Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

天主のために働く支配人としての私たちの使命:私たちは所有物を善き支配人・管理人として使用しなければならない

2024年07月15日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第八の主日の説教 2024年7月14日
イヴォン・フィルベン神父(Fr Yvon Fillebeen)

このたとえ話は、天主の支配人としての私たちの使命を説明しています。私たちは、自分のものであるのが当然だと思っている所有物を持っていますが、このたとえ話は、私たちがその所有物を、支配人として、さらには善き支配人として、使用しなければならないことを教えています。

1)天主の支配人

「ある金持ちに一人の支配人がいた」。このたとえ話の背景を理解する必要があります。私たちの主の時代には、自分の土地のおかげで裕福だった金持ちがいて、土地を持つことは重要な富の源泉でした…そして、そのような財産を十分に持っていた人は、自分自身が働く必要はありませんでした。その人の土地が、その人の生活と家族のための十分な収入源であり、その人の財産の管理を担当する人、つまり支配人を雇うにも十分でした。つまり、その人は、自分の土地からの収入を受け取る以外には、何もする必要がなかったのです。支配人がその人のために働いていたのです。

 これが、このたとえ話の背景です。また、これは、私たちの人生も表すものです。天主は、この土地の所有者のようなものであり、私たちはこの支配人のようなものです。私たちは、天主の富を管理するために、天主から使命を受けました。それが、創世記に書かれていることです。天主は宇宙を創造されたあと、アダムとエワにこう命じられました。「天主はそれらを祝福し、『生めよ、ふえよ、海の水を満たせ。飛ぶものは地上にふえよ』と仰せられた」(創世記1章22節)。また、次の章にはこうあります。「主なる天主は人間をとらえてエデンの園に置き、そこを耕させ、守らせられた」(創世記2章15節)。

ですから、私たちの所有物は、天主によって与えられた富だと考え、私たちは善き支配人だと考えなければなりません。

2)天主はご自分の栄光を現すために私たちの協力を望んでおられる

天主はなぜ、そのように行動されるのでしょうか。天主はなぜ、支配人として天主に協力しなければならない私たちに頼られるのでしょうか。天主はご自分だけで、すべてを行うことがおできにならなかったのでしょうか、天主はこんなに貧弱な道具に頼らざるを得なかったのでしょうか。もちろん、天主はそうせざるを得なかったのではなく、そのように行動しようと決心されたのです。天主が怠惰で働きたくなかったからではなく、その方法が私たちのためにも、天主の栄光のためにも、最善のものだったからなのです。

そうです、天主の栄光のためには、人類と協力する方が良かったのです。しかし、はっきりしていることは、いずれにせよ、天主は私たちの協力をいささかも必要とされていない、ということです。天主は完全であり、ご自身の中にすべての完全性を備えておられます。私たちは、天主のその栄光を、「内的栄光」と呼んでいます。この栄光は、私たちとは何の関係もなく、私たちがそれを変えることはできません。しかし、神学が「天主の外的栄光」と呼ぶものもあり、それは天主の栄光そのものではなく、その現れなのです。人間の協力によって、この栄光、天主の栄光の輝きは、さらに良く、さらに明白に、さらに輝くようになることが可能になるのです。天主がすべてを創造されたのは、ご自分の栄光を表明し、現すためであり、また、この現れに協力する人間に幸福をもたらすためだったのです。

ですから、もちろん、天主の栄光は私たちの行動によって変わるものではありませんが、私たちの行動が天主の栄光をさらに明白にし、輝かせ、あるいは逆に、あまり輝かなくさせているのです。例えば、欧州のキリスト教世界は、現実の欧州の国々よりも、天主の栄光をよく表しました。今ではもう、美しいゴシック建築もなく、聖トマス・アクィナスもおらず、あるのは無神論的な建築、無神論的な政府です…。それによって天主ご自身が害を受けられるわけではありませんが、天主の栄光は、その地域ではもはやあまり明白ではなくなっています。それは、その外的な栄光にとって悲しいことですが、祖先よりもずっと暗い時代を生きているこれらの国の人々にとっては、さらにずっと悲しいことです…。

しかし、どうすれば私たちは天主の善き支配人になれるのでしょうか。それが、このたとえ話の教えです。

3)善き支配人は物質的な富を霊的な目的で使用する

善き支配人と悪しき支配人がいて、使命を果たす支配人と果たさない支配人がいます。私たちのミサの福音の支配人は、その両方です。たとえ話の冒頭では、彼は後者に当てはまります。彼は主人の財産を「使い込んでいた」。彼は主人の財産を自分の楽しみのために、物質主義的な生き方のために使っていたのです。天主のことをまったく考慮せずに生きている人々や国々も同じです。彼らは、天主によって与えられた富を、ただ自分の好きなように使っています。私たちも、しばしばそのような状況に陥り、何も考慮せずに自分の楽しみのためだけに財産を使っているのです。

そしてこの人は、裁きが迫っていることを理解したため、突然行動を変えました。「おまえの会計の報告を出せ」。私たちは皆、悪しき支配人も善き支配人も裁かれるのです。この人はそのことを理解し、善き支配人になりました。この人は今、何をしようとしているところでしょうか。

この人は行動を改め、今では主人の財産を使って他人の負債を減らしています。それは、霊的な目的のため、つまり善を行うため、他人を助けるため、という意味です。そして主人は、それを喜びました。「主人は、この不正な支配人を褒めた」。天主は、私たちが託された富を霊的な目的のために使うとき、たとえその富がある程度減少したとしても、喜んでくださいます。物質的な富を霊的な目的のために使う人、それが善き支配人なのです。

