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聖アルフォンソ・デ・リグオリの教え 救われるものの数 その2

2012年04月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 救われるものの数の少ないことについて、研究を続けて参りましょう。

*****



「ああ、ティモテオ、あなたにゆだねられたものを守れ。空しい世間のことばと、えせ学問の論争を避けよ。ある人々は、それに執心して信仰の道を迷ったのである。」(ティモテオ前6:20)

「人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」(ティモテオ後4:3)


*****



 私たちは、まず、カトリック教会の考えを詳しく見てみましょう。

 確かに、救われる者の数は、天主にのみに知られているだけの秘密であるが、カトリック教会は、救われる者の数が少ないことを指示していると考えられます。

 確かにカトリック教会は、灰の水曜日の密唱の中で、こう祈っています。

Deus, cui soli cognitus est numerus electorum in superna felicitate locandus: tribue quaesumus; ut, intercedentibus omnibus Sanctis tuis, universorum, quos in oratione commendatos suscepimus, et omnium fidelium nomina, beatae praedestinationis liber adscripta retineat.

天主よ、天上の至福に置かれるべく選ばれた者の数は御身にのみに知られたり、願わくは、御身の全ての諸聖人の取り次ぎにより、この祈りにおいて助けを我らが受け、全ての信者らの名前が、至福の選びの書に書かれ、残されんことを。

 教会の「祈りの法は、信仰の法」であるから、上記の祈りは、私たちの信仰の基準でもあります。それと同時に、カトリック教会は、もしも誰かが「救われる者の数が滅びる人々の数よりも大きい可能性がある、その蓋然性がある」などと説教しようものなら、あるいは、著述しようものなら、それを排斥し、処罰してきました。

 その反対に、カトリック教会は、聖アルフォンソ・デ・リグオリの教えやポルト・マウリチオの聖レオナルドの教え、その他多くの聖なる博士たちや教父らや神学者たちの教えを一度も排斥したことがありません。彼らは、はっきりと、公に、オープンに、著述によって、また大衆への説教によって、救われるものの数が少ないことを教え、主張してきました。カトリック教会は、少なくとも彼らを列聖することによって、間接的にこの教えを承認しています。

 この教えは、聖トマス・アクイナスも、大聖グレゴリオも、聖アウグスティヌスも、聖イェロニモも、聖ヨハネ・クリゾストモも、その他多くの聖人や教父たちと共に説かれ説教されてきました。教会博士たちが口をそろえて主張しているこの教えこそ、正しく「共通の確実な見解」と言うことが出来ます。それに反して、救われるものの数の方が多いと主張した、列聖された聖人はただの一人もいません。

聖アルフォンソ・デ・リグオリの言葉


(1)「信者たちの大部分も地獄に堕ちるだろうというのがより共通の神学者たちの意見である。」

Communier opinio vult majorem partem, adhuc fidelium, damnari.
(Theologia Moralis, Lib. IV. Tr. 2. Cap. 2. no 130.)

(2) もっとも共通の意見は、信徒らでさえもその大部分は永遠に滅びてしまう、である。

l'opinion la plus commune prétend que la plus grande partie même des fidèles, se damnent.
(Preparation a la mort. Consideration 17. 2e point. Traduction Dujardin. Edit. 1872 p. 181.

(3)「福音がこう言うのを思い出そう。「永遠の命に導く門は何と低く、その道は何と狭いことか!それを見いだすものは何と少ないことか!」天国への道は狭く、俗に言うように、車に乗って楽々と行くのでなはい、車に乗っていこうと望むことは天国に行くことを望まないことである。ほんの少数だけが天国に辿り着く、何故なら少数のものだけが誘惑に抵抗しようと自分に暴力をすることを望むからである。「天の国は暴力によって攻められ、暴力をするものによって奪われる。」天国は力によって求められ、侵略され、占領される。・・・」
(待降節の第3主日の説教より)

Ricordiamoci del vangelo che dice: Quam angusta porta, et arcta via est, quae ducit ad vitam! et pauci sunt, qui inveniunt eam. La via del paradiso e` stretta; come suol dirsi, non vi passa la carrozza; chi vuole andarvi in carrozza, non vi potra` entrare; e percio` pochi giungono al paradiso, perche' pochi voglion farsi forza a resistere alle tentazioni: Regnum coelorum vim patitur, et violenti rapiunt illud. Il regno de' cieli vim patitur, spiega un autore, vi quaeritur, invaditur, occupatur; bisogna cercarlo, ed acquistarlo con farsi violenza; chi vuole acquistarlo senza incomodo, con menare una vita sciolta e molle, non l'acquistera` e ne restera` escluso. 

http://www.intratext.com/IXT/ITASA0000/__P316.HTM

(4)「滅びの人々の数が選ばれた者の数よりも遙かに大きい。」
(「異端論駁」第13章 第2節)

Le nombre des réprouvés est beaucoup plus considérable que celui des élus.
[Refutation des Heresies, Chap. XIII, Art. 2. OEuvres dogm. Trad. Jacques. Tome. V. pag. 505.]

