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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアに対する尊敬

2013年08月06日 | カトリックとは
三十一日 聖マリアに対する尊敬

       蓋(けだ)し看(み)よ、今より萬代(よろずよ)までも人皆我を
      福(さいわい)なる者と称(とな)へん。          (ルカ 一。 四八)

 これは聖マリアがその親戚(しんせき)聖エリザベトを訪問された時、相手の祝辞(しゅくじ)に答えて天主の御(おん)恵(めぐみ)を感謝した後、御自分に就(つ)いて仰せられた御言葉(おんことば)であるが、この予言は悉(ことごと)く成就(じょうじゅ)した。
実際聖母はすべての時代のあらゆる人々から断(た)えず讃美(さんび)せられ給うたのである。
 またかように万国(ばんこく)万代(まんだい)の人々に讃美(さんび)せられ給うのも無理はない。聖母は造られたる物の内(うち)最(もっと)も完全なる御者(おんもの)で、云わば聖三位(さんみ)一体(いったい)の御名作とも申し上ぐべき御方(おかた)である。
 謙遜(けんそん)な聖マリアは御自身でも此の事を認められて「全能にて在(ましま)す者、我に大事をなし給えり」と、天主の御力(おちから)を賞讃(ほめたた)えられたが、その通り天主は聖マリアの完成にあらゆる努力をおしまれず、先(ま)ず永遠の昔より御独子(おんひとりご)の母とする計画を立てられ、その御孕(おんやど)りには原罪を除(のぞ)き去り、その御一生には溢(あふ)れんばかりの聖寵(せいちょう)を注(そそ)ぎ、あらん限りの光栄(こうえい)を与え、実に至れり尽くせりの丹精(たんせい)を加えられた。さればその御霊魂(ごれいこん)の美麗(びれい)な事は空前(くうぜん)絶後(ぜつご)で、かの大天使ガブリエルが「慶(めでた)し、聖寵(せいちょう)充(み)ち満(み)てるマリア!」と叫んだのも、恐らくは驚嘆(きょうたん)の余りに出た言葉であったろう。しかもその麗(うるわ)しさは、神の御子(おんこ)の御托(ごたく)身(しん)、私生活の三十年間と、時を経(へ)るに従って磨(みが)きぬかれ、いよいよ燦然(さんぜん)と光輝(かがやき)を放(はな)つに至(いた)ったのである。
 故にかように優(すぐ)れた天主の作品を尊敬(そんけい)讃美(さんび)する事は、天主の御栄光(みさかえ)になりその思(おぼ)し召しに適(かな)い、叉,厚く望み給う所でもある。我等は今日聖母月を終るに当たり、聖母への尊敬が如何に広く行き渡(わた)っているかを考えて見よう。
 先ずイエズスの公生活中、主の御母なる聖マリアが、如何(いか)に一般の人々から尊敬されておいでになったかわ、聖書に録(かきしる)してある「福(さいわい)なる哉(かな)、汝を孕(やど)せし胎(たい)よ!」という或る婦人の言葉によっても充分に察せられる。
 叉、聖マリアには、聖子イエズスがまだ天主の御独子(おんひとりご)であると人々に認められ給わぬ時分から、既(すで)に讃美(さんび)する者が多くあり、かのカルワリオ山に於いて、罪なき主を嘲(あざけ)り、罵(ののし)り、打ち叩(たた)き、十字架に釘つけ参らせたフアリザイ人や悪党輩(やから)さえも、聖母マリアに対しては尊敬(そんけい)の態度をとり、十字架の下(もと)にたたずみ給うに委(まか)せて何事も云わなかった。
 敵でさえ然(しか)りとすれば、イエズスの御弟子達がどれほど主の御母を敬愛し参らせたかに就(つ)いては、語る必要があるまい。
 或る伝説によれば、その時代既(すで)に聖母を尊敬する為の修道会が出来ていたとの事である。その他、各時代を通じて聖母尊敬の様々な例を数えたら、恐らく枚挙(まいきょ)に遑(いとま)ない事であろう。
 我が聖会に於いてもピオ九世教皇(きょうこう)聖下(せいか)は、聖マリアの無原罪の御孕(おんやど)りを信仰箇条(かじょう)の一(いち)として普(あまね)く天下に宣言し、十二月八日をその祝日と定め給いレオ十三世教皇聖下(せいか)はロザリオの祈祷(いのり)によって聖母の御伝達(おとりつぎ)を願う事を衷心(こころ)からすすめられた。共に聖マリアに対する熱烈な尊敬(そんけい)の表現(あらわれ)に他(ほか)ならぬ。
 我が日本に於いての何を挙げれば、徳川三百年のキリシタン禁制時代、激(はげ)しい迫害(はくがい)を蒙(こうむ)りながらも信者等は決して聖母に対する尊敬、熱愛、信頼を捨てなかった。
 厳(きび)しい役人の目を盗む為に、マリア観音(かんのん)、即ち観音(かんのん)に似(に)せて聖母の御像(ごぞう)を作り、秘(ひそ)かに之を尊敬(そんけい)していた者もあった位(ぐらい)である。
 さればこそ、或は残酷(ざんこく)な、のこぎり引き、火あぶり、熱湯(ねっとう)責(せ)めなどの残酷(ざんこく)な刑罰(けいばつ)も勇ましく耐(た)え忍(しの)び、天晴(あっぱ)れ殉教(じゅんきょう)の栄冠(えいかん)を頂き、或は牧者(ぼくしゃ)なき小羊(こひつじ)の群(む)れとなりながら、親から子へ、子から孫へ、御教(みおし)えを伝えて共に信仰を全(まっと)うし得たのも偶然(ぐうぜん)でない。
 しかも布教(ふきょう)解禁後(ご)、昔のキリシタン信者の子孫が発見されたのも彼等が浦上天主堂の聖母像に尊敬(そんけい)を献(ささ)げて、司祭の目に留(と)まったのであった。
 我等も壮烈(そうれつ)な彼等殉教者(じゅんきょうしゃ)と血を同じうせる日本人である。彼等の如く日頃聖母に厚き尊敬と愛と信頼とを献(ささ)げ、その御助(おんたす)けによって艱難(かんなん)の時にも信仰を全(まっと)うする事が出来なければ、何の面目(めんぼく)あって彼等に見(まみ)ゆる事が出来よう。

