Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

人の子は上げられなければならない。兵士が槍でイエズスの脇を貫くと聖母の胸は刺し貫かされた。聖母の御腕は主を抱きかかえる第2の十字架。聖母の御心の上で主は屠られた。

2019年04月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月13日(土)御受難の第1主日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月13日、受難の主日の後の土曜日のミサを行なっています。

この前の初土曜日には、洗礼の準備の儀式があり御聖体降福式ができなかったので、今日それを行なおうと思っています。
もしもできれば、短い御聖体降福式ですのでぜひ与って下さい。そしてたくさん御恵みを受けて下さい。

明日も夕方18時から枝の主日のミサがあります。ワリエ神父様がいらして下さいます。

聖金曜日は、公教会の掟によると、大小斎の義務があります。21歳以上満59歳の方は義務があります。そして14歳以上の方は全て小斎を守らなければなりません。

復活の主日にも夕方の18時からミサがあります、いらして下さい。復活の月曜日もミサがあります。


「あなたは何故『人の子が上げられなければならない』と言うのか。一体、人の子とは誰か。」
Respóndit ei turba : quómodo tu dicis : Oportet exaltári Fílium hominis ? Quis est iste Fílius hominis ?

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂にあと一週間で聖金曜日、イエズス様が、私たちの救い主が、私たちの救いの為に十字架に付けられようとされます。今日教会は、その準備の為にミサを捧げています。

指定巡礼教会は、ラテン門の前の聖ヨハネ教会。使徒ヨハネがここで煮えたぎる油の中に入られたけれども、しかし無傷のままそこから出てきた。イエズス様の受難と復活を象徴するような出来事が起こった教会の所であります。

今日は、

⑴「イエズス様の御受難の前に一体どんな事があったのか」という事を福音に従って見る事にして、

⑵そしてこの福音、聖ヨハネの記述による、「人の子が上げられる。ラザロの復活によってユダヤが二つに分かれた。イエズス様を取るか、イエズス様に従うか、信じないか。ユダヤだけではなく、世界が二つに分かれた」という事を黙想したいと思います。


⑴第1の点は、聖ヨハネの福音書によると、ユダヤ人たちは、イエズス様が復活させた生き返らせたラザロを殺そうと、亡き者にしようとします。なぜかというと、「ラザロ」という大奇跡の生き証人が居るが為に、多くの人々がユダヤ人たちを去って、イエズス様の後に従おうとしていたからです。「邪魔者は消さなければならない。」

そしてユダヤ人たちはますます、イエズス様に対する憎しみと嫉妬を募らせ、何とかイエズス様の命を狙おうと、そしてイエズス様に付き従う為の証拠を消そうとします。

それと同時に、聖ヨハネによると、何と異教徒でさえも、「イエズス様に会いたい」と言って近寄って来た、とあります。何という、選ばれた民と、そしてユダヤ人以外の人たちがイエズス様を求める、というのは何という大きなコントラストでしょうか。

ユダヤ人の中にも、素直な子供たち、あるいは一般の人たちはイエズス様を歓迎します。「ダヴィドの子にホザンナ!」明日、教会ではこれを典礼として行ないます。今日その事が既にヨハネの福音で読まれました。イエズス様はそしてその事について文句を受けます、ユダヤ人から非難されるのですが、しかしイエズス様はその事を説明します、「人の子が、麦が死ねば多くの実を結ぶ。人の子は上げられて、そして上げられた時に、人々を引き寄せる。」

ユダヤ人たちはその事が分かりませんでした。


⑵第2のポイントは、今日この福音を黙想すると、イエズス様が「逆らいのしるし」となっている、イエズス様を信じるかイエズス様に従うか、従わないかによって、世の中は真っ二つに分かれる、というその事が分かります。つまりシメオンの預言がまさに成就している、という事が分かります。マリア様の心も剣で貫かれるという事です。私たちの黙想は自然とマリア様の方に行きます。

