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六旬節の説教 アダムとエバの子どもたちについて

2021年02月08日 | お説教・霊的講話
六旬節の説教 アダムとエバの子どもたちについて

はじめに

先週の主日に、教会は、四旬節への準備である七旬節の期節に入りました。先週の聖務日課とミサの朗読を通して、教会はアダムとエバの創造、原罪と楽園の喪失、また原罪の後、天主はどのようにして私たちを聖性と永遠の救いに再び招いておられるのかについて語りました。原罪の前よりも困難になっていますが、私たちには天国に行く第二のチャンスが与えられています。

先週の主日、聖パウロは私たちの地上での生活をオリンピックの競技に例えています。賞を取ることが、競技において多くの肉体的な努力をすることによってのみ可能であるように、天国という報いを勝ち取ることは、地上での生活の中で、多くの霊的な努力と犠牲を払ってのみ可能なのです。

本日の聖務日課の朗読の中で、教会は私たちに、アダムとエバの子どもたちの話を読ませます。四旬節に向けての良き決心を適切にすることができるように、この聖書の一節から得られる霊的な教訓を見てみましょう。

1.二つの陣営

アダムとエバは楽園から追放された後、最初の子どもたちをもうけました。カインとアベルです。カインは農夫で、アベルは羊飼いでした。二人とも天主にいけにえを捧げていました。カインは農場の産物を、アベルは羊の群れを捧げていました。聖書には、「主はアベルとその供え物をご嘉納になったが、カインとその供え物はご嘉納にならなかった」(創世記4章4節)と書かれています。

実際、私たちが天主にいけにえを捧げるとき、天主はまず私たちの心の意向を見ておられ、アベルの意向が優れていたのなら、カインの意向は悪しきものでした。カインは嫉妬にかられて弟を殺すまでになりました。それが、犯された初めての殺人でした。カインには子どもたちがいましたが、聖書には、その子どもたちが彼の悪しき行いに従ったと書かれています。それは、殺人、一夫多妻、高慢、怒り、復讐であり、地上のことばかりを気にしていたのです。天主から離れて生きていた人間は、聖書では「人々の子ら(原文の「人々の娘ら」は「人々の子ら」を想定している)」(創世記6章2節)と呼ばれています。

その一方で、聖書には、エバが「子を生み、セトと名づけ」たとあり、「『カインが殺したアベルの代わりに、天主はもう一人の子をくださった』。セトにも子が生まれ、エノシュと名づけた。主の御名をこいねがい始めたのは、そのときからである」(創世記4章25-26節)と言っています。そして、セトの子どもたちが天主の律法に従って生きようと努力したことが書かれています。そのうちの一人、エノクは非常に聖なる人で、天主は彼をこの世から生きたまま連れ去られ、世の終わりに地上で宣教するためにどこかに保存しておられるのです。天主の律法に従って生きようと努力する人間は、聖書によって「天主の子ら(filii Dei)」と呼ばれています。

私たちは、この聖書の一節からどのような霊的な教訓を引き出すことができるでしょうか?

第一に、カインとセトの対立は、人類を二つのグループに分けるというイメージです。それは、創造主であり主権者たる主人である天主を拒否する人々と、天主に進んで服従する人々です。

大洪水の前にあったような天主の子と人の子の間のこの対立は、今日でも現実のものです。人類は、互いに根本的に対立する二つの陣営に分かれています。それは、天主の掟を守る人々の陣営と、天主から離れて天主を拒否し天主に依存せずに生きている人々の陣営です。

私たちは、同時にこの二つの陣営に属することはできません。イエズスは「私の味方でない人は私に背く」(マテオ12章30節)と言われました。ですから、私たちは天主の子でいたいと望んでいるのですから、人の子が私たちに敵対しているのを見ても、悪魔やこの世があらゆる手段を使って私たちにカトリックの信仰と道徳を失わせようとしているのを見ても、驚かないようにしましょう。この世や歴史の中でカトリック信者に対する肉体的、社会的な迫害を見ても、驚かないようにしましょう。


