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私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話 第ニ部「聖ルカに関するクイズ」

2019年11月05日 | お説教・霊的講話
2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話
第ニ部「聖ルカに関するクイズ」
同時通訳:東京信徒会長

もっと霊的な、ちょっと違うお話を致します。

何日か前に、聖ルカの祝日を祝いました。ですからこれから、聖ルカに関してちょっとクイズをしますので、答えて下さい。

Q.四人の福音史家がいますけれども、そのうち使徒であった人は何人でしょうか?
A.二人です。

Q.その二人はどなたでしょうか?
A.マテオとヨハネです。

ですから考えてみますと、そのマルコという方とルカという方は、使徒ではなかったという事です。

この二人について面白いのは、そのマルコという方は、何かペトロの為に、聖ペトロに成り変わって書いている人で、聖ペトロの何か弟子のような感じで、ルカという方は、聖パウロの代わりに書いているのか、その聖パウロの弟子であったような感じがします。

聖マルコの福音を読んでみますと、これは一番短いのですけれども、自分で見たようには書いていません。何か「見た人から聞いた」という風に書いている、そしてその「見た人」というのは、「ペトロ」のようです。

この四つの福音は、特に受難の所に関しては、皆同じ関係のある、同じ事を書いています。

例えば奇跡に関しては、この三人の最初の福音史家は同じような事を書きますけれども、ヨハネはむしろ、そのイエズス様の仰った「御説教」を一生懸命詳しく書いています。

この「聖ペトロが主を否んだ」という話は、皆四つとも書いています。しかしこのマルコの福音書を見ると、その「否んだ時に、イエズス様が後ろを振り向かれた」と、「そしてその顔を見て、ペトロが泣き出した」という表現があります。ですからマルコという方は、聖ペトロからこの話を直接聞いたという事がよく分かります。

そして先ほど申しましたように、そのルカのお話をしたいのですが、

Q.この聖ルカという方はどういう人だったでしょうか?
A.お医者さんです。

アンティオキアという今のトルコですけれども、そこのお医者さんでした。ですから、どうやらこの聖パウロのお医者さん、担当したお医者さんだったみたいで、なぜかというと、聖パウロというのは何か体に問題があった方だったので、そのお医者さんとしてやっていたのが聖ルカだったようです。

Q.ところで、新約聖書というのは何語で書かれたかご存知でしょうか?
A.ギリシャ語です。

そうですね、ギリシャ語で書かれています。その頃のその中東の地域ですけれども、ギリシャ語というのは、今アジアでいう英語のような感じで、皆どこの国に行っても、まぁ知っていて、一応コミュニケーションには役に立つ、というのがギリシャ語でした。ですからこの聖書の出来事が起こったパレスチナという所では、アラマイ語というのを話していたのですけれども、皆少しそのギリシャ語ができて、ギリシャ語でコミュニケーションができたという場所です。

ですからこの聖ルカの書いた福音書というのは、彼の書いたギリシャ語というのは、彼はお医者さんですから、学のあった方ですので、他の三つの福音書のギリシャ語より、良いギリシャ語、より優雅な良いギリシャ語で書かれています。

聖ルカの福音書の特徴のひとつというのが、「聖母マリア様が、イエズス様をお生みになった、あるいはその前の話、これが非常に詳しい」というのも特徴です。ですから、「めでたしのお祈り」ですとか、私たちが言っている「喜びの玄義」というのは、これはみんなルカの福音書から来ています。

ですが考えてみますと、このルカという方は、直接見た人ではないので使徒ではなかったので、こんなに直接的な話をどうやって書けたのでしょうか?伝統的に考えられていますのは、聖パウロという方はチェザリアですか、そこで2年間幽閉されている事がありました。そしてその時に、おそらくマリア様から直接話を聞くチャンスがあって、そしてその話をその福音史家のルカに伝えたのだと思われます。

聖ルカという方は、「天主の憐れみの使徒」と言われる事があります。なぜかというと、その天主の憐れみに関する事で、他の福音には見つからない事がここに書かれているからです。

例えば、「放蕩息子の話」というのは、彼の福音書だけに書かれています。ご存知だと思いますけれども、この例え話というのは、天主様というのは、私たちの父親のような方で、私たちが父親を裏切ってしまうのですけれども、いつ帰ってくるか、いつ帰ってくるか、と見てて頂いて、そして私たちがそれを悔いて帰って来た時に、喜んで迎えて下さるような憐みのある方だ、というのを示す例え話です。

イエズス様が十字架に付けられている時に、七つの言葉を仰いました。これは何かお祈りの本を見たら出ていると思いますけれども、イエズス様の七つの言葉というのは、四つの福音書に全部きれいに並んでいるわけではありません。この中で聖ルカが伝えるのは、やはりイエズスの憐れみに関するお話です。そしてこの話というのは、私たちが知っている「良い盗賊」のお話です。

「良い盗賊」というのは、考えてみたら非常に変な表現です(^^;)。良い盗賊と悪い盗賊がいる、というので変な感じですが、聖アウグスティヌスも同じように言っています。ですからこの良い盗賊の話というのは、聖ルカのみが伝える話です。

そしてこの話が非常に良いのは、この良い盗賊と言われる方が、「いかにそれまでの人生を悔いたか」というのが非常によく分かる事です。それは「ごめんなさい」と言うだけではなくて、「自分のやってきた事がいかに悪い事であったか、という事を認めている」という事が明らかになっているところです。

ですから考えてみますと、私たちの主というのは、この十字架に付いていたのですが、単にその有罪になって死刑になったというだけではなくて、一緒に処刑された二人が泥棒であったと、そして泥棒と一緒に処刑された、という事で非常に名誉が傷付けられて、という状況で本来はありました。

そしてこのいわゆる悪い盗賊という方は、私たちの主を侮辱する方に行きました、「本当にメシアだったら、自分で降りてみろ」と、「私を助けてくれ」とそういう主張でした。そしてこの良い盗賊という方が言うのは、「私たちは、この死刑になって当たり前なのだ」と、まず言います。

ですからこの良い盗賊という人は、その「私が死刑になるのは当たり前だ」と、「それが正義だ」と、「私のやった事は悪い事だ」というのを認めて、「その為に自分が死刑になるというのも当然だ」という風に言っています。

この「正義」と言うのですけれども、彼は一体どういう事をしたのでしょうか?この人がした事を考えてみますと、まず「私たちの主を守ろうとした」それも「非常に勇気のある事だった」というのは、もちろんその主の傍には、聖母だとかヨハネだとか、マリア・マグダレナとか何人かはいましたけれども、ほとんど全員の方は、主を攻撃していたので、この横で、死刑になった人を守ろうとしたというのは、大変な勇気のあった事です。

そしてこの人が言ったのは、「主よ、あなたが王国に行く時は、私の事を思い出して下さい」と言いました。

この盗賊の言った事を考えると、非常に驚くべき事が分かります。この盗賊というのは、おそらく死刑になる前は牢屋に入っていたでしょうし、イエズス様の御説教を聞いた事がないかもしれません。しかし、「御自分の王国に行く時には、思い出して下さい」という事は、単なるそのどこかの王かというだけではなくて、「この方が、天主である」という事も分かっていたようです。

この条件を見ますと、罪が赦される条件が全て綺麗に整っています。彼は悪いと思っていますし、主の事を守ろうとしますので、そこで主はこの人の罪を全て赦されます。

あとルカという方はお医者さんだと言いましたが、それが分かるのは、彼の聖ルカの福音を読んでいますと、何か奇跡のような事を書く時に、お医者さんらしい事を書くので分かります。
Q.こういう表現をご存知でしょうか?
A.ゲッセマニです。

はい。ゲッセマニで主が苦しまれた時に、「血の汗を流された」というのは、聖ルカだけに書いてあります。他には書かれてありません。ある人が、その何か悪魔に憑かれているようなという表現で書いてあるのですが、その人の症状を見ると、何かてんかんの症状のように説明がされています。

Q.ルカという方は、他の何か福音書以外も書かれたでしょうか?
A.使徒行録です。

福音書の後にある使徒行録も彼の筆によるものです。ですからこの使徒のやった事を書く所で、一章一節を見て頂きますと、「私は前の本では、主の行なわれた事を書いたが…」という風に言っていますので、同じ方が2冊目を書いたというのがよく分かります。

「この使徒が為した事はこうである」という事を書いているのですけども、よく読んでみますと、ルカが書いてるのは、「聖ペトロと聖パウロが何をしたか」という事を主に書いています。まず最初は、「聖ペトロが何をしたか」と書いてあります。しかしその後、聖ペトロはローマに移る事になります。それは迫害があったからです。そしてその後ルカが書きますのは、「聖パウロがどこに行って、何をしたか」そしてそれはその頃のアジア、今のトルコですけれども、そこですとか、ヨーロッパ、それから牢屋に捕まっていた時の事も書きます。それは彼が聖パウロとずっと一緒にいたからです。

この使徒行録での一番最後のところは、聖パウロがローマで牢屋に捕まっているところまで書いてあります。

何かご質問はありますでしょうか。

ありがとうございました。


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2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話 第一部「アマゾン・シノドスについて」

2019年11月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話
第一部「アマゾン・シノドスについて」
同時通訳:東京信徒会長

今日ちょっとお話をする用意をしてきたのですけれども、今、教会で色々な事が起こっています。特にローマで今、シノドスというのが起こっていますので、ひょっとしてそれに関してご質問をされたいのではないかという風に思っています。

このシノドスの事ですとか、今の状況については英語では色々情報があります。インターネットにも載っています。アメリカのジャーナリストが色々詳しいレポートを書いています。けれども、日本語でそれがどのくらいあるのかはちょっとよく存じておりません。

もし何か最初にご質問があるのであればそれにお答えしますが、もしなければお話を先にさせて頂きたいと思います。

まず、非常に疑わしいと誰でも思うのは、ドイツ人の、ドイツの司教団がどうして、この「アマゾン」という国の所の話に注目して、入って来ているのだろうか?それは何か、ドイツの方からやりたい事があって、秘めた目的があってやっているのではないか?というような疑いがまずあります。

ドイツ人がアマゾンの事に興味があるというのは、別に植民地にしようとか、植民的な事でやっているのではありません。そしてこのドイツの司教団の方々が言われているのは、その「アマゾンというのは、世界では非常に例外的な所である」と、ですから「世界中どこでもその司祭というのがいたのだけれども、ここの人だけは、その独身の司祭というのでは足りないのだ」と、「結婚した男性が司祭にならなきゃいけないんだ」という事を、ドイツの方が、アマゾンについて言っている、というのが状況です。

「司祭が独身である」という事ですけれども、司祭が独身であるという事は、これはキリスト教的な事なのです。

ですからアマゾンについて、このドイツの方々が、「いや、ここはそのキリスト教的ではないので、独身の人ではなくて、結婚した男が司祭にならなければいけない」というのは、何を言っているかというと、例えば、「教会がじゃあアフリカに行った時はどうしたか?」と、そして「アフリカに行った時に、アフリカの人は、そのキリスト教が伝わる前には、一人が何人もの女の人と結婚していた。じゃあ司祭はそうすれば良かったのか?」というのと同じ理論になってしまいます。非常におかしな事を言っています。

