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カトリック信者にとって、五輪の冒涜の償いをすることは本当に重要である。その理由はこうだ

2024年08月12日 | カトリックとは

カトリック信者にとって、五輪の冒涜の償いをすることは本当に重要である。その理由はこうだ

世界中のカトリック信者が、パリ五輪の開会式で行われた恐ろしい冒涜行為の償いを行っています。教皇ピオ十一世の1928年の「聖心への償いについての回勅」は、なぜこのような祈りによる償いが重要なのかを教えてくれます。

S・D・ライト

2024年8月5日(月)―米東部標準夏時間12時17分

2024年の五輪の開会式のような公の場での冒涜に直面したとき、私たちはそのことについて話したほうがいいのでしょうか、それとも無視したほうがいいのでしょうか。

私たちの中には、この事件が注目されないようにした方がいいのではないかと感じた人々もいます。このような冒涜行為に責任のある者たちが、キリスト信者に憤怒を起こさせ注目を向けさせることで目標を達成しているのは明らかです。

ある意味で、彼らはこの憤怒から利益さえも得ています。つまり、結局は、彼らに無料の宣伝をさせているのであり、「悪名は無名にまさる」ことはよく知られています。多くの人々が、このような出来事の動画や写真を互いに共有し、「こんなの信じられる?」と問いかけたい誘惑に駆られています。

いわゆる保守的インフルエンサーたちが、最新の不潔な音楽を自分の番組で音読することで反応するのと同じことが時々起こります。そのようなものを共有することで、私たちは自分自身を汚しているのです。結局のところ、聖パウロはこう言いました。

しかし、聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろな汚れ、情欲は口にさえもするな。

また、汚行、愚かな話、下品な冗談も言うな。それはよからぬことである。ただ天主に感謝せよ(エフェゾ5章3-4節)。

この冒涜的な出来事の写真にも、ある程度は同じことが当てはまります。

しかし、このような冒涜によって引き起こされる客観的な社会的混乱が存在します。そのため、私たちは、このような事件に注意を払う必要があるのです。

冒涜とは何か

聖トマスは、冒涜は非常に大きな罪であり、天主への憎しみによって悪化する一種の不信仰である、と書いています。彼は、それを殺人と比較して、次のように述べています。

殺人と冒涜を、その罪の対象に関して比較するならば、天主に対して直接犯した罪である冒涜の方が、隣人に対する罪である殺人よりも重大であることは明らかである。

一方、その二つの罪を、その罪がもたらす害について比較すれば、殺人の方が重い罪である。なぜなら、冒涜が天主に対して行う害よりも、殺人が隣人に対して行う害の方が大きいからである。

しかし、罪の重さを左右するのは、先に示したように(神学大全Ⅰ-Ⅱ Q73.8)、行為の効果よりも、むしろ悪意という意向であるがゆえに、冒涜者には、天主の名誉に害を与えようという意向があるため、絶対的に言えば、殺人者よりも重い罪を犯しているのである(同Ⅰ-Ⅱ Q13.4)[1]。

冒涜の罪によって引き起こされる社会的混乱と罪の行為は、特にそれが共同体を統治する責任のある者たちによって犯される場合、天主に対する正義の問題として、また社会にとって緊急の問題として、正されなければなりません。

なぜなら、社会団体の長の罪によって、あるいは社会団体全体の行為となるような多数の構成員の罪によって、時には社会団体が集団的責任を負うことがあるからです。このように、社会の指導者たちの罪は、社会の構成員にも影響を及ぼすのです。

聖トマスはこう説明します。

アダムから生まれたすべての人間は、最初の父祖から受け継いだ共通の本性を持っている以上、一人の人間として考えることができる。世俗的な問題においても、一つの共同体に属する者はすべて一つの体であるとみなされ、共同体全体が一人の人間であるとみなされる。(…)したがって、アダムから生まれた多くの人間は、多くの構成員を持つ一つの体のようなものである(同I-II Q. 81.1)。

