは、「恒久的な文献」を提供し、「学者や世論形成団体を含む知識人に訴えかける長期的な知的運動」を育成することを目指すものだった。その目的は、(1)米国と自由世界の目標に敵対する共産主義やその他の教えに知的基盤を提供してきた世界規模の教理的思考パターンを打破する」[8]ためだった。これを行うために、「相手側の体制内の局所的な相違、異端、政策の不一致を利用する」[9]のである。政府の情報機関は、メディアや企業とともに、その努力を調整することになっていた。

これは、やがて、今日私たちがグローバル化として知っている計画を実行するのに役立つものだった。1952年と1954年に産業界、銀行、労働組合、情報機関、国務省などの連邦政府機関の代表者たちがニュージャージー州プリンストンに非公式に集まり、それを実現するための計画について話し合った[10]。米国の文化や思想は、いくつかの社会の中に挿入されなければならなかったが、それは、その社会の経済発展への道、あるいはある人々が言うように経済植民地化への道を開くためだったのである。

1958年10月に教皇ピオ十二世が死去し、後継者のヨハネ二十三世が公会議を招集したことで、米国のエリートたちは、カトリック教会を米国の思想や政策、特に憲法修正第1条の背後にある思想を広める存在にすることで権力を拡大する機会を得たと感じた。ルースとその取り巻きは、それ以前からバチカンで変化が起きていることを知っていた。彼らは、カトリック教会の本部で起きていることに関して諜報活動をしていたからである。例えば、彼と米国のエスタブリッシュメント、さらに米国の情報機関は、プロ・デオ大学とその創立者であるフェリックス・モーリオン神父(ドミニコ会)に資金を提供し、支援していた。この高等教育機関はローマにあって、カトリック世界の若いビジネスマンやその他の専門家に、米国の社会組織のシステムの利点を教えていた。実際、1953年11月、ルースが「The American Proposition」という演説を行ったのは、その大学だった。マレーによって書かれ、ルースが行ったその演説は、社会組織の理想として憲法修正第1条を提唱したものだ。その理想に不可欠なのが、カトリック教会とカトリックの宗教を(あらゆる教会や宗教と同様に)社会から排除する「国教条項」だった。この条項は、言論の自由、報道の自由とともに、社会や文化における、さらには宗教に対する実際の権力を、強力な私的利益、すなわち富豪階級に与えるものだったのである。

1962年の夏、公会議の開始の数週間前に、ルースは首席補佐官のチャールズ・ダグラス・ジャクソン(「CDジャクソン」)をローマに派遣し、調査させた。ジャクソンは、メディア、情報機関、産業界で働いてきた経歴の持ち主だ。彼は、この三つのグループの活動と利害が合流する中心人物であり、ドワイト・アイゼンハワー大統領のスピーチライターも務めた。ジャクソンは、位階階級の内部事情に通じており、「世界中にある、あの途方もない機構」[11]である教会が、いかに現代に適応するために変化しなければならないかと発言した。

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【注】拙著「ジョン・コートニー・マレー、タイム/ライフ、米国の命題」(John Courtney Murray, Time/Life and the American Proposition)は、冷戦の初期に、カトリックの教理、特に教会と国家の適切な関係に関する教理を変えようと、カトリックの指導者に対して行われた心理的かつ教理的な戦いについて説明している。カトリックの教理は変わらなかったが、「第二バチカン公会議の精神」として知られる修辞学的かつイデオロギー的な武器が作られて、第二バチカン公会議を歪め、カトリックの教理を破壊し、多くの人々に混乱と苦しみをもたらすために利用された。7年以上をかけて、多くの資料から数百の脚注が作成されたこの二巻の新版は、ジョン・C・ラオ博士の前書きが付いており、amazon.comでペーパーバック版あるいは電子版を購入することができる。

[1] Paul Blanshard, American Freedom and Catholic Power, (Boston: Beacon Press, 1949), 34.

[2] Ibid., 44.