   祈   願

 ああ聖母よ、我等は今(いま)御身を尊敬し奉る事の、如何に麗(うるわ)しき業(わざ)なるかを思いて歓喜(よろこび)に耐えず。
わが日本の聖(とうと)き殉教者(じゅんきょうしゃ)が御身を敬愛(けいあい)して其の栄冠を受けられたるに倣(なら)い、我等も拙き(つたな)心、繊(か)弱(よわき)き此の身を顧(かえり)みず、わが一切(いっさい)を御手(みて)に托(まか)せ奉る。
 何卒、我等を御身の所属物(もの)として守り、迷える時に導き、危うき時に助け、しかして此の世を去るに臨(のぞ)みては、御身の聖名(みな)を呼び奉り、死しての後に於いては、御身の聖(み)顔(かお)を仰がしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)

聖母聖月信心の終りの祈祷

聖マリアよ、我等、御身に捧げたる此の月を終らんとするに当たり、御前(みまえ)に跪(ひざまず)き、我等が御身の子としての讃美(さんび)、感謝、祈祷(いのり)を捧げ奉る。
 我等は御身があらゆる聖寵(せいちょう)と美点(びてん)とを与えられ給いしことを、三位(さんみ)一体(いったい)なる天主に感謝し奉り、また御身が我等の為に代願(だいがん)し、我等の願いを叶(かな)わしめ、我等に慰めを与え我等に天主の聖寵(せいちょう)を求め給いしことを御身に感謝し奉る。
 愛すべき御母よ、この月の日の如く、何時(いつ)にても、何処(いづこ)にでも、御身の貧しき子なる我等をみそなわし給え。危険に臨みては御保護を、戦いに於いては御助力を、苦難に際しては忍耐を与え給え。
 罪人(つみびと)の為には改悛(かいしゅん)と赦(ゆる)し、義人(ぎじん)の為には聖徳(せいとく)の進歩を求め給え。遂に我等、総(すべ)てに最終まで耐え忍ぶ力と、善(よ)き臨終(りんじゅう)、(かん)仁(じん)なる審判(しんぱん)を求め給え、御伝達(おんとりつぎ)によりて総(すべ)ての危難(きなん)より救われ、今、御身の子として愛を以て、御身にまかせ奉りし我等総(すべ)てを、天国に於いて再び御身の御前(みまえ)に集(つど)わしめ給わん事を願い奉る。
 ここに誠心(まごころ)より「天主の御母聖マリア、罪人(つみびと)なる我等の為に今も臨終(りんじゅう)の時も祈り給え。」とさけぶ我等の中一人も滅(ほろ)びに至らざらんことを願い奉る。 
アメン。

