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「助産婦の手記」27章 『私は、それは大して重要なことではないと、ほんとに信じていました。』

2020年08月19日 | プロライフ
「助産婦の手記」

27章

子供の洗礼が、きょう工場主のお宅で行われる。その子の父親は、繊維工場、紡績および織物工場の若い後継者であり、唯一の相続人である。彼は一年前に結婚した。そしてきょう、彼の小さな息子が洗礼を受けるのである。家庭洗礼が行われる――この村では、最初のものだ。
これまで子供はすべて、教会へ連れて行かれた。そしてその方が、遙かに正しいように、私には思われる。子供は、信徒団体の中に加えられるのであるから、教会に連れて行かれるのである。そして子供は、天主の子となるのであるから、御父の家へ連れて行かれるのである。洗礼によって基礎を与えられた者は、他日、教会の中で、さらに信仰を築き上げられるのである。すべて重要な宗教上の儀式は、教会で行われる。すなわち、聖体拝領、堅振の秘蹟、結婚式―それゆえ、信仰生活の基礎もまた、ここに置かれることが全く正当なのである。私は、赤ちゃんが洗礼を受けた教会の写真を、その小さなベッドの上にかけて、いつまでも記憶させて置くようにしたいと心から思うのである。
多くの家庭には、まだ聖水入れが掛っている。子供はその中に指をさし入れて、聖水をつけることをなお学ぶ――もし、その聖水入れが、いつでも乾燥しているような不しだらな家庭でないならば! しかし、とにかくそれは、子供たちがかつて天主の子とされたところの洗礼の小さな泉を追憶することを意味するものであるということ、そしてそれはまた、洗礼を受けると共に、信仰生活をする義務を負うたことを追憶する意味をもつものだということを、親も子供も、しばしば忘れてしまっている。遺憾なことである……

家庭洗礼というものは、人の言うように、全く特殊なものであって、赤ちゃんが多くの人々と一緒に教会へ連れて行かれる普通の洗礼とは、全く違った種類の生活を形づくり、別の生活上の特質を生み出すものだそうである。要するに、家庭洗礼は、個人的なものである。私は、あの訳の分らない、そしてそれゆえに非常に意味深長らしく見える象徴主義を振りかざして、古来の善い習慣を棄て去ろうとする、新しい企ては好まない。間もなく、キリスト信者は、てんでに独自のキリスト教を打ち建ててもよいということを欲するようになるであろう――大勢の人々から 切り離されて。そうすると、終りには、キリスト教の根本理念である兄弟愛という連帯主義については、果して何が残されるであろうか?

しかし家庭洗礼の背後に、非常に多くの主義がひそんでいると見ることは当らない。当時、家庭洗礼は、何か特別に霊妙なものであるかのように思われた。そして立ちどころに、上流階級に数えられたいと思う多くの連中が、それを目がけて突進し、そしてそれを模倣することは、天主からの召命であるというように感じた。かようにして、それは、実に到るところで、すべての人々によって行われた。家庭洗礼は、現今の流行である。都会では、それをすることのできる人々は、もはや子供を教会に連れて行かないで、司祭を自宅に呼んで来る。私たちの主任司祭は、今日まで、そのような企ては、すべて断わって来られた。どうか人々は、古来の良い習慣を守り、そして聖なる秘蹟を、当世流行の愚行に変えないでほしいものである。

きょう行われる家庭洗礼には、特別な事情がある。その工場主の家族は、みんな新教徒(プロテスタント)であるのに、若い母だけがカトリック信者である。結婚式の前に彼女の夫は、子供はすべて、彼女の信仰によって育ててよいと約束したのであり、そして今でもその約束を守っている――非常にいやいやながらではあるが。ところが、子供が生れてからは――そして、特にそれが男の子であるから――その家中のもの、なかんずく姑は、朝から晩まで、若い母の気を変えさせようと骨折った。一体、彼女の信仰に多少の関心をもつ人々がそうする気持は、よくわかる。しかし、この憐れな嫁は、困難な立場に置かれていた。すでに分娩してから数分後に、戦いがはじまったのであった。

