Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き8)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年05月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き8)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

(Ⅲ)典礼の精神――三つの原理  (2/ 3)



 第二の原理――典礼の務めをとりおこなうとき、わたしは“全教会の代表者”として行動しなければならない。そのとき、わたしは、光栄の至りにも、教会から正式に委託された公的資格を、深く心に自覚しながら、他のすべての善徳にも進歩しなければならない。――以上のことを、天主はわたしから、お求めになるのだ。

2e Principe: Lorsque dans une fonction liturgique j'agis comme Représentant de l'Eglise. Dieu désire que je Lui exprime ma vertu de Religion en ayant conscience du mandat officiel dont je suis honoré, et qu'ainsi uni de plus en plus à la vie de VEglise, je progresse dans toutes les vertus.

 ああ、イエズスよ、わたしは教会の名によって、また、教会のすべての子らの名によって、あなたをとおして、たえまなく天主に賛美と祈願のいけにえをささげることができるように、そのためにこそ教会の代表者となったのですから、シエナの聖ベルナルディノの美しい表現をかりて申しますなら、わたしは“全教会のくちびる”persona publica totius Ecclesiae となったのです。
 だから、典礼の一つ一つの務めをとりおこなうたびごとに、わたしの人格には、あたかも一国の使節におけるごとく、いま一つ、別の資格が加わるのです。個人的資格としての使節――それは、私生活における、だれのだれがし、かれ一個人でしかありません。けれども、かれが一国の使節としての資格をおびるとき、そのときかれは、自分を派遣した国の君主の名によって語り、かつ自分の君主の名によって行動します。それと同時に、かれは自分の君主の代理者となり、ある意味において、自分の君主の人格そのものとなる、といっても過言ではないでしょう。
 典礼の“務め”を果たすとき、わたしもちょうど、そんなものになります。わたしの個人的資格に、いま一つ、公式委任をわたしにおびさせる位階――すなわち、公的資格――が加わるのです。そんなわけで、わたしは自分を、全教会から、天主の玉座のまえに派遣された使節、その公的代表者だと考えることができ、またそう考えなければなりません。
 典礼に使用する祈願文においても明らかなとおり、その文句を選んだのは決してわたしではありません。教会こそは、それをわたしのくちびるに、のせてくださったのです。だから、わたしのくちびるをとおして祈るのは、教会であり、語るのも、行動するのも、教会自身なのです。あたかも一国の君主が、その使節をとおして、語り、行動しますように。ゆえに、そのときわたしは、聖ペトロ・ダミアノの美しい表現をかりますなら、そのときわたしは、ほんとうに“全教会”l'Eglise tout entière となるのです。[Per unitatem Fidei, Sacerdos Ecclesia tota est et ejus vices gerit. (S. PET, DAM, Opusc. XI, cap. X. — Patr. lat., t. OXLV, col. 289.) — Quid mirum si Sacerdos quilibet... vicem Ecelesiae aolus expleat... cum per unitatis intimae Sacramentum, tota spiritualiter sit Ecclesia. (S. PET, DAM., loc. cit.)]
じじつ、わたしによってこそ、教会は、イエズス・キリストの敬神行為に参与し、至聖なる三位一体の天主に、礼拝、感謝、償い、祈願をささげるのです。

 ゆえに、主よ、もしわたしがすこしでも、自分の貴い位についての自覚がございましたら、きっと、例えば聖務日課を始めるときなど、ある神秘の思いに、わたしの全存在はひたされることでしょう。この聖なる思いは、わたしを、わたし自身の思いから超越させます。自然的な考えから、脱け出させます。そして、自分は、天と地の間の唯一の仲介者のようなものである、との深い確信を、霊魂のなかに生じます。
[Medius stat Sacerdos inter Deum et humanam naturam; illinc venienda beneficia ad nos deferens et nostras petitiones illuc perferens. (S. JOAN., OHRYSOST. Hom. V. n. 1, in itiud: Vidi Dominum)]

 これらの真理を忘れるなら、わたしはどんなに不幸でしょう。聖人たちはみな、この確信にひたされていました。
[Pourquoi le Prêtre qui récite son Bréviaire dit-il, même lorsqu'il est seul: Dominus vobisoum? Et pourquoi répond-il: Et cum spiritu tuo, au lieu de répondre: Et cum spiritu meo? Non, dit saint Pierre Damien, le prêtre n'est pas seul. Quand il célèbre ou prie, il a devant lui toute l'Eglise mystérieusement présente et c'est elle qu'il salue en lui disant: Dominus vobiscum. Puis, comme il représente l'Eglise, celle-ci lui répond par sa propre bouche: Et cum spiritu tuo. (Cf. S. PET. DAM. I. Dom. vob.f c. 6, 10, etc.) Ce sont ses pensées que nous reproduisons.]

