Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖霊降臨後第十二主日(二級祝日 典礼色:緑)の固有文をご紹介します

2018年08月09日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨後第十二主日(二級祝日 典礼色:緑)の固有文をご紹介いたします。
ミサ聖祭
本日の典礼では、二つの教えが述べられる。その一つは、われらが自分たちの力では何一つなしえないこと、第二は、天主に奉仕するために聖寵の助力が必要なこと、以上の二つである。
天主の助力によって、われらは、天主の思し召しと掟とを成し遂げるのである。天主の思し召しというのは、天主と隣人とに対する掟に尽きるのである。

 

Dominica Duodecima post Pentecosten 聖霊降臨後第十二の主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 69, 2-3. 入祭文 詩篇69ノ2-3
Deus, in adiutórium meum inténde : Dómine, ad adiuvándum me festína : confundántur et revereántur inimíci mei, qui quærunt ánimam meam. 天主よ、私の助けに下り給え、主よ、私を助けに急ぎ給え、私の生命を狙う敵は、うろたえ、はずかしめられんことを
Ps. ibid., 4. 詩篇 69ノ4
Avertántur retrósum, et erubéscant: qui cógitant mihi mala. 私に対して悪をたくらむ者は、逃げさせられ、はずかしめられんことを。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Deus, in adiutórium meum inténde : Dómine, ad adiuvándum me festína : confundántur et revereántur inimíci mei, qui quærunt ánimam meam. 天主よ、私の助けに下り給え、主よ、私を助けに急ぎ給え、私の生命を狙う敵は、うろたえ、はずかしめられんことを。
Oratio. 集祷文
Omnípotens et miséricors Deus, de cuius múnere venit, ut tibi a fidélibus tuis digne et laudabíliter serviátur : tríbue, quǽsumus, nobis ; ut ad promissiónes tuas sine offensióne currámus. Per Dóminum nostrum. 全能あわれみの天主よ、主の信徒らが、ほまれと威厳をもって奉仕し奉ることは、主の恩寵によるのである。願わくは、途中で迷うことなく、主の約束し給うた善へとわれらを至らせ給え。天主として・・・。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corinthios. 使徒聖パウロのコリント人への書簡の朗読。
2. Cor. 3, 4-9. コリント後書 3ノ4-9
Fratres : Fidúciam talem habémus per Christum ad Deum : non quod sufficiéntes simus cogitáre áliquid a nobis, quasi ex nobis : sed sufficiéntia nostra ex Deo est : qui et idóneos nos fecit minístros novi testaménti : non líttera, sed spíritu : líttera enim occídit, spíritus autem vivíficat. Quod si ministrátio mortis, lítteris deformáta in lapídibus, fuit in glória ; ita ut non possent inténdere fili Israël in fáciem Moysi, propter glóriam vultus eius, quæ evacuátur : quómodo non magis ministrátio Spíritus erit in glória ? Nam si ministrátio damnátionis glória est multo magis abúndat ministérium iustítiæ in glória. 兄弟たちよ、これは、キリストによって、私たちが天主のみ前に抱いている確信である。自分自身から出たもののように、何事かを自分に帰する資格を、私たちはもっていない。いや、私たちに資格を与えたのは天主である。天主は私たちに、新しい契約の奉仕者となる資格をお与えになった。この契約は文字ではなく、霊のものである。文字は殺し、霊は生かすものだからである。石に刻まれた死の奉仕も光栄となった。それは空しいものではあったが、イスラエルの子らは、モイゼの顔の光栄をさえ見つめられなかった。それなら、まして霊の奉仕はどれほどの光栄であろうか。罪を定める奉仕が光栄なら、まして義の奉仕は光栄にあふれるばかりであろう。
Graduale. Ps. 33, 2-3. 昇階誦 詩篇 33ノ2-3
Benedícam Dóminum in omni témpore : semper laus eius in ore meo. 絶えず、私は主を祝し奉ることを望み、絶えず主の称讃を歌いまつる。
V/. In Dómino laudábitur ánima mea : áudiant mansuéti, et læténtur. V/. 私の霊魂は、主に誇りを置く、悲しむ者は、それを聞いて喜べ。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 87, 2. アレルヤ、アレルヤ。V/. 詩篇87ノ2
Dómine, Deus salútis meæ, in die clamávi et nocte coram te. Allelúia. 主よ、わが救いの天主よ、昼も夜も、私は主に向かって叫ぶ、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 10, 23-37. ルカ10ノ23-37
