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ローマ公教要理 第十二条 終わりなき生命(いのち)を信じ奉る

2014年12月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 トリエント公会議の公教要理(ローマ公教要理)の使徒信経の部 第十三章 第十二条 終わりなき生命(いのち)を信じ奉る の部分をご紹介します。

ローマ公教要理 【使徒信経の部】
序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について またキリスト教のおもな教義について
信仰と信経について
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます(続き)
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた
第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された
第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第八条 聖霊を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その2)
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その3)
第十条 罪のゆるし
第十一条 体の復活




ローマ公教要理
Catechismus Romanus

トリエント公会議の決議により小教区主任司祭らのために
教皇ピオ五世の命によって出版された公教要理
Catechismus, ex decreto ss, concilii Tridentini ad parochos,
Pii V pont. max. jussu editus

【使徒信経の部】
第十三章
第十二条 終わりなき生命(いのち)を信じ奉る


1 この箇条の重要性

 私たちの案内人である使徒たちは、私たちの信仰の大要を含むこの信経を、永遠の生命に関する箇条で閉じ、それで終わるようにしている。実際、体の復活のあと信者たちが待つものは永遠の生命だけである。それはまた、このあらゆる善を備えた完全な幸福をいつも私たちの眼前におき、私たちの心と考えをすべてそこに定着させるためでもある。
 したがって、司牧者は信者たちを教えるに当たって、永遠の生命の報いを示してかれらの心をかき立て、どのような困難なこともキリスト者の名において耐え忍び、それらをよりたやすいもの、楽しいものとして受け取るべきことを教え、より速やかにそして身軽に天主に仕えるよう励まさなければならない。

2 終わりなき命とは何か

 さて、至福を示すために終わりなき命ということばが用いられているが、このことばには多くの玄義が秘められている。したがって、みながそれぞれの能力に応じて理解できるよう説明する必要がある。
終わりなき命ということばは、悪魔や罪人も生きる生命の永続性よりもむしろ聖人たちの望みを満たす、至福の永続性を意味している。永遠の生命を得るためにはどうすればよいかと主に尋ねた、あの福音書の律法学者も同じような意味にとっていた (ル10:25参照)。つまり、かれは完全な幸福を享受できる、ある場所に行くためには自分は何をすればよいかと尋ねたのである。聖書もまた多くの箇所にみられるように、このことばを今いった意味に用いている (マ19:29、25:46参照)。

3 終わりなき命は至福を示す

 完全な至福を終わりなき命と呼ぶのは、この至福が、永続しない、物質的で滅ぶべきものであるという考えを人々にもたせないためである。至福 ( Beatitudo ) ということば自体、必要なことを十分に表現しえないのである。さらに、むなしい知識に傲慢になり、感覚的なものを最高の善とする人々があるからしてなおさらである。そのようなものは古び滅びていく。至福には決して時間的な限界はない。これに反して、地上的なものは真の幸福とは非常に異なっており、この世のものを愛し望むものは、真の幸福から遠く離れている。聖書にも、「世と、世にあるものを愛するな。世を愛するなら、おん父の愛はその人のうちにはない」(ヨ①2:15) と書かれてあり、またその少しあとでは、「世と世の欲とは過ぎ去る」(ヨ①2:17) と言われている。
 したがって、司牧者は信者たちがこの世のものをうとんじ、また自分はこの世の住人ではなく旅人にすぎず(ペ①2:11参照) 、この世では至福は得られないことを会得するよう、以上の事柄を入念にかれらの心に刻み込むべきである。私たちはこの世においてすでに、「……幸福な希望と、偉大な天主であり、救い主であるイエズス・キリストの栄光のあらわれを待ちつつ、この世において思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、不敬虔と世俗の欲望を捨てる……」(ティト2:12~13) ことによって、自分を希望による至福者にすることができる。しかし、自分を知恵者だと思い込んでいる多くの人々はこのことを理解せず、至福はこの世にあると考え、愚かなものになり大きな不幸に陥ったのである (ロ1:22参照)。
 さらに、永遠の生命ということばの意味から分かるように、誤って多くの人が主張したのとは反対に、一度得た至福を失うことは決してない。なぜなら幸福とは、何らの悪も含まないあらゆる善の集合だからである。また、至福は人間の望みを満たすものであるとするならば、必然的に永遠の生命でなくてはならない。実際、至福にある人は今もっている善を永遠に享受することを望む。ところが、その善の享受が永続的で確実なものでないならば当然、それを失うことを恐れひどく苦しむことであろう。

