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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

8月15日、聖母の被昇天の大祝日おめでとうございます!大阪では小黙想会が行わました。

2018年08月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月15日、聖母の被昇天の大祝日おめでとうございます!
 今日は、大阪では28名の方々が聖伝のミサにあずかり、その後、聖母行列を行いました。とても幸福な一日でした!

 大阪では天主のお恵みによって、8月11日(山の日)から私たちは大阪で黙想の「山」に登って今日の15日まで小黙想会(静修)を行いました。
 午前9時45分ごろからロザリオ、10時半から聖伝のミサ、12時頃から昼食、午後2時と3時から2回の霊的講話、4時から5時まで顕示された御聖体の前での聖時間を過ごしました。毎日、10~15名の方々が参加されました。

 小黙想会の最中ではありましたが、8月12日には、大阪でのミサの直後に聖時間を行い、私は東京に向かって午後5時から告解、6時から聖伝のミサを捧げました。最初は黙想会のために難しいと思っていたのですが、多くの方々のご理解と励ましと協力とでそれが実現できました!お知らせが遅れてしまったにも関わらず多くの方々が参加されました。カトリック信仰に関心を深いお持ちで勉強をしたいという方々も、また初めての方もおられました。天主に感謝いたします!

 東京の聖伝のミサのご報告をいただきましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

Dear Fr Onoda:

8月12日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供4人)
女: 16人(内、子供2人)
計: 35人(内、子供6人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

本当に12日は東京でも主日の御ミサをお捧げ下さいましてありがとうございました。
昨日は夕立とか雷雨の予報があり心配でしたが、護られてよかったです。
神父様はお疲れと思いますのに、ぎりぎりまで信者さんたちとお話され最終(?)の新幹線に間に合われるか心配でした。

この日のお説教を聴くことを特に楽しみにしておりました。善きサマリア人の話だったからです。
私も自分なりに解釈して、確かにこのサマリア人はイエズス様でこの宿屋はカトリック教会に違いないと思っていました。
でもお説教を伺ってもっといろいろなことがわかってうれしく思いました。
私たちは多かれ少なかれ世間と悪魔と肉欲という強盗に襲われて半死半生になっているもののようだという言葉に思わずうなずいていました。
私を愛してくださっている御父が、私をカトリック教会に連れてきてくださり、正しく相応しく御父をお愛し申し上げることができますためこのごミサにあずからせてくださいましたことを、もっと感謝しなければならないと思いました。

特に昨日は私には、神父様の"葡萄酒を傷口に注ぎ傷をキレイにしてくださる"というお話が刻まれました。
その葡萄酒はイエズス様の御血、十字架に架けられて流し尽された御血ですという言葉と共に。

お説教の後、カノンに入ってから、私は主イエズスの流された御血という葡萄酒に傷口を洗われているのだという感覚に落ちているようで、聖なる奥義が内的な深いところで行われていることを垣間見させていただいているのかもしれないと、ふっと感じられました。

言葉で言うのは難しいのですが。

「贖われるということを口にするが、誰かの何かの犠牲によって良しとされるのであれば、その者以外の苦痛による恩恵を受けるのであるから、もう苦しみ傷んでいる当事者はそれ以上何もできないからその者以外が支払う代価をいただくことになる。それは霊魂のなかでおこなわれることで、目に見えず、音もしない。でも確かに霊的なところで何かが執り行われている。」

そんなことを感じる主日のミサでした。強まりゆく朝の光と違い、外の光が弱まっていくなか、霊的な光線はかわらず射し込まれておりました。

帰りに電車で友人と話していたことは、修道女の渡辺和子さんがそれでも決して許せないという人がいたとかいなかったとかと言う話でした。渡辺和子さんは、まだ9歳だったころ居間に父親といると、二・二六事件で陸軍大将の父親が青年将校に襲撃されて自分の目の前で父親が銃殺されるのを見ている方です。18歳の時にカトリックの洗礼を受けて、29歳で修道女になりました。

自分に苦痛を与えた人の救いのために祈るということについて、このところ考えるともなく考えていました。そんななか、「神はある人をだんだん沈んでいく泥沼から救いだすために自分の嫌悪、自分の反感、自分の憤慨に打ち勝つ他の人の犠牲を待っておられる」という文章を読みました。

普通なら無理なことであっても、天主の聖寵が与えられ、できるようになるかもしれません。イエズス様こそはそういった普通の人間が越えがたいことをされたのでしょうが、わたし自身はまだそのことをハッキリと理解するまで至っていません。、

身体や心だけでなく、霊のうちにも、苦しみ・傷みがあります。

ミサから流れでる聖寵は、それを受け取ることもできるし拒否して受け取らないこともできるのだと思います。自由な撰のなかに霊的な命はあるのだと思います。表面的な物事の進行の影には霊的な命の流れがあって、それは目に見えず聴くこともできずしかと感じることもできなかもしれない。でも、確かにあるもの。それがカトリックで2000年来守られてきたミサであり、その霊的な命の流れをとどめ置くことができないまでに変質されたものからは受けられないような恵み(聖寵)なのかなと思いました。

ミサのなか、霊的に葡萄酒が注がれて傷口を洗い清めてくださるということを黙想させていただきまして、ありがとうございます。

もう一つ思い出されることは、石の石板に刻まれた旧約の律法と違って、新約の律法は肉の心に刻まれているというお説教でした。肉の心は、痛みや苦しみに敏感です。天主として無限の深さの鋭敏さを持つ心が傷つけられるときその痛みはどれほどでしょうか。その代償の価値は計り知れないことでしょうと思いました。

いつもは何も感じることなく知らぬ間に受けているかもしれませんが、なんだか昨日はこのようなことがあれこれ浮かび、神父様に少しお伝えしたく思いました。

また、油を塗るということは、堅振の秘蹟のこととつながると話してくださいましたことについてです。先週の公教要理では、堅振によって聖霊の七つの賜物がいただけることの深い意味を、至福八端との関係を使って、よくわかるように例を挙げてお話しくださいました。とてもよいお話をありがとうございました。

私は長いあいだ、"聖霊"さまとは、どういう御方かをよくわかっておりませんでした。そもそも初めの地点で、聖霊の恵みを受けるということは、聖霊刷新運動のなかでおこなわれているセミナーを受けてから聖霊の満たしを受けることを意味しているように、周囲から誘われ続けていました。私が洗礼を受けた時は、ちょうど日本で聖霊刷新運動が始まりだした時だったのです。私の意志と関係なくその聖霊刷新カリスマ運動は、カトリックの信仰を受けたいと望む私の周囲にあり続けました。聖霊の満たしを受けると、その人の信仰は深くなり祈りも深まりますと誘われたものでした。異言や預言や奇跡をする力や種々の特別のカリスマをいただく人もいますよと。

どうして聖霊は三位一体の御方なのに、教会の秘蹟とは別なルートでしか信者に恵みを与えないというのか不思議でした。私の場合、堅振は洗礼と同時に司教でない神父様が与えてくださっていたので、堅振の秘蹟により聖霊の七つの賜物を与えられるのですという話を聞いたことがなかったのです。その状況のなかで、まるで聖霊の満たしを受けないと聖霊の恵みが与えられないとでもいうかのように聞こえて、不安に感じることもありました。でも、私はなんだか嫌でした。

ところが、先週の堅振のことの公教要理の講話を受けた後、私は最初から続くこの堅振式のやり方でカトリックの秘蹟をそのまま行い続けていたなら、カトリック信者は聖霊刷新カリスマ運動に惑わされることがなかったのでは? と気づきました。カトリック教会は、最初から、完全な信者となるために、聖霊とその賜物を豊かに受ける秘蹟をしっかりと保持しているのだと教えられましたから。ただそれが、通常通りおこなわれなくなってしまっていたのです。そう思ったら、びっくりしました。 プロテスタント化されてしまったミサから受ける恵みが希薄になってしまっているところを、悪い霊に付けこまれたのかもしれません。

伝統的な堅振式が行われるような教会で歌われるのはグレゴリオ聖歌ですが、カリスマ運動ではグレゴリオ聖歌が歌われることはないでしょう。もしかしたら歌はとっても重要なファクターでしょうか。

そうことに気づいたら、ようやく長いあいだ悩まされ続けていたことを、ちゃんと整理できたように思います。でも何か間違っていたらどうか教えて下さい。聖霊の満たしを受けず、昔からのやり方の堅振式で堅振をうけるように小野田神父様のもとに導かれて、本当に良かったと思います。

今度の19日のデ・ガラレダ司教様の堅振式で、堅振を受ける方たちのためにお祈りをしています。またわたし自身のためにも、いただいた堅振の効力が保たれますように、常に新たに効力が増しゆきますようにと願いたいと思います。周りの人をも、カトリック教会というホテルに連れて来れますように働くことができればと思います。いつも小野田神父様がお勧めくださいますようにマリア様にお取り次ぎをお願い致します。

ファチマの聖母我らのために祈り給え
秋田の聖母我らのために祈り給え


聖母被昇天の大祝日の聖伝のミサと聖母行列の報告【聖ピオ十世会大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、 今日は、聖母の被昇天の大祝日でしたね。おめでとうございます。 大阪の聖ピオ十世会、聖母の汚れなき御心聖堂では、8......


2018年6月16日(土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ 「マリア様はイエズス様と同じ事を愛して、同じ事を望まれている。一体それは何なのですか?」

2018年08月15日 | お説教・霊的講話
2018年6月16日(土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教



聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月16日、聖母の土曜日で、マリア様の汚れなき御心の随意ミサを捧げています。

今日のこの御ミサの後では、短い聖体降福式があります。どうぞ与って下さい。

その後で、信徒会長様と、あと有志の皆さんで、私の司祭叙階25周年をお祝いして下さるという、特別の催しを計画して下さいました。

式次第を私も見せて頂いたが、とても良い内容が準備されていて、本当に深く感謝しています。どうぞもしも時間がおありでしたら、一緒に時を過ごさせて下されば嬉しく思います。皆さんへのびっくりプレゼントも待っています。1つどころではなくて、たくさんあります。期待していて下さい。

それからもう1つ、この皆さんにまた別の感謝の言葉があります。前田枢機卿様の任命をお祝いするという事で、皆さんから霊的花束を捧げようという事を提案しましたら、皆さんの方からこの大阪と東京合わせて、実は大部分が大阪を占めるのですけれども、1000環のロザリオが集りました。ちょうど1000環で、前田大司教様にその旨、霊的花束を捧げするという事でお手紙を書きました。そのお手紙で私の俳句、に一つ足りないのでイマイチ足りないので、俳八を3つ付けて送りました。

どうぞ皆さんからの1000環にはびっくりして喜ばれたと思いますけれども、私の俳句についてはちょっと笑われたかもしれません。寛大なお祈りを感謝致します。



“Exsultabit cor meum in salutari tuo, cantabo Domino qui bona tribuit mihi.”
「私に善を下さった天主に、私の心は喜び踊る。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の汚れなき御心の随意ミサを捧げています。理由はこの御聖堂がマリア様の御心に捧げられてあるという事と、また6月13日にはマリア様が101年前に、初めてご自分の御心をこの世に啓示して下さった、ファチマで掲示して下さったからです。そこで今日このマリア様の御心の神秘の中に、より良く入る事に致しましょう。

ところで6月13日に見せて下さったマリア様の御心は、皆さんもよくご存知の通り、普通私たちが想像していたような、花で囲まれた、綺麗な花で囲まれて槍で貫かされた御心ではなくて、イエズス様の茨の冠に被せられた、愛の火で燃える、轟々と燃える、イエズス様の聖心と全く同じ御心でした。

私たちは聖クリゾストモの言い方に従って、「パウロの心はキリストの心」“Cor Pauli, Cor Christi”と言いますが、このマリア様のファチマでの啓示を見ると、「マリア様の心はイエズス様の聖心だ」と言う事ができます。イエズス様がお愛しになっているものをマリア様も愛されている。イエズス様が願っている事もマリア様は願っている。

では一体、マリア様は何を愛されているか、何を望んでおられるか、という事は、イエズス様の聖心をよく見る事によって分かります。なぜならば、イエズス様の聖心とマリア様の御心は2つで1つ、分かち難く結ばれているからです。

そこで今日は6月のイエズス様の聖心の月でもあるので、マリア様の御心の中にイエズス様の聖心の助けを使って深く入って行く事に致しましょう。

「一体マリア様、マリア様はイエズス様と同じ事を愛して、同じ事を望んでいるのですけれども、一体それは何だったのですか?」
「ああ、我が子よ、我が娘よ、私はイエズスと同じものを愛し、同じものを望んでいるのですよ。」
「ではイエズス様、イエズス様は一体何を愛して、何を望んでおられるのですか?」

永遠の御言葉、天主よりの天主、光よりの光、創られずして生まれ、愛によって浸透されている、愛自身である天主イエズス・キリストは、永遠の昔から愛していました。永遠の昔から聖父を愛し、そして聖霊を愛し、聖父と聖霊から愛され、そして無から天使と人間を創って、この愛の団居(まどい)の中に招こう、私たちを人間を無から創って、その人間に天主の永遠の喜びを、無限の喜びを与えようと思われました。

イエズス様の聖心は天主ですから、天主の聖心ですから、天主のこの愛に浸透されています、充ち満ちています。そして天主のこの愛によって燃え立っています。イエズス様の聖心は、この天主の熱烈な情熱的な狂わんばかりの愛を以て愛しておられます。

イエズス様の愛は限りなく、その広さは果てしなく、全てのものに渡っています。

その長さは、その愛は無限の、永遠の昔から永遠の未来まで終わりなく愛し続けています。

その高さは、無限の高さの、三位一体の高みまで私たちを連れて行く、その愛の高みを持っています。

その深さは、底の知れない深い基礎を持っています。この世の悪もこの世の邪悪も決して揺るがす事ができないほどの、深い深い深い深淵の深海の深みよりも更に深い、愛の基礎を持っています。

永遠の昔から私たちを愛する天主が、人類を愛するその愛には始まりがありませんでした。終わりもありません。しかしイエズス様が天主の聖子が、御言葉が人となって、御託身をされて、そして人間として心臓の聖心の鼓動を打ち始めたのは、始まりがあります。ですから聖心として、イエズス様の至聖なる聖心が人間の心として、天主の本性に充ち満ちて愛し始めたのには、始まりがあります。マリア様の御胎内に宿られたその瞬間からでした。

では一体その瞬間から、聖心の鼓動が愛によってドキドキと打ち始めた時に、一体何を愛されているのでしょうか?

それは天主の栄光でした。天主の、傷付けられた天主の栄光を贖う、贖ってそれを償おうする、天主聖父に対する熱烈な愛でした。

もう1つ、人類に対する、人類を贖おうと、人類に代わって人類の代表として、この世の罪を贖おうと、そして罪と死と地獄と打ち勝つという、私たちに対する熱烈な愛の鼓動が始まりました。イエズス様のこの愛の鼓動は、まずマリア様に向けられていました。汚れのない御母、終生童貞なるマリア様の為に鼓動を始めました。それと同時に、罪人である私たち人類を愛する、愛の鼓動を開始しました。

イエズス様の聖心の愛を黙想すると、天主聖父と私たち人類への愛に充ち満ちているという事が分かります。

しかしイエズス様の御生活を御胎内から、また永遠に渡ってのその御行動を福音に従って見ると、研究してみると、「イエズス様には特別に愛する人々がいる」という事が分かります。天主と人類を愛する為に、天主により良い栄光を与えて、より良く人類を救う為に選ばれた人がいます。まず最高に選ばれた方が、「マリア様」でした。マリア様に似せるかのような、また別の選ばれた人たちがいるという事が、イエズス様が特別に愛した人々がいるという事が分かります。それが「カトリックの司祭」です。

イエズス様はこの御自分の司祭たちに、特別の愛情を注いでおられます。イエズス様が御胎内にまだおられた時から、マリア様によって運ばれて最初の霊的な奇跡を行なったのは、司祭の家系に属するザカリアの子供、洗者聖ヨハネでした。

イエズス様の3年間の公生活を見ると、特別に愛された使徒たちがいます。12人の使徒たちを特別に選んで、彼らの養成と、教えと、それの聖化の為に、特別の神経と愛情を注ぎます。御自分の使徒を、イエズス様がまず祈って選びました。そして直接に御自分の御口から彼らを、「私の後について来い」と召命を招きます、召し出します。

イエズス様は、この彼らがどれほどの事ができるか、という事を知っていましたけれども、どれほど弱いか、みすぼらしいか、惨めであるかという事も、弱点もよく知っていました。それにもかかわらず、その弱点にもかかわらず、その哀れさにもかかわらず、御自分の選んだこの男たちを、御自分の高みまで引き上げたのです。

そしてそればかりでなく、御自分の聖心の愛の天の宝を彼らに与えて、彼らに、他の人たちが天使たちも受ける事ができなかったような、特別の特権や力を以て飾るのです。

そればかりではありません。使徒たちには特別の愛情と優しさを以て、他の人たちには知られていない天主の神秘を与えます。他の人たちには例えで話しましたが、もしも使徒たちがイエズス様に、「主よ、一体これはどういう意味ですか?」と聞くと、「あぁ、天の御国の神秘は、あなたたちには知る事が与えられている」と特別の説明をして下さいます。

公生活の時だけではありません、3年間だけではありません。その最後の最後には、今まで何度も何度も弟子たちと過ぎ越しを過ごした事がありましたが、イエズス様は特にこの最後の過ぎ越しの時に、「私は、特別の燃える願いを持って、お前たちとこの過ぎ越しを食べる事を望んでいる」と言いました。そして御自分が更に、この弟子たちを愛している、という事をもっと明らかに仰るのです。そしてイエズス様が持っていた永遠の司祭職をこの特別の弟子たちに与えようと思われました。そして決して消えいる事ができない、肉体が滅んでも決して消える事ができない天主の刻印を、霊的な刻印を、この霊魂たちに、イエズス・キリストの司祭として刻み込もうと思われました。

「私が受難を受ける前に、この過ぎ越しをお前たちと食べる事を、私は望みに望んだ。」

この惨めな、ほとんどが漁夫であった、あるいはその他惨めな人間この男たちを、イエズス様は天使たちの9つの階級よりもはるかに上に上げられたのです。

まずイエズス様はこの何をなさるかというと、私たち人類を愛するがあまりに、この狂気の沙汰、「愛は盲目」と申しますが、人類を私たちを愛して狂ってしまったかのように、御自分を与え尽くそうと思いました。その為に、私たちと1つの心となる為に、私たちと共に留まる為に、御自分は天主は、私たちに食されるパンとなる事を考え付きました。イエズス様の愛はどれほど強烈だった事でしょうか。あたかも自分が何であるかを忘れてしまったかのようです。天主がパンとなって、私たちの為に与えられる。

しかし天主様の私たちにする愛は、そして永遠の知恵と無限の全能の力は、天主の全能は、これが1回だけではなく、世の終わりまで続くように、更なる愛の奇跡を起こしたのです、愛の発明をしました。天主のみがする事ができる、「全実体変化」という大奇跡を、イエズス・キリストの行う事ができる奇跡を、単なる人間にも行う事ができる、という特別の司祭職を制定しました。「パンを、イエズス・キリストの天主の体に聖変化させる」という、とてつもない特権を与えました。