第二に、天主の子と人の子との間にあるこの対立は、原罪以来、私たちが自分自身の中で抱えている内なる対立というイメージです。実際、私たちの内側には、二つの陣営があるのです。それは、私たちを罪に陥れようとする私たちの無秩序となった傾向と熱情を意味する、聖パウロが「肉」と呼ぶものと、天主の掟に従って生きようとする私たちの善意を意味する、聖パウロが「霊」と呼ぶものです。

本日の書簡で皆さんは、偉大な聖パウロでさえも、この内なる対立にさらされていたことを聞きました。「肉」と「霊」は両立できないものです。一方が他方を支配しなければなりません。肉が支配するならば、私たちは最後には地獄に行き、霊が天主の助けによって支配するならば、私たちは天国に行くのです。

これが、第一の教訓です。私たちの内側と外側に霊的な戦いがあります。そして、私たちはそれを好むと好まざるとにかかわらず、必然的に両方にかかわっているのです。中立という立場はないのです。


2.私たちの激しい内なる弱さ

次に、聖書にはこう書かれています。「地の面に人間が増え始め、娘たちが生まれてくると、天主の子らは人間の娘たちを見て気に入り、好きなのをみな妻にした」(創世記6章2節)。そして、天主の子は、結婚を通じて人の子と結んだ密接な関係のために堕落してしまい、ですから聖書は「天主の御目にとって、この世は腐敗し、暴力に満ちていた」(創世記6章11節)と書いています。

ここに、見るべき第二の現実があります。私たちは原罪によって弱まってしまったため、悪しき人々と関わりすぎると、最終的には彼らによって堕落してしまうのです。同様に、私たちが自分自身の中で抱えている霊と肉との間の内なる戦いについても、もし私たちの「霊」が「肉」と戦うのをやめて、「肉」と平和的に共存しようとするならば、「肉」は私たちの「霊」を乗っ取ってしまうことになります。これは覚えておくべき重要なポイントです。私たち自身によって、私たちは弱く、信じられないほど弱くなっているのです。そして私たちの日々の罪は、この私たちの内なる弱さを永遠に思い出させるだけなのです。

このことは、私たちが誘惑に抗うことができず、必然的に罪に陥るしかないということでしょうか? 人の子と結びついた天主の子の堕落に言及した後、聖書は、すべての民の中で、一人の人間が正しい人であることを見いだしたと言っています。「しかし、ノアだけは主の御前に恩寵を受けていた…ノアは正しい人であり、そのころの人々の間でも申し分のない人とされ、天主とともに歩んでいた」(創世記6章9節)。「ノアだけは主の御前に恩寵を受けていた」。

この聖霊の言葉は、天主が地上のすべての人々を注意深くご覧になった後、突然、喜んで、ノアがご自分の掟を守っていたことを発見されたかのように理解すべきではありません! そうではなく、天主は、他の人々を彼らの悪しき望みに従わせ、ますます大きな罪に陥らせるままにさせておられた一方で、天主の恩寵によってノアを、彼を取り巻く悪しき影響から、また彼自身の情欲による悪しき衝動から守っておられたと理解すべきです。こうして、ノアは非常に悪しき社会の真っただ中で生きていたにもかかわらず、「彼は正しい人であり、申し分のない人…天主とともに歩んでいた」のです。

悪魔や、私たちの周りの悪しき人々、そして私たち自身の情欲から来る悪しき影響に対する霊的な勝利は、天主の特別なご保護と恩寵によってのみ可能なのです


3.祈りと苦行

では、今、私たちは天主のご保護と恩寵を得るために何をしなければならないのでしょうか? 私たちの主イエズスは「誘惑に陥らぬように目を覚まして祈れ」(マテオ26章41節)と言われ、他のところでは、「私は言う。あなたたちも悔い改めないなら、みな同じように滅びるだろう」(ルカ13章3節)と言われました。

祈りとは、天主を愛していること、天主に感謝していること、天主に赦しと助けを願っていることを天主に伝えるための天主との会話であり、悔い改めとは、私たちの罪のために天主に捧げる償いですから、この二つは、私たちが誘惑に陥らないようにするために、天主が私たちに求めておられる二つの主要な心構えです。

おそらく時折、皆さんは自問するかもしれません。私は死んだ後、天国に行くのだろうか? 私は地獄に行くのだろうか? 
実際、皆さんはこれらの質問に自ら答えることができます。
皆さんは信仰と天主を喜ばせる確固たる意志を持って毎日祈っていますか? 
毎日ロザリオを祈っていますか? 

