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「助産婦の手記」27章 『私は、それは大して重要なことではないと、ほんとに信じていました。』

2020年08月19日 | プロライフ
「助産婦の手記」

27章

子供の洗礼が、きょう工場主のお宅で行われる。その子の父親は、繊維工場、紡績および織物工場の若い後継者であり、唯一の相続人である。彼は一年前に結婚した。そしてきょう、彼の小さな息子が洗礼を受けるのである。家庭洗礼が行われる――この村では、最初のものだ。
これまで子供はすべて、教会へ連れて行かれた。そしてその方が、遙かに正しいように、私には思われる。子供は、信徒団体の中に加えられるのであるから、教会に連れて行かれるのである。そして子供は、天主の子となるのであるから、御父の家へ連れて行かれるのである。洗礼によって基礎を与えられた者は、他日、教会の中で、さらに信仰を築き上げられるのである。すべて重要な宗教上の儀式は、教会で行われる。すなわち、聖体拝領、堅振の秘蹟、結婚式―それゆえ、信仰生活の基礎もまた、ここに置かれることが全く正当なのである。私は、赤ちゃんが洗礼を受けた教会の写真を、その小さなベッドの上にかけて、いつまでも記憶させて置くようにしたいと心から思うのである。
多くの家庭には、まだ聖水入れが掛っている。子供はその中に指をさし入れて、聖水をつけることをなお学ぶ――もし、その聖水入れが、いつでも乾燥しているような不しだらな家庭でないならば! しかし、とにかくそれは、子供たちがかつて天主の子とされたところの洗礼の小さな泉を追憶することを意味するものであるということ、そしてそれはまた、洗礼を受けると共に、信仰生活をする義務を負うたことを追憶する意味をもつものだということを、親も子供も、しばしば忘れてしまっている。遺憾なことである……

家庭洗礼というものは、人の言うように、全く特殊なものであって、赤ちゃんが多くの人々と一緒に教会へ連れて行かれる普通の洗礼とは、全く違った種類の生活を形づくり、別の生活上の特質を生み出すものだそうである。要するに、家庭洗礼は、個人的なものである。私は、あの訳の分らない、そしてそれゆえに非常に意味深長らしく見える象徴主義を振りかざして、古来の善い習慣を棄て去ろうとする、新しい企ては好まない。間もなく、キリスト信者は、てんでに独自のキリスト教を打ち建ててもよいということを欲するようになるであろう――大勢の人々から 切り離されて。そうすると、終りには、キリスト教の根本理念である兄弟愛という連帯主義については、果して何が残されるであろうか?

しかし家庭洗礼の背後に、非常に多くの主義がひそんでいると見ることは当らない。当時、家庭洗礼は、何か特別に霊妙なものであるかのように思われた。そして立ちどころに、上流階級に数えられたいと思う多くの連中が、それを目がけて突進し、そしてそれを模倣することは、天主からの召命であるというように感じた。かようにして、それは、実に到るところで、すべての人々によって行われた。家庭洗礼は、現今の流行である。都会では、それをすることのできる人々は、もはや子供を教会に連れて行かないで、司祭を自宅に呼んで来る。私たちの主任司祭は、今日まで、そのような企ては、すべて断わって来られた。どうか人々は、古来の良い習慣を守り、そして聖なる秘蹟を、当世流行の愚行に変えないでほしいものである。

きょう行われる家庭洗礼には、特別な事情がある。その工場主の家族は、みんな新教徒(プロテスタント)であるのに、若い母だけがカトリック信者である。結婚式の前に彼女の夫は、子供はすべて、彼女の信仰によって育ててよいと約束したのであり、そして今でもその約束を守っている――非常にいやいやながらではあるが。ところが、子供が生れてからは――そして、特にそれが男の子であるから――その家中のもの、なかんずく姑は、朝から晩まで、若い母の気を変えさせようと骨折った。一体、彼女の信仰に多少の関心をもつ人々がそうする気持は、よくわかる。しかし、この憐れな嫁は、困難な立場に置かれていた。すでに分娩してから数分後に、戦いがはじまったのであった。