この確信に生きておりました。典礼の務めをとりおこなうとき、今さらのようにわたしは、この確信を新たにしなければなりません。それを天主は、わたしからお求めになっていられるのですから。自分は、全教会の代表者である、ということを、わたしが忘れないようにと、教会は、典礼生活によって、たえまなく、わたしを励ましてくださいます。そして、天主も、わたしが実生活において、この資格にふさわしい、模範的な生活をすることを、わたしからお求めになります。

 ああ、わが天主よ、教会がわたしに委託したこの聖なる使命を、深く身にしみて自覚し、また高く評価する恩寵を、どうぞわたしにお恵みください。心の戦いにうみ疲れましたとき、わたしはこの自覚のうちに、どれほど強い活動刺激剤を見いだすことでしょう。同時に、キリスト者であることの偉大さを、よくさとるお恵みを、おあたえください。子供のような心で、あなたの教会によく従う恩寵をも、お恵みください。そういたしましたら、きっとわたしは、聖なる典礼のなかに蓄積されている内的生活の宝を、思うままに利用することができましょう。

   (続く)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き7)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年05月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き7)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

(Ⅲ)典礼の精神――三つの原理  (1/ 3)
III. Esprit Liturgique.

 ああ、イエズスよ、典礼の生活をいとなむためには、天主の典礼にかんするすべての事がらについて、特別の愛好と興味をもっていなければなりません。ある人びとには、あなたはすでに無償で、典礼生活への愛好と興味を、お与えになりました。他の人びとは、そのような特権を、あまり多くは頂いておりません。しかしながら、それをあなたに、お願い致しさえしますなら、また、かれらが典礼をよく勉強し、深く考察し、自分にそれを適用しさえしまうなら、かれらはまちがいなく、黙想の恩寵をあたえて頂くことでしょう。
 典礼生活の利益について、深く黙想すればするほど、どんなにつらいぎせいを払っても、それを手に入れたいとの望みが、渇くように起こってくることでしょう。わたしは今、この生活を他と区別するその特徴に、かつ霊的生活において重要な地位をしめるこの典礼生活のいろいろの特質に、しばし心の目をとどめることに致しましょう。

 ああ、イエズスよ、ミサ聖祭のあいだ、思いと志をもって、たとえ遠くからでも、あなたの教会と一致しますのは、どんなに偉大なことでしょう。教会の公けの祈りに、そのたえまない祈りに、自分も溶け入って共に祈るのは、どんなに偉大なことでしょう。このようにして、信者の心は、いっそう確実に、いっそう高く、天主の方へと飛んでいくのです。――賛美と礼拝、感謝と償罪、希求と嘆願、の翼にのせられて。
 典礼の聖なる奥義、公けの祈り、教会の祭式に、能動的に参加する。敬けんな態度で、かつ典礼の意味をよく理解して。……祝日の奥義や、祭式の奥義を、よく利用しようと心がける。いっそう具体的に申せば、ミサに答えたり、ミサの祈りをとなえたり、聖歌をうたったりする。――これこそは、主よ、あなたの教会の精神に、いっそう直接にひたり入る手段ではないでしょうか。これこそは、まことのキリスト教的精神の流れいずる第一の、そして欠くべからざる源泉から、救いの水を、じかに汲みとることではないでしょうか。(ピオ十世教皇『自発教令』)
 しかし、ああ、教会よ、あるいは司祭叙階により、あるいは修道誓願宣立によって、全人類に代わって、公けの祈りを天主にささげるために、天使たち聖人たちと一体になり、あなたの使節たるの資格をもって、毎日、天主の玉座のまえにはべることは、どれほど尊い使命なのでしょう。だが、それよりも、ほとんどくらべものにならないほど、いっそう崇高な使命、そしていかなる言葉をもっても、表現できない神々しい使命――それは、秘跡を執行し、ミサ聖祭をささげることによって、わたしがあなたの神聖な、教役者を務めるときに、他のあなた自身となる、ということです。



 第一の原理――わたしは“教会の肢体”である。
 教会の肢体であるわたしは、キリスト信者として、典礼の儀式にあずかるとき、実は全教会と一体になっているのだ。それも、ただ単に、諸聖人の通功のみによるのでなく、イエズス・キリストの神秘体なる教会が、一箇の“社会”として、天主にささげる敬神行為に、実際に、そして能動的に協力する、という事実によって、自分は全教会と一体になっているのだ、ということを深く確信しなければならない。そして、この一体化によって、教会は容易にわたしの霊魂を、キリスト教的諸徳の修得にむかって、教育することができるのである。

1er Principe : Membre de l'Eglise, je dois être convaincu que lorsque comme chrétien, je prends part à une cérémonie liturgique, je suis uni à toute l'Eglise, non seulement par la Communion des Saints, mais en vertu d'une coopération réelle et active à un acte de religion que l'Eglise, Corps mystique de Jésus-Christ, offre à Dieu comme Société. Et, par cette union, l'Eglise facilite maternellement la formation de mon âme aux vertus chrétiennes.

