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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)のミサ聖祭の固有文をご紹介いたします

2018年08月15日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)のミサ聖祭の固有文をご紹介いたします。

【解説】信仰と洗礼とによって、われらは、天主の契約にあずかる者となった。しかし、未だにわれらは世間にひきずられ、たえずおびやかされている。天主が、われらをあわれみ、われらを見捨て給わぬようにと祈る。〈入祭文、昇階誦〉 
天主が、われらのうちに、信望愛の徳をつよめ〈集禱文〉われらをますます天的なものとする天のパンを与え給うように。〈聖体拝領誦〉

Dominica Decima tertia post Pentecosten 聖霊降臨後第十三の主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 73, 20, 19 et 23. 入祭文 詩篇73ノ20、19、23
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、御身をさがし求める者の叫びをきき給え。
Ps. ibid., 1. 詩篇73ノ1
Ut quid, Deus, reppulísti in finem : irátus est furor tuus super oves páscuæ tuæ ? 天主よ、なにゆえわれらを永遠に見捨て給うのか。なにゆえ、御怒りを、主の牧場の羊に向け給うのか。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、御身をさがし求める者の叫びをきき給え。
Oratio. 集祷文
Omnípotens sempitérne Deus, da nobis fídei, spei et caritátis augméntum : et, ut mereámur asséqui quod promíttis, fac nos amáre quod prǽcipis. Per Dóminum. 全能永遠の天主よ、われらのうちに信・望・愛の徳を増し、主の約束し給うたものをわれらに与え給うよう、われらに主を愛させ給え。天主として・・・。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Gálatas. 使徒パウロの、ガラツィア人への書簡の朗読
Gal. 3, 16-22. ガラツィア 3ノ16-22
Fratres : Abrahæ dictæ sunt promissiónes, et sémini eius. Non dicit : Et semínibus, quasi in multis ; sed quasi in uno : Et sémini tuo, qui est Christus. Hoc autem dico : testaméntum confirmátum a Deo, quæ post quadringéntos et trigínta annos facta est lex, non írritum facit ad evacuándam promissiónem. Nam si ex lege heréditas, iam non ex promissióne. Abrahæ autem per repromissiónem donávit Deus. Quid igitur lex ? Propter transgressiónes pósita est, donec veníret semen, cui promíserat, ordináta per Angelos in manu mediatóris. Mediátor autem uníus non est : Deus autem unus est. Lex ergo advérsus promíssa Dei ? Absit. Si enim data esset lex, quæ posset vivificáre, vere ex lege esset iustítia. Sed conclúsit Scriptúra ómnia sub peccáto, ut promíssio ex fide Iesu Christi darétur credéntibus. 兄弟たちよ、さて約束は、アブラハムとその子孫にされたものである。聖書は複数として「子孫たちに」とはいわず、単数の形で「子孫に」といっている。この子孫はキリストである。で、私はこういう。天主があらかじめ定められた遺言は、四百三十年後にできた律法によって廃止されず、したがって約束も無効になることはない。もし遺産が律法によるのなら、約束によってくるのではない。しかし天主がアブラハムをよみされたのは、約束によってであった。それでは、なぜ律法があるのか?それは、違反あるがために加えられたもので、約束された子孫が来られる時までのものであり、天使たちによって、仲立ちの手をとおして布告された。しかし、片一方だけの場合には、仲立ちというものはありえない。そして天主は唯一である。それなら、律法は天主の約束にもとるものか?決してそうではない。命をあたえる律法が出されたとすれば、実に、義とされるのは、律法によってであろう。しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じこめた。それは、信仰をもつ人たちが、イエズス・キリストへの信仰によって、約束の恵みを受けるためであった。
Graduale. Ps. 73, 20, 19 et 22. 昇階誦 詩篇 73ノ20,19,22