この文章は、「一つの体であるとみなされ、共同体全体が一人の人間であるとみなされる」共同体が、国家が全体として犯した、あるいは、国家の指導者たちが犯した罪に対して、禁止命令(または経済制裁など)のような措置をもって正当に罰せられることがあるのはなぜかを説明しています。

同じ理由で、歴史を通じて何度も見てきたように、正義の天主は、甚だしい罪や冒涜で天主を挑発するような共同体を罰することを選ぶかもしれません。

これが「償い」が意味するものです。

しかし私たちは、無限の天主に対する罪に対して、本当に償いを捧げることができるのでしょうか。

償いは可能か

罪がある意味で無限であり、それは罪が最終的に向けられる相手である天主の尊厳が無限であるからだ、というキリスト教の原則はよく知られています。聖トマスはこう書いています。

天主に対して犯した罪は無限である。なぜなら、罪の重さは罪を犯した相手の偉大さに応じて増大し(したがって、君主を打つことは私人を打つよりも重い罪である)、天主の偉大さは無限であるからである。

それゆえ、天主に対して犯した罪には無限の罰が与えられる[2]。

キリスト教のもう一つの原則は、このような罪に対して、単なる有限の人間が償いをすることはできない、ということです。聖トマスはこう書いています。

「どんな罰も、(罪の負債に対して)人間が(天主に)十分な償いを支払うことはできない」[3]。

ここで注目すべき点が二つあります。

第一は、自分の罪であれ他人の罪であれ、私たちが罪に対して十分な償いをすることが根本的にできないということが、そのような償いをしようとする義務をなくしてしまうわけではないということです。私たちには少なくとも、償いを試み、公然の冒涜による混乱、不公正、罪の行為の埋め合わせをする義務があります。

第二は、天主ご自身のあわれみによって、天主は、人類に罪の償いをする手段を与えてくださったということです。その償いは、神性とお取りになった人性を併せ持つ天主のペルソナである、キリストのご受難によって達成されたものです。

私たちの人性をお取りになることによって、キリストは私たちの一人として、人間として、天主にいけにえを捧げることができました。このいけにえは、「天主の肉体であったからこそ」、また、キリストが天主に対する完全な従順と限りない愛から、この極限の苦しみを耐え忍ばれたからこそ、無限の価値を持つものだったのです[4]。

しかし実際には、キリストが人類を贖われたのは、単なる「十分な」方法によってではなく、むしろ、私たちに超自然の行為を行う手段を与えるという「あふれるほどの豊かな」方法によってなのです。その超自然の行為は、ご受難と一致し、超自然の愛徳によって活力を与えられている限りにおいて、功徳のあるものなのです。

そのような行為は、常にキリストのご受難、恩寵、超自然の愛徳からその価値を引き出すものであり、冒涜やその他の罪が天主の御怒りを招くこと以上に、天主をお喜ばせするものとなり得るのです。

このため、罪の償いをすることは本当に可能なのです。償いを捧げる試みについて、ピオ十一世は1928年の回勅でこう述べています。

十人の義人のためにソドムを容赦しようとされた、正義にしてあわれみ深い天主は、謙虚な祈願によって心を動かされ、全人類の名において、その仲介者にしてかしらであるキリストに一致して共に祈る信者の共同体の祈りによって幸いになだめられるとき、さらに全人類を容赦する用意があるであろう[5]。

ソドムの例は、指導者たちや多数の個人の罪が、全体としての社会に影響を及ぼすのと同様に、一部の人々が償いを行えば、同じように影響を及ぼす可能性があることを示しています。

