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聖ピオ十世会 SSPX 聖伝のミサ(トリエント・ミサ) レネー神父様のお説教 2015年3月16日

2015年03月27日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?今日は、聖伝の典礼では「共同受難の聖母」(Our Lady of Compassion)を記念します。

 聖母マリアさまこそ、イエズス・キリストこそが全てでした。イエズス・キリストに倣い、イエズス・キリストと共に苦しんだお方です。まさに、まことのカトリック的生き方をされた第一人者です。

 つまり、罰を恐れて、恐怖におびえて、悪を避けるのではなく、むしろ、善を愛し、真理を愛するが故に、善を行い、犠牲を捧げる、ということです。レネー神父様は、お説教で仰っています。掟や法とは「嫌々ながら従う盲目的な義務ではなく、むしろ私たちが熱心に満たしたいと思っている、愛すべき御子のご意志の表れである」、「法は重荷ではなく友であり、正しい道にともる光」なのだ、と。これが私たちの本当の自由です。

「もしあなたたちが霊に導かれているのなら、律法の下にはいない。…霊の実は、愛、喜び、平和、堪忍、仁慈、善良、忍耐、柔和、信仰、謹慎、節制、貞潔であって、これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章18、22―23節)。マリア様は、聖霊の浄配として、まさに、聖霊の十二の実りを全て完全にもっていました。

 ですから、イエズス・キリストに従うために、聖母マリア様は「自分を捨て、自分の十字架を担って従」ったのです。

 どうぞ、レネー神父様のお説教をお読み下さい。

では、よき「共同受難の聖母」(Our Lady of Compassion)の記念の日をお過ごし下さい。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年3月16日大阪の説教 四旬節第四主日後の月曜日


親愛なる信者の皆さん、

先週土曜日の福音では、私たちの主イエズス・キリストのまことのあわれみを見ます。主は罪びとを非難なさらず、赦しをお与えになります。そうです、主は罪を容認なさいませんが、「もう罪を犯すな」と要求されます。まことのあわれみが持つこれら二つの側面は本質的なものです。特に、悪しき枢機卿たちが、もう罪を犯さないことを罪びとに要求しないという偽りのあわれみを与えたがっている私たちの時代においては。

私はこの機会に、「聖パウロの道徳」が何であるかを示したいと思います。聖パウロは、道徳規範に対して、ある驚くべき方法を持っていました。プラトンやアリストテレスなど異教の哲学者は長い文章で徳と悪徳を論じて、結局それをほとんど実践しませんでしたが、聖パウロは違います。聖パウロにとっては、徳は抽象的なものではなく、非常に具体的で個人的なものでした。彼は徳を一つの言葉で美しく要約しました。「キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。「私にとって生きるのはキリストである」(フィリッピ1章21節)。「私を愛し、私のためにご自身を渡された天主の子への信仰の中に生きている」(ガラツィア2章20節)。

私たちの主イエズス・キリストは、カトリック的生き方の原理であり目的で、アルファでありオメガです。主は恩寵の源であり、愛と望みの対象です。私たちは主によって創られ、主に戻らねばなりません。さらに、主は原理であり目的であるだけでなく、御父への道でもあります。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。

聖パウロは具体的に言います。「実に愛される子らとして、天主にならう(天主をまねる)者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自分を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1―2節)。少し翻訳を訂正しました。英語では普通「followers(従う人)」ですが、ラテン語では「imitatores=imitators(まねる人)」、ギリシャ語では「mimetai(まねる、振る舞いを写す)」で、その意味は、私たちを見る人々が、私たちを見るとき私たちの中に主イエズス・キリストを見いだすことができるほど、主をまねるということなのです。お分かりのように、そのような道徳規範は抽象的ではなく、非常に具体的です。これがまことのキリスト教的生き方であり、まことのカトリック的生き方なのです。私たちの主イエズス・キリストをまねることです。

皆さんご存じのように、トマス・ア・ケンピス作の「キリストにならいて(キリストのまねび)」と呼ばれる美しくて小さな本があります。私はこれを皆さん全員に本当に強くお薦めします。聖人たちや聖書の知恵がたくさんあります。日々の生活において、いつも自分に問いかけるべきです。「私たちの主イエズス・キリストが私の立場だったら、どうなさるだろうか」「私がしていることは主を喜ばせることだろうか」「私が置かれた状況だったら、主はどう対応なさるだろうか」「主だったら、どのように行動なさるだろうか」。それが主を不愉快にさせることなら、私たちは絶対それをすべきではありません。

ここで、天主の法が私たちを助けに来てくれます。聖トマス・アクィナスは言います。天主のご意志、私たちの主イエズス・キリストの聖なるご意志が何であるかを知るために、私たちはまず、天主が命じられたことを考えるのです。しかし、その法は、私たちが嫌々ながら従う盲目的な義務ではなく、むしろ私たちが熱心に満たしたいと思っている、愛すべき御子のご意志の表れであるのです。ですから、法は重荷ではなく友であり、正しい道にともる光なのです。これは、聖パウロが「私たちは律法の下にない」(ローマ6章14節、ガラツィア5章18節)と書いたときに意味していたものなのです。つまり、私たちは律法によって押しつぶされるのではなく、私たちは「キリストの律法の下にある者で天主 の律法を持たぬ者ではない」(コリント前書9章21節)のです。愛は私たちに天主を喜ばせようとさせ、天主の聖なるご意志、天主の法に従おうとさせます。そうすれば、私たちには驚くような自由、天主の子のまことの自由が与えられます。御父のご意志、天主が命じられたことを好んで行おうとする自由であり、自分の強さではなく私たちの主イエズス・キリストの恩寵を頼りとするのです。聖パウロはこう書いています。「もしあなたたちが霊に導かれているのなら、律法の下にはいない。…霊の実は、愛、喜び、平和、堪忍、仁慈、善良、忍耐、柔和、信仰、謹慎、節制、貞潔であって、これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章18、22―23節)。