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum : et ánimas páuperum tuórum ne obliviscáris in finem. 主よ、御契約を思い出し、貧しい者の霊魂を永久に忘れ給うな。
V/. Exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam : memor esto oppróbrii servórum tuórum. V/. 主よ、起って、御身のことを審(つまびら)き、下僕らに向けられる侮りを思い出し給え。
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 89, 1. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇89ノ1
Dómine, refúgium factus es nobis a generatióne et progénie. Allelúia. 主よ、主は、世々に、われらの避難所となり給うた、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 17, 11-19. ルカ17ノ11-19
In illo témpore : Dum iret Iesus in Ierúsalem, transíbat per médiam Samaríam et Galilǽam. Et cum ingrederétur quoddam castéllum, occurrérunt ei decem viri leprósi, qui stetérunt a longe ; et levavérunt vocem dicéntes : Iesu præcéptor, miserére nostri. Quos ut vidit, dixit : Ite, osténdite vos sacerdótibus. Et factum est, dum irent, mundáti sunt. Unus autem ex illis, ut vidit quia mundátus est, regréssus est, cum magna voce magníficans Deum, et cecidit in fáciem ante pedes eius, grátias agens : et hic erat Samaritánus. Respóndens autem Iesus, dixit : Nonne decem mundáti sunt ? et novem ubi sunt ? Non est invéntus, qui redíret et daret glóriam Deo, nisi hic alienígena. Et ait illi : Surge, vade ; quia fides tua te salvum fecit. そのとき、イエズスがイエルザレムに行くために、サマリアとガリラヤとの間を通りかかられ、ある村におはいりになったとき、十人のらい病人にであわれた。かれらは、はなれた所に立ちどまり、「イエズス、先生、私たちをあわれんでください!」と大声でいった。かれらを見たイエズスは、「あなたたちの体を司祭に見せにいけ」とおおせられた。かれらは、そこに行く間になおった。そのうちの一人は、自分がなおったのを見ると、大声で天主をたたえながら引き返してきて、イエズスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリア人であった。イエズスは、「なおったのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この他国人のほかには、天主をたたえるために引き返してきた人はないのか!」といい、そして、その人に向かって、「立っていけ。あなたの信仰が、あなたを救った」とおおせられた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 30, 15-16. 奉献文 詩篇30ノ15-16
In te sperávi, Dómine ; dixi : Tu es Deus meus, in mánibus tuis témpora mea. 主よ、私は主に希望し奉る。主こそ私の天主であり、私の生命は主の手中にある、と私はいおう。
Secreta. 密誦
Propitiáre, Dómine, pópulo tuo, propitiáre munéribus : ut, hac oblatióne placátus, et indulgéntiam nobis tríbuas et postuláta concedas. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御民をいつくしみ、御民の供物を受け入れ給え。これによって御心をなだめられ、われらにゆるしを与え、われらの願いをききとどけ給わんことを。天主として・・・。
Præfatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Sap. 16, 20. 聖体拝領誦 智書16ノ20
Panem de cælo dedísti nobis, Dómine, habéntem omne delectaméntum et omnem sapórem suavitátis. 主よ、御身がわれらに与え給うのは、天のパンである。そこにはすべての楽しみと甘みとがある。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sumptis, Dómine, cæléstibus sacraméntis : ad redemptiónis ætérnæ, quǽsumus, proficiámus augméntum. Per Dóminum. 主よ、願わくは、天の秘蹟を拝領したてまつったわれらを、永遠のたすかりの道にすすませ給わんことを。天主として・・・。