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Beáti óculi, qui vident quæ vos videtis. Dico enim vobis, quod multi prophétæ et reges voluérunt vidére quæ vos videtis, et non vidérunt : et audire quæ audítis, et non audiérunt. Et ecce, quidam legisperítus surréxit, tentans illum, et dicens : Magister, quid faciéndo vitam ætérnam possidébo ? At ille dixit ad eum : In lege quid scriptum est ? quómodo legis ? Ille respóndens, dixit : Díliges Dóminum, Deum tuum, ex toto corde tuo, et ex tota ánima tua, et ex ómnibus víribus tuis ; et ex omni mente tua : et próximum tuum sicut teípsum. Dixítque illi : Recte respondísti : hoc fac, et vives. Ille autem volens iustificáre seípsum, dixit ad Iesum : Et quis est meus próximus ? Suscípiens autem Iesus, dixit : Homo quidam descendébat ab Ierúsalem in Iéricho, et íncidit in latrónes, qui étiam despoliavérunt eum : et plagis impósitis abiérunt, semivívo relícto. Accidit autem, ut sacerdos quidam descénderet eádem via : et viso illo præterívit. Simíliter et levíta, cum esset secus locum et vidéret eum, pertránsiit. Samaritánus autem quidam iter fáciens, venit secus eum : et videns eum, misericórdia motus est. Et apprópians, alligávit vulnera eius, infúndens óleum et vinum : et impónens illum in iuméntum suum, duxit in stábulum, et curam eius egit. Et áltera die prótulit duos denários et dedit stabulário, et ait : Curam illíus habe : et quodcúmque supererogáveris, ego cum redíero, reddam tibi. Quis horum trium vidétur tibi próximus fuísse illi, qui íncidit in latrónes ? At lle dixit : Qui fecit misericórdiam in illum. Et ait illi Iesus : Vade, et tu fac simíliter. そのとき、イエズスは、弟子たちの方をふりむき、「あなたたちが見たことを見る目は、しあわせである。私はいう。数多くの預言者や王が、あなたたちの見ていることを見たいと望んだが見られず、あなたたちの聞いていることを聞こうと望んで聞けなかった」と、特におおせられた。すると、ある律法学士が立ち上がり、イエズスをこまらせようとして、「先生、永遠の生命をえるために、私はどうすればよいのですか?」とたずねた。イエズスが、「律法になんとかいてあるか。そこでなにを読んでいるのか?」とおたずねになると、「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」とかれは答えた。そこでイエズスは、「よく答えた。そうおこなえ。そうすれば生きるだろう!」とおおせられた。ところがかれは、自ら弁明しようとして、「私の隣人とはだれのことですか?」とたずねたので、イエズスはおおせられた。「イエルザレムからイエリコにくだろうとするある人が、強盗にであった。強盗は、その人の服をはぎ、傷つけ、半死半生にしておいて、去っていった。たまたま、一人の司祭がこの道をくだってきたが、それを見ながら道の反対側を通ってすぎ去ってしまった。またレヴィ人も通りかかったが、それを見てもおなじように道の反対側を通ってすぎ去ってしまった。ところが、旅の途中でそこを通りかかった一人のサマリア人が、それを見てあわれに思い、そばによって油とぶどう酒とを傷口にそそぎ、包帯して、自分のろばにのせ、宿につれて行って介抱した。その翌日、宿の主人に二デナリオをわたして、"この人を看病してください。費用がかさんだら、私が帰るとき払いますから"といった。あなたの考えでは、この三人のうち、強盗にあったその人にとって隣人は誰だと思うか?」とお問いになると、「その人をあわれんだ人です」と答えたので、イエズスは、「あなたもそういうふうにせよ」とおおせられた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Exodi 32, 11, 13 et 14. 奉献文 出エジプト32ノ11,13,14
Precátus est Moyses in conspéctu Dómini, Dei sui, et dixit : Quare, Dómine, irascéris in pópulo tuo ? Parce iræ ánimæ tuæ : meménto Abraham, Isaac et Iacob, quibus iurásti dare terram fluéntem lac et mel. Et placátus factus est Dóminus de malignitáte, quam dixit fácere pópulo suo. モイゼは、天主なる主の御前で祈った。なにゆえ、主よ、御民に対して怒り給うか。御怒りを治め給え、乳と蜜の流れる土地を与えようと御身の約束し給うたアブラハム、イザアク、ヤコブを思い出し給え。そこで主は御心を和らげ給い、御民に与えようと思し召した罰を下し給わなかった。
Secreta. 密誦
Hóstias, quǽsumus, Dómine, propítius inténde, quas sacris altáribus exhibémus : ut, nobis indulgéntiam largiéndo, tuo nómini dent honórem. Per Dóminum. 主よ、われらが、聖なる祭壇の上で、御身に捧げるいけにえを、御慈悲をもって受け入れ給え。そして、われらに赦しを下し、同時に、御名の光栄を輝かせ給え。天主として・・・。
Præfatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 103, 13 et 14-15. 聖体拝領誦 詩篇103ノ13,14-15
De fructu óperum tuórum, Dómine, satiábitur terra : ut edúcas panem de terra, et vinum lætíficet cor hóminis : ut exhílaret fáciem in oleo, et panis cor hóminis confírmet. 主よ、地は御業の実で満たされている。主は、パンと、人の心を楽しませるぶどう酒とを地より出し給い、人の顔に喜びを見せる油と、人の心を強めるパンとを出し給う。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Vivíficet nos, quǽsumus, Dómine, huius participátio sancta mystérii : et páriter nobis expiatiónem tríbuat et múnimen. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、聖なる奥義にあずかるわれらを生かし、赦しと保護とを下し給え。天主として・・・。