『マチルデや。』と姑は、赤ちゃんを彼女に渡したとき言った。『これが男の子であったからには、あんたは新教の洗礼を受けさせて、お父さんを喜ばしてやっておくれだろうね。この子は、どうしても家族の中にぴったりと、はいり込まねばなりません。私は、後ですぐ牧師のツェーさんに電報を打つことにしますよ。』
『何のためにですの、お母さん? アルフレッド(主人の名)と私とは、子供は私の信仰に従って育てることに、いつも意見が一致しているんです。このことは、変えられませんわ。』
『もし、夫が結婚前に、妻に対して、そんな了解を与えるほど、大きな愛を示すのなら、妻は、お産をした後では、ほんとにそれに劣らぬぐらい寛大でなくちゃならないと、私は思いますがね。聞き入れてもらいたいものだが。』
『でも、いま問題となっている事柄は、お母さんのおっしゃる寛大ということは全く別のことですわ。私たちが、結婚前にそう約束したからには、この問題は、もう、あれこれ言う余地は全くないんです。』
『マチルデや、そんなら私も言わねばならぬがね。私はあんたの頑固なのには、とても腹が立っているんですよ。私の息子だって、いつもそうなんですよ。私たちは、あんたの愛情というのを、実際、買いかぶりすぎていたんですよ……』
『私は、アルフレッドを愛していればこそ、あの人の約束の言葉をお返しするわけには行きません。そのような方法では、人は幸福を得ることはできないんですもの……』

姑は怒って、プツプツ言いながら部屋を出て行った。若い母は、わっとばかりに泣き出した。それから、夫が大へん不機嫌な様子ではいって来た。『ああ、お前、理性的になりなさいよ。この家のものが、信仰問題で、みんなお前と同じ意見になることを期待することはできないよ……』
『私たちは、そのことについては、よく話し合って置いたのですから、どうか、ほかの人たちは、ぜひそれで満足して、私を苦しめないでほしいものですわ。』
『ああ、そう――もちろん、僕は約束を守るよ。しかし、我々の社会では、男の子は父親の宗教を継ぎ、女の子は母親の宗教を継ぐというのが、一般の習慣なんだよ。それは結局、やはり全く同じことなんだ。』
『アルフレッド、もしもそれが私にとって同じことだとしたら、私は、子供に私の信仰を持たせるということを、はじめから主張しはしなかったでしょう。そして、もしそのことが、あなたにとって同じことだとしたら、なぜあなた方は、そのことで、私を苦しめるんですの?』
『その話は、止めにしよう。』と、彼は神経質に言った。『この問題を早く片づけて、この家を平和にするように、直ぐあす、主任司祭に洗礼を授けに来てもらうことにしようじゃないか。僕は、お前の兄さんに代父になってもらうように、電報を打つことにする。もちろん――僕の側から言えば――弱ったねえ――全く癪(しゃく)にさわることなんだが。』 彼は、部屋をあちこちと歩き廻った。『せいぜいエルウィン叔父さん、あの老寄りの独身者――実に厄介なことだ――もし女の子であってくれたらねえ――』こう言って彼女の夫は、出て行った。

『ああ、ブルゲルさん、もし私がもう一度それをせねばならないのでしたら……で、もともと私たちは、ほんとに愛し合っていたものですから、宗教上の相違ということは無視していました。私は、それは大して重要なことではないと、ほんとに信じていました。いつも人々が言うように、私たちは、みんなキリスト信者です。今までは、また実際、そういうことですんでいました。私は、日曜日には、私の教会へ行き、そしてアルフレッドは、私を教会ヘ送り迎えしてくれました。ただ私が、時々あれこれの宗教問題について、ひと言、話したいと思ったときには、意見の相違が私たちの間を隔てるように立ったのでした……そして今、つまり子供が出来てから――子供の養育ということについて、私たちが一心一霊とならねばならないようになってから――いま喧嘩が起ったのです。今になって、私の夫は、自分の宗教に執着して、子供を私の信仰に入れたがらないのです。今、そうです、私がそんなに支えを必要としている今、私は独りぼっちなのです。完全な調和を得るために必要な心の最後の一致が、今ちょうど欠けているのです。』
『御主人の家族の方々は、ちょうど私たちが自分の信仰を守っていると同様に、御自分の信仰を守っていらっしゃるんです。そのことは理解してあげねばなりませんし、また、それを気に病んではいけません。人々は、誰でも自分の信仰を、真実な正しいものと考え、従って、その信仰を子供に伝えたいのです。そして、自分が他の宗派の中に認める誤謬から、子供を守ってやりたいのです。でもまあ、洗礼が一たび終ってしまうと、浪風はまた静まりますね……』
『でも、不和は残るでしょう――多分、もっと深刻になるでしょう――なぜなら、子供が成長するにつれて、宗教上の相違は、信条の中に、ますます目立って現われてくるからです。大人は、静かに心の中で自分の宗教に従っていれば、よいのですが――子供の場合だと、一緒に読んでやらねばならないし、また子供に祈ることを教えてやらねばなりません。いえ、ブルゲルさん。それは、よりよくはならないでしょう。影が残るんです……』