4 永遠の至福は人間の考えやことばでは表現し尽くせない

天国にいる聖人たちの幸福がどれほどのものであるか、それはかれらだけに分かることで、それ以外の人はだれも理解し尽くすことはできない。このことは、至福を示すために用いられることばそのものが教えている。私たちはあるものを示すために、ほかのものにも適用する名称を用いることがあるが、これはそれを明確に示しうる固有の名称がないことを表している。さて、私たちは至福を表現するに当たって、至福者たちだけにかかわることばよりも、むしろ永遠に生きるすべてのものにかかわる、より一般的なことばを用いる。このことは、固有のことばをもって至福の内容を完全に表明し尽くすためには、あまりに深くすぐれていることの証拠である。なるほど聖書には天主の国 (マ6:33参照)、キリストの国 (ヨ18:36参照)、天の国 (マ5:3、20参照)、天国 ( Paradisus ル23:43参照)、聖なる町、新しいイエルザレム (黙21:2参照)、父の家 (ヨ14:2参照) など、至福を示すための多くのことばがあるが、そのどれも至福を示すために十分でないことは明らかである。
したがって司牧者は自分に与えられた好機を逸することなく、終わりなき命ということばで表されている大きな報いを信者たちに示し、かれらに信心や正義、キリスト教のすべての務めを果たすよう勧めなければならない。
実際、生命は普通、私たちの本性が欲求する最大の善の一つに数えられる。したがって、至福を終わりなき命と呼んだのは、至福がこの最大の善であることを示すためである。この世の生命は、これほど惨めで取るに足りないもの、不幸に満ちたものであって、死と呼ばれるべきはずのものであるが、それでもこれほど愛され、またこれほど貴重で楽しいものはありえないとするならば、すべての悪を排除し、完全かつ絶対的にあらゆる善を享受させる永遠の生命を得るためには、どれほど熱心に努力すべきであろうか。

5 至福とは何か

 聖なる教父たちが教えているように、永遠の生命の幸福は、あらゆる悪から解放され、すべての善を享有することである。(1)
 悪からの解放について、聖書ははっきりと教え、黙示禄にはつぎのように書かれている。「かれらはふたたび飢えることなく、渇くことなく、太陽にも熱風にも悩まされない」(黙7:16)。「天主は人間の目の涙をすべてぬぐわれ、死ももうなく、悲しみも、叫びも、苦労もなくなる。前のものが過ぎ去ったからである」(黙21:4)。
 つぎに、聖人たちが享受するはかりしれない栄光、数限りない種類の健全な喜びや楽しみがある。私たちの知力では、その栄光の偉大さを把握することはできず、また私たちに示されることも決してなく、その喜びによって満たされ、心の望みをすべてかなえるためには、その至福つまり主の喜びの中に入る以外にない。

6 善人が享受するおもな善について

 聖アウグスティヌスが言っているように、享受する善や楽しみを数えあげるよりも、受ける悪を数えあげる方がたやすいように思われる。(2) しかし司牧者は信者たちをこの無限の幸福に駆り立てうる事柄を、簡単明瞭に説明するよう努力しなければならない。そのためには、権威ある教会の著作家たちがしている区別を取り入れるべきである。かれらは二種類の善に区別している。その一つは至福の本質を構成する善で、他の一つは至福の結果として生じる善である。そして、教える便宜上、前者を本質的善、後者を付帯的善と呼んでいる。