[3] David Wemhoff, John Courtney Murray, Time/Life and the American Proposition (South Bend, IN: Wagon Wheel Press, 2022), Vol. I, 93-97.

[4] Untitled text of talk by John Courtney Murray that begins with “Mr. Chairman, Ladies and Gentlemen,” John Courtney Murray Papers, Box 6 File 445, Georgetown University Library, Special Collections Division, Washington, DC.

[5] “Terms of Reference, Ideological Warfare Panel,” OCB Secretariat Series Box 2 Folder “Doctrinal Warfare (Official) (File # 1) (4),” Dwight D. Eisenhower Library, Abilene, Kansas.

[6] “Statement on Doctrinal Warfare Targets,” dated February 6, 1953, OCB Secretariat Series Box 2 Folder “Doctrinal Warfare (Official) (File # 2) (2),” Dwight D. Eisenhower Library, Abilene, Kansas.

[7] Ibid.

[8] PSB D-33 June 29, 1953, “U.S. Doctrinal Program”, Psychological Strategy Board, Dwight D. Eisenhower Library, Abilene, Kansas.

[9] Ibid.

[10] Wemhoff, John Courtney Murray, Time/Life, and the American Proposition, Vol. I, 469-480.

[11] C.D. Jackson, “Overseas Report (Confidential) # 4 from CD Jackson,” dated August 7, 1962, CD Jackson Papers, Box 109, “World Trip, Transcripts, Italy, 1962,” Dwight D. Eisenhower Library, Abilene, Kansas.

デヴィッド・ウェムホフは、カウンセラーにして作家である。ノートルダム大学で行政学のABを、太平洋大学マクジョージ・スクール・オブ・ローで法学博士(JD)を取得。ウェムホフ氏は、2019年5月、インディアナ大学で国際法・比較法の法学修士(LLM)を修了した。

ウェムホフ氏は、二つの大学で大学レベルのコースを教えていた。これらのコースには、ビジネス法、米政府、憲法、州・地方政府などが含まれていた。カトリック社会科学者協会のメンバーである。

ウェムホフ氏は、「米国の命題」(The American Proposition)を編集・寄稿しており、それはwww.theamericanproposition.comで見ることができる。この出版物は、米国という社会の社会経済的・法的組織のシステムと、世界におけるその役割に焦点を当てている。また、「Redeeming a Father's Heart」を編集。Men Share Powerful Stories of Abortion Loss and Recovery (AuthorHouse 2007), Just Be Catholic (AuthorHouse 2011)のほか、From the Hillside (Wagon Wheel Press, 2019)という詩集を執筆している。

ウェムホフ氏は、高い評価を得ている2巻の著作「ジョン・コートニー・マレー、タイム/ライフ、米国の命題」(John Courtney Murray, Time/Life, and the American Proposition)を執筆した。この作品は第2版において、Wagon Wheel Pressから出版されており、Amazon.comで購入できる。これらの巻では、米国政府が民間メディアと共同で開発した「教理戦プログラム」と、冷戦時代にカトリック教会に対して成功裏に行われたその手法が説明されている。

ウェムホフ氏は、米国の本質とそれが世界に与える影響に関する本を執筆中。インディアナ州グレンジャー在住。

【参考情報】The Fundamental Right to the Catholic Confessional State: An Outline of the Case According to Key Post Vatican II Documents – The American Proposition


【参考情報】ヴィガノ大司教:二千年の信仰によって私たちにまで受け継がれた聖なる言葉で祈りたいと望むことの何がそんなに耐え難く、そんなに嘆かわしいことなのでしょうか?