こういうわけで洗礼の日は来た。すべてのものは、お祭のように、棕梠と花と燃える蝋燭で飾られた。家族の人たちは、しかし、遙かに後ろの方に離れて坐っていた。カトリックの司祭が、その子に洗礼を授けたとき、姑は胸も張りさけるばかりに、すすり泣いた。そしてほかの人たちも、当惑してあちこちに立ち、どうしてよいか判らなかった。ただ司祭のみが、冷静を保った。彼は洗礼の儀式を行った後、姑のところへ歩みより、そして親切な慰めの言葉をかけた。
『私は、あなたの苦痛がよく判ります。お孫さんが、あなたの間違っているとお考えになっている信仰にはいるのを御覧になることは、どんなにつらいことであるかということを、御同情いたします。しかし、赤ちゃんは、今や大きなキリスト信者団体の教会に属することになったということ、それから、キリスト教のもろもろの宝は、確かに何一つとして赤ちゃんに与えられずには置かれないということを、お考えになって、安心して下さい。今や赤ちゃんの上には、いかなる場合にも、十分な天主の知識と聖寵とがあるわけです。』と。
さて、参列者のうち、ただ一人のものだけが、この深刻な争いに全く無関心でいた。それは、叔父のエルウィンであった。彼は、何か珍しいものでも見るように、洗礼の儀式を非常に興味ぶかく見守っていた。そして私たちが、コーヒーの席に坐るか坐らないうちに、彼は直ちに自分の印象を述べはじめた。彼は、出血しつつある傷口に触れたことを、全く気づかなかった……
『このことは、僕は本当に訳がわからないのだがね。司祭が赤ん坊の小さな鼻に油を塗ったのは、どういう意味なのか教えて下さい。鼻に油を塗るってことは?』
『ごく簡単ですよ。』と、その子供の父親は、うなった。『それは、赤ん坊が何にでも鼻を突っこまないようにという意味なんです……』
その場の空気は幾分、緩和された。人々は、おしゃべりした――もちろん、少し不自然ではあったが――非常にいろいろなことについて。雑談は、その叔父さんが、急に再び、こんなことを言い出すまでつづいた。
『満一ヶ年後に、女の子が、この男の子につづいて生れるだろう。そのことは、あんたたちは、なお、やるだろう。だが、それからは……』
『そのことなら、ただもう僕と家内とに任せておいて下さい。エルウィン叔父さん。』
『そんならよろしい。今日では、人はもはやそんなに愚かではないんだ。僕などは、実に兄弟姉妹が八人もあったんだ。しかし、こんなことは、今日では上流社會では、もう起らないのだ。そこで、僕は、まさに産児制限のための最新式の方法をあんた方に教えて上げよう。これは僕が、直接にパリから仕入れたものだ。』
『エルウィン叔父さん、あなたの鼻も、一度聖油を塗られたことがあるのを思い出して下さい!』と、その家の主人が落ちついて言った。そして、大きな晴ればれしさが、その場の調和を幾分か回復した。ところが、叔父さんの方は、機嫌を損じて黙りこんだ。

