Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年5月(聖母聖月)から、聖ピオ十世会日本でのミサの前の皆で唱えるロザリオに「聖堂を求める祈り」「無原罪の聖母の騎士」の祈りなどを付け加えます。

2018年05月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでしょうか。

 先日ミサの前のロザリオの祈りの後に、東京の常駐の聖堂のためにに小さな射祷を付け加えることをブログで提案をしました。

https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/86a4ce00e56c186f3b1e9e4831a8c77d

 それに関連してですが、5月の秋田巡礼の時17名がさらにMIの会員になりました。ところで、MIの会員の義務は一つしかない(聖コルベ神父様が作った次の射祷を唱えること)のですが、このお祈りを忘れてしまいがちなので、今回、ロザリオの後の祈りを付け加える機会に、会員の義務の次の祈りも付け加えたいと思っています。

「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられしすべての人々のために祈り給え」

https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/4d76c4f323a342b1dea22003f0b478bf

 ブログ中の訳にある、最後の「御身に委ねられ奉りしすべての人々」のところですが、「奉る」というのは私たちが謙譲語としてつかっている言葉であって、この「人々」には必ずしも当てはまる訳ではないので、『御身に委ねられしすべての人々』と訂正します。

 また、アジア管区長の招きに従って、「無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍」の祈りとして、最後に「聖ベルナルドのメモラーレ」を次のように付け加えたいと思います。

「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え。ああ童貞中の童貞なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御憐れみをたれてこれを聴き給え。これを聴き容れ給え。アーメン。」


まとめると、次のような順序になります。

これまで通り

ロザリオ(主日は栄えの玄義)+ 召命を求めて聖母の汚れなき御心の賛美のためさらに一連を付け加える。

元后、あわれみ深き御母
主の聖母われらのために祈り給え。▲キリストの御約束(おんやくそく)にわれらを適(かな)わしめ給え。
祈願 ああ天主よ、御身の御(おん)ひとり子は、そのご生涯とご死去とご復活とによりて...

大天使聖ミカエルにする祈【全世界での聖ピオ十世会でのロザリオの祈るやり方に従って、大天使聖ミカエルに対する祈りを、聖ヨゼフに向かう祈りの前に唱えます。】

聖会の保護者なる聖ヨゼフに向う祈

召命を求める呼祷

追加その1:日本の聖堂を願い求める祈り

1. 「聖マリアの汚れなき御心に身を捧げる祈り」(モンフォールの聖ルイ)
 ああ汚れなき御母聖マリア、われ、信仰薄き身なれど、今日御身の御前に洗礼の約束を新たにし、悪魔とその栄華とその業とを永久に棄てんことを誓い奉る。われは、人となり給いし天主の叡智なるイエズス・キリストに従い、死に至るまで日々おのが十字架を担い、今より後は一層主に忠実ならんがため、すべてを主に捧げ奉る。
 われ今、諸天使諸聖人の前にて御身をわが母、わが元后と仰ぎ、御身のしもべとして、わが身も心も持ち物をもすべて御身に捧げ、過去、現在、将来におけるわが善業の功徳をも悉く御身に捧げ奉る。われはわれと、われに属するすべてを現世においても来世におていても余すところなく御手に委ね奉る。願わくは天主の御栄えのため御旨のままに計らい給え。アーメン。

2. 生ける選ばれた石らから、御身の御稜威(みいつ)のための永遠のすみかを備え給う天主よ、御身に懇願し奉るこの民を助け給え。そは、御身の教会の物体的建物が我等に与えられ、霊的増加により成長せんがためなり。我等の主イエズス・キリストによりて願い奉る。アーメン。

3. 全能永遠なる天主、御身は童貞マリアの御心において聖霊にふさわしき住まいをしつらえ給えり、願わくはこの同じ汚れなき御心に捧げられた教会が、同じ御心に熱心に自らを奉献する我等に与えられんことを。そは、御身の聖心に従いて我等が生くるためなり。我等の主イエズス・キリストによりて願い奉る。アーメン。

4. 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え。(三回)

追加その2:無原罪の聖母の騎士の祈り

「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられしすべての人々のために祈り給え」

追加その3:「聖ベルナルドのメモラーレ」

「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え。ああ童貞中の童貞なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御憐れみをたれてこれを聴き給え。これを聴き容れ給え。アーメン。」

願わくは天主の御助(おんたす)け、常に我らと共にあらんことを...
(Divinum auxilium maneat semper nobiscum.)
【これは通常、聖務日課の最後に唱えられる祈りなので、ロザリオの祈りの最後に移動することにします。】

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ミサの前に皆で唱えるときには、細かい確認点がいくつかあります。

「聖マリアの汚れなき御心に身を捧げる祈り」について、

(i) 「われ(何某)」については、『われ』と唱える。
(ii) 「しもべ(しもめ)」については、代表して『しもべ』と唱える。
(iii) 「御栄え」の読みは、『みさかえ』と読む。

(個人で唱えるときには、「われ」の後にご自分お名前を付けて、また女性の場合にはしもめと変えてお祈りください。)

よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2018年5月13日 御昇天後の主日説教 「天国―救霊予定のしるし」―聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様

2018年05月14日 | お説教・霊的講話
2018年5月13日 御昇天後の主日説教 のミサ
ブノワ・ワリエ神父様(聖ピオ十世会) お説教  日本語訳


御昇天後の主日―天国


「すると、救われるのはどんな人だろう?」「人にはできぬが天主にとってはそうではない。天主にはできないことはない」(マルコ10章26b-27節)

トレント公会議(デンツィンガー805=32版以前の番号)は、誰も特別な啓示なしにこの世で自分の救霊予定の確証を得ることはできない、と宣言しました。この特別な啓示を別にすれば、誰も自分が最後まで善きわざを忍耐強く続けるかどうかを知ることはできません。
それにもかかわらず、人が忍耐強くあり続けるというある種の確証を与える救霊予定のしるしがあるのです。

救霊予定のしるし

1.徳のある生活(真福八端の精神によって)
「心の貧しい人は幸せである、柔和な人は幸せである、悲しむ人は幸せである、正義に飢え渇く人は幸せである、あわれみのある人は幸せである、心の清い人は幸せである、平和のために励む人は幸せである、正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼らのものである」
1.謙遜
2.絶え間のない祈り「求めよ、そうすれば与えられる…」
3.敵を愛すること/苦しむ人々に対するあわれみ
4.天主を愛するがための苦難における忍耐 「辛抱強く忍耐をもって重い十字架を担うことは、救霊予定の素晴らしいしるしである」(ガリグ・ラグランジュ)

2.霊魂を求める不屈の熱意
「一人の罪びとを迷いの道から連れ戻す人は、自分の霊魂を死から救い、多くの罪を消す」(ヤコボ5章20節)。

3.ご聖体
●私たちは、救われるために、ご聖体にまします主を受けるべきです。
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの中にはいのちがない」(ヨハネ6章53節)。すべての人は少なくとも霊的に(すなわち、この秘蹟を受けたいとの望みまたは憧れをもって)ご聖体をいただく義務があります。なぜなら、これはキリストと一体となることだからです。(神学大全第三部第80問11)

●さらに、敬虔かつ頻繁にご聖体を受けることは、救霊予定のしるしです。
この秘蹟は、直ちに私たちを栄光に至らせるものではありませんが、私たちに栄光へと至る力を授けます。
この秘蹟は、旅路の糧と呼ばれます。それは、私たちが列王の書上19章8節で読むことを象徴しているからです。

「エリアは飲食し、それに勢いをつけて天主の山ホレブまで、四十日四十夜歩き続けた」。
“O sacrum convivium, in quo Christus sumitur, recolitur memoria passionis ejus, mens impletur gratia, et futurae gloriae nobis pignus datur.
「おお聖なる食事よ、これによってキリストが拝領され、ご受難の記憶が呼び起こされ、霊魂が御恵みで満たされ、未来のいのちの約束がわれらに与えられる」。
「ふさわしくなされた聖体拝領の主な効果は、ある程度天国を前もって味わうことであり、実際に至福直観において愛によって私たちが将来天主と一つになるという期待かつ約束である」(カトリック百科事典)。
ご聖体は、「われわれの栄光ある復活と永遠の幸福の約束」(トレント公会議第13総会第2章)です。それは、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠のいのちを有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章)というキリストの約束によるのです。

●イエズスの聖心をたたえる九回の初金曜日。告解と聖体拝領。

4.童貞聖マリアへの信心

「マリアへの愛とマリアへの信心は、永遠の救いを得る確実なしるしである」(聖ベルナルド)
「マリアのしもべのしるしをもつ人は誰であれ、すでにいのちの書に名前がある」(聖ボナヴェントゥーラ)
「祝されし聖母への信心は救いのために必要である。聖なる童貞への尊敬と愛を持たないということは、滅びへの確実なしるしであり、反対に、完全にかつまことに聖母への信心を行うことは救霊予定の確実なしるしである」(聖母マリアへのまことの信心40番)。

「祝されしマリアへのまことの信心は、救霊予定の最も確実なしるしの一つである。しかし、この信心はまことでなければならない。なぜなら、もし偽りであったならば、その目的には役に立たない。それは、お金に例えることができる。本物のお金ではなく、偽物だったとしたら、何の価値もない。そのような非常に重要な問題において誤解や欺きを防ぐため、あなたのマリアへの信心がふさわしいものであるために求められているすべての必要条件を満たしているかどうかを確認するために、あなたは非常に注意深く考えるべきである」(聖アントニオ・マリア・クラレット)

「マリアへのまことの信心は、効果的に救いへ導く。なぜなら、最後まで忍耐強くいられる御恵みを求めて忠実にマリアに祈るすべての人々に、マリアはその御恵みを取り成してくださることができるからである。この理由のため、聖母へのまことの信心は通常、救霊予定のしるしの一つとみなされている。この確かな希望は、マリアの取り次ぎという偉大なる権能と、マリアに祈る人々に対するマリアの特別な愛に基づいているのである。

・聖アルフォンソ(「聖母マリアの栄光」第1部第8章)によれば、自分の生活を改めようとの望みを持ち、天主の御母を忠実に崇めて自分をそのご保護に委ねる人々が滅びるのは、およそ不可能である。
・自分の生活を改めようとの真剣な望みを持たない人々は、もちろん、自分が一定の見かけ上の聖母への信心を守っているという事実を、救霊予定のしるしであろうとみなすことはできない。
・しかし、罪を捨てようとし、助けを求めてマリアへ立ち戻る罪びとは、マリアがその罪びとをお見捨てにはならないということを見いだすであろう」。(ガリグ・ラグランジュ)

●「私のロザリオの信心は、救霊予定の偉大なしるしです」(聖ドミニコと福者アランに与えられた)
●スカプラリオ。それを身に着けて死ぬこと。
●マリアの汚れなき御心をたたえる5回の初土曜日。告解と聖体拝領。


結論
1.救霊予定は神秘です。
  成聖の恩寵で死んでいない限り、誰も天国にはいません。自分の過ちによる以外は、誰も地獄に行くことはできません。

2.救いの絶対的確実性はありませんが、実質的な確証はあります。四つの救霊予定のしるしです。

3.救霊予定は私たちの努力を不必要にはしません。なぜなら、大人は永遠のいのちにふさわしく生きなければならないからです。

ある日、ある人がたいそう煩悶して恐れてみたり希望を持ってみたり、長い間心が落ち着かなかった。で、悲しみに耐えかね、教会の祭壇の前でひれ伏しして謙遜に祈った。これらのことを黙想して、「ああ、私が終わりまで忍びとおすかどうか、知りたいものだ」と言った。すると彼は、すぐに天主のお答えを心に聞いた。「あなたはそれを知ったら、どうするつもりなのか。そのときしようと思うことを今行え、そうすればあなたはまったく安心であろう」と。(「キリストにならいて」第1巻第25章)