 ああ、イエズスよ、あなたの教会は、一箇の完全な社会であり、その構成員はみな、たがいに密接に一致しています。そしてかれらは、いっそう完全な、いっそう天主的な社会――すなわち、選ばれた人びとの社会なる天国の教会を、形成するように運命づけられています。
 キリスト信者として、わたしは、あなたを頭とし生命とする、この神秘体の枝なのです。あなたは、わたしを、ご自分のえだとしてごらんになります。そして、わたしがみまえに出て、あなたはまことにわたしのかしらである、わたし自身は、あなたのオリの羊である、と考えますとき、そのときわたしはあなたに格別のよろこびをお与えするのです。げに、この羊のオリの牧者は、ただあなたお一人であり、このオリのなかに、戦闘の教会、苦悩の教会、凱旋の教会の全員は、たがいに仲よく集まっています。
 あなたの使徒聖パウロは、この教義を、わたしに教えています。この教義は、わたしの霊魂をおおらかにし、私の霊生の地平を広くします。聖パウロはいっております。
 「一つの体に、たくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな、同じ働きをしているのではない。わたしたちも、数は多いが、キリストにあって、一つのからだであり、また各自は、たがいに肢体である」(ローマ12・4-5)
 かれはさらに他の箇処で、「からだが一つであっても、肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である」(コリント前12・12)ともいっております。これこそは、あなたの教会の一体性です。すなわち、教会は、その全体におけるがごとく、部分においても、不可分です。その全体においてはもちろん、全教会の生命がそこにあり、さらにその部分の一人一人においても、全教会の生命がそこに流れています。
 教会は、聖霊に一致しています。そして、イエズスよ、教会は、あなたにも一致しています。そしてこの一致から、われわれは、御父と御子と聖霊の唯一の、しかも永遠の、だんらんにまでみちびかれるのです。
 教会は、信者の集団であり、信者は同一の権威のもとに、同一の信仰、同一の愛によってたがいに結ばれ、このようにしてキリストに合体される、という同一の目的を追求しています。しかも、この目的を達成するための手段も同一であり、それは“恩寵”という一語のなかに、つづめられます。そして、恩寵の運河は通例、祈りと秘跡なのです。
 偉大な祈り、恩寵のすばらしい運河――それは、主よ、教会自身の祈り、典礼の祈りなのです。典礼の祈りは、他のいかなる個人的祈りよりも、他のいかなる信心会の祈りよりも、はるかに有力です。個人的祈りや集団的祈りが、福音書のなかで、どれほどすすめられ、また、どれほど力があるにせよ、典礼の祈りにははるかに及びません。
 洗礼の秘跡によって、わたしは真の教会に合体され、天主の子ども、キリストの兄弟となったのですから、当然他の秘跡にもあずかり、聖務日課にも、ミサの功徳にも、免償にも、教会の祈りにも、あずかる権利をあたえられたのです。わたしは、兄弟たちのすべての恩寵、すべての功徳のわけまえにも、あずかることができます。洗礼によって、わたしは永遠に消えない印章を、霊魂にしるされました。この印象によって、わたしは教会から、指定された儀式にしたがって、天主の礼拝に参加する資格をあたえられたのです。

 洗礼の秘跡によって、わたしは天主の国の一員となり、聖ペトロがいっておりますように、「選ばれた種族、王的司祭衆、聖なる国民、天主につける民」(ペトロ前2・9)となったのです。ですから、わたしは単にキリスト信者としても、聖なる教役に参加することができます。それは、ごく遠方から、間接的な仕方で、たとえば祈ることによって、わが身を奉献の一部分となすことによって、ミサ聖祭に協力することによって、典礼の聖務にあずかることによって、なされるではありましょう。だが、そのあいだに、聖ペトロが極力すすめているとおり、いろいろの善徳を実行する、天主をおよろこばせしたい、天主に一致したい、との目的をもって万事をおこなう、「わたしのからだを、一つの生ける、聖なる、天主のみ心にかなった、霊的いけにえとして、天主にささげる」(ペトロ前2・5)のです。

[Sacerdotium sanctum, offerre spirituales hostias, acceptabiles Deo per Jesum Christum, (I Pet., II, 5) — C'est dans ce sens que S. Arabroise dit: Omnes filii Ecclesiae sacerdotes sunt; ungimur enim in Sacerdotium sanctum, offerentes nosmetipsos Deo hostias spirituales. (In Lucam, lib. IV, n. 38. — Patr. lat. t. XV, col. 1645) — Sicut omnes Christianos dicimus, propter mysticum Chrisma; sic omnes Sacerdotes, quoniam membra sunt unius Sacerdotis. (S. Aug. De civil. Del, lib. XX, cap. X. — Patr. lat., t. XLI, col. 676)]

