Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

来る4月8日(主日)は白衣の主日です。東京では午前10時半から聖伝のミサがあります。

2018年04月04日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
来る4月8日(主日)は白衣の主日です。東京では午前10時半から聖伝のミサがあります。
ご復活の八日間の白衣の主日、白衣の主日といわれるのは、この日、復活の徹夜祭で受洗した者たちが白衣を脱いだからです。
新信者の受けた信仰をつよめ、慰めるために、ヨハネは〈書簡〉の中で、「成聖の聖寵によって天主の子となった者は、この世に勝った」と言います。すなわち、キリストが天主であることをみとめ、その教えを守ることにおいて、この世に勝つ、と。
ミサのテキストをご紹介いたします。

Dominica in Albis In Octava Paschæ 復活の八日間の白衣の主日
I classis 一級大祝日
Statio ad S. Pancratium 指定巡礼聖堂 聖パンクラツィオ聖堂
Ant. ad Introitum. 1. Petri 2, 2. 入祭文 ペトロ前 2章2節
Quasi modo géniti infántes, allelúia : rationabiles, sine dolo lac concupíscite, allelúia, allelúia allelúia. 新たに生まれたみどりごのように、アレルヤ :まじりなき霊的な乳をのぞめ、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
Ps. 80, 2. 詩篇80章2節
Exsultáte Deo, adiutóri nostro : iubiláte Deo Iacob. よろこびをもって、われらの救いなる天主を賛美せよ、ヤコブの天主をたたえよ。
V/.Glória Patri. 願わくは、聖父と……。(栄誦)
Oratio. 集禱文
Præsta, quǽsumus, omnípotens Deus : ut, qui paschália festa perégimus, hæc, te largiénte, móribus et vita teneámus. Per Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、聖寵をもって、われらの生活と行ないとに、すでに行った復活の祝日の効果を保たせ給え。天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給うわれらの主よ、聖子、イエズス・キリストによりて、
Léctio Epístolæ beáti Ioannis Apóstoli. 書簡 使徒聖ヨハネの、書簡の朗読
1. Ioann. 5, 4-10. ヨハネ第1書、5章4-10
Caríssimi : Omne, quod natum est ex Deo, vincit mundum : et hæc est victoria, quæ vincit mundum, fides nostra. Quis est, qui vincit mundum, nisi qui credit, quóniam Iesus est Fílius Dei ? Hic est, qui venit per aquam et sánguinem, Iesus Christus : non in aqua solum, sed in aqua et sánguine. Et Spíritus est, qui testificátur, quóniam Christus est véritas. Quóniam tres sunt, qui testimónium dant in cælo : Pater, Verbum, et Spíritus Sanctus : et hi tres unum sunt. Et tres sunt, qui testimónium dant in terra : Spíritus, et aqua, et sanguis : et hi tres unum sunt. Si testimónium hóminum accípimus, testimónium Dei maius est : quóniam hoc est testimónium Dei, quod maius est : quóniam testificátus est de Fílio suo. Qui credit in Fílium Dei, habet testimónium Dei in se. 愛する者よ、天主から生まれたものは、世に勝つ。世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者以外に、だれが世に勝てるであろうか。水と血とによってこられたのは、イエズス・キリストである。ただに水だけではなく、水と血によってである。それを証明するのは、霊である。霊は真理だからである。果して、証明するものは三つある。天においては、おん父とみことばと聖霊、この三つは一致する。地において証明するのは三つ、霊と水と血である。この三つは一致する。もし私たちが人間の証明をうけいれるなら、天主の証明はそれにまさっている。天主の証明とは、そのみ子について証明されたことである。天主の子を信じる者は、自分の内に天主の証明をもつのである。
Allelúia, allelúia. V/. Matth. 28, 7. In die resurrectiónis meæ, dicit Dóminus, præcédam vos in Galilǽam. アレルヤ、アレルヤ、V/.(マテオ、28章7節)私は復活の日に汝らに先立ってガリレアに行く。
Allelúia. V/. Ioann. 20, 26. Post dies octo, iánuis clausis, stetit Iesus in médio discipulórum suórum, et dixit : Pax vobis. Allelúia. アレルヤ。V/.(ヨハネ、20章26節)八日ののち、都が閉じられてあったのに、イエズスが来て、かれらの真中に立ち、「あなたたちに平安」といい給うた、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. 聖福音 ヨハネによる聖福音の続誦
Ioann. 20, 19-31. ヨハネ。20章19-31節
In illo témpore : Cum sero esset die illo, una sabbatórum, et fores essent clausæ, ubi erant discípuli congregáti propter metum Iudæórum : venit Iesus, et stetit in médio, et dixit eis : Pax vobis. Et cum hoc dixísset, osténdit eis manus et latus. Gavísi sunt ergo discípuli, viso Dómino. Dixit ergo eis íterum : Pax vobis. Sicut misit me Pater, et ego mitto vos. Hæc cum dixísset, insufflávit, et dixit eis : Accípite Spíritum Sanctum : quorum remiseritis peccáta, remittúntur eis ; et quorum retinuéritis, reténta sunt. Thomas autem unus ex duódecim, qui dícitur Dídymus, non erat cum eis, quando venit Iesus. Dixérunt ergo ei alii discípuli : Vídimus