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2018年8月聖ピオ十世会総長第一補佐デ・ガラレタ司教様の初来日、聖伝のミサ(ラテン語ミサ、トリエント・ミサ)と聖伝の堅振式の報告

2018年08月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

8月11日から15日までイエズスの聖心の小黙想会を行いました。
一日をおいて8月17日、18日とデ・ガラレタ司教様は大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。
18日は2名の方々が聖伝の儀式による堅振の秘跡を受けることができました。堅振を受けられた方々、おめでとうございます。ミサの後は簡単な歓迎会を開きました。
司教様の講話会を予定していたのですが、司教様のご希望で質疑応答の形だけでのお話になりました。そこで「司教様の紋章の意味は?」「総長第一補佐としてのやりたいことは?」「聖母のお導きを一番強く感じたときは?」「教皇さまが教会の伝統的な教えを変更しているが、どう考えたらよいのか?」などなど、いろいろな質問にお答えくださいました。
19日(主日)には東京で堅振式と聖伝のミサがありました。4名の方々に聖霊と祝福が与えられ素晴らしい堅振式でした。おめでとうございます!この日も多くの方々がミサに与りました。とても多いため祭壇から遠いところでミサに与った方々もおられます。ミサの後は司教様を囲んで記念撮影を撮りました。会場はとても盛り上がって、司教様はせっかく皆さんが平和に楽しくお話しておられるので、それを妨害したくないというお気持ちでしたが、お話をお願いいたしました。東京でも、霊的講話の代わりに質疑応答という形だけでお話をしてくださいました。
最後には主日の晩課を歌って一日のプログラムを終了しました。
20日(月)には、ミサが二回捧げられ、私を含めて22名の方々がデ・ガラレタ司教様のミサに与りました。
22日(水)の聖母の汚れなき御心の祝日には、総長第一補佐は大阪の汚れなき御心聖堂で歌ミサを捧げてくださいました。ミサの直後には聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に対する奉献を更新し、終課を歌って一日を終えました。お恵みに満ちた毎日でした。
デ・ガラレタ司教様との会話や、お話を通して思ったことはいろいろありますが、それについてはまた別の機会に書きたいと思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサ/パーティー/晩課の参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 30人(内、子供5人)
女: 35人(内、子供4人)
計: 65人(内、子供9人)

堅振式後のパーティー兼デ・ガラレタ司教へのQ&A
50人

晩課
19人

【報告】
十AVE MARIA‼
こんばんは。8月19日の日曜日の今日という日に私が聖ピオ十世会のミサ聖祭に与ることができた恵みを私たちの主に感謝します。
また今日は来日されているデ・ガラレタ司教様による司式という特別な日でもあり、とても多くの喜びと恵みを感じる1日になりました。
司教様のお話し、質疑応答の中で司教様が、お答えになられた言葉が、私にとっては心が揺さぶられる感動的な言葉で聞いていて涙が溢れました。

“教会の信仰は危機に晒されている。教会が健全な信仰に立ち帰る為には、私たち自身の信仰の在り方が健全であることが求められる。”

“私たちひとりひとりが教会と教皇のために祈り、ミサ聖祭に与り、自らの現実の生活の中で関わる出来事、人々の中で福音を証しし宣べ伝える生き方が大切である。”

“神の国と義を求めなさい。
そうすれば、必要なものは加えて与えられる。”
(聖マタイ6:33)

“私たちに必要なことは、祈り、ミサ聖祭に与り、私たち自身の現実の生活の中で神の国と義を求めること。”

司教様のお話しの中で私の心に改めて深く刻まれた言葉です。
今日は本当にありがとうございます。

【報告】
Ave Maria Immaculata!

堅振式と聖霊降臨第13主日の御ミサの報告をさせていただきます。
デ・ガラレダ司教様は、主イエズス様のように威厳が備わっていて温かな優しくとてもご謙遜な司教様で、すっかり魅了されてしまいました。
堅振式では、司教杖とミトラを使われて、厳かな佇まいから光が放たれているように感じられました。