そして今ドイツの司教の方々とか、教皇様もその一部かもしれませんけれども、やっていらっしゃるのは、このアマゾンの人たちをローマに呼んできて、そしてその人たちに、「ちゃんと自分の民族衣装だとか、こんな羽を付けるのだとか持って来て、やって下さい」と、そして「この人たちを連れて来ると、私たちのやりたい変更が教会で出来るのだ」という事を言っているようです。

そして過去にもこういう事がありましたが、例えばこういう、その「結婚をしている人が司祭になる」という事をアマゾンで例外的に許したというと、次に何が起こるかというと、「いや、実験的にも他の所でも許してみよう」という事が起こります。そしてこの方たちが仰るのは、「アマゾンという所では、その『司祭』という男の人が独身であるという事が分からない。アマゾンの人たちには、それが分からない」と言うのですけれども、まさに分からないからこそ、キリスト教の福音を伝えなければいけない。それは反対の事であると思います。

この司祭が独身であるという事は、非常にキリスト教的な考えです。例えばその前のユダヤ人が旧約の時に何をしていたかというと、ユダヤ教の司祭というのは、儀式をする時に一週間、神殿に籠もるという事がありました。その一週間を独身と言えるかどうか分かりませんが、独身になりたかったのかもしれませんが、奥さんの所から一週間神殿に籠もって、儀式をして、奥さんの所に帰る、という事をしていました。それからそういう時代でしたから、イエズス様がこの世にいらっしゃって、「結婚しなかった」というのが初めての事です。

そして使徒たちの数多くは結婚していませんでしたし、例えば聖ペトロは結婚していましたけれども、奥さんの元を去って、イエズスに従うという事をしました。

そしてこのアマゾンのシノドスという所で、そのそれを促進しようという方がやっていらっしゃるのは、「結婚している人を司祭にしよう」という事と、それから「もっと女性に、その典礼の何か位置を与えよう」と、例えば助祭というのでしょうか、いわゆる「女性の助祭というものを作ろう」と。それはなぜかというと、「召命が足りないからだ」という事で、そういう風に言っているのですけれども、これはもう実際、その場では何か起こっていて、女性がミサのような、まぁ真似事ですけれども、ミサのような事をやっている、という事が実際やられているそうです。アマゾンでは。

それから典礼については、この人たちが言っているのは、「もっと(いわゆる日本でも起こりましたが)、インカルチュレーション、その地元の文化を典礼に入れる」という事を望んでいる、そしてそれを実行しようとしています。

皆さんひょっとして写真を見られたかもしれませんけれども、このシノドスの最初の頃に、写真を見ると、そのバチカンの宮殿で何かピクニックをしているような写真がありまして、そのアマゾンの方がいらっしゃっている傍に、司教様とか教皇様も座っていて、何か儀式のようなものをしていて、なんとその後に、偶像の像を持って、サンピエトロのバジリカの中まで行進しているという、こういうとてつもない事をやっています。

ですから私たちが予想しますのは、通常こうシノドスというものがありますと、その後その議論をまとめた書類を誰かが作りまして、そしてその書類を見て、教皇様が何かをその結論を出す、何かを認可するような書類を出される。ですからおそらく1年後ぐらいに、教皇様から何か書類が出て、これは「アマゾンというのは非常に特別な所なので、ここだけに結婚した司祭を許す」というような書類が出るのではないかと思います。そして私たちは、これは完全にやりすぎだと思います。

それから、いわゆる保守的な方で、「聖ピオ十世会はやりすぎだ」と言っていた方も、これを見て、「いや、やっぱり今の教皇はやりすぎだ」と、意見を変えていらっしゃる方も多いと聞いています。

ですから、「教皇フランシスコ、教皇になって頂いてありがとうございます」と言う人がいます(^^;)。ですから、非常に変な意味なのですけれども、フランシスコ教皇のやっていらっしゃる事によって、「聖伝というのが逆にいかに重要だったか」と、そして「今起こっている事がいかにおかしいか」という事で、目覚める人がいるので、教皇様ありがとうございます、という変な感情になる事もあります。

教会というのは民主主義ではなくて、階級があるものですから、教皇様というのはそのトップにいらっしゃる方なので、もちろん御自分でお決めになる事ができるのですけれども、こういう会議とか、何かの形を取りながら、結局自分でやりたい事をやっていらっしゃる、そして個人的に思われた「これが良い」と思う事を、勝手にやっていらっしゃるようです。

このフランシスコ教皇様というのは、選ばれた次の日の朝にお話になった時に既に、カスパー枢機卿、近代主義的な方ですけれども、その方の神学が、「非常に素晴らしい」という風に仰っていたので、そこからその「誤った憐れみ」に繋がって、「離婚して同棲している方に、じゃあ御聖体を」というような話に繋がっていくのが非常に最初から明らかでした。

教会というのは民主主義ではなく階級がありますので、では私たち下にいる者は、一体何ができるのでしょうか?あなた、私、皆さんは、私たちは、別に教会のどこか高い階級にいる者ではありませんから、やれる事は本当にありません、限られています。

今日最初に申しましたけれども、これは別に聖ピオ十世会の方ではないですけれども、アメリカのジャーナリストのような方は、このローマに行って、「このシノドスが何が起こっているのか」という事を詳しく報道されていますし、そのシノドスをやっている人たちに対して、「一体何をしているんですか?」と、「これはおかしいんじゃないですか?」という事を明らかにして、それを全て逐一インターネットに載せて下さっているので、それはそれで非常に良い仕事をされていると思います。

この日本語でそういうのがどれくらいあるか分かりませんけれども、追ってこういう内容が少しでも日本語に翻訳されて、日本の方も読めるようになると非常に良いと思います。

また、お祈りをするのを忘れてはいけません。教会というのは超自然的なものですから、この悪い人、おかしい人がそれを一生懸命変えようと思っていても、教会というのは、イエズス・キリストのものですから、イエズス・キリストがどうしていらっしゃるのか、寝ていらっしゃるのか知りませんが、ある日起きて、この酷い事を全部止めて、綺麗になさる日が来ます。

この教会に起こっている事で、あまりガッカリしないで下さい。急にお酒を飲みすぎるような事はしないで下さい。

私たちのできる事は限られていますけれども、でもその限られた事を、私たちはちゃんとしなくてはなりません。そのガッカリしょんぼりしてはいけないというのは、ガッカリしょんぼりするというのは、カトリック的ではありません。「しょんぼりしてしまう」というのは、「イエズス・キリストが、これは負けている人だ」と思う事です。

そうではありません。イエズス・キリスト様が、そのこれからどうする、というのを私たちに伝える義務があるわけではありません。私たちには分かりません。けれども、イエズス・キリスト様は、必ずその為すべき事を為さいますので、私たちも自分の為すべき事を為さなくてはいけません。

フランシスコ教皇様というのは不死身ではありませんから、いつかお亡くなりになると思いますので、次の教皇様もどういう方か全然分かりません。ですから、ちょっとはそれでマシになるかしれません。

この後ちょっと全然違う事をお話しするので、この件についてもしご質問があれば、今何かして頂きたいと思いますけれども、ご質問はありますでしょうか?

質問者Aさん:ギリシャ正教のビザンチン典礼をやっている所で、カトリックに戻ったところがありますね?そこは司祭が妻帯しているのだと思うのですが、それはどうなのでしょうか?

ワリエ神父様:まず古い教会、初期の教会では何が起こったかといいますと、初期の教会の頃は、神学校というのがあったわけではないので、どういう風に司祭とか司教が選ばれたかというと、市民の中でその学を持って、司祭・司教にふさわしい人というのが選ばれて、そしてその中には結婚した人も選ばれて、司祭とか司教になった事がありました。そしてその初代の教会では何が起こったかというと、その司祭とか司教に選ばれた方は結婚していたのですけれども、その家を離れて、まぁいわば独身の司祭・司教としての職務を果たされる、という事がありました。それが初期の教会のお話です。

その後教会はどうしたかと言いますと、教会の形が出来てきた時に、若い男性の中から司祭の候補を選んで、その人を司祭にするという事を始めました。

それで確か6世紀から7世紀の頃だったと思いますけれども、東の方で公会議がありまして、この結婚している司祭を認める、という決定がなされました。それにローマは強く反対したのですけれども、それによってそこの東の方が全部離教するという事を恐れたので、ローマはその「場所を限って、それを一応許す」という事を始めました。その「場所を限って」という場所が、今の言葉で言うと、「東方典礼をやっている所」です。

ですから、ローマがこれを積極的にやったわけではなくて、「そこの地区が全部離教してしまうのを防ぐ為に、しょうがなくて許した」というのも、それも、「非常に限定した地域で許した」という歴史があります。

しかし私たちは、このギリシャ典礼のそのカトリックの方も、「独身」というのを非常に大事だと思っている事が分かります。なぜかというと、このギリシャとかその東方典礼のカトリックの方がやっている事というのは、司祭がまず結婚するのではありません。結婚した人が司祭になる事があるという事で、ただ結婚した司祭は、決して司教にはなれません。司教は、その結婚していない独身の司祭の中から選ばれます。

そして西方の教会でも、11世紀頃に大変酷い問題がありました。司祭の中には、女性と一緒に住んでいるような人がいっぱい現れました。そしてそれを見て教会は、いやぁ、じゃあしょうがない、じゃあ結婚しても良いか、とは言わずに、教会はやはりそこで、そういう司祭がいなくなっても、「独身を守らなければならないのだ」という風に、西方のローマの教会は、そういう決定をしてきました。

それからずっと後の事になりますけれども、第二次世界対戦後以降だと思いますが、ローマの教会で唯一この例外を認めたというのは、英国国教会、アングリカンの方ですとか、ルター派の人がカトリックに改宗する時に、ほんの少ない例外を認めた事があります。例えばピオ十二世教皇様がなさった事は、アングリカンの英国国教会の、結婚しているあそこは牧師さんと言うのですかね、牧師さんとその信者が何千人いらっしゃる、そしてこの牧師さんが、「カトリックになりたい」というケースがありました。そしてその牧師の方が訓練を受けて、カトリックの司祭に叙階される、と。奥さんがいらっしゃったのですけれども、それを認めると、その「何千人のそこの信者の方も、一緒にカトリックになります」というケースがあって、それで教皇様はその何千人の為に、「ではこれを、例外を認めましょう」という事を仰いました。

ですから大事な事は、教会というのは、こういう事は確かにありましたが、結婚した人が司祭になるというのは、いつも「例外」でした。ですから例外というのは、いつも例外であるべきであって、それを一般化してはなりません。

ですから、今そのドイツの司教団の方がやろうとされているのは、ドイツの本当に一部で、いや例外だ、と言って、実は「ドイツ中でやろう」という事を狙われている、というのが明らかです。

質問者Bさん:日本にはあまりカトリック教徒がたくさんいない、少ししかいないというのは皆知っているのですけれども、教皇様が何でそのわざわざ遠い日本までいらっしゃるのでしょうか?その何か近代主義的な狙いがあっていらっしゃるのでしょうか?

