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2018年7月6日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 「イエズス様の聖心と御血の関係を黙想する」

2018年08月24日 | お説教・霊的講話
2018年7月6日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年7月6日、7月の初金曜日のミサをしています。そして今日のこの御ミサの後に、聖時間を行ないましょう。

大阪では地震がありました。私たちの聖堂では、ヨゼフ様と入り口にあったマリア様の御像が傷んで壊れてしまいました。それから2つの御聖体顕示台も少し被害を受けましたが、しかしその他は無事で、ほんのちょっとあと揺れが多かったらもっと多くの被害を受けていたと思います。しかしそれで済んだ事を感謝します。
皆さんもご家族の中に被害を被られた方もあるかもしれませんが、しかし命が大事で、無事で良かったと思っています。全ての事に感謝致します。

今日は総長様からの特別の指示で、「総会の準備の為に、聖ピオ十世会の会員は大小斎を守る」という命令を受けていますので、もしも皆さんもできれば一緒にこの犠牲を捧げて下さい。少なくとも私たちは初金の聖時間を、総会の為にお捧げ致しましょう。

明日もミサがあります。それから来週も金・土・日とミサがあります。日曜日には主日にはドゥモルネ神父様がいらして下さいます。



聖父と聖子と聖霊との、御名によりて、アーメン。

今日は7月の初金曜日です。そこで7月は特別にイエズス様の聖なるいと尊き御血へ捧げられた月ですので、イエズス様の聖心と御血の、その2つの関係を黙想する事に致しましょう。

そして「イエズス様は永遠の昔から、私たちの霊魂を養う事を、私たちを悪から救う事を、死から救う事を考えておられた」と入祭誦で言われている通りに、永遠の昔からイエズス様の聖心は、御血を、御自分の御血を流される事を御計画でした。

⑴ 一体、イエズス様はその計画をどのように旧約聖書で予言していたのか?

⑵ 第2に、イエズス様の聖心は一体、歴史的にどうやって御血を流されたのか?

⑶ 最後に、私たちはこの2018年7月6日の今日、私たちはどうやったらその予言の成就である、イエズス様の御血の御恵みの功徳を受ける事ができるのか?

その黙想をする事に致しましょう。


⑴ イエズス様の聖心は、永遠の昔から御血を流す事を考えておられました。色々な前兆が旧約聖書の中にありますが、それを全て私たちは黙想する事ができないので、今日は3つだけ、少しだけ垣間見る事にします。

まず第1は、アダムとエヴァのそのすぐに生まれた子供たち、カインとアベルの兄弟の話があります。カインはお兄さんで、アベルは弟です。カインはこの大地の実り、労働の実りを天主にお捧げ致しました。アベルは子羊をヤーウェに天主にお捧げしたのですけれども、カインの生贄は天主に嘉されずに、そうではなく、アベルの生贄を非常に快く思われました。その事を知ったカインは非常に恨み、アベルを妬み、そして妬みの罪と兄弟殺し、殺人の罪がこの世に入りました。最初に人間の血が、殺害の血が流されました。

「アベルの罪の無い血は、天に復讐を求めて叫んでいた」と旧約聖書にありますが、これは来たるべき、罪の無いイエズス・キリストの流される御血の前兆でした。妬みと嫉妬により、イエズス・キリスト様は私たちの罪の償いとして捧げられますけれども、イエズス様の御血は天に復讐を叫ぶのではなく、イエズス様の御血は私たちの為の、憐れみと、赦しと、恵みを叫んで、天に昇られました。