Dóminum. Ille autem dixit eis : Nisi vídero in mánibus eius fixúram clavórum, et mittam dígitum meum in locum clavórum, et mittam manum meam in latus eius, non credam. Et post dies octo, íterum erant discípuli eius intus, et Thomas cum eis. Venit Iesus, iánuis clausis, et stetit in médio, et dixit : Pax vobis. Deinde dicit Thomæ : Infer dígitum tuum huc et vide manus meas, et affer manum tuam et mitte in latus meum : et noli esse incrédulus, sed fidélis. Respóndit Thomas et dixit ei : Dóminus meus et Deus meus. Dixit ei Iesus : Quia vidísti me, Thoma, credidísti : beáti, qui non vidérunt, et credidérunt. Multa quidem et alia signa fecit Iesus in conspéctu discipulórum suórum, quæ non sunt scripta in libro hoc. Hæc autem scripta sunt, ut credátis, quia Iesus est Christus, Fílius Dei : et ut credéntes vitam habeátis in nómine eius. この日、すなわち一週のはじめの日の夜おそく、弟子たちが集まった。そのところの戸は、ユダヤ人たちをおそれて閉じられていたのに、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」とおおせられた。こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエズスはまたおおせられた。「あなたたちに平安!父が私をお送りになったように、私もあなたたちをおくる」。そういいながら、かれらに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされない」とおおせられた。イエズスがおいでになったとき、十二人の一人で、ディディモと呼ばれるトマは、皆といっしょにいなかった。他の弟子たちが、「主を見ました!」と彼にいったが、しかし彼は、「私はその手に釘のあとを見、私の指をその釘のあとに入れ、私の手をその脇に入れるまで、信じられません!」といった。八日の後、弟子たちはまた家にいて、トマもいっしょにいたとき、戸は閉じてあったのに、イエズスがおいでになり、かれらの真中に立ち、「あなたたちに平安!」とおおせられた。また、トマに向かって、「あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!」とおおせられた。トマは、「私の主よ、私の天主よ」と答えた。そのときイエズスは、「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる人は幸いである」とおおせられた。イエズスは弟子たちの前で、この本にはしるさなかった他の多くのしるしをおこなわれた。これらのことをしるしたのは、イエズスが天主の子キリストであることを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるためである。
Credo 信教
Ant. ad Offertorium. Matth. 28, 2, 5 et 6. 奉献文 (マテオ、28章2,5,6節)
Angelus Dómini descéndit de cælo, et dixit muliéribus : Quem quǽritis, surréxit, sicut dixit, allelúia. 主の天使は天より下り、女たちにいった、「汝らのさがしている御者は、自らおおせられたように復活し給うた」と、アレルヤ。
Secreta. 密誦
Suscipe múnera, Dómine, quǽsumus, exsultántis Ecclésiæ : et, cui causam tanti gáudii præstitísti, perpétuæ fructum concéde lætítiæ. Per Dóminum. 主よ、願わくは、喜びにはずむ教会のささげものを受け給え、また、かくも大なる喜びを教会に与え給うた主よ、永遠の幸福の実をも与え給わんことを。天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給うわれらの主よ、聖子、イエズス・キリストによりて、
Præfatio paschalis,  御復活の序誦
Vere dignum et iustum est,æquum et salutáre, Te quidem, Dómine, omni témpore,sed in (***hoc potíssimum) gloriósius prædicáre, cum Pascha nostrum immolátus est Christus. Ipse enim verus est Agnus, qui ábstulit peccáta mundi. Qui mortem nostram moriéndo destrúxit et vitam resurgéndo reparávit. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus cumque omni milítia cæléstis exércitus hymnum glóriæ tuæ cánimus,sine fine dicéntes : 主よ、われらがいつも、どこにても、主に感謝をささげるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。特に「この節に」、われらは、御身の御光栄を盛大にたたえねばならぬ。なぜなら、われらの過越なるキリストが、屠られ給うたからである。かれは、世の罪を除き給うまことの羔であって、ご自分の死によって、われらに生命を取戻し給うた。故に、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらはきわまりなく、主の御光栄の讃歌をうたいつづけよう。
Ant. ad Communionem. Ioann. 20, 27. 聖体拝領誦 (ヨハネ、20章27節)
Mitte manum tuam, et cognósce loca clavórum, allelúia : et noli esse incrédulus, sed fidélis, allelúia, allelúia. 汝の指をのばし、釘の所を見よ、アレルヤ。不信仰者でなく信仰者であれ、アレルヤ、アレルヤ。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Quǽsumus, Dómine, Deus noster : ut sacrosáncta mystéria, quæ pro reparatiónis nostræ munímine contulísti ; et præsens nobis remédium esse fácias et futúrum. Per Dóminum. われらの天主なる主よ、願わくは、われらの救いを保証するために定め給うた聖なる奥義が、現在と未来との良薬とならんことを。天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給うわれらの主よ、聖子、イエズス・キリストによりて、

