アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「生命の目的についての真理」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2013年8月11日 大阪でのお説教
「殉教者聖ラウレンチオと聖母の被昇天に共通すること」
兄弟姉妹の皆さん、今日と明日、聖にして母なる教会は殉教者聖ラウレンチオを、次の木曜日は聖母の被昇天を讃えます。
どちらの祝日も、まことのキリスト教徒、まことのカトリック信者の死は、この世の人々が思うような敗北ではないことを思い出させてくれます。この死は、(敗北ではなく)勝利への道なのです。お告げの祈りの後の祈り(祈願)において、私たちは「(キリストの)その御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達する」よう願い求めます。
私が主張したい第一の点は次のものです。それは、試練に直面しているとき、私たちを慰めてくれるほど素晴らしい感情、思想ではありません。それは客観的な真理です。最近、私はインドのあるカトリック神学生のレポートを読んでいました。プロテスタントの教会が世界で、特にインドで広がりを見せているのです。神学生は、人々を引き付けるものは一種の「天主の体験」であると指摘していました。彼が仲間の神学生たちに提案した解決法は、カトリック教会において、似た体験を増やすようにすることでした。ここで彼は、聖ピオ十世が、信仰が個人的な経験に基づくとあえて主張することを近代主義として非難したことを、完全に無視しているように思われます。似た経験を増やそうとすることで、彼は基本的に人々を近代主義者にするのです。
まことのカトリックの立場は、知性によって把握されるべき真理に基づいており、通常は感情、感覚的な感情のレベルにある「個人的経験」に基づくものではありません。カトリック信仰は真理に基づくがゆえに、「個人的=私に限定される」のではありません。信じているがゆえに、カトリック信仰は私のものです。しかし、その真理は私に依存していないがゆえに、カトリック信仰は私のものではありません。カトリック信仰は上から来るのであり、全ての人の知性に適合した客観的な方法で確認されるのであり、この方法は奇跡と予言によって保証されます。これまで何度も説明しましたが、カトリック信仰は、客観的な天主の啓示に対して私たちが応えることです。また、奇跡と予言によってこの啓示に天主が「署名」されたことで、私たちは、啓示なさったのがまことの天主だということを知ります。そのような保証は、「個人的経験」ではありません。客観的です。ルルドで多くの奇跡があったこと、またファチマでは1917年10月13日に奇跡があり、その4カ月前の6月13日に予言されていたことを私たちは知っています。その場に居合わせる必要はありません。これらの出来事は十分記録に残っているからです。旧約の予言や、教会の歴史を通して起きたキリストや聖人たちの多くの奇跡も同様です。これらは、私の知性だけでなく、誠実な人の知性に対して、カトリック信仰が真理であることの証明を提示しています。私がそれについて何かを「感じるか感じないか」は関係ありません。時には、人は反対の方向の感情を持つかもしれません。教会に対する恐れ、「愛着ある罪」を離れなければならない恐れ、非合法な関係や習慣をやめなければならない恐れです。しかし、真理はそこにあります。私が真理に対して誠実でありたいなら、私はその真理を受け入れます。
多くの近代主義者は今日、誰でも自分の真理を持つことができると考えています。それをよいと感じる限りにおいて、近代主義者には素晴らしいものです。私たちの主イエズス・キリストに回心する必要はありません。そんな取り組み方においては、感情が支配し、知性は完全に脇に置かれます。たとえば、ある人は一つのまことの天主に三つのペルソナがある(カトリックの教義)と認め、ある人はそれを否定する(イスラム教徒など)とき、すべての宗教が共に正しいということは不可能です。さて、天主は至高の知性であり、純粋に霊的であり、「礼拝者は霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ4章24節)。私たちの持つ知性を与え、天主を知ることのできる知性を私たちに与え給うた天主は、私たちが天主を知るか、あるいは天主についての誤謬によってだまされるかどうかについて、無関心ではおられません。天主は至高の真理であり、真理を愛し、「すべての人が救われて、