2022年12月14日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教のノヴァラ教区司教への公開書簡:聖伝のミサの停止について

  • 信者は、聖伝のミサを奪われるに値する、いったいどんな憎むべき罪を犯したというのでしょうか? このミサは、ベネディクト十六世によって「決して廃止されていない」と認められましたが、今日では第二バチカン公会議の教会論に反するために分裂を招くものとして取り消されています。
  • シノダリティーに関するシノドスで多くの司教が語る、天主の民への配慮と耳を傾けることは、どこに行ってしまったのでしょうか?
  • 信者たちが自分の司教に求めているものは、何世紀にもわたって教会の祈りの声となってきた典礼の使用を自由に享受したいということだけです。
  • 昨日まで教会が教え、推奨していたことが、今日では、教会で統治の役割を持つ人々によって軽蔑され、禁止されている一方で、以前はキリストの教えに反すると考えられていたことが、今では、従うべき模範とされているのです…。
  • 二千年の信仰によって私たちにまで受け継がれた聖なる言葉で祈りたいと望むことの何がそんなに耐え難く、そんなに嘆かわしいことなのでしょうか?

【解説】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、前在米国教皇大使でした。それ以前にはバチカン市国行政庁次官(教皇に次ぐ第二の管理者 Secretary General of the Vatican City Governatorate)というバチカンの高位聖職者でした。ヴィガノ大司教は聖ピオ十世会の会員ではなく、聖ピオ十世会とは直接の関係はありません。

聖ピオ十世会はマルセル・ルフェーブル大司教によって創立されました。ルフェーブル大司教は、聖霊修道会の元総長であり、ピオ十二世のもとでの教皇使節【教皇大使】でしたが、教会法に従って聖ピオ十世会を創立し、新しい典礼がカトリックの信仰から離れていることを50年以上も前からすでに警告していました。新しい典礼について、ヴィガノ大司教が今、警告しているので参考情報としてご紹介いたします。

聖ピオ十世会は、カトリック教会が、二千年の間、信仰し続けてきたことを信仰し、やり続けてきたことをやり続けているという理由だけで、疎外されています。信じられないような現実が今、目の前で繰り広げられています。

Viganò’s OPEN LETTER to Bishop of Novara for suspending Traditional Mass

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の公開書簡

司教閣下、

司教様が最近、オッソラ渓谷(イタリア・ピエモンテ州)のヴォコーニョ教会とサン・ビアージョ礼拝堂におけるトリエント典礼の挙行を停止するという決定をなさったことは、何千人もの信者と聖伝の典礼(こちら)に結びついている司祭たちの間に大きな苦渋を引き起こしました。何年にもわたって自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)が適用されてきた後、司教様が冷淡にも「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)の規定を実行なさったことで、深い怒りを覚えました。教会法の条項が教区長に与えている権能によって、司教様がそれをしないでいることがおできになるという事実にもかかわらず、です。

司教および使徒の後継者としての司教様の役割が、ローマが行使する明白な権威主義の圧力によって試されていることは理解できます。ローマの絶対的命令(diktats)への従順と、信者の神聖な権利の保護との間で選択を迫られ、最も人間的に単純な選択が、他の時代であればドン・アボンディオ神父を、領主ドン・ロドリゴと「名前を隠した男」(Innominato)【いずれもマンゾーニの小説「いいなづけ」の登場人物】による弾圧に加担するようにさせた選択であることも、同様に理解します。このミサは、行う必要はない、権力者がそう望んでいるのだから、と。

「あわれみの教会」は、その権力を、強制力をもって行使しているのです。その強制力は、逆に、もっと深刻な状況、つまり神学的逸脱、道徳的異常、典礼の領域での冒涜と不敬を癒やすために使われるべき時には、行使されていません。天主の民に与えられた位階階級のイメージは、〈弱者に強く、強者に弱い〉という格言に要約されます。これは、言わせていただけるなら、司教様が司教としてお誓いになったこととは正反対のものです。

パレーシア(parrhesia)【包み隠さずはっきりさせること】とシノダリティーへの多くのアピールは、言葉ではしばしば嘆いている例の聖職者主義が原因の権威主義的な決定によって日々否定されています。ヴォコーニョとサンビアジオの信者は、聖伝のミサを奪われるに値する、いったいどんな憎むべき罪を犯したというのでしょうか? このミサは、ベネディクト十六世によって「決して廃止されていない」と認められましたが、今日では第二バチカン公会議の教会論に反するために分裂を招くものとして取り消されています。有名な〈連続性の解釈法〉は、どこに行ってしまったのでしょうか? シノダリティーに関するシノドスで多くの司教が語る、天主の民への配慮と耳を傾けることは、どこに行ってしまったのでしょうか?