8月15日、聖母の被昇天の大祝日おめでとうございます!大阪では小黙想会が行わました。

2018年08月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月15日、聖母の被昇天の大祝日おめでとうございます!
 今日は、大阪では28名の方々が聖伝のミサにあずかり、その後、聖母行列を行いました。とても幸福な一日でした!

 大阪では天主のお恵みによって、8月11日(山の日)から私たちは大阪で黙想の「山」に登って今日の15日まで小黙想会(静修)を行いました。
 午前9時45分ごろからロザリオ、10時半から聖伝のミサ、12時頃から昼食、午後2時と3時から2回の霊的講話、4時から5時まで顕示された御聖体の前での聖時間を過ごしました。毎日、10~15名の方々が参加されました。

 小黙想会の最中ではありましたが、8月12日には、大阪でのミサの直後に聖時間を行い、私は東京に向かって午後5時から告解、6時から聖伝のミサを捧げました。最初は黙想会のために難しいと思っていたのですが、多くの方々のご理解と励ましと協力とでそれが実現できました!お知らせが遅れてしまったにも関わらず多くの方々が参加されました。カトリック信仰に関心を深いお持ちで勉強をしたいという方々も、また初めての方もおられました。天主に感謝いたします!

 東京の聖伝のミサのご報告をいただきましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

Dear Fr Onoda:

8月12日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供4人)
女: 16人(内、子供2人)
計: 35人(内、子供6人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

本当に12日は東京でも主日の御ミサをお捧げ下さいましてありがとうございました。
昨日は夕立とか雷雨の予報があり心配でしたが、護られてよかったです。
神父様はお疲れと思いますのに、ぎりぎりまで信者さんたちとお話され最終(?)の新幹線に間に合われるか心配でした。

この日のお説教を聴くことを特に楽しみにしておりました。善きサマリア人の話だったからです。
私も自分なりに解釈して、確かにこのサマリア人はイエズス様でこの宿屋はカトリック教会に違いないと思っていました。
でもお説教を伺ってもっといろいろなことがわかってうれしく思いました。
私たちは多かれ少なかれ世間と悪魔と肉欲という強盗に襲われて半死半生になっているもののようだという言葉に思わずうなずいていました。
私を愛してくださっている御父が、私をカトリック教会に連れてきてくださり、正しく相応しく御父をお愛し申し上げることができますためこのごミサにあずからせてくださいましたことを、もっと感謝しなければならないと思いました。

特に昨日は私には、神父様の"葡萄酒を傷口に注ぎ傷をキレイにしてくださる"というお話が刻まれました。
その葡萄酒はイエズス様の御血、十字架に架けられて流し尽された御血ですという言葉と共に。

お説教の後、カノンに入ってから、私は主イエズスの流された御血という葡萄酒に傷口を洗われているのだという感覚に落ちているようで、聖なる奥義が内的な深いところで行われていることを垣間見させていただいているのかもしれないと、ふっと感じられました。

言葉で言うのは難しいのですが。

「贖われるということを口にするが、誰かの何かの犠牲によって良しとされるのであれば、その者以外の苦痛による恩恵を受けるのであるから、もう苦しみ傷んでいる当事者はそれ以上何もできないからその者以外が支払う代価をいただくことになる。それは霊魂のなかでおこなわれることで、目に見えず、音もしない。でも確かに霊的なところで何かが執り行われている。」

そんなことを感じる主日のミサでした。強まりゆく朝の光と違い、外の光が弱まっていくなか、霊的な光線はかわらず射し込まれておりました。

帰りに電車で友人と話していたことは、修道女の渡辺和子さんがそれでも決して許せないという人がいたとかいなかったとかと言う話でした。渡辺和子さんは、まだ9歳だったころ居間に父親といると、二・二六事件で陸軍大将の父親が青年将校に襲撃されて自分の目の前で父親が銃殺されるのを見ている方です。18歳の時にカトリックの洗礼を受けて、29歳で修道女になりました。

自分に苦痛を与えた人の救いのために祈るということについて、このところ考えるともなく考えていました。そんななか、「神はある人をだんだん沈んでいく泥沼から救いだすために自分の嫌悪、自分の反感、自分の憤慨に打ち勝つ他の人の犠牲を待っておられる」という文章を読みました。

普通なら無理なことであっても、天主の聖寵が与えられ、できるようになるかもしれません。イエズス様こそはそういった普通の人間が越えがたいことをされたのでしょうが、わたし自身はまだそのことをハッキリと理解するまで至っていません。、

身体や心だけでなく、霊のうちにも、苦しみ・傷みがあります。

ミサから流れでる聖寵は、それを受け取ることもできるし拒否して受け取らないこともできるのだと思います。自由な撰のなかに霊的な命はあるのだと思います。表面的な物事の進行の影には霊的な命の流れがあって、それは目に見えず聴くこともできずしかと感じることもできなかもしれない。でも、確かにあるもの。それがカトリックで2000年来守られてきたミサであり、その霊的な命の流れをとどめ置くことができないまでに変質されたものからは受けられないような恵み(聖寵)なのかなと思いました。

ミサのなか、霊的に葡萄酒が注がれて傷口を洗い清めてくださるということを黙想させていただきまして、ありがとうございます。

もう一つ思い出されることは、石の石板に刻まれた旧約の律法と違って、新約の律法は肉の心に刻まれているというお説教でした。肉の心は、痛みや苦しみに敏感です。天主として無限の深さの鋭敏さを持つ心が傷つけられるときその痛みはどれほどでしょうか。その代償の価値は計り知れないことでしょうと思いました。

いつもは何も感じることなく知らぬ間に受けているかもしれませんが、なんだか昨日はこのようなことがあれこれ浮かび、神父様に少しお伝えしたく思いました。

また、油を塗るということは、堅振の秘蹟のこととつながると話してくださいましたことについてです。先週の公教要理では、堅振によって聖霊の七つの賜物がいただけることの深い意味を、至福八端との関係を使って、よくわかるように例を挙げてお話しくださいました。とてもよいお話をありがとうございました。