『マチルデや。』と姑は、赤ちゃんを彼女に渡したとき言った。『これが男の子であったからには、あんたは新教の洗礼を受けさせて、お父さんを喜ばしてやっておくれだろうね。この子は、どうしても家族の中にぴったりと、はいり込まねばなりません。私は、後ですぐ牧師のツェーさんに電報を打つことにしますよ。』
『何のためにですの、お母さん? アルフレッド(主人の名)と私とは、子供は私の信仰に従って育てることに、いつも意見が一致しているんです。このことは、変えられませんわ。』
『もし、夫が結婚前に、妻に対して、そんな了解を与えるほど、大きな愛を示すのなら、妻は、お産をした後では、ほんとにそれに劣らぬぐらい寛大でなくちゃならないと、私は思いますがね。聞き入れてもらいたいものだが。』
『でも、いま問題となっている事柄は、お母さんのおっしゃる寛大ということは全く別のことですわ。私たちが、結婚前にそう約束したからには、この問題は、もう、あれこれ言う余地は全くないんです。』
『マチルデや、そんなら私も言わねばならぬがね。私はあんたの頑固なのには、とても腹が立っているんですよ。私の息子だって、いつもそうなんですよ。私たちは、あんたの愛情というのを、実際、買いかぶりすぎていたんですよ……』
『私は、アルフレッドを愛していればこそ、あの人の約束の言葉をお返しするわけには行きません。そのような方法では、人は幸福を得ることはできないんですもの……』

姑は怒って、プツプツ言いながら部屋を出て行った。若い母は、わっとばかりに泣き出した。それから、夫が大へん不機嫌な様子ではいって来た。『ああ、お前、理性的になりなさいよ。この家のものが、信仰問題で、みんなお前と同じ意見になることを期待することはできないよ……』
『私たちは、そのことについては、よく話し合って置いたのですから、どうか、ほかの人たちは、ぜひそれで満足して、私を苦しめないでほしいものですわ。』
『ああ、そう――もちろん、僕は約束を守るよ。しかし、我々の社会では、男の子は父親の宗教を継ぎ、女の子は母親の宗教を継ぐというのが、一般の習慣なんだよ。それは結局、やはり全く同じことなんだ。』
『アルフレッド、もしもそれが私にとって同じことだとしたら、私は、子供に私の信仰を持たせるということを、はじめから主張しはしなかったでしょう。そして、もしそのことが、あなたにとって同じことだとしたら、なぜあなた方は、そのことで、私を苦しめるんですの?』
『その話は、止めにしよう。』と、彼は神経質に言った。『この問題を早く片づけて、この家を平和にするように、直ぐあす、主任司祭に洗礼を授けに来てもらうことにしようじゃないか。僕は、お前の兄さんに代父になってもらうように、電報を打つことにする。もちろん――僕の側から言えば――弱ったねえ――全く癪(しゃく)にさわることなんだが。』 彼は、部屋をあちこちと歩き廻った。『せいぜいエルウィン叔父さん、あの老寄りの独身者――実に厄介なことだ――もし女の子であってくれたらねえ――』こう言って彼女の夫は、出て行った。

『ああ、ブルゲルさん、もし私がもう一度それをせねばならないのでしたら……で、もともと私たちは、ほんとに愛し合っていたものですから、宗教上の相違ということは無視していました。私は、それは大して重要なことではないと、ほんとに信じていました。いつも人々が言うように、私たちは、みんなキリスト信者です。今までは、また実際、そういうことですんでいました。私は、日曜日には、私の教会へ行き、そしてアルフレッドは、私を教会ヘ送り迎えしてくれました。ただ私が、時々あれこれの宗教問題について、ひと言、話したいと思ったときには、意見の相違が私たちの間を隔てるように立ったのでした……そして今、つまり子供が出来てから――子供の養育ということについて、私たちが一心一霊とならねばならないようになってから――いま喧嘩が起ったのです。今になって、私の夫は、自分の宗教に執着して、子供を私の信仰に入れたがらないのです。今、そうです、私がそんなに支えを必要としている今、私は独りぼっちなのです。完全な調和を得るために必要な心の最後の一致が、今ちょうど欠けているのです。』
『御主人の家族の方々は、ちょうど私たちが自分の信仰を守っていると同様に、御自分の信仰を守っていらっしゃるんです。そのことは理解してあげねばなりませんし、また、それを気に病んではいけません。人々は、誰でも自分の信仰を、真実な正しいものと考え、従って、その信仰を子供に伝えたいのです。そして、自分が他の宗派の中に認める誤謬から、子供を守ってやりたいのです。でもまあ、洗礼が一たび終ってしまうと、浪風はまた静まりますね……』
『でも、不和は残るでしょう――多分、もっと深刻になるでしょう――なぜなら、子供が成長するにつれて、宗教上の相違は、信条の中に、ますます目立って現われてくるからです。大人は、静かに心の中で自分の宗教に従っていれば、よいのですが――子供の場合だと、一緒に読んでやらねばならないし、また子供に祈ることを教えてやらねばなりません。いえ、ブルゲルさん。それは、よりよくはならないでしょう。影が残るんです……』