 


私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます!

2018年04月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

この御復活をもって私たちの主は真に天主であることを証明しました。

福音書を素直に読むとわかる通り、最初、使徒たちはキリストの復活をまったく信じようとしませんでした。使徒たちは、主の復活を期待してさえいませんでした。弟子たちは恐怖し、失望していたのです。復活などは夢にも思わず、弟子たちが空の墓を発見した時にまず考えたことは誰かが主を盗んだということでした。使徒トマスは他の弟子たちが主を見たと言っても「その手に釘の痕を見、その釘の処に指を入れ、その脇にわが手を入なければ信じない」と頑固に拒んだのです。
しかし、どうしても否定できない、あまりにも確実で明らかな復活したイエズス・キリストを目撃し、その証拠の前に不信を捨て、復活の事実に屈服せざるをえなかったのです。
復活したイエズス・キリストを目撃した証人は、信頼に値する人々でした。彼らは決して嘘をついていたのでも、欺されていたのでもありません。彼らには嘘の証明をする必要も理由も利益もありませんでした。また彼らの強烈なまでの確信、キリストが復活後に彼らと共にあった時間の長さ等から見ても、彼らの錯覚ではありませんでした。
もしも弟子たちが、キリストが復活しなかったことを実際に知っていたとすれば、キリストが彼らを欺いたことを知っただろうし、キリストは偽のメシアになり、天主でもなければ、何者でもないという確信を持ったはずです。そうならば何のための宣教でしょうか。嘘の復活の宣教から弟子たちはどんな利益を得ることができたでしょうか。迫害、絶えざる労苦、良心の呵責、地獄です。さらに、もしも彼らが本当はキリストは復活しなかったと大司祭のところに行って、キリストは大詐欺師だったと言えば、多額の報酬を得ていたことでしょう。彼らにとってキリストの復活を口にしない方が得策でした。しかし彼らは勇敢に「復活したキリスト」を宣言したのです。迫害と困苦の生涯が立ち向かおうともこれを否定しませんでした。
もしも彼らがキリストから騙されていたとするなら、実はキリストが十字架上で死ななかったこと、高潔で至聖なるキリストが欺瞞を全世界に宣布させて、天主が欺瞞と冒涜の宣布事業を奇蹟的成功をもって祝福したことという、ありえないことを想像しなければならなくなります。
聖霊降臨の日には、エルザレムにおいて聖ペトロは宣言します。「天主はこのイエズスを復活せしめ給えり、われらは皆その証人なり....その肉体は腐敗を見ざるなり」(使徒行録 2:32, 31)と。復活は数週間前の出来事でした。誰もが自らその証拠を仔細に調べることができました。彼らのうち3000名がその日に聖ペトロから洗礼を受けています。
聖アウグスチノは、復活が事実でなかったとするならば、「数人のガレリアの漁夫によって騙された世界の改宗」ということは、キリストの復活に勝る大いなる奇蹟でなければならないと言っています。

