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「マリア会創立者 福者シャミナード神父について、マリア様が私たちの母であることについて」

2021年06月14日 | お説教・霊的講話

2021年5月3日(月)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父霊的講話 その1
「マリア会創立者 福者シャミナード神父について、マリア様が私たちの母であることについて」

巡礼者の皆様、今回の巡礼で、私は3回にわたって、「シャミナード神父様による、マリア様に関する教え」を紹介したいと思っています。
特に、「聖母が、私たちの母である」という事についてお話ししたいと思っています。

なぜ、このシャミナード神父様のお話をするかというと、理由は2つあります。

1つは、秋田のマリア様の全部で3回のメッセージがあるのですけれども、必ずマリア様はこの言葉を以ってお話を始めるのです、
「私の娘よ、私の修練女よ。」
最後には、「私の愛する娘よ、」と仰って、これはシスター笹川だけの事というよりは、私たちに、「私の子供よ、」「私の息子よ、」「私の娘よ、」と呼びかけていると思っています。
マリア様は私たちに「母親として呼びかけている」という事が分かります。これが第1の点です。

第2の理由は、これはちょうどフランス革命の時に、その直前に生まれた福者シャミナード神父様という方が、『マリア会』を創立して、そしてそのマリア会が最初に日本に『暁星』という学校を創りました。その暁星という意味は、「暁の星」という意味です。ちょうど私たち聖ピオ十世会の最初の修道院の名前が、「暁の星」、同じ名前であるので、またシャミナード神父様のその暁星のマリア会の本流をちょっとご紹介するのは興味深いと思いました。
そこで、シャミナード神父様の経歴を簡単に説明します。「あぁ、このような神父様であれば、是非、この方の話を聞いてみたい」というきっかけになると思うので、少し話をします。

シャミナード神父様は、1761年、フランスのペリグーという所でお生まれになりました。13番目の子供でした。その日の内に洗礼を受けました。

10歳で堅振を受けて、小神学校に入って、それでボルドー、パリで勉強して、そして司祭に叙階されますが、司祭に叙階されるやいなや、フランス革命が起こります。

フランス革命では、反カトリック勢力が起こしたもので、革命直後にカトリック教会を封鎖、廃止、そして理性の女神の儀式を始める等をするのです。聖職者は、「共和国に忠誠を誓う。共和国に従順にする」という宣誓をしなければなりませんでした。

しかし、シャミナード神父様は、多くの司祭たちと共に、その宣誓を拒否して、逃亡します。そして最初の内は、秘密裏で聖務を行なって、秘跡を与え、ミサを捧げていたのです。迫害が厳しくなると、遂にフランスに残る事はできずに、スペインに亡命します。

そこで、サラゴサという、マリア様がまた生きておられる時に聖ヤコボに現れた、という『柱の聖母』の聖地に行って、そこに留まって、マリア様にお祈りをします。そこで非常に多くのインスピレーションや、啓示、色々なものを受けます。柱の聖母については非常に面白い、日本とも深い関わりがある話があります。こうしてシャミナード神父様は、サラゴサで恵みの日々を過ごします。マリア様に強められて、ついにはフランスに戻って、マリア会を創立します。

シャミナード神父様と日本との関係は、マリア会を通じて繋がっています。それについてはまた別の機会にお話をしようと思います。岩下壮一神父様も、マリア会で勉強した方ですし、山本信次郎もマリア会で暁星で勉強した方でした。そして日本に多くの影響を与えました。

先程申し上げましたが、私たちのいつも祈っている『暁の星に対する聖母の祈り』も、マリア会の方が作りました。聖ピオ十世教皇様がこれに贖宥を与えました。
2000年には、ヨハネ・パウロ二世教皇によって、シャミナード神父様は列福されています。

では、このシャミナード神父様による「マリア様が私たちの母である」という事について、少し話を移します。

サラゴサでマリア様にたくさんお祈りして、特別の御恵みを受けて、そしてマリア様に関する本を色々読んでおられました、黙想していました。

すると、シャミナード神父様がよく読んだのが、その当時、「マリア様は私たちの母だ。なぜかというと、それはマリア様は、私たちに対して母のように御恵みを与えて下さって、私たちもマリア様を母のように愛さなければならない。特にイエズス様が十字架の上で、『これはお前の母だ』と言ったので、母であるかのように、私たちはマリア様を考えなければならない。」というようなことでした。

また、マリア様のマリア神学というのをよく読むと、「マリア様は、イエズス様の御母であって、天主の御母であって、だからその天主の御母となる為に、『無原罪の御宿り』という特別の特権があって、『被昇天』の特権があって、『聖寵の充ち満てる』特権があって、マリア様の『終生童貞である』という特権があって、そして色々な特権があって、それからマリア様は私たちの為に、『全ての御恵みを仲介して下さる』という特権、」そして最後に付録のように、「マリア様は実は、『私たちの母』でもあるのだ」等というようなかんじでした。

でもシャミナード神父様はこう考えました。「教父の話によると、この強調点が違っている。確かに、イエズス様の御母で、天主の御母であるけれども、『私たちの御母である』という事を昔の教父たちは言っている。『イエズス様が十字架の上で宣言した。だから法律上そうなった。』ただそれだけなのだろうか?たまたまイエズス様が言ったからそうであって、言わなかったからそうじゃなかったのだろうか?何かマリア様と私たちの関係は、そういう外面上だけの、あたかも『そうであるかのような』ものなのだろうか?」

サラゴサで、シャミナード神父様は色々こう黙想して考えて、マリア様に光を求めました。ついには、神父様は「「母のようなもの」ではなくて、マリア様は、イエズス様を肉体的に産んだように、私たちを霊的にもお産みになった。最も言葉の厳格な意味で、『私たちの母である』」という事に辿り着きます。