これは「カトリックの司祭職」という天主の愛の傑作です。私たちが世の終わりまで御聖体を受ける事ができるように、イエズス様が私たちと共に、世の終わりまで共におられ、私たちの内にいる事ができるように、イエズス様の無限の知恵は司祭職を創り出しました。新約の司祭職です。

この特別の司祭職の恵みを受けた惨めな人間たちは、イエズス様のこの偉大な奇跡を、毎日執行する事ができるようになります。その為に、この瞬間使徒たちは、決して消える事ができない「永遠の司祭」と、イエズス・キリストによって直接叙階を受けました。「これを我が記念として行え。」天主の栄光の為に、この世の人々の救いの為に。

マリア様は、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と言って、イエズス様を御胎内に宿されました。カトリックの司祭は自分で、イエズス・キリストの御言葉を、「これ、我が体なり」という聖変化の言葉を以て、イエズス様をこの祭壇の上に、天から呼び戻します。

イエズス様は仰いました、特にこの司祭たちに仰いました、「私はお前たちを孤児としては残さない。私を愛する者は、私の聖父によって愛される。聖父が私を愛したように、私もお前たちを愛した。私の愛に留まれ。」

「聖父が私を愛したように、私もお前たちを愛した」と、イエズス様は最後の晩餐の時に、この新しい司祭たちに言います。「私の愛に留まれ。」

「お前たちは私の友だ。私はもはやお前たちをしもべとは呼ばない。私はお前たちを友と呼んだ。」

夫とか妻とか兄弟というのは、もちろん互いに愛し合う存在ですけれども、でも時々、その愛が全く凍りついてしまったような、冷めてしまったような関係もあります、残念ながら。しかし友というのは、もしも愛が凍りついてしまったら、もう友ではありません、敵になります。イエズス様はこの弟子たちを、「私はお前たちの事を友と呼ぶ。私はお前たちを、聖父が私を愛したように愛した」と言います。カトリックの司祭というのは、イエズス・キリストの聖心の特別の友である、という事が分かります。特別の愛を受けた者だ、という事が分かります。

イエズス様は更に言います、「私はこの世からお前たちを選んだ。聖父はお前たちを愛している。なぜならば、お前たちは私を愛したからだ。」

イエズス様からこれほどの愛を受け、特別の特権を受けたこの弟子たち、使徒たちは、残念ながら、イエズス様を裏切ったり、否んだり、売り飛ばしたりしました。ユダが来た時のイエズス様の言葉を見て下さい。もちろんイエズス様はユダが何をしているか知っていました。愛する司祭です、イエズス様は言います、「友よ、一体何の為に来たのか?」もちろん、冷たい言葉や、叱りの言葉を言う事ができたかもしれません。しかしあくまでも、愛を愛で以て返そうとします。「友よ、友。わが友よ。」

イエズス様はその愛する友が、聖ヨハネを残して、皆散り散りばらばら逃げてしまって、全く一人ぼっちになって、マリア様とヨハネ、その他マグダレナその他の弟子たちを残して、皆が去ってしまった時に、どれほどの悲しみを覚えた事でしょうか、これほどの愛を捧げたこの友たちが、司祭たちが去ってしまった時に。

しかしイエズス様は御復活なさった時に、このまず御出現なさったのは、その功徳のあった婦人たちでした。最後まで十字架のもとに留まった婦人たちでした。しかしその婦人たちには何と言ったかというと、婦人たちを慰めるというよりは、「行って、私の兄弟のもとに言いなさい」と言うのです。「私の兄弟のもとに」そしてイエズス様が復活なさって最初に祝福したのは、この使徒たちでした。恐れて隠れていた、震え上がっていた使徒たちのもとです。彼らに何を言ったかというと、「お前たちに平和あれ。聖霊を受けよ。」お叱りの言葉や、嫌味の言葉は全くありませんでした。「お前たちに平和あれ。」イエズス様は、自分の受けた悲しみや苦しみや、裏切りなどを全くケロリと忘れてしまったかのようです。どれほど私たちの事を、司祭たちの事を愛していたでしょうか。

40日間の御出現を見て下さい。特別に使徒たちの為にのみ現れて、使徒たちを教育する為に現れたかのようです。この裏切った使徒たちに、その司祭職を奪い取ろうなどとはしませんでした。憐れみと愛に満ちたイエズス様は、復活のその主日にその日に、更に天使たちでさえも羨むような、人類がどうやっても手を伸ばしても届かない、ものすごい特権をこの使徒たちに与えます、「聖霊を受けよ。お前たちが赦すものは天でも赦され、赦さないものは天でも赦されない。」『罪を赦す』という、天主のみがする特権を、この弟子たちに与えました、司祭に与えました。

この為に、この地上のどのような王であっても、皇帝であっても、司祭の前に膝をかがめます。
「我、司祭の祝福を乞い願う。全能の天主、終生童貞なる聖マリア、罪の赦しを乞い願い奉る。」
なぜならば司祭は、イエズス・キリストのみが持つ、罪を赦す権威を与えられたからです。

イエズス様がどれほどこの司祭たちを愛しているか、という事が分かります。復活された後に、自分を3回否んだ「この男を知らない」「関係ない」「分からない」と言った、このシモンに言います、「シモン、ヨナの子シモン、お前はこれらのものより私を愛しているか。」

イエズス様はこのシモン・ペトロに、お叱りの言葉や、「あの約束したけれども、その権威を取っちゃう」などと言う事もできたかもしれませんが、イエズス様はそのような事はひとつもありません。それよりも1つだけ、ペトロから要求した事があります、「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」

イエズス様はこれほど愛したので、その愛を愛で返すか、という事だけをお聞きになります。

「主よ、私は御身を愛しています。」
「私の子羊を牧せよ。」

するともう1回聞きます、「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」ペトロはもう一度言います、「主よ、私は御身を愛しています。」

2回聞けば十分だったかもしれません、もちろん十分でした。イエズス様はもう一度聞きます、「ヨナの子シモン、お前は私を愛しているか。」イエズス様が求めているのはたったこれだけです。ペトロの弱さ、惨めさ、能力、出身地、学歴、財産、知人縁人、縁故関係、コネクション、そのようなものは全く関係ありませんでした。「私を愛しているか。」

ペトロは非常に悲しんで、「主よ、御身は全てを御存知です。御身は私が愛している事を御存知です。愛しています。」これはシモン・ペトロの信仰告白でした。「イエズス様、御身は天主です。全知全能の天主です。御身は全てを御存知です。私の弱さも御存知です。しかし私の惨めさにもかかわらず、御身を愛している事を知っています。この拙い愛をお受け取り下さい。」

するとイエズス様は、今度は違った事を命令します、「我が子羊を牧せよ」ではなくて、「我が羊を牧せよ。」つまり、イエズス様の最も愛する司祭たちを、「お前のもとに委ねる」という事でした。

イエズス様は使徒たちに言います、「お前たちの言う事を聞く者は、私の言う事を聞く者だ。しかもお前たちを軽蔑する者は、私を軽蔑する者だ。」

イエズス様と使徒たちは全く1つである、イエズス様はこの使徒たちの中に、司祭の中に生きている、司祭との愛の一致を生きている。司祭がする事はイエズス様のする事だ。イエズス様のする事は司祭のする事だ。そしてカトリックの司祭をイエズス・キリスト御自身に、第2のキリストにしよう、と願っています。

これがイエズス様の聖心に燃える特別の愛です。天主聖父への栄光の為に、人類の多くの救いの為に、イエズス様は特別の愛を以て司祭を愛しておられます。そしてマリア様も同じ愛を以て、司祭を愛しておられます。

6月は聖ピオ十世会では多くの司祭が生まれて、そして皆さんのしもべもこの特別の御恵みを受けました。カトリックのイエズス様から特別に愛された司祭が、そしてマリア様が愛しておられるイエズス・キリストの司祭が、ますますイエズス・キリストと一致するように、イエズス・キリストの生き写しとなりますように、第2のキリストとなりますように、イエズス・キリストが愛するものを愛して、イエズス・キリストがお望みのように行動する事ができますように、お祈り致しましょう。

“Exsultabit cor meum in salutari tuo, cantabo Domino qui bona tribuit mihi.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2018年6月15日(金)聖霊の随意ミサ 聖ヴィトゥスの記念「愛に愛で返した聖ヴィトゥスについて」

2018年08月14日 | お説教・霊的講話
2018年6月15日(金)聖霊の随意ミサ 聖ヴィトゥスの記念
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月15日、平日のミサですが、今日は特に聖霊の随意ミサを捧げています。

今日の記念の聖ヴィトゥスをしようか、あるいは聖霊の随意ミサをするか、選択の余地もあったのですけれども、なぜこの聖霊の随意ミサをするとかというと、特に来たる7月の総会において、聖ピオ十世会の指導者たちに聖霊の恵みがたくさんあって、素晴らしい決定ができますように、特に聖霊へのお祈りが必要だと思いますので、天主様の御摂理によって今日は聖霊の随意ミサを捧げたいと思っています。どうぞ聖ピオ十世会の為に、総会の成功の為にたくさんお祈りをなさって下さい。

今日のこのミサの後に、いつもの通り終課を唱える事に致しましょう。明日は10時半からミサがあります。明日は聖母の汚れなき御心の随意ミサを行ないます。その後で御聖体降福式もあります。どうぞいらして下さい。



「もしも私を愛するならば、私の言葉を守るだろう。すると聖父は彼を愛し、私たちは彼の元に行き、そこに住処を作るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の溢れるばかりの今日はこの御言葉を、この福音で私たちは拝聴しました、「もしも私を愛するなら、私の言葉を守るだろう。そうしたら聖父は彼を愛して、私たちは三位一体全ては、彼の元にやって来て、そして住処を作るだろう。」

三位一体は私たちの霊魂に住まうだろうという、三位一体の愛を以って私たちを愛して下さるという、イエズス様の憐れみに溢れる、愛に溢れる言葉を聞きました。

イエズス様が私たちに求めているのはまさにこれです。私たちを愛し、また更に愛し、更に愛したい。そして私たちから求めるのは、「愛で返す」という事です。

その為に私たちがもしもその愛し返すならば、更にもっと私たちを愛し返すだろう、天主御自身である天主の愛である聖霊を私たちに下さり、御自身全く、イエズス様御自身を御聖体として私たちに下さる、そして私たちと一致していたい、そして私たちと共に留まりたい、という愛が、今日の御言葉に溢れ出ています。いつ聞いても感動で溢れる御言葉です。

今から1700年前、これを実行した3人の殉教者がいます。名前は聖ヴィトゥス、モデストゥス、クレセンチアです。特にこのヴィトゥスという聖人は子供でした。ある記録によると12歳、ある記録によると7歳となっています。おそらく12歳が正しいと思われます。

この子は非常に名の高い領家に生まれました。ただしお父さんは異教徒でした。しかし非常に教育に熱心であって、そこで品行の高い立派な夫婦であったその乳母に、クレセンチアという教養の高い女性がいたので、その女性に自分の子供の教育を任せました。昔のローマでは、子供の教育を学校に通わせるのではなく、お金持ちは特別の家庭教師を雇って、その彼らに教育を頼んだのでした、全く任せました。ですから聖ヴィトゥスはシチリアに290年に生まれ、デオクレチアノ皇帝の統治の元に生まれたのですが、クレセンチアのもとに養われて行きました。

どうやって聖クレセンチアがそのヴィトゥスに洗礼を授けるに至ったのか、私たちには詳しく伝えられていません。おそらくヴィトゥスというのは非常に頭の良い子供であって、クレセンチアの信仰の事や信仰生活を見て、「自分もカトリックになりたい」と言ったに違いありません。そこでお父さんの知らない間に洗礼を受けました。クレセンチアの夫モデストゥスもやはりカトリック、熱心なカトリックでした。

そして12歳になって、お父さんの元に連れて来られると、お父さんは自分の子供がカトリックになった、キリスト教の洗礼を受けた、信仰を持っている、という事を聞いて非常にびっくりします、驚きます。そしてそれに反対します。なぜかというと、もしもそのような事が分かったら、自分が殺されてしまうかもしれない、迫害の真っ只中でした。ですからその子供を脅して、もうそのキリスト教の信仰から離そうとしました。その当時の子供は、親から叱られる時には鞭で叩かれました。そこで厳しい鞭を受けました。

ヴィトゥスはそれを受けても、「信仰は捨てない、決して捨てない。イエズス様を愛する。イエズス様を捨てる事ができない。イエズス様を捨てるぐらいなら命を捨てた方がマシだ。」

お父さんはそれでも怒って、更に厳しい拷問をしようとします。それを見かねた乳母のクレセンチアは、そしてその夫のモデストゥスは、「何とかこの子を助けたい」と思って、3人は逃げ出します。

逃げるのですけれども、しかし捕まってしまって、そして長官のもとに訴えられて、そして本当に残酷な刑罰を受けます。煮えたぎるタールと油の混じった物を体に注がれるのです、3人とも。「キリスト教を棄てよ」と、グツグツともう全身が火傷をしてしまうようなものですけれども、しかしそれを受けても、その3人には何の害も与えずに、3人は主を讃美するだけでした。

それを見て怒った長官は、この3人を腹の減った猛獣のライオンに食わせようとしますが、ライオンは非常に獰猛であるはずなのにもかかわらず、その3人の前では優しい猫のように寄り添って、何の害も加えようとしません。

そこでそれを見て怒った長官は、遂に岩の上に3人を乗せて、そして残酷に殺して、殉教する事になります。305年6月15日、今日の事でした。イエズス様への愛に燃えて、イエズス様を愛するが為にイエズス様の御言葉を守ろうと、その事だけを思った3人の生涯でした。

聖ヴィトゥスは特に少年で、その若い命をイエズス様に捧げました、喜んで捧げていきました。血を流して捧げていきました。そこでシチリアやローマでは、聖ヴィトゥスに対して特別の崇敬がなされました。ところがその聖人への崇敬がヨーロッパに非常に早く、特に東欧に渡って、元々はローマに聖ヴィトゥスの聖遺物があったのですけれども、それは今プラハの聖ヴィトゥス教会のカテドラルに安置されています。そして6月15日はプラハでは、その聖遺物の前で特別な何か踊りがあって、聖ヴィトゥスを崇敬したのだそうです。

古代から中世にかけて非常に崇敬をされた聖ヴィトゥスは、14救難聖人の1つに挙げられています。特にコレラとか疫病などに対して、聖ヴィトゥスにお祈りすると助けられる、と私たちに伝えられています。

今日、聖霊の随意ミサをしている私たちも、是非、非常にそれからは遠いのですけれども、聖霊に満たされて、イエズス様を愛し、イエズス様から聖父から愛され、三位一体が私たちの内に住まわれ、またその愛を以てイエズス様を愛し返す、そしてその3人に倣う、殉教者に倣う御恵みを乞い求めましょう。

マリア様が私たちのこの願いを、是非イエズス様に取り次いで下さいますように、そして3人の殉教者も私たちに取り次いで下さいますように、私たちがイエズス様の聖心の中に深く入る事ができますように、イエズス様をますますお愛しする事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年6月3日聖霊降臨後第2主日 御聖体の荘厳祭「イエズス様が私たちをどれほど愛しておられるか」

2018年08月13日 | お説教・霊的講話
2018年6月3日(主日)聖霊降臨後第2主日 御聖体の荘厳祭
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2018年6月3日、聖霊降臨後第2主日で、今日は御聖体の祝日の次の主日なので、日本では特別に御聖体の荘厳祭が捧げられています。

本当ならばこの荘厳祭は、「御聖体行列があるならば、この荘厳祭をする事ができる」となっていますけれども、日本では、「それがなくてもできる」という特例を持っています。

今日は、ですからこのミサは、御聖体の祝日と同じであるかのように行われています。ミサの直後には、御聖体降福式を行いましょう。そしてミサの後の祈りはその後にあります。今日はこの午後は14時から公教要理と、それから16時から晩課を提案しています。

次回のミサですけれども、先ほど信徒会長と、それから25周年祝賀会実行委員ができたという事で、私も非常に嬉しい驚きを持って伺いましたが、皆さんの非常に暖かい心に、心から感謝します。もちろんこれは私の為というよりはイエズス様の、永遠の最高の司祭であるイエズス様の為に捧げられるものと知っております。そこで是非このイエズス様の司祭職が、真の聖伝のカトリックの司祭職がますます高められ褒め称えられますように、このつまらない道具ですけれども、この機会に多くの方々がイエズス様の素晴らしさが、そのイエズス様の憐れみが、司祭職を通して現れているという事が分かるように、と願っています。

多くの方々がこの機会にミサに与る事ができればと思います。どうぞ皆さんたくさんの方をご招待なさって、喜びを分かち合う事ができるようにして下さい。心から感謝しております。

もう1つ、最後のお知らせがあります。つい最近のニュースによると、大阪の大司教様であるトマス・アクィナス前田大司教様が、今度枢機卿になられるというニュースを受けました。そこで大阪には私たちの聖堂もあり、そこでできれば前田大司教様にお祝いの手紙を送りたいと思います。おそらく物でプレゼントする方はたくさんあっても、お祈りでプレゼントする方はあまりないかもしれません。そこで日本の第6番目の枢機卿様であるこの大司教様が、カトリックの聖伝の信仰に理解を示して、そして日本のカトリック教会を正しく指導して、リードしていく事ができるように、特別の御恵みがありますように、という願いを込めて、霊的な花束とお祝いの手紙をちょっと添えて、なるべく早めに出したいと思っています。そこでもしもよろしかったら、例えば1人2環とか1人3環とか、教えてください。「うちは9環やっている」という方もいらっしゃいます(^^)が、霊的花束としてロザリオを何環するとか、あるいは犠牲を捧げるとか等々、ミサのお帰りの前に会長にお知らせ下されば、それを大阪と東京とでまとめて、お祝いの言葉として送りたいと思っています。


「私の肉は真の食べ物であり、私の血は真の飲み物である。私を食べる者は、永遠に生きる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちは御聖体の荘厳祭を祝っています。

⑴ この御聖体の荘厳祭を祝うにあたって、私たちは1つ、この事を理解する事にしたいと思っています。それは、「イエズス様が、天主が私たちをどれほど愛しておられるか」という事です。

⑵ 特に第2のポイントでは、このイエズス様の愛は天主の愛は、この私たちの為にいけにえとなっている、いけにえとして状態として私たちの目の前に現れている、という事です。「御聖体」その神秘を黙想しましょう。

⑶ 最後に、ではこの御聖体の神秘、いけにえ、最高司祭イエズス・キリストの御体、屠られた御体を前に、天主からの愛を前に、私たちは一体何をしなければならないか、という結論を、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴ 2週間前私たちは、この御聖堂で聖霊降臨を祝いました。その時に、「天主の愛である聖霊が、私たちに全く贈り物として与えられた」という事を黙想しました。「天主は愛である」「天主の唯一の仕事は、その命の活動は、愛する事にある」という事を黙想しました。

 天主三位一体のその内部の構造、聖父と聖子と聖霊の相互の愛、そしてこの実体である愛が、天主の愛が私たちに全く与えられた、そして天主の私たちに対する全行動は、私たちに対する長い歴史は、1つの言葉にまとめられる、それは「私たちを極みなく愛したと」いう事です。それを黙想します。