ワリエ神父様:教皇様がいらっしゃるのは、主な訪問地は広島・長崎だと聞いていますので、この教皇様というのは、いつもそういうその近代主義的な何か狙いがある事を、どこに行っても年中喋る方ではありません。その場所を選んで喋る方なので、おそらく来月になってみないと分かりませんが、日本では核兵器反対だとか、環境を守ろうとか、そういう事を中心にお話しされるのかと思います。

こういう事を聞いてガッカリするというのは先ほど違うと言いました。私たちが死んでしまった時に、イエズス様は私たちに聞かれるのは、その教会でどういう問題があったんだ、という話ではなくて、「私たちが、カトリックとしてどういう生活をしてきたんだ?」と、「家族と世界の中でどうしたんだ?」と、「カトリックとしてどうしたんだ?」という事を聞かれますので、そっちに注力しなくてはいけません。

ですから、こういう事が起こっているというのをある程度分かっている事は重要ですけれども、毎日毎日、「こんな問題がある」「あんな問題がある」「スキャンダルがある」というのを探し回る事はしないで下さい。

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教皇レオ13世回勅『リベルタス・プレスタンシッスィムム』Libertas praestantissimum(人間の自由について) 1888年6月20日

2019年11月05日 | カトリックとは
教皇レオ13世回勅『リベルタス・プレスタンシッスィムム』(人間の自由について)
1888年6月20日
訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会
Copyright © Society of Saint Pius X, 2001 All rights reserved


DE LIBERTATE HUMANA


いとも聖なる私たちの主の、天主の御摂理による教皇レオ十三世の、
天主の恩寵と使徒座との交わりを持っている
カトリック全世界の総大司教、首座大司教、大司教、司教たちに宛てた
人間の自由に関する回勅

導入:自由の偉大さ
主イエズス・キリストは、自然の最高の善である自由に、特別な助力をお与えになり、カトリック教会は自由を尊重する。

自由、すなわち自然の最高の善 (Libertas, praestantissimum naturae bonum) であり、知性ないし理性を持つ者にのみが持つ特性である自由は、人間にかの際立った尊厳 ――― 人がその尊厳のおかげで「自らの思量の手の間に」置かれ、自らの行為の主人となる尊厳 ――― を付与します。しかしこの特性においてとりわけ重大な問題は、かの尊厳をどうやって行使するかということです。何故なら自由の用い方いかんによって、最高の善が生み出されるように、甚だしい悪も生み出されるからです。実に人間は自らの理性に従い道徳的な善を実践し、己の最終目的へとたゆまず前進する事が出来る能力を持っています。しかしそれと同時に人間は、それが何であれ、かかる究極の目的以外のものに向かって、単にうわべだけの善の虚しい幻を追い求め、こうして正しい秩序を乱し、自ら進んで選んだ破滅へと真逆さまに落ちて行くことも出来るのです。イエズス・キリストは人類の解放者であり、人間の自然本性の原初の尊厳を回復しさらにより良く高められました。そして主イエズス・キリストは人間の意志に特別な影響をお与えになり、御自分の恩寵の賜によりこの地上においてそれを助け、また天国の至福により天国への見通しを開き、人の意志をより気高い状態に置かれました。従って同様な理由によりカトリック教会は我が人間の本性の持つ優れた賜の為に素晴らしく貢献してきましたし、また将来も常に貢献しつづけるでしょう。なぜならカトリック教会にのみ、イエズス・キリストが私たちのために勝ち得てくださった諸々の恩典を保証し世々に伝え広めていく使命が委ねられているからです。しかしながら、教会が人間の自由に対立するものだと思い込んでいる人が多数くいます。その原因は、自由が何であるかについての誤った、正反対の考えにあります。自由という観念そのものをねじ曲げてしまうか、あるいは自由に観念をあまりにも誇張し拡大してしまい、健全な理性の判断に従えば人が自由であるとは言えない多くの物事にそれを適応させてしまっているからです。

正しい自由の観点を知る必要性

現代、誤った意味での自由が主張されており、この問題を別個に取り扱う必要性がある

私は他の機会に、特に回勅『インモルターレ・デイ』の中で、いわゆる「現代のいろいろな自由」について述べたことがあります。その中で善とそうでないものとを区別し、これらの自由において見出される要素の中で善いものは何であれ、真理自体と同じくらい古くから存在すること、また教会は常に心から進んでそのような意味での自由を承認し、かつ実践に移してきたこと、その反対に、それに新たに付け加えられたものは、真実を求めるもににとっては、倒錯したものであり、時代の混乱による産物、新奇なものへの飽くなき渇望の結実に他ならないことをも示しました。しかしながら、なおも多くの人々がこれらの自由について自らの考えに固執し、こういった現代の悪い意味での「自由」が、それらが実際は腐敗したものであるにも関わらず、私たちの時代の最高の誉れ、かつ政治構造上の必要な根幹を成すものであり、それなしには、どんな全うな政府も考えられないと主張しつづけるのを目の当たりにして、私は公の利益のためにこの問題を別個に論じる必要があると思われました。

真の自由とは

自然的自由に関する教会の教え

自然的自由は、全ての自由の基礎であり、人間の理性的な本性に由来する

私がまず第1に取り扱おうとするのは、個人のあるいは共同体における「道徳的自由」Libertas moralis についてです。しかし、その前に「自然的」な自由(libertas naturalis)というものについて手短に述べておくことはむだではないでしょう。と言うのも、この自然的自由は、道徳的自由とは区別され、別個のものではありますが、にも関わらずそれは、あらゆる種類の自由がそこから、「自らの力で、自発的に」流れ出る源泉だからです。人々が余儀をはさむ余地もなく一様に同意し、判断するところ ――― それは自然の信頼に値する声にほかなりませんが ――― に従えば、このような自然的自由は知性ないし理性を持ったものにのみ見出されるのであり、そしてこの自由の行使に基づいて人は、自らの為す行為に対して責任を有し、正しくも見なされるのです。と言うのも、他の動物は自らの感覚にしたがい、ただ本能のみによって自らにとって益となるものを追い求め、害をもたらすものを避けるのに対し、人間は人生において為す1つ1つの行為を理性の導きに従って為すよう創られているのです。理性はまた、この世界で善いと見なされているあらゆるものが、存在しても、存在しなくてもよいものであり、それらの中1つとして自らの意志を必然的に引きつけ得ず、したがって意志は自らの望む対象を自由に選び得ることを見ぬきます。さて、人間がこのように自らの意志の対象となるものの「偶然性」を見通すことができるのは、単純で精神的かつ知性的な霊魂、 ――― つまり、物質によって作り出されるのでも、物質にその存在を負うのでもなく、天主から直接に創造され、物質的な事物に固有な制約・条件をはるかに凌駕し、自ら独自の生命と活動とを持つ霊魂 ――― を有しているからに他なりません。このようなわけで、真にして善なるものの変わることのない必然的な理念を認識するにいたった霊魂は、いかなる特殊的な種類の善も私たち人間にとって必然的ではないことを了解するのです。したがって人間の霊魂が不死のものであり、理性を備え、物質的な事物に拘束されないということが明らかな事実として確立されるやいなや、自然的自由のゆるぎない基盤が据えられるのです。

不死の霊魂が自然的自由を持つことを、教会はあらゆる誤謬に対抗して教え続けてきた

霊魂が単純であり霊的であり死なないことを宣言するカトリック教会は、同様に霊魂が自由なものであることをも絶えず、公に明言してきました。教会はこれらの真理を常に変わらず教え、信仰すべきドグマとして定めてきたのであり、異端者あるいは偽りの改革者たちが人間の自由を攻撃するときはいつも、これを擁護し、この尊い賜が破壊されてしまうのを防ぎました。歴史を紐解いてみれば、どれほどの熱意をもって教会がマニ教の教徒およびそれに類した者たちの憤激に立ち向かったか、またその後、ヤンセニストの不合理な教説に対し、トリエント公会議をとおしてどれほどの真摯な善意をもって人間の自由を擁護したかは誰の目にも明らかでしょう。教会はかつていかなる時も、いかなる場所においても「運命論」を受け入れたことはありませんでした。

精神的自由とは

自由とは知性と意志とによって選択することが出来るものに属する能力

したがって、これまで述べてきたように、自由は理性ないし知性を有するものだけに属しています。その本性について言えば、それは「既に定まった目的の達成に適した手段を選択する能力」です。多くある中から1つを選ぶことができるものだけが自らの為す行為を支配していると言われ得るからです。さて、手段として選ばれるものはすべて、善もしくは役立つものとして見なされ、また善とは私たちの欲求・願望の固有な対象なのですから、選択の自由とは意志に具わった特性、あるいはむしろ、はたらきにおいて選択の能力を有しているかぎりでの意志に他なりません。しかし、意志は知性の認識・知識によって照らされることなしには、はたらくことができません。言いかえると、意志が欲求する善は、それが知性によって善いものとして知られているかぎりにおいて必然的に善いものなのです。何故なら、意志のあらゆるはたらきにおいて選択は善いものとしてたち現れる事物が本当に善いかどうかと言うことについての判断に引き続いて成され、どの「善」を優先すべきかを表明するからです。そして分別のある人なら誰でも、判断は意志のはたらきではなく、理性のはたらきであることをわきまえています。したがって理性的な意志、および理性的意志のもつ自由の目的ないし対象となるのは、理性に適った善だけだろうということが分かります。

誤った知性と弱き意志のために悪しき選択を犯す可能性がある

しかしながら、人間の理性と意志は共に絶対的な完成を欠く能力であるので、先に指摘したように、理性が実際には善ではないが、善に見えるものを欲求すべき対象として意志に示し、意志は知性の提示にしたがって見かけだけの善を選択するという事態が生じ得ますし、よくこのことが起こります。ちょうど知性が誤りうるということならびに実際に誤ってしますことは、知性の欠陥であり、知性の不完全さを示します。知性が善の見せかけをもった対象を追求することは丁度、病気が私たちの生命力のしるしであるのと同様、私たちが自由を持っていることの証しではありますが、やはり人間の自由の欠陥を示唆します。意志もまた、それが理性に依存するものであるという事実のゆえに、もし理性と対立する対象を欲求すれば、即自らの選択の自由を乱用し、さらに自らの本質自体を損なってしまうことにもなります。したがって、無限に完全な天主は最高に自由でありながらも、その知性ならびに天主が本質的に善であるという比類なき卓越性のゆえに、悪をお選びになることが出来ません。これは至福直感を味わう天使、聖人たちも同様です。聖アウグスチヌスおよびその他の聖なる教師は、ペラジウス主義者に対し、もし真の善からの離反が自由の本質ないし完全性に含まれるのであるとすれば、これを有し得ない天主、イエズス・キリスト、および天使、聖人らは自由を全く有しないか、あるいは天国への巡礼者という不完全な状態にある私たち人間よりも少ない自由しか持っていないということになる、と見事に反駁しました。この問題については聖トマス・アクィナスも、罪を犯し得る可能性は自由ではなく、隷属状態であることを証明し、頻繁に論じています。ここでは、この天使的博士、聖トマス・アクィナスが『誰であれ、罪を犯すものは罪の奴隷である』(ヨハネ8章34節)という主の御言葉について巧みに注釈している箇所を引用すれは充分でしょう。『あらゆるものは、自ら生まれつきの自然に従ってあることが適している。故にそのものが自らの外にある力によってはたらくならば、自らによってではなく他のものによって、つまり奴隷としてはたらくことになる。しかるに、人間はその本性上、理性的なものであり、理性に従って行為するとき、自ら自発的に己の自由な意志にしたがって行動する事となりこれが「自由」である。しかるに、罪を犯すとき人は理性に逆らい、他のものに動かされ、自分以外のものの支配下におれたかの如くになる。それゆえ、「誰であれ、罪を犯すものは罪の奴隷」なのである。』