司教さまは一回一回の御ミサに主イエズス・キリストの十字架のもとにおられました。思い出すだけで胸がいっぱいです。

司教さまは、カトリック信徒として現代のカトリック教会でどのように信仰生活をおくっていったらよいか、お話してくださいました。日本で本当に信仰を守り続けていくことはとても大変な事だと思っているなかで、信仰の最も基本的な大切なことに目を向けさせてくださいました。それは、洗礼によって私たちの身体が聖霊の神殿となったこと、そして堅振により私たちは証人・兵士・使徒となったとわきまえることだと思いました。キリストの教会を形作るための生ける石となるとはどういうことか、考えていかなければならないと思いました。
証人として、本当の礼拝を捧げることの出来るようにしなければならないし、兵士として主イエズスと違った教えをいうものと戦わなければならないし、使徒として、聖なる生き方を心掛けて本当の信仰を求めて来る方々へイエズスの教えを伝え広めていかなければならない、と思いました。

この最も基本的なことをするのが、なぜ困難なのでしょうか?、あたりまえのことを・・・。

それは、午後の質疑応答の時間に司教様が、信徒からの質問に答える形で、少しお話してくださったように思います。
世界ではそしてローマでは、いったいカトリック教会はどのようになっているか、限られた時間の中で話してくださいました。

現在の教皇さまが、どのような方でいらっしゃるか、特に聖ピオ十世会との関係がどのようであるか、そして全体としても、あまりに現代化リベラル化された教会の行き過ぎた改革を危惧し心配しはじめた一部の枢機卿などが聖ピオ十世会に対して協力をもとめてるようになってきたこと、そして物事を判断するうえで大切な、異端とか罪とかについて、それはどのようなものであるかを考える糸口を説明してくださったこと、いろいろお話をしてくださいました。

今の教会の問題が何であるかをとてもよく熟知されてそのために長年働かれてこられた司教様なので、私たちへのお話も分かりやすくお話くださいました。まるで簡単なことを話すかのように話されていたのですが、実際はとても深遠な内容であったことをかみしめております、私たち日本に住む信徒への愛情を感じられました、心から嬉しく思い、感謝いたしています。

そして そういったお話の中で一番感動したお話は、デ・ガラレダ司教様がこの30年間で最も悲しく辛いと思ったことは何ですかという質問への答えでした。

(小野田神父様から、デ・ガラレダ司教様はローマと聖伝の信仰における教義の対話の責任者として任命されていたということを紹介していただき)、
「過去の教導権・教皇様・教父たち・公会議の教えを引用して、カトリックの教会の信仰の真理はこうだ、こう教えられている、と見せているのですが、そのことを信仰について責任のある教会の担当する当局の人が理解することができなかった、理解する能力がなかったのか、理解したくなかったのか、過去の教導権のこういう教えをうけいれなかった教会の危機の深さを目で見て指で触れる思いで、非常に苦しく辛く悲しい思いをしました。」

対話の相手が同じカトリック信仰を持つ者という前提であるのに、信仰の教義上の問題点がどこにあるか、理解されないことの深い悲しみ!
それは、日本で私たちが、どうして跪いて舌でご聖体を拝領してはいけないのかということを日本の司教団に尋ねても会話の要点が噛み合わなかったこと以上のことなのでしょう。カトリック教会の最高のトップで起きていることですから。

信仰を持ち続ける為に、何が重要であるかを理解することができない人と会話をしなければならないとは、なんという悲劇的な矛盾のある困難であることでしょうか。

相手に理解する能力がないときの悲しみといっても、同じカトリック信者であるのに?、どうしてそのようなことが?、けれど、これがいま現実に起こっていることだということは理解できることです。日本においても、それは現実に進行していることなので。

質疑応答を聴くことで、この信仰の問題というのは、教導職にある方々でさえいま信仰を脅かされている状態にありそのことに本人自身が全く気付いていないことに端を発しているのだと、いうことがはっきりわかりました。

わたし自身、以前、友人への手紙やメールに「あの神父様は信仰のある神父様です・・」という表現をして書き送ることがありました。わたしは、はっきりと即座に、なにかの時には「あの神父様は信仰のある神父様のように感じられるから信頼出来る」というような表現の仕方をしていました。それは、自分の大切な信仰を守るために。自分の大切な信仰がダメになったら死と同じですから。心の深いところに燃える愛の火が消されそうなときは、とても警戒してしまいます。批判の意味があるわけでなく、ただ信仰を守りたい、それだけのためです。というのは最初の使徒から受け継がれてきた教義にたいして人間側の都合で変更するというようなことが許されないと、私は感じるからです。(このことを司教さまはしっかりと説明してくださいました。安心いたしました。)実際のところ、信仰のない神父が存在するなんてあり得ないはずなのに、そのことで悩まされる信徒がいるというのは、事実です。