その理由はいくつかあります。

例えば聖ルカは、“マリア様はイエズス様を初子としてお生みになった。”
「なぜ『初子』という言葉が出るのか?」
実はこれは、確かに昔の旧約の法律的な表現でした。“初子は捧げられ”なければなりませんでした。しかし、シャミナード神父は教父たちと共に、マリア様は更に、霊的に子供たちを生むという事を想定した言葉ではないか?と考えました。
つまり、「新しいエヴァとして、マリア様がいらっしゃる」という事に注目します。「霊的に、本当に、私たちをお産みになった。」

「それはどうやってお産みになったか?」という事にも注目します。
「それは御託身、つまり『ナザレトの御告げを受けた時』に、そして『十字架の下で、罪の贖いをイエズス様と共にした』、その2つの時だ」と言います。

では一体、「マリア様が本当に私たちの霊的な母」という事はどういう事なのでしょうか?
シャミナード神父様は、「2つの事によってそうだ」と言います。そして、「イエズス様が、『これは汝の母だ』と言うのは、それを確認した事であって、それをただ私たちに知らせた事であって、その本当の実際の行なわれた結果の表明に過ぎない。」

では何が行なわれたかというと、「御託身の時に、天主の御言葉が肉体を取った時に、マリア様の胎内に宿られた」という事です。

「でも、ただ肉体だけのイエズス様ではなくて、神秘体としても、キリスト全体を見ると、神秘体の頭であるイエズス様が、マリア様の胎内に宿された、という事は、同時に、神秘体の他の部分、手・足・全てが、マリア様の胎内にも宿されなければならない。」

「全て、イエズス・キリストと一致して超自然の命に生まれる者は、マリア様からどうしても生まれなければならない。なぜかというと、もしも私たちが超自然の命を頂くとしたら、イエズス・キリストにおいて神秘体の一部として持っている、いう事なので。でもイエズス様はそのマリア様の胎内で命を、人間としての命を受けていたので、どうしても私たちは、マリア様の中で命を受けなければならない。」

ちょっと長いのですけれども、シャミナード神父様が仰った事を引用します。

「聖母が、自分の胎内において御言葉が託身する事に協力した時、聖母は、贖いの事業のその全ての広がりにおいて理解したのは明らかである。」

(ただイエズス様をお腹の中に、母となる、という事だけでなく、それが結果する、それが意味する全ての事を受け入れた、という事です。)

「聖母は、それを愛を以って受け入れた。聖母は、イエズスを懐胎しつつ、全てを懐妊したと理解した。」

「イエズス様、頭を胎内に宿したのみならず、キリスト全体を宿したと理解された。つまり自然的な肉体と、神秘体の両者を、胎内に宿したと理解された。なぜかというと、マリア様は、イエズス様と一つになったものを切り離す事ができないから。」

「天主の御母となる事によって、個人としてのイエズス・キリストの母となると同時に、『教会』という神秘体全体の母になる事も受け入れた。」

「自然の体においては、イエズス様を、救い主を童貞の胎内に宿して、そして霊的な体としては、霊的には、愛と信仰によってキリスト教を信じた全てを、イエズス・キリストの神秘体全てを、胎内に宿した。」

これがシャミナード神父様の言葉です。

では、『贖い』というイエズス様の人生の最後に起こった事です。

もちろん、御託身、またイエズス様がお生まれになった、神殿にマリア様が抱えて割礼を受けられた、あるいはお潔めの式を受けられた、シメオンの預言を受けた、あるいはエジプトに逃げた、マリア様と一緒にナザレトで生活した、また十字架の道行き、全てマリア様と共でした。その頂点は、『カルワリオ』でした。

ちょうどアダムとエヴァが罪を犯した時に、天主はヤーウェは、エヴァにこう言いました、「お前は、これからは、苦悩の内に子供を産むだろう」と。

もしも原罪がなかったら、子供を産む事は人間にとって何の痛みも苦しみもなかったのです。原罪の後は、苦しみを伴うようになってしまいました。

それと同じようにマリア様も、私たちをカルワリオの苦しみの下で、イエズス様と共に生んで下さった、霊的に生んで下さったのです。

シャミナード神父様はこう言います、「イエズス様は、『これがお前の子供である。』と、ヨハネを指して聖母にこう言った。ではこう言った後にもう、イエズス様はもう聖母の息子ではなくなってしまったのだろうか?」

「イエズス様の代わりに、私たちイエズス様とは似つかない子供がマリア様に与えられてしまって、マリア様にとっては苦痛だったのだけれども、しかしイエズス様はもう息子ではないのだろうか?」

そうではなくて、シャミナード神父様によれば、こうです。
「私たちが聖母の子供となったのは、イエズス様において、聖母の子供になった。神秘体において、マリア様の子供となった。イエズス様が子供であり続けるので、その神秘体も全て子供である。」

「十字架の麓で、カルワリオで、私たちを霊的に産み出す、贖いの事業を完成したので、それを以ってイエズス様は、『確かに、霊的に産まれた。マリア様は、本当に私たちの母となったのだ』という事を確認したに過ぎない。」

これは今度の講和で申し上げますが、では、マリア様は私たちの母となり、私たちを産んだ、さあ、これでもう母としての義務は終わったのでしょうか?

いえ、マリア様の母として霊的に産んだという仕事は、これからも母としての役割を、これからもますます続けられます。超自然的な母であって、霊的な母であって、私たちを愛し育てる母として、私たちをお産みになりました。

では、マリア様の役割は一体どうなのか?

これはまた明日、続けましょう。



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