私たちの主イエズス・キリストの犠牲に参加するとき、この美しく実り多い愛の生活に到達します。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」(マテオ16章24節)。聖パウロはこれを明確に表現しました。「キリストにある者は、肉をその欲と望みとともに十字架につけた」(ガラツィア5章24節)。彼らは誘惑と力強く戦い、悪魔に少しも譲りません。なぜなら、彼らは次のことを知っているからです。「肉の行いは明白である。すなわち、淫行、不潔、猥褻、贅沢、偶像崇拝、魔術、憎悪、紛争、張り合い、憤怒、徒党、分離、異端、羨望、殺人、泥酔、遊蕩、そしてそれらに似たことなどである」(ガラツィア5章19―21節)。また、聖パウロはエフェゾ人に対しても同 様に強く明確にこう伝えています。「聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろなけがれ、情欲は口にさえもするな。また汚行、愚かな話、下品な冗談も言うな。それはよからぬことである。ただ天主に感謝せよ。淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない。人のむなしい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのは、それらの事柄である」(エフェゾ5章3―6節)。

皆さんが今ご覧になれるように、聖パウロによれば、キリストは私たちを罪から贖うために十字架上で亡くなられたのですから、私たちも罪に死ぬことによって同じことをすべきです。「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、私たちの主キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。私たちがしばしば恐れる苦行というものは、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストをまねるために行なわれます。ですから苦行は、主と共に主の復活に参加するであろう保証なのです。「私たちは天主の子である。私たちが子であるのなら世継ぎでもある。キリストと共に栄光を受けるために、その苦しみを共に受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストと共 に世継ぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう栄光とは比較にならないと思う」(ローマ8章16―18節)。

このように、善にして聖なるカトリックの道徳は、愛の実り、私たちの主イエズス・キリストへの、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストへの実践的で燃え上がる愛の実りであるのです。皆さんの具体的な助けになるよう、私は皆さんの家のそれぞれの部屋に、十字架像あるいは聖なる御絵を置くよう強くお薦めします。そうすれば、皆さんは目を上げて簡単に私たちの主イエズス・キリストや聖母、聖人たちを見られます。彼らをまねて、彼らを喜ばせるために。仕事をしているときでも、トラックに乗っているのなら、小さな聖なる御絵をそこに置くことが簡単にできます。あるいはオフィスのデスクにいるのなら、またほかの状況にあっても、御絵などのそういった思い出させてくれるものが、 皆さんがいつも祈るのを助けてくれるでしょう。「私の目は常に主を見つめる」(詩篇24章15節)。

また私は、私たちの主イエズス・キリストや主の聖なる御母、聖人たちの良き模範によって皆さんの心を養う霊的読書を強くお薦めします。人は何も考えないということはできません。悪しき思い(貞潔に反するものだけでなく、虚栄や高慢、復讐心など)に打ち勝つ方法は、悪しき思いを善い思いで置き換えることです。ですから、最も善い思いは、私たちの主イエズス・キリストの十字架を思うことです。

童貞聖マリアは「正義の鑑み」と呼ばれます。それは、聖母が私たちの主イエズス・キリストを模範として完全にまねられたからです。ですから、聖母は、小さな子どもたちである私たちへの恩寵の原因となられるお恵みを獲得なさいました。ですから、キリストをまねるというその恩寵を獲得できるように聖母を通してお祈りするようにしてください、これが天国への王道なのです。

今月は聖ヨゼフの月です。この偉大な聖性の模範を黙想することもまた、大変よいことです。聖ヨゼフはイエズスとマリアと共に生きました。お二人のもっとも親しい友人でした。聖ヨゼフをまねるということは、聖ヨゼフがなさったようにイエズスとマリアと共に生きること、聖ヨゼフがなさったようにイエズスとマリアを喜ばせるために努力することです。

聖家族は、私たちに私たち自身の家族に対する義務を思い出させてくれます。兄弟愛は、私たち自身の家族の中で始まります。両親や親戚たち、また義理の家族つまり配偶者の両親や親戚たちの中で。カトリックの結婚は、社会における愛の関係の驚くべきネットワークを紡ぎます。このネットワークは、無関係な個人個人から成り立っているのではなく、むしろ愛の関係によって一緒につながれた家族から成り立っています。ですから、皆さんよくご存じのように、家族においても、大きくは社会においても真実であるのは、忍耐と赦しが必要なことです。与えよ、そうすれば与えられる。赦せよ、そうすれば赦される。寛容をもってそうしてください。そうすれば、聖家族の模範を広げていくことによって、皆 さんは永遠の報いを獲得していることを知ってください。

童貞聖マリアと聖ヨゼフが、皆さんのためにこれらすべての恩寵を獲得してくださいますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。







《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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