古代の哲学者たちでさえ、この真理をかなりはっきりと認めました。中でも、賢者だけが自由であると説いた者たちは特にこの事実を良くわきまえていました。そして、ここで言う賢者とはもちろん、自らの本性に ――― 即ち正義と徳に ――― 従って生活するよう鍛錬した人のことを指しています。

自由は法を要求する

したがって、人間の知性と意志とは、法という指導者が必要である

さて、人間の自由の状態がこのようなものだとすると、人間は自らの自由意志をもって行動するにあたって、しかるべく善を為し、悪を避けるために光と力添えとが当然、不可欠となります。そして、それなしには私たちの意志の自由は、私たちを破滅へと導くものとなるでしょう。

まず第1に、「法」 ――― すなわち、何を為すべきであり、何が為されるべきでないかを教える確固とした規範 ――― がなければなりません。人間以外の動物は、本来の意味でこの種の規範に服することは決して出来ません。自らの自然的本能にのみ従い、それとは異なった仕方で行動することが出来ず、したがって常に必要に駆られて行動するからです。反対に、自由を有する人間は、先に指摘したとおり、自らの好むままに行動することも、しないことも出来ます。判断が選択に先行して成されるからです。そして、この判断は何が正しくて、何が誤ったものであるかを、そのことがら自体の本性にしたがって決定するのみならず、実際の現実的な状況に則して何が善であり選択すべきなのか、また何が悪で避けるべきなのかをも決めるのです。つまり、理性は意志に対し、すべての行為がそのために為されるべき人間の究極目的の達成のために、何を求め、何を避けるべきかを定めるのです。そして「理性」によるこの秩序付けを法と言います。したがって、人間の自由意志の中に、もしくは私たちが理性に則して為す意志的行為の道徳的必然性の中に、法の必要性の根拠があるのです。それゆえ、人間は本性上自由なのだから、法から免除されると考え、あるいはそう公言するのは、この上なく愚かなことと言わざるを得ません。もし、このとおりだとすれば、自由なものとなるために私たちは理性を棄ててしまわなければならなくなってしまうでしょう。しかし、実際は、私たちが本性上自由なものであるという、まさにこのことのゆえに、私たちは法に服従する義務を負うのです。なぜなら、法とは人間の行為の指針であり、報いをもって人を善へと向かわせ、罰によって悪から遠ざからせるものだからです。

全ての法は天主からの法である

個人において天主の永遠法が刻まれた自然法がある。天主の聖寵に助けられてこれを守らねばならない

さて、このはたらきをなす第一のものが、あらゆる人の心に記され刻まれている「自然法」であり、これは私たちに正しいことを行わせ、罪を禁じる私たちの理性に他なりません。しかしながら、人間の理性による規定が法としての効力を持つのは、それらが私たちの理性と自由とが必然的に依拠する特定の、より高い権威の声ないし、その意向を伝えるものであるかぎりにおいてのみです。なぜなら、法の効力とは義務をを課すこと、あるいは権利を与えることに存するので、義務と権利とを定め、自らが出す全ての命令について、報奨と懲罰による必要な制裁を割り当てる力に他ならない「権威」こそが全ての法の唯一無二の基盤となります。しかし、明らかにこれら全てのことは、一つとして人の中には見出されません。たとえ人間が自ら自身にたいする究極の立法者として自らの行為の基準・尺度となろうとしても、上で述べたような法の基盤となる[客観的な]権威を思うままに生み出すことはできません。したがって、自然法とは理性的被造物の中に植えつけられ、それらをして、自らが本来めざすべき「正しい行為および目的」へと向かわせる「永遠法」に他なりません。そして、かかる永遠法こそ、まさに全世界の創造主にして支配者たる天主の理性なのです。さて、この行為の基準および悪への歯止めに関して人間の意志を強めるために、天主はもっとも適切な、特別の助力をお与えになりました。この助力の中で第一かつ最もすぐれたものが、ご自身の神的な恩寵の力であり、これによって人の精神は照らされ、意志は健やかな活力を得、道徳に適った善を常に追い求めるようになり、こうして私たちの生まれ持った自由の行使はより容易かつ安全なものとなります。しかし、天主の恩寵による助力が私たちの意志の自由なはたらきをいかなる意味においても妨げるということは全くなく、事実はまさにその反対です。と言うのも、恩寵は人の内側で、人が持つ自然的傾向性と調和した仕方ではたらくからです。恩寵とは、人間の知性と意志の創り主である天主御自身からもたらされるものであり、すべてのものを、それぞれの自然本性にしたがって動かすのですから、これは当然のことと言えましょう。聖トマス・アクィナスが指摘するように、天主の恩寵は、それが自然本性の創り主から来るものであることのゆえに、あらゆる自然本性を保全し、それぞれの特色、効能、はたらきとを保つのに、素晴らしく適合しているのです。

天主と自然法を実行させ援助すべく、社会には人定法が存在する

個人の自由について述べてきたことは、個々の人が市民社会において一つのまとまりを成しているとき、そうしてできた共同体についても当てはまります。と言うのも、理性と自然法が個々人に対して為すことを、国家の市民として見た彼らに対して、その善を目して公布される「人定法」が為すからです。人々によって制定される法の中で、あるものは、その本性自体によって善または悪であることがらに関わり、そのような法は賞罰による適切な制裁措置をともなって、人々が正しいことを行い、あやまったことを避けるよう命じます。しかし、この種の法は決して市民社会にその根源を有するのではありません。なぜなら、ちょうど市民社会が人間の自然本性をつくったのではないのと同様、この市民社会が自然本性に適った善およびそれに反する悪とを定めることはできないからです。 法は人々が社会において共に生活する前から存在しているのであり、その根源を自然法、そして究極的には永遠法のうちに有しているのです。

それゆえ、自然法上の規定には人間が制定する法の規定に内容として含まれていますが、人定法の効力を持つに止まらず、同時に自然の法および永遠法に属する、より高く、より威厳をともなった制裁権を有しています。そして、この種の法の領域における公の立法者の責務は主として、「共通の規律の採択」および「不服従かつ邪悪な傾きを持った者たちへの抑制」によって共同体を従順なものとすることにあります。このようにして、悪に陥るのを阻まれた彼らが、善へと向かう、あるいは少なくとも国家に対して問題を起こし、その治安を乱すことがなくなることが立法者の意図となるのです。

さて、公権による法規の中には、自然法から直接にではなく、いくぶん距離を置いて由来し、自然の法がただ一般的かつ漠然とした仕方で扱う多くの点をはっきりとしたかたちで定めるものがあります。例えば、[人間の]自然[本性]は、全ての人が公共の平安と繁栄とに寄与するよう命じますが、それがどのような仕方、および状況において、またいかなる条件の下に為されるのがふさわしいかは自然本性によってではなく、人々の知恵によって決定されねばなりません。そして、理性と賢慮とによって考察され、しかるべき権威によって発布されるこれら社会生活上の個々の規定にこそ、固有な意味での人定法が存するのであり、この人定法は全ての市民を共同体がめざすべき共通善の達成のために結束させ、かつこの目的に背を向けることを禁じます。こうして人定法は、それが自然の命ずるところと合致しているかぎりにおいて人々を善いものに導き、悪から遠ざけるのです。

自由は天主の法を要求する
したがって真の人間の自由は、天主の永遠法との一致に存する


以上の事実から、天主の永遠法こそが人間の自由 ――― それもただ個人の自由だけでなく、その個々人が一つのまとまりとして構成する共同体および市民社会のそれをも含めて ――― の唯一の尺度かつ基準であることは明らかです。したがって、人間社会の真の自由は人がみな自分のしたいようにすることにあるのではなく ――― それはただ騒動と混乱をまき起こし、国家の転覆に至らせるだけでしょう ――― 、却って法の命令によって全ての人が永遠法の規定により容易にしたがうことができるということにあるのです。同様に、権威の座にある者たちの自由は、その配下にある者たちに不合理で勝手気ままな命令を下す ――― このようにすることは国民の側の無秩序な「自由」と同様犯罪的であり、国家の滅亡につながるでしょう ――― 、かえって人間が定める法の諸規定の拘束力は、それらが永遠法の具体的な適用であると見なされ得、またあらゆる法の原理・根源としての永遠法に含まれていないことがらについては何も承認することはできないという点にこそ存するのです。この意味で、聖人アウグスチヌスは、次の示唆に満ちた言葉を残しています。『私はあなたもまた、人々が永遠法から得たところのもの以外には、この世の法には正当で合法的なことは何一つないということを了解されることと思います。』« Simul etiam te videre arbitror, in illa temporali (lege) nihil esse iustum atque legitimum quad non ex hac aeterna (lege) sibi homines derivarint. » ですから、もし誰か権威の座にある者によって正しい理性の原理から逸脱したこと ――― したがって国家社会の福祉に有害なこと ――― が許されるならば、そのような法令は正義に適った法規ではないため、法としてのいかなる拘束力をも持たず、ただ人々を市民社会の目的である善から遠ざけてしまうのが必定です。

天主の権威が人間の自由を、人間の完成という善まで、導き完成させる

11.したがって、人間の自由の本質は、それをどのような観点から考察しても ――― 個人におけるそれであれ、あるいは指導的立場にある人もしくは従う者におけるそれであれ、何らかの最高かつ永遠の法 ――― もちろんそれは善を命じ悪を禁じる天主の権威に他なりません ――― への恭順の必要性を前提としています。したがって、人々に対する天主のこのきわめて公正な権威は私たちの自由を減じたり、あるいは消滅させてしまったりするようなことは到底なく、かえってそれを守り、かつ完全なものとします。あらゆる被造物の本当の完全さは、それぞれが自らに固有な目的を追求し、到達することにあり、しかるに人間の自由が慕い求める最高の目的は天主であるからです。