ニケーア・コンスタンティノポリス信経において、私たちは、教会が一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承であることを告白します。教会は、全世界への広がりにおいてだけでなく、時間の経過においても出来事の展開においても〈一つ〉です。忠実なカトリック教徒は、自分の時代の教会と交わるだけでなく、必然的に全時代の教会と交わらなければなりません。カタコンベの教会、コンスタンティヌスの教会、聖ベルナルドの教会、聖ピオ五世の教会、福者ピオ九世の教会と交わらなければなりません。信仰の法(lex credendi)とそれを表現する祈りの法(lex orandi)は、最新の流行や偶発的な出来事によって決定された不純物の影響を受けてしまうことはあり得ません。しかし、もしアンニバレ・ブニーニの近代主義の心から生まれた祈りの法(lex orandi)が、「公会議の教会」の唯一の礼拝の表現として認められるとすれば、このことは、それが表現する教理が、数世紀にわたって伝えられ、カトリック教会によって忠実に守られてきた、私たちの主の使徒たちへの教えではないもの、つまり主の教えに反するものだということを意味します。もしこの聖伝との断絶が「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)の起草者【教皇フランシスコ】自身によって認識され、認められるとすれば、このことは、「公会議の教会」をカトリックの聖伝の外に置いてしまい、それによって、主がその権威を制定なさった目的に反して法を公布する正当な権威を排除するのです。

司教様がこの考え方を共有なさり、トリエント・ミサを「共に歩む(synodal)教会」にとって融通の利かない、余計なものと考えておられるかどうか、私は承知しておりません。私には、司教様のご決断が、信仰の遺産(depositum fidei)を守る義務から外れたやり方で司教の権威を行使していることを示している以上に、教会から憂慮すべき距離を置いていることを示している、つまり、その決定がもたらしうる結果について全く心配せずに、自らのイデオロギー的プログラムに従う位階階級の不一貫性や特異性による犠牲者であることを示しているように思われます。

その結果は、教会の不変の教導権、司祭の正当な権利、そして信者の霊的必要性を平気で踏みにじる〈新し物好き〉(rerum novarum cupiditas)という、非常に悪い印象を与える牧者のイメージになっています。ご存じのように、信者たちが自分の司教に求めているものは、何世紀にもわたって教会の祈りの声となってきた典礼の使用を自由に享受したいということだけです。60年にわたる【第二バチカン公会議の】失敗と異常が――古い典礼が新しい典礼の欺瞞と偽りを明るみに出すからという理由だけで――違法とすることはできない聖伝の典礼に与る自由です。

ノヴァラ教区の信者、そして、世界中の何百万という聖伝の信者は、権力がその正当性を引き出す目的そのものに反するこの権威主義的な権力の行使から、どんな教えを引き出すのだろうかと私は思います。彼らが不当と考える命令に従おうとも、あるいは、人ではなく天主への従順の名の下にその命令に反対しようとも、牧者の権威は全く信用されません。なぜなら、昨日まで教会が教え、推奨していたことが、今日では、教会で統治の役割を持つ人々によって軽蔑され、禁止されている一方で、以前はキリストの教えに反すると考えられていたことが、今では、従うべき模範とされているのですから。