 


【報告】聖ピオ十世会日本では、2018年8月3日(初金)と4日(初土)は大阪で、5日と6日は東京で聖伝のミサを捧げました

2018年08月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月11日から15日まで大阪で小黙想会があります。

 8月3日(初金)と4日(初土)は大阪で、5日と6日は東京で聖伝のミサを捧げることができました。天主様に感謝します。

 大阪では、両日、御聖体の前で聖時間を持ちました。
 東京では堅振の準備をしました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fr Onoda:

8月の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 26人(内、子供6人)
女: 28人(内、子供7人)
計: 54人(内、子供13人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第11主日の御ミサをありがとうございました。
主日、特に聖霊降臨後の主日は小さな復活祭、洗礼の記念の日といえますとのこと、この日、洗礼をいただいたことがどのようなお恵みだったのか黙想することが出来ました。

耳を聴こえるようにしてくださったのは、それまでその大切さがわからなかったイエズス・キリストの教えを受け入れるようにして下さったお恵みであるというお話になるほどと思いました。

食べ物のことばかり言うこととか侮辱の言葉や悪い言葉や汚い言葉というのは、カトリックからすると動物のうめきごえのようなものだとうかがってハッと思いました。そして話すことができるようになるとは、人間らしい言葉を話すようになることだというお話が、心に深く入りました。そして、それは、単に口を開いて思ったことを口にするということとは違うことと思いました。

この日の聖福音は「耳が聞こえない・言葉がうまく話せない者をイエズス様が、開け!と唾のちょっとついた指で触れてくださって癒してくださる」というところでした。聖伝の洗礼式では、この時のイエズス様のやり方が反映されていると教えていただきました。

天主の声を聞けなかったのに聞こえて理解できるようになる、天主の掟を守ることが大切だとわからなかった人がわかるようになる、悪い言葉や汚い言葉を口にしがちなものが、良い言葉・やさしい言葉を口にすることが出来るようになる、それどころかそれまで話すことのなかった霊魂のことや愛ある言葉や祈りの言葉を話すようになれるなど、洗礼のお恵みとはどういうものであるか教えていただきました。

