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【死者の月】死と煉獄の霊魂についての黙想

2007年11月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 11月は死者の月ですから、死と煉獄の霊魂についての黙想を提案します。


 私たちは、先日、日本の枢機卿様の死を報ずる弔いの訃報を耳にしました。また将来、今度は、私たちのため報ずる訃報を人々は聞くことでしょう。死亡帳に故人の名を今読むが如く、いつかは私たちの名も読まれるでしょう。私たちが怖しいと思うのは、死が一度きりで、一度仕損じたら取り返しのつかないものであることです。



 ああ天国の聖人達よ、現世で肉体を責め懲らしめられた貴方達はどんなに賢かったことか!今や彼らの遺骨は祭壇の上に安置され、霊魂は限りなき栄光を帯び、主を目の当たりに眺めつつ公審判の暁を待ち望むのだから。かつてこの世の苦しみを共にした肉体と再び合体して、永遠無窮に天国の栄光を楽しむべき公審判の暁を待ち給うのですから!


【死は世間の空しさを暴露する】

 死は、世のあらゆる希望を煙と化す。四海の富も、帝王の物でも、死の床から眺めると、その色は褪せ、その光は暗んでしまう。
 死の影は、いかほど美しい、あでやかな色でも、全く見る影もないようにしてしまう。
 世間の儚い宝、その空しい誉、楽しみの為にかけがえもない霊魂を滅ぼした人ほど可哀想な者はない。彼らはその霊魂を滅ぼして、その一切を亡くした。
 人は必ず死なねばならぬ。しかも、死ぬのはただ一度きりだ。



 万事を投げ打って、ただ主のみを愛し奉るのは、よほど窮屈で不愉快極まるものの如く世人は思っているようだが、実は決してそうした訳ではない。かえって真心から主に仕え奉っている人でなければ、真の満足を味わえないのだ。
 身も心も残らず主に捧げ奉れる霊魂ほど幸な人が、全世界の帝王の中を探しても、一人でも見つかるだろうか?
 私は只今この世を立たねばならぬというならば、これまでの行動について安心されようか?


【死に臨む世間主義の人】

 死ななければならぬ。遅かれ早かれ人は必ず死ななければならぬ。
 我らはみな首に縄をかけて、即ち死の宣告を受けて生まれる。どんなに長生きをしても、最後の一日は必ず来る。
 その一日のうちに、最後の一時間は必ずやってくる。そしてこの日も、この時も、きちんと決まっているのである。
 今これを書いている私も、読んでいるあなたも、二、三年を経ずしてこの世の人ではないかもしれぬ。
 今、私が人の死を報ずる弔いの鐘の音を耳にするが如く、人もまた私のために打ち鳴らされるその鐘の音に胸を驚かせるのだ。死亡帳に故人の名を今読むが如く、いつかは私の名も読まれるのだ。要するに死は決して免れ得るものではない。ただ怖しいのは、死が一度きりで、一度仕損じたら取り返しのつかないものであることだ。

 その時になったら、見るもの聞くもの一つとして悶え・怖れの種にならないものはないであろう。今の今まで見せびらかしてきた栄華までが、茨の棘となってその心を苦しめないだろうか?その酔っ払ってきた楽しみも棘、その成功した事業も棘、その人が高ぶってきた誉れも、己を主から遠ざからせた友達も、その派手やかな衣服も、何から何まで怖しい棘となってその心を散々に掻き破るであろう。

 見よ、世間主義の人が重い病に悩み、もはや死に瀕しているその憐れな有様を。先ほどまで大手を振って人中を練り歩き、人を侮り、罵り、誰彼と無く悪口・暴言を投げつけ、傍迷惑な振る舞いをしていたのだが、今はただ弱り果て、力なく、身動きさえ自由にできず、口語らず、目見えず、耳聴かずになってきた。


【臨終】

 今日にも死なねばならないと聞いたならば、誰しも俄かに狼狽して、なお1年、いや1カ月の猶予を求めようとし、その為には大金を投げ出しても惜しくはあるまい。

 しかもその死のやってくるのは何時かわからないからである。今年か?今月か?いやいや今日ではあるまいか?