人類の、天主のその無限の愛に対する答えは何だったでしょうか?それは長い、長い、長い、裏切りと、愛の拒絶と、無関心と、冷淡、罪の歴史でした。アダムとエヴァから始まった罪の長い話が、人類の過去に、そして今にも、そして将来に、残っています。

天主が人類から受けた拒否をその前にして、一体どうやって答えたでしょうか?もちろん、「あぁ、しょうがない。これだけやったのに、バカだなぁ」と思ったかもしれません。しかし天主の答えは、「愛」でした。しかも想像を超えるような愛でした。天主聖父が御一人子をこの世に与えました。

聖ヨハネは言います、「これに天主の愛がある。天主聖父は、その御一人子をこの世に下さるほどこの世を愛された。」(ヨハネ第一4章9節)

聖子は聖父の命令に従順になって、私たちの間に幼子として生まれます。そして遂には御自分の十字架の上で、いけにえとして捧げられます。この十字架の像に架けられているイエズス様の像の、ぐちゃぐちゃになった傷だらけの体を見て下さい。頭の先から足まで傷の無い所はありません。胸は聖心は槍で貫かされて、御血と水がそこから流れ出ています。頭には茨の冠が被せられています。屈辱と、辱めと、侮辱を受けています。

そしてイエズス様は私たちに何を言ったかというと、この十字架の上で最初に言った言葉は、「聖父よ、彼らを許して下さい。彼らは何をしているか知らないからです。」

イエズス様はこの御受難を以て、私たちはどれほど愛しているか、という事を見せましたが、それだけでは足りませんでした。

私たち、罪人の私たちに、どれほどの宝物を与えようか、喜びを与えようかという事を、自分の復活を以て示しました。私たちはそれも黙想してきました。復活、大勝利、それを私たちに与える、ただで与える。

そればかりではありません。天に昇って、天国の永福の場所を準備しに行きました。聖父の前にこの傷を見せて、常に私たちの為に祈る。

そればかりではありません。聖霊を私たちに、賜物として贈り物として下さいました。

そのようなものを全て受けた私たちは一体、天主の愛を疑う事ができるでしょうか?本当なら天主からの贈り物のたった一つだけを戴いただけでも、天主の愛を信じるに十分のはずでした。天主が人となった、それだけで天主の愛を確信するのに十分すぎることでした。。

ところが三位一体の天主は更に、「これでは十分ではない。更にもっと愛を示したい」と思いました。あたかも正気を失なってしまったかのように、「え?まさか、そこまで?」というほどに、天主が、この世の創造主が、王の王が赤ちゃんになるのみならず、十字架の上で殺されるのみならず、なんと私たちの為に、食されるパンとなった、食べ物となったのです。

私たちと1つになりたい、1つの体になりたい、1つの心になりたい、1つの事を思い、1つの考え、自分の命を与えたい、自分の栄光を与えたい、永遠の命を与えたい。
「私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物。私を食べる者は永遠に生きる。」

一体誰にそのような事を与えたのでしょうか?天使たちでしょうか?いえ、イエズス様を裏切って、更に裏切って、罪を犯し、赦されてまた罪を犯し、また罪を繰り返して、イエズス様に泥と恥をかかせて止まない私たちの為に、その事をなされました。


⑵ 第2のポイントは、「御聖体においてイエズス様は、いけにえの状態として生きておられる」という事です。

イエズス様がこの世に生まれた時に、マリア様からお生まれになった時に、マリア様はすぐにそのイエズス様の汚れ無い、傷の無い御体を聖父に捧げました。その直後です、8日目には、イエズス様は割礼を受けます。40日後には、荘厳に神殿に捧げられます。次にはヘロデによって殺されようとされます。しかしエジプトにおいて苦しい生活を送ります。その後にはナザレトで労働の生活、清貧の生活を送ります。額に汗流し、そして隠れた犠牲の生活をします。イエズス様は御母を残して宣教の旅に出ます。どれほどの犠牲だったでしょうか。イエズス様は御説教を以て、模範を以て、私たちに天主への愛を教えようとします。

愛の極みは私たちに全てを与えようとします。最後の晩餐の時には、この世を発たなければならない、聖父の元に行かなければならない、という事を知り、極みまで最後まで私たちを愛されました。パンを取って、「これは私の体である」と。

“シンボルである”と言ったのではなくて、“私の体を意味する”と言ったのではなくて、「私の体である。」これは、「私の肉を食べる者は永遠に死なない」と言ったその事を実現させます。

私たちがこのイエズス様のミサを捧げる時に、イエズス様の屠りを告げ知らせる事になります。イエズス様はもう栄光体に、復活された体でありますから、もはや死んだり苦しんだりする事はありません。血を流したりする事もありません。しかしミサにおいて二重の、2回に分けられる御聖体変化によって、御体と御血が分離します。奇跡的に、「イエズス様が屠られた」という事を、私たちの現前に現します。これは私たちが恵みを受けて、祝福を受けて、罪が赦され、天主からますます愛されるその為です。カルワリオがもう一度ここの私の前に現前するのです。

御聖体とは、イエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、御神性、全てが入っています。イエズス様のなさった救霊の功徳、贖いの全ての業の功徳、永遠の生命の祝福、御恵み全てが詰まっています。御恵みの創り主であるイエズス・キリスト御自身が入っています。それを私たちが全て受けるのです。

何と特権のある、何と恵まれた、何と偉大な民なのでしょうか、カトリック信徒というのは。天主を、私たちがしもべが食すとは。これが私たちの日々行なっている現実なのです。

これを見て私たちは、御聖体の前にどうしても、感謝と、礼拝と、讃美とを捧げなければなりません、そうせざるを得ません。このような愛を下さる天主がどこにいるでしょうか。


⑶ 私たちは第3に、そのような天主に、天主の愛に、天主の愛の御恩にどうやって報わなければならないのでしょうか?

「天主は愛である。」カトリックの核心はここにあります。その「天主が愛である」という事を信じ、「天主が私たちを愛している」という事を信じる事です。またそれをただ知るのみならず、私たちの意思を以て、愛をできる限り愛し返そうとする事です。

「イエズス様、御聖体の内に真に在し給うイエズス様、御身は愛の狂気のあまり、愛のあまりに頭が狂ってしまったかのように、パンになられました。御身の愛はあまりにも大きくて、御身が一体誰かを忘れさせてしまったかのようです。私と一緒になりたい、私と1つとなりたい、というその思いのあまり、御身は御聖体をお創りになりました。司祭を創りました。そして私の心の中に来たいと願っておられます。」

「イエズス様、どうぞ私の心に、貧しい心に来て下さい。私は御身をこの胸に入れるには相応しくありませんが、どうぞイエズス様の御言葉を以て浄めて下さい。」

「イエズス様、これほどの愛をどうやって返したら良いでしょうか。イエズス様、御身を愛します。御身をますます愛させて下さい。」

「無原罪の御母マリア様、私を助けて下さい。マリア様は御胎内にイエズス様を宿し、一度もイエズス様を悲しませた事はありませんでした。どうぞ私がマリア様に倣って、マリア様の心でイエズス様を愛する事ができますように、助けて下さい。」


「私の肉は真の食べ物であり、私の血は真の飲み物である。私を食べる者は、永遠に生きる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2018年6月2日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 「イエズス様の聖心の黙想、愛に満ちた聖心に応えるには?」

2018年08月11日 | お説教・霊的講話
2018年6月2日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月2日、初土曜日のミサをしております、マリア様の汚れなき御心のミサをしております。

今日はこのミサが終わった後、特に日本と世界に平和がいつもありますように、今北朝鮮で日本の人を誘拐したり、あるいは核爆弾を作ったり、化学兵器や毒ガスや、危ない武器をたくさん作っているので、何とかそのような物が無くなりますように、という話し合いをするそうです。そこで私たちも、周りから危険が取り除かれますように、平和が来ますように、特にこの初土曜日の信心をする為に、御聖体降福式をしたいと思っています。どうぞいらして下さい。

それから私たちが今ここにいる大阪の大司教区では、大阪の大司教様が、教皇様によって枢機卿になるように任命されました。枢機卿様というのは、カトリック教会で教皇様に次いでとても名誉のある位の人です。世界で数えるばかりしかいません、160名ぐらいしかいません。そしてもしも教皇様が亡くなりになったら、その枢機卿様だけで集まって、次の教皇様は誰かという事を選びます。その内の1人に選ばれました。日本では昔、今までに5名、そういう枢機卿様がいましたけれども、この大阪の大司教様がそういう方に選ばれました。

大阪の大司教様が立派な枢機卿様になりますように、イエズス様の聖心に適う枢機卿様になりますように、私たちはお祈りをしたいと思っています。そこで霊的花束を準備したいと思っていますので、皆さんから少なくとも3環、足りないと仰る方は「うちは1日9環やっている」という方もいらっしゃるかもしれないので、たくさんのお祈りをなさって下さい。それで後で霊的花束をしたいと思いますので、信徒会長に是非、この少なくとも「3環 お祈りします」と報告なさって下さい。枢機卿様にお手紙を書いて、お祝いを渡したいと思っています。

それから今度の来々週の土曜日、6月16日の土曜日には、この皆さんがとても温かい心で、私の司祭の神父になって25周年のお祝いをして下さるとの事です。25年の長い間に、多くの御恵みを頂いて、特に皆さんと知り合って、小さなお友達と知り合って、良い霊魂たちと出会って、世界中のイエズス様を愛する、マリア様を愛する人たちと出会って、本当にこの25年間は幸せでいっぱいの、御恵みでいっぱいの年月でした。

皆さんで祝って下さっているので非常に感謝しています。このその感謝のミサを捧げたいと思います。もしもよろしかったら、ご家族の方やお友達の方もたくさん招待していらして下さい。

次のミサは今度の次の主日、明日ではなくて来週の主日の夕方の18時に、ワリエ神父様がいらしてミサを捧げて下さいます。このミサも忘れないでいらして下さい。


“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus. ”
「イエズスの十字架の下に、その母が立っていた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、6月はイエズス様の聖心の聖なる月です。この6月の間に、イエズス様の聖心、イエズス様のこの燃える、愛に燃える心臓、聖心の黙想を特別にする月です。そこで今日は小さなお友達と一緒に、イエズス様の聖心の黙想をしたいと思っています。

⑴ イエズス様の聖心がどれほど私たちを愛しているか、というのを是非小さなお友達に知ってもらいたいなぁと思うのです。お母さんは小さな子供達を愛していますけれども、イエズス様の聖心はちょうどお母さんのようです。私たちを愛して、愛して、愛しています。どんなにして愛しているかという事をちょっとだけ垣間見てみる事にします。

⑵ そして、イエズス様のそのような愛に満ちた聖心に応えるにはどうしたら良いか。それは、「マリア様のようにイエズス様をお愛しする、という事が最高だ」という事を黙想してみましょう。

今日はその2つのポイントがあります。

⑴ この全宇宙は、非常に綺麗で、秩序があって、美しさに満ちていて、私たちが幸せに住む事ができるようにできています。綺麗なお魚や、そしてたくさんのお魚や、お花や、木々や、歌を歌う鳥や、動物や、多くのもので満たされています。高い山と、深い海と、綺麗な大自然が私たちに与えられました。これはたまたま偶然にあったのではないのです。この全てを創った方が一人、一方おられて、私たちを愛するが為にこれを下さいました。

そして私たちが終わりなく、果てしなく幸せである事ができるように、「天国」という所も創りました。天国という永遠の命も準備して下さいました。そして私たちが天主様と一緒に、この世を全てを創った御方と一緒に、永遠に幸せでありますように、と私たちはこの世に生まれてきました。

でも私たち人間は、そのようなお母さんのような温かい優しい愛に対して、何と答えたかと言うと、「嫌だ!」「嫌いだ!」「知らない!」と。すると、天主様はそのような私たちの態度を見て、非常に悲しみました。

では天主様はそのような私たちに対してどうしたと思いますか?「あぁそう。そんな事言う子は知らないよ!出て行け!」そうじゃなかったのです。
「我が子よ、私の元に帰っておいで。」

その天主様は、永遠の昔から三位一体なのです。聖父と聖子と聖霊。聖父は聖子を愛して、聖子は聖父を愛して、その愛の、その聖父と聖子の愛の、愛は聖霊なのです。

三位一体の天主は、この人類が幸せである事ができるように、自分の聖子をこの地上に送りました。このここにあるステンドグラスを見て下さい。ここに生まれた小さな赤ちゃんは、この世を創った天主が私たちの為にお生まれになった事なのです。この赤ちゃんはマリア様に抱かれています。マリア様は、この世を創った天主の聖子が、私たちの元に人となると言う時に、「はい、私は主の婢女(はしため)です。主のしもべです。仰る通りに私になりますように。私はあなたに従います」と言って、天主の、イエズス・キリストの救い主の御母になりました。

そしてマリア様は一番最初に、この救い主を天主聖父にお捧げになりました。聖子は、天主聖子は私たちの元に人となって、すぐに御自分を聖父に捧げました。マリア様もそれと一緒に、御自分の御子を聖父に捧げました。

私が今これで何を言おうかと言うと、実はこの人類が救われる為に、人類が罪の償いをする為に、私たちに代わって天主聖子が、イエズス・キリスト様が罪の償いを果たして下さった、自分がいけにえとなって、自分が犠牲となって下さった、という事なのです。それはマリア様と共になさったのです。

イエズス様はマリア様と共に30年間、一緒に生活していましたが、イエズス様はいつもいけにえの生活をしていました。生まれたと思ったらすぐに、8日の後には割礼を受けました。割礼というのはとても痛い儀式です、血を流す儀式なのです。イエズス様はそれを捧げました。そしてマリア様はイエズス様を40日後に、イエズス様がお生まれになった40日後に神殿に荘厳に捧げました。そしてマリア様とイエズス様はエジプトで外国の生活をして、非常に苦しみました。ナザレトに戻ってそれから生活をするのですけれども、やはり苦しみと困難の生活を送りました。

この世を全てを創った、この世を全て持っている、所有しているイエズス様ですけれども、あたかも何も所有していないかのように苦しみを捧げました。それはみな、私たちの為でした。イエズス様は私たちを愛するが為に、いけにえとなったのです。

そしてイエズス様はそれと同時に、最高の司祭でした。司祭というのは、天と地の間にある、特別な選ばれた人です。天主様の名前によって、この地上の人々を祝福して、そして人間を代表して、天主様にお祈りといけにえを捧げる特別の人なのです。そのような特別な人は、本物のそのような大司祭は、地上でたった1人しかいません。イエズス・キリストなのです。そしてそのイエズス・キリストは、そのような司祭を使徒たちに、司祭職を使徒たちに与えました。十二の使徒たちに与えて、その十二の使徒たちの後継者が、カトリックの司祭です。カトリックの司祭たちはイエズス様の司祭職に与っているのです。でも唯一の最高の司祭は、イエズス・キリスト様なのです。イエズス様は御自分の御体をいけにえとして捧げました。

ですからイエズス様は、司祭としてお祈りをしました、いけにえを捧げました。ゲッセマネの園にては、血の涙を流してお祈りをしました。時々山に行って、静かに一人でお祈りをして夜を過ごしました。イエズス様は司祭として40日間、荒れ野で断食もしてお祈りをしました。そしてイエズス様は最後に、御自分がこの地上を離れる時に、司祭の紫の深紅の真っ赤な服を着て、御自分の血で染められた服を着て、そして王の冠を、茨の冠を被って、そして荘厳に司祭の行列をして、祭壇に入場します。それはカルワリオという祭壇で、皆と一緒に行列をしました。十字架という祭壇も担ぎながら、カルワリオに登って行きました。

そして御自分は公生活、マリア様の元を離れて生活をしたその最初の時から、洗者聖ヨハネによって言われました、「見よ、天主の子羊を見よ。世の罪を除き給う天主の子羊を見よ。これこそが本物の子羊である。」

この「天主に捧げられた子羊」というのは、昔々モーゼの時代には、その屠った血を家の框に塗るとその家は守られました。それと同じように、本物の天主の子羊であるイエズス様の御血が私たちに塗られると、私たちは滅びから救われる、という事でした。

その通りでした。イエズス様は天主の子羊として、最高の司祭として、いけにえとして、十字架の上で御血を流されて、私たちの為に命を天主聖父に捧げたのです。

これを見ると、私たちをどれほど愛されたか、という事が分かります。

この時々小さなお友達は、デザインでハートの形に矢が刺さっている絵を見た事があるかもしれません。その矢が刺さっているハートは、「あぁ、このハートの持ち主は誰かの事を愛しているのだ」という意味なのです。

イエズス様の聖心は、弓矢ではなくて、ローマの兵士によって貫かされました。これは「イエズス様が私たちを愛しているのだ」という事を意味しています。そしてイエズス様の御胸が開かれて私たちがその中に、私たちがその中に入って来なさい、と大きく開かれています。

マリア様はその御様子を十字架の下で見ていました。涙にむせびて見ていました。しかしこのベトレヘムで捧げた時と同じように、イエズス様を奉献していました、聖父に奉献していました。マリア様の苦しみと涙を見て、イエズス様はどれほど御悲みになった事でしょうか。でもその苦しみさえも、小さなお友達と私を愛する為に、イエズス様は捧げて下さいました。

そればかりじゃないのです。十字架の上で私たちの為に、私たちを愛するが為に命を捧げたのみならず、毎日、全世界のどこでも、毎瞬間、ミサのいけにえで、イエズス様は私たちの為に神秘的に屠られています。神秘的にいけにえとなっています。

そして私たちに御聖体を下さいました。ミサの時に神父様が、丸い白いパンをホスチアを奉挙する時があります。その時にチリンチリンと鐘が鳴るので、皆さん見て下さい。これはイエズス様の本当の御体なのです。司祭がイエズス様の名によって、「これは私の体である」と言うと、このパンはパンでなくなるのです。本物のイエズス様の御体になるのです。見かけはパンですけれども、これはイエズス様の御体なのです。

ブドウ酒も同じなのです。カリスの中に、チリンチリンと鳴って神父様が奉挙する時に、カリスが見えます。その中にはブドウ酒が入っています。でもブドウ酒ではないのです。イエズス様の御血なのです。

これはイエズス様が私たちの為に特別に残して下さった、十字架のいけにえの再現なのです。もう一度私たちの前に、イエズス様が屠られるのです。これは私たちと共に、「永遠に私たちと共にいたい」というイエズス様の愛の表れでした。

考えてもみて下さい。王様が、奴隷の一番下の者の為に、食べ物となって下さる、という事を。イエズス様は私たちといつも一緒にいたい、と思うが為に、このパンの形で御聖櫃の中にいつも留まるのです。そればかりか、私たちの霊魂の中に糧として、食べ物として入られるのです。なぜかというと、イエズス様は私たちの事をそれほど愛しておられるからです。いつも一緒にいたい、いつも愛する小さなお友達の為に、自分の全てを与えたい、と思っているからです。

このパンは、このパンの姿に見える物の中に、イエズス様が全て入っているのです。イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性、そして全ての御恵みと救いが入っています。それは私たちが受ける事ができるように、と特別の愛の発明でした。