第2の例として、御血の前兆としてエジプトでの話があります。イスラエルの民はエジプトで奴隷状態でした。強制労働、ピラミッド等を造る為などに強制労働をさせられて、そして子供がたくさん生まれるので、その子供たちの産児制限を強制させられました。しかしヤーウェはこのイスラエルの民をエジプトから解放させ、脱出させようと思われました。そしてその時に遣わされたモーゼは、ヤーウェから命令を受けて、「一歳になる傷の無い子羊を選んで、それを屠れ」と、「そしてその子羊の血をドアの鴨居に塗れ。もしもこのドアに子羊の血が塗ってあるならば、破壊をする天使たちがこの過ぎ越しの夜にエジプト中を見て、もしもその血が塗ってあるのならば、その家は守られる。しかしその血が塗ってないのであれば、ファラオの王の子供であれ、奴隷の子供であれ、家畜であれ、最初の男の子は全て殺される、命を奪われる。」そしてそのようになりました。

この子羊の、“一歳の子羊”というのは、イエズス・キリストの、天主の子羊の前兆でした。「イエズス・キリストの御血が私たちに適用される時、私たちがその御血の功徳を受けているならば、すなわち洗礼を受けているのならば、その御血の力を受けて、私たちは地獄の力から守られる。永遠の破滅から守られる」という事の前兆でした。

今晩私が第3に挙げたいと思うのは、イザヤの預言のビジョンです。ある時、預言者イザヤは、ある人がブドウを踏んで、お酒を作る為にブドウ酒を作る為に踏んでいるのですけれども、その服が真っ赤であるのを見ました。そこで、「一体どうして、あなたの服はそんなに赤いのですか?」と聞くと、その男の人は答えて、「私は、たった一人でこの酒槽でブドウを踏まなければならなかった。そして他の人々に、私と一緒に、助けて私と一緒にやってくれるように頼んだけれども、誰も助けに来てくれる人はいなかった。私はたった一人だ」と答えたビジョンがあります。これも、たった一人で、私たちの為に御血を流されて、ブドウが踏み砕かられるように、私たちの罪の重みによって踏み砕かれて、御血を流し尽くされたイエズス・キリスト様、来たるべき御受難の前兆でした、ビジョンでした。

⑵ 実際イエズス様は、歴史上どのように粉々に踏み砕かれて、御血を流し尽くしてしまったのでしょうか?第2のポイントは、実際にイエズス様がなさった事です。

お生まれになったその最初の瞬間から、イエズス様は御血を流されました。まだ赤ちゃんであった時、その時、天主の御摂理と御計画によって、割礼を受けました、8日目。“イエズス”とは“天主は救う”という意味で、その名前を付けられる時に御血を流されました。量はほんの少しだったかもしれません。しかし天主の流された御血であって、そして苦痛をイエズス様に与えた最初の贖いの天主の御血でした。

天主がイエズス様が流された御血は、むしろもしかしたら聖書に書かれていなくてもあったかもしれませんが、私たちの知っている限り、最初に流されたのはゲッセマニの園です。ゲッセマニの園では、罪の恐ろしさのあまり、私たちが犯した全ての罪を、世の初めから終わりまでの全ての罪を、イエズス様はビジョンで御覧になりました。天主のみがその罪の醜さ、その汚らわしさ、その邪悪さを理解する事ができます。なぜかというと、天主こそ聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、三重にして聖なる御方であって、天主こそが、その光り輝く天主こそが、その闇の暗さをよく理解する事ができるからです。

イエズス様は天主としてこの罪を、たった1つの罪であったとしても、粉々に打ち砕かされてしまうほどのその恐ろしさ、この醜さ、そのおどろおどろしさがあったにもかかわらず、この全てのその罪は、イエズス様の身にかかりました。その罪の醜さのあまり、イエズス様は血の汗を流して祈りました。血の汗。私たちも恐ろしい時の冷や汗を流したり、苦しさのあまりに髪の毛が抜ける、真っ白になってしまう、一晩でやつれてしまう、という時があるかもしれません。しかし更に苦悩が募ると、血管からもはや血が流れ出てしまって、皮膚を通り越して、血の汗を出す、と医者は言います。イエズス様はその苦悩の極度で、血の汗をダラダラとゲッセマニの園で流されました。