御謙遜の為に、イエズス様がエルサレムの入場、凱旋の時には、マリア様の事がありませんでした。おそらくマリア様はその時にいらっしゃらなかったかもしれません。しかしイエズス様の、人の子が上げられる時には、十字架の元に佇んで、背筋を伸ばして、眼をイエズス様の方にしっかりと向けて、ずっと立ち留まっておられました。

私たちは昨日、マリア様の悲しみを、イエズス様の十字架をご覧になるマリア様の悲しみを黙想しました。

自分の子供がその目の前で死ぬのを、残酷に取り扱われるのを見る母親の心は、どれほど悲しい事だったでしょうか。たとえその子供がどのような子供であれ、母親にとってはそうです。ましてやご自分を優しく愛し、そして尊敬され、特別の愛情を示したイエズス様であれば、マリア様の心はどれほど痛んだ事でしょうか。

イエズス様が天主であるという事を知り、罪の無い方であるという事を知り、イエズス様のその聖徳と愛を知っていれば深く知れば知るほど、世のこの憎しみを見て、マリア様はどれほど悲しんだ事でしょうか。

私たちの聖堂のステンドグラスには、このマリア様の十字架の元に佇む、聖ヨハネと共に佇む姿が描かれています。マリア様は、この世にとって逆らいのしるしとなるイエズス様の預言が成就した時に、さらに聖書の言葉が一つ一つ成就していった時に、どのような事を黙想されていた事でしょうか。

イエズス様が息を引き取られ、「全ては成就した。」首をかしげられて、背中を丸められて、息もこれで絶えてしまった、その時に、今まで明るかった太陽は、喪に服したかのように暗くなった、夜であるかのようになってしまった。その時に大地も、救い主の死を思って恐れのあまりに震い、地震が起こり、そして大きな岩盤も胸が裂けたかのように裂けてしまった。天変地異が起こった。多くの人々はユダヤ人たちは、恐れをなして家に帰って行きました。

マリア様はたとえ一人になったとしても、そこの十字架の足元で立ち留まっておられました。ヨハネもマリア様を見て立ち留まります。他の夫人たちも、マリア様を見てそこに留まります。

アリマタヤのヨゼフは、密かにイエズス様を信じていた弟子の一人でした。ポンシオ・ピラトの元に、イエズス様の亡骸を受ける許可を求めに行きます。ポンシオ・ピラトは、本来ならばこれに許可を与えないはずだったのですけれども、おそらくはマリア様のお祈りの為に心が変わったか、動かされたか、あるいはマリア様が祈っていたが為にそのお祈りの効果によって、ピラトの妻クラウディアがピラトにそれを許可するように言ったか、そしてピラトは「もう死んだのか」という事で、死んであるのならば、という許可を与えます。

ローマの兵士が三つの、三本の十字架の元に行き、まだ生きていた盗賊たちの脛を折ります。イエズス様の元に来ると、既に死んでいるのが分かりました。マリア様が仰ったのかもしれません、「軍人さん、既に息絶えております。脛は折らないで下さい。」これも聖書が実現する為でした。

すると、何を思ったのかこのローマ兵士は、自分の持っていた槍を取り出して、イエズス様の脇を貫きます。これはローマ人にとってあるいはユダヤ人にとって、死体をこのように扱うのは大きな侮辱でした、屈辱でもありました。マリア様にとってはおそらく、「何故そのような事をするの!」と思ったことでしょう。

「こんな事をしなくてもいいのに。もう死んでいるのに。」しかしこのこれは、人類がどれほどイエズス様に対して最後の最後まで残酷であったか、という事を示す証拠とさえなりました。

イエズス様はもはや息を引き取っていたので、その槍の痛みは感じませんでしたが、マリア様の胸にはこの痛みがズシリ、ズキッ、ズサリと刺し貫かされました。御心痛はどれほど大きかった事でしょうか。
「何故、ここまで。」

ロンジーノ(この兵士の名前ですが)が槍を、貫いた槍を取るや否や、イエズス様の聖心からは御血と水が溢れて流れました。噴水のように流れ出たかもしれません。マリア様の元にほとばしって、マリア様にたくさん流れ出たかもしれません。マリア様の服は、イエズス様の御血潮と御水で湿っていた事でしょう。

