Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちが死んだ後も完全に消えるわけではないという三つの理由、人は死んだ後どうなるか

2022年12月22日 | お説教・霊的講話

死についての説教

2022年11月13日 ドモルネ神父

はじめに

11月に入って、秋が深まり、葉が落ち、寒くなる季節になりました。この季節は、死について黙想するのに適しています。葉が色づいて落ちるように、私たちは年を取って、この世での人生の終わりに向かっています。また、寒さが次第に大気中に入り込んでくるように、死という寒さも、ますます私たちに近づいてきます。11月2日に、私たちは死せる信者の記念を行いました。この記念は、いつか私たちにも死ぬ番が来ることを思い起こさせるものです。墓地を訪れると、いつか自分もそこに入るのだと思わずにはいられません。今日は、私たちの人生の中で最も重要な瞬間、私たちの将来全体を決定づける瞬間、つまり私たちの死についてお話しします。

死ですべてが終わるのではない

私たちの人生でただひとつ、絶対に確実なことは、私たちはいつか死ぬということです。いつ、どこで、どのように死ぬかは分かりませんが、私たちは皆、いつか死ぬということだけは絶対に確実です。そうすると、当然生じる疑問があります。死んだ後は、どうなるのでしょうか?

ある人は、「すべては終わり、死んだ後には、全く何もなくなる」と言います。私たちが死ぬと、私たちは消えてしまい、無に帰するというのです。私たちの人生は、まるでまったく存在しなかったかのように消えていく船の航跡のようなものだというのです。これは真実ではありません。また、それはカトリック教徒でなくても理解できることです。その理由の一つは、私たちが肉体だけでできているのではなく、肉体と霊魂でできていることです。私たちの肉体は、壊れたり消耗したりする物質的要素でできているため、死んでしまいます。しかし、私たちの霊魂は、そのような要素でできているのではありませんから、死ぬことはできません。私たちの霊魂は霊的なものであり、壊れ得ませんし、当然不滅のものです。したがって、死に際して、私たちの肉体は死にますが、霊魂は死なないのです。

また、私たちが死ねば、完全に消えてしまう、というのも間違いです。なぜなら、それは、私たちの内にある最も深遠な望み、すなわち完全な幸福、つまり生きたい、永遠に生きたい、という望みと矛盾しているからです。実際、私たちの幸福が、ある日終わってしまうものであるならば、それは完全な幸福でではあり得ません。もし、私たちが死ねば完全に消えてしまうのなら、それは、私たちの、生きたい、という計り知れないほど大きな望みが、空しいものであることを意味します。しかし、それは、私たちの周りの宇宙で見られることと矛盾しています。宇宙を見れば、すべての生きものの自然な傾向が満足させられていることが分かります。たとえば、どんな動物にも、ある特定の食べ物を望む自然な傾向があり、実際、その動物は、その食べ物を見つけることができるのです。同じように、人間には終わりなき命を望む自然な傾向があります。ですから、人間には、終わりなき命がなければならないのです。

私たちが死んだ後も完全に消えるわけではない、という第三の理由があります。この理由は正義です。なぜなら、悪い人々が、この地上で生きている間には、彼らにふさわしい罰を受けないことがあり、逆に、良い人々が、この地上で生きている間には、彼らにふさわしい報いを受けないことがあるのを、私たちは見ているからです。もし、私たちが死んだ後、完全に消えてしまうとすれば、悪人は罰せられず、善人は報われない、ということになるでしょう。このような考えは、不正義を助長することに等しく、ぞっとするものであるだけでなく、私たちが知っている宇宙の秩序とも矛盾しています。

死んだ後どうなるか

確実なのは、私たちは死んだ後、無となって消え去るのではない、ということです。では、死んだ後はどうなるのでしょうか? この問題は、私たちの将来全体に関係することであり、すべての人に関わることですから、非常に重要です。ある人はこう言います。「死の瞬間に、実際どうなるかわかるだろう」。しかし、そんなことを言うのがいかに愚かなことか、誰もが理解しています。それは、自分のお金を使い切る人が、「私のお金が全部なくなったときに、実際どうなるかわかるだろう」と言うようなものです。ある人は「自分は何かに生まれ変わる」と信じていますし、またある人は「自分は全宇宙に融合する」と信じています。死んだ後どうなるかについては、さまざまな信念があります。しかし、これらの信念が正しいという証拠が存在しないだけでなく、そのような信念は、多かれ少なかれ馬鹿げたものです。

私たちが死んだ後どうなるかを知るためには、私たちに命を与えてくださったお方から、教えていただかなければなりません。実際のところ、私たちの命は、私たちのものではありません。私たちは、自分自身に命を与えたのではなく、命を受けたのです。それは、誰からでしょうか? 最初の存在、つまり誰からも命を受けない存在であり、宇宙と私たちの命と存在の源であるお方からです。この最初の存在が天主です。私たちに命を与えてくださった天主は、私たちの存在の目的が、天主を知り、天主を愛し、地上で天主に仕えることで、天主の永遠の命と幸福にあずかるにふさわしい者となることであることを、啓示されました。私たちの主イエズス・キリストは、このすべてを教え、その教えが真実であることを証明する、多くの奇跡を行われました。イエズス・キリストは、ご自分の教会であるカトリック教会を通して、このすべてを教え続け、今日もこの教えの真理を証明する多くの奇跡を起こし続けておられます。死んだ後、私たちは裁かれます。聖パウロは、「人間は、一度だけ死んで、その後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)と言っています。天主を知り、愛し、この世で仕えた人は報われ、そうすることを拒んだり、怠ったりした人は罰せられるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、皆さんは、すでに、このことをすべてご存知です。しかし、私たちは、死んだ後の実際の結果を、簡単に忘れてしまいます。私たちの死の時には、私たちの富は何の役にも立たず、私たちの学歴や学位も何の役にも立たず、私たちの職業上の業績も何の役にも立たず、私たちの社会的関係も何の役にも立たないのです。私たちの死の時に重要な唯一のことは、その時の、私たちの天主への愛の強さなのです。ですから、学業や仕事を理由に天主に対する義務を怠ることは、なんと愚かなことでしょうか。私たちは、時間を無駄にしてはなりません。一日一日、私たちは死に近づいているのです。過ぎ去っていく一日一日は、二度と戻ってきません。ですから、私たちは毎日、天主への愛を育んでいかなければなりません。では、どのようにすればよいのでしょうか? それは、天主と教会の掟を忠実に守ることによって、また、私たちの日々のすべての行動を、天主をお喜ばせする意向で行うことによって、また、心の中で頻繁にイエズスとマリアに祈ることによって、また、天主への愛のために他人に善を行うことによって、そして、私たちの主イエズス・キリストと聖母がお示しになった模範に従って、すべての聖徳を実践することによって、です。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。