 この真理を、ああ、教会よ、この真理を、あなたは、司祭がミサのあいだ、両手をひろげて、「わが兄弟たちよ、わたしとあなたたちのいけにえが、天主にこころよく受けいれられるように祈りなさい Orate fratres ut meum ac vestrum sacrificium accepitabile fiat.」というとき、わたしに深く理解させてくださいます。さらに司祭は、カノンの祈りのあいだにも、「主よ、主のしもべ、しもめらを記憶したまえ。……また、ここに集まっているすべての人も記憶したまえ。われらはこの賛美のいけにえを、かれらのためにささげ、また、かれらはこの同じ賛美のいけにえを、あなたにおささげいたします」といい、さらにあとで、「されば、主よ、ねがわくはしもべたるわれらと、また主の全家族とのささげものを、親しく受けおさめたまえ」とも祈るのです。
 げに、聖なる典礼は、全教会の共同の聖業です。それは、司祭の業であり、同時に信者の業でもあります。この一致の奥義こそは、使徒信経に宣言されている、われわれの信仰箇条の一つなる“諸聖人の通功”の不滅の効力によって、時々刻々、現実に具体化されていきます。典礼の主要部分である聖務日課とミサ聖祭は、全教会がそれに参加しないでは、全教会が神秘的にそこに臨席しないでは、どうしても執行されないのです。ゆえに、典礼においては、万事が共同で行われます。万人の名によって執行され、万人の利益のために執行されます。そのためにこそ、典礼の祈りはすべて、複数になっているのです。
 同一の信仰と、同一の秘跡への参与によって、すべての肢を、一つの体につなぐ、この諸聖人の通功から、人びとの霊魂に、兄弟愛が生まれてくるのです。そして、この兄弟愛こそは、自分が本当に、イエズス・キリストの模倣者であるか、その追随者であるか、を実験するための唯一の試金石であり、キリストの弟子を、他の人びとと区別するための、特徴ともなるのです。「あなたがたが、互に愛しあうならば、それによって、あなたがたが、わたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13・35)
 教会の各肢を、密接に結びあわせるこの愛のキズナは、われわれが“諸聖人の通功”によって、超自然的・天主的生命の与え主なる、頭なるキリストの恩寵と愛に没入すればするほど、それだけいっそう強くなる。これらの真理は、典礼生活の基礎であり、典礼生活はいつも、この真理に帰っていく。
 ああ、天主の聖なる教会よ、「わたしは、あなたの体の一肢である、わたしは、キリストの肢体である」とのこの考えは、あなたにたいして、どんなに強い、どんなに烈しい愛を、わたしの心に起こさせることか! この愛はまた、わたしに、いかばかりの大いなる愛を、すべてのキリスト信者にたいして感じさせることか! かれらはみな、わたしの兄弟であり、われわれはみな、キリストにおいて“一つ”なのだから。この愛はまた、わたしに、いかばかり深く強い愛を、わたしの頭なる天主の人イエズス・キリストにたいして、いだかせることか!
 ああ、母なる教会よ、あなたにかかわりのあることで、わたしに無関心なものは一つとしてありません。わたしの心は、あなたを迫害する者らを見ては傷つき、あなたの征服と勝利を見ては喜びにたえません。わたしが、わたし自身を聖化するとき、そのときあなたは、ますます美しくなり、わたしの兄弟なる教会のすべての子らも、同時に聖化され、かくてわたしは全人類の救霊のためにも、直接に働くことになるのです。このように考えるとき、わたしはどんなにうれしいことか!
 ああ、天主の聖なる教会よ、わたしはできるだけのことをして、あなたがもっと美しく、もっと聖に、もっと数おおくの子どもらの母になるよう、心から望み、また、そのために働きたいのです。たくさんの肢から成り立っている、あなたの体のかがやきは、あなたの子らの一人一人の完全さから、生まれてくるのです。あなたの子らはみな、あいたがいに、緊密な連体性のキズナで結ばれ、そしてこれこそは、最後の晩さんの後になされたイエズスの、かの一致を祈求する司祭的祈りの眼目であり、聖心のまことの遺言でもあったのです。「御父よ、かれらが一つになりますように。……かれらが完全に一つになりきってしまいますように」(ヨハネ17・21)
 ああ、わが母なる教会よ、わたしはあなたの典礼の祈りを、いかばかり高く評価していることでしょう。わたしは、あなたの数多くの肢のうちの一つだから、典礼の祈りは、同時にわたしの祈りでもあるのです。わけても、典礼にあずかり、典例に協力するそのときに、あなたのものはみな、わたしのもの、わたしのものはみな、あなたのものです。
 一滴の水は、ゼロにひとしいけれども、大海原の水にあわされるとき、それは大海の大能と広大さにあずかります。あなたの祈りにあわされるとき、わたしの祈りも、ちょうどそのようになります。天主には、いっさいが、現在ばかりです。天主のおまなざしは、過去も未来も、現在と同時に、一望のもとに抱ようします。その天主のおまなざしの前にあって、わたしの祈りは、天主をたたえる全宇宙の妙なる交響曲のなかに溶け込み、それと一つになって、天主の玉座のまえにのぼっていくのです。この天主の賛美は、あなたが地上に創設されましたその日の朝から、世界終末の夕べにいたるまで、たえまなく、かなでられていくのです。
 ああ、イエズスよ、あなたはわたしの祈りが、ある観点からいって、功利的であることを、おのれの貧しさをうったえるものであることを、ある利害関係を頭においたものであることを、お望みになっておられます。だが、あなたは“主の祈り”において、天主にものをお願いする、その願いの順序をお教えくださり、それによって、わたしの祈りが何よりも先ず、天主の賛美にささげられるべきものであるであることを、いかばかり深くお望みになっておられるか、そのこともお教えくださいました。さらに、わたしの祈りが、ただ自分一人だけの利益を目的にした利己的な、狭少な、排他的なものであってはならない、その願いごとは、わたしの兄弟たちのすべての必要を、残らず抱含していなければならない、ということ、これらのことも、お教えくださいました。
 このような祈りは、至って高尚で、おおらかな心から出るものなのです。どうか典礼の生活によって、この祈りが、たやすくできますように。このような祈りは、心戦を台なしにせず、天主には大きな栄光を帰します。このような祈りは、天主の愛にみなぎり、兄弟愛に脈うち、そして世界的です。すべての人を抱含し、教会のすべての必要、すべての利害に関心をもっています。
 ああ、聖なる教会よ、あなたの天配なるキリストのために、新しき子どもを絶えまなく生み、これを「キリストの全き成長の量に至らせる」(エフェゾ4・13)のは、あなたの使命なのです。そしてこの使命を達成するために、あなたはたくさんの方法をもっておられます。あなたが、典礼を至って大切にされる、そのことがすでに、わたしが天主に賛美をささげるのに、わたしが霊的に進歩をとげるのに、典礼がどんなに効果的であるかを、雄弁に物語っているのではありますかいか。
 公生活のあいだ、イエズスは、「あたかも権威ある者のごとくに」(マテオ7・29)お語りになった。ああ、わが母なる教会よ、あなたもまた、このイエズスのように、お語りになるのです。あなたは、真理の遺産の保管者です。あなたはこの使命を、よく自覚していらっしゃいます。あなたは、救世主の御血の分配者です。あなたは救世主から委託された、人類聖化のすべての資源を、すべてごぞんじです。