もし皆さんが「いいえ」または「そうでもない」と答えたなら、その質問の答えは明らかです。聖アルフォンソ・リグオリは「祈る者は救われ、祈らない者は呪われる」と言いました。

皆さんは自分の罪のために定期的に悔い改めをしていますか? 皆さんは、食べ物を控えるという断食の犠牲、教会や貧しい人々のために行う慈善活動という犠牲、週にミサにあずかるという犠牲を捧げていますか?  皆さんは定期的に告解に行きますか? 人生の試練を辛抱強く、不平不満を言わずに受け入れ、罪の償いとして天主に捧げていますか? 

もし皆さんがこれらの質問に「いいえ」と答えたならば、「私は死んだ後、地獄に行きますか?」という質問に対する答えは、おそらく「はい」となるでしょう。なぜなら、皆さんが悔い改めをしない場合には、私たちの主は「悔い改めをしないなら、みな滅びる」と言われたからです。

次のように言う人々がいるかもしれません。「私たちの生きているこの世はとても堕落しているため、試みに抗うことは不可能です」。何と悪い言い訳でしょうか…。

ノアの時代の世はとても堕落していたため、天主はすべての人を殺すことにお決めになりました。しかし、ノアはこの堕落した社会の真っただ中で生きていた「正しい人であり、申し分のない人だった」のです。

次のように言う人々がいるかもしれません。「私は自分があまりにも弱いと感じているので、自分の情欲の悪しき望みに抗うことができません」。ここでも再び、悪い言い訳です…。

天主はノアのためにされたように、皆さんを助け、情欲によって無秩序になった望みから皆さんを守ることができないのでしょうか? ノアは皆さんのような原罪を持った人でしたが、天主の恩寵によって聖性のうちに生きていました。「彼は正しい人であり、申し分のない人だった」のです。


結論

教会は、特に祈りと悔い改めに捧げられる時期である四旬節の準備をしています。教会は私たちに、悪魔との戦い、この世との戦い、私たち自身の情欲との戦いという、霊的な戦いの現実を思い出させてくれます。私たちが祈り、悔い改めをするならば、天主はその恩寵で私たちを助けてくださり、恩寵によって私たちは最終的な勝利を得ることができます。それは、本日の書簡において、天主が聖パウロに「あなたには私の恩寵で足りる」(コリント後書12章9節)と言っておられるようにです。

皆さんがこの霊的な戦いが難しすぎると思っているのなら、童貞聖マリアを見てください。皆さんのために、皆さんの永遠の救いのために、聖母は御子イエズスを十字架の上に死に至るまでお捧げになり、ご受難の間、御子イエズスに従い、十字架の下に3時間もたたずんでおられました。聖母にとって簡単なことだったと思いますか? 

確かに簡単ではありませんが、聖母がそれをなさったのは、まず天主への愛のためであり、また皆さんへの愛のためでもあります。

ですから、落胆している時には、聖母を見て、聖母に話し、聖母に自分を委ねてください。そうすれば、聖母は続けるのに必要な強さを皆さんに与えてくださり、永遠の至福へと皆さんを導いてくださるでしょう。アーメン。




2021年2月7日、ドモルネ神父による謙遜についての短い説教

2021年02月08日 | お説教・霊的講話
2021年2月7日、ドモルネ神父による謙遜についての短い説教

はじめに

本日の聖パウロの書簡を読むと、聖パウロが自分のことを自慢しているように感じるかもしれません。もちろん、そうではありません。謙遜の実践について少し説明しましょう。

謙遜という概念

「謙遜」(humility)という言葉は、ラテン語で 「土」を意味する「フミス」(humis)に由来しています。「謙遜」には、「土にまで降りる」、つまり自分を低くするという考えがあります。人間には、名声を求める自然の望みがあります。