私は長いあいだ、"聖霊"さまとは、どういう御方かをよくわかっておりませんでした。そもそも初めの地点で、聖霊の恵みを受けるということは、聖霊刷新運動のなかでおこなわれているセミナーを受けてから聖霊の満たしを受けることを意味しているように、周囲から誘われ続けていました。私が洗礼を受けた時は、ちょうど日本で聖霊刷新運動が始まりだした時だったのです。私の意志と関係なくその聖霊刷新カリスマ運動は、カトリックの信仰を受けたいと望む私の周囲にあり続けました。聖霊の満たしを受けると、その人の信仰は深くなり祈りも深まりますと誘われたものでした。異言や預言や奇跡をする力や種々の特別のカリスマをいただく人もいますよと。

どうして聖霊は三位一体の御方なのに、教会の秘蹟とは別なルートでしか信者に恵みを与えないというのか不思議でした。私の場合、堅振は洗礼と同時に司教でない神父様が与えてくださっていたので、堅振の秘蹟により聖霊の七つの賜物を与えられるのですという話を聞いたことがなかったのです。その状況のなかで、まるで聖霊の満たしを受けないと聖霊の恵みが与えられないとでもいうかのように聞こえて、不安に感じることもありました。でも、私はなんだか嫌でした。

ところが、先週の堅振のことの公教要理の講話を受けた後、私は最初から続くこの堅振式のやり方でカトリックの秘蹟をそのまま行い続けていたなら、カトリック信者は聖霊刷新カリスマ運動に惑わされることがなかったのでは? と気づきました。カトリック教会は、最初から、完全な信者となるために、聖霊とその賜物を豊かに受ける秘蹟をしっかりと保持しているのだと教えられましたから。ただそれが、通常通りおこなわれなくなってしまっていたのです。そう思ったら、びっくりしました。 プロテスタント化されてしまったミサから受ける恵みが希薄になってしまっているところを、悪い霊に付けこまれたのかもしれません。

伝統的な堅振式が行われるような教会で歌われるのはグレゴリオ聖歌ですが、カリスマ運動ではグレゴリオ聖歌が歌われることはないでしょう。もしかしたら歌はとっても重要なファクターでしょうか。

そうことに気づいたら、ようやく長いあいだ悩まされ続けていたことを、ちゃんと整理できたように思います。でも何か間違っていたらどうか教えて下さい。聖霊の満たしを受けず、昔からのやり方の堅振式で堅振をうけるように小野田神父様のもとに導かれて、本当に良かったと思います。

今度の19日のデ・ガラレダ司教様の堅振式で、堅振を受ける方たちのためにお祈りをしています。またわたし自身のためにも、いただいた堅振の効力が保たれますように、常に新たに効力が増しゆきますようにと願いたいと思います。周りの人をも、カトリック教会というホテルに連れて来れますように働くことができればと思います。いつも小野田神父様がお勧めくださいますようにマリア様にお取り次ぎをお願い致します。

ファチマの聖母我らのために祈り給え
秋田の聖母我らのために祈り給え


聖母被昇天の大祝日の聖伝のミサと聖母行列の報告【聖ピオ十世会大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、 今日は、聖母の被昇天の大祝日でしたね。おめでとうございます。 大阪の聖ピオ十世会、聖母の汚れなき御心聖堂では、8......


2018年6月16日(土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ 「マリア様はイエズス様と同じ事を愛して、同じ事を望まれている。一体それは何なのですか?」

2018年08月15日 | お説教・霊的講話
2018年6月16日(土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教



聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月16日、聖母の土曜日で、マリア様の汚れなき御心の随意ミサを捧げています。

今日のこの御ミサの後では、短い聖体降福式があります。どうぞ与って下さい。

その後で、信徒会長様と、あと有志の皆さんで、私の司祭叙階25周年をお祝いして下さるという、特別の催しを計画して下さいました。

式次第を私も見せて頂いたが、とても良い内容が準備されていて、本当に深く感謝しています。どうぞもしも時間がおありでしたら、一緒に時を過ごさせて下されば嬉しく思います。皆さんへのびっくりプレゼントも待っています。1つどころではなくて、たくさんあります。期待していて下さい。