真理を深く知ることを望まれる」(一ティモテオ2章4節)のです。言い換えれば、すべての人は、救われるために真理を知らねばなりません。
それでは、真の信仰において、「天主の体験」はないのでしょうか。教会は伝統的に「天主の体験」を語りませんが、「霊的慰め」については語る、というのが真実です。天主は霊的慰めをお与えになります。特に、霊的生活の初めにおいて、正しい方向に私たちを向けるためにお与えになります。私たちの主イエズス・キリストを見出すとき、天主からの大きな喜びがあります。しかし、自分の感情に信頼を置いてしまうと、誤りに陥ってしまうでしょう。実際、そのような感情は、人々をだますために悪魔によって似せて起こされることが時にありえます(これは、自分を信頼しすぎたことへの罰になるでしょう)。また、しばしば、そんな喜びの正確な原因が何であるかを理解しません。プロテスタント教会においては、しばしば、真理と一緒に誤りものみこんでしまいます。カトリック教会においては、聖人たちは、自分の判断や感情を信頼せず、カトリック教会の客観的な真理に従うよう警告しています。これが、聖人のほとんどが霊的な指導者であり、長上の指導の下にいようと多くが修道生活を選んだ理由です。なぜなら、彼らは自分たちの判断を信頼していなかったからです。しかし、プロテスタント主義の根は、個人的な判断です。このため、あらゆる種類のさらなる誤りに陥ります。
さて、元の目的に戻りましょう。聖人たちの祝日、聖ラウレンチオ、そして聖母の祝日ですが、これらは私たちの人生の目的を思い出させてくれます。すなわち、天国です。偉大な真理は目に見える側面、自然的次元を持つというのは、すべての人、非カトリックの人でも分かります。地上における人間の生命は死によって終了します。この第一の真理は、過ぎ去るものに愛着を持つ人々、みんなに地上のものごと、つまり権力、富、楽しみなどの空虚で空しいものを教える人々への警告です。すべては過ぎ去り、私たちも過ぎ去ります。私たちが過ぎ去るものへ愛着を持つならば、喜びはそれらと共に過ぎ去ります。永遠のものに愛着を持つならば、私たちの喜びも永遠となるでしょう。
私たちの生命の目的についての真理には、第二の次元があります。まだ自然的レベルですが、これは目に見えません。私たちの霊魂は、体の死によって破壊されず、存在を続け、永遠に存在し続けるという意味においては、不死です。なぜなら、霊魂は霊的だからです。霊魂の霊的性質は、自然的真理です。すなわち、理性という自然的な光によって証明できる真理です。
私たちがものを考えるとき、イメージ(図形)とアイデア(概念)の両方があります。イメージは個別であり、アイデアは一般的です。たとえば、三角形の三つの角度の和は180度だということを証明するなら、紙の上に(あるいはホワイトボードの上に)イメージを描くでしょう。証明を進めていき、最後にはすべての三角形について真理であると結論します。自分の描いたイメージだけで推論したのなら、彼はどのようにしてそんな結論を出したのでしょうか。そのわけは、個別のイメージによって推論したのではなく、三角形についての一般的なアイデアによって推論したからです。このことから、彼の結論は正当なものです。知性の光によって、人間は、個別のイメージから一般的なアイデアを引き出し、次に、個別のイメージ、感覚で得た個別のデータの中に一般的なアイデアを見ます。そのため、人間のアイデアは一般的です。さて、物質はすべて個別であり、一般的ではありません。このことから、人間のアイデアは物質的ではありません。霊的です。アイデアが非物質的であるなら、そのようなアイデアを生み出す能力がそれより低いはずはありません。その能力も霊的レベルになければなりません。その能力は知性であり、脳ではありません。脳はイメージを生み出し、想像力(イマジネーション=イメージする力)は脳にあります。しかし、知性は脳ではありません。脳は物質であり、知性は霊的能力です。それがゆえに、その能力を持つ霊魂もまた、それ自体で霊的であり、物質や肉体に依存せず、存在します。これは不死です。
私たちの霊魂は不死ですから、その目的は地上のものごとに限定されえません。地上のものごとは過ぎ去り、私たちの霊魂を受け入れるほど大きな能力はありません。天主のみがそれを満たします。聖アウグスチヌスが美しく述べています。「主よ、御身はわれらを御身のためにつくり給うた。われらの心に憩いなし、御身において憩うまで」