その次に、ユダは接吻でイエズス様を売り渡します。あれほど愛された、御恵みを受けた使徒であるユダは、お金の為にイエズス様を売り飛ばしました。後にユダは言います、「私は罪の無い人の血を裏切ってしまった、売り飛ばした。」そう言いながら、絶望のあまり、その銀30シェケルを神殿に投げつけます。罪の無い人、天主の御血を裏切ってしまったユダ。

イエズス様は連行されて、どれほどの虐待を受けた事でしょうか。殴り付けられたり、蹴飛ばされたり。その御体からはきっと、傷付けられた体から血が流れ出ていたに違いありません。鎖で縛り付けられた、あるいは叩かれたかもしれません。大司祭は、「お前はどんな事をするのか」と言うと、暴力を受けました。するとイエズス様は言います、「私が一体何か悪い事を言ったのか。もしもそうなら言ってみろ」と。しかし問答無用、残酷な取扱いを受けました。

その後には、食べ物も与えられず、水も与えられず、寝る所も与えられず、捨てられて、その翌日、ポンシオ・ピラトの前に引き渡されます。ポンシオ・ピラトはイエズス様に罪を見出しませんでした。しかし「懲らしめて解放しよう」という破綻した論理によって、「罪が無いけれども懲らしめる」と言われ、鞭打ちの刑を受けました。

イエズス様の敏感なきれいな御体から、鞭を受けた傷から、大量の御血が流されます。特に私たちの肉で犯す罪の為に、償いの為に、尊き御血が流されました。体全身傷だらけになりました。傷の無い所は1つもありませんでした。

イエズス様の受けた御傷の1つを見ても、流された御血の1滴を見ても、私たちに叫んでいます、「これはこの血は、お前を愛する為に流された。私はお前の事をこれほど愛している。私の聖心はこれほど愛している。」このたった1つの御傷が、それほど私たちに叫びかけているとしたら、イエズス様の受けた全身の傷だらけの御体は、私たちにその何十倍何百倍の、何万倍の声で、私たちの事を「愛している」と叫んでいます。

これでも飽き足らなかったローマの兵士たちは、これでも十分だと思わなかったイエズス様は、ローマの兵士たちに考えを息吹かせたのでしょう、茨の冠を被せるように。非常に敏感な御頭に、茨の、大きな茨が突き刺さりました。どれほど痛かった事でしょうか。

イエズス様の流された御血は、体に傷の無い所を残しませんでした。頭の先から足の下まで、全て傷だらけでした。そしてポンシオ・ピラトは、この傷だらけのイエズス様を私たちの前に見せつけます、「この人を見よ!」

「人類をこれほど愛した、この救い主イエズス・キリストを見よ!これほどお前たちを愛した天主はいるだろうか。これほどの愛の証明を私たちに見せつけるものが他にあるだろうか。この人を見よ!」とポンシオ・ピラトは私たちに言っているかのようです。

イエズス様はこの傷だらけの体で、茨の冠を付けたまま、私たちの為に十字架を担います。「私のくびきを取って、私の心に倣え。私は柔和、心の謙遜な者である。私はお前たちを休ませよう。」

イエズス様は私たちの代わりに重い十字架を取って担って、そして私たちにはほんの軽いくびきだけを与えてくれます。イエズス様の担ぐ十字架の後を私たちに歩くように、と御血は招いています。どうやって歩いたら良いかは、その御血でいっぱいになって跡が付いている道を歩けば良いのだ、と教えているかのようです。カルワリオの道は、イエズス様の御血の跡が付いています。

ゴルゴダの上で、イエズス様は十字架に付けられます。手に足に釘を付けられます。イエズス様は全身傷だらけで、手も足も動く事ができませんでした。しかし「傷の無い所は無い、全て傷だらけだ。心臓さえも傷を付けられている」という事を示す為に、あたかもイエズス様が死の眠りについた時に、ローマの兵士が槍で、無傷であった心臓を貫きます。その時に、残っていた御血と、体液である水が流れ出されました。「これで、もうこれ以上流すものは無い。もうブドウのカスも絞り尽くされた」とでも言うかのようです。