恐れおののいて自分の救いをまっとうすること

「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたにいのちの冠を与えよう」(黙示録2章10節)


天国の観想、それを熱心に願う

「いつ私は行って、天主のみ顔を仰げようか」(詩篇41章3節)
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(コリント前書2章9節)



秋田巡礼-お説教-2018年5月3日(初木) シュテーリン神父様「第12回目の秋田巡礼にすべきこと」

2018年05月12日 | お説教・霊的講話
2018年5月3日(初木)秋田巡礼 証聖者、童貞聖マリア様の浄配、聖ヨゼフの随意ミサ
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、そして巡礼者の皆さん、

この5月3日に、この第12回目の秋田の巡礼を始めるというのは天主の御摂理にありました。

今日はとても特別な日です。

(1)第1に、今日の随意ミサとして、聖ヨゼフのミサが選ばれました。もしも私たちがマリア様の事をよく知りたいと思うならば、必ず聖ヨゼフに行かなければなりません。聖ヨゼフは私たちの家族の生活にとっても、そして霊的生活にとっても、教会の生き残る為にも必ず必要な聖人です。

聖ヨゼフは私たちに、マリア様を正しく本当に理解する事を教えてくれます。

聖ヨゼフは私たちが家族を守る為にも必要です。なぜかというと、現在家族は、非常にこの悪しき世界によって攻撃を受けているからです。

また聖ヨゼフは、教会が生き残る為にも必要です。なぜかというと、教会は今非常に多くの攻撃を受けて、苦悩の内にいるからです。

(2)また今日は、月の最初の木曜日でもあります。最初の木曜日初木曜日は、大司祭であるイエズス・キリストに捧げられた日です。「最高司祭としてのイエズス・キリストの随意ミサ」というものが、ピオ十二世教皇様によって作られ、そしてこのミサは、初金のイエズスの聖心のミサ、また初土のミサと同じレベルまで高められました。ですから今日はこの初木曜日は、司祭の為に祈る、また司祭の召命の為に祈る特別の日です。ですから天主の御摂理によって、この今年の秋田の巡礼は特に、「司祭の為に祈る事」そして「司祭の召命の為に祈る」という事が求められています。

(3)また今日は、昔は教会にとってとても大きな大祝日であった、聖ヘレナが十字架の聖遺物を発見した日です。これは私たちにとって大きな象徴的な意味があります。なぜかというと、私たちはキリスト教の本質をまた再発見しなければならないからです。キリスト教の本質というのは、十字架にあります。イエズス・キリストが架けられた十字架にあります。

現代、人々は楽しい面白おかしい事や、娯楽だけを追求しています。宗教的な事に関しても、教会の生活でも、人々が集まると、「これは過ぎ越しの神秘だ。喜び、楽しめ。福祉の事を考えよう。この世の生活を楽しむ事を考えよう」と勧められています。

もちろん私たちは至福を、幸福を信じています。しかしルルドのマリア様が聖ベルナデッタに仰ったように、「私はあなたに幸せを約束します。でもこの地上ではなく、次の世界で。」

私たちは今この地上では、逐謫(ちくたく)の身であって、追放された身であって、涙の谷に住んでいる、という事を忘れてしまいがちです。その危険があります。私たちのこの地上での愛は、十字架の道を愛する事であって、秋田ではマリア様は涙を流しておられます。十字架の再発見は私たちに、キリスト教生活の最も基本の原理を私たちに教えてくれます。「あぁ、幸せなる十字架よ、私の唯一の希望よ!」十字架を通して私たちは、本当の永遠の光に到達します。

(4)世界中で最もカトリック的な国においては、今日はポーランドの元后マリア様の祝日です。このポーランドという国を見ると、この国が存続していたというのは奇跡の連続でした。もしもこの国が在り続けたとしたら、マリア様が元后として指導してきたからです。

もしもこの色々な今申し上げた点を色々考察すると、これから4日間、巡礼の間に何をしなければならないかがよく分かります。聖ヨゼフと共に私たちは、毎日の十字架の生活を、毎日の十字架を日々担ぐ事を喜びとします。そして聖ヨゼフと共に十字架を担ぎながらマリア様の元に行って、マリア様を元后として褒め讃えます。マリア様を通して私たちは、イエズス・キリスト、最高司祭を発見するという事です。

そして同時にこの巡礼は、私たちにとって深い感謝の行為となるべきです。私たちはマリア様の元に修道院に行ったら、すぐにマリア様の元に跪いて、マリア様に深く感謝しなければなりません。特に2017年、ファチマ100周年の間に受けた特別の御恵みを感謝致しましょう。

アジア管区では、昨年の2017年ほど多くの召命を受けた年はありませんでした。

4名が神学校に入学しました。6名あるいは7名がイロイロの修練院に入りました。また別の6名の女性がダボンにある修練院での修道生活を始めました。2人の神父様が聖ピオ十世会に入会しました、インドで。そして3名あるいは4名の志願者が修道者として修練に入る準備をしています。また韓国では、小さな共同体ですけれども多くの司祭の召命を今出しています。

6月には、小野田神父が日本人の修練者に修道服の着衣式をします。それからベトナムからも司祭の召命が今準備されています。

このこれらは、マリア様の汚れなき御心から来る実りでしかありません。またマリア様の巡礼、特にフィリピンでのファチマの聖母巡礼によって、多くの方が聖伝を発見しました。これを見ると、ファチマのマリア様がどれほど重要であるか、という事が私たちによく分かります。

また、マリア様が私たちに与えようと望んでおられる御恵み、私たちの人生において与え続けようとする御恵みについても感謝致しましょう。「感謝する」というのは、マリア様に「ありがとう」と言うだけではありません、もっとです。ただ「ありがとう」と言うのみならず、受けた御恵みを一つ一つ考察して、去年やったように、「マリア様から受けた御恵みを集めて、そして花束としてマリア様に返す」という事です。

そして過去に受けた御恵みを考えるだけではなく、将来においても、毎年、毎年、私たちが秋田に来ますように、私たちがマリア様をどれほど必要としているか、という事を認識する事です。

年を重ねる毎につれて、この世の中はますます悪くなっています。教会の状態も残念ながらますます悪くなっています。毎年、「あぁ、教会がここまでひどくなる事がありえない、ここでもう底をついた」と言うのですけれども、更に悪くなっています。

それにもかかわらず、この世と教会の状態にもかかわらず、皆さんの霊魂は年を重ねる毎に、より良くなっています。なぜかというと、マリア様が皆さんの霊魂にますます御恵みを与え続けているからです。この世がますます危険になっている中において、皆さんの心を守って下さっているからです。

この世が平和をますます失って、戦いを挑んでこの世を自分で破壊しようとしている時に、マリア様は私たちに、本当の平和を与えようとしています。この本当の平和を私たちは発見しなければなりません。もしも私たちの心、霊魂、私たちの家族、私たちの共同体、小教区、教会が平和でなければ、本当の平和は受ける事ができません。

では聖ヨゼフの随意ミサを今から続けます。そしてヨゼフ様に御取り次ぎを願って、私たちが秋田で、マリア様が今ここで私たちに与えようとしている大きなメッセージが何かを、深く理解する御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖アンブロジオとローマ皇帝テオドシウスの関係にまつわる有名な話:390年のテサロニケでの暴動を巡って

2018年05月12日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖アンブロジオ(340年-397年)は、イタリアのミラノ(ラテン語で Mediolanum)の司教でした。

 聖アンブロジオは、聖モニカを霊的に指導したり、聖モニカの息子である聖アウグスチヌスの回心に大きな役割を果たしたりしました。

 聖アンブロジオとローマ皇帝の関係にまつわる、有名な話があります。聖アンブロジオが、人間の生命を尊重していたことを示すとともに、カトリック教会の司教は、ローマ皇帝の上に立つということを示すエピソードです。



 ローマ皇帝テオドシウスは、ローマをキリスト教国家にしようとした最初の皇帝です。敬虔な皇帝でした。

 390年にテサロニケで、馬車競争の騎手が同性愛の罪で投獄されました。しかしこの騎手がテサロニケの人気者であったために、投獄に反対する民衆による暴動がおこりました。しかしテサロニケの総督は騎手を釈放することを拒否しました。そこで暴徒らにより総督とその他が何人か殺害され、騎手は逃亡しました。

 皇帝テオドシウスはこの無規律な暴動に怒り、報復を計画しました。皇帝はまずテサロニケで別の馬車競争を開催することを告知しました。しかし民衆が競技場に集まると、競技場のドアは閉じられて皇帝の兵士たちによって観客7000名が殺害されました。

 聖アンブロジオはこのことを悲しみ、テオドシウスに痛悔を促す手紙を書き、テオドシウスが祭壇の前で跪いて赦しを請うまで典礼に与ることを禁止しました。するとテオドシウスはアンブロジオに従順に従ったのです。

 願わくは、日本のカトリック教会の司教様たちが、母親の胎内で殺害されている胎児たちの命を守るために、聖アンブロジオにならう偉大な司教たちとなりますように!

 ところで、東京大司教区の菊池大司教様がマーチフォーライフに次のような励ましのメッセージを送られました。

「神から賜ったいのちが、その始まりから終わりまで、例外なく大切にされる社会が実現することを切に願います。このマーチフォーライフの取組みを息長くつづけながら、教会で協力できる幅を広げていってください。」

 ことしのマーチフォーライフは、2018年7月16日(祝)です

 日本全国からご参加ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会の日本における聖堂を願い求めるノヴェナ:どうぞこの祈りをなさってください。

2018年05月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 一昨日の5月10日は、私たちの主イエズス・キリストの御昇天の祝日でした。お祝いの言葉を申しあげます。

 ところで明日は5月13日ファチマの聖母の最初の御出現の日ですね。皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。

 数年前、常駐の聖堂を望む大阪の信徒の方々からの要望をうけて、聖堂を求めるノベナが作られました。当時管区長であられたクチュール神父様の許可を得て、大阪では2010年からミサの前のロザリオの後でこの祈りを付け加え始めました。

 このノベナを祈り始めてから7年後に、2016年の5月13日に大阪の聖堂を持つことができるようになり、2016年5月15日の聖霊降臨の大祝日に、この聖堂で始めてミサ聖祭が捧げられました。



 「祈れ、さらば与えられん」とは本当です!

 そこで、東京にも常駐の聖ピオ十世会の聖堂を求めて、東京でのミサの前のロザリオの後に次の祈りを付け加えることにいたしましょう!