 あなたは、わたしの自然の理性に、救世主のこれらの奥義を、よく調べなさい、よく研究しなさい、とはおっしゃいません。あなたは、わたしの“信仰”にお呼びかけになるのです。「わたしを信用しなさい、わたしは、おまえの母ではないか。わたしは、おまえが毎日、おまえの天主的モデルなるイエズス・キリストに、いっそうよく似ていくようにと、そのことばかり念願しているのではないか。さて、キリストの浄配なるわたし以外に、だれがいっそうよく、キリストを知っているだろうか。典礼のなかでなければ、どこにキリストのほんとうの精神を、見いだせるだろうか。典礼こそは、わたしの考えとわたしの思い――それは同時に、キリストのお考えとお思いにほかならない――を、まちがいなく、正確に、みごとに、表現し尽くしているのだから……」
 ごもっともでございます。わが聖にして母なる教会よ、わたしは子供のように、単純と信頼の心をもって、あなたの手にみちびかれ、あなたに教育されるままになっておりましょう。「わたしは、わが母とともに祈ります」といいながら。この言葉は、あなた自身、わたしのくちびるにのせてくださいました。この言葉にみちびかれて、わたしは、あなたの精神にひたり入り、あなたの思いを、わたしの心に通じることができるのです。
 ですから、ああ、聖なる教会よ、あなたと共に、わたしは喜び、こおどりしましょう。あなたと共に、わたしは嘆きましょう。あなたと共に、わたしは主のお憐れみを、よびたのみましょう。あなたと共に、わたしは主に希望いたしましょう。あなたと共に、わたしは主をほめたたえましょう。あなたと共に、わたしは主をお愛しいたしましょう。そして、熱烈な心をもって、あなたが感嘆すべき典礼の祈りにおいて、お示しになっている祈願に溶け入りましょう。そういたしましたら、典礼の聖なる言葉と祭式から、ほとばしでる聖なる感動が、わたしの心にいっそう深く浸透し、聖霊のおすすめにはいっそう速やかに従うようになり、かくてわたしの意志は、天主のご意志のなかに、あます処なく、溶け入ってしまうことでしょう。

 (続く)


今日、5月2日は初水曜日(月の初めての水曜日)です「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」

2018年05月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、5月2日は初水曜日(月の初めての水曜日)であります。

「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。



なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


明日から、秋田巡礼が始まります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

2018年4月20日(金) 復活後第2主日の後の平日 「善き牧者―天主の憐れみ」

2018年05月01日 | お説教・霊的講話
2018年4月20日(金)復活後第2主日の後の平日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂へようこそ。

今日は2018年4月20日、主の御復活後の第2主日の後の平日の金曜日のミサをしています。今日このミサの後に、もし時間がありましたら皆さん一緒に終課を歌いましょう。明日は10時半からミサがあります。

5月2日から6日は秋田の巡礼がありますので、ぜひ皆さんいらして下さい。


「私は、善い牧者である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、すでにこの今日と同じミサは、先日の主日にドモルネ神父様がここで素晴らしくミサを捧げて下さって、素晴らしい御説教をなさって下さったので、「あぁ、イエズス様が牧者である、善き牧者である」という事がよくお分かりに、理解されたと思います。

そこで今日はその事をもう一度、「イエズス様が善き牧者である」という事をもう一度思い直して、そしてちょうどガムを食べるかのように、その味をまたもう一度味わってみる事を提案します。

(1)「イエズス様が善い牧者である」という事は、一体なぜなのか?