この望みは、それ自体では悪いことではありませんが、しかしながら無秩序になることがあります。つまり、正しい理性と天主のご計画に従わなくなることです。これを私たちは、高慢の罪と呼んでいます。例えば、ルチフェルは、どうにかして天主のように偉大になりたいと思っていました。それ自体は悪いことではありません。なぜなら、天主は永遠のいのちを分け与えようと私たちをお召しになっているからです。しかし、ルチフェルは天主のご計画に従わずに、天主に依存することなく偉大になりたいと望んでいたのです。謙遜とは、偉大かつ善きものへの望みを制限する私たちの霊魂の徳あるいは善き性質のことです。

謙遜の基礎

謙遜は、どのような要素に基づいて助けを得て成長していくのでしょうか? まず私たちが自分自身では無であるということを認識すること、そして第二に、私たちがすべてのものを受ける天主への大いなる敬意を持つことに基づいているのです。謙遜の徳は、天主を中心とすることが欠かせないのであり、創造主である天主と被造物である私たちとの間に絶え間のない比較を行うのです。

天主への謙遜の実践

私たちは、どのようにして謙遜の徳を実践するのでしょうか? 私たちが持っている善きものはすべて天主から来ており、私たちが持っている悪はすべて私たち自身から出ているという理由によって、天主の御前に自らを低くすることで、私たちは謙遜の徳を実践するのです。私たちは天主から、私たちのいのち、人間の本性、霊的および肉体的な性質、技術、物質的な財、天国への召命、そして私たちが受けるすべての恩寵を得ていますが、天主に依存することなく、自分自身の意志によって、私たちは弱さや苦しみ、失敗、罪、悪徳を得たのです。

ですから、謙遜の実践とは、まず第一に、私たちが持っているものはすべて天主にすべての栄光と感謝を捧げ、天主がおられなければ私たちには何も善きものがないことを心から認めることです。マグニフィカトにある聖なる童貞の模範を取り上げましょう。聖母は天主の御母であるという偉大な特権を拒否なさいませんでしたが、それは決して自分のために栄光を求めるのではなく、それが天主から来たものであることを告白し、天主を讃美なさいました。ルチフェルはその反対のことをしました。自分に与えられた偉大さのことで天主を讃美することなく、天主に依存しないようにしようと望みました。

隣人への謙遜の実践

謙遜を実践するということは、天主の御前で自分を低くすることです。しかし、隣人の中にある善きものはすべて天主から来たものであるという意味で、天主は隣人の中にもおられます。

ですから、謙遜の実践をすれば、私たちは自分自身と隣人との比較をすることになります。天主が隣人にお授けになった目に見えるもの見えないものすべての善きものと、私たち自身の過失によって自分の中にある罪や失敗、能力のなさといった悪とを比較することです。この比較をした結果、私たちは、隣人に対して全面的な判断を下したり、隣人に対して自分のことを自慢したりすることをやめるようになるのです。

謙遜であるということは、明らかな真実を否定することでも、世間知らずであることでもありません。両目のある謙遜な人は、片目の人よりも目がいいと認めるでしょう。賢くて謙遜な人は、自分が他人よりも賢いことを認めるでしょう。正直で謙遜な人は、自分はこの他人のように嘘つきで泥棒ではないと言うかもしれません。謙遜な人は、明らかに真実であるそのような特定の判断をすることがあるかもしれません。

しかし、謙遜な人は、天主がご自分の善を隣人にもお授けになっていること、そして、天主だけがその隣人の善あるいは悪を知っておられることを常に心に留めているため、隣人に対して全面的な判断を下すことは決してないでしょう。どんなに惨めな人でも、私たちよりも優れている性質があるかもしれません。だからこそ、聖パウロはフィリッピ人へこう書いているのです。「謙遜に他人が自分より優れていると考えよ」(フィリッピ2章3節)。逆に、高慢な人は、たとえ話に出てくるファリザイ人のように、天主が自分の隣人にお与えになった善きもののことを考えず、この隣人を軽蔑するのです。

結論

ですから、本日の書簡で聖パウロは、高慢から自らを自慢するのではなく、天主を讃美するために、またコリント人に謙遜を教えるために、天主から受けた恩寵について述べているのです。

聖パウロが、謙遜の徳を実践するよう、私たちのために取り成し、私たちを助けてくださいますように。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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