 どうも今のままで死にたくないと思うならば、どうして今のままで月日を送ろうとするのだろうか?人が急に死んだのを見ては、「マアかわいそうに。何の用意もするひまも無しに・・・」と気の毒に思うのではなかろうか?それなのに自分はその大切なひまを持っていながら、なぜ急いで用意に取り掛からないのだろう?

 心に罪の重荷を背負っている病人は、ただ「永遠」という語を耳にするだけでも身震いするぐらいである。憐れなる彼は、ただ病の辛さ、医者、薬などのほかは語りたいとも思わない。霊魂のことに対して話題にする人がいると、直ちに嫌気を覚え、「どうぞ休ませてちょうだい!」と話題を打ち切ってしまう。

 平素から格別主を愛していなかった人は、臨終の聖体を見ても何となくうら怖しく覚えるものである。


 しかし、かねがね主の他に愛するものなしと言うぐらいの人ならば、主が忝くも永遠の旅路の糧とも、道連れともして、己のあばら屋を訪れてくださったことを思って、希望に満ち、感涙に咽ぶのである。

【臨終の苦悶と死去】

 冷や汗が額に噴出す、目は眩み、脈拍は弱まり、手足は凍えてさながら死体のようになる。臨終の苦悶は遂に襲ってきた。彼の運命の時は瞬く間に迫ったのである。苦しい息は次第に細り、死期の近い兆候が現れた。司祭は祝別済みの蝋燭を病人の手に握らせ、臨終の祈りを始める。ああくすしきともし火よ、今私の心を照らせ。為したる悪事に薬をつける暇の無い時になっては、汝の光も格別益にはなるまいから・・・。

 この物悲しい蝋燭の光に照らされたら、世間の儚さ、罪の重い憎たらしさなどが手に取るように明らかに見えるであろう。

 遂に彼は行き絶えた。その最後の一息こそ彼にとってはこの世の終わりで、永遠の始まりだ。幸の永遠か、禍の永遠かは、実にこの一息によって定まるのである。

 主と和解して死んだなら安息を得るに違いないが、万一、聖寵を失ったまま死ぬようなことでもあれば、それこそ可哀想なことで、天主が天主でまします限り、彼は安息できないであろう。

 死ぬと間も無く訃報があちらこちらに伝えられる。聞く人々は思い思いに噂をする。「彼は正直は正直だったが、どうもあまり熱心ではなかったね」と言う者があるかと思うと、「彼は救霊を得たでしょうかねぇ」と言う者もいる。親兄弟は悲しみを忘れようとして、なるべく彼について語らないようにする。やがて彼は棺桶に入れられて墓に送られてしまう。

 さてさて今まで社交界の華と言われていた彼も、今や誰一人思い出してくれる者すらいない。その名を出すことさえ遠慮して差し控えるようになった。彼の部屋を訪ねても彼は影も形も見えない。彼の家具、彼の財産は残らず人手に渡ってしまった。そして彼は今どこにいる?肉体は墓の中に、霊魂は永遠の世界に。

 彼を見たければ墓穴を掘って中を覗くがいい。以前のすこやかな肉体、元気な顔つき、喜びの色が溢れる彼ではなくて、もはやまったく腐敗した肉の塊がある。豊かな頬も、朱の唇も蛆虫は容赦なく食い尽くしてしまった。余すところは白骨ばかり。それすら時を経ると頭は首と、手足は胴と離れ離れになって、完全なものは一つも残らない。見よ!主に背くことがどれほどのことだとのたまっていたその体の成れの果てを。

 ああ天国の聖人達よ、現世で肉体を責め懲らしめられた貴方達はどんなに賢かったことか!今や貴方達の遺骨は祭壇の上に安置され、霊魂は限りなき栄光を帯び、主を目の当たりに眺めつつ公審判の暁を待ち望む。かつてこの世の苦しみを共にした肉体と再び合体して、永遠無窮に天国の栄光を楽しむべき公審判の暁を待ち給うのである。

