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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き4)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


 二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(3/3)


VOLO「わたしは望む」
 わたしは、さらに一歩前進して、これから“意志”の国に入る。
 意志こそは、実行的愛の言葉である。
 情念的愛は、わたしの心に、自分の行いを改めたい、という望みを吹き込んでくれた。
 ああ、イエズスよ、わたしは巡礼の途上に、よこたわる障害物を見ました。
 わたしは、この障害物を取り除きたいのです。
 これから、天主に向かってお話をするのは、わたしの“意志”です。
 ああ、イエズスよ、わたしがこの「……したい」という望みを、あなたにくり返す熱心は、わたしが今さき、「わたしは信ずる、わたしは愛する、わたしは痛悔する、わたしは望む!」と、いくたびもくり返したその熱心から、自然に出てくるのです。
 もしこの“わたしは望む”という意志の叫びが、わたしがこいねがったほどの熱烈さをもって、心の底からほとばしらない時がありましても、ああ、最愛の救い主よ、そのときわたしはあなたに、わたしの意志の弱さを哀訴するでしょう。そして、わたしは、けっして失望することなく、あたかも疲れを知らない人のように、あなたにくり返し申し上げるでしょう。――どれほどわたしは、天父にたいするあなたご自身の、いかなるぎせいも惜まないその寛大なご奉仕のまごころに、参与させていただくことを望んでいることでしょうと。
 わたしは、黙想の終わりに取る、自身の救霊をはかり、天主を愛するために働く、という一般的な決心に加えて、ここにいま一つ、きょう一日のあいだ、わたしが出あうこともあろういろいろの困難や、誘惑や、危険などを予見して、これに善処することができるように、具体的に黙想をする――という決心を、取ることにしましょう。
 だが、特にわたしは新たに、いきいきとした愛をもって、わたしのこれこれの欠点と戦い、これこれの善徳を実行する目的のもとに、特別糾明をしよう、という決心を取る。
 この決心を強化するためには、それを刺激する要因が要る。イエズスの聖心の中に、それを見いだそう。
 この決心を守りぬくため、霊魂は、救霊の敵とほんとうに死闘を演ずることもあるのだから、そのときは、これこれの方法を取ろう、とハッキリきめておく。これこれの機会が起こった場合にはこうする、というぐあいに、前もって、霊戦の準備をしておく。放念、わがまま、不節制、屈辱、誘惑、大事なことを決行する――こういう特殊な機会がおこった場合には、大いに警戒するように、必死になるように、そしてとりわけ、イエズスに一致してとどまり、聖母マリアのみもとに馳せていくように、心を準備しておく。
 しかし、弱いわたしのことであれば、こういう至れりつくせりの警戒を施した後でさえ、過ちにおちいることがないとも限らぬ。だが、予期しない突然の過ちと故意の過ちの間には、どれほどの差異があることだろう。
 最善をつくしたにかかわらず、過ちをおかしたからとて、わたしはけっして失望などしない。倒れては起き、起きては倒れる、というぐあいに、これをいくたびもくり返しているうち、わたしは前よりいっそう意志が強くなる。天主にいっそう強く、嘆願の叫びを発するようになる。かくてわたしの失敗によって、天主はいっそう栄光を帰せられるのだ。このことを納得していればこそ、わたしはたとえ過ちをおかしても、絶対に失敗などしないのだ。こういう苦しい努力の代価を支払わねば、成功は覚束ないのである。