第2のアベルの血は、聖父に、憐れみと、赦しと、御恵みを乞い求めて、天に叫んでいます。私たちの為に愛を叫んでいます。
「この御血を受けるならば、私たちは決して滅ぼされる事がない、どのような悪からも守られる」と、「さぁ、この聖心の傷から我が胸の中に入れ」と招いているかのようです。

⑶ では第3の点に、私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?

私たちもイエズス様の流された御血、そして十字架のこの御受難の再現であるミサ聖祭に、ぜひ心して与るように致しましょう。私たちがミサに与れば与るほど、御血の功徳をますます受けます。そして私たちを通して、私たちのみならず、私たちの周囲にいる人全てが、御血の御恵みを受けます。どうぞこのミサに与って下さい。このイエズス様の聖心に湛えられた御血を全て受けるように、その意向で与って下さい。

御聖体拝領を受けて下さい。御聖体はその中に、御体と御血、そして御人性、御神性が全て入っています。ファチマの天使も言います、「人類によってかくも恐ろしく冒瀆されたイエズス・キリストを慰める為に、聖体拝領をせよ。」

今日ミサの時に御聖体拝領誦の時に、このように聖歌隊は歌います、「兵士の槍が聖心を貫くと、すぐに御血と水が出た。」

あたかも、御聖体拝領するとその聖心から、開かれた聖心からすぐに、御血とイエズス様の浄めの水の御恵みが私たちの所に注がれるかのようです。
「聖体拝領の御恵みの効果が、今こうなっている」という事を歌っているかのようです。

最後に、マリア様の汚れなき御心に、私たちがその御血の功徳と聖心の愛の中に深く入る事ができるように、お祈り致しましょう。マリア様はいつも十字架の下に留まっておられました。マリア様は仰います、「私の御心はあなたたちの避難所である。そして天主に至るイエズスの聖心に至る道である」と。私たちがイエズス様の聖心にますます近くに行く事ができるように、マリア様に御取次ぎを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年8月聖ピオ十世会総長第一補佐デ・ガラレタ司教様の初来日、聖伝のミサ(ラテン語ミサ、トリエント・ミサ)と聖伝の堅振式の報告

2018年08月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

8月11日から15日までイエズスの聖心の小黙想会を行いました。
一日をおいて8月17日、18日とデ・ガラレタ司教様は大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。
18日は2名の方々が聖伝の儀式による堅振の秘跡を受けることができました。堅振を受けられた方々、おめでとうございます。ミサの後は簡単な歓迎会を開きました。
司教様の講話会を予定していたのですが、司教様のご希望で質疑応答の形だけでのお話になりました。そこで「司教様の紋章の意味は?」「総長第一補佐としてのやりたいことは?」「聖母のお導きを一番強く感じたときは?」「教皇さまが教会の伝統的な教えを変更しているが、どう考えたらよいのか?」などなど、いろいろな質問にお答えくださいました。
19日(主日)には東京で堅振式と聖伝のミサがありました。4名の方々に聖霊と祝福が与えられ素晴らしい堅振式でした。おめでとうございます!この日も多くの方々がミサに与りました。とても多いため祭壇から遠いところでミサに与った方々もおられます。ミサの後は司教様を囲んで記念撮影を撮りました。会場はとても盛り上がって、司教様はせっかく皆さんが平和に楽しくお話しておられるので、それを妨害したくないというお気持ちでしたが、お話をお願いいたしました。東京でも、霊的講話の代わりに質疑応答という形だけでお話をしてくださいました。
最後には主日の晩課を歌って一日のプログラムを終了しました。
20日(月)には、ミサが二回捧げられ、私を含めて22名の方々がデ・ガラレタ司教様のミサに与りました。
22日(水)の聖母の汚れなき御心の祝日には、総長第一補佐は大阪の汚れなき御心聖堂で歌ミサを捧げてくださいました。ミサの直後には聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に対する奉献を更新し、終課を歌って一日を終えました。お恵みに満ちた毎日でした。
デ・ガラレタ司教様との会話や、お話を通して思ったことはいろいろありますが、それについてはまた別の機会に書きたいと思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサ/パーティー/晩課の参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 30人(内、子供5人)
女: 35人(内、子供4人)
計: 65人(内、子供9人)