それからもう1つ、この皆さんにまた別の感謝の言葉があります。前田枢機卿様の任命をお祝いするという事で、皆さんから霊的花束を捧げようという事を提案しましたら、皆さんの方からこの大阪と東京合わせて、実は大部分が大阪を占めるのですけれども、1000環のロザリオが集りました。ちょうど1000環で、前田大司教様にその旨、霊的花束を捧げするという事でお手紙を書きました。そのお手紙で私の俳句、に一つ足りないのでイマイチ足りないので、俳八を3つ付けて送りました。

どうぞ皆さんからの1000環にはびっくりして喜ばれたと思いますけれども、私の俳句についてはちょっと笑われたかもしれません。寛大なお祈りを感謝致します。



“Exsultabit cor meum in salutari tuo, cantabo Domino qui bona tribuit mihi.”
「私に善を下さった天主に、私の心は喜び踊る。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の汚れなき御心の随意ミサを捧げています。理由はこの御聖堂がマリア様の御心に捧げられてあるという事と、また6月13日にはマリア様が101年前に、初めてご自分の御心をこの世に啓示して下さった、ファチマで掲示して下さったからです。そこで今日このマリア様の御心の神秘の中に、より良く入る事に致しましょう。

ところで6月13日に見せて下さったマリア様の御心は、皆さんもよくご存知の通り、普通私たちが想像していたような、花で囲まれた、綺麗な花で囲まれて槍で貫かされた御心ではなくて、イエズス様の茨の冠に被せられた、愛の火で燃える、轟々と燃える、イエズス様の聖心と全く同じ御心でした。

私たちは聖クリゾストモの言い方に従って、「パウロの心はキリストの心」“Cor Pauli, Cor Christi”と言いますが、このマリア様のファチマでの啓示を見ると、「マリア様の心はイエズス様の聖心だ」と言う事ができます。イエズス様がお愛しになっているものをマリア様も愛されている。イエズス様が願っている事もマリア様は願っている。

では一体、マリア様は何を愛されているか、何を望んでおられるか、という事は、イエズス様の聖心をよく見る事によって分かります。なぜならば、イエズス様の聖心とマリア様の御心は2つで1つ、分かち難く結ばれているからです。

そこで今日は6月のイエズス様の聖心の月でもあるので、マリア様の御心の中にイエズス様の聖心の助けを使って深く入って行く事に致しましょう。

「一体マリア様、マリア様はイエズス様と同じ事を愛して、同じ事を望んでいるのですけれども、一体それは何だったのですか?」
「ああ、我が子よ、我が娘よ、私はイエズスと同じものを愛し、同じものを望んでいるのですよ。」
「ではイエズス様、イエズス様は一体何を愛して、何を望んでおられるのですか?」

永遠の御言葉、天主よりの天主、光よりの光、創られずして生まれ、愛によって浸透されている、愛自身である天主イエズス・キリストは、永遠の昔から愛していました。永遠の昔から聖父を愛し、そして聖霊を愛し、聖父と聖霊から愛され、そして無から天使と人間を創って、この愛の団居(まどい)の中に招こう、私たちを人間を無から創って、その人間に天主の永遠の喜びを、無限の喜びを与えようと思われました。

イエズス様の聖心は天主ですから、天主の聖心ですから、天主のこの愛に浸透されています、充ち満ちています。そして天主のこの愛によって燃え立っています。イエズス様の聖心は、この天主の熱烈な情熱的な狂わんばかりの愛を以て愛しておられます。

イエズス様の愛は限りなく、その広さは果てしなく、全てのものに渡っています。

その長さは、その愛は無限の、永遠の昔から永遠の未来まで終わりなく愛し続けています。

その高さは、無限の高さの、三位一体の高みまで私たちを連れて行く、その愛の高みを持っています。

その深さは、底の知れない深い基礎を持っています。この世の悪もこの世の邪悪も決して揺るがす事ができないほどの、深い深い深い深淵の深海の深みよりも更に深い、愛の基礎を持っています。

永遠の昔から私たちを愛する天主が、人類を愛するその愛には始まりがありませんでした。終わりもありません。しかしイエズス様が天主の聖子が、御言葉が人となって、御託身をされて、そして人間として心臓の聖心の鼓動を打ち始めたのは、始まりがあります。ですから聖心として、イエズス様の至聖なる聖心が人間の心として、天主の本性に充ち満ちて愛し始めたのには、始まりがあります。マリア様の御胎内に宿られたその瞬間からでした。

では一体その瞬間から、聖心の鼓動が愛によってドキドキと打ち始めた時に、一体何を愛されているのでしょうか?