教父たちによると、「マリア様こそ、イエズス様の御血の分配者である」と。第2のアダムは死の眠りに就いた時に、その脇腹から第2のエヴァを生み出します。そしてその第2のエヴァは、カトリック教会であり、キリストの花嫁であり、そしてその代表はマリア様です。もしもイエズス様の御受難の報いである、実りである、功徳である洗礼の水、あるいは御聖体の御血潮を受けようとするならば、マリア様を通して、カトリック教会から受けなければなりません。

聖イシドロという教父の伝えたところによると、「イエズス様の脇腹からの水、あるいは御血の雫が水しぶきが、ロンジーノの目にあるいは顔に当たった。その時に、奇跡的に彼の目が開いた。見えなかった目が見えるようになった、その片目が見えるようになった」と言われています。その瞬間。ロンジーノはその後、イエズス様の光を受けて、信仰の光を受けて、洗礼を受けるようになります。イエズス様の洗礼の水をも受ける事になります。そして遂には御体も受けて、聖伝によると、カトリック信者となったばかりか司教となり、そして自分の血を流して殉教した、と言われています。

イエズス様の御血潮を、脇腹からの御血と水を受けたその効果です。「人の子が上げられた時に、私は多くを私の元に引き寄せる」と言われたまさにそれが成就しました。イエズス様の御体が聖心が貫かれた時に、シメオンの預言とそして旧約の預言が成就しました。「人々は私を見上げるだろう。」



マリア様はその後、イエズス様の御体が十字架から取られて、それをご自分の胸に膝元に受け取られます。イエズス様はかつてこう仰いました、「私は聖父の元から来て、そして十字架に付けられて、聖父の元に行く。」イエズス様は同時に、「私はマリア様から生まれて、十字架に付けられ、またマリア様の元に帰って行く。」

マリア様の御体は、イエズス様にとって第2の十字架のように、マリア様の御手、御腕は、イエズス様を抱きかかえる第2の十字架でした。マリア様の御心の上で、いけにえであるイエズス様が屠られているかのようです。息のない、命のないイエズス様をご覧になったマリア様は、どれほどお悲しみになった事でしょうか。

マリア様はそっと綺麗に、茨の冠を外されます。そして傷だらけの御頭と御顔を、綺麗な布で拭き、そして御体を綺麗にされたに違いありません。埋葬の準備をされたに違いありません。ユダヤのしきたりに従って、没薬を塗り、そしてイエズス様の御体を大切に布に巻いたに違いありません。お生まれになった時も産布で巻かれたマリア様は、御亡くなりになったイエズス様をも、聖骸布で巻かれます。

「麦が地に落ちれば、100倍の実を結ぶ。」イエズス・キリストは、私たちを養うパンとなる真の麦でありました。そして私たちを養うパンとなる為に、そしてマリア様の元において聖骸布に包まれます。

イエズス様の御受難の中に深く入る為に、マリア様に御取次ぎを乞い願いましょう。マリア様こそ、イエズス様の御受難を一番よくご存知の方であり、イエズス様の苦しみを一番よく分かっていた方でした。聖母の汚れなき御心に、この聖週間をよく過ごす御恵みを乞い願いましょう。

「あなたは何故『人の子が上げられなければならない』と言うのか。一体、人の子とは誰か。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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聖十字架の叙唱を紹介いたします Præfátio de Sancta Cruce