主は真に復活されました。私たちの主イエズス・キリストは真の天主、約束された真の唯一のメシアです。イエズス・キリストの創立したカトリック教会こそが真の宗教です。
私たちの主は、ご自分の復活をもってご自分が天主であることを証明し、同時に私たちもご自分とおなじ復活・永遠の命を与えることをお示しになります。私たちの栄光ある復活の保証は御聖体拝領です。真の天主イエズス・キリストは、御聖体拝領でご自分の復活された御体を私たちに与え、ご自分の復活体で私たちを生かします。私たちの主はいいます。「私の肉を食べ私の血を飲むものは、永遠の命を持つ。私は彼を最後の日に復活させよう。」
私たちの主のご受難は、主の私たちへの愛を強烈に物語ります。主の御復活は、私たちが何を愛すべきか、誰を愛すべきか教えてくれます。御聖体のうちにまします復活され生きておられるイエズス・キリスト!

キリストによって贖われなかったなら、私たちがこの世に生またことはいかなる利益もなかった!
おお!御身の私たちに対する何と驚くべきかたじけなき優しさよ!
おお!評価しきれない愛徳の深さよ!御身は、奴隷を買い戻すために、御自分の子を渡し給うとは!
おお!キリストの死によってそれが破壊されるために、確かに、アダムの罪は必要であった。
おお!かくも偉大でかのような贖い主をいただけるとは、何と幸せな罪であったか!
イエズス・キリストの愛の深さ!憐みの巨大さ!

聖母よ、私をして主の聖心の愛の深さを悟らせてください!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



復活の徹夜祭で歌われる復活の讃美歌 Praeconium Paschale ラテン語と日本語の対訳

2018年04月04日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

復活の徹夜祭で歌われる復活の讃美歌 Praeconium Paschale をラテン語と日本語の対訳でご紹介します。私たちが生まて来たことは、キリストによって贖われなかったなら、いかなる利益もなかった!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