 VOLO TECUM「わたしはあなたと共に望む」
 ああ、わたしの救い主よ、足なえを真っ直ぐに歩かせるのは、あなたなくして成功を望むことよりはるかにたやすいことです。(聖アウグスチノの言葉)
 どうして、わたしの決心は、こんなに実を結ばないのでしょうか。――「わたしに不可能のことはない」という必勝の信念が、「わたしを強くしてくださるお方によって」(フィリッピ4・13)という、謙遜と信頼の心がまえから出ていないからです。そんなわけで、わたしは、ある意味で、黙想でいちばん大切な点、すなわち、“嘆願”または“望徳”の言葉にふれることになります。
 ああ、イエズスよ、あなたの恩寵がなければ、わたしは何もすることができません。しかも、この恩寵をいただくためにも、わたしにはその資格がありません。しかし、わたしはぞんじております。――もしわたしが、あなたに切にお願い致しさえしますなら、それはあなたをうるさがらせるどころか、かえってその切願の度合いに応じて、あなたはわたしを助けてくださることを。むろん、そのためには、わたしが、あなたのものでありたい、という望みに、はげしく渇いていなければなりません。わたし自身の力に頼っていてはなりません。あなたの聖心にたいするわたしの信頼に、限度があってはなりません。むしろ、それは、盲目的な、愚かと思われるぐらい極端な、絶対的なものでなければなりません。
 ああ、永遠に善良なおん者、ああ、イエズスよ、わたしはカナアンの女のように、あなたのみ足のもとにぬかずきます。彼女のようにしつこく、彼女のように希望にみち、謙遜にあふれて、あなたにお願いいたしたいのです。――ただ主人の食卓から落ちる一片のパンくずばかりでなく、「わたしの食物は、わたしをつかわされた御父のみ旨をおこなうことである」と、あなたが仰せられたこの霊的うたげに、わたしもほんとうにつらなることができ、天国のパンを飽きるほど食べることができますようにと。
 成聖の恩寵によって、あなたの神秘体の枝となったわたしは、あなたのご生命に、あなたのご功徳に、参与する者とならせていただきましたから、ああ、イエズスよ、わたしはあなたによって、天父にお願いするのです。――ああ、聖なる御父よ、天に向かって慈悲をさけばれる、御子イエズス・キリストの聖なる御血によって、わたしがあなたに何かをおねがい致しますとき、あなたは果たしてこのねがいを、しりぞけることがおできになりましょうか。ああ、汲めども尽きぬ永遠の富の泉よ、わたしがあなたに向かって挙げますのは、施しを乞うあわれな乞食の叫びごえです。「主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみ、かつ乏しいからです」(詩篇85・1)
 あなたの全能の力を、わたしに着せてください。
 わたしの弱さにおいて、あなたの全能の栄光を発揮してください。
 あなたの善良さと、あなたのお約束と、あなたのご功徳と、――これこそは、ああ、イエズスよ、わたし自身の惨めさとあなたへの信頼とともに、きょう一日、わたしがあなたに一致して、心をよく取り締まり、また、勇敢に戦い、かつ、強く生きる力をめぐんでいただくための保証となるのです。日中ある障害がおきるとき、誘惑のあらしがまき起こるとき、困難に見舞われて、わたしの五官のいずれかに、苦しいぎせいを課さねばならないとき、そのときこそは、わたしが霊的花束として、いつも心のなかに収めている、聖書の言葉や聖なる考えが、わたしの決心を包んでいた祈りの芳香を、発散させることでしょう。わたしの黙想の美しい成果である、この祈りの習慣こそは、同時に、わたしの黙想の良否を鑑別する、試金石ともなることでしょう。「あなたがたは、その実によって、木を見わけるであろう」(マテオ7・16)とのお言葉のごとく。

               *

 わたしが、信仰によって生きるようになったとき、天主に向かって絶えまない渇きを感じるようになったとき、そのとき初めて、“わたしは見る”のはたらきがなくなるであろう。“わたしは渇く”の心情は、黙想の初めから、ほとばしりでる。そうしているうちに、天主を愛し、天主に自己をささげる気持ちが湧いてくる。かたく決心したわたしの意志を、ますますかたく強めてくれる。そして、直接間接、聖母や天使、諸聖人を通じて、イエズスのみもとに行って、天父のみ旨とのいっそう深い、いっそう絶えまない一致をこい求めるように仕向けてくれるのである。
 ミサ聖祭が、わたしを待っている。黙想が、その準備をさせてくれる。黙想のおかげで、わたしは教会の名によって、カルワリオの聖なる祭に、ふさわしい心がまえをもってあずかることができる。りっぱな聖体拝領をすることができる。感謝の祈りのあいだ、わたしの願いごとは、小さな個人の利害をはなれて、教会全体の利害にまで及ぶ。わたしは、自分に委託された霊魂のため、死せる霊魂のため、わたしの使徒的事業のため、わたしの両親、友人、恩人、敵どものためにも、祈るのである。

 次に、教会と心を合わせて、聖務日課の時課を、いくつかとなえる。そのあいだ、わたしは教会のためにも、わたし自身のためにも、祈ることを忘れない。しばしば、そして熱心に、射禱をとなえる。霊的聖体拝領をする。特別糾明をする。聖体訪問をする。霊的読書をする。ロザリオの祈りをする。眠りにつくまえには、一般的糾明をする。――これらは、天主への巡礼の途上に立てられた、道しるべのようなものであって、道がけわしく長いため、疲れきったわたしの霊魂のちからを回復し、朝の黙想のときにいただいた、天主に向かっての霊的飛躍を確保してくれる。

 このようにして、わたしは、一日じゅう、イエズス・キリストの影響下にあることができる。この飛躍のおかげで、直接間接、聖母マリアをへて、イエズスのみもとに馳せていくことができる。それは、最初のころは、周期的に、しばしばくり返されるが、日がたつにつれ、だんだん習慣的になっていく。すでに習慣となれば、キリストの教えを、口で賛美するばかりでなく、それを日常生活の細部にまで、浸透させていく。また、わたしの信心と行動とのあいだには、なんの矛盾も衝突も起こらないであろう。



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