イエズス様は私たちにそればかりでなく、もっとすごい事を与えました。私たちに、私たちがそのイエズス様を愛する事ができるように、御自分のお母様をも、私たちのお母様として与えて下さいました。どれほどすごいかというと、マリア様はイエズス様のお母様ですが、一度もイエズス様を悲しませた事がないのです。イエズス様を愛して、イエズス様に特別に選ばれたものですけれども、いつも謙遜でした。特別に罪の無い方でしたけれども、イエズス様に対して純粋な愛を捧げていました。いつも天主の栄光と、霊魂の救いの事だけを考えていました。自分の事は考えていませんでした。そしてイエズス様はこのマリア様の仰る事であれば、どんな事でもなさるのです。

神父様はフィリピンで働いているのですけれども、時々難しい問題があります。時々はあまりにも難しい問題で、困った事です。

たとえば、誰かに何か誤解があったりとかして、屈辱を受けるとか、すごいことをされてしまってもう耐えきれない、というような事があります。でも本当にそういう方がいたのです。それでもしもその方が怒って、「あぁこれはあり得ない!こんな事なら私はあの人を訴える!」と言うと、もっと大変な事になってしまいます。そこで私はその方にお願いしたのです、「よく分かる。でもこの小野田神父に免じてここは、堪忍してあげて下さい」と。昨日あった話です。そしたらその方は涙を流しながら、「神父様の為にそうします。神父様の為だけにならそうします」と言ってくれました。そういう方がいたのです。とっても嬉しかったです。感謝しています。

マリア様がもしもイエズス様にお願いしたら、もっとです!「もうこれは堪忍袋の緒が切れて、もう許せない!これほどの事があってはならない!」と思っても、マリア様が、「私に免じて、息子よ、お願い」と言うと、「お母様、分かりました」と仰るのです。そのような方を私たちに下さいました。

⑵ マリア様はイエズス様の愛がどれほど深いかという事をよく知っているのです。ですからそれに愛を以て返しました。熱烈な愛と、純粋な愛を以て返しました。どんなに犠牲を払っても構わない、という愛でした。その愛が私たちに与えられました。

6月はイエズス様の聖心の黙想をする特別な月です。イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事は、御聖体を見ると分かります。この御聖体は、御聖体の中にイエズス様の聖心があるからです。

更にイエズス様を私たちが愛する為には、マリア様の御心を見ると分かります。マリア様の御心に倣って、私たちがイエズス様を愛する事ができるように。

「イエズスの母は、十字架の下で立っていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2018年6月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 「イエズス様の聖心の信心の一番大切なものは何か?」

2018年08月10日 | お説教・霊的講話
2018年6月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年6月1日、イエズス様の聖心の聖なる月、6月の初金のミサをしています。

今日は御ミサの後に、いつものように初金の聖時間を行ないましょう。明日は初土のミサがあります、10時半からです。そして次のミサは、6月の第2主日の10日・11日、それから15日・16日にミサがあります。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖なる、至聖なる聖心の6月、この初金を祝うにあたって、この1ヶ月、イエズス様の聖心の信心の一番大切なものは、何が一番大切な事か、という事を黙想致しましょう。

私たちはこのイエズス様の聖心を考えるに黙想するにあたって、何がイエズス様から求められているか、これをぜひ理解して下さい。そしてこの1ヶ月、その黙想をなさって下さい。それは、「イエズス様が私たちを愛しておられる。イエズス様の聖心というのは、愛だ。そしてイエズス様は私たちに愛を求めている。」これを理解して下さい。

今年の8月11日の山の日から15日の聖母被昇天まで、また去年のように小黙想会をする事を提案します。そして今年はマリア様の、ファチマのマリア様を黙想した後に、マリア様を通してイエズス様の至聖なる聖心を黙想する事を提案します。8月のこの聖母被昇天までの小黙想会は、イエズス様の聖心の小黙想会を致しましょう。

“Credidimus Caritati.”
「私たちは天主の愛を信じた。」

「天主は愛である」と聖ヨハネは言います。天主は1つの事を、いつも思っています。“Cogitationes Cor dis ejus in generatione et generationem.”聖心の思いは、代々に至って1つの事を考えています。それは「愛」です。

天主聖父、聖子、聖霊、三位一体は、これは愛する天主です。天主の愛の、三位一体は愛の構造を持っています。

天主聖父は聖子を愛し、聖子は聖父を愛し、その相互の愛の交流は聖霊となって、聖霊は聖父と聖子を愛し、聖父は聖子と聖霊を愛し、聖子は聖父と聖霊を愛し、この三位一体は相互に完全な愛を以て愛し、愛し返されています。天主の、永遠から永遠の将来に至るまでなさる事は、「愛する」という事です。

天主は私たちを愛によって、純粋な愛によって創造されました。カトリック教会の本質、最も大切な点というのはここにあります。イエズス様の至聖なる聖心に対する信心というのも、カトリック教会のこの核心と全く1つです、同じです、同一です。それは何かというと、カトリック教会の全ての宗教は私たちに、「『天主が愛である』という事を信じよ、信じなさい」と教えています。

その愛、天主が愛であるという事を、その多くの証拠を以て、あれでもか、これでもかという証拠を以て、「これを信じるように、この事実を認めるように。そして天主が愛であるという事を、抽象的な概念のみならず、天主は私たちを具体的に、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、私たちを愛しておられる。私たち一人ひとりを全てを愛しておられる、という事を信じよ。」イエズス様の聖心への信心とカトリックの宗教は、これを求めています。

それと、「ただ単に信仰を頭で信じるのみならず、その愛を信じた私たちは、その愛を愛で以て、全てに超えて天主を愛する、イエズス様の聖心を愛する。」これにあります。ここに、イエズス様の至聖なる聖心への信心があります。カトリック教会の本質があります。

これはもう何度も同じ事を聞かされているので、皆さんの耳にタコができているのは知っていますが、天主様の人類に対する態度、そのなさった全ての御業というのは、たった1つの言葉によって表されます、「人類を愛し、愛し尽くした」という事です。

人類が天主様に対してしたその言葉は、その態度は、これには長い話があります。あれでもか、これでもか、これでも足りない、これでも足りない、という長い長い長い長い長い、裏切りと、拒絶と、冷淡と、無関心と、憎しみと、反抗と、逆らいの歴史がありました。

天主は愛をもって人類を創りました。無から創造して、御自分の永遠の無限の喜びと幸せを与えようと、愛をもって創りました。ただ純粋に、天主様が良い方であり、愛に満ちた方であり、その愛を私たちに分け与えたい、と思ったからでした。私たちを創造して何ら得るところも、またより良くなるところもありません。私たちを純粋に、幸せにさせたい、無から有るへと導き出して、永遠の命を与えようとされました。

それに対する人類の答えは、「No!」「嫌だ!」拒否、従うのを拒んだ事でした。

それに対する天主の答えは何だったでしょうか?天主はこの創造の時に与えて下さった愛を、更に超える愛をもって答えました。

天主聖父は、聖子を私たちの身代わりに、私たちの元に送られました。天主は人となって、私たちの内に住み給いました。「聖父は聖子を与えるほどこの世を愛された。ここに天主の愛がある」と聖ヨハネは言っています。

天主の愛は、聖子が天主が人となっただけでは満足しませんでした。本当なら、もう天主が人となっただけで天主がどれほど私たちを愛して下さっているか、というのを知るに十分すぎるほど十分でした。これ以上何の証拠が必要でしょうか。

しかし、それをも越えて更に天主聖子は、私たちを愛するがあまり、その愛の極みに、自分の命さえも投げ出しました。十字架の上に架かって、ぐちゃぐちゃになって、傷だらけになった、ボロボロになったこの御体、御血を流し尽くして、そして茨の冠を被せられて、鞭で打たれて、傷だらけになって、私たちの方をご覧になっている御姿は、私たちに何を訴えているかというと、「愛しているよ。」「極みまで愛している。」人類に対するこの天主の愛を表す、それ以外の何ものでもありませんでした。

イエズス様のこの地上での語った御言葉は、愛の御言葉でした。愛の御教えでした。天主がどれほど私たちを愛して下さっているか、という事の証明でした。イエズス様の行なった全生涯の模範と、そして特に御受難は、天主の愛の神秘を、私たちをどこまで愛しておられるか、という事を雄弁に語っています。

天主がイエズス様の聖心が、この槍にて貫かされた、私たちの為に開かれた聖心が、私たちをどれほど愛して、私たちからどれほどの愛を求めているか、という事を訴えています。このイエズス様が天主が人となって、私たちの為に生まれて、苦しまれた事、これだけでもう十分でした。天主の愛を信じるには十分すぎるほどでした。一体そのような愛の極致を見て、誰が天主を愛する事を拒む事ができたでしょうか。

しかしイエズス様の愛は、狂気まで、愛の狂気の沙汰にまで、正気を失ってしまったかのような程度にまで、私たちを愛し尽くします。ただ天主が「愛している」とイエズス様は仰るのみならず、自分の命を与えるのみならず、更に全てを与え尽くそうとされました。

聖霊降臨、天主の愛それ自身私たちのものに、全く私たちのものとして与えられたのみならず、イエズス様御自身の御体が、私たちに食べ物として与えられました。イエズス様が3年間の使徒職の終わりに、この世を去らなければならないという時が来た時に、聖父の元に帰らなければならないその時に、この弟子たちを見て、愛するがあまり、その彼らの事を思うがあまり、イエズス様は仰います、「心配するな。天主を信じ、私を信じなさい。私はお前たちを決して孤児にはしない。私はお前の元に来る。」

イエズス様は私たちの元に、聖寵をもって恩寵をもって聖霊を送る事によって、私たちの元に来ようとしました。聖父がイエズス様の御名において送る聖霊をもって、私たちの元に留まろうとしました。

それのみならず、御自身を本当に食べ物として、私たちの元に残し、私たちの元にこの世の終わりまで、パンの外見の元に留まろうと望まれました。

「慰め主なる聖霊が来る時、聖父が私の名によって送られるその霊が来る時、聖霊はお前たちに全ての事を教えるだろう。だから決して心を騒がしてはいけない、恐れてはいけない。聖父が私を愛したように、私もお前たちを愛している。私はお前たちを愛した。」最後の晩餐のイエズス様の言葉は、愛と憐れみと、私たちに対する優しさで充ち満ちています。

天主様のこの全能の、その愛に満ちた全能、その愛に満ちた智恵の深さ、そしてその優しさとその充ち満てる慈愛、憐れみ深さは、私たちの理解をはるかに超えています。

天主様が1回十字架の上で、私たちの為に、私たちの身代わりに、御血潮を流されて聖父に捧げられて、そして天国の栄光を受けてそれで十分ではなかったのでしょうか?いえ、イエズス様は私たちの為に、日々、毎瞬間、御聖体という形で屠られるという事を御望みになりました。永遠の犠牲を、いけにえとなる事を望みました。

その昔旧約時代では、その前表としてメルキセデクが、エルサレムの大司祭メルキセデクが、パンとぶどう酒を天主に捧げました。そのメルキセデクの司祭職であるイエズス様は、最高の大司祭として、最も権威のある、荘厳な、威厳のある唯一の大司祭として、そして同時に天主の子羊として、御自分をパンとしてぶどう酒として、御自身の御体と御血を捧げました。

旧約の時代には、聖マラキアの預言によると、「日の昇る所から日の沈む所まで、あらゆる所で、天主の御名に浄いいけにえが捧げられるだろう。」まさに真っ白いイエズス様の汚れのないホスチア、イエズス・キリストの御体こそ、預言された天主の御名を讃美する為のいけにえでした。

その御聖体が私たちに与えられました。イエズス・キリストの御体、御聖体が与えられました。「天主は私たちと共に在す。」エンマヌエル。「天主は愛である。」イエズス・キリストの聖心は私たちに、この御聖体の内に留まり給うのです。イエズス様の愛はこの御聖体の内に、愛熱の燃える竈を以て轟々と燃えて、私たちを愛し、愛の眼差しを以て見つめています。

御聖体の中には、イエズス様の御体と、御血と、御霊魂と、御神性、イエズス・キリストの人間の本性と天主の本性が、キリストの、天主の第2のペルソナにおいて結合した、その全てが含まれています。

毎日、私たちの祭壇の上で、私たちの罪のいけにえとして屠られる、自発的に喜んで屠られるイエズス様、世界中で屠られているイエズス様が、私たちに与えられました。人間の、私たちの日々の糧として、食物として、霊的な糧として、私たちが永遠の旅に行く為の力をつける為の糧として、与えられました。私たちの霊魂がいつも浄められる為に、御血が与えられました。

この御聖体の中に全ての祝福が、祝福の全ての御恵みの創り主である天主御自身がいらっしゃいます。この御聖体の中に、全ての贖いの功徳、救いの恵み、永遠の命が入っています。

人間はどれほど愛された、祝福された特権を持った存在であるでしょうか。天使たちでさえこのような特権を持ってはいません。人間にどれほどの功徳があったというのでしょうか。人間に対するイエズス・キリストの愛、その憐れみの深さ、その愛の広さと、その長さと、その深みと、その高さは、私たちの想像をはるかに超えています。永遠を以ても感謝しても、感謝するに不足しています。御聖体、イエズス・キリストが私たちに与えられました。

愛する兄弟の皆さん、どうぞ今日、イエズス様の至聖なる聖心の聖なる月を始めるにあたって、喜んで下さい、イエズス様に感謝なさって下さい。天主はイエズス・キリストは、私たちと共に在す、イエズス様は私たちのものです。イエズス様は全く私たちをその愛熱の火をもって愛しておられます。イエズス様御自分を全く私たちに与え尽くしています。私たちの為にいけにえとなって、御自分を捧げ尽くしています。

どうぞイエズス様の元にいらして下さい。イエズス様は仰います、「苦しむ者よ、渇ける者、重荷を担う者よ、我が元に来い。私は柔和・謙遜であるから、私のくびきを担え。私はあなたたちを休ませよう。」

「マリア様、イエズス様のその聖心を、マリア様の愛を以て愛させて下さい。イエズス様がどれほど私たちを愛しているか、マリア様、理解させて下さい。」「イエズス様、この初金を、よくイエズス様の愛を深く理解するように助けて下さい。この6月を、イエズス様の聖心を愛する為に使うように助けて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊降臨後第十二主日(二級祝日 典礼色:緑)の固有文をご紹介します

2018年08月09日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨後第十二主日(二級祝日 典礼色:緑)の固有文をご紹介いたします。
ミサ聖祭
本日の典礼では、二つの教えが述べられる。その一つは、われらが自分たちの力では何一つなしえないこと、第二は、天主に奉仕するために聖寵の助力が必要なこと、以上の二つである。
天主の助力によって、われらは、天主の思し召しと掟とを成し遂げるのである。天主の思し召しというのは、天主と隣人とに対する掟に尽きるのである。

 

Dominica Duodecima post Pentecosten 聖霊降臨後第十二の主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 69, 2-3. 入祭文 詩篇69ノ2-3
Deus, in adiutórium meum inténde : Dómine, ad adiuvándum me festína : confundántur et revereántur inimíci mei, qui quærunt ánimam meam. 天主よ、私の助けに下り給え、主よ、私を助けに急ぎ給え、私の生命を狙う敵は、うろたえ、はずかしめられんことを
Ps. ibid., 4. 詩篇 69ノ4
Avertántur retrósum, et erubéscant: qui cógitant mihi mala. 私に対して悪をたくらむ者は、逃げさせられ、はずかしめられんことを。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Deus, in adiutórium meum inténde : Dómine, ad adiuvándum me festína : confundántur et revereántur inimíci mei, qui quærunt ánimam meam. 天主よ、私の助けに下り給え、主よ、私を助けに急ぎ給え、私の生命を狙う敵は、うろたえ、はずかしめられんことを。
Oratio. 集祷文
Omnípotens et miséricors Deus, de cuius múnere venit, ut tibi a fidélibus tuis digne et laudabíliter serviátur : tríbue, quǽsumus, nobis ; ut ad promissiónes tuas sine offensióne currámus. Per Dóminum nostrum. 全能あわれみの天主よ、主の信徒らが、ほまれと威厳をもって奉仕し奉ることは、主の恩寵によるのである。願わくは、途中で迷うことなく、主の約束し給うた善へとわれらを至らせ給え。天主として・・・。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corinthios. 使徒聖パウロのコリント人への書簡の朗読。
2. Cor. 3, 4-9. コリント後書 3ノ4-9
Fratres : Fidúciam talem habémus per Christum ad Deum : non quod sufficiéntes simus cogitáre áliquid a nobis, quasi ex nobis : sed sufficiéntia nostra ex Deo est : qui et idóneos nos fecit minístros novi testaménti : non líttera, sed spíritu : líttera enim occídit, spíritus autem vivíficat. Quod si ministrátio mortis, lítteris deformáta in lapídibus, fuit in glória ; ita ut non possent inténdere fili Israël in fáciem Moysi, propter glóriam vultus eius, quæ evacuátur : quómodo non magis ministrátio Spíritus erit in glória ? Nam si ministrátio damnátionis glória est multo magis abúndat ministérium iustítiæ in glória. 兄弟たちよ、これは、キリストによって、私たちが天主のみ前に抱いている確信である。自分自身から出たもののように、何事かを自分に帰する資格を、私たちはもっていない。いや、私たちに資格を与えたのは天主である。天主は私たちに、新しい契約の奉仕者となる資格をお与えになった。この契約は文字ではなく、霊のものである。文字は殺し、霊は生かすものだからである。石に刻まれた死の奉仕も光栄となった。それは空しいものではあったが、イスラエルの子らは、モイゼの顔の光栄をさえ見つめられなかった。それなら、まして霊の奉仕はどれほどの光栄であろうか。罪を定める奉仕が光栄なら、まして義の奉仕は光栄にあふれるばかりであろう。
Graduale. Ps. 33, 2-3. 昇階誦 詩篇 33ノ2-3
Benedícam Dóminum in omni témpore : semper laus eius in ore meo. 絶えず、私は主を祝し奉ることを望み、絶えず主の称讃を歌いまつる。
V/. In Dómino laudábitur ánima mea : áudiant mansuéti, et læténtur. V/. 私の霊魂は、主に誇りを置く、悲しむ者は、それを聞いて喜べ。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 87, 2. アレルヤ、アレルヤ。V/. 詩篇87ノ2
Dómine, Deus salútis meæ, in die clamávi et nocte coram te. Allelúia. 主よ、わが救いの天主よ、昼も夜も、私は主に向かって叫ぶ、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 10, 23-37. ルカ10ノ23-37
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Beáti óculi, qui vident quæ vos videtis. Dico enim vobis, quod multi prophétæ et reges voluérunt vidére quæ vos videtis, et non vidérunt : et audire quæ audítis, et non audiérunt. Et ecce, quidam legisperítus surréxit, tentans illum, et dicens : Magister, quid faciéndo vitam ætérnam possidébo ? At ille dixit ad eum : In lege quid scriptum est ? quómodo legis ? Ille respóndens, dixit : Díliges Dóminum, Deum tuum, ex toto corde tuo, et ex tota ánima tua, et ex ómnibus víribus tuis ; et ex omni mente tua : et próximum tuum sicut teípsum. Dixítque illi : Recte respondísti : hoc fac, et vives. Ille autem volens iustificáre seípsum, dixit ad Iesum : Et quis est meus próximus ? Suscípiens autem Iesus, dixit : Homo quidam descendébat ab Ierúsalem in Iéricho, et íncidit in latrónes, qui étiam despoliavérunt eum : et plagis impósitis abiérunt, semivívo relícto. Accidit autem, ut sacerdos quidam descénderet eádem via : et viso illo præterívit. Simíliter et levíta, cum esset secus locum et vidéret eum, pertránsiit. Samaritánus autem quidam iter fáciens, venit secus eum : et videns eum, misericórdia motus est. Et apprópians, alligávit vulnera eius, infúndens óleum et vinum : et impónens illum in iuméntum suum, duxit in stábulum, et curam eius egit. Et áltera die prótulit duos denários et dedit stabulário, et ait : Curam illíus habe : et quodcúmque supererogáveris, ego cum redíero, reddam tibi. Quis horum trium vidétur tibi próximus fuísse illi, qui íncidit in latrónes ? At lle dixit : Qui fecit misericórdiam in illum. Et ait illi Iesus : Vade, et tu fac simíliter. そのとき、イエズスは、弟子たちの方をふりむき、「あなたたちが見たことを見る目は、しあわせである。私はいう。数多くの預言者や王が、あなたたちの見ていることを見たいと望んだが見られず、あなたたちの聞いていることを聞こうと望んで聞けなかった」と、特におおせられた。すると、ある律法学士が立ち上がり、イエズスをこまらせようとして、「先生、永遠の生命をえるために、私はどうすればよいのですか?」とたずねた。イエズスが、「律法になんとかいてあるか。そこでなにを読んでいるのか?」とおたずねになると、「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」とかれは答えた。そこでイエズスは、「よく答えた。そうおこなえ。そうすれば生きるだろう!」とおおせられた。ところがかれは、自ら弁明しようとして、「私の隣人とはだれのことですか?」とたずねたので、イエズスはおおせられた。「イエルザレムからイエリコにくだろうとするある人が、強盗にであった。強盗は、その人の服をはぎ、傷つけ、半死半生にしておいて、去っていった。たまたま、一人の司祭がこの道をくだってきたが、それを見ながら道の反対側を通ってすぎ去ってしまった。またレヴィ人も通りかかったが、それを見てもおなじように道の反対側を通ってすぎ去ってしまった。ところが、旅の途中でそこを通りかかった一人のサマリア人が、それを見てあわれに思い、そばによって油とぶどう酒とを傷口にそそぎ、包帯して、自分のろばにのせ、宿につれて行って介抱した。その翌日、宿の主人に二デナリオをわたして、"この人を看病してください。費用がかさんだら、私が帰るとき払いますから"といった。あなたの考えでは、この三人のうち、強盗にあったその人にとって隣人は誰だと思うか?」とお問いになると、「その人をあわれんだ人です」と答えたので、イエズスは、「あなたもそういうふうにせよ」とおおせられた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Exodi 32, 11, 13 et 14. 奉献文 出エジプト32ノ11,13,14
Precátus est Moyses in conspéctu Dómini, Dei sui, et dixit : Quare, Dómine, irascéris in pópulo tuo ? Parce iræ ánimæ tuæ : meménto Abraham, Isaac et Iacob, quibus iurásti dare terram fluéntem lac et mel. Et placátus factus est Dóminus de malignitáte, quam dixit fácere pópulo suo. モイゼは、天主なる主の御前で祈った。なにゆえ、主よ、御民に対して怒り給うか。御怒りを治め給え、乳と蜜の流れる土地を与えようと御身の約束し給うたアブラハム、イザアク、ヤコブを思い出し給え。そこで主は御心を和らげ給い、御民に与えようと思し召した罰を下し給わなかった。
Secreta. 密誦
Hóstias, quǽsumus, Dómine, propítius inténde, quas sacris altáribus exhibémus : ut, nobis indulgéntiam largiéndo, tuo nómini dent honórem. Per Dóminum. 主よ、われらが、聖なる祭壇の上で、御身に捧げるいけにえを、御慈悲をもって受け入れ給え。そして、われらに赦しを下し、同時に、御名の光栄を輝かせ給え。天主として・・・。
Præfatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 103, 13 et 14-15. 聖体拝領誦 詩篇103ノ13,14-15
De fructu óperum tuórum, Dómine, satiábitur terra : ut edúcas panem de terra, et vinum lætíficet cor hóminis : ut exhílaret fáciem in oleo, et panis cor hóminis confírmet. 主よ、地は御業の実で満たされている。主は、パンと、人の心を楽しませるぶどう酒とを地より出し給い、人の顔に喜びを見せる油と、人の心を強めるパンとを出し給う。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Vivíficet nos, quǽsumus, Dómine, huius participátio sancta mystérii : et páriter nobis expiatiónem tríbuat et múnimen. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、聖なる奥義にあずかるわれらを生かし、赦しと保護とを下し給え。天主として・・・。