堅振式後のパーティー兼デ・ガラレタ司教へのQ&A
50人

晩課
19人

【報告】
十AVE MARIA‼
こんばんは。8月19日の日曜日の今日という日に私が聖ピオ十世会のミサ聖祭に与ることができた恵みを私たちの主に感謝します。
また今日は来日されているデ・ガラレタ司教様による司式という特別な日でもあり、とても多くの喜びと恵みを感じる1日になりました。
司教様のお話し、質疑応答の中で司教様が、お答えになられた言葉が、私にとっては心が揺さぶられる感動的な言葉で聞いていて涙が溢れました。

“教会の信仰は危機に晒されている。教会が健全な信仰に立ち帰る為には、私たち自身の信仰の在り方が健全であることが求められる。”

“私たちひとりひとりが教会と教皇のために祈り、ミサ聖祭に与り、自らの現実の生活の中で関わる出来事、人々の中で福音を証しし宣べ伝える生き方が大切である。”

“神の国と義を求めなさい。
そうすれば、必要なものは加えて与えられる。”
(聖マタイ6:33)

“私たちに必要なことは、祈り、ミサ聖祭に与り、私たち自身の現実の生活の中で神の国と義を求めること。”

司教様のお話しの中で私の心に改めて深く刻まれた言葉です。
今日は本当にありがとうございます。

【報告】
Ave Maria Immaculata!

堅振式と聖霊降臨第13主日の御ミサの報告をさせていただきます。
デ・ガラレダ司教様は、主イエズス様のように威厳が備わっていて温かな優しくとてもご謙遜な司教様で、すっかり魅了されてしまいました。
堅振式では、司教杖とミトラを使われて、厳かな佇まいから光が放たれているように感じられました。

司教さまは一回一回の御ミサに主イエズス・キリストの十字架のもとにおられました。思い出すだけで胸がいっぱいです。

司教さまは、カトリック信徒として現代のカトリック教会でどのように信仰生活をおくっていったらよいか、お話してくださいました。日本で本当に信仰を守り続けていくことはとても大変な事だと思っているなかで、信仰の最も基本的な大切なことに目を向けさせてくださいました。それは、洗礼によって私たちの身体が聖霊の神殿となったこと、そして堅振により私たちは証人・兵士・使徒となったとわきまえることだと思いました。キリストの教会を形作るための生ける石となるとはどういうことか、考えていかなければならないと思いました。
証人として、本当の礼拝を捧げることの出来るようにしなければならないし、兵士として主イエズスと違った教えをいうものと戦わなければならないし、使徒として、聖なる生き方を心掛けて本当の信仰を求めて来る方々へイエズスの教えを伝え広めていかなければならない、と思いました。

この最も基本的なことをするのが、なぜ困難なのでしょうか?、あたりまえのことを・・・。

それは、午後の質疑応答の時間に司教様が、信徒からの質問に答える形で、少しお話してくださったように思います。
世界ではそしてローマでは、いったいカトリック教会はどのようになっているか、限られた時間の中で話してくださいました。