 お祈りの文句ですが、日本という国は聖母の汚れなき御心に奉献されているので、日本に建てられた聖堂は守護の聖人がどなたであれ、例えば聖ヨゼフであれ日本26聖人であれ、聖母の汚れなき御心に捧げられた聖堂となります。大阪の聖堂はその守護の聖人にも「聖母の汚れなき御心」を戴くことができました。

 私たちがこのノベナで祈る「聖母の汚れなき御心に捧げられた」とは、必ずしも「聖母の汚れなき御心の名前がついた」という意味ではなく、どのような守護の聖人を頂こうとも、東京の常駐の聖堂として、「日本が公式に捧げられているように聖母の汚れなき御心に捧げれ、これへの信心を熱心に行う聖堂」を求めるという意味です。

 是非、東京にも常駐の聖堂ができるようにお祈りください。聖堂があるか、ないかでは、大きく違います。私は是非とも東京に聖堂を希望しています。

よろしくお願いします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ノベナの祈りは次の通りです。

日本の聖堂を願い求めるノヴェナ(クチュール神父様認可済)


1)ロザリオ一環

2)聖マリアの汚れなき御心に身を捧げる祈り(モンフォールの聖ルイ)

 ああ汚れなき御母聖マリア、われ(何某)信仰薄き身なれど、今日御身の御前に洗礼の約束を新たにし、悪魔とその栄華とその業とを永久に棄てんことを誓い奉る。われは、人となり給いし天主の叡智なるイエズス・キリストに従い、死に至るまで日々おのが十字架を担い、今より後は一層主に忠実ならんがため、すべてを主に捧げ奉る。
 われ今、諸天使諸聖人の前にて御身をわが母、わが元后と仰ぎ、御身のしもべ(しもめ)として、わが身も心も持ち物をもすべて御身に捧げ、過去、現在、将来におけるわが善業の功徳をも悉く御身に捧げ奉る。われはわれと、われに属するすべてを現世においても来世におていても余すところなく御手に委ね奉る。願わくは天主の御栄えのため御旨のままに計らい給え。アーメン。

3)祈願文

Deus, qui de vivis et electis lapidibus aeternum majestati tuae praeparas habitaculum: auxiliare populo tuo supplicanti: ut, ecclesiae tuae corporalibus spatiis proficere detur nobis, spiritualibusque amplificetur augmentis. Per Dominum nostrum…

生ける選ばれた石らから、御身の御稜威(みいつ)のための永遠のすみかを備え給う天主よ、御身に懇願し奉るこの民を助け給え。そは、御身の教会の物体的建物が我等に与えられ、霊的増加により成長せんがためなり。我等の主イエズス・キリストによりて願い奉る。アーメン。

Omnipotens sempiterne Deus, qui in Corde beatae Mariae Virginis dignum Spiritus Sancti habitaculum præparasti: concede propitius; ut eodem Immaculato Cordi dedicata ecclesia detur nobis devota mente eodem Cordi consecrantibus, atque secundum Cor tuum vivere valeamus. Per Dominum … in unitate eiusdem Spiritus Sancti Deus…

全能永遠なる天主、御身は童貞マリアの御心において聖霊にふさわしき住まいをしつらえ給えり、願わくはこの同じ汚れなき御心に捧げられた教会が、同じ御心に熱心に自らを奉献する我等に与えられんことを。そは、御身の聖心に従いて我等が生くるためなり。我等の主イエズス・キリストによりて願い奉る。アーメン。

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え。
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え。
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え。




第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き9)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年05月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き9)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見



三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

  (Ⅲ)典礼の精神――三つの原理  (3/ 3)



 第三の原理――わたしは“司祭“である。司祭だからこそわたしは、聖体を祝別するとき、または他の秘跡を執行するとき、自分は”イエズス・キリストの聖役者“である、ゆえに、他のキリストである、との信念を、今さらのごとく新たにしなければならないのではないか。同時にまた、わたしはこれらの聖なる務めを執行するその事にこそ、自分の司祭職が要求する、いろいろの善徳を修得するための、特別の恩寵を見いだすのである、その度合いは、わたしの努力いかんによるのである、ということを、確信しなければならないのだ。
 ああ、イエズスよ、あなたの信者たちは、みんな集まって一つの神秘体をかたち造っています。だが、この神秘体においては、すべてのえだがみんな、同じ用をつとめるのではありません。(ローマ12・4)おのおののえだが頂いた天主の賜ものは、その分配において、みんなちがうのです。(コリント前12・4)
 あなたは、カルワリオの犠牲を、可見的にささげる任務を、地上の教会におゆだねになるおぼし召しから、司祭職を彼女に、ご委託になりました。そのおもな目的は、カルワリオの犠牲を、祭壇上に新たにし、次に秘跡によって、あなたの聖なる救世の御血を、人びとの上に雨ふらせ、あなたの天主的生命をそのなかにそそぎ入れて、神秘体を聖化するためなのです。
 最高の大司祭なるあなたは、永遠の昔から、司祭としてわたしをお選びになり、あなたの教役者として聖別するようお定めになりました。わたしの仲介によって、あなたの司祭職を、地上において継続するためなのです。あなたはわたしに、ご自分の権利をおわかちになりました。それは、わたしの協力によって、宇宙の創造よりもっと、もっと偉大な事業をなされるためです。すなわち、聖変化の奇跡をおこない、この奇跡によって、ホスチアとして、教会の宗教的中心として、世の終わりまで、地上におとどまりになるためなのです。
 司祭の尊厳の偉大さについて論じている、教父たちの感激にみちた文章を、わたしはどれほどの熱情をもって愛読し、理解することでしょう! かれらの言葉は、必然的にわたしに、自分はキリストの司祭職に参与したのだから、当然“他のキリスト”である、との考えをいだかせねばならないのです。
 じっさい、あなたとわたしの間には、互いに通じる“同一性”がないのでしょうか。なぜなら、わたしが“これは、わたしの体である。これは、わたしの血である”との聖別の言葉をとなえますとき、あなたはこれらの言葉を、ご自分のものとされるのですから、あなたの天主的ご人格とわたしの人格とは、こん然一体となって、もはや互いに分離することができないようになっているのではないでしょうか。わたしはあなたに、わたしのくちびるをお貸しするのです。なぜなら、わたしはなんのウソいつわりもなく、「これは、わたしの体である。これは、わたしの血である」ということができるのですから。あなたが、聖変化をお望みになるためには、ただわたしがそれを、望みさえすればよいのです。あなたのご意志は、わたしの意志のなかに、溶け込んでしまいました。あなたが地上でなすことのできる、最も大いなる行為たる聖変化において、あなたのご霊魂はわたしの霊魂に、緊密に一致しています。さらに、わたしはあなたに、わたしの持っているもののなかで、わたしにいちばん本質的なもの――すなわち、わたしの意志をお貸しします。するとたちまち、あなたのご意志は、わたしの意志のなかに溶け込んで、全く一つのものとなってしまうのです。
 それは本当に、わたしを通じておはたらきになる、あなたご自身なのです。ですから、もしわたしが、聖体の素材たるパンとぶどう酒にむかって、「これは、イエズス・キリストのおん体である。これは、イエズス・キリストのおん血である」とでも申しましたら、聖別は全然無効なのです。
 ああ、イエズスよ、聖体とは、とりもなおさず、パンの形色のなかにこもりまします、あなたご自身なのです。そして、ミサ聖祭の一つ一つごとに、わたしの目にはハッキリと、司祭は、あなたご自身にほかならないのだ、ということ、あなたの聖役者としてお選びになった、ひとりの人間のなかにかくれています、あなたご自身にほかならないのだ、ということ――この事実が浮きぼりにされて、あざやかにうつるのです。
 “他のキリスト”――わたしは、どんな秘跡を執行するときにも、そのたびごとに、この言葉が頭のなかに、よみがえってまいります。ただ、あなただけが、救世主のお資格をもって、「われ汝を洗す」とか「われ汝の罪をゆるす」とか、いうことがおできになります。このようにして、あなたは、世界創造のそれと全く同じ天主的権能を、つまり天主の全能を、お発揮になられます。
 それで天使たちも、無から万物をひきだした世界創造の“成れかし”のお言葉が、はじめて天主のお口から発せられた時よりも、いっそう大いなる驚嘆をもって、只今、わたしの罪ふかい口から発せられる聖別の言葉に、全身の注意を集中しているのです。なぜなら、わたしの口から出るこの聖別の言葉こそは――ああ、なんと不思議なことでしょう――この聖別の言葉こそは、天地の創造主なる天主を、地上に呼びくだし、この同じ天主と天主性を共有にし、生命を共有にする天主の御子を、地上に生まれさせる、という全能の力を、おのれのうちに持っているからです。
 わたしは、自分の司祭職の務めを執行するたびごとに、あたかもあなたが、わたしにむかって、こう仰せられているかのように感じます。――わが子よ、わたしは、天主の全能のちからによって、おまえを“他のキリスト”にしたのだから、おまえが日常の行為において、“非キリスト”または“反キリスト”であることに、どうして我慢できようか。それなのに、なんとまあ、悲しいことがあるものだろう! おまえは今しがた、わたしに溶け入り、わたしと一体になって、司祭職の務めを果たそうとしていた。だが、大罪をもっている。一瞬の後には、わたしの代わりに悪魔が、おまえの心にはいり込んで、おまえを“反キリスト”にしてしまうのだ。もしくは、おまえの霊魂をスッカリ麻痺させて、おまえに、わたしを模倣する義務、「わたしを着る」(聖パウロの言葉)義務のあることを忘れさせる。悪いとは知りながら、故意に忘れさせるのだ。
 そんなことは、絶対にあってはならないのだ。ただ人間的弱さのために、どうにもならない、心ならずも、日々の過ちにおちいる、だがすぐに痛悔し、償いをする、というのだったら、おまえはわたしの慈悲に、よりすがることができよう。だが、わざと不忠実の過失をおかしたまま、心は冷えきっている、そして痛悔の心もおこさないで、天使たちをさえ驚倒させる、崇高な務めにたずさわる――こんな調子だったら、わたしの怒りに、ふれずにはすむまい。
 おまえの司祭職と旧約の司祭職のあいだには、まさに天地のちがいがある。それでも、わたしの預言者たちは人民の罪のゆえに、または為政者の罪ゆえに、シオンにいかめしい警告を発したものだ。司祭たちの堕落から、どんな不幸が生まれたか。預言者のかきしるすところをきくがいい。

  主はその憤(いきどう)りを、ことごとくもらし、
  はげしい怒りをそそぎ、
  シオンに火をもやして、
  その石ずえまでも焼き払われた。
  地の王たちも、世の民らもみな、
  イエルザレムの門に、あだや敵が、
  討ち入ろうとは信じなかった。
  これはその預言者たちの罪のため、
  その司祭たちの不義のためであった。
  かれらは義人の血を、その町の中に流した者である。(イエレミア哀歌4・10~13)