こういうわけで洗礼の日は来た。すべてのものは、お祭のように、棕梠と花と燃える蝋燭で飾られた。家族の人たちは、しかし、遙かに後ろの方に離れて坐っていた。カトリックの司祭が、その子に洗礼を授けたとき、姑は胸も張りさけるばかりに、すすり泣いた。そしてほかの人たちも、当惑してあちこちに立ち、どうしてよいか判らなかった。ただ司祭のみが、冷静を保った。彼は洗礼の儀式を行った後、姑のところへ歩みより、そして親切な慰めの言葉をかけた。
『私は、あなたの苦痛がよく判ります。お孫さんが、あなたの間違っているとお考えになっている信仰にはいるのを御覧になることは、どんなにつらいことであるかということを、御同情いたします。しかし、赤ちゃんは、今や大きなキリスト信者団体の教会に属することになったということ、それから、キリスト教のもろもろの宝は、確かに何一つとして赤ちゃんに与えられずには置かれないということを、お考えになって、安心して下さい。今や赤ちゃんの上には、いかなる場合にも、十分な天主の知識と聖寵とがあるわけです。』と。
さて、参列者のうち、ただ一人のものだけが、この深刻な争いに全く無関心でいた。それは、叔父のエルウィンであった。彼は、何か珍しいものでも見るように、洗礼の儀式を非常に興味ぶかく見守っていた。そして私たちが、コーヒーの席に坐るか坐らないうちに、彼は直ちに自分の印象を述べはじめた。彼は、出血しつつある傷口に触れたことを、全く気づかなかった……
『このことは、僕は本当に訳がわからないのだがね。司祭が赤ん坊の小さな鼻に油を塗ったのは、どういう意味なのか教えて下さい。鼻に油を塗るってことは?』
『ごく簡単ですよ。』と、その子供の父親は、うなった。『それは、赤ん坊が何にでも鼻を突っこまないようにという意味なんです……』
その場の空気は幾分、緩和された。人々は、おしゃべりした――もちろん、少し不自然ではあったが――非常にいろいろなことについて。雑談は、その叔父さんが、急に再び、こんなことを言い出すまでつづいた。
『満一ヶ年後に、女の子が、この男の子につづいて生れるだろう。そのことは、あんたたちは、なお、やるだろう。だが、それからは……』
『そのことなら、ただもう僕と家内とに任せておいて下さい。エルウィン叔父さん。』
『そんならよろしい。今日では、人はもはやそんなに愚かではないんだ。僕などは、実に兄弟姉妹が八人もあったんだ。しかし、こんなことは、今日では上流社會では、もう起らないのだ。そこで、僕は、まさに産児制限のための最新式の方法をあんた方に教えて上げよう。これは僕が、直接にパリから仕入れたものだ。』
『エルウィン叔父さん、あなたの鼻も、一度聖油を塗られたことがあるのを思い出して下さい!』と、その家の主人が落ちついて言った。そして、大きな晴ればれしさが、その場の調和を幾分か回復した。ところが、叔父さんの方は、機嫌を損じて黙りこんだ。

私が後で、赤ちゃんを、まとい直したとき、年寄りのソフィー――恐らく二十年も、その家にいる忠実な女中――が、私に胸中を打ち明けた。彼女は、やがて五十になる。『考えて見ても下さい、リスべートさん。あのグルーベル・ペーテルが私に結婚の申込みをしたんです。あなたは、それをどうお考えですか? あの老年で、もう一度、自分自身の世帯を持つということは、確かに美しいことでしょう。でも……』
『ソフィーさん、あんたはまた、何ということを考えるんでしょう! グルーペルは、毎日酒のコップの底ばかり覗きこんでいるんですよ。あの人は、もうコップを離そうとはしないんです。狼は、髪は失うが、気まぐれは失わないんです。そしてあなたは、まだ確かに更年期を越えてはいないと思います。おしまいには、まだ子供ができるかも知れません――あんな酔いどれの種が。結婚というものは、世帯を持つこととは、全く別のことです。私なら、そんな酔ぱらいの居候を私の周囲に持っていたくないですね、日中も、そして――夜分も……
そして、いいですか、この家でどういう具合に行っているかは、あなたがいま御覧の通りです。あのグルーベルは、カトリックではないのに、あなたは、そうです。あの人は、いつもキリスト再臨派のために、募集ビラをくばっているんです――それなのに、あなたは、 私たちの教会に行っています。それでは、互いにぴったり適合しないと思いますね。もし、双方が、おのおの信仰を少しも重んじないなら、うまく行くでしょう。しかし、そうだとすると、一般的に言って、そこには結婚生活のための確かな基礎もまた欠けているわけです。しかし、そうかと言って、もし片方が、自分の権利を固執するなら――または、実に双方ともが、そうするなら――最も美しい幸福でも暗くする影が、その結婚生活の中にはいって来るものです……』
『あなたも、そう思いますか? 私たちは暫らくの間、たがいに今のままで進んで行くのが一番よいことだと思います。』
一頭立ての馬車を走らせても、人はやはり天国に、はいれるものである。






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