今度は第三の次元、私たちの命の目的である超自然的次元です。私たちは啓示によって知っています。「天主は、御独り子与え給うほど、この世を愛された。それは、彼を信じる人々みな滅びることなく永遠の命を受けるためである。天主が御子を世に送られたのは、世をさばくためではなく世を救うためである」(ヨハネ3章16―17節)。永遠に生きることを望まない人がいるでしょうか。私たちは、主イエズス・キリストにおいて、キリストのみにおいて、永遠の命を見出すことができます。キリストは私たちの救い主であり、私たちを罪から救い、ついには罪から出るすべての悪から救うのであり、ほかに救い主はいません。
私たちは啓示によって知っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは、天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章1―3節)
聖人たちの祝日、聖ラウレンチオと、さらには聖母の祝日を祝うため、目を上げましょう。私たちの霊魂の目を、私たちの知性の目を。そして、天主における永遠の命を黙想しましょう。そこにおいては、聖人たちは至高の善、無限の善、不変の善、善そのもの、御父、御子、聖霊と一致して永遠に喜ぶのです。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の栄光を映し、霊なる主によってますます栄光を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。徳に対する報酬。忠実に対する報酬。忠実に「自分を捨て、自分の十字架を担って、キリストに従う」(マテオ16章24節)人々に対する報酬があります。
兄弟姉妹の皆さん、聖人たちの栄光を黙想するとき、彼らに従うように真実をもって決心しなければなりません。生ぬるさでなく熱意をもって、ためらいでなく確信をもって。唯一のまことの信仰に見られるごとく。聖人たちの道は永遠の命、永遠の喜びに至り、努力するすべてに値するものです。「主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章3節)。しかし、これらの努力はそれ自体、いつも私たちをお助けくださる天主の賜物であり、その御助けによって、私たちは失敗するはずがありません。それゆえ、私たちは確信をもって前へ進むべきです。
最後の考察に入ります。聖化する業は、ご聖体と密接に関わっています。実際、聖ラウレンチオを見てみましょう。彼は教皇聖シクスト二世の助祭でした。教皇が殉教へと引かれたとき、聖ラウレンチオは教皇に言いました。「教皇様、助祭もなく、あなたはどちらへ行かれるのですか。いけにえ、ミサをお捧げになるとき、あなたの助祭を思い出してください」。聖シクストは8月6日に殉教しましたが、聖ラウレンチオに対して、聖ラウレンチオが数日後に、さらなる栄光の殉教によって教皇に続くことを述べ、聖ラウレンチオはそうなりました。これらの聖人たちが自分の命をキリストためにお捧げするという強さを引き出したのは、ご聖体においてでした。キリストは彼らのために亡くなられました。彼らは、天主の小羊の肉を、十字架のいけにえを食べました。何度も。さあ、今度は、彼らが小羊とともに小羊になるとき、キリストとともにいけにえになるときが来ました。彼らの準備はできていました。また、童貞聖マリアは被昇天なさり、キリストに続いて(体ごと)天に昇られました。なぜなら、マリア様は最初にカルワリオ山までキリストについて行かれ、キリストの「私は地上から上げられて、すべての人を私のもとに引き寄せる(これは、ご自分がどんな死に方をするかを示されるためであった)」(ヨハネ12章32―33節)という言葉に従っておられたからです。多くの人々がキリストについて天へ行きたがりましたが、カルワリオまでキリストについて行った人はほとんどいませんでした。しかし、私たちはキリストの御受難に参加しない限り、キリストの栄光に参加できません。聖パウロは明確にこう言いました。「私たちは天主の子である。私たちが天主の子であるなら、世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章16―18節)
すべてのミサにおいて、天主のいけにえとともに自分をお捧げすることを習慣づけましょう。そうして、その日、キリストにために自分の命をお捧げする準備をし、それにより、キリストの国に入ることが認められ、永遠に聖母やすべての聖人とともにいることができますように。アーメン。