私が後で、赤ちゃんを、まとい直したとき、年寄りのソフィー――恐らく二十年も、その家にいる忠実な女中――が、私に胸中を打ち明けた。彼女は、やがて五十になる。『考えて見ても下さい、リスべートさん。あのグルーベル・ペーテルが私に結婚の申込みをしたんです。あなたは、それをどうお考えですか? あの老年で、もう一度、自分自身の世帯を持つということは、確かに美しいことでしょう。でも……』
『ソフィーさん、あんたはまた、何ということを考えるんでしょう! グルーペルは、毎日酒のコップの底ばかり覗きこんでいるんですよ。あの人は、もうコップを離そうとはしないんです。狼は、髪は失うが、気まぐれは失わないんです。そしてあなたは、まだ確かに更年期を越えてはいないと思います。おしまいには、まだ子供ができるかも知れません――あんな酔いどれの種が。結婚というものは、世帯を持つこととは、全く別のことです。私なら、そんな酔ぱらいの居候を私の周囲に持っていたくないですね、日中も、そして――夜分も……
そして、いいですか、この家でどういう具合に行っているかは、あなたがいま御覧の通りです。あのグルーベルは、カトリックではないのに、あなたは、そうです。あの人は、いつもキリスト再臨派のために、募集ビラをくばっているんです――それなのに、あなたは、 私たちの教会に行っています。それでは、互いにぴったり適合しないと思いますね。もし、双方が、おのおの信仰を少しも重んじないなら、うまく行くでしょう。しかし、そうだとすると、一般的に言って、そこには結婚生活のための確かな基礎もまた欠けているわけです。しかし、そうかと言って、もし片方が、自分の権利を固執するなら――または、実に双方ともが、そうするなら――最も美しい幸福でも暗くする影が、その結婚生活の中にはいって来るものです……』
『あなたも、そう思いますか? 私たちは暫らくの間、たがいに今のままで進んで行くのが一番よいことだと思います。』
一頭立ての馬車を走らせても、人はやはり天国に、はいれるものである。





【拡散希望】ヴィガノ大司教(ビガノ大司教)「教会へのよこしまで卑劣な裏切りが行われている」

2020年08月19日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ヴィガノ大司教が、トマス・ワイナンディ神父に宛てた手紙の日本語訳をご紹介いたします。
英語VIGANÒ: A SNEAKY AND COWARDLY BETRAYAL OF THE CHURCH IS TAKING PLACEはここ
イタリア語VIGANÒ: IN ATTO UN SUBDOLO E VILE TRADIMENTO DELLA CHIESAはここ
スペイン語VIGANÒ: SE ESTÁ PRODUCIENDO UNA TRAICIÓN FURTIVA Y COBARDE A LA IGLESIAはここです。

この手紙の背景は、次の通りです。

まず、ヴィガノ大司教がシュナイダー司教の論考についてのコメントを発表すると、それに対して、トマス・ワイナンディ神父はつぎのように答えます。

ワイナンディ神父にとっては、現代の教会の危機、多くの教義的かつ司牧的問題は第二バチカン公会議がその直接の原因とするのはしっくりこない(uncomfortable)。すでに、第二バチカン公会議以前に教会は危機的状況だったのではないか(第二バチカン公会議はそれを明らかにしただけで原因ではない)、第二バチカン公会議によりカリスマ運動などの以前では考えられなかったことが起こっている(これは実りだ)、と。

これに対して、ヴィガノ大司教は、ワイナンディ神父が第二バチカン公会議前後の危機的現実の違いをあまりにも無視していることを個別には直接に指摘せずに【たしかに第二バチカン公会議以前に、聖ピオ十世教皇が指摘していたように、カトリック教会内部にがん細胞のような不良分子はあったが、神秘体全体には広がっていなかったこと、がん細胞を教会の権威をもって広げたのは第二バチカン公会議だったこと、第二バチカン公会議による「実り」と言われていること自体が、その他の病気の苦しみや破壊と比較するとあまりにも極小なことなど:以上は訳者による指摘】、もっとその奥にある核心に言及します。

第二バチカン公会議については【これを批判すると罰を受けることを恐れるのか、自己検閲をするのか】だれも直接批判しようとしないけれど、しかしヴィガノ大司教は、ワイナンディ神父がフランシスコ教皇に関する分析をする場合には、きわめて鋭い批判を行っていることを認めます。

ワイナンディ神父の指摘によれば、一人の教皇が、カトリック教会の教皇であると同時に、実質的には離教している教会の事実上の指導者でもあるので、彼は同時に二つの教会のかしらである、とあります。

ヴィガノ大司教は今回の手紙で、それとまったく同じことが第二バチカン公会議についても言える、と指摘します。教皇が、教皇の権威を使って教皇制を破壊しようとしているように、公会議という教会の権威を使って、教会制度を破壊しようとしている、と。教会の破壊という意図を持つ活動に、表面的な権威を与えるためにキリストの代理者の権威が用いられている、と。