 


【報告】聖ピオ十世会日本では、2018年8月3日(初金)と4日(初土)は大阪で、5日と6日は東京で聖伝のミサを捧げました

2018年08月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月11日から15日まで大阪で小黙想会があります。

 8月3日(初金)と4日(初土)は大阪で、5日と6日は東京で聖伝のミサを捧げることができました。天主様に感謝します。

 大阪では、両日、御聖体の前で聖時間を持ちました。
 東京では堅振の準備をしました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fr Onoda:

8月の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 26人(内、子供6人)
女: 28人(内、子供7人)
計: 54人(内、子供13人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第11主日の御ミサをありがとうございました。
主日、特に聖霊降臨後の主日は小さな復活祭、洗礼の記念の日といえますとのこと、この日、洗礼をいただいたことがどのようなお恵みだったのか黙想することが出来ました。

耳を聴こえるようにしてくださったのは、それまでその大切さがわからなかったイエズス・キリストの教えを受け入れるようにして下さったお恵みであるというお話になるほどと思いました。

食べ物のことばかり言うこととか侮辱の言葉や悪い言葉や汚い言葉というのは、カトリックからすると動物のうめきごえのようなものだとうかがってハッと思いました。そして話すことができるようになるとは、人間らしい言葉を話すようになることだというお話が、心に深く入りました。そして、それは、単に口を開いて思ったことを口にするということとは違うことと思いました。

この日の聖福音は「耳が聞こえない・言葉がうまく話せない者をイエズス様が、開け!と唾のちょっとついた指で触れてくださって癒してくださる」というところでした。聖伝の洗礼式では、この時のイエズス様のやり方が反映されていると教えていただきました。

天主の声を聞けなかったのに聞こえて理解できるようになる、天主の掟を守ることが大切だとわからなかった人がわかるようになる、悪い言葉や汚い言葉を口にしがちなものが、良い言葉・やさしい言葉を口にすることが出来るようになる、それどころかそれまで話すことのなかった霊魂のことや愛ある言葉や祈りの言葉を話すようになれるなど、洗礼のお恵みとはどういうものであるか教えていただきました。

洗礼によって新しく生まれ、天主の子供(世継ぎ・嫡子)となるということは、それまでの動物のようにただこの世を生きているということから変えられて、もっと違う美しく人間らしい生き方をするようになるということとわかりました。もっとも美しい人間らしい生き方をされたのはイエズス様でありマリア様です。苦しみをもっとも受けられた二人は、どのようなことを耳にしても目にしても、すべてのことを深く心に留めて、天主の御旨を聞き入れて人間として話すにふさわしい言葉だけを話されたのだと、思いました。

(それは、天主の子であるイエズス様が、天主の子として生きる仕業を実際に生きてくださったことなのかもしれません、非常に大きな代償をお支払いくださって。)

あらためて自分のこれまでのあり方をいろいろ反省しました。深く黙想してその生き方を少しでもまねできますようにと思います。

御ミサの終了後にはいろいろな国のご出身の方々がいらしていることに気づかされました。
気さくに挨拶をしていただいてうれしく思いました。ご家族連れも多く、この昔から続いてきているごミサに大人と一緒に与る子供たちは、超自然の恵みとつながることを知らず知らず教えられ幸せだなと感じられました。

また6年も前からこのごミサに与りたかったけれど今日ようやく与れましたとおっしゃられた方は、とてもうれしそうでした。洗礼を受けていないけれど亡くなった祖母がカトリック信者でしたという方も見えていて、お祖母さまはこの方の為にいつも祈っていたに違いないと思いました。

今月は、次の主日も神父様が主日の御ミサを東京でも捧げてくださるとのこと、とてもお恵みの御ミサに続けて3週も与れること大変うれしいです。小黙想会のさなか、この暑さと夏休みの帰省混雑にもかかわらず、私たちのために新幹線での日帰りの往復はとても大変だろうと思いますのに、神父様、本当にありがとうございます。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

公教要理の授業をありがとうございました。
今回は前回に続いて堅振のことを教えていただきました。

中国人のご家族とアメリカ人のご家族の方々も御一緒に、20名ぐらいで学びました。
神父様は、幾つかの言語で説明してくださり、英語と日本語でくり返して講義してくださるのはとても大変だったと思います。(中国人の御主人様は奥様にその都度通訳して伝えておられました。)ほんとうにありがとうございます。

この日、感動したことがあります。神父様の「・・・畏れにはどういう畏れがあるかわかりますか?」という質問に答えて、アメリカ人のご家族の幼い可愛らしい女の子が「天国へ行くことが出来ないかもしれないという畏れがあります」(Fear of not go to Heaven)と、自分からすすんで答えられたことです。こんなに小さい頃から天国へ行くことが重要な事とパッと答えたことをすごい!と思いました。授業が終わって思わず、幾つなの?と聞いたらまだ七歳でした。

この日のお説教にしたがって考えると、この女の子はすっかり目が開かれているから天国があるということがわかっていて、ちゃんと口が開かれているから天国への望みを持っていると話せるのだと思いました。洗礼の恵みがしっかり刻まれていていることに感心しました。

幼い頃から、人生の目的を教えられて理解して、そのためにどうやって毎日を過ごすのがよいかを考え行動することができるということは、とても恵まれていると思いました。日本では普通の一般の家庭だったら、この世は永遠の命へ向かうための準備の場所だよって教えられることはまずないでしょう。超自然への感覚と畏敬を持っていないことはないはずですが、まかり間違ってこの世をどうやったら勝利者として生きられるか頑張りなさいと、教えこまれるかもしれません。お父様とお母様の愛と配慮によって初めから大切なことを気づかせていただけて、幸せだなと思いました。

講義の内容ですが、(お説教のなかでも堅振についてお話しいただきましたがそれを含めて)以下に簡単に纏めてみました。

◎堅振の7つの賜物(敬畏・孝愛・知識・剛毅・賢慮・聡明・上智)のうち、最初と最後が大切であることについて。

●敬畏が一番初めに与えられる恵みであるが、それが大切な理由は敬畏は私たちに主への畏れというものを与えてくださるものだから。

●その畏れには二種類があり、奴隷的畏怖(自分が罰を受けるのではないか・天国へ行けなくなるかもしれないという畏れ)と子女的畏怖(愛する人を悲しませてしまうのではないかという畏れ)がある。この畏れが最初に与えられる恵みとなり、ここから一歩ずつ昇っていくことになる。聖霊は、子供が親を愛するような主への畏れ(そして妻が夫を愛するような畏れ)をくださる。

●最後に与えられる上智が大切な理由は、上智(知恵)とは深い原因から物を見ることができることであり、物事の問題に対して最も深い原因までたどることで解決をすることができるということであるから。最も深い原因とはイエズス・キリストのことであり、イエズス・キリストを語る人こそ本当の知恵ある人である、そしてそれは至福八端の”平和を作りだす人は幸いその人は天主の子となるであろう”という言葉によってあらわされるように、上智の賜物を受けることが洗礼の恵みの完成ともいわれる所以となっている。

◎なぜ七つの恵みがあるかということについて。
●聖トマス・アクィナスによると、人間には「真理を知る事」「判断」「欲望」という三つの能力があり、この三つのそれぞれを完成させるために聖霊の七つの賜物をいただく。
●知るべき真理には、観想的真理と、物にかかわる実践的なことの真理との、二つがある。(観想的真理には聡明、実践的なことの真理には賢慮)
●判断には、観想的判断と、物にかかわる実践的なことの判断との、二つがある。(観想的判断には上智、実践的なことの判断には知識)
●欲望には、他人の欲望(他人に対して正しいことを望むこと)についてのことと、自分に関する二種類の欲望(自分が正しいことをしようする欲・危険なことに対しての欲)についてのことがある。(孝愛と敬畏と剛毅)

◎聖霊の7つの賜物とはそれぞれどのようなものか、聖霊の七つの賜物があると私たちはどのようになるのか、聖霊から七つの賜物を受けるになぜ順序があるのか、そしてそれぞれの賜物と至福八端との関係はどのようなものか?

●敬畏(the fear of the Lord, timor Domini)は、(先に説明を受けた二種類の畏れのことだが)まず初めに与えられて、私たちに心の貧しさを与えてくれる、それは自分に頼らないことであり、謙遜になることである。『心の貧しいものは幸せである、天の国は彼らのものである。』

●孝愛(piety, pietas)とは、敬畏が子供としての畏れを与えてくださるので、孝愛の賜物により天主を父親として見て隣人を兄弟姉妹としてみることができるようになる、それにより人は人にたいして柔和となる。『柔和な人は幸せである、彼らは地をゆずり受けるであろう。』

●知識(knowledge, scienta)とは、地にある人間以下の被造物に関することで、知識の賜物により被造物とは天国へ行くための手段・道具に過ぎず目的となるものでないことを知るようになる。それにより、被造物を悪く使ってしまい罪の機会・道具としていることに気づかせられるので、痛悔の涙を流すようになる。『悲しむ人は幸いである、彼らは慰めを受けるであろう。』

●剛毅(fortitude, fortitudo)とは、(罪の機会を乗り越えて)主の御旨を果たそうと思うとき聖霊は力をくださるがそれが剛毅で、剛毅の賜物により聖なる主の御旨を果たしたいという飢え渇きのような強い望みを起してくださる。『正義に飢え渇く人は幸いである、彼らは飽かされるであろう。』

●(ここまでが第一のレベルであり、ここから次の段階へと進む)
●賢慮(counsel, consilium)とは、アドバイスという意味で、難しい判断について非常に賢いアドバイスを聖霊が教えてくれる。命にかかわる危険な問題をどのように解決するかというときなど、聖霊は賢慮の賜物により互いに憐れみ深くあるようにということを教えてくださる。『あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみをうけるであろう。』

●聡明(understanding, intellectus)とは、賢慮の賜物を受けて、そこから天主の玄義の中に深く入ることができるようになること。Isee! わかった!、中を読みこむ、行間を読む、などの表現があるように、天主の神秘を理解し見るようになる。『心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう。』

●上智(wisdom, sapienta)は、聡明からくるその知恵によって全てを天主のもとに秩序づけるようになれること。それにより天主を味わうことは、なんと甘美であることか。上智の賜物を受けることで(先に説明を受けたように)秩序をつくり平和をもたらす。『平和のために励む人は幸せである、彼らは天主の子らと呼ばれるであろう。』

●『正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼らのものである。』
●聖アウグスチヌスは、「聖霊の七つの賜物を受けることにより、至福八端により容易に到達できる」と言っている。

以上です。

私たちが洗礼によって天主の掟を守り人間らしく話せるようになってのち、さらに本当に天主の子となれますよう、このような賜物を用意してくださっていることを、学ぶことができました。

聖なるカトリック教会は、堅振の秘蹟により聖霊の七つの賜物を与えてくださって、それにより天主の子となれるようにと、計らってくださっているのだということがわかりました。

神父様、とても難しかったのですが、素晴らしいお話をありがとうございます。

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(時間がなくできなかった、聖霊の12の実りについて、メモだけここに記します。)
(ガラツィア5章)

「聖霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、純潔である。これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章22-23節)

聖霊の12の実りは、ブルガタ訳では、次の通りです。
caritas, gaudium, pax, patientia, benignitas, bonitas, longanimitas, mansuetudo, fides, modestia, continentia, castitas.

ところが、ギリシア語ではこれが次の九つしかありません。
αγαπη, χαρα, ειρηνη, μακροθυμια, χρηστοτης, αγαθωσυνη, πιστις, πραοτης, εγκρατεια.

そこで、バルバロ神父様も九つしか訳してありません。

caritas, αγαπη, 愛徳、愛 charity
gaudium, χαρα, 喜び joy
pax, ειρηνη, 平和 peace
patientia, μακροθυμια, 忍耐 patience
benignitas, χρηστοτης, 親切、仁慈 begninity, kindness
bonitas, αγαθωσυνη, 善良さ goodness
longanimitas, (対応なし) 堅忍、long-suffering
mansuetudo, πραοτης, 柔和 meekness
fides, πιστις, 誠実 faith
modestia, (対応なし)慎み深さ、modesty
continentia, εγκρατεια. 節制 continence
castitas (対応なし)貞潔 chastity


教父たちによると、黙示録の「太陽に包まれた婦人」とは、天主の聖母終生童貞なる聖マリアを意味します。そのとき、十二の星のついた冠は、聖霊の十二の実り(ガラチア五章)です。
「霊の実は、愛(caritas)、よろこび(gaudium)、平和(pax)、寛容(patientia)、仁慈(benignitas)、善良(bonitas)、忍耐(longanimitas)、柔和(mansuetudo)、誠実(fides)、慎み(modestia)、節制(continentia)、貞潔(castitas)で…」


【報告】
イエズス様から特別に愛され、第2のキリストとなるように特別に召された司祭の方々の為にお祈りさせて頂きます。
ロシアでは200年ぶりにロシア人のカトリック司祭が誕生されたという事で素晴らしいですね。母国語で霊的指導を受けることができるようになるというのは、
現地のカトリック信徒の方々にとって非常に大きな御恵み、利益になる事と思います。
また新しい総長様とその補佐の司教様、神父様方、また前任の総長様とその補佐の神父様方、アジア管区の新旧管区長様のために、拙いながら霊的花束をお捧げさせて頂きます。
そしてイエズス様が、「私の羊を牧せよ」と直々に任命された教皇様の為に、お祈りさせて頂きます。
これほどまでにイエズス様から愛された教皇様が、イエズス様が唯一お求めになっている「私を愛しているか」という問いに、愛を以てお応えする事ができますように、マリア様の汚れなき御心を通してイエズス様の聖心の愛へと、全ての司教様、神父様方を指導して導いて下さいます様に。そしてその第2のキリストとなられた司教様、神父様方の模範を以て、全てのカトリック信者達を真のカトリック信仰へと導いて下さいます様に、マリア様の汚れなき御心に、そして「司教、司祭の為にたくさん祈って下さい」と仰った秋田のマリア様にお祈りさせて頂きます。




ドイツで購入した新しい燭台です。聖ピオ十世会の大阪の聖母の汚れなき御心聖堂に設置しました。

2018年08月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんばんは!