(2) 次に、私は何なのでしょうか?イエズス様が「善き牧者」であるという事は理論としてそうだとしても、私にとってどういう関係があるのでしょうか?実はイエズス様は、「私の」善い牧者です。この私を愛して下さる善き牧者です。そこで、私は一体イエズス様にとって何なのか?私はイエズス様の羊である、という事を、一体私は何なのか?という事を黙想する事を提案します。

(3) もしもそのイエズス様が私の善き牧者である、という事が理解できたら、ではその結果、私は一体それを理解したか、しないかは、どうやって検証できるのか?もしも理解したとしたら、きっと私にはこの事ができるようになっているはずだ。ちょうど車の運転を勉強していて、もしもこのちゃんと教習が終わったら、車庫入れができるようになっているはずだ。さぁ車庫入れをやってみよう。理論は分かっていても、車庫入れができずにドカン!とぶつかったら、それはまだよく分かっていないという証拠だ。ではイエズス様が善き牧者であるという事が分かったら、私たちには一体何ができるようになっているだろうか?

(4) そこでその最後に、そのよく分かったか、分からないかを検証しながら、良い遷善の決心を立てる事を提案します。

(1) まず第1は、「イエズス様は善き牧者」。では、「善き牧者」というのはどういう方なのでしょうか?

イエズス様は自分で定義をしています、「私は善い牧者である。なぜならば、第1、私は羊の為に命を捨てる、命を犠牲にする覚悟がある。そしてそうする。牧者でない者は雇人は、羊を食い尽くす狼が来ても、『あ、ヤバイ!』と言って逃げる。羊の事は構わない。羊はなぜならば、私のものではないから、自分の命さえ助かればそれで良い。しかし本当の牧者は、善い牧者は、自分の命を懸けても、羊の命を守る。」

イエズス様はその意味で、「善い牧者だ」と言っています。羊を守って、羊の為に命を懸けて、そして羊を守る。イエズス様は実際にそうされました。羊である私たちの為に。

ちょうど3週間前から黙想しているように、聖週間から黙想しているように、イエズス様は御自分の命を懸けて、十字架の苦しみを懸けて、御自分の命を流してまでも、悪魔に食い尽くされようとしている私たちの霊魂を、その魔の手から引き離そうとして、守って、地獄の火から救い出そうとして、自分の身を命を投げてまでも、打ち捨ててまでも、私たちを救おうとされました。

そうする"必要"はありませんでした。そうしなければならない義務はありませんでした。そうしたから何かイエズス様が得した、という事もありませんでした。しかし私たちを愛するがあまり、自ら進んで、私たちを求めて探し求めて、はるばる天から降りて来られて、33年間かけて私たちを贖って、救い出そうとしました。そして最後には御自分の命さえも、それを惜しみませんでした。

そればかりではありません。善き牧者であるイエズス様は、100匹を持って、何千何万とあった天使たちを置いて、99匹の羊を置いて、失われた人類の為に、1匹の子羊の為に探して、探し出したら、「さぁ、あなたね、君ね、何で迷ったの!?言う事聞かなかったからでしょ!ねえ。さぁ来なさい!」首に縄を付けてグイ!とはしませんでした。「あなた、罪の償いに歩きなさい、さぁ!」

イエズス様は、「あぁ、ミーちゃん、」「おぉ、シロちゃん、」「あぁ、マーちゃん、」と言って、この迷った羊を、「メエ~」と言う羊を優しく抱いて、肩にかけて、「おぉ、」チュッチュッチュッ、「おぉ、探したよ~。どこにいたんだ~」と言って、他の羊にはしなかったような愛撫をして、優しく抱いて、肩にかけて、「おぉ、もうこれからは歩かなくていい。俺が歩いて、ちゃんと運んでやるから大丈夫だ。」そして償い、ほんのちょっとした事さえも、それさえもせずに、ただ見つけた事だけが嬉しくて、「さぁ、」それで元に戻そうと、全てイエズス様が、最初から最後まで全てなさって下さるのです。

考えてもみて下さい。私たち皆さんお母さんで、そして玉のような女の子が生まれて、このマリアちゃんは、お母さんのお腹にいた時から、もうお母さんはこう色々、「この子が大きくなるように。良くなるように」と言って、本当なら好きだったチョコレートも、「この子の、お腹のこの子に悪いかもしれないから。」好きだった食べ物も、「これは酸化防止剤があるから。」「これは化学調味料があるから」と言って良いものだけを食べて、そして産まれたら、「この体の弱いこの子の為に、お金を節約して、貯金をして、この子にだけはもう良い物を与えたい。」「服もこの子だけにはちゃんとした良い物を着てもらいたい。」「この子が熱を出た」「この子が咳をした」などなど、本当に大切に大切に育てて、そしてできるだけの事をして、他の周りの人から、「あぁ、本当に模範的なお母様ですね。」「いやぁ、本当にここまで一生懸命しつけをする良いお母さんはいません。」と言われたとします。