2019年04月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖十字架の叙唱を紹介いたします。

Præfátio de Sancta Cruce 聖十字架の叙唱
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere: Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus:  われらが、御身に、常に、どこにても、感謝をささげるのは、実にふさわしく、正しいことであり、義務と救いである。主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、
Qui salútem humáni géneris in ligno Crucis constituísti: ut unde mors oriebátur, inde vita resúrgeret: in quo ligno vincébat, in ligno quoque vincerétur: per Christum Dóminum nostrum.  御身は、人類の救いを十字架の木において定め給うた。それは、死が出てきたその所から、生命がよみがえり、木(エデンの)によって勝っていた者(悪魔)が、木(十字架の)によって敗れるためであった、キリストによって。
Per quem majestátem tuam laudant Angeli, adórant Dominatiónes, tremunt Potestátes. Cæli cælorúmque Virtútes, ac beáta Séraphim, sócia exsultatióne concélebrant. Cum quibus et nostras voces, ut admítti júbeas deprecámur, súpplici confessióne dicéntes: 彼により、天使らは、御身の御稜威を讃美し、主天使は礼拝し、能天使はふるえおののく。天と天の力天使と、福いなる熾天使は、共によろこび、共にたたえ奉る。願わくは、これらと共に、われらの声をも、交えられるように命じ給わんことをわれらは願い奉り、跪いて懇願しつつ、こう言う。 
Sanctus, Sanctus, Sanctus, Dóminus Deus Sábaoth. 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主なる主、
Pleni sunt cæli et terra glória tua. 御身の栄光は天と地とに満つるなり。
Hosánna in excélsis. 天のいと高きところにホザンナ。
Benedíctus + qui venit in nómine Dómini. 主の聖名によりて来たり給う方は + 祝せられよ
Hosánna in excélsis. 天のいと高きところにホザンナ。

2019年4月12日聖母の七つの御悲しみのミサ「聖母よ、御身と共に十字架の元に立たせて下さい。マリア様と共に泣くのを許して下さい。御悲しみを私にも分けて下さい。」

2019年04月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年4月12日(金)御受難の第1主日の後の金曜日
聖母の七つの御悲しみのミサ
小野田神父 説教

「聖母よ、御身と共に、十字架の元に立たせて下さい。」
Juxta Crucem tecum stare, et me tibi sociáre in planctu desídero.


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聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は御受難の第1主日の後の金曜日です。典礼によると、「もしも七つの御悲しみの信心を行なうのであれば、この七つの聖母のミサをする事ができる」とあります。

そこで今日は、この七つの御悲しみの信心を一緒に黙想する事によって、この御ミサを捧げようと思っています。一体、この典礼はどのように始まったのか、という事を簡単に見てから、七つの御悲しみを黙想する事に致しましょう。

マリア様の悲しみについては、色々な信心がありました。そして色々な名前を持っていました。

特に「七つの御悲しみ」という事で、教会は特別の典礼をする事になりました。有名なのが、1239年の聖金曜日に、マリア様が7人の男性に現れて、「マリア様の御悲しみを黙想する特別の修道会を創って欲しい。マリアのしもべの修道会を創って欲しい」と願われた事、そして特に9月14日の十字架の称讃の翌日には、七つの聖母の悲しみの祝日ができた事、あるいは聖金曜日の一週間前には、マリア様の悲しみを祝う特別の記念日が作られました。

ピオ十二世教皇様の典礼改革、聖週間の改革の前までは、この金曜日は実は祝日で、マリア様の悲しみのミサをしていましたが、ピオ十二世教皇様が、「信心をする限りにはこれのミサを、しかしそうでなければ、マリア様の記念を行なう」という風に決定しました。

では、マリア様の七つの御悲しみを簡単に垣間見る事に致しましょう。

第一の悲しみは、シメオンによって預言を受けた事でした。マリア様の御悲しみはそれ以外にもたくさんあります。七つ以外にもたくさんあります。全生涯に渡って、悲しみと苦しみの連続でした。しかし特に、マリア様にとっての重要な御悲しみを取り上げたのが、その七つで、第一がシメオンの預言でした。

マリア様はイエズス様の全き生き写しで、イエズス様にキリストに倣う完璧な模倣者でしたので、マリア様こそまず、十字架の苦しみに、一番近く立ち留まらなければならない方でした。

シメオンは預言します、「この生まれたばかりの40日後のこの幼子こそが、多くの人々の、イスラエルの多くの人々の滅びと、そして復活の元となるだろう。そしてこの子は逆らいのしるしとなるだろう。」