 聖ピオ十世会の大阪での聖堂のために新しい燭台をドイツで購入してきました。写真をご紹介いたします。





次の大阪でのミサは、8月11日(土)山の日 から 8月18日(土)までです。




天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖霊降臨後第十一の主日(二級祝日 典礼色:緑)の固有分をご紹介します

2018年08月08日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第十一の主日(二級祝日 典礼色:緑)の固有分をご紹介いたします。
ミサ聖祭
<入祭文>は、天主の唯一なる教会の偉大さを歌う。天主が唯一にて在すように、天主の民も一つであり、教会も一つである。神秘的なこの事実の原因は、キリストの神秘、すなわち、聖パウロが明らかに語っているその奥義である<書簡>。

Dominica Undecima post Pentecosten 聖霊降臨後第十一の主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 67, 6-7 et 36. 入祭文 詩篇 67ノ6-7,36
Deus in loco sancto suo : Deus qui inhabitáre facit unánimes in domo : ipse dabit virtútem et fortitúdinem plebi suæ. 天主は、その聖所に君臨し給う。かれは(捕らわれ人を)平和の家庭に集め、御民に力と勇気とを与え給う。
Ps. ibid., 2. 詩篇67ノ2
Exsúrgat Deus, et dissipéntur inimíci eius : et fúgiant, qui odérunt eum, a fácie eius. 天主は、起ち給い、その敵は散り、天主を憎む者は御顔の前より逃れ去らんことを。
V/.Glória Patri. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Deus in loco sancto suo : Deus qui inhabitáre facit unánimes in domo : ipse dabit virtútem et fortitúdinem plebi suæ. 天主は、その聖所に君臨し給う。かれは(捕らわれ人を)平和の家庭に集め、御民に力と勇気とを与え給う。
Oratio. 集祷文
Omnípotens sempitérne Deus, qui, abundántia pietátis tuæ, et merita súpplicum excédis et vota : effúnde super nos misericórdiam tuam ; ut dimíttas quæ consciéntia metuit, et adícias quod orátio non præsúmit. Per Dóminum. 全能永遠の天主よ、御身は、御身に祈り奉る人々の、功徳と望みとにいやまさる無限の慈悲を下し給う。願わくは、われらの良心を恐れさせる罪を赦し給い、われらが敢えてこい願い奉る聖寵を下し、御あわれみをわれらの上に注ぎ給わんことを。天主として・・・。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corínthios. 使徒聖パウロのコリント人への書簡の朗読。
1. Cor. 15, 1-10. コリント前書 15ノ1-10
Fratres : Notum vobis fácio Evangélium, quod prædicávi vobis, quod et accepístis, in quo et statis, per quod et salvámini : qua ratione prædicáverim vobis, si tenétis, nisi frustra credidístis. Trádidi enim vobis in primis, quod et accépi : quóniam Christus mortuus est pro peccátis nostris secúndum Scriptúras : et quia sepúltus est, et quia resurréxit tértia die secúndum Scriptúras : et quia visus est Cephæ, et post hoc úndecim. Deinde visus est plus quam quingéntis frátribus simul, ex quibus multi manent usque adhuc, quidam autem dormiérunt. Deinde visus est Iacóbo, deinde Apóstolis ómnibus : novíssime autem ómnium tamquam abortívo, visus est et mihi. Ego enim sum mínimus Apostolórum, qui non sum dignus vocári Apóstolus, quóniam persecútus sum Ecclésiam Dei. Grátia autem Dei sum id quod sum, et grátia eius in me vácua non fuit. 兄弟たちよ、先に私があなたたちに告げ、あなたたちが受けてそれに踏み止まった福音を、私は再びあなたたちに示そう。あなたたちが空しく信じないで、私が伝えたままを守るならば、それによって救われるであろう。私が第一にあなたたちに伝えたことは、私自身受けたことであって、すなわち、キリストが、聖書の録すとおりわれわれの罪のために死に、葬られ、聖書に記す通りに三日目によみがえり、ケファにあらわれ、また十二人にあらわれ給うたことである。次に、五百人以上の兄弟に同時にあらわれ給うた。その中には、死んだ者もあるが、ほとんどは今なお生きている。次にヤコボにあらわれ、それからすべての使徒に、最後には、月足らずのような私にもあらわれ給うた。私は天主の教会を迫害した者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない、使徒のうちでもっとも小さい者である。しかし、天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私が受けた恩寵は空しくならなかった。
Graduale. Ps. 27, 7 et 1. 昇階誦 詩篇 27ノ7,1
In Deo sperávit cor meum, et adiútus sum : et reflóruit caro mea, et ex voluntáte mea confitébor illi. 私の心は天主に希望をかけ、こうして私は助けを得る。私の肉は若返った。故に主よ、私は心を尽くして御身をたたえ奉る。
V/. Ad te, Dómine, clamávi : Deus meus, ne síleas, ne discédas a me. V/. 主よ、わが天主よ、御身に叫び奉る。黙し給うな、遠ざかり給うな。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 80, 2-3. Exsultáte Deo, adiutóri nostro, iubiláte Deo Iacob : súmite psalmum iucúndum cum cíthara. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。詩篇 80ノ2-3  われらの力なる天主をたたえ奉れ。喜びの中に、ヤコブの天主をほめよ。竪琴をとって喜びの讃美を歌え、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Marcum. マルコによる聖福音の続誦。
Marc. 7, 31-37. マルコ 7ノ31-37
In illo témpore : Exiens Iesus de fínibus Tyri, venit per Sidónem ad mare Galilǽæ, inter médios fines Decapóleos. Et addúcunt ei surdum et mutum, et deprecabántur eum, ut impónat illi manum. Et apprehéndens eum de turba seórsum, misit dígitos suos in aurículas eius : et éxspuens, tétigit linguam eius : et suspíciens in cælum, ingémuit, et ait illi : Ephphetha, quod est adaperíre. Et statim apértæ sunt aures eius, et solútum est vínculum linguæ eius, et loquebátur recte. Et præcépit illis, ne cui dícerent. Quanto autem eis præcipiébat, tanto magis plus prædicábant : et eo ámplius admirabántur, dicéntes : Bene ómnia fecit : et surdos fecit audíre et mutos loqui. それからイエズスは、ティロの地方を去って、シドンを通り、デカポリ地方の中央を経て、ガリレアの海辺においでになった。人々は、どもりで耳の聞こえない人を連れて来て、按手してくださいと願った。イエズスは、その人ひとりを群衆の中から連れ出し、その耳に指を入れ、またつばをしてその舌にさわり、天を仰いで吐息をつき、その人に「エッファダ!」とおっしゃると・・・それは開けよという意味である・・・その耳はひらけ、すぐ舌のもつれはとけ、正しく話せるようになった。そこでイエズスは、だれにもいうなと人々をいましめられたけれど、いましめられればいましめられるほど、なおさらますます言い広めた。人びとは大いに感嘆して、「あの方はすべてをよくなさった。聞こえない耳を聞こえさせ、啞の口をひらかれた」といった。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 29, 2-3. 奉献文 詩篇  29ノ2-3
Exaltábo te, Dómine, quóniam suscepísti me, nec delectásti inimícos meos super me : Dómine, clamávi ad te, et sanásti me. 主よ、私は主をあがめ奉る。主は私を迎えとり、私を、敵の喜びに委ね給わなかった。主よ、私は主に向かって叫び、主は私を癒し給うた。
Secreta. 密誦
Réspice, Dómine, quǽsumus, nostram propítius servitútem : ut, quod offérimus, sit tibi munus accéptum, et sit nostræ fragilitátis subsidium. Per Dóminum. 主よ、願わくは、慈しみの御目を、下僕(しもべ)らの奉仕に下し給え。われらの供え物が嘉せられ、われらの弱さの支えとならんことを。天主として、・・・。
Præfatio 序誦
Præfatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Prov. 3, 9-10. 聖体拝領誦 箴言  3ノ9-10
Hónora Dóminum de tua substántia, et de prímitus frugum tuárum : et implebúntur hórrea tua saturitáte, et vino torculária redundábunt. 汝の持ち物によって、主をあがめよ。汝の収穫の初穂を捧げよ。そうすれば、汝の倉は満たされ、汝の酒ぶねは、ぶどう酒であふれるであろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sentiámus, quǽsumus, Dómine, tui perceptióne sacraménti, subsídium mentis et córporis : ut, in utróque salváti, cæléstis remédii plenitúdine gloriémur. Per Dóminum nostrum. 主よ、秘蹟を拝領し奉るわれらに、霊肉の慰めを知らせ、われらの霊肉を共に救い、天のこの良薬の完き効果によって喜ばせ給え。天主として、・・・。

2018年5月20日(主) 聖霊降臨大祝日 「教会は聖霊降臨をどのように祝うことを望んでいるか?」

2018年08月08日 | お説教・霊的講話
2018年5月20日(主日)聖霊降臨の大祝日
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2018年5月20日、聖霊降臨の主日の大祝日を祝っています。

今日のこのミサの後には、14時頃からいつもの通り公教要理をしたいと思っています。
今回は、今度のイエズス様の聖心のミサの歌の練習をする事を提案します。16時からは聖霊降臨の晩歌があります。明日は朝の7時からミサがあります。

6月は次のミサは、3日と17日です。そして先ほど信徒会長から、とても心の温まる非常に嬉しいご提案があり、6月17日には皆さんでお祝いをして下さるという事を、大変非常に感謝しております。どうぞ多くの方々とご家族の方々や、お友達の方々をお招きされて、これを機会に、初めて聖伝のミサに与る機会となってくれればと願っております。感謝しています。

7月には聖ピオ十世会の総会がありますので、ぜひその総会の成功の為にもお祈り下さい。



“Veni Sancte Spiritus.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖霊降臨の大祝日です。教会は霊的に私たちを、聖ペトロ大聖堂に、バチカンにある聖ペトロ大聖堂に呼び寄せて、そこでこの聖霊降臨の祝日を祝う事を望んでいます。

⑴ ではこの聖霊降臨の日に、歴史的に一体何があったのでしょうか?

⑵ 次に、では教会は私たちに、この日をどのように祝う事を、何を私たちがする事を望んでいるのでしょうか?

⑶ そして第3に、その為には私たちは何をするか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

⑴ 愛する兄弟の皆さん、今日このカトリック教会で、聖霊降臨が最も、復活祭の次に、クリスマスよりも更に盛大に祝われる理由は、これは教会が誕生した、公に生まれて出た、誕生した日だからであります。この日に、イエズス様が約束された通り、聖霊が降臨されました。その事情については、今日の使徒行録に詳しく書かれています。

イエズス様が昇天されたその日、「天と地の全ての権威は、私に与えられている。全世界に行って、諸国に教えよ。私の弟子を作れ。聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。もしも信じて洗礼を受けるなら救われ、そうでなければ滅ぼされる」と言われました。そして「エルサレムに残って、聖霊の来るのを待ち望め」と言われました。その時に弟子たちは非常に喜び勇んで帰ってきました。

マリア様を中心に、使徒たちは聖霊の降臨し給うのを祈って、祈って、祈って、あたかも黙想会を開いたかのように、おそらく聖ペトロの指導のもとに、そしてマリア様のお祈りを中心に、聖霊の降臨を求めていました。最後の晩餐の高間で、使徒たちは心を1つにして熱烈に祈っていました。

天地が創造されたその最初の日、イエズス様が御復活されたその週の最初の日、つまり今日、聖霊は、イエズス様が昇天されて10日の後に、五旬祭のこの日に、弟子たちの上に降臨されました。その時に強い風の音がして、家を満たしました。すると火の玉のようなものが落ちてきて、それがマリア様の上に舌の形をとって、それから弟子たちの上に使徒たちの上に来ました。

弟子たちは聖霊に満たされて、全く人が変わったようになりました。今まで無知であった、あるいは何も理解ができなかった、あるいは恐れていた、あるいは世間体を気にしていた、あるいは迫害を恐れていた、あるいは何があるか分からなかった不安だったものが、いきなりイエズス様への信仰に満ち溢れて、生き生きとしてそして燃え立って、イエズス・キリストへの愛の為にならば、この地上のものは全てを失っても構わないであるかのように、公に出て、「よく聞き給え!あなたたちが50日前に十字架に付けたイエズス・キリスト、ナザレトのイエズス、彼は、天主の力によって復活した!私たちはそれの生き証人である、目撃証人である。これはこの同じイエズス様が、私たちの主イエズス・キリストである、という事を証している!」と、「さぁ、回心して洗礼を受けなさい!」と勇敢に、大胆に宣教をしました。

それを聞いていた人たちは、「何だこの人たちは?ガリレア人ではないか。ナザレトから来た者ではないか。しかし私たちの祖国の言葉で聞いてる。彼らが話すと、私たちは自分の国の言葉で聞いているので理解できる。」

その光景に、奇跡的な光景に打たれた人々は、3000人、3000人その日に洗礼を受けました。カトリック教会が公に誕生し、公にユダヤ人たちの中に確立しました。

⑵ では今日この日に、私たちに教会は何を求めているのでしょうか?

聖ペトロ大聖堂に私たちを呼び寄せたという事はつまり、これは諸国の色んな国々からの巡礼者を集める、聖ペトロのお墓に集めていたこの教会に私たちを呼び寄せるという事で、それは信仰の土台である聖ペトロのもとに、諸国の言葉を話す色々な民が1つに集まって、そして同じイエズス・キリストの信仰を語る、天国の話をする、超自然の命に燃えて、天国への望みによって生きる、という事を表しています。

今日、昔からこれは聖書の言葉なのですけれども、教会がいつも唱えてきた祈りを、ミサの中でも唱えました、“Veni Sancte Spiritus.”「聖霊来たり給え。」

初代キリスト教信者は、イエズス様の再臨を求めていた為、“マラナ・タ”「主よ、来たり給え」と言いましたが、それと同時に、「聖霊来たり給え」とも祈っていました。この非常に古来からの由緒ある祈りは、私たちは教会の聖伝に従って、跪かせて祈らせました。

ですから私たちはこの歌を歌っている間、教会の伝統に従って、跪いて、「聖霊来たり給え。信者の心に満ち給え。主の愛熱の火を我らに燃えしめ給え」と祈ったのです。なぜかというと、教会は今日この日に、私たちが聖霊の愛の火を、天主の愛の賜物を全て受ける事を望んでいるからです。

この日に、全く生まれ変わったかのように、見違えたかのように、生き生きとしたイエズス・キリストへの信仰と、イエズス様への愛に満ちて生活を始めるように、「さぁ、聖霊に満たされよ。そしてこの聖霊に満たされて、愛の命を歩め」と望んでいます。まさにこれこそ、イエズス様が私たちに望んでいた贈り物でした。

天主聖父は、永遠の昔から、御自分の最高の善を完璧に、余す事なく理解しました。その理解は御自分の中に御言葉として宿され、そのそれは天主聖子でした。

天主の御言葉、天主の聖子。そしてこの聖父の完全な理解である、生き写しである天主の聖父の実体、生ける聖子は、聖父を完全に理解します。最高の善、無限の善である事を理解し、そしてこの聖父から生まれたという事を理解し、そしてその聖父の善を愛します。

聖父は聖子を、自分の生き写しである最高の善、無限の善である事を理解して、聖子を愛します。

この聖父と聖子の愛の交流が、これが実体である天主の愛、聖霊です。

天主聖父、聖子、聖霊は、三つで唯一の天主。唯一の天主は愛の構造を永遠の昔から取っています。

そしてこのイエズス様は私たちに、天主聖霊を、この天主の愛を、全て贈り物として聖父と聖子から与えようと、全て与えようと、完全に与えようと思っております、「もしも私を愛するなら、私の言葉を守るだろう。そうすれば私は聖霊と共に、お前たちの所に住処を定める」と。

私たちはこの聖霊を全て、宝物として受ける事ができる事となりました。このこれこそ、この世の他のいかなる宝にも勝る贈り物です。なぜかというと、天主御自身が与えられるからです。

しかし残念な事に私たちは、この宝物を受けるのを拒んできました。天主聖霊が私たちに、贈り物を持ってせっかくやって来たにもかかわらず、私たちはそれを、「嫌だ!それよりも自分のやりたい事をする。」自分のコンピューターゲームや、インターネットや、あるいは罪を、あるいは肉欲を、あるいは嘘を、あるいはその他を自分の都合を優先してきました。

その為に聖霊は、私たちの心にせっかくの贈り物を、天主への愛と最高のプレゼントを持って来たにもかかわらず、もらってもらう事ができずに、非常に悲しい思いをしてきました。

私たちは毎年聖霊降臨の祝日を祝ってきましたが、しかし聖霊降臨の祝日には、「聖霊来たり給え」と祈る代わりに、自分のやりたい事をやりたいと思い、聖霊を今まで受ける事ができませんでした、思うように受ける事ができないできました。イエズス様を思うように愛する事ができないできました。

⑶ ですから今日こそ、今日この2018年の聖霊降臨の大祝日こそ、「どうぞ、聖霊来て下さい。私の心を浄めて下さい。今まで私の祈りの足りなさをどうぞ補って下さい。」「マリア様、マリア様どうぞ私を助けて下さい。マリア様は聖霊を一度も拒んだ事がありませんでした。どうぞマリア様の御取次ぎによって、私たちの心に聖霊の賜物を充満を与えて下さい。どうぞ取次いで下さい。聖霊の花嫁であるマリア様、お祈り下さい」とお祈りする事に致しましょう。

ぜひ今日の御聖体拝領は、マリア様と共に、イエズス・キリストの御体を受ける時に聖霊をも全て受ける事ができるように、お祈り致しましょう。

“Veni Sancte Spiritus.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2018年5月19日(土)聖霊降臨の前日のミサ 「聖霊を受けるために、聖霊降臨の前日に教会が促していることとは?」

2018年08月07日 | お説教・霊的講話
2018年5月19日(土)聖霊降臨の前日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年5月19日、聖霊降臨の前日のミサをしています。

今日は聖ピオ十世会の会員は大小斎を守る日で、聖霊降臨の特別の準備の日です。そこで今日はミサの後に、私たちは5月はここの御聖堂ではまだする事ができなかった、御聖体降福式を行ないたいと思っています。どうぞ御聖体を讃美なさって下さい。特に北朝鮮のミサイルが色々打たれた時から私たちが御聖体降福式を始めて、ぜひ日本を守って下さるようにお祈りをすると、不思議な事に見かけ上は見るからには、何かそのような危機が今、より少なくなっているような印象を受けます。

ぜひ私たちもこの御聖体降福式を続けて、本当に守られますように、そしてミサが続けられますように、司祭が安全に移動ができますように、御聖体降福式を捧げたいと思っています。

次のミサは、6月1日の初金曜日と2日の初土曜日です。



「私は聖父に祈ろう。聖父は別の慰め主を送って下さるだろう。それはこの世が受ける事ができない真理の霊が、あなたたちに永遠に留まる為である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日教会は、明日の偉大な大祝日の出来事を準備する為に、特別のミサを捧げています、聖霊降臨の前日のミサを捧げています。

⑴ そこで、聖霊降臨には一体どんな事が起こったのか?

⑵ そして教会は一体、今日この御ミサでどんな事を私たちに求めているのか?2つ、洗礼の感謝と、そして聖霊降臨の前日の準備と、その2つをどうやって求めているのか?

⑶ そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。特に来月の初土曜日には、初土の信心として15分の黙想には、この聖霊降臨の玄義を黙想する事を提案したいと思っていますので、どうぞ明日の準備の為にも、初土曜の信心の為にも、聖霊降臨の神秘を深く黙想する恵みを乞い求めて下さい。

⑴ では、聖霊降臨とは一体どんな事があったのでしょうか?