現在の教皇さまが、どのような方でいらっしゃるか、特に聖ピオ十世会との関係がどのようであるか、そして全体としても、あまりに現代化リベラル化された教会の行き過ぎた改革を危惧し心配しはじめた一部の枢機卿などが聖ピオ十世会に対して協力をもとめてるようになってきたこと、そして物事を判断するうえで大切な、異端とか罪とかについて、それはどのようなものであるかを考える糸口を説明してくださったこと、いろいろお話をしてくださいました。

今の教会の問題が何であるかをとてもよく熟知されてそのために長年働かれてこられた司教様なので、私たちへのお話も分かりやすくお話くださいました。まるで簡単なことを話すかのように話されていたのですが、実際はとても深遠な内容であったことをかみしめております、私たち日本に住む信徒への愛情を感じられました、心から嬉しく思い、感謝いたしています。

そして そういったお話の中で一番感動したお話は、デ・ガラレダ司教様がこの30年間で最も悲しく辛いと思ったことは何ですかという質問への答えでした。

(小野田神父様から、デ・ガラレダ司教様はローマと聖伝の信仰における教義の対話の責任者として任命されていたということを紹介していただき)、
「過去の教導権・教皇様・教父たち・公会議の教えを引用して、カトリックの教会の信仰の真理はこうだ、こう教えられている、と見せているのですが、そのことを信仰について責任のある教会の担当する当局の人が理解することができなかった、理解する能力がなかったのか、理解したくなかったのか、過去の教導権のこういう教えをうけいれなかった教会の危機の深さを目で見て指で触れる思いで、非常に苦しく辛く悲しい思いをしました。」

対話の相手が同じカトリック信仰を持つ者という前提であるのに、信仰の教義上の問題点がどこにあるか、理解されないことの深い悲しみ!
それは、日本で私たちが、どうして跪いて舌でご聖体を拝領してはいけないのかということを日本の司教団に尋ねても会話の要点が噛み合わなかったこと以上のことなのでしょう。カトリック教会の最高のトップで起きていることですから。

信仰を持ち続ける為に、何が重要であるかを理解することができない人と会話をしなければならないとは、なんという悲劇的な矛盾のある困難であることでしょうか。

相手に理解する能力がないときの悲しみといっても、同じカトリック信者であるのに?、どうしてそのようなことが?、けれど、これがいま現実に起こっていることだということは理解できることです。日本においても、それは現実に進行していることなので。

質疑応答を聴くことで、この信仰の問題というのは、教導職にある方々でさえいま信仰を脅かされている状態にありそのことに本人自身が全く気付いていないことに端を発しているのだと、いうことがはっきりわかりました。

わたし自身、以前、友人への手紙やメールに「あの神父様は信仰のある神父様です・・」という表現をして書き送ることがありました。わたしは、はっきりと即座に、なにかの時には「あの神父様は信仰のある神父様のように感じられるから信頼出来る」というような表現の仕方をしていました。それは、自分の大切な信仰を守るために。自分の大切な信仰がダメになったら死と同じですから。心の深いところに燃える愛の火が消されそうなときは、とても警戒してしまいます。批判の意味があるわけでなく、ただ信仰を守りたい、それだけのためです。というのは最初の使徒から受け継がれてきた教義にたいして人間側の都合で変更するというようなことが許されないと、私は感じるからです。(このことを司教さまはしっかりと説明してくださいました。安心いたしました。)実際のところ、信仰のない神父が存在するなんてあり得ないはずなのに、そのことで悩まされる信徒がいるというのは、事実です。

第二バチカン公会議の後の改革により変更された神学校の内容により、この50年の間に信仰のない神父をつくりだすことに成功しようとしているのでしょうか?それはとても恐ろしいことではないでしょうか。怖ろしすぎてあまり深く考えたくなかったことですが、実際のところ司教様の深い悲しみとは何かという質問への答えを聞いて、(規模は比べようもないほどちっぽけなものであるにすぎなくとも似たようなことを経験しているゆえに)私はすぐに共感いたしました。その共感はわたしの心に深く刻まれました。言葉の壁があるために、直接司教さまにその感動をお伝えすることができませんでした。