既にマリア様は、預言者の元后であり、聖書の事を深く知っていましたが、しかし更にはっきりとシメオンによって、「このイエズス様を機会に、イエズス様を拒否する人がいて、イエズス・キリスト様の、イエズス様のその愛と、優しさと、御親切と、その憐れみを機会にして、それを敢えて拒否する人がいて、その為に多くの人々は、イエズス・キリストを信じずに、あるいはイエズス・キリストの教えを受けないが為に、自分の暗闇と罪を望むが為に、自分の生活を改めようとしないが為に、罪を捨てないが為に、自分の道を行く為に光から逃れる為に、暗闇を頑固にしがみつく為に、イエズス様の照らした光を敢えて拒否するが為に、滅びるだろう」と預言を受けました。

「それと同時に」この多くの人々は、イエズス様が原因で滅びるわけではなくて、イエズス様にもかかわらず、それを頑固にも拒むが為に滅びるのですけれども、「しかしそれと同時に、イエズス・キリストが、この聖子が、御自分の苦しみと、そして犠牲と、そして愛と憐れみによって、復活の原因ともなる」とも聞きました。

そして「イエズス様は既に、逆らう、逆らいのしるしとなる。イエズス・キリストを信じるか、あるいは信じないか。キリストに従うか、あるいはキリストに反対するか、反キリストとなるか。世の中はこれによって二つに分裂する。逆らいのしるしとなる。」

「そしてこの『しるし』というのはつまり『十字架』であって、これを受けるか受けないか、キリストを受けるか受けないか、キリストの十字架を取るか取らないかによって分かれる。多くの人々の心の秘密がこれで明らかになる」と預言をされました。

「救い主が来たにもかかわらず、天主の憐れみがこれほど現れたにもかかわらず、天主が人となったにもかかわらず、預言が、預言された通りに救い主が生まれて来たにもかかわらず、それを受け入れない人々がいる」という事を知った、そして「御子を、この幼子を受け入れない、救い主を受け入れない人々がいる」という事の預言されたマリア様の御悲しみ。そしてイエズス様のその御心痛を思う、マリア様の御悲しみ。

イエズス様は私たちに、謙遜と、従順と、貞潔と、清貧と、主の御旨を愛する道を教えようとされます。しかし人々は、イエズス様の十字架よりも自分の腹を、自分の欲望を、自分の考えを、あるいは富を、快楽を、名誉と栄光を、自分の為にかき集めようと、そしてイエズス様を拒む。マリア様はその事を予め知らされました。


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マリア様の生涯は、イエズス様のその十字架が既に、全生涯に渡ってその影を落としていました。その事をよく現したのは、このシメオンの預言の直後でした。

第二の苦しみ。ヘロデが、ユダヤの最高の行政の王が、イエズス・キリストを狙っている。政府当局が、イエズス・キリストの命を狙って、母親の手から奪おうとしている。そして全ての人類の手から奪おうとしている。この幼い、救い主の天主の命を殺そうと狙っている。罠をかけている、という事を知ります。

マリア様のその御心痛はどれほどだったでしょうか。既に十字架の、救い主の死がもう身近に迫っている。聖ヨゼフの夢を通して、また聖ヨゼフの命令を通して、聖家族はエジプトに逃亡します。

マリア様は全く罪の無い方でした。イエズス様も罪の無い方でした。天主の聖子でした。そしてマリア様はエジプトでおそらく、ニュースを聞かれた事でしょう。多くの幼子たちが犠牲となった、母親から取り去られて亡くなった、罪の無い子供たちが殺された、ヘロデの快楽と、ヘロデの地位と安泰を確保する為に、自分勝手の為に。マリア様の御心痛はどれほどだったでしょうか。

また外国での生活、一体何年、どこでどうしたら良いのか分からない。それにもかかわらず、天主に全く委ねたその生活。もちろん天主にとって、ヘロデを亡き者にするのはとても簡単な事でした。しかし「イエズス様をエジプトに逃亡させる」という事を御望みだったその天主様の御摂理、それに従うマリア様。十字架の影は既に、幼きイエズス様に深く染み込んでいました。

