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聖ピオ十世会(SSPX)創立者ルフェーブル大司教の伝記:13.2.3.司牧的愛徳と司祭の聖性

2009年09月15日 | ルフェーブル大司教の伝記
司牧的愛徳と司祭の聖性

 公会議の終了、及び (チェトゥスとルフェーブル大司教の努力にもかかわらず) 公会議文書を支配する精神の影響を受けた公会議の教令の宣布に、大司教はしばらく言葉を失った。四年間の闘いを経て、後ろに退いて総括する必要があった。

 大司教が極めて肯定的に評価しその目にかなった極めてまれな公会議文献が、「司祭の役務と生活に関する教令」 Presbyterorum Ordinis だった。彼は、聖霊司祭修道会員たちに自分のこの文献についての考察を伝えた。

 すでに大司教の最大の関心事になることそれは、司祭職がいかなる道にも逸脱することがないように保護し、司祭職の本質と聖性とを構成することに焦点を絞らせることだった。

 その点でルフェーブル大司教は文献が重点を犠牲祭祀(いけにえ)を捧げるという司祭の役目よりも、説教者としての役目に焦点がずれているということを看破していた。

 彼は次のように訂正している。「この(説教という)職務はそれ自体では目的ではない。準備だ。これはもっと本質的で司祭職の特別な目的である他の職務へと導いている。」


 しかし総長は、公会議文書の中でより良い部分をつまみだした。第一は司祭の定義に関する事柄だ。

「...聖霊の塗油によって、特別な霊印を司祭にしるし、こうして、司祭は「かしら」であるキリストの代理者として行動できるように、司祭キリストの姿に似たものとなる」(§2)

 次に、司祭の目的自体と役務に関することであっった。

「信者の霊的供え物(原文:いけにえ)は、司祭の役務を通して、唯一の仲介者であるキリストの供え物との一致のうちに完成するものであり、このキリストの供え物は、主自身が来るときまで、司祭たちの手によって(原文:手を通して)、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく秘蹟的に捧げられる。司祭の役務はこの事を目ざし、このことにおいて完成する。」(§2)


 最後に内的な生活を使徒職と一致することに関して、多くの司祭たちがその調和を保ちにくいということにかんして、

「司祭は牧者的愛の実践の中に、その生活と行動とを統一させる司祭的完徳のきずなを見いだすであろう。この牧者的愛は、特に聖体のいけにえから流れ出るものであるから、聖体のいけにえは司祭の全生活の中心であり、根源である。従って司祭的精神はいけにえの祭壇上で行われることを司祭の中に内在化させるように努める。」(§14)

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第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言




II. 苦悩と希望の間

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