 主よ、私も聖人達に倣い、今のうちに肉体を懲らしめて我が罪を償い、主を一心に愛し、後に天国において、聖人達と共に、いつまでも、いつまでも主を賛美し奉りたい。何とぞ御憐れみを垂れて私を顧み給え。私の罪を赦し給え。



 私が今永遠の世界に在るものとすれば、主の為に何をしていたらよかったのに!と思うだろうか。

 聖カミロはしばしば墓穴を覗き、一人自ら嘆息して「この人が蘇って、再び世に出ることが許されるなら、終わりなき命の為に、どんな努力でも厭わないであろう。それなのに今私は何をしているのだ?」と言って奮い立たれた。私は永遠の為に今まで何をしたであろうか?

 死んだ上では幾ら望んだところで一分間の命すら与えられない。しかし私にはいまだ充分な月日が残っている。今これを何のために用いねばならぬ?いたずらに世の栄華、快楽を漁りまわっていてよいのだろうか?そうやって天国の為に何の備えもしていない間に、突然「現世を去れ」という命令を受けたらどうするつもりなのであろうか?

 主よ、私は憎んでも足りない恩知らずではあるが、しかし御憐れみを垂れて私を顧み給え。他の人は暗闇の中で罪を犯したけれど、私は真っ昼間に主に背き奉った。罪を犯せばいかなる辱めを主に加えることになるのか重々承知しながら、聖寵の光も、主の御勧めも踏みにじり、散々悪事を働いた。しかし主よ、「願わくば我が恐れとなり給わざれ。主は禍の日に我が避難所にまします」(エレミヤ17-17)。しかり、イエズスよ、主は私の唯一の避難所にましませば、臨終の苦悶の時、私の恐れとなり給わず、かえって何よりの信頼となりたまえ。


【煉獄の霊魂は如何なる苦しみを嘗めつゝあるか】

 煉獄の苦痛の如何なるものなるかを説明するのは、なかなか以って容易なことではない。



 聖チプリアノ曰く、「たとえ殉教の苦しみを凌(しの)いでも、今の中に罪の償いを果たして置くが可い。後の世までさし延ばしたならば、彼の恐ろしい煉獄の中で、極々小さな罪までも償はなければならないから」と。



 聖セザリウス曰く、「何人にしても天国にさえ昇れたら、救(たす)かることさえ出来たら、煉獄に幾ら長く苦しんでも構わぬ、と夢にも思ってもならぬ。煉獄の苦痛は、此の世に於いて人が堪え忍ぶこと出来る総ての責め苦、否、想像すること出来る総ての責め苦よりも、未だ未だ堪え難いものである」と。

 聖アウグスチヌス曰く、「此の世の苦痛を皆んな集めても、煉獄の苦痛と比べたら何でもない」と。

 聖トマス・アクィナス曰く、「煉獄の苦罰は地獄の苦罰と変わった所がない。ただ終があるのと終がないとの差別があるばかり」と。

 損失の苦罰と云うのは、御承知の通り、天主を見ること出来ない苦しんで、最も堪え難いもの。

 もとより煉獄の霊魂は地獄の霊魂見たように失望したり、天主を怨んだりするようなことはない。

「ああ私はなぜ早く償いをしなかった!なぜ斯う云う色々の罪を犯した?・・・あの病を与えられた時、償いとしてよく忍んで置けばよかったに!彼の難儀苦労に出遭した時、なぜ償いと思って快く堪えなかったのだろう?なぜ祈祷や、ミサや、聖体拝領や、其の他の信心の務めをよく尽さなかったのだろう?なぜ布教の為め、慈善事業の為め熱心に奔走しなかったのだろう」と連(しき)りに悶(もだ)えるのである。

 天主は正義によって彼等の為に苦しみの時期を定めて居られる。

 今、足下が開けて、煉獄に苦しみつつ、助けを叫んで居る霊魂等を面(まのあた)りに見ることが出来ましたならば、否な、其の霊魂の中の一人でも皆さんに顕れて参りましたならば、何にも頼まれない中から、その憐れな姿を一見したばかりで、同情を催し、何とかして早く救い上げたいと云う気にならずに居られますでしょうか。



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