 だからこそ、教会は、司祭が大罪をもちながら祭壇にのぼり、または秘跡を授与することを、どんなにきびしく禁ずることか!
 さらに、教会は、わたしの霊感を受けて、司祭たちに、もっときびしい要求をもちだす。――その式典の細則によって、教会はおまえをして、信心か偽善か、そのいずれかに、向背をきめなければならないように仕向けるのだ。おまえはどうしても内的生活に生きなければ、必然の結果として、どうしても偽善におちいらざるをえないようにされている。内的精神がないなら、おまえはミサの初めから終わりまで、心にもないことを、わたしにいってみたり、望んでもいないことを、願ったりする。
典礼の言葉や儀式には、それぞれ固有の意味が含まれている。
 それぞれ独特の精神が、ただよっている。
 わずかな過ちでも、これを痛悔し、償わねばならぬ。
 そのためには、心をよく取り締まっておかなければならぬ。
礼拝の精神にひたっていなければならぬ。
 そのためには、心を深く沈潜させておかなければならぬ。
 信・望・愛の精神に、浸透されていなければならぬ。そのためには、おのれの外的行為と事業について、日ごろ霊的指導をうけていなければならぬ。これらはみな、典礼の言葉や儀式と深いつながりをもっているからである。
 ああ、イエズスよ、わたしはよく了承しております。――もしわたしが、聖なる祭服を着用するにあたり、その祭服が表象するいろいろの善徳を、修得するように努力していませんなら、わたしは確かに一種の“偽善”におちいるであろうことを。で、これからは、典礼の儀式のあいだにする平伏や、十字架のしるしや、となえる聖句などが、けっして内的生活の絶無や冷淡や無関心を、おおいかくすのに便利な、ただのまねごとでありませんように。そうすることによって、かずかずの過ちに、いま一つの過ち、すなわち、永遠なる天主のみまえに、いつわりの仕ぐさ、偽善のふるまいをならべたてる、という過ちを、つけ加えないように注意したいものです。
 されば、わたしがあなたの恐るべき、奥義の数々に接するたびごとに、どうか聖なる恐怖が、わたしの魂をとらえますように。祭服を着るとき、またはミサ典書や定式書の感動にみち、力のこもった規定の祈りをとなえるとき、どうかそれらが、わたしの魂をさそって、わたしの心の中をくまなくさぐり、はたして自分は内的生活によって、あなたを模倣しようとのまじめな、効果的な望みを心にいだいているかどうか、はたしてわたしの心は、ほんとうにあなたの聖心とうまく調子があっているかどうか、ということを深く、反省させてくれますように。
 ああ、わが霊魂よ、おまえは心の中で、こんなことを考えているかもしれぬ。――自分は聖なる務めを執行する間だけ“他のキリスト”であれば、それでいいのではないか。したがって、“反キリスト”でなければ、なにも苦労してまで“イエズス・キリストを着る”という霊的はたらきを、一生懸命になってする必要はないではないかと。
 とんでもない。自分は“十字架にくぎづけられたイエズス・キリストの使節である”そればかりか、自分はさらに“十字架にくぎづけられた、他のイエズス・キリストである”と、公けに声明したわたしである。そのわたしに、どうして平凡な信心生活がゆるされるだろうか。どうして“貴族的”な信心に、苦労のない、お上品な善徳に、満足しきっていることがゆるされるだろうか。
 いや、修道院の人たちこそは、イエズス・キリストを模倣し、内的生活を修得するために、自分たち在俗司祭よりも、いっそう努力する義務がある……。ああ、わが霊魂よ、おまえはしいて、自分にそういいきかせて、逃げようとするのか。しかし、だれが逃がすものか! おまえは、たいへん、まちがっている。司祭と修道者の義務を、たがいに、はきちがえている。
 聖徳を達成するために、修道者は、ある手段をもっている。従順の誓願、清貧の誓願、会則の遵守などがそれだ。在俗司祭のわたしは、こういう手段には束縛されていない。だがしかし、わたしは修道者と同じ目的、同じ聖徳を追求し、達成する義務をせおっているのだ。しかも、キリストの御血を分配する務めなる、司祭職をゆだねられていない修道者にくらべて、この義務がどれほど強く、どれほど重いことか!
 わたしが、そのような錯覚におちいっているとは、なんと不幸なことだろう。この錯覚は、むろん罪になる錯覚である。なぜなら、教会や聖人たちの教えをしらべさえすれば、すぐにこの錯覚は霧のように、消えてしまうからである。永遠のしきいをまたぐとき、そのとき初めてわたしは、この錯覚がいかに愚かであったか、いかにまちがっていたかを、いっそう明らかにさとるのだろう。
 主よ、わたしが、典礼の務めにたずさわっていますとき、あなたがわたしから、何を要求しておいでなるかを悟るために、典礼の務めをよく利用するすべを心得ていませんなら、わたしはどんなに不幸なのでしょう。また、わたしを取りまく典礼の、いろいろな聖なる物品――祭壇、告解場、洗礼盤、祭器、祭服など――が、わたしの心にささやいている沈黙の言葉に、もしわたしが耳をかさなかったとしたら、わたしはどんなに不幸なのでしょう。
 「あなたがたは、手で扱う御者を、模倣しなさい」(司教用定式書)
 「主の器を持ち運ぶあなたがたは、清くありなさい」(イザヤ52・12)
 「あなたがたは、天主の火祭、すなわち、天主の食物をささげる者だから、聖でありなさい」(レビの書21・6)
 こんなぐあいに、聖なる物品は、わたしの心に語っておりますのに。
 ああ、イエズスよ、わたしがもし、これらの呼びかけに耳をふさぎますなら、いっそう言い訳ができなくなるだけです。なぜなら、わたしの司祭職の務めの一つ一つは、あなたがわたしの霊魂を、あなたのお姿にあやからしめるためにお与えになる、助力の恩寵の機会となるからです。そしてこの恩寵を、あなたに強くおねがい致します者は、母なる教会なのです。
 教会は、わたしがあなたのご期待に、そうことができますようにと、はげしく望んでいます。いつくしみ深い教会の母ごころは、わたしをあたかも彼女のひとみのように、それはそれは大事にしてくださいます。すでにわたしが司祭叙階式のまえ、わたしがあなたに同化して“他のキリスト”にならねばならぬ、その結果は至って重大な義務を負うものである、ということを、特に注意してくださったのは、教会ではありませんでしたか。
 「主よ、わたしの頭に、救霊のカブトをおいてください」「主よ、清浄の帯をもって、わたしに帯してください」「主よ、わたしのすべての罪をゆるしてください」「主よ、わたしをして、いつも主のおきてに愛着せしめ、一度でも主から離れることをゆるしたもうな……」(ミサ聖祭の祈り)
 このようなお願いを、あなたに致しますのは、ただわたし一人が、わたし一個人のためにするのではありません。すべてのまじめな信者たちが、あなたに奉献されたすべての熱心な霊魂たち――修道者、修道女、聖職者たち――が、わたしのこの貧しい祈りを、自分らのものにして、あなたにおささげするのです。
 かれらの叫びは、あなたの玉座まで昇っていきます。そして、あなたのおん耳にひびきますのは、あなたのいとしき花嫁なる、教会の声なのです。かくて、あなたの聖役者たちが、内的生活を追求しようと心にかたく決心して、かれらの心を、そのなしつつある務めに順応させますなら、かれらのために祈る教会のこれらの嘆願は、いつもあなたにききいれられるのです。
 ああ、イエズスよ、わたしがミサ聖祭を執行し、または秘跡を授与するにあたって、信者一同のために天父にささげる祈りは、もしわたしが怠慢の過失によってそれより除け者にされないかぎり、きっと自分のためにも、いろいろの恩寵をいただく機縁となるのです。わたしが司祭として務めを果たすたびごとに、わたしの心は、あなたの恩寵のはたらきに向かって、ひろく開かれているのです。そのとき、あなたはわたしの心に、超自然の光りと慰めと力をおそそぎになり、これによってわたしは、障害物がどんなに大きくても、あなたに同化することができるのです。ものの考え方も、愛情も、意志も、あなたのそれと全く同じものになることができるのです。あたかも、あなたがわたしの触媒によって、祭壇上で、生けるホスチアとなり、または霊魂たちの救い主となるときに、わたしの授かった司祭職が、永遠の司祭なるあなたに、わたしを全く同化させますように。



 わたしは以下に、典礼の精神なる三つの要点を、数語のうちに集約して示したい。

 (一)――教会と共に Cum Ecclesia
 わたしが、単にキリスト者として、教会に一致するとき、この一致はわたしをさそうて、教会と同じ思いにひたらせる。

 (二)――教会 Ecclesia
 わたしが、教会から、天主の玉座のもとに派遣された、使節として行動することにより、教会それ自体であるとき、そのときわたしは、教会の念願を自分のものにするようにとの、いっそう強い刺激を感じる。なぜなら、このように行動するとき、至聖なる御稜威(みいつ)の天主に、ものを申し上げるために、いっそうふさわしい者となるのだから。また、典礼という公けの祈りによって、わたしの使徒職はいっそう、実りゆたかになるのだから。

 (三)――キリスト Christus
 だが、キリストの司祭職に参与することによって、わたしがほんとうに“他のキリスト”
になるとき、ああ、イエズスよ、そのときあなたは、どれほど強くわたしに、お呼びかけになることでしょう――ますますあなたのお姿にあやかりますようにと。かくて、あなたのお姿にあやかることによって、信者たちにあなたをいっそう鮮明に示し、また、善き模範の提示による使徒職によって、かれらをあなたのおん後につき従わせるようにと。切実をきわめた、主のこのお呼びかけは、どんな言葉で表現できるのでしょうか!


2018年4月23日(月) 殉教者聖ジョルジオの祝日 「殉教者はちょうど、イエズスの十字架の木に付いたブドウの実のよう」

2018年05月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2018年4月23日(月)殉教者聖ジョルジオのミサ ミサの前のお話
小野田神父


今日は殉教者聖ジョルジオのミサを行います。
このミサの書簡では、「聖パウロが死ぬ前、復活したイエズス・キリストを告げ知らせた」という事が読まれます。まさに、復活後のイエズスを黙想している私たちに、復活したイエズス・キリストを命がけで信じた殉教者を思い出させます、考えさせます。

福音書ではブドウの木の例えが出ます。イエズス様こそブドウの木であって、ブドウの木である十字架に付けられたブドウの実であって、そしてそれが潰されてブドウ酒となって、御聖体となります。

同時にイエズス様は言われます。「私は本当のぶどうの木で、私の父は栽培者である。父は、私にあって実を結ばない枝をすべて切りとり、実を結ぶのをすべて、もっと豊かに結ばせるために刈りこんでくださる。」

「私にとどまれ、私があなたたちにとどまっているように。木にとどまっていない枝は自分で実を結べないが、あなたたちも、私にとどまっていないならそれと同じである。」

「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。」

殉教者はちょうど、イエズスの十字架の木に付いたブドウの実のようです。

ところで、この聖ジョルジオ(St. Georgius)というのは、特にビザンチン、コンスタンティノープルで非常に崇敬を受けていました。303年頃、デオクレチアノ皇帝の元に殉教した兵士でした。聖ジョルジオは、ギリシア語の発音では聖ゲオールギオスです。

イエズス様はご自分は本当のブドウの木で、私の父は「栽培者」である、と言われています。ラテン語では、Ego sum vitis vera et Pater meus agricola est. ギリシア語では、このブドウの「お百姓さん」のことを“ゲオールゴス”γεωργός と言います。(ギリシア語でゲオーとは「大地」を意味し、エルゴンとは「働き」を意味しています。)

イエズス様の父が、ゲオルゴス(栽培者)でなので、ちょうどこの聖ゲオルギオス(ジョルジオ)と重なって、この福音の言葉が読まれているかのようです。

2018年4月22日(主) 復活後第3主日 「少ししたらお前たちは私を見なくなる。が、しばらくしたら、また私を見るであろう」の御言葉を黙想する

2018年05月08日 | お説教・霊的講話
2018年4月22日(主日)復活後第3主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年4月22日、主の御復活後第3主日のミサです。今日この御ミサの後で、ミサの後の祈りの後に、非常に短いものですけれども、御聖体降福式をしようと思います。これは特に日本と世界の平和の為にも、朝鮮半島や中国大陸や、あるいは日本で戦争が起こりませんように、また多くの召命が日本に与えられますように、という事を願ってしたいと思っています。

その後に14時30分から公教要理があり、そしてそれが1時間くらい、そのまた後に聖歌の練習もしたいと思っています。聖霊降臨の祝日の聖歌を、少し皆さんと一緒に歌いたいと思っています、いらして下さい。明日は朝7時からミサがあります。

5月2日から6日は秋田での巡礼があります。その為に、本当ならば第1主日ではここでミサをするのが普通の予定でありますが、それができなくなっております、どうぞご了承下さい。次のミサは5月20日、聖霊降臨の大祝日です。


“Modicum, et jam non videbitis me et iterum modicum, et videbitis me.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日主の復活の後の第3主日では、イエズス様の有名な、「少ししたらお前たちは私を見なくなる。が、しばらくしたら、また私を見るであろう」というその御言葉があります。この意味を一緒に黙想する事にしましょう。

(1) まず、一体なぜ教会は、この言葉を選んだのか?