優しく、しかも厳しく、そして丁寧に育てるのですけれども、そして他の子供たちはすくすくと皆良い子に育つのですけれども、このマリアちゃんだけは、何かそうではないのです。

マリアちゃんだけは、お友達に誘われると、「うん」言って、お母さんから、「あぁ、テレビは変なものがあるから見てはいけないよ」と言われても、お母さんに隠れて見たり、あるいはこう携帯を盗み見たり、お母さんに隠れて何かして、「マリアちゃん、何でこんな事をするの?」

「知らないわ。」

「なぜかこの子だけは、他のお姉さんとお兄さんは本当に素直なのに、この子は何かおかしい。何でだろう。」それでも愛情をかけて、特別な。

そのある時、お母さんの所に警察から電話がかかってきて、「今、留置所にいますけれども、この子はあなたの子供ではありませんか?」

「え!?うちの子だけは、そんな事は!まさかあの子だけは、そんな事は!え!?」何か非常に悪い犯罪を犯した、「え!?」もう夜も眠れずに、「あぁ、一体なぜ、あぁ…!」その子供は、お母さんのその悲しみも分からずに、苦しみも分からずに、何か悪い事を言うのです、お母さんに。今までのその注いだ愛情を全く無視するかのように、「何で私を産んだのよ!」等と。「おぉ、我が娘よ、おぉ…。」

でもその子が将来結婚して、大きくなって、お母さんになった時に、「あぁお母さん、お母さんの気持ちが今、よく分かるようになったわ」と言う時が来るかもしれません。

しかしその時には、鼻も白むような、何も理解していない態度を示したら、母親はどれほど心を痛めるでしょうか。「あなたのような女の子を産んだ覚えはないわ!」嫌味を言うかもしれません。

しかしイエズス様は、私たちそのような態度を取る人類に対してさえも、愛を注いで、何とか助けようと、命を懸けて、全てをなさいました。

考えてもみて下さい。その私たちが好き勝手な事をしているが為に、結局、「あぁ、面白そうだわ。あぁ」と言って。北朝鮮に拉致された。そして地獄のような辛い生活をしている。それでも33年かけても、何十年かけても、「何とか、子供を娘を戻したい。めぐみはどこにいるのだ。めぐみをぜひ探したい。できる事なら北朝鮮に行って、この山をかき分けても探し出したい」という、そのそれを更に超える愛で、イエズス様は私たちの善い牧者として探し出して、そして私たちを何とかして善い道に戻そうとされます。

「天主は愛である」と聖ヨハネは言います。

天主が私たち、この美しい大自然を創った時、太陽と星々と月と動植物をきれいに創った、その寛大な愛、知恵のある愛。これは全世界の創造は、私たちはこれを、「天主の寛大さ」と呼びます。

イエズス様は天主は三位一体は、天主は愛であって、しかし愛であるが為に、悪をそのままのさばらせる事ができません。そこで悪がのさばらないように、悪が善に戻るように罰せなければなりません。これも天主の愛の1つです。この事を私たちは、「天主の正義」と呼びます。

天主の愛が、この世界を創って、それを「寛大さ」と呼んだとしたら、私たちを愛によって罰する、これを「天主の正義」と呼びます。

そして天主は愛であって、罪を犯した私たちを、それにもかかわらず赦そうとして、そして私たちに罪の赦しを与えようとして、その罪の状態から引き出そうとして、元に戻そうとして下さる、その特別の私たちの惨めさに、憐れさから引き出そうとするその愛は、「天主の憐れみ」と呼ばれます。

そしてこの天主の愛は、この惨めな私たちを、その惨めさの状態から引き出して、正しい道に引き寄せようとして、あたかも天主の肩の上に乗せて、元に戻そうとして下さって導いて下さる。これを教会は、私たちに分かる言葉で、「天主が善き牧者である事である」と教えています。「善き牧者である。」

善き牧者、「天主が善き牧者である」という事は、私たちを愛するがあまり、その救いの為に、それが道を外れた私たちの為に、それを元に戻そうとして、そして正しい道に行き、更に良き栄養のある、健康な青々とした牧草地まで連れ戻して、私たちがすくすくと育つようにちゃんと見守って下さる、この愛の事です。

天主が善き牧者である、という事は更に進んで、私たちに善き牧者である司祭や、そしてカトリック教会を御自分の代理として、代わりとして与えて下さいました。

(2) 第2に、では私たちは一体何なのでしょうか?