天主は、多かれ少なかれ私たちの状況に応じて、物質的な財産を私たちに託されましたが、それは、純粋に物質主義的に使うためではなく、霊的な目的のために使うためです。その条件で、私たちは天主の支配人としての仕事を果たし、天主に協力し、天主の栄光を現すのです。逆に、純粋に物質主義的に使用すれば、天主の栄光の光はさえぎられるのです…。

私たちは、本当に物質主義的な社会にいるため、自分の財産をどのように使うかを識別しなければなりません。それは、本当に霊的な目的のためでしょうか。


真の喜び、多様な多くの喜び、永遠の喜び、境界も限界もない喜びである至福直観がえられる、真の故郷にたどり着きたいと願望する:天主にお会いしたい!

2024年07月15日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第七の主日 ― 永遠の至福(2024年、大宮および大阪)

ワリエ神父 2024年7月7日

「罪の払う報酬は死である。しかし、天主の賜物は、われらの主キリスト・イエズスにおける永遠の命である」(書簡より)。
「子らよ、来て、私の言うことを聞け。私は、[子として]主をおそれることを、あなたたちに教えよう。主を見つめよ、そうすればあなたたちは喜びで輝き、あなたたちの顔は恥で赤らむことはないであろう」(昇階誦より)。
「すべての民よ、手を打って、天主に喜びの叫びを上げよ」(アレルヤ誦より)。

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親愛なる兄弟の皆さま、

至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱きますが、それは次の三つの理由からです。

1.真の喜びという理由からです。「あなたたちは見るであろう。そうすれば、あなたたちの心は、甘く楽しい光のゆえに喜ぶであろう」(イザヤ書より)

聖母を見た後の聖ベルナデッタや、ラ・サレットのメラニーの例を挙げてみましょう。それはまるで、一目で恋に落ちるようなものでした。

2.(至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱くのは、)多様あるいは多くの喜びからです。「そのとき、おまえは見て、豊かになり、おまえの心は高鳴り、数々の海がおまえに集まるとき、お前の心はひろがるであろう」(イザヤ書より)。

なぜなら、「私たちは天主をそのまま見る」【ヨハネ第一書3章2節】のであり、天主はすべての人にとってすべてのものとなられるからです。実際、天主は、「知性」に対しては満ちる光となられ、「意志」に対しては豊かな喜びとなられ、「記憶」に対しては継続する永遠となられるのです。

美を観想することは、絵画、建物、自然、物理的な美、道徳的な美など、実に多様です。

3.(至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱くのは、)私たちがそこに到着したときに私たちを待っている喜びが永遠であるからです。「しもべたちは天主に仕え、天主の御顔を仰ぎ、天主とともに永遠に君臨する」(黙示録より)。

ここ地上では、私たちは、愛や繁栄…が永遠に続くという地上の楽園を夢見ます。

天国では、至福の人々は、永遠に幸福を享受することが完全に保証されています。天国のすべての聖人の霊魂を満たす思いは、何と魅惑的なことでしょうか。彼らの幸福を妨げるものは何一つないのです。永遠に、一瞬たりとも!

私たちは、永遠について、【それが何であるという】肯定的な考えを抱くことはできませんが、【何でないという】否定的な考えと呼ばれる考えを持つことはできます。永遠とは、海のように私たちの前に広がる持続する期間ですが、境界も限界もないのです。

天主の創造物を見てみましょう。

地球から月までの距離は約385,000キロです。
地球から太陽までの距離:約1億5千万キロ(地球から月の395倍以上)です。
地球から火星までの距離:約1億7500万キロです。
太陽や火星に到達するには何年もかかります。私たちは、これらの計算に驚きます。数には限界があり、宇宙には限界があります。しかし、永遠には限界がありません。

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黙示録で、聖ヨハネはこう述べています。「それから私は新しい天と地を見た。最初の天と地は過ぎ去り、海ももうない。私は、聖なる町、新しいエルサレムが、花婿のために装った花嫁のように整えられ、天主のみもとから天より下るのを見た。そのとき私は、玉座から出る大声がこう言うのを聞いた。『見よ、人とともにある天主の家がこれである。天主は、人の天主として、人とともに住まわれる。人は天主の民となり、天主ご自身が人とともにいて、人の目から涙をことごとくぬぐわれる。死はもうなく、悲しみも叫びも苦労もなくなる。最初のものが過ぎ去ったからである』」。

「父よ、あなたが私に与え給うた人々が、私のいる所に、私とともにいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた栄光を、彼らに見せるためであります」(聖ヨハネ福音書より)。

親愛なる兄弟の皆さま、

アヴィラの聖テレジアは、幼い子どもだったときすでに、「天主にお会いしたい」というただ一つの願いしか持っていませんでした。

聖アウグスティヌスはこう宣言します。「すべての顔が太陽のように輝くとき、聖人たちの喜びはいかに大きいことだろうか![シナイ山から下りてきたモイゼのことを考えよ!] 主が、御父の王国でご自分の民を調べ始められ、各人の功績に応じて、約束された報いを与えられるときである。主が、ご自分の聖人たちを御父の栄光の幻視へと導き、その聖人たちに天の住まいにあるそれぞれの場所を割り当てられるとき、ああ、実に、それは至高の幸福であろう。天主が永遠に、彼ら全員にとっての、すべてにおけるすべてとなられるのだから」。アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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