尊(とうと)き天主の御母マリアよ           ▲ 更に祝せられ給えかし。
我等の救い主イエズス・キリストの御母よ      同じ
憐(あわ)れみの御母よ                  同じ
罪人と貧しき者の依托(よりどころ)               同じ
総(すべ)ての聖徳(せいとく)の亀鑑(かがみ)                 同じ

我が最愛の御母、支配者、代願者(だいがんしゃ),    ▲ 更に祝せられ給えかし。
 
生涯(しょうがい)殊に今月我等に賜(たまわ)りたる恩恵(おんめぐみ)の為に ▲ 我等、誠心より汝に感謝し奉る
 
我が罪悪(ざいあく)の為に受くべき地獄と、肉(にく)身(しん)、霊魂(れいこん)の
悪より、御伝達(おんとりつぎ)をもって救い給いしことを           同じ
この聖(せい)月(げつ)に祈り得たる恩恵(おんめぐみ)の為に             同じ
この聖月の中に我等に授け給いし聖寵(せいちょう)及び光明(ひかり)の為       同じ
我等に賜(たまわ)りし歓喜(よろこび)、慰(なぐ)籍(さめ)の為に              同じ
この月の中に御身の模範(もはん)が我等の心に起こしたるよき決心の為に 同じ
今月の中に我等に賜(たまわ)りたる総(すべ)てと我等の受けたる知らざる恵(めぐみ)の為に 同じ
     祈 願 せ ん

慈悲深き聖母マリアよ、我等今この聖(せい)月(げつ)を終らんとするに当たり、省(かえり)みればわれらが信心の勤行(つとめ)には足らざることのみ多く、また卑(いや)しきわれらが祈りには、聴き入れらるるに堪えざるものありき。されど御身は哀憐(あわれみ)の御母なれば、そを見そなはし給うことなく、御身の栄光(さかえ)の為に、この聖月の信心を行いたる我等の意志(こころざし)を顧(かえり)み給え。
 我等の足らざるを許し、却って慈悲深き御身に信(より)頼(たの)み御身にさけびし者の捨てられしこと、古(いにしえ)より今に至るまで世に聞こえざるを思い給え。
 願わくは我等を御身の子として、我等の意志(こころざし)、我等のうやうやしき祈りを御父に捧げ、その聴き入れられんことを請(こ)い求め給え。 アメン。

我等に深き痛悔(つうかい)と罪のゆるしを天主より請い求め給わんことを▲更に願い奉る。
生ける信仰、天主の憐(あわ)れみのかたき信頼、天主に対する燃ゆる
愛を求め給わんことを                       同じ
真実の謙遜(けんそん)、柔和(にゅうわ)、忍耐及び艱難(かんなん)に臨(のぞ)み,御身の子として主に
依(よ)り頼みを得んことを                       同じ
我等今より忠実に主に奉仕へこれを最終まで持続せんことを      同じ
御身の識(しろ)し召す我等の為に、最も益(えき)にして且つ最も必要なる
御恵を求め給わんことを                       同じ
我が両親、朋友(ほうゆう)、親族恩人等を御身の御保護の中に入れ給わんことを  同じ  
すべての罪人(つみびと)と、煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)を憐(あわ)れみ給わんことを          同じ

     祈 願 せ ん

ああマリアよ今も、また特に臨終(りんじゅう)の時に我を捨て給わざれ。愛すべき御母よ、わが臨終に於いては我が今月屡々(しばしば)御前に跪(ひざまず)きて、「天主の御母聖マリア、罪人なる我等のために今も臨終の時も祈り給え。」とさけびしことを記憶(おぼ)へ給え。
 ああマリアよ。願わくはここに集(つど)える我等すべてを御身の伝達(とりつぎ)によ地獄より救い、天国に於いて再び御前に会(かい)し、御身の愛と御慈悲(おじひ)とを、永遠に讃美(さんび)するを得(え)せしめ給え。アメン。

注意  なおこの終りにおいて聖母マリアの讃美歌(マグニフイカト)或は他の感謝の聖歌を歌うことが習慣となっている。



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