(2) 第2に、この教会はだからそれを聞いて、悲しんでいるのか?喜んでいるのか?喜んでいるのです。入祭誦で「喜べ」と歌った通りです。では一体なぜ喜んでいるのか?その理由としてイエズス様が2つ(2の1と2の2)を与えています。それでその2つの理由を見る事に致しましょう。

(1) 第1に、なぜ教会はこの言葉を選んだか?です。

イエズス様の御復活の後に、その復活が確かなものである事を証する為に、イエズス様は40日の間色々な弟子たちにお現れになって、一緒に食べたり、体を触らせたり、あるいは特に使徒たちに頻繁に現れて、今後教会をどのように運営していくべきか、という事を教えました。聖ペトロに、「私の羊を牧せよ」と言ったのも、復活の後でした。

そこで教会はまず、復活の後の第1主日には、聖使徒トマスと一緒に、イエズス様の傷跡に私たちの手を入れて、あるいはその体に触れて、「我が主、我が天主なり」という事を読みました。

第2の主日(実は先週ですけれども)は、このイエズス様が復活する事によって、私たちを導いて下さっている、善き牧者として導いて下さっている、という神秘を黙想しました。

第3の主日、今日は、これからイエズス様は私たちに何を期待しているのか?そして私たちに対して何をなさろうとしているのか?という事を黙想させます。

今日イエズス様が仰りたい、そして教会が私たちに伝えたいと思うのは、イエズス様は御自分の昇天についてです。イエズス様は、天に昇られるという事について話されて、そして私たちを準備しようとしています。「自分は天に昇る。聖父の元に行く。ではお前たちはどうするべきか。」


(2) 第2のポイントは、ではイエズス様はこの事で何を仰りたいかというと、まずイエズス様を見ないという間は、“Modicum”「しばらくの間だけだ。しかしその後には、私をまた見るだろう。」

(2-1) 【この人生は、ほんの束の間のこと】
この地上にいる間は、イエズス様を見ない間はほんの束の間だ、という事を教えています。これが第2のポイントの第一です。

ですから教会は今日書簡の中で、巡礼者への手紙を書いています、聖ペトロは私たちに向かって、「私たちが一体何であるか」という事を言います。


一週間前は、「私たちは失われた羊だ」とペトロは言いました。しかし今日は、「私たちは旅人だ。私たちは巡礼者だ。私たちは外国人だ。他所者だ。ここのこの地上に長くいる者ではない。ただ通り過ぎるだけだ。だから重い荷物を持って引きずって行くのではなくて、身軽に、そしていつも自分の帰るべき故郷の事をふるさとの事を、イエズス・キリストの事を思い出せ。だからこの地上においてはほんの束の間の事だから、この地上の間では王に従い、兄弟を愛し、そして奴隷たちであっても、どんな主人であっても従いなさい」と言います。なぜならば、この短い間の悲しみはあっという間に過ぎてしまうからです。

実際イエズス様は仰っています、「お前たちは私を見ないが、ほんのしばらくの間私を見ないだろうが、その間あなたたちは悲しむだろう。そしてこの世は喜ぶだろう。」

はい。カトリックのキリスト教のこの地上での生活は、確かにこの地上のものを、この地上での旅人であるという事を、天国への旅人である事を知っているので、巡礼者であるという事を知っているので、この地上のものに愛着したりとか、この地上のものを楽しんでそれに溺れてしまうという事がないので、あたかも悲しんでいるかのように見えます。そしてこの世は喜んでいるかのように見えます。でもそれはほんの束の間の間です。

確かに私たちの人生は、生まれた時から、赤ちゃんとして生まれた時から涙を流して、無意識の内にも、悲しい、お腹が減った、寒い、お母さんどこにいるの、あぁわ~んわ~ん、赤ちゃんの時から私たちは泣いています。そして大きくなっても、辛い事や、悲しい事、失望、思い通りにいかない事、友達からの誤解、善意の無視、あるいは嫌がらせ、事故、病気、あるいは愛する人との別れ等、辛い事もたくさんあります。私たちはこの地上での悲しみや苦しい事をたくさん経験しています。この苦しみのない人は誰一人もいません。

イエズス様もそうでした。イエズス様は私たちの苦しみをよく御存知です。子供の頃から、十字架の上に架かって亡くなられるまで、私たちが経験するであろう全ての苦しみと悲しみを、御自分で経験しておられます。もっと経験されました。更に深いものを経験しました。私たちが「まさかそこまで」と想像もつかないようなものまでも、イエズス様は敏感な聖心で体験して、涙を流されました。

そのイエズス様は私たちに、「この短い、この私たちの地上での生活は短いのだから、さぁ頑張れ」と励まして下さいます。

そればかりではありません。この短い生活の中にでさえ、私たちに多くの慰めと、希望と、そして御恵みを与えて、私たちがこの短い時間の悲しみと苦しみの生活を、よく耐え忍ぶ事ができるように、と助けて下さいます。

確かにイエズス様は目に見える形で、人間の形としては天に上げられて、そして聖父の右に座し給うのですが、しかしミサにおいては、私たちの目の前に、そして御聖体拝領においては私たちの霊魂に、私たちの体と1つになって、いつも傍にいて下さいます。

聖トマス・アクィナスは、もしも神学で難しい問題があったら、すぐに御聖櫃の方に行ってお祈りしたではないですか。聖人たちはいつも苦しい事、悲しい事があると、すぐにイエズス様の元に行って、「イエズス様、助けて下さい、憐れんで下さい」と言って、多くの慰めと光を受けたではないでしょうか。

イエズス様は私たちをどのように慰めるか、私たちの涙を乾かす事ができるか、励ます事ができるかをよく御存知です。「さぁ、この私の十字架をご覧。私の傷をご覧。私の脇をご覧。お前の為に苦しんだよ。その私の苦しみをちょっと考えてごらん」と招いています。そしてイエズス様の復活された御体を私たちが受けて、「これが待っているのだ」と仰って下さいます。

(2-2) 【束の間の人生の後に、永遠の喜びが待っている】
第2のポイントのその2は、イエズス様が「しかし、しばらく後に、お前は私を見るだろう。」ということです。

主語が変わっています、この福音の最後に。「そしてお前たちの悲しみは喜びに変わる。誰もこれを取る事ができない。」

これは遂に天国で、イエズス様と至福直観で、目と目を合わせて、顔と顔を合わせて、「天主が何であるか」という事をはっきりと見て、イエズス様の御憐れみの深さ、その愛の深さを、「そうだったのか!」という事をますます理解して、喜びに満ち溢れるその事です。誰もこの喜びを取る事はできません。

イエズス様は私たちを無から創りました、私たちにこの喜びを与える為に。アダムとエヴァはほんのちょっとしか要求されませんでした、この喜びを得る為には。しかしそのほんのちょっとさえも、アダムとエヴァはする事ができませんでした。そして全てをパーにしたのですけれども、それにもかかわらず、天主は人となって、私たちの上に私たちの為に赤ちゃんとしてお生まれになりました。私たちの為に30年間貧しい生活をされました。私たちがこのえも言えないとてつもない幸福を得る為に。

イエズス様は天主の聖子は、奴隷にこの幸せを与える為に、十字架に付けられて、御血を流されました。天主の聖子は私たちにこの永遠の命を与える為に、その手段として、パンとなって私たちに食べられる事さえも、たとえそれが粗末に扱われる危険にあったとしても、それが無視される、冷たく取り扱われる危険にあったとしても、私たちの為に御聖体を制定されました。世の終わりまで私たちと共にいて、私たちを慰めようとされています。「さぁ悲しむ者、苦しむ者は私の元に来なさい。私のくびきは軽く、甘美であるから。私はお前たちを回復させよう」と招いておられます。

このイエズス様が準備しておられる、今天国に行こう行こうとして、天の聖父の前で御自分の傷を、傷跡を見せて、「聖父よ、どうぞ彼らを憐れんで下さい。彼らが天国へ行くのを許して下さい」と懇願されています。その懇願を見て、聖父は決して拒む事ができません。

イエズス様はしかも私たちに、私たちに準備されているその至福というのは、聖パウロの言葉によると、「目でも見た事がなくて、頭でも考えた事がなくて、耳も聞いた事がなくて、心でも思った事もない、とてつもないものすごい喜びが待っている。その時にはもう、私たちの目の涙が全て渇いて、死もなければ、悲しみもなければ、苦しみもない。ものすごい喜びが待っている。この至福が待っている。」

この世の中でとっても嬉しい事があって、『ヤッター!わぁー!』と言いたい。それも天国と比べれば、この地上の喜びは何でもない。飛んでしまうような儚いもの。私たちがもう思う事もできないような喜びが、私たちの為に準備されている。

だから教会は今日入祭誦の中で、“Jubilate Deo, omnis terra, alleluia.”「全地よ、さぁ主に喜べ、アレルヤ」と喜びを歌っています。

ですから、「イエズス様が天に昇り給うて、私たちに最高の喜びを準備しようとしている」という事を教会は教えようとしています。「この地上の苦しみは短い。しかし終わりのない、無限の喜びが待っている」と。

(3) では、もしも私たちがその事を理解したとしたら、一体実際生活にどんな行動となって現れるでしょうか?それを遷善の決心として提案します。

1つは、「この世は短い。天国はものすごい」というと、私たちのこの信仰こそが、私たちの人生の全規定でなければなりません。

信仰は私たちにとって一番大切なもの、のみならず、全てをこの人生を決定する原理でなければなりません。つまり私たちがこの地上での悲しみや苦しみがあった時には、すぐに「これは手段であって、目的は何か」最終の目的まで目を向けなければなりません。手段と目的を混同してはいけません。多くの人はそれをこんがらがっています。

第2に、「この世は短い。永遠は素晴らしい」という事が分かると、イエズス様が私たちに、このいつも私たちを助けたい、と思っているその事を思い出して、私たちは日々、特に辛い事や悲しい事があった時に、イエズス様に射祷を唱えて下さい。

射祷というのは私たちの心の中で、口に出さなくてもイエズス様の事を思い出して、「イエズス様、憐れんで下さい。」「イエズス様、助けて下さい。」「イエズス様、愛しています。」などと祈ることです。

「イエズス様、私に御恵みをお願いします。」「イエズス様、このお友達の為に御恵みをお願いします。」「イエズス様、この彼らを憐れんで下さい、このお友達が苦しんでいます」「イエズス様、」と頻繁にイエズス様と一致して、心の中でコミュニケーションする事です。これを射祷と言います。是非なさって下さい。

私たちのこの地上での、短い地上での苦しみが、あっという間に慰めに変わります。なぜかというと、私たちには全てが与えられているからです。イエズス・キリストが与えられているからです。

第3にはそして最後には、イエズス様は確かに天国に行かれますが、肉体、目に見える人間の形としては。しかし御聖体としては、私たちの前に留まっています。御聖体をぜひ愛して下さい。

御聖体をどうぞ愛を以て、真に私たちを愛する善き牧者、復活したイエズス・キリスト、そして私たちに天国のとてつもない恵みを報いを与える方として、受け取って下さい。恭しく、深い礼拝を以て聖体拝領なさって下さい。

もしもできれば、ここのミサの会場でも、2ヶ月に1度ぐらいの割合で御聖体礼拝をたくさんしたいと思っています。イエズス様の聖心がますます、実は日本では非常に御聖体が粗末に取り扱われているので、ますます愛されて、ますます礼拝されますように、御聖体を愛して下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会による秋田巡礼の写真(その2)

2018年05月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

秋田巡礼では、マリア行列を行いました。









天主様に感謝します!