教会は自由を擁護する
カトリック教会はこの真の自由を常に擁護してきた

12.理性自体の光によって把握されるこのきわめて真実かつ至高の教理を教会は、その天主である創始者の模範と教えに照らされて常に喧伝し、主張してきました。事実、教会は常にこの教理を基準として自らの職務およびキリスト教国家の教導を行ってきたからです。道徳に関して言えば、福音の戒律は異邦人の知恵をはるかに凌駕するばかりでなく、古代の人々のあずかり知らぬ聖性の状態へと招き、導き入れるものです。それは人をして天主へと近付け、人を直ちにより完全な自由を享受する者とします。このように教会の強い影響力は人々の社会的、政治的自由の保全・保護において常に明らかに示されてきました。この点に関して教会の功績を数え上げることはこの回勅の意図するところではないので、ここではただ異邦の諸民族におけるとがむべき因習であった奴隷制が、主に教会の慈善の精神に根ざした努力によって廃止されたことを思い起こすにとどめましょう。法律が、かたよらず公正であるべきこと、また人間同士が互いに真の兄弟であることはイエズス・キリストによって初めに主張され、また使徒たちは師のこの教えをこだまするかのように、今後はユダヤ人も異邦人も野蛮人もスキタイ人もなく、すべての者はキリストにおいて兄弟であると宣言したのでした。

 この点におけるカトリック教会の影響がいかに強力で際立ったものだったかは、たとえそれがどこであれ、教会が一旦足を踏み入れた地では、野蛮な習俗はもはや存続し得ないということを証するおびただしい経験上の事実によって分かります。[このような場所では]温良さがすぐさま凶暴さに取って代わり、真理の光がたちどころに未開の暗黒を払いのけます。また教会は、あらゆる時代の文明化された国々に対しても同様に豊かな恩恵を与えてきましたが、それは、邪悪な者らの圧制に抵抗したり、あるいは潔白な生活を送りながらも、身を守るすべのない弱い人たちを危害から守り、あるいはまた、その公正さによって国民の支持を受け、外的からはその力のゆえに恐れられた政治体制を、それがどのような形態のものであれ、自らの影響力を行使して支持することをとおして為されました。

教会は権威を天主に向けさせ、真の従順を高め、専制に対して防壁を置く。

13.そもそも、最高の義務とは権威を尊重し、正しい法律に従うことであり、こうすることによって共同体の成員は、邪悪な人々の悪行から効果的に守られます。合法的な権力は天主からのものであり、『したがって、権威に逆らう者は天主の定めに逆らう』のです。ですから、従順が全ての中で最も公正かつ至高の権威に対して向けられるとき、それはきわめて気高く尊いものとなります。しかし、命令を下す権力が欠如している場合、または理性ないしは永遠法、もしくは天主の何らかの定めに相反する法律が制定される場合、[それに対する]従順は非合法であり、そのようにすることは人に従って、天主に従わないことになります。

このようにして、専制的な圧制に対する効果的な防壁が存在するので、国家の権力はすべてを自らの好きなようにはできず、個人の、あるいは家庭の、さらには国家共同体の全ての成員を含んだあらゆる者の利害と権利とが保護されます。こうして皆が法と正しい理性とにしたがって生きる自由を享受することとなり、そして先にも指摘したとおり、ここにこそ真の自由が存するのです。

真の自由から偽りの自由へ
教会の知慧から遠ざかるリベラル派の愚かさ

14.もし人々が自由の問題について語り合うにさいして、ちょうど今、理性に適った仕方で論理的に解明したごとく、その真の正当な意味を注意して把握するならば、教会に対して、個人と社会の自由の敵だという中傷を投げかけたり決してしないでしょう。

しかし、サタンの足跡にしたがい、彼の「私は従わない」という逆らいの叫びを自らのモットーとし、その結果、真の自由をこの上なく浅薄なまったくの放埓に置き代えてしまう多くの人がいます。この種の人には、例えば、自由の名を不当にも自らに付し、「自由主義者」を標榜する、広く普及しかつ強力な組織に属する人々が含まれます。

偽りの自由:自由主義者の主張

個人における理性絶対主義
人間理性を絶対とし、天主の権威を否定


哲学における「自然主義」と「理性主義」との信奉者たちが目指すことを、「自由主義」の信奉者は道徳および政治の分野で成就させようとしています。何故なら彼らは道徳と実際の生活の中に自然主義によって打ち立てられた原理を導入しているからです。「理性主義」の根本的原理は人間理性が最高主権者として支配することであり、これは天主の永遠の理へのしかるべき恭順を拒んで自らの自立性を主張し、こうして自らを真理の最高の原理、起源、判定者とするものです。このように、自由主義の信奉者は従うべきいかなる天主の権威の存在をも否定し、全ての人は自らに対して自分固有の法であると公言してはばからないのです。そして、このような思想からは彼らが「独立的な道徳」と称する倫理体系が生じます。これは、「自由」という口実のもとに天主のお命じになることに対するいかなる従順からも人を解き放ち、その代わりに際限のない放縦を置くものです。こういった考え方の行き着くところがどのようなものであるかは容易に想像できます。なぜなら、一旦人が自分は誰に対しても従属するものではないという確信を抱くならば、市民社会を一つにまとめ上げる根拠は人間にとって外的な、あるいはより上位のいかなる原理の中にも求めるべきではなく、ただ個々人の自由意志にのみ見出され、国家における権力は人民に由来し、そしてあたかも全ての人がそれぞれ有する理性がその人の生き方の唯一の基準であるかのように、共同体の集団としての理性は、あらゆる公の事柄を執行するにあたっての最高の指導原理となるのです。ここから、「数の優越の絶対性および全ての権利と義務は多数派に存する」という教説が生まれます。しかし、すでにこの前に述べたことから、こうしたこと全てが理性に反していることは明らかです。人および社会と、創造主であり、したがって最高の立法者である天主とを結ぶいかなる絆の存在も認めないのは、全く人間のみならずあらゆる被造物の自然本性に反することです。なぜなら、あらゆる結果は何らか固有な仕方でその原因に結び付けられていることが必然であり、また、あらゆる[ものの]自然本性にとっての完成には、自然が定めた領域および段階の内にとどまること、すなわち、より下位のものがより上位のものに服従し、従順であることが含まれているからです。

国家における理性絶対主義

快楽が道徳、多数決が法、反乱は至る所に広がる

それに加えて、この種の教説は個人および国家にとってきわめて有害なものです。と言うのも、一旦人間の理性に何が真実で何が善いものであるかを決める権能が与えられるなら、善悪の実際の区別は打ち消され、名誉なことと恥ずべきこととの間には本質自体ではなく、ただそれぞれの人の考えや判断の違いしかなく、快楽を生むものが即、合法的なものとなり、こうして人間の無秩序な傾きを抑え鎮める力をほとんど持たない道徳律の下で、普遍的な堕落・腐敗への道が当然のごとく開かれます。公共のことがらに関して言えば、権威は共通善を有効に実現する力をそこから汲み取るべき、真実かつ自然な原理から切り離されてしまいます。そして何を為すべきであり、何を為すべきでないかを定める法は、多数派の思うがままとなるのです。人間および社会に対する天主の支配権が一度否定されると、公の社会的な制度である宗教は自らの存在についていかなる権利も主張できず、また、宗教に属することがらはすべて全くの無関心と言っていい中立的態度で扱われることになります。さらには、主権を握ることへの熱望に駆られて、人々の間では騒乱ないし反乱が日常茶飯事となり、そして、人々が義務や良心といったことにもはや魅力を感じなくなれば、彼らを引き止め得るのはただ暴力のみです。もっとも、暴力はそれ自体では、こういった人々の心中の欲望を抑えることはできないのですが。このことの証左は社会主義者およびその他、相当前から国家を根底から転覆させようと絶えず働きかけている組織とに対するほとんど毎日と言っていいくらい生じている衝突の中にあります。こういった教説が人間にふさわしい真の自由を促進するものであるどうかか、或いはむしろ人間の自由をひっくり返し全く破壊してしまうのではないかと言うことを、少しでも判断力のある人はそれを判断し、告げることができるでしょう。

個人における穏健な自由主義

天主の自然法を受けながらも天主が啓示した法を拒否するものは、天主を拒む

もちろん、中には自由主義を奉じながらも、その自然な結論として出てくる、こうしたあまりにも人の道にもとり、真っ向から真理に反し、きわめて甚だしい害悪のもととなる見解には組みしない人もいます。事実、彼らの非常に多くは、真理の持つ、同意を促さずにはおかない力に動かされて、そのような自由は劣悪なものであり、それが真理と正義とを軽んじてまでも自らの権利を主張するにあたっては、もはや全くの放縦に他ならないことを認めるのにやぶさかではありません。したがって、この点において彼らは自由が正しい理性によって指導され、導かれること、その結果、自然法ならびに天主の永遠法に服従することを良しとします。しかし、彼らはそこまでで十分だとします。彼らは、自由な存在である人間は、ただ自らの自然な理性[のはたらき]を通して認識するよう天主がお計らいになったことがらのみに関して、天主の法に従う義務があると考えるからです。この点において彼らは明らかに一貫性を欠いています。なぜなら、すべての人は天主の権能の下にあり、天主に対して自らの目的として向かうものなのですから、立法者としての天主の意志に従わなければならないのです。このことは、彼らも当然認めねばならず、また誰もこれを否定することはできません。すると、いかなる者も天主の立法権に制限を設けることはできず、もしそうしようとすれば天主に対して示すべき従順に欠けることになります。 実際、もし人間の精神が天主の権利および自ら自身の義務を定めるほど思い上がったものであるならば、神法に対する敬意は本物ではなく見せかけだけとなり、自分勝手な判断を天主の権威と摂理とに優先させることになります。したがって、人間は誠実で宗教的な生活の規範を永遠法から取り、および天主がその限りない叡知と権能によって制定することを良しとされ、「その真正さならびに神的起源に関して」一点の疑いの余地もない程、かくも明白かつ誤り得ない印によって私たちに知らされることを思し召しになった他の全ての法から取らねばならないのです。なぜなら、この種の法は永遠法と同じ起源、同じつくり主をもち、正しい理性に完全に合致し、自然法を完成へと至らせます。これらの法こそは、人間の知性と意志とが誤りに陥らないよう、恩寵をもって導き、指導される天主の統治を具現化するものです。ですから、分離され得ず、また分離すべきでないものを聖なる侵しがたい一致のうちに留めましょう。そして正しい理性自体が命ずるとおり、全てのことがらにおいて天主が実直かつ従順に仕えられますように。