この手紙を素晴らしい日本語に訳してくださった大阪と東京の両の信徒会長に心から感謝申し上げます。

ヴィガノ大司教「教会へのよこしまで卑劣な裏切りが行われている」
2020年8月11日掲載

【マルコ・トサッティによるまえがき】
親愛なる「Stilum Curiae(教皇庁のペン)」【トサッティ氏のブログ】の読者の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、トマス・ワイナンディ神父【米国人のカプチン・フランシスコ会司祭】の論文に対するこの回答を、私たちに送ってくださいました。これは、教会の現状や、第二バチカン公会議から現れ出た危機や実体の根源についての評価のため、私たちにとって非常に興味深いと思われます。どうぞお読みください。

2020年8月10日
殉教者聖ラウレンチオの祝日

トマス神父様、
2020年7月27日に「インサイド・ザ・バチカン(Inside the Vatican)」のウェブサイトに掲載されたあなたの論文「第二バチカン公会議とその精神の働き(Vatican II and the Work of the Spirit)」を、私は注意深く読みました。あなたの考えは以下の二つの文に要約されているように思えます。

「私は、すでに表明されている懸念事項の多くに共感し、そこで列挙されているような、いくつかの問題ある神学的問題や教理的問題が存在することを認めます。しかし、現在の教会が置かれた失望すべき状態について、第二バチカン公会議が、何らかの形で、その直接的な起源であり原因であるという結論は、私にはしっくりこないものです」。

神父様、2019年10月8日にウェブサイト「The Catholic Thing」に掲載されたあなたの興味深い著作の一つである「教皇フランシスコと離教(Pope Francis and Schism)」を、「権威あるもの(auctoritas)」として使うことで、あなたに回答することをお許しください。あなたの見解から、私は一つの相似関係を浮き彫りにすることができます。この相似関係が私の考え方を明確化し、また、天主の栄光、教会の名誉、霊魂の救済をその主要な目的とする有益な議論のおかげで、いくつかの見かけ上の意見の相違が解決されることを読者に示す助けとなってくれることを、私は望みます。

論文「教皇フランシスコと離教」の中で、あなたは次のことを非常に適切に観察されていますが、それはあなたの見解を特徴づける洞察力を示しています。すなわちそれは、「教皇のペルソナを持つ人物(persona Papae)」と「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ」の間には、ある種の「解離」があること、つまりキリストの代理者が沈黙し、議論をやめてしまう一方で、今日サンタ・マルタ館に住んでいる活気あるアルゼンチン人は話し、行動するという「二項対立」があるということです。ドイツの教会の非常に深刻な状況に言及しながら、あなたは次のように書いておられます。

「第一に、ドイツの位階階級内の多くの人々は、離教すると、自分たちがカトリックとしての声と身分を失ってしまうことを知っています。これは彼らにはできかねることです。彼らは教皇フランシスコとの友好関係を保つ必要があります。なぜなら、教皇こそが、彼らが今実現しようとしている『シノドス性【共働性:ギリシア語のシノドス(synodos)の語源はsyn(同じ)hodos(道)で、シノドス性という新しい語は「共に同じ道を歩むこと」を意味するとされる。しかし正確な定義は誰も知らない。】』という考えを促進してきたまさにその本人であるからです。したがって、彼こそが、彼らの究極的な保護者なのです」。

「第二に、教皇フランシスコは、彼らが教会の教えに明らかに反することを行うことはさせないかもしれませんが、教会の教えに反しているか曖昧なことを行うのは許すのです。それは、そのような曖昧な教えや司牧的実践がフランシスコ自身の教えや実践と一致することになるからです。教会がこれまで決して予想だにしなかった状況に陥っているのは、まさにこの点においてです」。

あなたは次のように続けておられます。

「ドイツの状況は、より広い文脈の中で見なければならないことを心に留めておくことが重要です。その文脈とは、使徒的勧告『アモーリス・レティチア』中の神学的曖昧さ、同性愛の容認作戦の明らかな推進、また(ローマの)『結婚と家庭の科学のためのヨハネ・パウロ2世神学研究所』の『再設立』、すなわち、特に結婚の不解消性、同性愛、避妊、妊娠中絶に関する道徳的・秘蹟的絶対性についての教会の首尾一貫した教えの阻害などです」。

「同様に、アブダビ声明がありますが、これは御父のご意志に直接矛盾し、それゆえに、決定的な主にして普遍的な救い主である御子イエズス・キリストの首位性を損なうものです」。