7 至福の本質的善について

 一般に本質的至福と呼ばれるまことの至福は、すべての善と完全さの泉であり原理である天主を見、その美をめでることにある。主キリストは、「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります」(ヨ17:3) とおおせられた。このことばを聖ヨハネはつぎのように注解しているように思われる。「愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子である。のちにどうなるかは、まだ現れていないが、それが現れるとき、私たちは天主に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから」(ヨ①3:2)。かれによると、至福は天主の本性と実体をそのまま見ることと、 私たち自身が天主のようになることの二つから成り立っている。つまり、天主を見る人々は自分自身の実体を保ちながらも、天主の形相に似た形相をもつようになり、人間というよりはむしろいわば神々になるのである。

8 至福者たちが天主の本性にあずかる方法

 なぜそのような変化が起こるのかは、つぎのように説明できる。物事はみな、あるいはその本質を把握することによって、あるいはそれを表象するものやそれに類似したものを把握することによって、知ることができる。ところが、天主と自分との類似をとおして天主の完全な認識を得させるほど、天主に似ているものは何もない。したがって、天主の本性や本質を知るためには、天主の本質そのものが私たちと一致するしかない。このことを聖パウロはこう言っている。「今私たちは、鏡を見るようにぼんやりと見ているが、しかし、その時には、顔と顔とを合わせて見るであろう」(コ①13:12)。
 聖アウグスティヌスは、鏡ということばを天主を知るための表象と解釈している。(3) 聖ディオニシウスも、低いものにみられる類似によって、より高いものを知ることはできない、と言っている。(4) 実際、ある物質的なもののもつ類似をもって、物質でないものの本質や実体を知ることはできない。あらゆる事柄の認識においてよくあるように、類似のもとになるものは、それによって示されるものよりも具象性が少なく、より霊的でなくてはならないからである。そして、ある被造物が天主ご自身と同じくらい純粋で霊的なものになることはありえないのであるから、どのような類似をもってしても天主の本質を完全に理解し尽くすことはできないのである。
 さらに、すべての被造物の完全さは限定されている。これに反して、天主は無限のお方であるので、いかなる被造物による類似も、かれの無限を表すことはできない。そのため、天主の実体を知るためにはただ一つの方法しかない。それは、天主の実体が私たちと一致し、あるすばらしい仕方で私たちの知性を高め、天主の本性をじかに見うるものにすることである。

9 栄光の光をもって天主を見る

 それは栄光の光によってなされる。そのとき、私たちはこの光によって照らされ、まことの光である天主をその光の中で見るであろう (詩26:10参照)。至福者たちは自分たちの前に現存される天主をいつも見ている。また、かれらはこの最大かつ最高のたまものによって天主の本性にあずかるものとされ、まことの完全な幸福を享受している。私たちもまた天主の慈悲によってその幸福を得られるというたしかな希望をもって、それを信じていかなければならない。コンスタンティノープル公会議はこのことをつぎのように決議している。「死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む」。(5)

10 至福における天主と人との一致

 これらのことは全く天主的なことで、いかなることば、考えをもってしても、説明することも把握することもできない。しかし、感覚的な物からたとえをひいて、この至福を説明することができる。たとえば、火に焼かれた鉄は火を吸収することによって、その実体は変わらないとはいえ、あるほかのものつまり火になったように見える。同じように、天国の栄光に入った人々は天主の愛に燃やされ、自分であることはやめないが、この世にいる人々とは非常に違ったものになる。それはちょうど灼熱した鉄が冷たい鉄と違っているようなものである。(6) したがって一言で言うと、私たちが本質的至福と呼んでいる最高絶対の至福は、天主を所有することにある。最高の善、完全さである天主を所有している人にとって、完全に幸福であるために欠けているものは何もないはずである。