国家における穏健的な自由主義

個人を天主のもとに服従させながら、国家を天主から切り離すことも、愚かである

さて、この他にも、先の人々のそれに比べるとまだいくぶん穏健であるとはいっても、やはり一貫性のないことにおいては例にもれない意見を唱える人たちがいます。彼らによると個人の道徳は確かに神法によって導かれるべきであるが、国家の道徳はそのかぎりではなく、したがって公共のことがらにおいては天主の命令は等閑に付され、法の作成においては全く無視されてかまわないことになります。そして、ここから教会と国家が分離されねばならないという致命的な理論が生じます。しかし、このような見解が荒唐無稽なものであることは明らかです。自然自体が、それをもって共同体がしかるべく ――― すなわち天主の法に従って ――― 存続すべき手段と機会とを国家が供給する必要があることを告げています。と言うのも、天主こそがあらゆる善さと正義との源なのですから、国家がこれらの法にまったく注意を払わない、あるいはそれを反対の法規によって無効としてしまうなどということは愚の極みに他なりません。さらに、権威を有するものは社会共同体に対して、ただその外的な福利と生活の利便とを供給する責務を抱くのみならず、いやそれ以上に人々の霊的な福利を自らの立法において配慮しなければなりません。しかるに、この種の恩典を増進するに当たって、天主をその作者とする法以上に適当なものを考えることはできません。したがって国家の統治にさいしてこの種の法を意に介さない者は政治的権力をその本来の目的であり、自然[本性]自体が定めるところからそらせて悪用することになります。そして、さらに重要なことは、これまでに再三指摘してきたように、国家の権威は霊的な権威と同じ直接的目的を有さず、また同じ仕方ではたらくのではないとしても、双方はそれぞれ別々の権力を行使するにあたって、時として互いに行き当たることになるからです。なぜなら、この両者は同じ人々をその成員として有し、さらに往々にして同一のことがらを ――― 同じやり方ではないにしても ――― 取り扱うからです。対立的状況は、天主のこの上なく聡明な定めに全く合致しないことですから、このような事態が生じる場合はいつでも、相違と競合の機会を取り除き、あらゆることがらにおいて調和を確保するための何らかのやり方ないし手順が必然的に存在せねばなりません。この調和は身体と霊魂との間に存在する調和にたとえられてきましたが、これは不適切な比ゆではありません。霊魂と身体との調和は、それぞれの福利のためとなっているのであり、両者を切りはなしてしまうことは身体に取り返しのつかない害を及ぼす ――― つまり、その生命自体を消滅させてしまう ――― こととなるからです。

個人における礼拝の自由

「礼拝の自由」と言うことは、個人がいかなる宗教をも、好みのままにその信仰を表明することが出来ると言うことを意味する

上で述べたことをより明らかにするために、私たちの時代に帰される自由の増進ということについて、そのさまざまな面から詳しく見ていくことにしましょう。まず第一に、宗教(religio)の徳に真っ向から反した、個人における自由、いわゆる「礼拝の自由」について見てみましょう。この「自由」は、人は誰でも自らが選ぶ宗教を自由に公言することができ、あるいは全く何も信仰しない自由も有するという原理に基づいています。

全ての人は天主ご自身が立てた宗教を見分けてこれを信じなければならない

しかし、確かに人が果たすべき義務の中で疑いもなく、天主を篤く敬虔に礼拝するよう命じるそれがもっとも主要かつ聖なる義務です。これは私たちは常に天主の権能の下にあり、絶えずその意志と摂理とによって導かれ、そして天主から生じてきたものであるかぎり、その同じ天主へと戻らねばならないという真理から必然的に帰結することです。さらに、宗教[の徳]なしにはいかなる真の徳も存在し得ません。なぜなら、倫理的徳は人をして自らの至高かつ究極の目的としての天主へと導く諸々の事物に関わるものであり、したがって「天主の誉れに直接かつ直に秩序付けられた行為を為す」宗教の徳は、全ての徳を支配し、調えるのです。そして多くの互いに相容れない宗教の中でどれを選ぶことが必要なのかと問うならば、理性と自然法とはためらうことなく私たちに、天主がお命じになり、そして人々が特定の外的な印によって容易に見分けることのできる ――― 実際、天主の御摂理は、この種の印を通してそれが識別されることを望まれたのです ――― 宗教をふみ行うよう告げます。なぜなら、このように重大なことがらにおける誤りは、もっとも甚だしい損失を招いてしまうことになるからです。したがって、今述べたような自由が人間に与えられるとするなら、義務の中でも最も神聖なものを支障なしに歪め、あるいは捨て去る権能、また、かけがえのない善を悪と取り換える権能が人に与えられることになってしまいます。しかし、このようなことは先に述べたように自由ではなく、かえって自由の堕落したものであり、同時に、罪に対する魂の惨めな従属です。

国家における「礼拝の自由」

国家も天主に由来するものであり、真の宗教を持たなければならない

この種の自由を国家との関係において考察した場合、それは明らかに次のようなことを意味することになります。すなわち、国家が天主に対していかなる崇敬を払ったり、天主が公に認められるようはからったり、また特定の礼拝形態を他の礼拝形態より優先する道理は全くなく、そして国民の宗教が、たとえそれがカトリックの信仰であろうとも配慮すべきではなく、反対に、あらゆる種類の礼拝が同じ立場に立つべきであるということです。しかし、このような理論を正当化するためには、国家は天主に対していかなる義務も持っておらず、たとえ持っていたとしても、支障なくそれを放棄することができるということを正しいものとして認めねばなりませんが、この2つの主張はいずれも明らかに誤っています。と言うのも、天主は人々が国家的社会において一つになることを望まれたからです。このことは、国家社会を構成する部分、すなわち市民あるいは何らかの権威を前提とするその形態、ないしはそれの存在する目的、あるいはまた、それが人間にもたらす計り知れない巧益を見ても明らかです。人を社会で生きるようにつくり、また人を自らと同様の他の者たちと共におかれたのは天主であり、それは人間が自らの本性が必要としながらも自分ひとりの力では獲得することができないものを、他者との協同によって得ることができるようにするためでした。したがって、国家社会は天主を自らの創立者かつ生みの親として認めねばならず、同時にその権能と権威とを尊び、従わなければなりません。ですから、国家が天主を認めないこと、あるいはそのような不敬神にいたらせるような政策 ――― すなわち、さまざまな宗教(あるいはそう自称するものを含めて)を同様に扱い、それらに対し無差別に同等の権利と特権を与えること ――― をとることを正義は禁じ、理性自体も禁止します。したがって、国家において1つの宗教が公に表明されることが必要なのですから、その宗教は、ただ真の宗教だけであり、また容易に見分けられることのできるものでなければなりません。ところで、殊にカトリック国家においてはこの唯一の宗教を認めることが容易であるはずです。なぜなら、真理の印がその宗教、つまりカトリック信仰に言わば刻みつけられているからです。それゆえ、もし国家が賢明かつ有益なしかたで共同体の善を取り計らうならば ――― 無論、国家は当然このようにすべきなのですが ――― この宗教を保ち、守らねばならないのです。なぜなら、国家の権威は、それが統治するところの人々と福利のために存在するのであり、また、その直接の目的は人々をこの世での繁栄へと至らせることであるとは言え、この営みにおいて、永遠の幸福がその中に存する究極の善へと達する人間の可能的能力を減じるべきではなく、かえってそれを増大させるべきであり、そしてこのことは宗教が無視されるならば決して達成され得ないからです。

真の宗教こそが国家を援助するのに引き替え、「礼拝の自由」は国家に害をもたらす

しかし、こういったことがらは全て、他の機会により詳しく説明してきました。ですから、ここでは偽りの自由は為政者および被為政者双方における真の自由を大いに傷つけ、損ねてしまうものであることを付け加えるのみにとどめましょう。宗教は、その本性からして国家に対して非常な助力をもたらすものです。と言うのも、宗教はあらゆる権力の第一の起源を天主ご自身から直接に由来するものとして捉えるので、教会は為政者に対しては自らの責務に注意を傾け、不正義あるいは行き過ぎた厳格さなしに統治し、国民をほとんど父親のような愛情を持って治めるよう重大な権威をもって命じます。教会はまた、被為政者には、合法的な権威を天主の役務者とみなして従順であるよう諭し、また単なる従順のみでなく、畏敬と愛情をとおして為政者に結びつけます。教会は同時に被為政者[たる国民]に、公の秩序と平安を乱すよう計画され、結果として国民の側の自由により大きな制限がおかれる原因となってしまうような全ての反乱や向こう見ずな企てを禁じます。いかに宗教が潔白な道徳を生み、また道徳が自由を生むかをここであえて述べる必要はないでしょう。国家の道徳がより高まるにしたがって、より大きな自由、富、権勢とを持つに至るということを理性は示し、歴史はそれを確証しています。

言論の自由

「言論及び報道の自由」は、巧妙な、煽て上げる、死をもたらす誤謬によって人民を圧制することを意味する

さて、今ここで「言論」あるいは「報道」などあらゆる事を表現する自由について考察しましょう。確かに、この自由が適当に制限されず、また、それがあるべき境界ないし限界とを超え出てしまうものならば、そのような自由は、権利ではありません。そのようなことはあえて言う必要はほとんどないでしょう。なぜなら、これは先に述べたことであり、また再三繰り返して述べなければならないことですが、権利とは道徳的な権能であり、自由がが真理と偽りとに、また善と悪とに、無差別に区別無く自然に属していると考えるのは馬鹿げたことだからです。真実や善に関しては、人はそれらを賢明な自由で国中に広め、できるだけ多くの人がそれから利益を得ることができるようにする権利を有しています。しかし、偽りの言説 ――― 精神にとってこれほど危険なものはありません ――― 、あるいは人々の心と道徳的生活をむしばむ悪徳は、公の権威によって入念に抑圧されねばなりません。知性の無制限かつ適切な度合いを越したはたらきは、結果的に単純素朴な人々に対する抑圧を確実に招くことになってしまうので、弱者に対して加えられる暴力と同様、法の権威によって正当に抑制されます。何故ならば社会共同体の圧倒的に大部分の人々は、特に欲情を喜ばせるような惑わしや、微妙な言い回しによるうそ偽りから逃れることが全くできないか、あるいは非常な困難を伴ってでなければできないからです。ですからもし言論と著述に関して無制限な自由が全ての人に与えられたとすれば、神聖かつ侵しえないものとして何一つとして残されるものがなく、人類の共通かつもっとも尊い精神的財産と正しくも見なされているものさえ例外とならないでしょう。このようにして、真理が徐々に暗黒によって暗まされ、きわめて有害できわめて様々の誤謬がいとも簡単に支配するようになってしまいます。そして、これは非常にしばしば起こっていることです。放縦が前進する分だけ、自由が後退することになります。何故なら放縦さが抑止される程度に応じて自由はより大きくなりかつ確固としたものとなるからです。しかしながら、天主が人の自由な議論の対象としてお残しになる、異なった見解をゆるすようなことがらについては、誰もが意見を持ちとそれを自由に表明することが許されています。と言うのも、このような自由は決して人々をして真理を押さえつけ、おおい隠してしまうようなことはなく、往々にしてそれを見出し、かつそれを他に知らせるよう導くからです。