第二バチカン公会議の後の改革により変更された神学校の内容により、この50年の間に信仰のない神父をつくりだすことに成功しようとしているのでしょうか?それはとても恐ろしいことではないでしょうか。怖ろしすぎてあまり深く考えたくなかったことですが、実際のところ司教様の深い悲しみとは何かという質問への答えを聞いて、(規模は比べようもないほどちっぽけなものであるにすぎなくとも似たようなことを経験しているゆえに)私はすぐに共感いたしました。その共感はわたしの心に深く刻まれました。言葉の壁があるために、直接司教さまにその感動をお伝えすることができませんでした。

ルフェーブル大司教さまは、第二バチカン公会議で行われたことがどのような結果を50年後にもたらすかを賢明にも即座に推察されて、司教を聖別されて神学校を建てて聖ピオ十世会の修道会を創立されたのですね。 そして、私たちは、希望を持つことができると思いました。

それから、司教さまはお話くださいました。
「聖ピオ十世会の教会法によって成立された修道院創立の目的は、司祭職の養成です。問題を解決する方法は、司祭職にかかわるすべての司祭・修道者・修道女・信徒が聖徳を高め内的な徳を高めることです。そうすればすべての問題を天主様が解決してくださる、天の国とその義を求めよその他のことは満ちるほど与えられるでしょう。」

そのような司教さまのお話を伺って私たちが受けた決意があります。それは「私たちが聖なるカトリック信者になれるように努める」ということです。後で話して友人たちも同じ感想でした。

最後にとてもうれしかったことです。司教さまは、もう既に日本に聖ピオ十世会の司祭を2~3名派遣してくださることが可能であるとお話くださいました。東京にも聖ピオ十世会の聖堂を与えてくださいと、天主さまにもっと真剣に祈ろうと思います。

この特別な機会、デ・ガラレダ司教様が、総会によって第一補佐という特別な地位に選出されたばかりというすばらしいタイミングで、初来日になったことはとても驚きで喜びでお恵みでした。司教叙階30周年という記念と、小野田神父様のデ・ガラレダ司教様による司祭叙階25周年という記念と、素晴らしい年でもあり、デ・ガラレダ司教様を日本に招聘してくださいまして、小野田神父様本当にありがとうございました。マリア様、ありがとうございます!

聖マリアの汚れなき御心のうちに


【報告】
デ・ガラレダ司教さまはたくさんの質問に誠実にお話くださいまして、一つ一つがすばらしい講話のようでした。
たとえば、破門というのはどういうことか、罪を犯すというのは、どういうことか、罪とは本人が自覚していることが必要だということ、知らずに罪を犯している時はあわれみがある・・・など、罪とは何かということを考えるときに必要な、大切なことを話していただいたように思います。人の心の中を誰もうかがい知ることができない、ということを、あらためて記憶にしっかり留めました。
「教会法では教皇様は裁かれることはない、判断されることはできない、教会法によって想定されていない」・・・これを伺っていて、教皇様のためにいつも祈っている意味がよくわかったように思います。
司教さまは聡明・明晰で美しい心の方のように思われます。聖ピオ十世会は同じ信仰を持つ家族のように感じました。

ほとんど新しい顔ぶれの若い男性が幾人もいらっしゃいました。
皆様熱心に司教さまの質疑応答のお話を聞いておられて、晩課まで残られた方もいてうれしく思いました。

私は司教様のごミサに与ることができてうれしく思いました。聖なる永遠のミサでした。
何度か頭をよぎったのは、もうこの司教さまと二度と会うことがないのだろうか、という問いでした。
でも、そのたびに、なんだか最初で最後というのではないような気がするという気持ちになりました。
また是非お会いしたいです。

東京にも聖堂をくださいますようにと、天主さまにお祈り致します。

お昼はお寿司やお赤飯、ピザ・サンドイッチ、唐揚げそしてチキンのサラダなど、いろいろの手料理も運ばれて楽しくいただくことができました。
司教様の30周年と堅振のお祝いに手作りのケーキを焼いてきてくださった方がいて感激しました。
生クリームにメロンやマスカットやその他フルーツもたっぷりで、ちょっぴりいただくことができましたが、とても美味しかったです。
飲み物もワインやお茶・ジュース・コーヒーなどたくさんでした。
皆様遠くから朝早く来ていますので、どんなに準備が大変だったことでしょう、本当にありがとうございます。

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