ルフェーブル大司教さまは、第二バチカン公会議で行われたことがどのような結果を50年後にもたらすかを賢明にも即座に推察されて、司教を聖別されて神学校を建てて聖ピオ十世会の修道会を創立されたのですね。 そして、私たちは、希望を持つことができると思いました。

それから、司教さまはお話くださいました。
「聖ピオ十世会の教会法によって成立された修道院創立の目的は、司祭職の養成です。問題を解決する方法は、司祭職にかかわるすべての司祭・修道者・修道女・信徒が聖徳を高め内的な徳を高めることです。そうすればすべての問題を天主様が解決してくださる、天の国とその義を求めよその他のことは満ちるほど与えられるでしょう。」

そのような司教さまのお話を伺って私たちが受けた決意があります。それは「私たちが聖なるカトリック信者になれるように努める」ということです。後で話して友人たちも同じ感想でした。

最後にとてもうれしかったことです。司教さまは、もう既に日本に聖ピオ十世会の司祭を2~3名派遣してくださることが可能であるとお話くださいました。東京にも聖ピオ十世会の聖堂を与えてくださいと、天主さまにもっと真剣に祈ろうと思います。

この特別な機会、デ・ガラレダ司教様が、総会によって第一補佐という特別な地位に選出されたばかりというすばらしいタイミングで、初来日になったことはとても驚きで喜びでお恵みでした。司教叙階30周年という記念と、小野田神父様のデ・ガラレダ司教様による司祭叙階25周年という記念と、素晴らしい年でもあり、デ・ガラレダ司教様を日本に招聘してくださいまして、小野田神父様本当にありがとうございました。マリア様、ありがとうございます!

聖マリアの汚れなき御心のうちに


【報告】
デ・ガラレダ司教さまはたくさんの質問に誠実にお話くださいまして、一つ一つがすばらしい講話のようでした。
たとえば、破門というのはどういうことか、罪を犯すというのは、どういうことか、罪とは本人が自覚していることが必要だということ、知らずに罪を犯している時はあわれみがある・・・など、罪とは何かということを考えるときに必要な、大切なことを話していただいたように思います。人の心の中を誰もうかがい知ることができない、ということを、あらためて記憶にしっかり留めました。
「教会法では教皇様は裁かれることはない、判断されることはできない、教会法によって想定されていない」・・・これを伺っていて、教皇様のためにいつも祈っている意味がよくわかったように思います。
司教さまは聡明・明晰で美しい心の方のように思われます。聖ピオ十世会は同じ信仰を持つ家族のように感じました。

ほとんど新しい顔ぶれの若い男性が幾人もいらっしゃいました。
皆様熱心に司教さまの質疑応答のお話を聞いておられて、晩課まで残られた方もいてうれしく思いました。

私は司教様のごミサに与ることができてうれしく思いました。聖なる永遠のミサでした。
何度か頭をよぎったのは、もうこの司教さまと二度と会うことがないのだろうか、という問いでした。
でも、そのたびに、なんだか最初で最後というのではないような気がするという気持ちになりました。
また是非お会いしたいです。

東京にも聖堂をくださいますようにと、天主さまにお祈り致します。

お昼はお寿司やお赤飯、ピザ・サンドイッチ、唐揚げそしてチキンのサラダなど、いろいろの手料理も運ばれて楽しくいただくことができました。
司教様の30周年と堅振のお祝いに手作りのケーキを焼いてきてくださった方がいて感激しました。
生クリームにメロンやマスカットやその他フルーツもたっぷりで、ちょっぴりいただくことができましたが、とても美味しかったです。
飲み物もワインやお茶・ジュース・コーヒーなどたくさんでした。
皆様遠くから朝早く来ていますので、どんなに準備が大変だったことでしょう、本当にありがとうございます。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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