教育の自由

真理のみが人間精神の善であるが、「教育の自由」はこの善に反対する

「教育の自由」と呼ばれるものについても同様の判断が下されねばなりません。ただ真理のみが人々の心に注がれるべきであるということには、いかなる疑問の余地もありません。真理にのみ、あらゆる知性的本性[を有したもの]の福利、目的、完成が見出されるからです。したがって、真理だけが無学な人および教養のある人のどちらに対しても教えられねばなりませんが、それは真理を持たない者はそれを持つにいたり、すでにそれを有している者は、それを保つためです。それゆえ、教える立場にある人は全て、[教えを受ける人の]精神から誤りを駆逐し、確かな安全策をもってあらゆるいつわりの信条から保護することが当然の義務となります。したがって、[誰の目にも]明らかなように、ここで問題となっているような「自由」は甚だしく理性に反しており、なんでも好きなことを教える権利を主張するかぎりにおいて、それはまったく人々の精神を変節させてしまうものです。このような自由を認めるならば、国家は自らの責務を怠ることとなります。今述べたことが重要なのは、教師の権威は聴講者にとってたいへん重みのあるものであり、また、弟子が自分で教師の教えの真偽を自ら見定めることができるというのは極めて稀であるからです。
ですから、この自由も、その名に値するものであるためには、一定の枠の中で保たれねばならず、それは教育の職務が堕落を生む道具となってしまわないためです。さて、教育は真理を唯一取り扱うべきですが、その真理には2種類があります。それは自然的真理ならびに超自然的真理です。自然的真理には、自然の法則や、理性によってそこから直接導き出される諸々の真理が属しています。自然的真理は、人類の共通財産とでも言うべきものを形成しています。そしてこの確固とした基盤の上に道徳、正義、宗教、そして人間の社会の存在そのものが存立しています。ですからこの自然的真理を侵しまた破壊する者たちに何の罰も与えずに放任することは、全くの不敬虔でまたきわめて愚かで非人間的なこととなるでしょう。
しかし、私たちはこれに劣らぬ入念な注意を払って、天主ご自身がお教えになった真理の偉大にして神聖な宝を保ち守らねばなりません。キリスト教の擁護者によってしばしば用いられる数多くの同意を促さずにはおかない論拠によって、特定の主要な真理がはっきりとした形で打ち立てられました。すなわち、天主によって特定のことがらが啓示されたということ、その御ひとり子が真理を証しするために託身されたこと、また彼によって教会という完全な社会が創立されたこと、また彼はその教会の頭であり、世の終わりまで共にいてくださると約束されたことなどです。この[教会という]社会に主は、ご自分がお教えになった全ての真理を託され、こうして教会がそれを保ち、守り、しかるべき権威をもって説明するようにされたのです。そして同時に主は全ての民々に、教会の声にあたかも御自分の声として聞き従うようお命じになり、聞こうとしないものには永遠の滅びを宣告なさいました。したがって人間の最もすぐれた、また最も確実な教師はあらゆる真理の源にして原理たる天主であり、また、御父の懐におられ、道、真理、生命、すべての人を照らす真の光であり、その教えに皆が聴き従わなければならず、『そうして彼らは全て天主によって教えられる』こととなるその御ひとり子であることは明らかです。

リベラル派は、天主に従順である自由を国家に対する攻撃とする

信仰、また道徳を教え授けるにあたって、天主ご自身は教会を自らの神的な教導権に参与するものとなさいました。こうして教会は天主の賜物により誤ることのないものとされました。したがって、教会は人類の最も偉大かつ信頼に値する教師であり、教会は人々を教える侵し得ない権利を充全に有しています。天から受け取ったその教えにおいてその固有の支えを見出しつつ、教会は常に天主から託された使命を宗教心を込めて果たすべく努めること以外に何も心しませんでした。教会は、四方から取り囲む数多の困難にも屈することなく、自らのもつ教育の自由をたゆまず主張してきました。こうして異教の厭うべき迷信は駆逐され、この広き世界はキリスト教の知恵に至るまでに新たにされました。

教会は真の教育と学習の進歩を常に保護してきた

いたるところで事実が証明しているように、教会はキリスト教信仰の擁護に主要かつ第一の注意を払いますが、同時にあらゆる種類の人間的学問を育み、促進するのに余念がありません。なぜなら、学問はそれ自体として良く、称賛に値し、かつ望ましいものだからです。また、健全な理性の実りであり事物の真理に合致したすべての教養は、天主の権威によって私たちが信じることがらを理性的なかたちで確認するのに大いに役立ちます。事実、教会は古代の叡知の最高のものを注意深く保護し、またいたる所に科学的探究のための施設を築いてきました。さらに教会は、私たちの時代の文化がそれによって大いに進歩したところの諸技芸をきわめて熱心に育成することを通じて知的な発展を奨励してきたのであり、これらすべてのことは私たちに大きな利益をもたらしています。最後に、きわめて広い領域が人間の自由な巧知と創意工夫とに開かれていることを指摘しておかねばなりません。そしてこれには、キリスト教の信仰と道徳となんら必然的な関係を持たない、あるいは教会がその権威を行使せず、専門家たちの自由で規制を課せられない判断にゆだねる全てのことがらが含まれます。
これまで述べてきたことから、自由主義の信奉者たちがかくも熱心に唱道し、公言するところの自由の本質と性格とが理解されたと思います。こういった人たちは、一方では自分たち自身および国家とに、あらゆる種類の倒錯した謬説へと道を開く放縦さが認められるよう要求します。しかし他方、彼らは教会をさまざまな仕方で妨害し、その自由を最小限に狭めようとします。教会の教えにはおそれるべきことは何一つなく、それどころか、あらゆる点で有益なものであるにも関わらずです。

良心の自由

望みのままに礼拝する「良心の自由」と言うことは、意味をなさない。キリスト者は天主に従順に従わなければならない

ひろく喧伝されているもう一つ別の自由があり、それは「良心の自由」と呼ばれるものです。もしこの言葉によって表されているのが、人は誰でも天主を礼拝するかしないかを選択する自由があるということなら、それはこれまで示してきた論拠によって充分反駁されます。しかし、この言葉はまた、国家において誰もが天主の御旨に従い、また[果たすべき]義務という意識に基いて、いかなる妨げもなしにその命令に従うことができるという意味にも解することができます。この意味でなら、これは真の自由であり、天主の子らにふさわしい自由です。このような自由は人間の尊厳を保ち、いかなる暴力、不正よりも強いものであり、また教会が常に望み、非常に大切にしてきたものです。これこそが使徒たちが臆することのない大胆さで主張した自由であり、また護教家たちが著作を通して確証した自由に他ならず、さらにはおびただしい数の殉教者たちが自らの血をもって確立した自由です。そしてそれは至極もっともなことでした。なぜならキリスト教的な自由は、天主の人間に対する絶対的かつこの上なく正当な主権ならびに人間の天主に対する主要かつ最高の義務を証し立てるものだからです。[したがって、]これは反抗的で反乱を好む精神とは無縁のものであり、公の権威に対する従順をいかなる名目においても減じさせることはありません。と言うのも、命令し従順を求める権利は、それが天主の権威と合致し、天主が定められた基準の範囲内にとどまるものであるかぎりにおいて存在するからです。しかし、もし天主の意志に明らかに反したことが命じられた場合、それは天主によって定められた秩序から大きく離反することであり、同時に天主の権威に真っ向から対立することですから、従わないのが正しいのです。

「穏健的な」自由主義は、超自然の掟「だけ」をうち捨て、教会と国家の分離を主張する

自由主義の擁護者たちは、国家に専制的で無条件の権力を帰属する一方、同時に他方では、人間の生活には天主のことなどいささかも考えなくて良いと唱え、誠実さと自由とに緊密に繋がっている私たちが話しているところの自由を全く認めようとしません。そしてこの意味での自由を守るためにすることは全て、国家に対する損害・違反として見なされます。しかし、もし彼らが正しいことを言っていたとすると、人が耐え忍び服従しなければならないようなそれほど圧制的な支配は無かっただろうと言います。

教会と黙認

教会はより大きな悪を避けるためにこれらの誤った自由を黙認することが許されているが、しかしこれらを決して承認しない

教会は先ほどその輪郭を示した、この問題についてのキリスト教の教えが社会のあらゆる層に、実際に、実践を伴った仕方でゆきわたることを真摯に望んでいます。少なくも、わずかでもない今日の諸々の害悪を癒すのに最も効果のある者だと思われるからです。これらの害悪は大部分、大いにまつり上げられ、また安寧と栄華との芽生えを含むと[誤って]考えられた偽りの自由の結実です。しかしこの望みは、その結果によってくじかれました。その実り[として出て来たもの]は甘くて健やかであるかわりに、腐って苦いものだったからです。もし解決策を探しているなら、それは健全な教理の再興の中に求められなければなりません。健全な教えにのみ秩序の維持、およびその結果として真の自由の保護とが確信をもって期待されうるからです。

しかるに、教会は真に母親のような分別をもって、人間の弱さに由来する大きな重荷を推し量り、そして人々の心と行動とが今日において流されている方向をよく把握しています。このため、教会は真実で誠実なことがらの他はいかなるものにも一切の権利を認めないとは言え、公的な権威が真理と正義にもとることがらを、あるいはより大きな害悪を避けるため、あるいは[当の悪よりも]より大きな善を獲得し、保全するために容認することを禁じません。天主御自身も限りなく善く、力強い方でありながら、その御摂理において、一つには[当の悪よりも]より大きな善が妨げられないため、もう一つにはより大きな悪が結果として生じないために悪がこの世に存在することをお許しになります。国家の統治において世界の統率者をまねることは禁じられていません。また人間の権威はあらゆる悪を防止することができないため、(聖アウグスチヌスの言うように)天主の摂理によっては正しくも罰される多くのことがらを看過し、処罰を与えずにおかざるを得ません。しかしもし、このような状況において共通善のために(そしてこれのみが唯一の正当な理由付けとなりますが)人間の法が悪を容認することができ、またそうするべきであるとしても、それは[当の]悪をそれ自体として認め、あるいは望むことはできず、またそうすべきではありません。なぜなら悪はそれ自体として、善の欠如であり、あらゆる立法者が望み、力の及ぶかぎり保護すべき共通善に対立するものだからです。[ですから、]この点において人間の法は天主を模倣しなければなりません。聖トマス・アクィナスの教えるところに従えば、悪が世界に存在することをお許しになる際に、天主は『悪が為されることを望まれず、さりとてその悪が為されないことも望まれず、ただそれが為されることを許すことをお望みになるのであり、そしてこのことは善いことである。』neque vult mala fieri, neque vult mala non fieri, sed vult permittere mala fieri, et hoc est bonum この天使的博士の表現は、悪の容認についての教理の全体を簡潔なかたちで含んでいます。

しかし、この問題を正しく捉えるために、私たちは次のことを確認しておかなければなりません。すなわち、ある国家が悪を容認(tolerantia)する必要に駆られる程度にしたがって、当の国家はそれだけ完全な状態から遠ざかっているということ、そしてまた、政治的賢明さという観点から求められる悪の容認は、それを正当化する公共の福祉という目的が要請する程度までに厳しく制限されねばならないということです。したがって、もしこのような[悪の]容認が公共の福祉にとって有害となり、また国家にとってのより大きな悪を伴う場合、それは合法的なものではありません。そのような場合、[より大きな]善のためという動機付けが欠けているからです。また、昨今の尋常ならざる状況において教会がある種の現代的な自由をふつう認めているとは言っても、それはそういった自由をそれ自体として良しとしているからではなく、[ただ]便宜上それらを容認することが適当だと判断するからであり、もっと良い時勢には自ら自身の自由を行使してきたのです。ですから、そのような時には説得ならびに勧告、そよび嘆願とにより、人類の永遠の救いを供給するという天主から託された、義務としての使命を果たすべく努めるのです。しかし、一つ常に変わらず真理であることがあります。それは全ての人に与えられるべきだと主張されている、皆が自分のしたいことを何でもするという自由は、これまで再三述べてきたように、それ自体として望ましいものではなく、それは誤謬と真理とが同当の権利を持つということは理性に反するからです。