聖ピオ十世会による秋田巡礼の写真 2018年

2018年05月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

聖ピオ十世会による秋田巡礼の写真をご紹介します。







天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

栄えの玄義―第2玄義「主の御昇天」の黙想

2018年05月06日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義 第2玄義の黙想
(2018年4月21日(土)公教要理にて 小野田神父)


初土の信心の準備を致しましょう。秋田での黙想会があるので、きっとこの黙想は私たちが今から準備をしなくてもうまくできると思いますけれども、提案をしておきたいと思います。

4月の初土では既に、「イエズス様の御復活」を黙想しました。そこで5月の初土では、「イエズス様の御昇天」を黙想するのが良いのではないかと思います。イエズス様の御昇天の祝日もそのすぐ近くにあります。

今日提案するのは、2つのポイントがあります。

⑴ 1つは、イエズス様が弟子たちの目の前で昇天なさった、という事。

⑵ 第2点は、イエズス様が天に昇られて、聖父の右に座し給う。そして天国で私たちの為にお祈りをして、私たちを待っておられる。

というこの2つを黙想したいと思います。この内の1つの、第1の第2の部分の自分のお好きな、黙想しやすいものをなさって下さい。

⑴ 第1の点は、まず「イエズス様が弟子たちを集めて、そして皆の前で天に上げられる」という、「天にお上がりになる」という、その光景を思い浮かべて下さい。弟子たちが皆居る中で、皆さんもその群衆に混じって、私たちも居ると想像して下さい。そしてその私たちが居る前で、イエズス様が十字の印を切りながら、私たちを祝福しながら、天に昇って行かれるその姿を。

イエズス様は復活された後に、弟子たちの教育に特別に力を尽くします、40日間。特に使徒たちに現れて、教会の運営をどうするべきか、罪の赦しを与えたり、ペトロに「私の羊を牧せよ」等と言って、そして他の弟子たちにも現れたり、そして「イエズス様が確かに復活された」という事を表すのですけれども、それでも福音書によると、「まだ疑う人もいた」とあります。でもほとんどの人は、イエズス様のこの復活を信じていて、喜びと、イエズス様に対する愛情に満ちています。

イエズス様、復活されたイエズス様と会って、そしてイエズス様と一緒に、こう他の人たちと一緒にイエズス様を囲んで、イエズス様の話をこうしっかり聞く、聞いているその姿を想像なさって下さい。きっと私だったら携帯で写真を撮ったり、「ブログにアップしよう」とか、「ノートにイエズス様が仰る言葉を取ろう」とか、「日本語に翻訳しよう」とか。でもイエズス様は私たちの為にちゃんと日本語を話して下さいます。

するとイエズス様はその御昇天の前に、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。聖父と聖子と聖霊と御名によりて、洗礼を授けよ」という命令をされます。そして、「世の終わりまで、私はお前たちと共にいる。」

本当にイエズス様は私たちの目の前に、確かに目に見える形ではイエズス様は天に、目に見える肉体としては天に行かれましたけれども、しかし御聖体においては、本当に私たちの前に、私たちと共に留まっておられます。

聖パウロは、「イエズス様が復活して天に居るのだから、私たちの心も天に上げなければならない」と言います。

聖ヨハネは、「この世のものを愛するな」と言います。

イエズス様が天にお昇りになって、そして私たちの為に天の門をもう一度開いて、そして多くの天使たちの喝采とアレルヤの讃美の元に天国に入る、という時にどれほどの喜びがあったでしょうか。イエズス様の十字架の苦しみ、屈辱、辱め、受けた暴言、冒瀆、その他の嫌がらせを全く忘れさせるような、栄光と、喜びと、幸せが、イエズス様を取り囲みます。

もしも私たちが、この世の辛さや、嫌がらせや、何かでくじけそうになった時には、イエズス様のこの栄光が、私たちを勇気づけてくれます。きっと全ての天使たちも、そして聖人聖女も天国で、私たちが天国に上がるのを待って、イエズス様と同じような栄光を受けるのを待ちに待っているはずです。

明日のミサ [復活後第三主日] を見ると、実は既に教会は、イエズス様の昇天の事を私たちに思い出させています。

イエズス様の復活したその直後、最初の主日は、復活から一週間の後には、弟子たちと共に聖トマスと共に、イエズス様の傷跡に手で触れて、あるいは脇に手を入れて、「確かにイエズス様は復活した。」私たちに「お前たちに平和あれ」というその優しい慰めと、赦しと、励ましの言葉を聞かせて下さるのです。

第2週目はイエズス様は、私たちに善き牧者として現れます。私たちを憐れんで、私たちを探して天から降りて、私たちを天に連れて行こうとしている善き牧者。

ところで既に明日の第3週には、イエズス様の昇天について、教会はもう注目するようにしています。明日この2つの読書があります。

1つは聖ペトロが、「私たちは一体どんな状況にいるのか」という事を話します。「私たちは旅人だ。私たちは巡礼者だ。私たちは他所者だ。外国人だ。だからこの地上の、この地上でずっと長く居ると思うな。」

ある信者さんが、昔岩国から大阪のミサに来ていた信者さんの家に遊びに行った事があるのだそうです。その岩国に居た子は外国人で、アメリカ人だったのですけれども、その日本人の信者さんがその子の家に遊びに行ったら、「あぁ、ヨゼフくんの家には何も無いんだよね」と言ったのそうです。外国人なので、別にたくさんの家具を持つ必要もないし、たくさんの物を持って家の中をゴタゴタさせる必要もなく、いつでも日本を発つ事ができるように、いつでも引っ越しをする事ができるように、ほんの必要な物だけしかなかったようです。

私たちも、本当の祖国は、本当の国は、家は、天国にあるので、この地上ではただの仮の住まいで、ほんの一時的な外国生活、旅人であって、実は外国人なので、ですからいつも身軽でなければなりません。そのカバン1つで、軽いカバン1つで移動する事ができるようでなければ、あんまり重たいものを持っていると、リヤカーも引いて、キャンピングカーとかを後ろに何台も引き連れて、「一体何がそんなに必要なんですか?」というぐらい、財産をたくさんかき集めても、結局はここに置いてさよならをしなければならない。

イエズス様の昇天は私たちに、「私たちがこの地上では、ほんのちょっとの間しかいない寄留者であって、旅人である」という事を思い出させてくれます。

私たちは物をたくさん集める傾向があります。イエズス様の例えの中にも、「ある人が大きな倉を作って、たくさんの財産をそこに集めて、『あぁこれで安心だ』と財産を貯蓄し終えたその時に、『あぁ、お前は今日実は天の国に召されるのに。使い切れないほどの貯めた財産は一体誰が使うのだ。一体誰の物なのか。これはきっと遺産相続の争いの種になるだけだ』」というような話を聞きます。

明日のミサはもう1つ、イエズス様が福音で、「私たちが旅人だ」という事をもう一度思い出させて下さって、「しばらくの間お前たちは私を見ないが、しかしもう一度私を見るだろう。そうするとお前たちの喜びは、誰も取り去る事ができないものに変わるだろう。今のお前たちの悲しみは喜びに変わるだろう」という言葉があります。

教会はこれを、「イエズス様の昇天」に典礼では適用させています。しばらくの間私たちはイエズス様を見ないのですけれども、このしばらくが経つと、短い人生が終わると、イエズス様をもう一度見ます。顔と顔を合わせて。その時の私たちはもう、涙はもう、聖ヨハネによると黙示録によると、「涙は拭い去られて、そしてもはや死も、苦しみも、悲しみも、病も全くない。」聖パウロの言葉によると、「目も見なかった、耳も聞いた事がない、そして頭にも考え付いた事がないような、ものすごいとてつもない幸せが私たちを待っている。その為にイエズス様は天に昇って、私たちの為に準備をされている。」

イエズス様が天に上げられた、これを思って下さい。

⑵ 第2のポイントは、イエズス様は天に昇られたのみならず、天の聖父の右に座して、そして私たちの為にいつも執り成しをされている、お祈りして下さっている。聖父の前でこう傷を見せて、「この傷はこの人の為です。これに免じて、どうか憐れんでやって下さい。」それを見ると聖父も、「そうだな。全くそうだ。」聖子の執り成しの通りにされます。

天主聖父は肉体がないので、右も左もないのですけれども、座るとか座らないとかもないのですけれども、しかし公教要理によれば、「『右に座す』というのは、天主聖父のその栄光のその地位のそのすぐ次だ。誰もその上にはない。イエズス様とその聖父の間に、その誰か立つような人はいない。」

イエズス様はその「聖父の右に座す」というのは、天主聖子としてではなくて人間として、被造物としてそうされています。ですから天使ケルビム、セラフィム、その9階の天使たちという被造物をはるかに超えて、「人間であるイエズス・キリスト様が、天の最も高い地位にあげられて、人間として。そしてその地位は揺るぎがない。『座す』というのは非常に安定していて、その地位を所有して確保している、という意味だ」と公教要理は言っています。

誰かが「自民党総裁の椅子に座っている」と言えば、それは日本の首相とか、「政権を執っている党の党首の椅子に座っている」と言えば、これは日本で一番偉い権力がある人になりますけれども、イエズス様は、天主の聖父の右に座しておられます。なぜかというと、それは私たちに御恵みを注ぐ為で、私たちをより効果的に天国に導く為で、より良い最高の方法で、私たちに天国の至福を与える事ができる為です。

誰かが「地位のある座に着く」と言ったとしたら、権力を思いのままに使う為かもしれませんが、しかしイエズス様の場合は、私たちを救う為です。私たちをより良く愛する為。

もしも今の首相の地位に座っている人が、私の友達だったら、「ああ、安倍晋三?お友達で、携帯を知っているよ。LINEもやっている」というかもしれません。

しかしイエズス様は、天主聖父の右に座しているイエズス様はもっとすごいのです。地上の友達どころじゃないのです。LINEをやっているところではありません。ツーと言えばカー。並んで待たなくてもお祈りでお願いをすれば、すぐ「そうか」と聞いて下さる。いつも目の前におられて、そして私たちの為に何かを与えようと待っておられる。

もしも私たちが御恵みを受けないとしたら、それは唯一、私たちがお祈りをしなかったとか、し方が悪いとか、不足しているとか、心が込もってなかったとか。イエズス様が、「さぁ、さぁ、さぁ、何が欲しいのか!」と待っておられるのに。

そこでこの第2のポイントでは、イエズス様が天のいとも高き、最も素晴らしい御稜威の座に、謙遜に、そして憐れみ深く座っておられて、私たちの事をよく耳を澄まして聞いておられる、これを黙想して下さい。

天使は、ファチマの天使はジャシンタとフランシスコ、それからルチアの3人に、「イエズスとマリアのいとも聖なる御心は、あなた達の為に憐れみの計画がある。憐れみのデザインがある」と言いました。耳を研ぎ澄まして、私たちからの祈りを待って聞こうとしているのです、天の最も高きところで。

イエズス様は私たちを幸せにしようと思っているのですけれども、私たちにそれをしなくても、イエズス様はもうそれで別に自分はこれだけ幸せなので、私たちが幸せになろうともならなくとも、別にイエズス様の幸せに変わりはないのですけれども、どんな事があっても私たちを幸せにしたい、と思っています。非常に優しい、非常に憐れみ深い父親であって、そしていつも変わらず、常に変わらずに助けてくれる恩人であって、善き牧者で、私たちの世話をしようと心を砕いている、寛大な救い主です。

その優しい、優しい、憐れみ深い、いつも慈悲の愛と、慈母の心に満ちている甘美なイエズス様が、天の一番高い地位の玉座に座っておられる。何とかして聖父の心を動かさして説得しようと、聖父に私たちの為に取り次いでおられる。私たちが何とか永遠の報いの褒美を受ける事ができるように、一生懸命私たちの為に説明をして、理由をかけて弁護しておられる。

そういうイエズス様がいつも私の傍におられる、というのは、私たちにとって何と力の励みになる事でしょうか、力強い応援になる事でしょうか。

イエズス様の私たちの為に準備して下さった、その無限の終わりのないとてつもない喜び、それを遂に受けたその日には、「あぁイエズス様、この喜びを私に下さる為に、私を無から創造して下さったのですね。イエズス様に何度も逆らって、イエズス様の御恵みを無にしてきたにも関わらず、私を諦めずに、私の為にいつも憐れみ続けて、天国にまで導いて下さったのですね。」