世界中で行われている償い

パリでの侮辱的な行為の後、カトリック信者の各グループが公の償いの祈りを行いました。翌週には、LifeSiteNewsがこう伝えました。

8月2日(金)の時点で、ほぼすべての大陸から3人の枢機卿と24人の司教が書簡に署名し、「この冒涜に対する償いのための祈りと断食の日」を約束した。

「パリで開催された夏季五輪が、グロテスクで冒涜的な最後の晩餐の描写で開幕するのを、世界は衝撃をもって見守った」と高位聖職者たちは書いている。「20億人以上の人々の信仰が、これほど軽々しく、意図的に冒涜されるとは理解しがたい」。

「私たち世界中のカトリック司教は、世界中のキリスト信者に代わって、五輪委員会がこの冒涜的な行為を不当なものだと述べ、すべての信仰を持つ人々に謝罪することを要求する」と書簡は続ける。

署名者の大半は、サンフランシスコのサルバトーレ・コルディレオーネ大司教、フィラデルフィアのチャールズ・シャピュー名誉大司教(カプチン・フランシスコ修道会)、カンザスシティのジョゼフ・ナウマン大司教を含む米国の司教だが、ナイジェリア、レバノン、英国、フランス、アルゼンチンの司教、カザフスタンのアスタナのアタナシウス・シュナイダー司教もいる。

署名した枢機卿には、レイモンド・レオ・バーク枢機卿、ウィルフリッド・フォックス・ネイピア枢機卿(フランシスコ修道会)、ベルハネイエスス・デメレウ・スラフィエル枢機卿(ラザリスト会)が含まれる。

カナダでは、カトリック信者がこの出来事に対する償いとして、フランス大使館への公開行進を計画しています。主催者のジョン・パチェコはLifeSitenewsにこう語りました。

「償いは、教会や社会で長い間忘れられてきたことです。天主に対する冒涜は非常に重い罪です」。

伝統的に、このような罪は、天主の各ペルソナに対する直接的な攻撃であるため、最悪の罪の一つ(肉の罪よりもさらに悪い)と考えられていたが、今日では、教会で評価されず、社会では、ちょっとした冗談になっている。

悲しいことに、多くの人は、【天主からの】何の反応もなくこの嘲笑が続くのを天主が許してくれると信じている。そのような態度は、天主の御稜威に対する軽薄な態度と、天主に対する恐れが完全に欠如していることを表している。これは深刻な妄想である。

英国では、カトリック信者がロンドンのフランス領事館の前に集まり、公的な償いの祈りを行いました。この集会の主催者はこう述べました。

「私たちがここにいるのは、先週、パリで五輪の開会式が行われたためです。私たちは、これまで私たちの記憶にないほどの大胆な冒涜を目にしました。

(それは、)私たちの主イエズス・キリストが、私たちの主ご自身との完全で親密な一致の秘跡である聖体を制定された、最後の晩餐を完全にあざ笑うものでした。まことに聖にして純粋なもの、ふさわしい拝領者に多くの恩寵を与えるもの、そして彼らが明らかに嫌っているものです!

特に、私たちのカトリック位階階級とされる人たちの沈黙を前にして、カトリック信者は、このようなあからさまな冒涜行為、オカルト的なルチフェル的儀式に他ならないものに対して、償いをすることが不可欠です。

ですから今日、私たちは欧州中の無数のカトリック信者とともに、この世による暴挙、汚聖、冒涜に対する償いのために、そしてこの世の真の王である、王たるキリストをたたえるために、ロザリオを捧げます」。

これらの行事に参加した人々は、教皇ピオ十一世が約100年前にこれらの行事について次のように記していることを知り、励まされるはずです。

信者の誰もが、これらのすべてのことについて敬虔に熟考し、キリストの苦悩の際の愛徳で燃え立ち、自分自身の過ちと他者の過ちを償い、キリストの名誉を回復し、霊魂の永遠の救いを促進するために、より熱心に努力しなければならない[6]。