それは天主の栄光でした。天主の、傷付けられた天主の栄光を贖う、贖ってそれを償おうする、天主聖父に対する熱烈な愛でした。

もう1つ、人類に対する、人類を贖おうと、人類に代わって人類の代表として、この世の罪を贖おうと、そして罪と死と地獄と打ち勝つという、私たちに対する熱烈な愛の鼓動が始まりました。イエズス様のこの愛の鼓動は、まずマリア様に向けられていました。汚れのない御母、終生童貞なるマリア様の為に鼓動を始めました。それと同時に、罪人である私たち人類を愛する、愛の鼓動を開始しました。

イエズス様の聖心の愛を黙想すると、天主聖父と私たち人類への愛に充ち満ちているという事が分かります。

しかしイエズス様の御生活を御胎内から、また永遠に渡ってのその御行動を福音に従って見ると、研究してみると、「イエズス様には特別に愛する人々がいる」という事が分かります。天主と人類を愛する為に、天主により良い栄光を与えて、より良く人類を救う為に選ばれた人がいます。まず最高に選ばれた方が、「マリア様」でした。マリア様に似せるかのような、また別の選ばれた人たちがいるという事が、イエズス様が特別に愛した人々がいるという事が分かります。それが「カトリックの司祭」です。

イエズス様はこの御自分の司祭たちに、特別の愛情を注いでおられます。イエズス様が御胎内にまだおられた時から、マリア様によって運ばれて最初の霊的な奇跡を行なったのは、司祭の家系に属するザカリアの子供、洗者聖ヨハネでした。

イエズス様の3年間の公生活を見ると、特別に愛された使徒たちがいます。12人の使徒たちを特別に選んで、彼らの養成と、教えと、それの聖化の為に、特別の神経と愛情を注ぎます。御自分の使徒を、イエズス様がまず祈って選びました。そして直接に御自分の御口から彼らを、「私の後について来い」と召命を招きます、召し出します。

イエズス様は、この彼らがどれほどの事ができるか、という事を知っていましたけれども、どれほど弱いか、みすぼらしいか、惨めであるかという事も、弱点もよく知っていました。それにもかかわらず、その弱点にもかかわらず、その哀れさにもかかわらず、御自分の選んだこの男たちを、御自分の高みまで引き上げたのです。

そしてそればかりでなく、御自分の聖心の愛の天の宝を彼らに与えて、彼らに、他の人たちが天使たちも受ける事ができなかったような、特別の特権や力を以て飾るのです。

そればかりではありません。使徒たちには特別の愛情と優しさを以て、他の人たちには知られていない天主の神秘を与えます。他の人たちには例えで話しましたが、もしも使徒たちがイエズス様に、「主よ、一体これはどういう意味ですか?」と聞くと、「あぁ、天の御国の神秘は、あなたたちには知る事が与えられている」と特別の説明をして下さいます。

公生活の時だけではありません、3年間だけではありません。その最後の最後には、今まで何度も何度も弟子たちと過ぎ越しを過ごした事がありましたが、イエズス様は特にこの最後の過ぎ越しの時に、「私は、特別の燃える願いを持って、お前たちとこの過ぎ越しを食べる事を望んでいる」と言いました。そして御自分が更に、この弟子たちを愛している、という事をもっと明らかに仰るのです。そしてイエズス様が持っていた永遠の司祭職をこの特別の弟子たちに与えようと思われました。そして決して消えいる事ができない、肉体が滅んでも決して消える事ができない天主の刻印を、霊的な刻印を、この霊魂たちに、イエズス・キリストの司祭として刻み込もうと思われました。

「私が受難を受ける前に、この過ぎ越しをお前たちと食べる事を、私は望みに望んだ。」

この惨めな、ほとんどが漁夫であった、あるいはその他惨めな人間この男たちを、イエズス様は天使たちの9つの階級よりもはるかに上に上げられたのです。

まずイエズス様はこの何をなさるかというと、私たち人類を愛するがあまりに、この狂気の沙汰、「愛は盲目」と申しますが、人類を私たちを愛して狂ってしまったかのように、御自分を与え尽くそうと思いました。その為に、私たちと1つの心となる為に、私たちと共に留まる為に、御自分は天主は、私たちに食されるパンとなる事を考え付きました。イエズス様の愛はどれほど強烈だった事でしょうか。あたかも自分が何であるかを忘れてしまったかのようです。天主がパンとなって、私たちの為に与えられる。