イエズス様の憐れみの深さとその巨大さを思えば思うほど、そして自分のした愚かさと不忠実を思えば思うほど、私たちはイエズス様に感謝して、感謝して、感謝して、感謝して、「ありがとう」と言って永遠でも足りないほどです。「何と素晴らしい救い主を私たちは得た事だろうか。何とイエズス様の憐れみは優しくて、その情は深い事だろうか。何と私はイエズス様に対して冷たくて、そして無礼で、忘恩だっただろうか。そして今この受けている幸せと喜びの大きさ、受けている名誉と栄光の大きさを考えると、一体私が何をしただろうか。」イエズス様の良さと親切さ、憐れみの深さに、もうひたすら感謝と、感謝と、感謝しかありません。

もうこの地上での最高の喜び、最大の幸せというものがあったとして、天国のその幸せと喜びと比べると、全く比べ物にもなりません。この世の幸せが100集まって、あるいはこの世の全ての幸せが集まって、天国のちょっとした幸せと比べたとしても、全然比べ物にもなりません。目も見た事がない、耳も聞いた事がない、頭にも思い付く事ができないほどの、私たちの知性をはるかに超える、想像を超える至福が待っている。イエズス様がそれを今準備している。何という恵まれた私たちでしょうか。

昨日、食事をした後に御聖堂まで戻ってくる時に、「信仰を受けた私たちと、信仰を受けない人の違い」という事を少しぽろっと話して下さった方がいます。

「信仰を受けた私たちは、イエズス様から最高のものを、今この生きている内から受けている。イエズス様の御教え、イエズス様の御恵み、イエズス様の御聖体、命、祝福、あれでもかこれでもか、たくさん受けて、受けて、受けて、受けて。片やもう一方は、全くそれを知らない。これには無限の差がある。」

イエズス様は私たちに、この「とてつもない喜びを受ける事ができるように」と天から私たちを探して来て下さったばかりか、ここに私たちの目の前にずっと留まっておられるばかりか、天国に昇って天主聖父の前で、すぐ前で、「聖父よ、御身を愛し奉る。」そして御自分の従順と、苦しみと、犠牲の証を見せて、「御覧下さい。これに免じて、この霊魂たちを天国に」と絶えず取り次いでくれる。

聖ヨハネによると、第1の書間の3章です、「天主が栄光の内に現れる時に、私たちは天主のようになる。そして天主をそのあるがままに見るだろう。」

聖パウロは言うのです、「今生きている間は、曇った鏡を見るように、おぼろげに見ているけれども、信仰によって。しかしその日には、顔と顔を合わせて、天主をはっきりと認識する。その私たちは天主と1つになって、1つの栄光、1つの命を、えも言えない至福を感じる。至福直観を得る」と言っています。

その私たちが受ける、そのあまりにもとてつもない幸せと比べると、この世の全ての地上の富も、権力も、喜びも、楽しみも、幸せと思える事も、本当に水洗便所で流されるちり紙のようにあっという間にシューッ!という風に思えてしまいます。

この黙想の終わりには是非、イエズス様に心と心でお話なさって下さい。マリア様の汚れなき御心を通してお話なさって下さい。

「マリア様、御身の汚れなき御心は私の避難所であって、天へと導く道です。どうぞイエズス様の元へ連れて行って下さい。この近道を通って、汚れなき御心によって守られて、天国にまで無事に辿り着きますように、お守り下さい。」

「イエズス様、イエズス様は私にそのイエズス様のその幸せと、喜びと、全く同じ喜びを与える為に、私に下さる為にこの苦しみを受けました。イエズス様の愛に感謝します。もしも私が辛い事に直面した時に、重い十字架を担わなければならない時に、『やった!これこそ、この十字架こそが、私がイエズス様のようになる為の道だ!これこそ年金を貯めるチャンスだ!今このここで、この十字架を担う事によって、天国でのものすごいものを今準備する事ができる!』と思わせて下さい。」

聖ヨハネ・ボスコのお母さんマルガリタは、ドン・ボスコがたくさん孤児とか子供たちを、わんぱくな子供たちをたくさん連れて来て、ご飯は食べるわ、洗濯物はたくさんあるわ、服を汚すわ、掃除はしなければならないわで大変だったのです。それである日、「ヨハネ、もうこれ以上私、耐えられません。この子供たち、あんまりにも野蛮で」と言ったら、 ドン・ボスコは、天国の事を言って、イエズス様の十字架を見せたそうです。

コルベ神父様もいつも、「天国!」「天国!」と仰っていました。

そこで私たちもマリア様の汚れなき御心に行って、「天国の事を思い出す事ができますように。特に苦しい時に、辛い時に、日常いつでも。」その良い決心を取って、黙想を終えて下さい。

では、黙想の提案を終わります。何かこの黙想でご質問はありますか?初土曜日には、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向を持って、告解をされて、御聖体拝領をして、そして5連ロザリオを唱えて、15分黙想なさって下さい。

聖ピオ十世会による秋田巡礼

2018年05月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会による秋田巡礼は、朝の歌ミサをもって終了しました。14名が、無原罪の聖母の騎士会に入会しました。天主様に感謝!マリア様に感謝!



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

五月七日月曜日には朝7時に東京で聖伝のミサがあります

2018年05月05日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 五月七日月曜日の朝七時から、東京で聖伝のミサがあります。

 よろしくお願いします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

秋田の聖母への巡礼2018年

2018年05月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年も秋田の聖母のところへ巡礼に参りました。

 57名の方々が、一緒にマリア様のところに集いました。

 今日の初土は、ファチマの聖母行列を行い、飛び入りも赤ちゃんも含めて、87名でマリア様を賛美しました!

 マリア様ありがとうございます!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

2018年4月21日(土) 教会博士証聖者司教聖アンセルモ 「聖アンセルモの生涯、どうやって聖人になったか」

2018年05月05日 | お説教・霊的講話
2018年4月21日(土)教会博士証聖者司教聖アンセルモのミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年4月21日、聖アンセルモ証聖者司教教会博士の祝日を祝っています。このミサの後に、来たる初土曜の聖母の汚れなき御心の信心の黙想のテーマとして、イエズス様の御昇天のテーマを黙想する準備をしようと思っています。もし時間がありましたらいらして下さい。

5月3日から6日までは秋田の巡礼があります。もう締め切りはすぐに迫っていますので、ぜひ皆さん今年の巡礼に参加するように、ぜひ計画を立てて下さい。

5月は大阪ではミサが2回あります。5月の主日のミサと12日のミサと、それから19日・20日の金・土とミサがあります。どうぞいらして下さい


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は小さなお友達がミサに来てくれて、とっても嬉しく思います。
今日は、聖アンセルモという教会の立派な聖なる司教様の祝日です。この聖アンセルモというのは一体どんな人だったのか?いつどこで生まれて、どんな事をして、何で司教様になったのか?司教様になって何か偉い事をしたのかな?何でこんなに偉くなったのだろうか?

この今、この聖アンセルモという人が、私たちに何を教えているのだろうか?僕もどうすると、こんな聖アンセルモのような立派な人になる事ができるだろうか?という事を一緒に黙想しましょう。

黙想の後で、今日は遷善の決心、これから良くなろうという決心を立てる事にします。このミサの御恵みをたくさん頂く、というお願いをします。

聖アンセルモという人は、3つの場所で働きました。
(1) 1つはアオスタというイタリア、
(2) もう1つはフランスのノルマンディーという地方にあるベックという所、
(3) それから最後にはイギリスのカンタベリーという所なのです。それでその3つの場所に分けて、聖アンセルモという人がどういう人生を送ったのでしょうか?

最後に (4) どうやってどうして聖人になったのか?という事を見て、今日の良い決心を立てましょう。

(1)聖アンセルモは、イタリアの北の方のアルプスの見える、とても綺麗なアオスタという所に生まれました。神父様も神学生の時に、スイスとイタリアの国境のすぐ近くにいたので、このアオスタというのは知っています。ローマに行く為に車で行くと、アオスタという所があって、そこからはスイスのアルプスが見えて、とっても綺麗な所なのです。そこに1033年に生まれました。今から約1000年ぐらい前に生まれた方なのです。

長男で、お父さんもお母さんも貴族でした。カトリックの家に生まれました。お父さんの名前はゴンドルフォスと言います。お母さんの名前はエルメンベルガと言いました。でもお父さんはどちらかと言うと、あんまり信心にお祈りに興味がなかったような人で、それよりももっと政治とか、この世俗の事に興味を持っていた人のようです。裕福な人でした。お母さんはそれよりも、信心深く子供の教育を良くしようと思っていた人です。きっと今日いらした小さなお友達のお母さんのようだったでしょう。

それでお母さんは、聖アンセルモがまだ小さかった頃、「あぁ、この子には良い教育をつけなければならない。だからベネディクト会の修道士たちがいる修道院に預けよう」と思って、「神父様、この私の子供をぜひ預かって下さい。そしてこの子に立派な教育を授けて下さい」と言って、子供の教育を委ねました。

子供ながらアンセルモは、文字を学んだり、アルファベットを学んだり、読み書きを学んだり、数学を学んだり、色々頭の良い子であるという事をぐんぐんと見せていきました。それで子供ながらにもう、「あぁ、この神父様や修道士の方々が一緒にこうやってお祈りをしている生活は素晴らしい。そしてこのいつもお祈りしている天主様の御国というのはどこにあるのだろうか?きっとアルプスのこの綺麗な山の、雪のかかっている綺麗な所の高い極みの、一番きれいな黄金のきっと素晴らしい御殿があって、そこの彼方の素晴らしい所に天主様がいらっしゃるに違いない」と思っていました。

ある日、実際に夢の中で、その空の高い彼方の所から、天主様がイエズス様が、「さぁ、アンセルモや、おいで」と呼びかけているのを見て聞いたのです。それで長い間、夢の中でイエズス様と親しく語らって話して、「あぁイエズス様、そうなんですか」という色々お話をして、イエズス様がとても優しくアンセルモに教えてくれて、そして最後には、「さぁアンセルモや、このパンをあげよう」と言って、真っ白いパンをアンセルモにあげたのだそうです。

聖アンセルモはその夢の事を起きてもずっと覚えていて、「僕はこのここに行きたい。イエズス様の白いパンを食べたい。イエズス様と一緒に生活したい。イエズス様から与えられる使命を果たしたい」と思いました。そして「修道院に入りたい。ベネディクト会に入りたい」とお父さんに言うのです。

するとお父さんは、「ダメだ!お前は働いて、お金を儲けて、俺のようになれ」と言われたのです。すると、そうするとそれを聞いてがっかりして、「お願いですから」と言ってもお父さんはウンともしないので、遂には病気になってしまいました。

病気もどんどんどんどん重くなるばかりで、もうこれで熱も出て、苦しんで、もうこれでこの子の命もない、という風になりました。するとアンセルモはお父さんに、「お願いだから、もうこれでもう命がないかもしれないから、少なくとも修道士の着ているような服を着させてほしい。そしたらそれで良い。それでもうこのまま天国に行きたい」と言ったのですけれども、それもお父さんは許しませんでした。非常にがっかりして、辛い思いをしたのです。でも、特別のお母さんのお祈りで、アンセルモの病気は治りました。