キリスト信者に与えた不快感に過度に注目すること

この出来事に関する多くの論評は、このような冒涜がキリスト信者に与えた不快感を中心に展開されています。フランシスコが一週間以上も沈黙を守っていたことに多くの人が驚きましたが、ある意味、次の【バチカンの】声明は沈黙よりもひどいものです。

聖座は、パリ・オリンピックの開会式のいくつかの場面に悲しみを覚えると共に、ここ数日上げられていた、多くのキリスト教信者や他の宗教の信者にもたらした不快感を嘆く声に加わらざるを得ない。

全世界が共通の価値観のもとに一致して集う信望ある催しにおいて、多くの人々の宗教的信念を嘲笑するような暗示はあってはならないはずだ。

表現の自由は、当然問題ではない(が、)他者の尊重においては限界がある。

【参考】バチカンニュース・教皇庁「パリ五輪開会式のいくつかの場面に悲しみ」表明

キリストを拒否する人たちに対応する場合、キリスト信者、そして「すべての信仰を持つ人たち」、「他の宗教の信者たち」に起こる不快感に焦点を当てることは、少しは適切かもしれませんが、天主ご自身に起こる不快感の方がはるかに重大です。

私が何度か言及したピオ十一世の1928年の回勅「ミゼレンティッスムス・レデンプトール」(Miserentissumus Redemptor)とこの声明を比較すると、この焦点を当てることの不自然さがよく分かります。

この回勅は、天主の御子にして人類の贖い主に対する公然の冒涜に対して、真の教皇がどのような公的感情を持つべきかを私たちに示しています。


以下にピオ十一世の回勅からの抜粋を掲載します。もし天主の名誉に関心を持つ教皇がいれば、そのようなことは、今週書かれたかもしれませんし、先週、同じようなことが書かれたかもしれません。

私たちは皆、ピオ十一世の教えに留意し、少なくとも個人的な償いの祈りを捧げるべきです。

ミゼレンティッシムス・レデンプトール

ピオ十一世の1928年の「聖心への償いについての回勅」

背教の現代における償いの絶対的必要性

さて、この罪の償いの必要性がどれほど大きいか、とりわけこの現代においては、冒頭で述べたように、「悪者の配下にある」(ヨハネ第一書5章19節)世を、目と心で調べるすべての人に明らかになるであろう。

あらゆる方面より、嘆き悲しむ民の叫びがわれらに届き、民の君主や支配者たちは立ち上がり、主とその教会に逆らって手を結ぶ(詩篇2篇2節参照)。

私は、そのような地域全体にわたって、人間の権利も天主の権利もすべて混乱しているのを見ている。教会は打ち壊され、転覆させられ、修道者や聖なる童貞は彼らの家から引き離され、虐待や蛮行、飢えや投獄で苦しめられている。少年少女の一団は、彼らの母なる教会の懐から引き離され、キリストを棄て、天主を冒涜し、最悪の情欲の罪を企てるように仕向けられている。全キリスト信者は、悲しくも意気消沈、混乱して、絶えず信仰から離れ、あるいは最も残酷な死に見舞われる危険にさらされている。

これらのことは実に悲しいことであるため、このような出来事は「悲しみの始まり」、すなわち「天主ととなえられるもの、崇敬されるすべてのものの上に自分を立てる」(テサロニケ後書2章4節)罪の人によってもたらされることを予兆し、予告していると言えるかもしれない。

私たちの同胞であるキリスト信者のために、また彼らが直面する問題のためになされるべき償い

しかし、敬うべき兄弟たちよ、汚れなき小羊の血で洗礼において洗われ、恩寵に満たされた信徒たちの中に、あらゆる階級の多くの人々がおり、彼らは、天主的なものに対する驚くべき無知の下で労苦し、誤った教理に感染し、御父の家から遠く離れ、悪徳にまみれた生活を送り、真の信仰の光に照らされることもなく、将来の至福の希望に喜ばれることもなく、愛徳の炎に清められたり大切にされたりすることもない生活を送っている。そのため、彼らは本当に、闇と死の陰に座しているように見える。