皆さんもご存知のように、この世界を創造した天主は、永遠の昔から三位一体でした。そして永遠の未来に至るまで三位一体です。真の天主とは、三位一体の天主で、聖父・聖子・聖霊です。

聖父は、御自分の事を完全に把握して理解して、その御自分の理解した、自分のその知的な、純粋な知的な理解を、1つの言葉で表わします。その自分御自身の事を、自分の知性の中に宿します。それが天主の御言葉であって、天主の聖子です。天主の聖子は天主聖父の全き輝き、その映像、その完全な理解なので、天主聖父は聖子をこよなく愛します。

天主聖子も、天主聖父を完全に理解して把握して、そしてその天主聖父が最高の善である事を理解して、聖子は聖父を愛します。

そして聖子と聖父の間の愛の交流が、実体なるこの愛が、天主聖霊です。

この天主三位一体は愛の構造を持っていて、そして聖父と聖子と聖霊は、唯一の天主です。

聖子イエズス・キリストは私たちの元を離れる前に、御自分の人間として見える姿で私たちの元から発たれる前に、「別の慰めの主を送ろう」と「聖父に求めよう」とお約束されました。イエズス様御自身も私たちを慰めて下さる慰め主でもありました。しかし御自分が聖父の元に行って、私たちの為に天国の場所を準備して下さり、天主聖父の前で私たちの為に祈り取次いで下さる為に、天に昇らなければならない。御自分の代わりに、聖霊を送って下さる事を約束して下さいました。

イエズス様は、オリベト山の山頂から弟子たちを祝福して昇天される前に言いました。
「私には天と地の全ての権威が与えられている。行って、全世界に行って私の教えた事を教えよ。聖父と聖子と聖霊との御名において洗礼を授けよ。もしも信じて洗礼を受けるなら救われ、そうでなければ滅ぼされる。天と地の全ての権威が私に与えられている。」

つまり、私こそが真の救い主であり、真の天主であり、全ては私の元に集められなければならない。その最高の権威をお前たちに、特に使徒たちに、そして使徒の後継者である司教・司祭に与える。恐れるな、全世界に行け。私の始めた仕事を完成させよ。

私はお前たちと共に世の終わりまで常にいる。全世界を聖父と聖子と聖霊との御名によって聖化せよ、浄めよ、天国に導け。全世界にイエズス・キリストの御名を知らしめよ。

イエズス・キリストが愛されるように、イエズス・キリストに従うように、イエズス・キリストの福音に従うようにせよ。イエズス・キリストが真の天主である事を、天主は愛である事を、そして天主が私たちを極みなく愛しておられるという事を伝えよ。

イエズスのこの愛を信じるように伝えよ。そして全被造物が、人間が、全ての人々が、このイエズス・キリストを信じ、天主が愛である事を信じ、そして天主を愛で以て愛し返す事を指導せよ。その為にお前たちに全ての力を与える、ということをイエズス様は仰り、三位一体の御名によって祝福して、天に昇られました。

その後、弟子たちは聖福音によると、喜びに満ちて帰ってきました。10日の間、マリア様を囲んで、聖福音によると、弟子たちは一生懸命聖霊の降臨し給うのを祈り、懇願していました。

明日、週の最初の日、この天と地が最初に創造されたその最初の日、イエズス様が復活されたその日、聖霊が降臨されます。

朝の9時、その時に風がゴーゴーとなる音がして、天から聖霊が火の形で弟子たちの上に下りました。まずマリア様を通して、次に弟子たちに、使徒たちに。

聖霊を受けると、弟子たちは全く人が変わったようになりました。イエズス・キリストの愛に燃えて、「イエズス・キリストが真の救い主であり、真の天主である」という事を恐れなく人々に教えました。

するとそれを見て打たれた五旬祭をお祝いに来たユダヤ人、あるいは祖国から集まった人々は、彼の、特に聖ペトロの話を聞いて、3000人が洗礼を受けました。そこで聖霊降臨は、御復活の大祝日と共に、洗礼を受けるべき日と教会ではなっています。

⑵ では、聖霊降臨のその前日に、教会は私たちにどんなメッセージを送りたいと思っているのでしょうか?

まずミサのテキストをご覧下さい。指定巡礼教会にラテラノ大聖堂、ヨハネ大聖堂、救世主大聖堂が選ばれています。そこには大きな洗礼台があって、そして復活の大祝日の前日の徹夜祭にも集まって、洗礼式を行った場所です。そこに霊的に私たちが呼び集められています。私たちはもう一度、「聖霊によって洗礼を受けた、霊と水によって生まれ変わった者である」という事を思い出させます。

元来この前日のミサは夜中に、真夜中に行われていました。ですから光の話、あるいは洗礼の話、水で浄められる話、という言葉がテキストでミサの中で読まれ、私たちはお祈りします。

書簡では、使徒聖パウロが洗礼の話をした事が読まれます。

「え?私は洗者聖ヨハネの洗礼しか知らなかった。」「いやいやいや、洗者聖ヨハネは罪の償いの為の準備の洗礼なんだ。本物の洗礼は、イエズス・キリストが制定した、聖父と聖子と聖霊による洗礼だ。イエズス・キリスト様のこれこそが、ヨハネではなくイエズス・キリストの洗礼だ。これこそが本物の洗礼だ。」そして彼らは洗礼を受けると、それによって水と霊によって洗礼を受けると、聖霊を受けて言葉を、新しい言葉を諸国の言葉を話して、主を讃美する事になります。

私たちも洗礼を受けた後に、もうこの世の世俗の話ではなく、イエズス・キリストの真理の話と、イエズス・キリストを愛する話と、天国の話と、そして永遠の命の話と、霊魂の救いの話を、罪の償いの話をするようになりました。使徒たちが全く人が変わったように、世間体ではなく、イエズス・キリストをどうやってお喜ばせる事ができるか、イエズス・キリストの聖心にどうやったら適う者となる事ができるか、道具となる事ができるか、と言うようになりました。

洗礼を受けて聖霊を受ける、そして私たちは、使徒たちが人が変わったように、新たな人となりました。イエズス・キリストを着る者となりました。その事を私たちに「思い出せ」と言っています。

それと同時に教会は、聖霊を受ける準備をさせています。洗礼と聖霊は日本語では名前が似ているのでこんがらがってしまいますが。この聖霊降臨の前日において、イエズス様の御言葉が思い出されました。
「私の掟を守る者こそが、私を愛する者だ。私を愛する者は聖父によって愛されるだろう。私は彼を愛して、彼に私自身を示す。私は彼に居り、彼も私に於いて居る。」

イエズス様の愛に満ちた言葉に私たちは、深い言葉を私たちはどれほど黙想しなければならない事でしょうか。

イエズス様は御自身の愛である聖霊を私たちに下さります。そしてその聖霊を受けた私たちが、イエズス様を愛する事ができるように、イエズス様の掟を守る事ができるように、全てを超えて天主を愛し、天主を愛するが故に隣人を我が身の如く愛する事ができるように、天国の御国の事を求めて生きる事ができるように、「もはや我にとりて生きるはキリストなり。私が生きるのではなく、キリストこそが私において生きる」と言う事ができるように。

「あぁ、」しかし私たちは、洗礼は受けたものの、聖霊降臨を望むものの、どれほど残念な事に、聖霊を悲しませた事でしょうか。罪を犯し、「本当ならばイエズス様の御旨はこうだ。」「イエズス様をお喜ばせする事はこうだ」と知りつつも、自分の好きな事をしたり、あるいはしてはいけない事を、するべきではない事に身を染めたり、あるいはそれに時間を使ったり、あるいはイエズス様が悲しまれるような事をしてしまったり、どれほどイエズス様と聖霊を悲しませてしまった事でしょうか。私たちの行いと、言葉と、そしてすべき事をしなかった事、怠りなどは、どれほど聖霊の御恵みを、与えて下さろうとする御恵みを拒否してきつつあった事でしょうか。

私は確かに洗礼を受ける時に、「悪魔を捨てる。その栄華を捨てる。その業を捨てる」と言いつつも、その約束を守りきれないで来た憐れな罪人でありました。

ですから今日は、この聖霊降臨の前日において教会は、「さぁ、もう一度洗礼の約束を新たに、天主を信じ、イエズス・キリストを信じ、聖霊を信じ、そして悪魔と悪魔の業とその全ての栄華を捨てよう。これからは聖霊の良き道具となろう」と決心するように促しています。

⑶ その為に一体私たちはどうしたら良いでしょうか?

私たちの、全く聖霊を受ける事ができるように、そして洗礼の約束をよく守る事ができるように、私たちの行くべきところは1つです。それはマリア様の汚れなき御心です。聖霊の花嫁、聖霊の生けるイコン、聖霊を決して悲しませる事がなかった、イエズス・キリストを悲しませる事がなかった、天主の御母、汚れなき童貞聖母マリア。その汚れなき御心に私たちは行く事に致しましょう。そしてマリア様の御取次ぎによって、私たちに聖霊が与えられますように、洗礼の決心を守る事ができますように、約束を守る事ができますように、お祈り致しましょう。そうすればイエズス様を愛する事になり、聖父は私たちを愛して下さる、そしてイエズス様は私たちに御自身を現して下さるでしょう。

「私は聖父に祈ろう。すると聖父はあなたたちに別の慰め主を送るだろう。真理の霊であって、この世が受ける事ができないものである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ドイツ パルツハムの聖コンラード修士(St. Conrad of Parzham)の伝記(続き)

2018年08月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

独逸パルツハムの聖コンラード修士の伝記の続きをご紹介いたします。

【東京では8月12日の午後6時にミサが追加されました!】

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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 彼は如何なる仕事をも之を聖化するという術(すべ)を知っていた。最も卑しい働きも「天主の御名に由って」と云う射禱と共に一息毎に高き目的へと高められ運ばれて行った。「祈祷と労働」とが一つの流れに合流して流れ、そして、彼の働きと彼の全生涯とは間断(たえま)なき天主への讃美、天主への永続奉仕と化していたのであった。

 聖務日課や共同で誦える口祷の貴いものであることを見たが、日中は務めのためそれ等の仲間入りをする事が出来なかった。それで非常な疲労を感じながらも、真夜中の朝課には生涯の最後の日まで一度も欠かさずに出席していた。これは大きな苦業であった。何故かと云うと、平常(ふだん)は十時前には決して床に就かない。時にはもっと遅るる事もあるので、玄関の呼鈴はやっと睡眠(ねむり)に入ったか入らないかの彼を呼び起こすことさえ稀でなかった。その上長年(ながねん)の間、朝課の後にはもう再び床に入らず、亡くなった修士達の墓のある聖堂の中で夜を祈り明していたが、長上(めうえ)から禁じられて止めた。

 日中一寸(ちょっと)した暇がある時は、修院の階下の小部屋に身をかくして、其処から聖堂が見えるので、御聖体を拝礼していた。しかし彼は職務中にも決して祈りを止めなかった。彼と一緒に暮らした人々が度々見ることの出来た様に、どこにいても、部屋の中(うち)か外か、勤務中か休憩中を問わず、何處にあっても祈っていた。斯くして彼の生涯は絶え間なき祈祷(いのり)であった。

 ギルベルト修士は彼に就いて次の様に語っている。「或日(あるひ)聖修士が夜更けに聖アレクシウスの聖堂の床に倒れているのを見た。眠さと過労の為め疲れに負けてしまったのであった。後日(ごじつ)他(ほか)の修士が彼に頭の傷はどこで作(こしら)えたのかと訊ねると、彼は正直に眠って倒れたのだと答えた。

 何處でもいつも熱心ではあったが、彼が特に好む場所があった。それは聖アレクシウスの小部屋と、地下室に在る亡くなった修士等の墓、憐れみの聖母の像のある聖堂、血の流れているキリストの十字架のある自分の小部屋、殊に聖母に捧げられた聖堂が一番好きであった。すべて是等の場所は皆、彼の熱心な祈を直接目撃していたのであるから、言葉あらば、それについて多くを語り得たであろう。

 彼は又特別の愛情を込めてご苦難の救い主を尊敬し奉っていた。毎日十字架の道行を為し、こう書いている、「十字架は私の書物である。十字架を一目見ると私が瞬間毎に如何に振舞うべきかを教えて下さる。其処で、私は、万事(すべてのこと)が十字架によって忍耐強く謙遜になれることを学びます。そして苦しみが却って甘美にそして軽く感じられるまでになります。」

 祈祷(いのり)と労働(はたらき)と苦しみとが41年余りの聖コンラードの修道生活を満たした。間もなく彼の休みの時を告げる天のラッパが聞こえるであろう。

 75歳の時、突然重い病にかかった。皆は彼の死を予感したので、彼が病床から聖堂の聖母の祭壇を見ることの出来る様にと他の小部屋に病室を移した。苦痛が酷いにも拘(かかわ)らず彼の顔には常に喜びが溢れていた。

 最後が又、実に立派なものであった。歓喜(よろこび)に満たされた、幸福な最後であった。

 彼の愛する聖母(みはは)の御像から目を離したかと思うと、彼は其の時から永久に彼の御やさしき聖母と再び一緒に在ることが出来たのである。時は1894年4月24日であった。

 1934年の聖霊降臨の大祝日に、永遠の都ローマに於いて、聖なるコンラード修士の荘厳なる列聖式が執行(とりおこな)われた。(終了)

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

重大な苦難に際して 聖修士コンラードの助けを求むる祈

聖なるコンラード修士よ、御身は聖にして犠牲に充ちたる生活によりて、今永久に、天(あま)つ故郷(ふるさと)にて、天主の御(み)すがたを目前(まのあたり)に見奉りて楽しみ給ふ。又、栄光(さかえ)の冠は天使の群の中に、御身の徳の報(むくい)として御身の上に在るなり。御身は我等すべての信者等より愛され給ふ。我等の中(うち)、多くの者は、御身の取次の功力(くりき)に、大いなる信頼を置き、既に彼等の祈祷(いのり)の聞き入れられしこと数多し。故に最(いと)も善良なるコンラード修士よ、我が此の重大なる困難に当(あた)りて我を顧み、憐み深き天主の玉座の御前にて我が為に取次ぎ給へ。御身が嘗(かつ)て此の世に在りし時、総べての必要応じて、出来得(できう)る限り、人々を助け、慰め、励ますことを以て、御身の唯一の喜びと為し給ひしを思い給へ。天国にても御身の特性は変る事なく、却って御身の愛徳が愛そのものにて在(ましま)す御者と一致し給ふが故に、我等に対する愛の理解力も情(なさけ)も弥(いや)勝(まさ)るなり。イエズスの御許にて我が為に取次ぎ給へ。御身は救主(すくいぬし)の御苦難を最(いと)もやさしき情(こころ)もて敬ひ、又御聖体の中の聖主(みあるじ)への訪(おとづ)れは地上に於ける御身の楽園なりしなり。イエズスは御身の願(ねがひ)を決して軽んじ給ふことなかるべし。聖母は尚のことなり。何故なれば御身は聖母の忠実なる僕にて在りしが故なり。聖母は御身の願に御自らの願をも合せ給ふ。然(しか)れど我は、総べてに於て只管(ひたすら)主の御思召(おんおぼしめし)のみを望み主の聖心を喜ばせ参せし御身の愛と忠実さとを以て、主の御旨に我が身を委(まか)せ参らせむと望み奉る。されど現在(いま)の我が苦難(くるしみ)に当りて、我は必ずや御身の助けと慰めとを受け得(そ)むことを信じ且つそを希望し奉る。我は主の御掟(おんおきて)を己(おの)が行為(おこない)の鑑(かがみ)と為す眞(まこと)のキリスト信者の生活を営みて御身に感謝を表し度(た)き心なり。聖コンラード修士よ、我は我が苦しみに於て御身が我が助け手となり給はんことを御身に希(こいねが)ひ奉る。
主禱文………………

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

苦難に於て忍耐を得るための祈

 十字架にかかり給へる救主(すくいぬし)よ、主は御身の僕コンラードに、聖なる十字架の玄義を表し給へり。この貴き十字架こそは彼が忍耐、謙遜及び総べての徳を学びし彼の書物なりしなり。我にも彼の取次によりて十字架の聖(とうと)さを知り、これを愛し、忍耐もて我が罪の償(つぐのひ)となし、生涯の苦難を甘んじて堪へ忍ぶやう誨(おし)へ給はん事を、偏(ひとへ)に希(こいねが)い奉る。
 主禱文………………

聖コンラード修士に対する九日間の祈

 最(いと)もやさしき聖コンラード修士よ、我は御身と共に天主の御霊威を恭しく礼拝し奉る。主の御慈悲が御身が現世(このよ)に在(いま)しし間に惠み給へる数々の御恩寵と死後に与え給ひし永遠の光栄(さかえ)とを心より慶び奉る。又、我は御身に切に願ひ奉る。我にも聖なる生涯及び幸福(さいわい)なる死の惠を得しめ給はんことを。聖主(みあるじ)は御身の御取次によりて此の願を必ずきき入れ給はんと信ずるが故に、我は今、此の難儀(なんぎ)に際して御身によりすがり奉る。然(さ)れど此の願(ねがい)の天主の御光栄(みさかえ)と我が霊魂に障害(さまたげ)となるものならば、希(こひねが)はくは我が救霊(たすかり)に適ふべき他の惠を与え給はん事を。
(この祈りは毎日其日の祈に合せて誦へる)


第一日目
 聖なる修士よ、御身は幼き時より天主をよろこばせ奉れり。そは天主が御身を母の胎内より特に選み給ひしが故なり。我は天主の此の御身に対する御寵愛を喜び、御身と共に主に感謝し奉る。而して御身の聖徳の功力によりて、我にも此の選まれし者の中に属する惠を得しめ給はん事を偏(ひとへ)に希(こいねが)い奉る。聖主(みあるじ)よ、主の僕(しもべ)聖コンラード修士を重んじて今我が願ふ祈をきき入れ給へ。我自らの徳には頼り得ざれば彼(か)の聖なる修士の懇願に依りて我を助け給はんことを希願(こいねが)ひ奉る。

第二日目
 諸徳の泉、清き霊魂に愛され給ふ御者、且(かつ)悪魔の最(いと)も強き勝利者に在(ましま)すイエズスよ、いと弱き我に御憐みの眼(まなこ)を注ぎ給へ。聖母及び主の僕聖コンラードの御取次によりて、罪悪(つみ)の快楽(たのしみ)を軽んじ、天上の富を愛せん為め、御身の惠を与え給へ。我をして犯せる罪を深く悔み、誘惑(いざない)に打ち勝ち、徳の道を歩み、終まで忠実に堪え忍ばしめ給はん事を只管(ひたすら)に希願(こいねが)ひ奉る。

第三日目
 嗚呼(ああ)天主、独り御身をのみ愛せんとの正しき意向(こころあて)を我が心の中(うち)に見給ふ上智・賢明に在(ましま)す主よ、我れ偏(ひとへ)に希(こいねが)くは、聖コンラードの取次によりて、我をして常に又総べてに於て、主の聖旨(みむね)を悟らしめ、雄々しき心もて之を完(まった)うし、以て主の御光栄(みさかえ)を挙げ、我が救霊(たすかり)を成就し、主の聖旨(みむね)を忠実に果す者に約束せさせ給ひし天国の永福を得しめ給はんことを。

第四日目
 嗚呼(ああ)主よ、我が生命(いのち)は例へ如何なる境遇にあろうとも常に御身のものなり。然(さ)れば我れ聖コンラードと共に言わん、「主よ我は御身の僕とならん」と。而して主が我に与え給ふもの或(あるひ)は人々が我に為す総べては御身の御業(みわざ)、御身が斯く為すべく許し給ふ事なりと常に考へんと欲す。主よ聖コンラードの心を我に与え給へ。主よ、御身が彼に求め給ひし総べての犠牲を捧げつくせし彼の寛大なる心、困難に際して挫けざる雄々しき心、且つ有害なる情欲の何物にも繋がれざる自由なる心を、我にも与え給はんことを切に希願(こいねが)ひ奉る。