「さらに、現在のアマゾン・シノドスは、上記のすべてに共感し、支持する参加者たちであふれています。同様に、フランシスコが支持し、教会の高い地位に昇進させている多くの神学的に疑問のある枢機卿たち、司教たち、司祭たち、神学者たちのことも考慮に入れなければなりません」。

そして、あなたはこう結論付けておられます。

「このことをすべて念頭に置くと、次のような状況が存在し、かつそれが激化する一方であることがわかります。その状況とは、世界の信徒の過半が、聖職者も信徒も同様に、教皇の活動には批判的でありながらも、彼が自分たちの教皇であるがゆえに、教皇に忠誠心を持ち、忠実であると同時に、他方で世界の多くの信徒は、聖職者も信徒も同様に、まさにフランシスコが自分たちの曖昧な教えや教会的実践を許し、促進するがゆえに、彼を熱狂的に支持していることです」。

「ですから、教会が結局どうなってしまうかと言えば、一人の教皇が、カトリック教会の教皇であると同時に、実質的には離教している教会の事実上の指導者でもあるということなのです。彼は両方のかしらであるため、一つの教会の見かけが残っていますが、実際には二つの教会があるのです」。

教皇を公会議に、ベルゴリオを第二バチカン公会議に置き換えてみることにしましょう。こうすると、ほとんど文字通りの並行関係があることがお分かりいただけると思いますが、これは大変興味深いことです。実際、カトリック教徒は、教会が求めるように、教皇制と公会議の両方に対する尊敬と敬意の念を持っています。一方ではキリストの代理者に対して、他方では、私たちの主の声がローマ教皇および教皇に一致した司教たちを通してお話しになる教導職の行為に対してです。聖ピオ五世とトリエント公会議、あるいはピオ九世と第一バチカン公会議のことを考えれば、「これらの教皇」と教皇制との間の完全な調和を、また「これらの公会議」と教会の不可謬の教導職との間の完全な調和を見るのは難しいことではありません。実際、それらの間に「二項対立」の可能性があると考えることさえも、当然教会法上の制裁の対象となり、また敬虔な耳を持つ信徒たちを怒らせることになるでしょう。

しかしながら、あなたが自らご指摘のように、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが使徒のかしらの後継者の衣をまとっているという不条理な状況下では、「この状況を描写するために考えられる唯一の表現は、『教皇の内なる離教』です。なぜなら、この教皇は、教皇でありながら、その教理的、道徳的な教えや教会的構造を通じて実質上離教している教会の一部分の事実上の指導者となるからです」。

では、親愛なるトマス神父様、あなたにお尋ねします。もし、最もふさわしくない教会の信徒たち、特にその指導者たちの過ちのゆえに教会を罰するために御摂理が教会に与えておられる苦しい試練として、「教皇の内なる離教」を語ることができるほどにまで教皇自身が教会との離教状態にあることをあなたがお認めになっているのならば、なぜ、同じことが一つの公会議のような荘厳な行為に起こったこと、そして第二バチカン公会議が「教導職の内なる離教」のケースだったことを、あなたはお認めになれないのでしょうか。

もしこの教皇が、「実質的に離教している」ことが可能であるならば、私は異端的でもあると言いたいところですが、教皇と公会議のどちらもが、信仰と道徳において兄弟たちを固めるために私たちの主によって制定されたという事実にもかかわらず、なぜ公会議もそうだったということができないでしょうか。あなたにお尋ねします。最高の牧者【教皇】自身が先任者たちの教えを否定することができるなら、第二バチカン公会議の教令が聖伝の道から逸脱することを妨げるものがあるというのでしょうか。(これを妨げ得るものはありません。)そしてもし教皇のペルソナを持った人物が教皇制からの離教の状態にあるのなら、司牧的であることを望み、教義を公布するのを差し控えた公会議が、なぜ、教会法で認められた他の諸公会議に矛盾して、カトリックの教導職からの「事実上の」離教の状態に入ることができなかったというのでしょうか。(実際はそれができたのです。)