11 至福における付帯的善について  

 この至福は、すべての聖人たちに共通の、ある飾りを伴っている。それらは人間の力の及ぶ範囲内にあるので、私たちの心をより激しく刺激し動かすのが常である。この飾りの中には、聖パウロがローマ人への書簡で述べている事柄も含まれている。「善を行うすべてのものに栄光と名誉と平和がある」(ロ2:10参照)。実際、聖人たちは栄光を帯びている。かれらは、本質的な至福と一体をなし、あるいは本質的にそれと分かつことのできない栄光のほかに、もう一つの栄光をもっている。それは、各自がほかの人のすぐれた尊厳をはっきりと認識することから来る栄光である。
 つぎに、主からしもべではなく友と呼ばれ (ヨ15:15参照)、兄弟 (ヨ20:17参照)、天主の子 (ヨ1:12参照) と呼ばれることはどれほど大きな名誉であろうか。私たちの救い主は、つぎのような愛と賞賛に溢れることばで選ばれた人々に呼びかけられる。「私の父に祝せられたものよ、来て、世のはじめからあなたたちのために準備されていた国をうけよ」(マ25:24)。私たちはこれを聞いて、まさに「天主よ、あなたの友はあまりの栄誉を受けた」(ヴルガタ訳 詩139:17) と叫ぶことであろう。
 さらに、主キリストは天の御父とその天使たちの前で聖人たちを賞賛されるであろう (マ10:32参照)。
 また、人間はみな自然に、自分の才能を評価してくれる有識者から賞賛されたいという共通の願望をもっている。さて、至福者は互いに最高の賞賛をもってたたえ合うのであるが、これによってかれらの栄光はどれほどいや増すことであろうか。

12 天国で受けるその他の善について
 
 聖人たちが栄光のうちに享受する喜びを数えあげればきりがなく、またその全部を思い浮かべることも不可能であろう。ところで信者たちは、たとえばそれが精神の知的な喜びであれ、あるいは体の完全な状態における喜びであれ、この地上で味わい、または期待される喜びはすべて天国での生活には満ち溢れていることを、確信すべきである。しかし、この喜びは聖パウロが明言しているように、目もまだ見ず、耳もまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばない (コ①2:9参照) ほど完全な仕方で与えられるのである。
たとえば以前、物質的で粗野であった体は、天国では死ぬことを免れ繊細で霊的な体になり、食物も必要としなくなる (コ①15:42~44参照)。
 また、霊魂は永遠の栄光という糧を楽しみ、それに飽かされるであろう。この糧は宴会から帰った主人がすべての人に与えるものである (ル12:35~37参照)。
 天国では豪華な衣装や華美な装飾など全く用をなさない。すべての人が不滅性と輝きを帯び、永遠の栄光の冠を受ける。それでもなおそのような衣装や装飾を願望するものがあるだろうか。
 また、人は広大で豪華な家をもつことを幸福の一つに教えるが、天主の輝きによってくまなく照らされた天の家ではどうであろうか。それ以上に広大で豪華な家を考えることができるであろうか。ダヴィドはこの住まいの美しさを思い浮かべ、そこに入ることを切望してこう言っている。「あなたの天幕は慕わしい、ああ万軍の主よ!私の魂は、主の門に恋い焦がれ、心と体は喜びにはずむ、生ける天主を迎えつつ」(詩84:2~3)。司牧者はすべての信者がこのような考えをもち、またこのように言うことができるように希望するだけでなく、そうなるように全力をあげて努力すべきである。

13 天国の聖人たちの報いは同一ではない

 主は、「私の父の家にはすみかが多い」(ヨ14:2) とおおせられたが、各自はそのすみかでそれぞれの功徳に従ってそれぞれ異なった報いを受ける。「実に吝(おし)んでまくものは少なく刈り取り、豊かにまく者は豊かに刈り取るであろう」(コ②9:6)。したがって、この至福を享受できるように信者たちを励ますだけでなく、さらにそれを得るための確実な方法は信仰と愛を身につけ、絶えず祈り、秘蹟にひんぱんに近づき、隣人に対する愛徳の実行にあることをしばしば教えるべきである。こうして、ご自分を愛する人々に至福の栄光を準備された天主の慈悲が行われ、預言書イザヤのつぎのことばが実現されるであろう。「私の民は平和の家にすむ。安らぎにみちたすまいに、わずらいのないところに」(イ32:18)。

訳注 (1)S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 22, cap. 30;
      S. Johannes Chrysostomus, ad Theod. lapsum;
      S. Anselmus, op. 2 ad Hugonemなど参照
(2) S. Augustinus, Sermo 64 de verb. Domini 参照
(3) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 15 参照
(4) S. Dionysius, de div. nom. cap. 1
(5) Conc. Constantinopolitanum, Symbolum Constantinopolitanum, DS 150.


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