第五日目
 聖コンラードよ、御身は幼き時より心の清浄無垢を保たれしに尚も苦業・犠牲・自己放棄の厳しき道を歩め
り。これ我にとりて最(い)と善き模範にこそ。そは天主、我にも犠牲を求め給へばなり。主は我に主の十字架を下し、我が情欲の苦き盃(さかづき)を飲ましめんとて其を与え給ふ。然れば聖コンラードよ、我をも、御身に倣いて、苦業と自己放棄の峻(けわ)しき道を雄々しく犠牲心もて歩ましめ、我を助けて此の惠を得しめ給へ。

第六日目
 最(いと)も愛すべき聖母(みはは)マリア、御身はいと汚れなく、上智なる天主の宿らせ給ふ生(い)ける聖櫃に在(ましま)し給ふ。めでたき哉(かな)天地の元后よ、御身の忠実なる僕(しもべ)聖コンラードの取次によりて我にも眞(まこと)の上智を与え給はんことを御身に願い奉る。
 御身が愛し、教え、導き、育て、護(まも)り給ふ御身の特に愛し給ふ子供の中(うち)に我をも加え給へ。そは聖なるコンラードの如く御身を見出すは、生命(いのち)、超自然の聖寵の生命(せいめい)、完全なるキリスト教的生命(せいめい)、又、天の諸聖人等の生命(せいめい)を見出すことなればなり。
 
第七日目
 聖コンラードよ、御身は統べての犠牲と困難に際し、御身の務(つとめ)を忠実に果さん為に聖体のイエズスの中に力と勇気とを求められたり。十字架への一瞥(いちべつ)、ミサ聖祭、聖体拝領、之等(これら)又、御身が一切の苦しみを和(やわら)げたり。我も御身の模範(かがみ)に倣いて、イエズスを御身が愛せし如く深く愛せしめ給へ、十字架を観想し聖体を敬い尊ぶところに、我が唯一の慰安(なぐさめ)と扶助(たすけ)とを見出すことを教へ給はん事を希(こいねが)い奉る。

第八日目
 聖コンラードよ、我をして幸(こう)にも不幸(ふこう)にも、悩みにも喜びにも、我が心に天主への愛の焔(ほのお)を燃(もや)さしめ給へとの我が祈を、御身は必ずきき入れ給ふべきを我は信ず。今日(こんにち)よりは我が聖主(みあるじ)の愛より何物も我を引き離す事あらざるべし。この地上の苦難に於て、「天主を愛する者にとりては、総べて益ならざるは無し」との言葉の幸(さち)を味はしめ給へ。嗚呼(ああ)、天主をのみ愛せば最早(もはや)我を害する何物も在らじ。そは総べては我にとりて善に化すべければなり。如何に頼もしき事ならずや。

第九日目
 聖コンラードよ、我にとりて最上(さいじょう)の惠(めぐみ)は死に至るまで忠実に堪へしのぶ恩寵(めぐみ)なり。そは天主は最後まで熱心に保つ者にのみ永遠の生命(いのち)の冠を与えんと約束し給へばなり。御身はこの世にて堪えさる心戦と熱心なる祈とによりて光栄(さかえ)の冠をば獲得し給へり。然れば我が生命(いのち)の流転の中に我をも励(はげま)し、特に今乞い願ふ所の惠(めぐみ)を得しめ給へかし。我をして常に罪を避け、一生涯、死に至るまで、天主に忠実に仕え奉らしめ給はん事を偏(ひとえ)に祈り奉る。
(をはり)


【ミサが追加されました】東京では8月12日(主日)午後6時から聖伝のミサがあります。午後6時開始です。

2018年08月06日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

東京でのミサとして8月12日(主日)の分が追加されました!

8月12日(主) 聖霊降臨後第12主日(2級)緑 
         午後5時半 ロザリオ及び告解
         午後6時  ミサ聖祭(歌ミサ)


8月19日(主)聖霊降臨後第13主日(2級)緑  
        午前8時 ミサ聖祭
        午前10時  ロザリオ及び告解
        午前10時半 デ・ガラレタ司教様による堅振式
               ミサ聖祭(歌ミサ)

8月20日(月) 教会博士大修院長聖ベルナルド(3級祝日)白
         午前7時  ミサ聖祭
         午前7時45分  ミサ聖祭

宜しくお願い致します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

My dearest Brethren!

We will have an ADDITIONAL LATIN MASS on coming Sunday 12 August, 2018
but at 18:00 (6 PM)!

Thank you for your attention!

God bless you.
Fr Onoda


ドイツ パルツハムの聖コンラード修士(St. Conrad of Parzham, O.F.M. Cap., Hl. Bruder Konrad von Parzham)

2018年08月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドイツ パルツハムの聖コンラード修士(St. Conrad of Parzham, O.F.M. Cap., Hl. Bruder Konrad von Parzham)についてご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





 ドイツのバイエルン州の最も豊饒な土地の一つであるロット川(Fluss Rott)の谷間の一村に、極く質朴な村民が住んでいた。彼らの目附きはすっきりと澄んで、心は如何にも素直で飾気なく、新奇な物にはすぐに心を引かれると云う様な特徴をもっていた。祖先の遺風はどこまでも尊重し、昔から伝えらえて来た伝説や旧慣(ふるいならわし)等を、他ではめったに見られない程の忠実さを以て守り通していた。又その上、彼等村民の心には、真(まこと)の信仰が根ざしていたので、カトリック教会の熱心な信者として如何なる場合にも彼等の熱烈な信仰を表している。

 この村民の一人が私共の物語の主人公なる聖修士で、彼は1818年パルツハム(Parzham)の小さな村の「ヴェヌスホフ Venus-Hof」と呼ばれる農場の地主であったビルンドルフェル(Bartholomäus Birndorfer)の十二人の子供の十一番目の息子であった。洗礼のとき、ヨハネ(Johann)と命名された。小さいヨハネが生い立って行ったこの家庭には、キリスト教的精神がただよっていた。朝夕は家中そろって祈を為し、主日祝日を祝い貴(たうと)び、その他聖(とうと)い秘蹟に度々与っては幼子の心も日々養われて行ったのであった。毎年、大天使聖ミカエルの祝日から御復活祭までは、家族そろって毎晩、ロザリオを誦えるのであった。家には六人の下男がいたが、皆子供達と同じ様にかわいがられた。家の中には常に秩序と整頓がある様に努め、一人も不真面目な者がいるような事を許さなかった。斯様にしてヴェヌスホフの土地は、経済的に宗教的に困難な問題が国家に襲いかかっていたその時代に、安全な要塞となり、そこには他の多くの地方のように、信心、労役、質素、純なるドイツ魂とキリスト教的家庭の精神等、美しい雰囲気が漲っていた。

 金髪の青い目の小さなヨハネは、至って信心深い、静かな子供であった。余り無邪気なので、皆は彼を「小さな天使」と呼んでいた。(„Der Birndorfer Hansl ist ein Engel“, sagten die Leute.) 毎日どんなにひどい雨でも、大風でも、家から可成遠いヴェンク(Weng)と云う村まで、御ミサに与りに行った。又彼は幼い頃から聖母マリアに孝愛の情を表していた。ロザリオの祈りは彼を日々天の聖母に親しく一致させた。学校へ行く道には彼の小さな手の中に自分の宝の如くロザリオをかくして、騒がしい友達等から離れて、一人静かに誦えるのであった。もっと後になって、彼が立派な青年になってからも、農場で仲間の者が皆一緒に集まって仕事の疲れを休め、互いによろこび興ずる休憩時間に、誰にも気づかれずに静かに、ロザリオの宝石(たま)が我等のヨハネの豆の出来た手から滑り落ちて行ったのであった。

 青年ヨハネはバイエルンの有名な巡礼地アルテッティング(Altötting)へ屡々参詣した。彼は家で祈るよりは此の聖所で天の聖母(みはは)に祈る方が聖母(せいぼ)にもっと近く在る様に感じ、従って聖母からお恵みを受けるにもっと有効だと考えた。そしてこの天の元后への彼の心の捧げを外部の目に見える奉献によって尚一層確証する為にとて、彼は1843年、アルテッティングの聖母会に自らの名を記名して、聖母の子供となった。

 青年ヨハネの厳格な苦業の生活は遊んだり煙草をふかしたり御酒を飲んだりして主日や祝日を過ごしていた同年輩の仲間の青年たちの生活に合わなかった、日増しに彼等の反感を招く様になった。最も軽率浮薄な者等は口をそろえて彼の信心を嘲り、彼の家の下男等が前にいるのもかまわず、皮肉な戯談(たわむれごと)を彼に吹きかけたりした。然しいくら何と云われても、彼は平静を保っていて、誰も彼をその目的からそらす事が出来なかったので、間もなく嘲弄も止み、遂にはこの労働と祈祷と苦業と慈善とがよく結合されている徳高い百姓の青年の生活に感心し、褒めそやす程までに至った。

 1840年から41年まで、彼はイン川(Fluss Inn)の流れるアイゲン市(Aigen)の巡礼所に居た。ドウリンゲール霊父を指導者と仰いで、毎週か一週間おきに、彼の元へ告解をするため又良き勧めを受けるため、五時間もかかる道程をも厭わず訪ねて行った。一生を修道士として天主にささげようという彼の希望(のぞみ)はその頃から起り、日増しに加わり、アルテッティングのカプチン会修院の労働修士として身を捧げるまではじっとしていられなかった。遂に望は聴き入れられて修院に入り、名もヨハネを変え、コンラードと呼ばれる事になった。

 この修士は世間にいる時から既に修道生活を営んでいたようなものである。今までの彼の沈黙と大斎、小斎、祈祷(いのり)、及びその他の己に対する如何にも厳格な鍛錬生活によって、世の総べての罪の危険に在りながら、洗礼の時の清浄無垢を保つ事が出来ているのであるから、修道生活の厳しさにも容易く慣れた。然し、たった一つまだ専心修養を積まなければならない点があった。それは己れの遺志の放棄であった。今までは自分の思うままに何でも行っていたが、これらは聖書の「他の者汝に帯して、好まざる所に導かん」との言葉が実現されなければならなかった。

 相当の年輩になってから修院に入り、しかも世間にいる時から既に徳にすぐれた信心深い生活を送っていた者には、普通有りがちの事であるが、新しい生活に入っても、今までやってきた信心業や、他にも何か妙な癖をもっていて、それを取除くのはなかなか骨の折れるものである。彼にもこの事が烈しい心の戦の機会を与え、多くの償いとはずかしめとを齎(もたら)す原因となったとはいえ、彼の仲間の修士等は皆、彼は修練期間にも非常に熱心であったと云っている。

 三年の試練機関に長上者(めうえたち)はコンラード修士の精神と彼の自然的傾向とを充分に調べた。

 既に彼は34才にもなっているのであるから、世間ならば立派な一人前の男とみなされるはずであるが、然し修院では、未だ何と云っても初心者、見習の取扱しか受けられなかった。その上、彼が誓願を立てて後、修院長が彼をアルテッティングの聖アンナ修院の門番の役を命じたので、尚お妙に思う者もあった。

 此の役目は毎日あらゆる階級の人と交渉を持たなければならない。なぜかというと、この有名な修道院の玄関には、ひっきりなしに沢山の人達が押し寄せて来るのであったから。その中には、巡礼者も、乞食も、貴族も、平民も、老若男女、貧富貴賤を問わず我も我もと玄関へおしかけるのであった。この様な総べての人達にコンラード修士は対応しなければならないのであるが、それには、非常に賢明な分別と手腕(うで)とが必要で、のみならず多大の犠牲心をも有合(もちあわ)せなければならなかった。可愛相に、31年ものあいだ、静かな片田舎のパルツハム村に住んで、人々との交際を常に避けて、修道院の隠れた孤独に憧れていたこの気の小さい農夫のコンラードは、生憎と彼の性質に全く反対な仕事、騒がしい商売の様な事務の真中に置かれたのであった。偉大な事を為さしめんが為に屡々弱い者を選び給う天主は、斯くお計らい給うたのである。コンラード修士は、これからはこの修院と世間との間の用務に携わらなければならないのであった。この仕務(つとめ)こそは、彼自身にとっては非常に辛いものであったが、世の人の為には多くの祝福を齎すものであったのである。彼は天主と隣人とへの愛の使徒たるべき者であった。彼の姿を見ただけで人々は尊敬の念を起し、罪人は改心し、貧乏人は慰め助けられ、不幸な者には希望を呼び起さしたのであった。かくして彼は沈黙の説教家となったのである。

 初めアルテッティング修院の玄関番の役にあてられると云う通知を受けた時、彼は一時は強い恐怖感に襲われた。然し長上(めうえ)の命令に対して忠実に、少しも躊躇うことなく、この新しい務めに立ち向かった。この恐怖感なるものは彼が新参の玄関番として是から打ち克って行かなければならぬ総べての困難に対する予感であったと推察されるのであるが、その困難と云うのも、務めそれ自体に対するそれではなく,寧ろ長上(めうえ)や修院の他の修士達から生ずるものであった。

 彼のこの務めは隣人への奉仕に於いて己れを全く犠牲にする事であって、最大の努力を要するものであった。修院を訪れる多数の訪問者を丁寧に迎えたり、商人等に対する勘定の支払、通帳の控え、又は多くのミサ謝礼を記載したり、後援者から寄付を受けたり、告解や霊的相談をしたいと願う人の為に各々(めいめい)の望に応じて霊父を呼びに行ったり、或は貧乏人にパンを与えたり、種々様々の用事が彼を求めていた。彼は此のために間断なく修院内を往き来した。こうした終日の烈しい労働にぐたぐたに疲れるのであったが、それでもいつも喜んで聖修士は自分の尊い役目を完全に果たしていた。

 七時の夕食の後、コンラード修士は聖アレキシウスの部屋に黙想しに行くことになっていたのであるが、この間こそ彼の真の慰安(なぐさめ)の時で、此の避難所で彼はゆっくりと愛する聖主のお側で身心を休めることが出来た。然しその時でさえ玄関の呼鈴はおかまいなく鳴る事があるが、それでも彼は忠実に急ぎ馳せつけるのであった。然し冬期は八時に、夏期は九時に、修院と聖堂の門が閉じられるので、それからは一日の疲れの後に思う存分祈祷(いのり)に耽る事が出来た。この時は最早誰も彼の祈を邪魔する者がないので、彼は聖なる黙想を充分に満足するまで長く続けていた。夜中に修士等が朝課(ちょうか)を誦える為に起きる頃には、こんにちは!ちゃんと先に聖堂に行っていた。彼は非常な疲労の為に鐘が聞こえないことがあり得るのを恐れて、当番の者に皆よりニ三分前に彼を起してくれる様にと頼んであった。然し大抵の時は当番が起しに来る前に目ざめていて、その親切に対して「有りがとう」といつもやさしく返礼した。そして夜明けの三時半には又もう起床しているのであった。というのは聖堂係りの修士が少し体が弱かったので、これに代って教会の入口を開ける為で、後引続き自分の玄関番の務めにかかるのであった。

 斯うして役目を果たしながら短気も起さず、常に忍耐心を保つことは彼にとって決して容易な事ではなかった。

 殊に乞食の群にとり囲まれたり、子供達がパンをもらいにやって来たり、果ては聖堂巡礼者等が到着して、どっと押寄せる時など真(まこと)に以て困難な時であった。一人はミサを頼みたいと云う、一人の巡礼は蝋燭とロザリオとメダイを祝福してもらいたい、三人目のは某(それがし)霊父に面会を申し込む等、銘々がそれぞれ異(ちが)った事を云うのである。

 それを彼は一々皆を満足させなければならないのである。しかし勤勉な玄関番はそれを自分のつくすべき義務と考え、あくまでも忠実につとめた。仲間の修士ギルベルトは彼と一緒に同じ務めに当っていたが、次の様に彼について語っている。

「年々歳々幾千もの人が修院の玄関へ押掛けて来るのであるが、有(あ)らゆる種類の人がいて、中には無作法や横着な貧乏人等もいて、乱暴な振舞いを彼に見せる事もあったが、私は長年の間に一度でも彼が怒ったり興奮したりするのを見た事がなかった」と。

 手仕事を途中で何度遮(さえぎ)られても彼はいやな顔一つ見せず、忍耐強く人の云う事を聞いてやり、親切な優しい調子で対応し、落ちついて仕事を続けた。これは己れを制し、天主をその中(うち)に有(も)っている魂の徴(しるし)である。此の様な人はめったにいるものではない。彼の此の従容(しょうよう)乱されざる如何にも温和な物腰が世人に大きな感銘を与えるのであった。人々が「あなたのところの玄関番は聖人ですね。どんな事があってもいつも落ちついていますよ。そしてけっしていらいらした様子を見せませんよ」と幾度口にしていた事であろう。

 コンラード修士は貧しい者に対しては真(まこと)の父の様であった。心からの喜びを以て、聖なる服従の誓願に背かない範囲で出来るものは之を皆彼等に分配していた。彼は非常に言葉数の少ない人で、彼を列福する為の調査中にも、一人の証人は彼についてこう云っている。

「毎日一緒に働いていた間、用事で二人は話をしなければならないのであったがそれでも百度も話したかどうか疑われる程無口な人であった。天主の僕コンラードは、一見して近寄れぬ一種の威厳の如き性質(もの)を有(も)っていた。が、それにも拘らず私には少しも厭な感じを与えなかった。今から考えてみるとそれは彼の一つの大きな徳の宝の様に思われる。この性格は世間の人達との交際、特に女性との応対に於いて大いに助けとなったにちがいない。」

 此の聖修士を知っている人達はいずれも、彼の深い沈黙について語り、愛徳に背くようなことを口にするようなことは、決してなかったと云っている。

 聖コンラードの生涯は毎日々々が同じ様な平凡な日の連続であった。祈祷と労働、来る日も来る日も、肩の上に同じ重荷を負うて暮らせば、大抵の人は気が弛み、緊張を欠き、果ては怠惰に流れ、不機嫌にもなり勝ちなものである。しかるに此の聖なる修士は41年間というもの、彼の任務(つとめ)の重みを終始一貫些(いささ)かも変るところなく一つの愚痴さえこぼさず、他に何の野心を抱くこともなく、周囲の者が皆驚嘆する程の喜悦(よろこび)をもって此の務めを果たしたのであった。鐵の如き忍耐力と不平を云わずに己を棄てること、―之こそは人間の強い意志の二つの大きな特徴なのである。

 聖コンラードに於いても同じで、最(いと)も高き御者に対する完全な奉献によって、彼の愛を証拠だてる堅固な意志は、彼に、最後の一息までも、断固たる決心と不動性とを与えたのであった。実に彼は一生を天主への全き奉仕に委ねてしまっていた。そして只天主の中に天主の為のみに生きていた。このことの故に、いと高き所より、恰(あたか)も電流が機械を動かす如く、力強い惠(めぐみ)の扶助(たすけ)が彼を動かしていたのであった。

「独逸バルツハムの聖コンラード修士」より

アルテッティンの聖母よ、われらのために祈り給え!
聖コンラードよ、われらのために祈り給え!

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