PRAECONIUM PASCHALE 復活の讃美歌
Exsúltet iam angélica turba cælórum: exsúltent divína mystéria: et pro tanti Regis victória tuba ínsonet salutáris. 天の天使たちの群れよ、すでに喜び踊らんことを、天主の神秘らよ、喜び踊らんことを、かくも偉大な王の勝利のために救いのラッパを響かせんことを!
Gáudeat et tellus, tantis irradiáta fulgóribus: et ætérni Regis splendóre illustráta, tótius orbis se séntiat amisísse calíginem. 地も喜ばんことを、かくも大いなる閃光を放ち、永遠の王の輝きに照らし出され、全地球は邪悪を失ったと感じるが良い。
Lætétur et mater Ecclésia, tanti lúminis adornáta fulgóribus: et magnis populórum vócibus hæc aula resúltet. かくも大いなる光の輝きに飾られた母なる教会も喜ばんことを、諸民族の大きな声でこの部屋は喜ぶが良い。
Quaprópter astántes vos, fratres caríssimi, ad tam miram huius sancti lúminis claritátem, una mecum, quæso, Dei omnipoténtis misericórdiam invocáte. 従って、臨席のあなたたち、いとも愛する兄弟たちよ、この聖なる光のいとも驚くべき輝きへと、全能の天主の憐れみを私たちとともに、請い求めよ、と私はお願い申し上げる。
Ut, qui me non meis méritis intra Levitárum númerum dignátus est aggregáre, lúminis sui claritátem infúndens, cérei huius laudem implére perfíciat. それは、私の功徳によるのではないがこの私を聖職者の数の中にかたじけなくも入れ給うた方が、御自分の光の輝きを注入し給い、この蝋の賛美を満たすことを完成し給うためである。
V/ Dóminus vobíscum. V/ 主は、あなたたちと共に
R/ Et cum spíritu tuo. R/ またあなたの霊と共に
V/ Sursum corda. V/ 心を上に挙げよ
R/ Habémus ad Dóminum. R/ 我らは主へ挙げ奉る
V/ Grátias agámus Dómino Deo nostro. V/ 我らは主なる我らの天主に感謝しよう
R/ Dignum et iustum est. R/ それはふさわしく正しいことなり。
Vere dignum et iustum est, invisíbilem Deum Patrem omnipoténtem Filiúmque eius unigénitum, Dóminum nostrum Iesum Christum, toto cordis ac mentis afféctu et vocis ministério personáre. 目に見えない聖父なる全能の天主とその御一人子私たちの主イエズス・キリストを心をこめて愛情を尽くして声の役務により賛美を響かせることは、実にふさわしく正しいことなり。
Qui pro nobis ætérno Patri Adæ débitum solvit, et véteris piáculi cautiónem pio cruóre detérsit. イエズス・キリストは、私たちのために永遠の聖父にアダムの罪の負債を支払い、いにしえの負債帳を尊き血潮で破り引きちぎった。
Hæc sunt enim festa paschália, in quibus verus ille Agnus occíditur, cuius sánguine postes fidélium consecrántur. これこそ実にパスカの祭りである。この祭りにおいて本当のあの子羊はされ、その血によって信者たちの家の入り口は聖別される。
Hæc nox est, in qua primum patres nostros, fílios Israel edúctos de Ægypto, Mare Rubrum sicco vestígio transíre fecísti. この夜こそ、御身が、エジプトから導き出された私たちの祖先であるイスラエルの子らが、紅海を乾いた足跡をのこして渡るようになし給うた夜である。
Hæc ígitur nox est, quæ peccatórum ténebras colúmnæ illuminatióne purgávit. 故に、この夜こそが、罪人たちの暗闇を光る雲の柱で輝かせて清めた夜である。
Hæc nox est, quæ hódie per univérsum mundum in Christo credéntes, a vítiis sæculi et calígine peccatórum segregátos, reddit grátiæ, sóciat sanctitáti. この夜こそが、今日、全世界で、この世の悪習と罪の邪悪とから区別されたキリストを信じる者たちを、聖徳と結びつけ、聖寵を再び与える夜である。
Hæc nox est, in qua, destrúctis vínculis mortis, Christus ab ínferis victor ascéndit. この夜こそが、死の鎖を打ち壊し、キリストが勝利者として地獄から上った夜である。
Nihil enim nobis nasci prófuit, nisi rédimi profuísset. 私たちが生まて来たことは、キリストによって贖われなかったなら、いかなる利益もなかった。
O mira circa nos tuæ pietátis dignátio! おお!御身の私たちに対する何と驚くべきかたじけなき優しさよ!
O inæstimábilis diléctio caritátis: ut servum redímeres, Fílium tradidísti! おお!評価しきれない愛徳の深さよ!御身が奴隷を買い戻すために、御身は御自分の子を渡し給うた!
O certe necessárium Adæ peccátum, quod Christi morte delétum est! おお!キリストの死によってそれが破壊されるために、確かに、アダムの罪は必要であった。
O felix culpa, quæ talem ac tantum méruit habére Redemptórem! おお!かくも偉大でかのような贖い主をいただけるとは、何と幸せな罪であったか!
O vere beáta nox, quæ sola méruit scire tempus et horam, in qua Christus ab ínferis resurréxit! おお!じつに幸せな夜である、この夜だけがキリストが地獄からよみがえり給うたその時と時間を知ることが出来たのだから!
