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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き8)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年05月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き8)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

(Ⅲ)典礼の精神――三つの原理  (2/ 3)



 第二の原理――典礼の務めをとりおこなうとき、わたしは“全教会の代表者”として行動しなければならない。そのとき、わたしは、光栄の至りにも、教会から正式に委託された公的資格を、深く心に自覚しながら、他のすべての善徳にも進歩しなければならない。――以上のことを、天主はわたしから、お求めになるのだ。

2e Principe: Lorsque dans une fonction liturgique j'agis comme Représentant de l'Eglise. Dieu désire que je Lui exprime ma vertu de Religion en ayant conscience du mandat officiel dont je suis honoré, et qu'ainsi uni de plus en plus à la vie de VEglise, je progresse dans toutes les vertus.

 ああ、イエズスよ、わたしは教会の名によって、また、教会のすべての子らの名によって、あなたをとおして、たえまなく天主に賛美と祈願のいけにえをささげることができるように、そのためにこそ教会の代表者となったのですから、シエナの聖ベルナルディノの美しい表現をかりて申しますなら、わたしは“全教会のくちびる”persona publica totius Ecclesiae となったのです。
 だから、典礼の一つ一つの務めをとりおこなうたびごとに、わたしの人格には、あたかも一国の使節におけるごとく、いま一つ、別の資格が加わるのです。個人的資格としての使節――それは、私生活における、だれのだれがし、かれ一個人でしかありません。けれども、かれが一国の使節としての資格をおびるとき、そのときかれは、自分を派遣した国の君主の名によって語り、かつ自分の君主の名によって行動します。それと同時に、かれは自分の君主の代理者となり、ある意味において、自分の君主の人格そのものとなる、といっても過言ではないでしょう。
 典礼の“務め”を果たすとき、わたしもちょうど、そんなものになります。わたしの個人的資格に、いま一つ、公式委任をわたしにおびさせる位階――すなわち、公的資格――が加わるのです。そんなわけで、わたしは自分を、全教会から、天主の玉座のまえに派遣された使節、その公的代表者だと考えることができ、またそう考えなければなりません。
 典礼に使用する祈願文においても明らかなとおり、その文句を選んだのは決してわたしではありません。教会こそは、それをわたしのくちびるに、のせてくださったのです。だから、わたしのくちびるをとおして祈るのは、教会であり、語るのも、行動するのも、教会自身なのです。あたかも一国の君主が、その使節をとおして、語り、行動しますように。ゆえに、そのときわたしは、聖ペトロ・ダミアノの美しい表現をかりますなら、そのときわたしは、ほんとうに“全教会”l'Eglise tout entière となるのです。[Per unitatem Fidei, Sacerdos Ecclesia tota est et ejus vices gerit. (S. PET, DAM, Opusc. XI, cap. X. — Patr. lat., t. OXLV, col. 289.) — Quid mirum si Sacerdos quilibet... vicem Ecelesiae aolus expleat... cum per unitatis intimae Sacramentum, tota spiritualiter sit Ecclesia. (S. PET, DAM., loc. cit.)]
じじつ、わたしによってこそ、教会は、イエズス・キリストの敬神行為に参与し、至聖なる三位一体の天主に、礼拝、感謝、償い、祈願をささげるのです。

 ゆえに、主よ、もしわたしがすこしでも、自分の貴い位についての自覚がございましたら、きっと、例えば聖務日課を始めるときなど、ある神秘の思いに、わたしの全存在はひたされることでしょう。この聖なる思いは、わたしを、わたし自身の思いから超越させます。自然的な考えから、脱け出させます。そして、自分は、天と地の間の唯一の仲介者のようなものである、との深い確信を、霊魂のなかに生じます。
[Medius stat Sacerdos inter Deum et humanam naturam; illinc venienda beneficia ad nos deferens et nostras petitiones illuc perferens. (S. JOAN., OHRYSOST. Hom. V. n. 1, in itiud: Vidi Dominum)]

 これらの真理を忘れるなら、わたしはどんなに不幸でしょう。聖人たちはみな、この確信にひたされていました。
[Pourquoi le Prêtre qui récite son Bréviaire dit-il, même lorsqu'il est seul: Dominus vobisoum? Et pourquoi répond-il: Et cum spiritu tuo, au lieu de répondre: Et cum spiritu meo? Non, dit saint Pierre Damien, le prêtre n'est pas seul. Quand il célèbre ou prie, il a devant lui toute l'Eglise mystérieusement présente et c'est elle qu'il salue en lui disant: Dominus vobiscum. Puis, comme il représente l'Eglise, celle-ci lui répond par sa propre bouche: Et cum spiritu tuo. (Cf. S. PET. DAM. I. Dom. vob.f c. 6, 10, etc.) Ce sont ses pensées que nous reproduisons.]

この確信に生きておりました。典礼の務めをとりおこなうとき、今さらのようにわたしは、この確信を新たにしなければなりません。それを天主は、わたしからお求めになっていられるのですから。自分は、全教会の代表者である、ということを、わたしが忘れないようにと、教会は、典礼生活によって、たえまなく、わたしを励ましてくださいます。そして、天主も、わたしが実生活において、この資格にふさわしい、模範的な生活をすることを、わたしからお求めになります。

 ああ、わが天主よ、教会がわたしに委託したこの聖なる使命を、深く身にしみて自覚し、また高く評価する恩寵を、どうぞわたしにお恵みください。心の戦いにうみ疲れましたとき、わたしはこの自覚のうちに、どれほど強い活動刺激剤を見いだすことでしょう。同時に、キリスト者であることの偉大さを、よくさとるお恵みを、おあたえください。子供のような心で、あなたの教会によく従う恩寵をも、お恵みください。そういたしましたら、きっとわたしは、聖なる典礼のなかに蓄積されている内的生活の宝を、思うままに利用することができましょう。

   (続く)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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