さらに、信徒たちの間では、教会の規律への無頓着さや、すべてのキリスト教的生活がその上にあり、それによって家庭社会が支配され、結婚の神聖さが守られている、古くからの制度に対する無頓着さが非常に高まっている。子どもたちの教育は完全に軽視され、さもなければ、あまりにも甘やかされた誘惑によって堕落させられ、教会は若い人たちにキリスト教的教育を施す力さえ奪われている。特に女性の生活と服装においては、キリスト教的な慎み深さが忘れ去られ、はかないものに対する留まるところを知らない愚かさ、世俗的な問題における節度のなさ、大衆の人気に対する限りない野心、正当な権威の軽蔑、そして最後に、信仰そのものが傷つけられたり危うくなったりする、天主の言葉に対する侮蔑がある。

しかし、これらの悪のすべてが、いわば頂点に達するのは、眠り、逃げ惑う弟子たちのように、信仰を揺るがせ、キリストが苦悩に圧迫されたり、サタンの配下に取り囲まれたりするときに、みじめにもキリストを見捨てる者たちの臆病と怠惰において、また、裏切り者ユダの例にならって、軽率かつ冒涜的に聖なる食卓にあずかったり、敵の陣営に行ったりする者たちの背信行為において、である。

こうして、われらの主が、「不義が増すにつれて、おびただしい人の愛が冷める」(マテオ24章12節)と預言されたような日が近づいているという思いが、余の意志に反してさえ、心に湧き上がってくるのである。

キリストを愛する者の義務

さて、信心深い者であれば誰でも、これらすべての事柄について敬虔に熟考したなら、苦悩するキリストの愛徳で燃え立ち、自分自身と他人の過ちを償い、キリストの名誉を回復し、霊魂の永遠の救いを促進するために、より熱心に努力しなければならない。

そして、実際、使徒の言葉「罪が増したところには、それ以上の恩寵があふれるばかりのものとなった」(ローマ5章20節)は、この現代を表すのに使われるのかもしれない。なぜなら、人間の邪悪さが非常に増大した一方で、同時に、聖霊の霊感によって、天主の聖心に捧げられた多くの傷ついた人を償うために熱心な心をもって努力する男女の信者の数が驚くほど増大しているから、いや、彼らはいけにえとして自らをキリストに捧げることをためらわないからである。

なぜなら実際、私が話してきたことを愛をもって考え、心に深く刻み込む人なら、あらゆる罪を最大の悪と同じように恐れおののき、天主の御旨に完全に身をゆだね、絶え間ない祈りによって、自発的な断食によって、自分に降りかかる苦難に忍耐強く耐えることによって、そして最後に、この償いの運動に生涯を費やすことによって、天主の御稜威の傷ついた名誉を回復しようと努めるであろうからである。
参考資料

1. St. Thomas does clarify, however that ‘[n]evertheless murder takes precedence, as to punishment, among sins committed against our neighbor.’

2. St. Thomas Aquinas, Summa Theologica (henceforth ST), Ia IIae, Q87 A4 Obj. 2. Trans. Fathers of the English Dominican Province, Second and Revised Edition, 1920. Text taken from New Advent.
While this text is found in an objection to the thesis of the given question, St Thomas accepts the terms as being relevant to one aspect of sin, namely the turning away from the infinite good, which is God. This is made explicit in the response, which itself refers back to the body of the answer:

“Punishment is proportionate to sin. Now sin comprises two things. First, there is the turning away from the immutable good, which is infinite, wherefore, in this respect, sin is infinite. Secondly, there is the inordinate turning to mutable good. In this respect sin is finite, both because the mutable good itself is finite, and because the movement of turning towards it is finite, since the acts of a creature cannot be infinite.”

3. ST III Q47 A3

4. ST III Q48 A2

5. Miserentissimus Redemptor n. 21

6. Pius XI n. 18.



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