Hæc nox est, de qua scriptum est: Et nox sicut dies illuminábitur: et nox illuminátio mea in delíciis meis. この夜こそ、聖書に記されている夜であり、「夜が真昼のように照らし出されるであろう、私の甘美さにおける私の照らし出しの夜」と。
Huius ígitur sanctificátio noctis fugat scélera, culpas lavat: et reddit innocéntiam lapsis et mæstis lætítiam. Fugat ódia, concórdiam parat et curvat impéria. 故に、この夜の聖化は、極悪を逃げ去らせ、罪を浄め洗う、また失った者たちに無罪を返し、悲しむ者たちには喜びを戻す。憎しみを追放し、心の一致をもたらし、おごり高ぶる者を低める。
In huius ígitur noctis grátia, súscipe, sancte Pater, laudis huius sacrifícium vespertínum, quod tibi in hac cérei oblatióne solémni, per ministrórum manus de opéribus apum, sacrosáncta reddit Ecclésia. Sed iam colúmnæ huius præcónia nóvimus, quam in honórem Dei rútilans ignis accéndit. 故に、この夜の恩寵において、聖なる父よ、この荘厳な蝋の奉献において、蜜蜂の働きから役務者の手を通して、神聖にして犯すべからず教会が御身に捧げるこの夕の賛美のいけにえを受け入れ給え。
Qui, lícet sit divísus in partes, mutuáti tamen lúminis detrimenta non novit. Alitur enim liquántibus ceris, quas in substántiam pretiósæ huius lámpadis apis mater edúxit. しかし、既に天主への誉れのために火が付けられたこの蝋の柱の予告を私たちは知っている。これは、部分には分けられるかもしれないが、光に変わった部分の損失はない。火は、母なる蜂がこの貴重な明かりの材料を運んだ融けた蝋によって養われる。
O vere beáta nox, quae exspoliavit Aegyptios, ditavit Hebraeos! Nox, in qua terrénis cæléstia, humánis divína iungúntur! おお、実に幸せな夜よ、エジプト人たちから奪い取り、ヘブライ人たちを豊かにした夜!この夜において地上のものは天上のものに、人間的ものは天主的ものに結びつく!
Orámus ergo te, Dómine, ut céreus iste in honórem tui nóminis consecrátus, ad noctis huius calíginem destruéndam, indefíciens persevéret. Et in odórem suavitátis accéptus, supérnis lumináribus misceátur. Flammas eius lúcifer matutínus invéniat. Ille, inquam, Lúcifer, qui nescit occásum. Ille, qui regréssus ab ínferis, humáno géneri serénus illúxit 従って、主よ、私たちは御身に祈る。御身の御名の名誉のために聖別されたこの蝋が、この夜の邪悪を破壊するために、壊されずに守られるように。そして甘美な香りを受け入れ給い、天上の光に混ざり合わされるように。明けの明星がその炎を見いだすように。私は言う、つまり、かの沈むことを知らない明けの明星、キリストのことである。地獄から再び戻ってきた、平和の内に人類を照らしだしたかのキリストである。
Precamur ergo te, Domine: ut nos famulos tuos, omnemque clerum, et devotissimum populum: una cum beatissimo Papa nostro Francisco et Antistite nostro N. quiete temporum concessa, in his paschalibus gaudiis, assidua protectione regere, gubernare, et conservare digneris. 従って、主よ、私たちは御身に祈願する。私たち御身のしもべたちと全ての聖職者、いとも敬虔な民を、至福な私たちの教皇フランシスコおよび私たちの司教 N. と一つに、平和な時が与えられて、この復活祭の喜びにおいて、御身が堅い守りにおいてかたじけなくも君臨し、統治し、保存し給わんことを。
Respice etiam ad eos, qui nos in potestate regunt, et, ineffabili pietatis et misericordiae tuae munere, dirige cogitationes eorum ad iustitiam et pacem, ut de terrena operositate ad caelestem patriam perveniant cum omni populo tuo. さらに、私たちを権力をもって統治する人々をご覧になり、御身のえもいわれぬ優しさと憐れみとの賜で、彼らの考えを正義と平和へと導き給え。それは地上の業から天上の祖国へと御身の民と共に彼らが到達することが出来るためである。
Per eumdem Dominum nostrum Jesum Christum Fílium tuum : qui tecum vivit et regnat in unitate Spiritus Sancti Deus : 御身と共に聖霊との一致において生きかつしろしめし給う御身の御子、私たちの同じ主イエズス・キリストによりて、
Per omnia sæcula sæculórum. 代々に至るまで
R/ Amen. R/ アメン

今日、4月4日は初水曜日(月の初めての水曜日)です「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」

2018年04月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、4月4日は初水曜日(月の初めての水曜日)であります。

「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。



なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


良き御復活節をお過ごしください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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