また「容認」に関しても、自由主義と呼ばれるものを唱えている人々が教会の公正さと賢明さとからいかにかけ離れているかを見るにつけ、驚きを禁じ得ません。と言うのも、先で述べた無制限の放縦を許すことによって彼らはあらゆることがらにおいての限度を超過し、ついには真理と偽、および品行の正しさと不品行[不徳]との区別をほとんどなくしてしまうまでにいたります。そして真理の柱、土台、かつ道徳の誤り得ない教師である教会がそのような投げやりで、犯罪的な性格を持った容認をことごとく咎め、断罪するよう否応なしに強いられるので、彼らは教会を忍耐と温情とに欠けると言って中傷します。[しかし]このようにして彼らは、自分たちが教会に対して実際は称賛すべきことを落ち度として非難していることに気づかないのです。しかしながら、そのような寛容さの見せかけにも関わらず、彼ら自由主義者は全ての者にあふれるほどの自由を与えるつもりであると公言しながらも、教会に対しては自由に行動する自由を許さず、全く不寛容であるということがきわめてしばしば見られます。

結論:自由主義の要点

自由主義の本質的な悪

自由主義は天主の権威をうち捨てるが、天主の権威のみが自由をその目的地まで導くことが出来る

さて今ここで、今まで述べられてきたことを、そこから直接出てくる結論と共に整理し、主な題目につづめると次のようになります。すなわち、人間はその自然本性上の必要[必然性]から、天主のこの上なく誠実で片時も絶えることのない権能にことごとく服従するものであること、またしたがって、天主に服従し、かつ天主の意志に従うもの以外、いかなる自由も考えられないということ。天主の中にあるこの権威を否定すること、もしくはそれに服従することを拒むことは、自由な者としてではなく、天主に対する裏切りを犯し、自らの自由を悪用する者としてふるまうことを意味すること。そしてそのような精神のあり方にこそ、自由主義の最も甚だしい死に至る悪徳が本質的に存するのです。しかしながら、この罪は多種多様の形をとります。なぜなら、天主ないし天主の権威に参与する者たちに対して抱くべき従順から離反する仕方および程度はさまざまであり得るからです。

絶対的自由主義は、公的にも、個人的にも、天主を完全にうち捨てる

と言うのも、天主の至高の権威を拒絶し、また公的なことがら、ないしは私的および家庭内での物事において天主に対するあらゆる従順を打ち捨てることは自由の最も甚だしい腐敗であり、自由主義の中でも最悪のものです。そしてこれまで述べてきたことが完全な意味で当てはまるのはこの一事のみです。

さて今度は、世界の創造主にして支配者である天主に服従する義務を、全自然界がその意志に依拠している限りにおいて事実認めている自由主義者の思想体系を取り扱うことにしましょう。こういった人たちは他方、自然的理性[の把握能力]を超え出、天主の権威によって啓示される、信仰と道徳に関する全ての法を尊大にも拒絶します。あるいはそこまで行かなくても、こういった法に国家が注意を払う ――― ましてや、公にそうする ――― べき理由は何一つないと厚顔にも主張します。これらの人々[の考え方]がどれほど誤っており、またどれほど首尾一貫性に欠けているかを、私たちはすでに見てきました。[しかし、彼らが奉じる]この教説から、教会と国家との分離という[まさに]致命的な原則が生じます。しかるに[教会と国家という]この2つの権力はその機能を異にし、地位において上下の差を有していますが、にも関わらず調和して働き、またそれぞれの義務を忠実に果たすことを通じて和合的関係の中に(友好的に)共存するべきものです。

教会と国家との分離を主張するものの中には、教会を全く無視するものもいる

しかし教会と国家の分離という、この教説は2通りに解することができます。多くの人は国家が教会から丸ごと完全に分離されることを望んでいます。そうすれば人間的社会におけるあらゆる権利に関して、諸々の組織、慣習、法律、国家の職務および青少年の教育においては教会があたかも存在しないかのように、考慮に入れずに済み、あとはせいぜい市民がもしそうしたければ個人的に自分の宗教を私的に行うことを許すだけでよくなるからです。このような考えを抱く者たちに対して、教会と国家の分離の意見の論駁を私たちは既に述べましたが、その議論はここでも有効です。これに加えて、市民が教会を尊重する傍ら、国家が教会を軽視して構わないというのは全くおかしなことだという点を指摘しておかなければなりません。

教会と国家との分離を主張するものの中には、教会が完全な社会として持つ権利を認めないものがいる

一方、別の人たちは教会が存在することには反対しませんが ――― 実際、それは反対できるものではありませんが ――― 教会が完全な社会としての本質と権利とを有していることを否定します。そして教会には法規を定めたり、裁いたり、罰を下したりする権利はなく、ただ自らの下にある者たちを訓戒や勧めを与え、かつ彼ら自身の同意と意志とに基づいて治めることのみが許されるのだと主張します。このような考え方によって彼らは教会というこの神的な社会の本性を歪め、その権威と教権、ならびにその機能全体を弱めかつ狭めるのです。これと同時に、彼らはまた国家の政府の権力を実際よりも[はるかに]大きいものとし、こうして天主の教会を国家の支配と影響力の下に置くのです。この種の教説を完膚なきまでに反駁するためには、キリスト教の擁護家および私自身により ――― 殊に回勅『インモルターレ・デイ』中で ――― 示された議論は大変役立ちます。なぜなら、これらの議論によって、天主の計らいにより、正当かつ卓越し、全ての部分において完全である社会に本質的に備わるべきあらゆる権利が教会に存することが証明されるからです。

教会と国家との分離を主張するものの中には、教会が国家に従っている間は教会に権利を認めるという

最後に残るカテゴリーとして、次のように考える人たちがいます。すなわち、教会と国家を分離することは認められないが、教会は時代に自らを適合させ、現代の政治体系の要求するところに順応しなければならないと言うのです。このような見解は、真理と正義に基づいた公正な調整の意味をするならば健全なものです。教会は何らかのより大きな善のために寛容な態度をとり、その聖なる職務が許すかぎり時代に適合することができるからです。しかし、腐敗した道徳とゆがんだ判断が不法にももたらした慣習や教条については、このことは言えません。宗教、真理、正義とは常に保持されねばならず、また天主はこれらの偉大にして神聖なことがらを教会の管理に託されたのですから、教会は決して自らの職務に不忠実たり得ず、したがって虚偽、または不正義のことがらに関して率直に真意を表明しなかったり、あるいは宗教にとって有害なものを黙認することはできないのです。

人間は、いかなる分野においても、束縛を無条件的に欠いた権利というものを持たない

これまで述べてきたことから、次のことが結論として導き出されます。つまり、思想、言論、著述、および礼拝についての無条件の自由を、あたかもこれらが自然によって人間に授けられた多くの権利であるかのように求め、弁護し、あるいはこれを与えることはきわめて不法であるということです。と言うのも、もし自然が本当にそれらを与えていたとすれば、天主に対しての従順を拒むことが合法的なものとして許され、人間の自由にはいかなる歯止めもなくなってしまうだろうからです。同様に、こういったことがらにおける自由は正当な理由が存在する場合にはいつでも容認されえますが、それはただ、そうして与えられる自由が放縦と超過とに堕してしまうのを防ぐに足りる適切な度が守られるかぎりにおいてです。また、これらの自由が用いられる際には、人々はそれらを善を為すために用い、そして教会がするのと同じようにそれらを評価しなければなりません。なぜなら、自由が正当なものであるのはただ、善を行うためのより大きな利便をもたらすかぎりにおいてであり、この基準を越えてしまえば、もはや正当な自由たりえないからです。

人間は、善を為すために、悪に対して「反抗の権利」がある

人々に対する不当な抑圧、または教会の自由の剥奪が存在し、あるいはその怖れがある際にはいつでも、しかるべき行動の自由が得られるよう、政権の変化を求めることは合法的です。そのような場合、度を越した悪い自由が求められているのではなく、公共の福祉のために、ただいくらかの救済が求められるに過ぎないのです。そしてそれは、国家により悪を行うための放縦が許されている一方で、善を行うための権能が妨げられないためです。

権威が天主から来るものであることを認めるならば、いかなる政治形態でも構わない

さて、民主的な政治形態を他の政治体制に優先して選択するのはそれ自体として間違ったことではありません。もちろん、権力の起源と行使についてのカトリックの教えが守られるという条件の下でですが。さまざまな政治形態の中で教会は国民の福利を獲得するのに適したものであれば、いかなるものをも拒みません。教会が望むのはただ(このことは事物の本性自体が求めることなのですが)、当の政治体制がいかなる人への不正を含まず、また特に教会の権利を侵害することなしに存立することだけです。
物事の何らか尋常ならざる状況により、別様に定められるのでなければ公的なことがらの執行に参加するのは有益なことです。そして教会は誰もが共通善に貢献し、自らの出来るかぎり、母国の防衛、保全、繁栄のために尽力することを是認しています。

人間は、正義に服従した上でのみ、「独立権」と「財産権」とを持つ

教会はまた、それが正義をそこなうことなしに成され得るかぎり、自国をいかなる外国または専制的国家権力からも独立させようとする人々を断罪することはありません。さらに教会は国家には自治権が、国民には可能な限りの繁栄が与えることを望む人々を非難しません。教会はいつも国家の自由をきわめて誠実に促進してきたのであり、このことはとりわけイタリアにおいて顕著に見られます。同国で、都市国家の繁栄、富、栄誉とが達成されたのは、ちょうど教会の有益な(権)力が国家のいたる所に、何らの対立も生むことなしに広まったその時だったのです。

使徒的祝福

尊敬すべき兄弟たちよ、私はこれらのことを信仰と理性の導きの下に、私の使徒的職務の遂行のために書き送ります。願わくは殊にあなた方の協力によりこの書面が非常に多くの人々のためになりますように。へりくだった心をもって私は嘆願の眼を天主へと上げ、主がいつくしみ深く、その知恵と賢慮との光を人々の上に照らしてくださるよう祈ります。それは、これら天よりの賜物によって強められて、人々がこのように重大なことがらにおいて何が真であるかを(正しく)識別し、しかる後、公共の場においても個人的にも、絶えず揺らぐことのない堅実さをもってその真理にしたがって生活することが出来るためにです。これらの天的な賜物の保証のしるしとして、またあなた方に対する私の行為の証として、尊敬すべき兄弟たち、そしてあなた方に委ねられた聖職者および信徒に、主において使徒的祝福を送ります。

ローマの聖ペトロ大聖堂にて。私の教皇在位10年目の1888年、6月20日
教皇レオ十三世
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聖ピオ十世会 名古屋で初めて聖伝のミサが捧げられました

2019年11月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

昨日、2019年11月4日(月曜日)には、振替休日で。東京での朝ミサをお休みさせていただき、名古屋で初めて聖伝のミサを捧げることができました。
子どもたちを含めて、27名がミサに与ることができました。天主様に感謝します。

このミサが実現することができるように、準備、協力、サポートをしてくださった多くの兄弟姉妹の方々に感謝します。


天主様の豊かに祝福がありますように!

トマス小野田神父








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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】