古いミサの使用(usus antiquior)に結びついた司祭と信者は、そのほとんど全員が、確信を持たずに単に迎合主義からノブス・オルド(Novus Ordo)の押しつけを甘んじて受け入れた人々ですが、彼らに対してどんな非難ができるでしょうか? 彼らが天主の礼拝を望んでいるという事実でしょうか? 典礼挙行の際の記念と礼儀正しさでしょうか? 改革された儀式の意図的に曖昧な空虚さに比較したときの、聖伝の典礼文の比類なき豊かさでしょうか? ここ地上で期待する天の宮廷の栄光を見ることへの憧れでしょうか? 騒々しい兄弟的なアガペー――そこにおいて主は、人間自身を祝うための言い訳に過ぎない――の代わりに、キリストのご受難を敬虔に観想することでしょうか? 二千年の信仰によって私たちにまで受け継がれた聖なる言葉で祈りたいと望むことの何がそんなに耐え難く、そんなに嘆かわしいことなのでしょうか?

ヴォコーニョの信者と司祭は、世界中の教区に散らばるすべてのカトリック教徒と同様に、アリウス派の異端の時、偽りの宗教改革の時、英国国教会の離教の時に起こったように、これらの絶対的命令(diktats)から逃れる方法を見つけるでしょう。不可侵の権利を奪われることによる彼らの苦しみは、天主をお喜ばせする忠実さが試されているのであり、ちょうどフランスの恐怖政治の時代に屈服しなかった聖職者が行ったようなものです。しかし、司教様が、彼らを新しい儀式に引き入れたり、父祖の宗教に忠実であり続けようとする彼らの決意を曲げらたりできるとは思わないでください。せいぜい、彼らが毎日のミサの慰めを受けたり、主日や聖日の典礼行事にあずかったりするのを妨げることができる程度でしょうが、こうしたことはすべて、信者間の調和や、教会の権威に対する信者の尊敬の念のどちらにも有利には働かないでしょう。

時が彼らの正しさを証明することになるでしょう。ちょうど、誤った権威や隷属した権威によって押し付けられた異端の逸脱に対して、素朴な者が告白したカトリックの正統信仰を対比させる出来事で常に起こったように、です。天主の御裁きもまた、彼らの正しさを証明することになるでしょうし、この裁きに対して、司教様は司教としての自分の仕事を弁明しなければならなくなるでしょう。ベルゴリオの最高法院(サンヘドリン)が司教様を裁くのではありません。司祭評議会も、今や信用を失った公会議の物語(ナラティブ)をつなぎとめるために、すでに失われたこの戦いで司教様を自己中心的に支持する偽りの友人たちも、司教様を裁くのではありません。ですから、私は、司教様の年齢と公正な裁判官【キリスト】との出会いが避けられないことを考慮し、最後のこと【四終】と司教様の永遠の運命について健全な考察をしていただくことが最も適切であると信じています。もし司教様が天主のみ旨に従って行動してきたと、また今も行動していると信じておられるなら、何も恐れることはありません。司教様はオッソラ渓谷の信者と司祭を反逆者とみなし続けてもいいですし、聖伝のミサを禁止し、現在ある権力に無条件に服従することをすべて示してもいいのです。しかし、この世の権力者は過ぎ去り、彼らを支持し彼らに従う者たちは、忘却の彼方か全員一致の断罪を受ける運命にあることを忘れないでください。

永遠の栄光を受けるに値するために司教様に残された時間を意識することで、ご自身の足跡を振り返っていただき、司教様に世話をするよう託された信者に対して真の慈愛の行為を行ってくださるという希望をもって、私は司教様を(当然、聖ピオ五世の【聖伝の】)ミサの聖なる犠牲において記念することを保証し、慰め主なる聖霊が賢慮の賜物で司教様を照らしてくださるよう懇願するつもりです。

キリストにおいて最も忠実なる、

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

追伸

この公開書簡は、兄弟である司教の方々、つまり、ブランビリア司教と、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の有益な効果を無効にするように、ローマ教皇庁から圧力を受けていることが明らかになったすべての司教の方々にも宛てられております。

英語版

Viganò’s OPEN LETTER to Bishop of Novara for suspending Traditional Mass

イタリア語版

Lettera Aperta di mons. Viganò al Vescovo di Novara sulla Messa Vetus Ordo.