(5)私たちは、聖書の中に、選ばれた者は、滅びるものと比べると遙かに数が少ないと読む。
(「異端論駁」第13章 第2節)

Nous lisons dans l'Ecriture que les élus sont en bien petit nombre comparativement aux réprouvés.
[Refutation des Heresies, Chap. XIII, Art. 2. OEuvres dogm. Trad. Jacques. Tome. V. pag. 507.]

(6) 滅びるものの数は、選ばれた者の数を超える。
« Le nombre des réprouvés surpasse celui des élus. »
[De l'Esperance Chretienne Ibid. T. VIII. p. 501.]


(7) 私たちは選ばれた者らは少数であると知っている。
Nous savons que les élus sont en petit nombre.
[Ibid.p. 503.]

(8) 私は、聖書の中で、選ばれた者らは少数であること、そして彼らが「小さな群れ」と呼ばれていると読む。
Je lis dans les Ecritures que les élus sont en petit nombre, et qu'ils sont appelés le petit troupeau.
.Ibid.p. 503.

【結論】
だから、

私たちはますます祈りと警戒を強め、罪の機会を避けましょう。

常に祈って、天主様の聖寵の助けをこいねがい、もしも大罪を犯してしまったら、すぐに告白しましょう。

この世の精神を避けて、少なくとも心から・精神から・考え方から・実践から、この世の精神・世間体を取り除くようにしましょう。

天主様の御助けにより、身分上のつとめを完全に忠実に果たすように努めましょう。


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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51 コメント

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地獄に落ちる人の偏在 (一カトリック)
2012-04-14 19:16:54
私はまず事実を知りたいです。
果たして死後の世界が実在して、本当に大勢がその中の地獄に落ちているのかどうか。

ところで、仮に事実が、成人の極端に大勢が地獄に落ちている、という小野田神父様や、神父様が参考とされている文献・諸聖人の言うとおりだったとして、ここで極端な不公平が起きそうです。

カトリックの教えだと
1、生まれずに死んでしまう多量の胎児&受精卵は、地獄を免れる
2、乳児も同様
3、子供も、おそらくある程度は・・・

大人だけが、殆どがなぜか地獄に落ちてしまうわけですが、そこに何の整合性、論理的正当性があるでしょうか。
一見、極めて不平等に見えてしまいます。
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Unknown (一カトリック)
2012-04-14 19:29:36
次に、殆どが地獄に落ちる・・・という、教父達や神学書の言及が気になります。

常識で考えて、聖人たちが言っているのは、成人以上における地獄落下率だと思うのですが、一部の人は「死ぬ人の・・・」と言っているようです。

もし聖人達に、死ぬ霊魂の行き先が一時的にせよ見えるなら、死ぬ霊魂・人の大多数は、前近代でしたら、子供や乳児・胎児なはずですが、ですから必然的に、半数以上は、天国、辺獄、煉獄に行ってしまうはずです。地獄以外の行き先に。

一部の聖人は間違いを言っているか、あるいは不正確な言い方をしていることになりますが、後者だとしたらなぜでしょうか?
その時代性ゆえでしょうか?

厳密に考えるなら、不自然な個所だと思います。
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他の宗教は (一カトリック)
2012-04-14 19:38:55
カトリックの教理によれば、地獄に行く、という現象は、カトリック信者にだけ起こるようではないようです。

他の宗教の信者にも隈なく起こるはずですが、というより、他の宗教の信者にこそ、一層多いことになりますが、永遠の炎で焼かれるのはどんな霊魂にとっても、一大事。

ですが、地獄を夢見た、幻覚した、という体験談は、殆どカトリックの中にしかありません。(+地獄について語っているプロテスタント)

これって、本人の知識や思い込みの投影現象ではないでしょうか?

なぜ神道や他の宗教には起きないのでしょうか?少なくとも、神道にはまったくないです。仏教にはまあ、教理にありますが・・・要するに、地獄の有無について、エピソードは宗教によって偏在している。

本人の思い込みが、夢や幻覚に投影された、夢物語、と考えた方が、説明がつきませんか?
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Unknown (一カトリック)
2012-04-14 19:47:43
おそらくは、カトリック関係者は(私も信者ではあるのですが・・・)、カトリックのみが一、聖、公の教会だから、正しい教えはカトリックのみにしか与えられないから、と答えるのでしょうが、あまりにも不合理性を感じます。。

そのカトリックは、世界の一部地域で盛んですが、殆ど伝わっていない地域もあります。15世紀頃までは、世界の過半にはまったく伝わっていなかった。

聖書によると、ヨブ記を見れば明らかなように、神はアブラハムの宗教のみならず異教徒も愛するようですが、なぜこれほどのそれこそ超一大事を、1500年もの間、世界の一部にだけ頻繁に伝えて、残り多数には全然伝えられずにいるのか、、本当に不思議なりません。
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Unknown (一カトリック)
2012-04-14 20:05:35
カトリックの理解によると、イスラム教は、広い地域に広まっていますし、信じる者も多いですが、似非宗教、良く言っても、よくできた民話の類、となります。

ところで、カトリックも、実はその可能性がありませんか?