ところがその代わりに、アンセルモが死ぬ代わりに、お母さんが亡くなってしまいました。それに非常にがっかりしたアンセルモは、家を出てしまったのです、「もう希望はない。お父さんは修道院に入るのを許してくれなかったし、今までの支えだったお母さんもいなくなってしまったし、もう、もうこの世はもう僕にとって何の意味もない。それよりもこの世の何か面白おかしいものがあるんじゃないか」と言って、放浪の旅に出てしまったのです。15歳の時です。

(2)そうやって3年間、フランスや色々な所で遊び呆けて、放浪の旅をした後に、遂にノルマンディーに、ベネディクト会の修道院に辿り着いたのです。もしかしたらお金が無くなったのかもしれません。もしかしたら「家に泊めてほしい」とお願いしたのかも、「宿が無い」と言ったのかもしれません。

するとそこには、非常に立派な神父様がいらしたのです、修道院長様がいらしたのです。ランフランクという方です。その方がそのアンセルモに、「お前、勉強したらどうか。お前頭が良い子だ。」そして今まであんなにベネディクト会で、イタリアのアオスタのベネディクト会の修道院で勉強して、とても頭の良い子だという事を示したのですけれども、もう遊び呆けてしまっていた、不良になっていたこのアンセルモを、この神父様がお祈りの力で元に戻してくれたのです。

すると、「あぁ、このような立派な神父様の仰る事だったら、僕はやる」と言って、そして勉強をし出して、そしてまた今までのように遊び呆けている生活を止めて、祈りの生活と立派な生活をしようと思ったのです。

そして遂に、「やっぱり昔子供の頃思ったように、修道士になるのが良い。なりたい」と思って、27歳の時に、そのベネディクト会に入会する事にしました。そしてそれと同時に、とても頭が良い子だったので青年だったので、その修道院長様のランフランク神父様が、「お前は今まで勉強してきたから、神父様にもなりなさい。」そして司祭に叙階されました。27歳でした。

ところがそれから3年後、その今まで居たこの指導して下さったランフランク神父様修道院長様が、別の大きな、もっと大きなカーンという所にある街の、大修道院長様に任命されたのです。今までの修道院長よりももっと位の高い、大修道院長という所で、小さな修道院をたくさん指導する立場になったのです。とても聖徳の高い立派な神父様だったので、そうなって当然でした。

では一体、この小さなベックの修道院の修道院長は誰がやるのか?となったら、ランフランク修道院長が、「私は今からカーンに行くから、お前が後を継ぎなさい。」「え!?でも、私はたった3年しか修道生活をしていません。まだ神父様になったばっかりです。他の方はもっと経験も積んでいるし、何十年もやっている方がたくさんいますから、このような神父様がなさったら良いのじゃないでしょうか。」「いや、お前がやりなさい」という事で、修道院長に任命されました。ベックでの修道院長の生活が始まりました。

でも若い、修道院に入りたての若造が、この司祭が神父様がいきなり修道院長になって、他の人に「こうして下さい」「こうして下さい」と、「神父様、朝寝坊してはいけませんよ。お祈りの時間にちゃんと、遅れてはいけませんよ」などと言うと、「何だお前、若いくせに」と言われたかもしれません。そこで最初は、妬みとか、嫌がらせとか、このアンセルモが修道院長になるのは反対した人々もいました。

しかし聖アンセルモは、お祈りと、そしてたくさんの犠牲と、たくさんの謙遜と、柔和と、愛徳で、他の人たちを皆自分の友達にして、そして天主様の友達にして、その人々の生活をますます変えていったのです。

そしてアンセルモが今度は、修道院にいる人たちを教育する立場になると、今までのようにこう強制的に「こうやりなさい」「ああやりなさい」ではなくて、「こうするともっと良くなるよ」「これをするとこんなに良い事があるんだ」と色々説得や、優しいやり方で、あるいは自由を与えながらも、それでも健全な自由を与えながらも、自ら進んで徳に進むように、習得をするように、犠牲を払うように、お祈りをするように、と勧めていったのです。

すると聖アンセルモの立派な模範に倣って、今まで「そうかなぁ」と思った、「嫌だなぁ」と思った人たちがますます、「私もこうなりたい」と言って、アンセルモに倣ってお祈りと、苦行と、犠牲をたくさん捧げるようになりました。

聖アンセルモはそれでも満足しませんでした。今までお祈りと、他の仕事を規則通り正しくやったのみならず、今度は夜の時間を使って、祭壇の前に行って、涙ながらにたくさんイエズス様に、マリア様にお祈りをしました。たくさんのお祈りをして、たくさんお願いをしました。祈れば祈るほど、聖アンセルモの言った一言が他の人々の心に響いて、人々の生活をますます変えていったのです。

そうすると、このベックの修道院の創立者であったおじいさんの神父様の、ヘルルイン神父様が亡くなりました。その神父様が一番の方だったのですけれども、「それの後継者になるように」と言われて、1079年、そのヘルルイン神父様の後継者になりました。46歳の事でした。

(3)そうこうしている間に、今までお世話になったランフランク様は、カーンの大修道院長だったのですけれども、是非、カンタベリーというイギリスで一番立派な、一番地位の高い教区の司教様になってほしい。

日本では色んな司教様がいますけれども、その中で一番地位の高いのは東京の司教様です。フランスでは色んな司教区がありますけれども、その中で一番地位が高いのはリヨンの司教様です。イギリスでも色んな所がありますけれども、ロンドンの司教様よりももっと地位が高いのが、カンタベリーの司教様です。そこの大司教様になってほしいと言われて、なりました。

ランフランク大司教様がイギリスでの大切な仕事をしている時に、「もしこの自分の仕事が立派にできる為には、助けが必要だ。その助けは、この世界中どこを探しても一人しかいない。それは祈りをしている聖アンセルモだ。アンセルモ神父に来てもらおう」と言って、「ベックの修道院からカンタベリーに来てくれるように」とお願いしました。

それで、やはりランフランク大司教様の助けをする為に、イギリスの全ての道徳と信仰をますます盛んにする為に、人々の生活をますます良くする為に、聖アンセルモは一生懸命働きました。が、そうこうする内に、ランフランク神父様は亡くなってしまいました。するとそのまま、フランスに帰る事ができずに、「そのランフランク大司教様の後継者となってほしい」と皆から頼まれて、イギリスのカンタベリーの大司教になりました。

ところが、そこの当時イギリスの王様はとても野心家でした。3つの事をしました。何をしたかというと、「教会の司教様を選ぶとか、誰かを任命するという権利は、ローマの教皇様じゃなくて、俺が持っている、王様が持っている」と主張していました。これは嘘なのですけれども、「でも自分にその権利がある。だから任命させろ」と言っていました。

でも聖アンセルモは、「ノーノー。ノーノー。いや、あなたにはありません。教会の事は、教会で決めます。王様は、王国の事だけを考えて下さい」と言って、王様に「ノー」と言いました。「教会は、王様の支配から自由です。」

また王様は、教会に多くの人が、「神父様、この財産を使って下さい。」「この土地を寄付します。どうぞここの土地を寄付しますので、教会を建てて下さい。」「ここで土地を寄付するので、学校を作って下さい。子供を教育して下さい」と言うと、王様が行って、「そこの教会の土地には税金をかける。」或いは「この教会は俺のものだ」と言って没収してしまったり、欲を出して来ました。

それでも聖アンセルモは、「王様、教会はこれは寄付で成り立っているのです。営利企業ではありません。税金をかけてもらっては、私たちはどこから税を払うのでしょうか。修道士はただで働いています。王様、これは他の方の善意で頂いた土地です。なぜ王様が取ってしまうのですか」と言って反対しました。

すると非常に怒ったウィリアム王は、このアンセルモに対して迫害を始めます、反対をします。そして遂には、「アンセルモよ、もしも言う事を聞かないなら、お前の土地を、お前の教会を没収してしまうぞ。お前の地位を取ってしまうぞ。イギリスから追放するぞ!」「王様、私は本当の事を言っているだけです。もしもそうなさりたいならそうなさって下さい」と言って、イギリスの国外に追放されました。

そして聖アンセルモは、ローマに行きます。教皇様の元に行って、すると教皇様は、「あぁアンセルモよ、よく来た!お前の助けが必要だ。」と言って、実はその当時「公会議」と言って、「バリの公会議」という特別の教会の会議があって、「今ギリシャの人々の異端説があるので、これを説得しなければならない。どうぞ神学の知恵と、祈りの知恵を与えてほしい」と言って、そしてそのバリの公会議では、聖アンセルモが大活躍しました。祈りと犠牲のそのおかげでした。

聖アンセルモがその公会議で活躍をし終わったような時に、ちょうど今までアンセルモに意地悪をしていたイギリスの王様のウィリアムは亡くなってしまいます、死んでしまいます。すると兄弟のヘンリーが王様になって、アンセルモに言います、「アンセルモ大司教様、もうこれからは没収もしませんし、教会に税金もかけませんし、それから司教様の任命などもしません。ですから戻って来て下さい。」

そして聖アンセルモはカンタベリーに戻って、そして聖職者や、その教区民や、イギリスの人たちから大歓迎を受けます。それからますます祈りと犠牲を以て、イギリスの国民をますます良い生活に、「イエズス様に倣った生活をするように」と言って、模範と、言葉と、愛徳を以て一生懸命働いて、イギリスに戻った後の3年後、1109年の4月21日の今日、ちょうど今から900年前、聖アンセルモは亡くなります。

その時に聖アンセルモは、「こういう声を聞いた」と記録に残しています。「お前は、私の試練の時に、私と共に留まってくれた。だから私はお前に、私の王国を与えよう。さぁ、お前は私の王国のテーブルに食卓について、一緒に食事をするだろう。」ちょうど子供の頃見た、夢の中で見たイエズス様との対話がまたよみがえってきて、「さぁ今こそお前は、私がお願いした全ての事を果たしたのだ」という事を理解しました。

(4)では、アンセルモはアオスタで生まれて、フランスのノルマンディーのベックという所で働いて、そしてイギリスのカンタベリーという3つの所で働いたのですけれども、900年の後に2009年には、アオスタの人も、ノルマンディーの人も、カンタベリーの人も皆1つになってローマに来て、大きな900年祭を祝いました。

一体何が、このイタリア人も、フランス人も、イギリス人も、国を超えて、聖アンセルモにおいて1つになって、この偉大な修道者を司教様をお祝いして、記念をしようと思ったのでしょうか?

このその理由は1つしかありません。それは、聖アンセルモというのが、「いつもイエズス様と一致していた、イエズス様とお祈りをしていた、イエズス様の事を黙想していた、イエズス様の事を考えていた」からです。

だからこそこの人に特別の価値があったのです。

ちょうど塩が塩の味を付けていなかったら、役に立たずに捨てられてしまうように、私たちも一番価値があるのは、イエズス様とのお祈りをして、イエズス様の事をいつも考えて、イエズス様と一致していて、イエズス様を愛している、イエズス様の御旨を果たしている、ここに私たちの価値があるのです。

聖アンセルモは私たちに、「人間というのは、天主様にお祈りしてなんぼやで」と教えています。

お祈りをすればするほど、人間に価値が出てきます。そうすればするほど、国を超えて、場所を超えて、時代を超えて、「立派な人だ。これこそ本物だ」と、ますます塩の味が効いてくる人になります。世の光になります。

ですからこの聖アンセルモが子供の頃から考えていた、この祈りに、イエズス様への愛に、今日来てくれた小さなお友達たちもぜひ倣うようになさって下さい。

イエズス様に今日はたくさんお祈りして下さい、「イエズス様、僕もイエズス様と親しく、イエズス様の事がよく知りたいと思います。イエズス様の事を、イエズス様と親しくお話したい、イエズス様を喜ばせたいと思います。どうぞ助けて下さい。」

「マリア様、僕が聖アンセルモのように、イエズス様をよく知り、愛する事ができるように、お祈りして下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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