今日の書簡を見ると、「私たちが何か」という事は、イエズス様の代理者として立てられた、善き牧者の代理者として立てられた最高の牧者、聖ペトロが今日言います、「私たちは失われた羊だった。しかし今は1つの群れに戻っている。しかし道を迷った、しかし探し求められた羊たちだ。」

私たちは誰も例外なく、本当ならばもう捨てられて当然でした。「あぁ100匹の内の1匹の小さな羊がいなくなった。あぁ探したけれども見つからない。まぁ1匹ぐらいいいか」と私たちは言うかもしれませんが、イエズス様によって「あぁ、この1匹でも救いたい!」と言って、血眼になって探されて、そして他の羊たちが受ける事がなかった特別の愛情と、特別の世話と、特別の愛撫を受けた、失われた、かつて失われた羊でした。

でも私たちは1つだけこの事がありました。イエズス様は私たちをよく知っていたように、名前と、顔と、私たちの特徴をよく知っていたように、私たちもイエズス様の声を聞き分けたのです。「シロー!」「マリアちゃーん!」「ヨゼフちゃーん!」

「あ、イエズス様だ。」「あぁ、私はこのイエズス様に属している者だ!」「メー!メー!」

そしてイエズス様から救い出された者です。

ですから今日はアレルヤ誦の時に、あと聖体拝領唱の時に、「私は善き牧者であって、私は羊の事をよく知っているし、羊も私の事をよく知っている。羊は私の声を聞き分ける」と言っています。

ですからもしも私たちが、「イエズス様が善き牧者である」という事を理解したら、しかも「私の善き牧者である。私はその羊である」という事を知っていたとしたら、私たちはイエズス様を、「確かに、私の牧者だ」と聞き分け、見分ける事ができるはずなのです。

実際にアレルヤ唱では、エンマウスの弟子たちの話が出てきます。「弟子たちは、(イエズス様が)パンを割く時に、その事が分かった、イエズス様だと分かった」と。


(3) では、イエズス様が「私の」善き牧者である、という事が理解できたら、私にはどのような事ができるようになっているでしょうか?

教会が今日提案しているのは、「もしも私たちがこの事をよく理解できたとしたら、今日の御聖体拝領の時には、『あぁ、イエズス様だ。確かに、イエズス様こそ私の善い牧者だ。イエズス様は私の為に命を捨てた。イエズス様は私を探して来てくれた。私はもう迷ってもう失われた羊だったけれども、イエズス様は探しに来て下さった。私を探しに来てくれて、抱かれて、善き牧場に戻って、イエズス様の青い青い美味しい草を食べてる者だ』という事が理解できるはずだ」ということです。

だから、アレルヤ唱と聖体拝領唱とは、御聖体のことと羊がイエズス様を善き牧者として認識するということが出てくるのです。

(4) では今日、遷善の決心をする事に致しましょう。ではどうしたら良いでしょうか?

今日イエズス様は、私たちの善き牧者として、私たちの為にご自分の命を下さいます、御聖体拝領の時に。私たちの為に、御体と御血が秘跡的に分離して、いけにえとして捧げられて、私たちに与えられます。私たちに与えられるのは単なる草ではなくて、イエズス様の御体、御血です。

どうぞこの御聖体拝領した時に、「確かに、イエズス様こそ、私を愛して、私を探しに来て下さった、本当の私の善き牧者である」という事を認識して下さい、認めて下さい。

そして、「イエズス様、ありがとう。イエズス様、私を探してくれて、私をここまでして下さってありがとう」と仰って下さい。「私はイエズス様のものです。イエズス様の羊です。イエズス様に付いていく者です。イエズス様の羊です。どうぞイエズス様、私をもう離れないようにして下さい。」今日の御聖体拝領を、羊として受けて下さい。

第2に、イエズス様は羊の事を知っているし、私たちもイエズス様の、善き牧者の声を聞き分けて、善き牧者の望みをよく知ろう知ろうとしなければなりません。イエズス様の望みは何でしょうか?

それは、イエズス様の持つ多くの羊たちが、自分の牧場に多く来る事です。そこでイエズス様の聖心を刺し貫くような棘を、私の分のみならず、他の茨も抜いて、他の失われた羊たちも早く、イエズス様の元に戻るようにお祈り致しましょう。早くイエズス様を、「イエズス様、ありがとう。」「ありがとう。」「おおきに」と言う事ができますように。

最後に、イエズス様が多くの失われた羊を御自分の元に、聖心の元に戻す為に、代理者を送ります。善き牧者たち、カトリック司祭を送ります。その為に日本からも、たくさんのイエズス様の為に働く牧者たちが出ますように。そして日本の各地に行って、イエズス様の元に、自分の元ではなくてイエズス様の元に引き寄せる善き司祭たちが、聖なる司祭たちが、イエズス様の聖心の為に働く、マリア様の御心の為に働く司祭が出ますように、お祈り下さい。

今日はこの善き牧者のミサを捧げながら、「イエズスが善き牧者である」という事をますます深く認識して、そしてイエズス様に倣う聖なる司祭が出るようにお祈り致しましょう。マリア様にもその為にも特にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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