イスラム教も民話、カトリックも民話、カトリックは古代末期の混沌、摩擦、躍動、危機の中から、当時の人々が生み出した精神的習慣。当時、マニ教やミトラ教など多くの新興宗教が地中海世界では生まれましたが、カトリックもそのひとつ、それが運よく時代にマッチしたが為に、ローマ帝国全域に広まった。

そう考えた方が、より合理的に、このあまりの不条理を説明することができるようになると思います。
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Unknown (一カトリック)
2012-04-14 20:08:54
というより、不思議なことにローマの版図以外には全然広まっていないんです。本当に神の教えなら、なぜこんな偏在が当時、起きるんでしょうか?イスラム教と同様の、「人の教えで、それ以上でない」、と仮定すれば説明がいてしまいます。

マニが新興宗教の教祖であり、捕まって殺されたように、イエズスも実は新興宗教の一教祖に過ぎず、捕まって殺された。

しかし、しぶとく信者たちは日本のオウムの残党がやっているように、その後も地下活動を続けて、やがてローマ帝国が傾くと信者達を増やし始め、何かの拍子にローマ皇帝がそれに改宗してしまった為に、一気に帝国全域に普及(その頃には結構広まっていたとは言われますが、それが皇帝のクリスチャン化によって一層拡大)、ローマ中に広まり、ところでその後やってきた蛮族は文明らしい文明を持っていなかったので、ローマから学ぶしかなく、ローマ人&蛮族の文化圏(=ヨーロッパ世界)にキリスト教は拡大。

ただし、ペルシアなどそれ以外には殆ど広まらず・・・
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Unknown (一カトリック)
2012-04-14 20:13:11
そう考えれば、カトリック内の教理の全ての不合理に説明がついてしまいます。

逆に、そうでなければ、このあまりのカトリック内のこうした事々の説明は難しいですよ。。

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Unknown (一カトリック)
2012-04-14 20:20:40
なぜ地獄の教えが、カトリックの中に存在し、しかもあまりにも極端なのか。

それはオウムのごとく、カルト宗教が信者達を共同体の中に囲う手口ですよ。

教会の他に救いなし

これで、信者の離脱は阻止しやすくなります。強迫感から慌てて入信することもあるでしょう。

そのうえで、さらに地獄落下率が引き上がった

こうなれば、信者たちは神のこと以外考えられなくなってしまいます。特にカトリックが国教になった後は有利でした。
教会は、ある程度の支配権を持つわけですが、支配された民衆も為政者も教会に楯つきにくくなる。

カトリックは、元々、古代地中海世界のカルト宗教だった(マニやミトラと同じく)、元々がカルトであり、その残滓が地獄などこうした教えである、とすれば、全てに非常に整合する説明がつきます。
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Unknown (一カトリック)
2012-04-14 20:55:34
幸福の科学の教祖、大川隆法は、自身のことをエル・カンターレ、至高の神の受肉と呼称しました。

それが真実かどうかは、わかりますよね?

ところで、キリストも似ていませんか?

自分のことを、神の子と言い出した。
大川隆法みたいに。

当然、当時の破防法とカルト防止法に引っかかってしまって、即処刑されてしまいました。

こんな人は、いつの時代にもいます。
マホメットも似たような人の一人。
彼は、神の子とは言わなかったが、自分のことを、最後の預言者、と自称しました。

こう考えれば、カトリックの中の、摩訶不思議な、非合理な全ての教えに説明がつきます。カトリックが、本当に、一、聖、公であることの客観的証拠はどこにもありません。

聖書にそう書かれている?

ええ、聖書は、カトリックの聖典ですから、そう書くでしょうね。

コーランが、マホメットのことを賛美するのと同じように。

でもそれだけです。
客観的証拠はどこにもない。

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Unknown (一カトリック)
2012-04-14 21:23:16
だって、あまりにおかしいですもん。
みんながみんな、地獄行き。

カトリックの知識だけによらず、冷静になって考えてみてください。
小野田神父様。

街中で会う人の、誰も彼もが、善人であっても地獄行き。
http://fsspxjapan.fc2web.com/homilia/20020714.html

それも永遠に炎で焼かれる。
今日笑っている、あの人も、辛そうにしているその人も、みんな地獄に落ちるんですよ。

小野田神父様によると、しかもそれが、カトリックの伝統である、という。
カトリックが古代ローマのカルトだったので、その名残、と仮定すれば、
説明がつきます。

小野田神父様の話を真実と考えるより、その方が辻褄が合います。
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