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年12月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

待降節第三主日はいかがお過ごしでしょうか?

今日の福音には、洗者聖ヨハネの謙遜がよく現れています。

聖ヨハネは自分のことをこう言います。「預言者イザヤがいっている"荒れ野に叫ぶものの声、主の道を正しくせよ"とは私のことである」と。聖ヨハネは、御言葉ではなく、声にすぎません。荒れ野で失われ、ほとんど誰にも聞かれないような声です。
ヨハネがそうであるなら、私たちは一体なんでしょうか?天主の御稜威(みいつ)の前で、私たちは無に等しい存在です。

洗者聖ヨハネは、イエズス・キリストについてこうも言います。「私はそのはきものの、ひもをとく値打ちもない」と。
聖ヨハネは、自分には、主の前に身をかがめて履物にさわることさえする価値がないと言います。
では、私たちは、一体なんでしょうか?天主の御稜威(みいつ)から全てをいただいたにもかかわらず天主に逆らう罪人です。

さらに付け加えると、洗者聖ヨハネは自分のよろこびについても語っています。自分は花婿(キリスト)の友人であって、その声を聞いてよろこぶ、と。
「私が、"私はキリストではない""ただ彼に先立っておくられた者だ"といったことは、あなたたちにも証明できるだろう。花嫁をまつのは花婿で、花婿の友人は、そこに立っていて、花婿の声をきいて大いに喜ぶ。これこそ、私のみちあふれる喜びである。彼は栄え、私は姿を消さねばならない。」(ヨハネ3章)
私たちは、どうでしょうか?悲しいことに、私たちは「私のやりたいことは栄えて、天主の御旨や掟は姿を消さなければならない」とでも言っているかのようです。

さて、今日、12月11日は、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計112人でした。大阪では27人でした。
先週の12月4日は、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計105人でした。大阪では35人でした!

【クリスマスの特別献金】
最後に、クリスマス特別献金のお願いをお許しください。

私たちの主イエズス・キリストがよりよく知られ、愛され、礼拝されることができるように、
私たちの主イエズス・キリストへの愛を表すために、
カトリックの聖伝のミサをより荘厳に捧げるために、
毎週主日に荘厳に聖伝のミサが捧げられ、日本に住んでいる多くの霊魂たちがカトリックの信仰と御聖体への信心と愛とによって養われるために、
カトリック教会が世界中で常に捧げてきた聖伝のミサ聖祭だけが捧げられる教会が東京にできるために、
私たちは、聖堂を持つことを心から望んでおります。
今年は、特にこの意向で、クリスマスの特別献金を心からお願いいたします。

クリスマスの献金をしてくださるすべての兄弟姉妹の皆様に感謝するために、今年の12月25日から1月1日まで八日間ミサを連続してお捧げするつもりでおります。
イエズス様と聖母と聖ヨゼフが、その温かいお気持ちに報いてくださいますように!
無原罪のおんやどりの聖母が、愛する兄弟姉妹の皆様の寛大な愛徳に対して百倍の報いをくださいますように!

【報告】【東京】【2022年12月4日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 105 including children.

09:00 mass
M: 27 (incl. 5 children)
F: 26 (incl. 5 children)
Total: 53 (incl. 10 children)

11:30 mass
M: 26 (incl. 2 children)
F: 30 (incl. 5 children)
Total: 56 (incl. 7 children)

Total of 2 masses (excl. 4 people who participated in multiple masses)
M: 51 (incl. 7 children)
F: 54 (incl. 10 children)
Total: 105 (incl. 17 children)

【報告】【東京】【2022年12月11日】

Shown below are the number of attendees at the Masses in Tokyo December 11th. The total number of attendees at the Masses in Tokyo was 112 including children. 