洗礼によって新しく生まれ、天主の子供(世継ぎ・嫡子)となるということは、それまでの動物のようにただこの世を生きているということから変えられて、もっと違う美しく人間らしい生き方をするようになるということとわかりました。もっとも美しい人間らしい生き方をされたのはイエズス様でありマリア様です。苦しみをもっとも受けられた二人は、どのようなことを耳にしても目にしても、すべてのことを深く心に留めて、天主の御旨を聞き入れて人間として話すにふさわしい言葉だけを話されたのだと、思いました。

(それは、天主の子であるイエズス様が、天主の子として生きる仕業を実際に生きてくださったことなのかもしれません、非常に大きな代償をお支払いくださって。)

あらためて自分のこれまでのあり方をいろいろ反省しました。深く黙想してその生き方を少しでもまねできますようにと思います。

御ミサの終了後にはいろいろな国のご出身の方々がいらしていることに気づかされました。
気さくに挨拶をしていただいてうれしく思いました。ご家族連れも多く、この昔から続いてきているごミサに大人と一緒に与る子供たちは、超自然の恵みとつながることを知らず知らず教えられ幸せだなと感じられました。

また6年も前からこのごミサに与りたかったけれど今日ようやく与れましたとおっしゃられた方は、とてもうれしそうでした。洗礼を受けていないけれど亡くなった祖母がカトリック信者でしたという方も見えていて、お祖母さまはこの方の為にいつも祈っていたに違いないと思いました。

今月は、次の主日も神父様が主日の御ミサを東京でも捧げてくださるとのこと、とてもお恵みの御ミサに続けて3週も与れること大変うれしいです。小黙想会のさなか、この暑さと夏休みの帰省混雑にもかかわらず、私たちのために新幹線での日帰りの往復はとても大変だろうと思いますのに、神父様、本当にありがとうございます。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

公教要理の授業をありがとうございました。
今回は前回に続いて堅振のことを教えていただきました。

中国人のご家族とアメリカ人のご家族の方々も御一緒に、20名ぐらいで学びました。
神父様は、幾つかの言語で説明してくださり、英語と日本語でくり返して講義してくださるのはとても大変だったと思います。(中国人の御主人様は奥様にその都度通訳して伝えておられました。)ほんとうにありがとうございます。

この日、感動したことがあります。神父様の「・・・畏れにはどういう畏れがあるかわかりますか?」という質問に答えて、アメリカ人のご家族の幼い可愛らしい女の子が「天国へ行くことが出来ないかもしれないという畏れがあります」(Fear of not go to Heaven)と、自分からすすんで答えられたことです。こんなに小さい頃から天国へ行くことが重要な事とパッと答えたことをすごい!と思いました。授業が終わって思わず、幾つなの?と聞いたらまだ七歳でした。

この日のお説教にしたがって考えると、この女の子はすっかり目が開かれているから天国があるということがわかっていて、ちゃんと口が開かれているから天国への望みを持っていると話せるのだと思いました。洗礼の恵みがしっかり刻まれていていることに感心しました。

幼い頃から、人生の目的を教えられて理解して、そのためにどうやって毎日を過ごすのがよいかを考え行動することができるということは、とても恵まれていると思いました。日本では普通の一般の家庭だったら、この世は永遠の命へ向かうための準備の場所だよって教えられることはまずないでしょう。超自然への感覚と畏敬を持っていないことはないはずですが、まかり間違ってこの世をどうやったら勝利者として生きられるか頑張りなさいと、教えこまれるかもしれません。お父様とお母様の愛と配慮によって初めから大切なことを気づかせていただけて、幸せだなと思いました。

講義の内容ですが、(お説教のなかでも堅振についてお話しいただきましたがそれを含めて)以下に簡単に纏めてみました。

◎堅振の7つの賜物(敬畏・孝愛・知識・剛毅・賢慮・聡明・上智)のうち、最初と最後が大切であることについて。

●敬畏が一番初めに与えられる恵みであるが、それが大切な理由は敬畏は私たちに主への畏れというものを与えてくださるものだから。

●その畏れには二種類があり、奴隷的畏怖(自分が罰を受けるのではないか・天国へ行けなくなるかもしれないという畏れ)と子女的畏怖(愛する人を悲しませてしまうのではないかという畏れ)がある。この畏れが最初に与えられる恵みとなり、ここから一歩ずつ昇っていくことになる。聖霊は、子供が親を愛するような主への畏れ(そして妻が夫を愛するような畏れ)をくださる。