しかし天主様の私たちにする愛は、そして永遠の知恵と無限の全能の力は、天主の全能は、これが1回だけではなく、世の終わりまで続くように、更なる愛の奇跡を起こしたのです、愛の発明をしました。天主のみがする事ができる、「全実体変化」という大奇跡を、イエズス・キリストの行う事ができる奇跡を、単なる人間にも行う事ができる、という特別の司祭職を制定しました。「パンを、イエズス・キリストの天主の体に聖変化させる」という、とてつもない特権を与えました。

これは「カトリックの司祭職」という天主の愛の傑作です。私たちが世の終わりまで御聖体を受ける事ができるように、イエズス様が私たちと共に、世の終わりまで共におられ、私たちの内にいる事ができるように、イエズス様の無限の知恵は司祭職を創り出しました。新約の司祭職です。

この特別の司祭職の恵みを受けた惨めな人間たちは、イエズス様のこの偉大な奇跡を、毎日執行する事ができるようになります。その為に、この瞬間使徒たちは、決して消える事ができない「永遠の司祭」と、イエズス・キリストによって直接叙階を受けました。「これを我が記念として行え。」天主の栄光の為に、この世の人々の救いの為に。

マリア様は、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と言って、イエズス様を御胎内に宿されました。カトリックの司祭は自分で、イエズス・キリストの御言葉を、「これ、我が体なり」という聖変化の言葉を以て、イエズス様をこの祭壇の上に、天から呼び戻します。

イエズス様は仰いました、特にこの司祭たちに仰いました、「私はお前たちを孤児としては残さない。私を愛する者は、私の聖父によって愛される。聖父が私を愛したように、私もお前たちを愛した。私の愛に留まれ。」

「聖父が私を愛したように、私もお前たちを愛した」と、イエズス様は最後の晩餐の時に、この新しい司祭たちに言います。「私の愛に留まれ。」

「お前たちは私の友だ。私はもはやお前たちをしもべとは呼ばない。私はお前たちを友と呼んだ。」

夫とか妻とか兄弟というのは、もちろん互いに愛し合う存在ですけれども、でも時々、その愛が全く凍りついてしまったような、冷めてしまったような関係もあります、残念ながら。しかし友というのは、もしも愛が凍りついてしまったら、もう友ではありません、敵になります。イエズス様はこの弟子たちを、「私はお前たちの事を友と呼ぶ。私はお前たちを、聖父が私を愛したように愛した」と言います。カトリックの司祭というのは、イエズス・キリストの聖心の特別の友である、という事が分かります。特別の愛を受けた者だ、という事が分かります。

イエズス様は更に言います、「私はこの世からお前たちを選んだ。聖父はお前たちを愛している。なぜならば、お前たちは私を愛したからだ。」

イエズス様からこれほどの愛を受け、特別の特権を受けたこの弟子たち、使徒たちは、残念ながら、イエズス様を裏切ったり、否んだり、売り飛ばしたりしました。ユダが来た時のイエズス様の言葉を見て下さい。もちろんイエズス様はユダが何をしているか知っていました。愛する司祭です、イエズス様は言います、「友よ、一体何の為に来たのか?」もちろん、冷たい言葉や、叱りの言葉を言う事ができたかもしれません。しかしあくまでも、愛を愛で以て返そうとします。「友よ、友。わが友よ。」

イエズス様はその愛する友が、聖ヨハネを残して、皆散り散りばらばら逃げてしまって、全く一人ぼっちになって、マリア様とヨハネ、その他マグダレナその他の弟子たちを残して、皆が去ってしまった時に、どれほどの悲しみを覚えた事でしょうか、これほどの愛を捧げたこの友たちが、司祭たちが去ってしまった時に。

しかしイエズス様は御復活なさった時に、このまず御出現なさったのは、その功徳のあった婦人たちでした。最後まで十字架のもとに留まった婦人たちでした。しかしその婦人たちには何と言ったかというと、婦人たちを慰めるというよりは、「行って、私の兄弟のもとに言いなさい」と言うのです。「私の兄弟のもとに」そしてイエズス様が復活なさって最初に祝福したのは、この使徒たちでした。恐れて隠れていた、震え上がっていた使徒たちのもとです。彼らに何を言ったかというと、「お前たちに平和あれ。聖霊を受けよ。」お叱りの言葉や、嫌味の言葉は全くありませんでした。「お前たちに平和あれ。」イエズス様は、自分の受けた悲しみや苦しみや、裏切りなどを全くケロリと忘れてしまったかのようです。どれほど私たちの事を、司祭たちの事を愛していたでしょうか。