09:00 AM mass
M: 31 (incl. 7 children)
F: 28 (incl. 7 children)
Total: 59 (incl. 14 children)

11:30 AM mass
M: 23 (incl. 3 children)
F: 33 (incl. 5 children)
Total: 56 (incl. 8 children)

Total of 2 masses (excl. 3 people who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 10 children)
F: 59 (incl. 12 children)
Total: 112 (incl. 22 children)

 [Wikipedia Commons]


待降節の黙想|主において常に喜べ、 繰り返して言う喜べ。喜びとは何か?待降節の喜びはなぜ特別な のか?私たちの本当の喜びの根源は?

2022年12月10日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年12月11日は待降節第三主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「待降節第三主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


2022年12月7日は、12月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2022年12月07日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2022年12月7日は、月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられるように祈りましょう!

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


待降節の黙想|無原罪の御宿りは聖母が受けた極めて崇高な特権、人類の前代未聞の特権。サタンへの勝利|なぜ聖母の無原罪の御宿りが必要なのか?

2022年12月04日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年12月4日は待降節第二主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「待降節第二主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


2023年の聖伝のミサの典礼カレンダーができました!

2022年12月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年の聖伝のミサの典礼カレンダーができました!







待降節の黙想|なぜ現代の私たちは主の御降誕を準備するのか?典礼にはどのような意味があるのか?

2022年12月01日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年11月27日は待降節第一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「待降節第一主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

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天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年12月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2022年11月27日、聖ピオ十世会の総長であるパリヤラーニ神父様と事務総長のル・ルー神父様を迎えて私たちはとても幸福でした。

総長様の来られた時に、東京のミサに来られた方は子供達も入れて合計130人でした。パリアラニ神父の講演会に出席された方は、子供達も入れて合計68人でした。
大阪ではミサに与られた方は26人、名古屋では25人でした。天主さまに感謝します!

始めてミサに与られた方々もおられ、とても嬉しく思います。

11月29日からは、12月8日の聖母の無原罪の御孕り(おんやどり)の祝日の準備のノベナ(九日間の祈祷)が始まりました。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 130 including children. Also, there were 68 attendees (54 adults and 14 children) at Fr Pagliarani's conference.

09:00 mass
M: 36 (incl. 5 children)
F: 30 (incl. 7 children)
Total: 66 (incl. 12 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 2 children)
F: 22 (incl. 2 children)
Total: 41 (incl. 4 children)

12:30 mass
M: 11 (incl. 1 child)
F: 20 (incl. 1 child)
Total: 31 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 61 (incl. 8 children)
F: 69 (incl. 10 children)
Total: 130 (incl. 18 children)


Fr Pagliarani's conference
M: 35 (incl. 6 children)
F: 33 (incl. 8 children)
Total: 68 (incl. 14 children)

【お便りをご紹介いたします】
小野田神父様
40という数字は、準備期間として用いられているようです。

エジプトを脱出したユダヤ人がユダヤの地に入るまでに40年、イエズス様が公生活を始める前の断食が40日、復活されたイエズス様が昇天するまでに40日。そして、聖母マリア様がイエズス様の死後、復活されたイエズス様と再会されるまで40時間ほどあったようです。

聖金曜日の午後3時ごろにイエズス様の御死去。イエズス様の苦しみはその時に終わりましたが、聖母マリア様の苦しみ、悲しみは続きます。日曜朝に復活されたイエズス様の訪問を受けるまで、聖母マリア様は一睡もされなかったのではないでしょうか。その時間は、聖金曜日に9時間、聖土曜日に24時間、復活の主日にイエズス様が来られたのが7時とすれば、計40時間です。

聖母マリア様はお一人で御子イエズス様の御死去を40時間も思い起こして苦しみ、悲しんでおられたのです。使徒たちや婦人たちは仮眠をとったと思いますが、聖母マリア様は仮眠は取れなかったと思います。こういう事も共贖者と言われる理由のひとつなのでしょうか?


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】