●最後に与えられる上智が大切な理由は、上智(知恵)とは深い原因から物を見ることができることであり、物事の問題に対して最も深い原因までたどることで解決をすることができるということであるから。最も深い原因とはイエズス・キリストのことであり、イエズス・キリストを語る人こそ本当の知恵ある人である、そしてそれは至福八端の”平和を作りだす人は幸いその人は天主の子となるであろう”という言葉によってあらわされるように、上智の賜物を受けることが洗礼の恵みの完成ともいわれる所以となっている。

◎なぜ七つの恵みがあるかということについて。
●聖トマス・アクィナスによると、人間には「真理を知る事」「判断」「欲望」という三つの能力があり、この三つのそれぞれを完成させるために聖霊の七つの賜物をいただく。
●知るべき真理には、観想的真理と、物にかかわる実践的なことの真理との、二つがある。(観想的真理には聡明、実践的なことの真理には賢慮)
●判断には、観想的判断と、物にかかわる実践的なことの判断との、二つがある。(観想的判断には上智、実践的なことの判断には知識)
●欲望には、他人の欲望(他人に対して正しいことを望むこと)についてのことと、自分に関する二種類の欲望(自分が正しいことをしようする欲・危険なことに対しての欲)についてのことがある。(孝愛と敬畏と剛毅)

◎聖霊の7つの賜物とはそれぞれどのようなものか、聖霊の七つの賜物があると私たちはどのようになるのか、聖霊から七つの賜物を受けるになぜ順序があるのか、そしてそれぞれの賜物と至福八端との関係はどのようなものか?

●敬畏(the fear of the Lord, timor Domini)は、(先に説明を受けた二種類の畏れのことだが)まず初めに与えられて、私たちに心の貧しさを与えてくれる、それは自分に頼らないことであり、謙遜になることである。『心の貧しいものは幸せである、天の国は彼らのものである。』

●孝愛(piety, pietas)とは、敬畏が子供としての畏れを与えてくださるので、孝愛の賜物により天主を父親として見て隣人を兄弟姉妹としてみることができるようになる、それにより人は人にたいして柔和となる。『柔和な人は幸せである、彼らは地をゆずり受けるであろう。』

●知識(knowledge, scienta)とは、地にある人間以下の被造物に関することで、知識の賜物により被造物とは天国へ行くための手段・道具に過ぎず目的となるものでないことを知るようになる。それにより、被造物を悪く使ってしまい罪の機会・道具としていることに気づかせられるので、痛悔の涙を流すようになる。『悲しむ人は幸いである、彼らは慰めを受けるであろう。』

●剛毅(fortitude, fortitudo)とは、(罪の機会を乗り越えて)主の御旨を果たそうと思うとき聖霊は力をくださるがそれが剛毅で、剛毅の賜物により聖なる主の御旨を果たしたいという飢え渇きのような強い望みを起してくださる。『正義に飢え渇く人は幸いである、彼らは飽かされるであろう。』

●(ここまでが第一のレベルであり、ここから次の段階へと進む)
●賢慮(counsel, consilium)とは、アドバイスという意味で、難しい判断について非常に賢いアドバイスを聖霊が教えてくれる。命にかかわる危険な問題をどのように解決するかというときなど、聖霊は賢慮の賜物により互いに憐れみ深くあるようにということを教えてくださる。『あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみをうけるであろう。』

●聡明(understanding, intellectus)とは、賢慮の賜物を受けて、そこから天主の玄義の中に深く入ることができるようになること。Isee! わかった!、中を読みこむ、行間を読む、などの表現があるように、天主の神秘を理解し見るようになる。『心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう。』