40日間の御出現を見て下さい。特別に使徒たちの為にのみ現れて、使徒たちを教育する為に現れたかのようです。この裏切った使徒たちに、その司祭職を奪い取ろうなどとはしませんでした。憐れみと愛に満ちたイエズス様は、復活のその主日にその日に、更に天使たちでさえも羨むような、人類がどうやっても手を伸ばしても届かない、ものすごい特権をこの使徒たちに与えます、「聖霊を受けよ。お前たちが赦すものは天でも赦され、赦さないものは天でも赦されない。」『罪を赦す』という、天主のみがする特権を、この弟子たちに与えました、司祭に与えました。

この為に、この地上のどのような王であっても、皇帝であっても、司祭の前に膝をかがめます。
「我、司祭の祝福を乞い願う。全能の天主、終生童貞なる聖マリア、罪の赦しを乞い願い奉る。」
なぜならば司祭は、イエズス・キリストのみが持つ、罪を赦す権威を与えられたからです。

イエズス様がどれほどこの司祭たちを愛しているか、という事が分かります。復活された後に、自分を3回否んだ「この男を知らない」「関係ない」「分からない」と言った、このシモンに言います、「シモン、ヨナの子シモン、お前はこれらのものより私を愛しているか。」

イエズス様はこのシモン・ペトロに、お叱りの言葉や、「あの約束したけれども、その権威を取っちゃう」などと言う事もできたかもしれませんが、イエズス様はそのような事はひとつもありません。それよりも1つだけ、ペトロから要求した事があります、「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」

イエズス様はこれほど愛したので、その愛を愛で返すか、という事だけをお聞きになります。

「主よ、私は御身を愛しています。」
「私の子羊を牧せよ。」

するともう1回聞きます、「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」ペトロはもう一度言います、「主よ、私は御身を愛しています。」

2回聞けば十分だったかもしれません、もちろん十分でした。イエズス様はもう一度聞きます、「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」イエズス様が求めているのはたったこれだけです。ペトロの弱さ、惨めさ、能力、出身地、学歴、財産、知人縁人、縁故関係、コネクション、そのようなものは全く関係ありませんでした。「私を愛しているか。」

ペトロは非常に悲しんで、「主よ、御身は全てを御存知です。御身は私が愛している事を御存知です。愛しています。」これはシモン・ペトロの信仰告白でした。「イエズス様、御身は天主です。全知全能の天主です。御身は全てを御存知です。私の弱さも御存知です。しかし私の惨めさにもかかわらず、御身を愛している事を知っています。この拙い愛をお受け取り下さい。」

するとイエズス様は、今度は違った事を命令します、「我が子羊を牧せよ」ではなくて、「我が羊を牧せよ。」つまり、イエズス様の最も愛する司祭たちを、「お前のもとに委ねる」という事でした。

イエズス様は使徒たちに言います、「お前たちの言う事を聞く者は、私の言う事を聞く者だ。しかもお前たちを軽蔑する者は、私を軽蔑する者だ。」

イエズス様と使徒たちは全く1つである、イエズス様はこの使徒たちの中に、司祭の中に生きている、司祭との愛の一致を生きている。司祭がする事はイエズス様のする事だ。イエズス様のする事は司祭のする事だ。そしてカトリックの司祭をイエズス・キリスト御自身に、第2のキリストにしよう、と願っています。

これがイエズス様の聖心に燃える特別の愛です。天主聖父への栄光の為に、人類の多くの救いの為に、イエズス様は特別の愛を以て司祭を愛しておられます。そしてマリア様も同じ愛を以て、司祭を愛しておられます。

6月は聖ピオ十世会では多くの司祭が生まれて、そして皆さんのしもべもこの特別の御恵みを受けました。カトリックのイエズス様から特別に愛された司祭が、そしてマリア様が愛しておられるイエズス・キリストの司祭が、ますますイエズス・キリストと一致するように、イエズス・キリストの生き写しとなりますように、第2のキリストとなりますように、イエズス・キリストが愛するものを愛して、イエズス・キリストがお望みのように行動する事ができますように、お祈り致しましょう。

“Exsultabit cor meum in salutari tuo, cantabo Domino qui bona tribuit mihi.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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