この状況は「孤語(hapax)」、すなわちそれ自体が教会の歴史の中で決して見られることのなかったケースであることは真実ですが、もしこれが教皇にあてはまるのなら(ロンカリ【ヨハネ二十三世】からベルゴリオ【フランシスコ】にかけてその傾向は強まりましたが)、なぜそれが第二バチカン公会議に当てはまり得ないのか私には理解しかねます。なぜなら、第二バチカン公会議は最近の教皇たちによって、まさにそれ自体がイベントであるとされ、またその支持者たちがそのように利用してきているからです 。
【孤語(hapax)とは、言語データを収集して単語の使われ方を研究するコーパス言語学で、特定の文脈で1回しか使われない単語。ここでは第二バチカン公会議が他のどの公会議とも異なる特殊性を持つことを指す。】

あなたの言葉を使って、「教会が結局どうなってしまうか」と言えば、ある公会議が、カトリック教会の公会議であると同時に、実質的に離教的した教会、言い換えれば自らが第二バチカン公会議において生まれたとみなす「公会議の教会(conciliar church)」、の「事実上」の最初の公会議でもあるということです。第二バチカン公会議は、エキュメニカルな公会議【正統な公会議】であると同時に、「不正公会議」(conciliabolo)でもあるため、単一の公会議の見かけを保持ししていますが、実際には二つの公会議なのです。また次の点も付け加えておきます。一方の公会議は合法的かつ正統的なものでしたが、準備草案に対する破壊主義的活動によってその誕生を中絶させられましたが、もう一方の公会議は非合法的かつ異端的なもの(あるいは少なくとも「異端を促進するもの[favens haeresim]」)であって、ベルゴリオを含む革新主義者たちによって自分たちの教理的、道徳的、典礼的な逸脱を合法化するために引き合いに出されるのはこちら側の公会議です。「フランシスコが支持し、教会の高い地位に昇進させている多くの神学的に疑問のある枢機卿たち、司教たち、司祭たち、神学者たち」が、ホルヘ・マリオの行う統治行為や教導職の行為においてはキリストの代理者の権威が認められるべきであると主張するのですが、彼が「実質的に離教している」ことを自ら証明するような行為を行うまさにその瞬間に、彼らはその主張をするのです。

そして、一方で「教皇フランシスコは、彼らが教会の教えに明らかに反することを行うことはさせないかもしれませんが、教会の教えに反しているか曖昧なことを行うのは許すのです。それは、そのような曖昧な教えや司牧的実践がフランシスコ自身の教えや実践と一致することになるからです」というのがまさに真実であるとすれば、あなたの言葉を言い換えて言うならば、「ヨハネ二十三世とパウロ六世は、近代主義者たちが教会の教えに明らかに反することを行うことはさせなかったかもしれませんが、教会の教えに反しているか曖昧なことを行うのは許したのです。それは、そのような曖昧な教えや司牧的実践がロンカリやモンティニの教えや実践と一致していたからです」というのも同様に真実です。

ですから、神父様、この公会議に関する「論争」の発端となった論文で私が断言したこと、すなわち破壊主義的な意図を持つイベントにうわべの権威を与えるために「器としての公会議」が用いられたということを、あなたに確認していただけるのではないかと私は思います。それはまさに今、私たちの目の前で、破壊主義的な意図を持つ活動にうわべの権威を与えるためにキリストの代理者が用いられているのと全く同じことです。どちらの場合においても、信徒や聖職者の側にある、キリストの教会を敬うという生来の感覚が、聖なる城塞に持ち込まれた「トロイの木馬」という地獄の策略として利用されているのです。そしてその目的は、信者や聖職者の義務としてのいかなる異議も、いかなる批判も、いかなる正当な糾弾をも思いとどまらせることなのです。

この見方が、第二バチカン公会議を本来の状態に戻すどころか、権威それ自体に反して自分たちの権威を乱用してきた反乱者たちの行動によって起こされた教会制度全体の危機、教皇制自体に反する教皇の権力という危機、教会自体に反する公会議の教父たちの権威という危機、これらの深刻な危機を確認するものである、ということを思うと心が痛みます。聖ピオ十世が既に回勅「パッシェンディ(Pascendi)」において 近代主義者たちが「教会にとって最も有害な敵」であると指摘してこれを予言し、断罪していたように、よこしまで卑劣な裏切りが教会自体の内部から行われているのです。

ダンテが詐欺師を地獄の第八圏に置いていることを忘れないようにしましょう【最下層の裏切り者を罰する第九圏に近い】。

親愛なるトマス神父様、私の祝福を受けてください。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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