●上智(wisdom, sapienta)は、聡明からくるその知恵によって全てを天主のもとに秩序づけるようになれること。それにより天主を味わうことは、なんと甘美であることか。上智の賜物を受けることで(先に説明を受けたように)秩序をつくり平和をもたらす。『平和のために励む人は幸せである、彼らは天主の子らと呼ばれるであろう。』

●『正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼らのものである。』
●聖アウグスチヌスは、「聖霊の七つの賜物を受けることにより、至福八端により容易に到達できる」と言っている。

以上です。

私たちが洗礼によって天主の掟を守り人間らしく話せるようになってのち、さらに本当に天主の子となれますよう、このような賜物を用意してくださっていることを、学ぶことができました。

聖なるカトリック教会は、堅振の秘蹟により聖霊の七つの賜物を与えてくださって、それにより天主の子となれるようにと、計らってくださっているのだということがわかりました。

神父様、とても難しかったのですが、素晴らしいお話をありがとうございます。

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(時間がなくできなかった、聖霊の12の実りについて、メモだけここに記します。)
(ガラツィア5章)

「聖霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、純潔である。これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章22-23節)

聖霊の12の実りは、ブルガタ訳では、次の通りです。
caritas, gaudium, pax, patientia, benignitas, bonitas, longanimitas, mansuetudo, fides, modestia, continentia, castitas.

ところが、ギリシア語ではこれが次の九つしかありません。
αγαπη, χαρα, ειρηνη, μακροθυμια, χρηστοτης, αγαθωσυνη, πιστις, πραοτης, εγκρατεια.

そこで、バルバロ神父様も九つしか訳してありません。

caritas, αγαπη, 愛徳、愛 charity
gaudium, χαρα, 喜び joy
pax, ειρηνη, 平和 peace
patientia, μακροθυμια, 忍耐 patience
benignitas, χρηστοτης, 親切、仁慈 begninity, kindness
bonitas, αγαθωσυνη, 善良さ goodness
longanimitas, (対応なし) 堅忍、long-suffering
mansuetudo, πραοτης, 柔和 meekness
fides, πιστις, 誠実 faith
modestia, (対応なし)慎み深さ、modesty
continentia, εγκρατεια. 節制 continence
castitas (対応なし)貞潔 chastity


教父たちによると、黙示録の「太陽に包まれた婦人」とは、天主の聖母終生童貞なる聖マリアを意味します。そのとき、十二の星のついた冠は、聖霊の十二の実り(ガラチア五章)です。
「霊の実は、愛(caritas)、よろこび(gaudium)、平和(pax)、寛容(patientia)、仁慈(benignitas)、善良(bonitas)、忍耐(longanimitas)、柔和(mansuetudo)、誠実(fides)、慎み(modestia)、節制(continentia)、貞潔(castitas)で…」


【報告】
イエズス様から特別に愛され、第2のキリストとなるように特別に召された司祭の方々の為にお祈りさせて頂きます。
ロシアでは200年ぶりにロシア人のカトリック司祭が誕生されたという事で素晴らしいですね。母国語で霊的指導を受けることができるようになるというのは、
現地のカトリック信徒の方々にとって非常に大きな御恵み、利益になる事と思います。
また新しい総長様とその補佐の司教様、神父様方、また前任の総長様とその補佐の神父様方、アジア管区の新旧管区長様のために、拙いながら霊的花束をお捧げさせて頂きます。
そしてイエズス様が、「私の羊を牧せよ」と直々に任命された教皇様の為に、お祈りさせて頂きます。
これほどまでにイエズス様から愛された教皇様が、イエズス様が唯一お求めになっている「私を愛しているか」という問いに、愛を以てお応えする事ができますように、マリア様の汚れなき御心を通してイエズス様の聖心の愛へと、全ての司教様、神父様方を指導して導いて下さいます様に。そしてその第2のキリストとなられた司教様、神父様方の模範を以て、全てのカトリック信者達を真のカトリック信仰へと導いて下さいます様に、マリア様の汚れなき御心に、そして「司教、司祭の為にたくさん祈って下さい」と仰った秋田のマリア様にお祈りさせて頂きます。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】