第三の苦しみ。マリア様がエジプトから戻って、聖家族がナザレトに行って、そしてエルサレムの神殿に毎年通った時も、12歳になった時のイエズス様は、既に聖父の業をする為に、マリア様とヨゼフ様から離れました。これも3日間の間、マリア様はイエズス様を見る事ができませんでした。あたかも亡くなっていなくなってしまったかのように。聖父の業をイエズス様はする。神殿に残られました。

これも、十字架の上において、聖父の御旨の通り御自分を捧げて、マリア様の目から3日の間姿を消される事の前兆でなくて何でありましょうか。

「マリア様は、イエズス様が仰った言葉が理解できない」と書かれています。「しかし、その汚れなき御心に、その事をいつも留めて思い巡らしていた」と。「私が聖父の仕事をしなければならない、という事を知らなかったのか。」イエズス様は既に、十字架の苦しみのリハーサルを、マリア様になさっていたのでした。

第四の苦しみは、マリア様がイエズス様と十字架の道行きの時に、カルワリオへの道すがら、お会いになった時です。

マリア様はほぼ確実に、そして典礼でも言われている通り、イエズス様の鞭打たれたのを、あるいは他のニュースであるいは聖ヨハネから聞いて、その近くに居たに違いありません。鞭打たれたその御様子を、遠くからご覧になっていたに違いありません。

そしてイエズス様の審判。ピラトによる断罪についても、その始終を聞き、それのその事を、「どうなる事か」イエズス様の事を思って近くに居たに違いありません。他の人の間の中に居たに違いありません。群衆の中に居たに違いありません。イエズス様が全く無罪である、という事をピラトが何度も言うにもかかわらず、人々はイエズス様を、「十字架に付けよ!」と言うのを聞いた、その憎しみの叫びの声、嘘の告発、ユダヤの宗教上の最高の指導者たちがイエズス様を告発しようとするのを見たり、聞いたりした時、どれほど胸が裂かれる思いだったでしょうか。そして遂に死刑の宣告。誰もイエズス様を守る人はいませんでした。

十字架を担うイエズス様。そのイエズス様が通るのをマリア様は敢えて、イエズス様の元に近寄ろうとします。マリア様は決して、イエズス様とお会いになって気絶したり、あるいは泣き崩れてそして倒れてしまうような事はありませんでした。イエズス様をはっきりご覧になって、そして目に涙は溜めながら、しかしその苦しみを捧げておられました。

マリア様は一体何をお考えだったのでしょうか。

イエズス様の、その人類に対する愛と、聖父に対する愛。この人々の忘恩と、冒瀆と、そして嘲りの態度。イエズス様の正義にかかわらず、その聖徳にもかかわらず、しかしその受ける態度の醜さ。天主聖父の御旨。マリア様の心にあった御悲しみと、その観想、黙想の深みは、どれほどだったでしょうか。

マリア様はイエズス様の後を、すぐ近くを歩いて行きます。喚き立てもせずに、イエズス様に対して不正に対して抗議する事もなく、このこれを受け入れて、そしてこの「人類の罪の為に、イエズス様がこの十字架を担っている」という事をよく理解されて、御自分もその苦しみを共に歩かれようとされました。黙って付いて行きました。ちょうど、イサアクが薪を持って、ホレブの山に行こうとする時に、アブラハムがイサアクの隣に一緒に行ったかのようです。私たちの模範を示すかのように、イエズス様のすぐ近くを歩かれました。

第五の御悲しみは、イエズス様が十字架に付けられ、そしてお亡くなりになるまで、ずっと、しっかりと背筋を伸ばして、十字架の足元に立ち留まっておられた事です。

マリア様は、イエズス様のその聖なる態度、御言葉を全て聞いて、見ておられました。ユダヤの司祭たちやあるいはローマの人々、また群衆の態度、悪い態度、嘲り、冒瀆、唾など、暴力も、見聞きされました。イエズス様が服を脱がされる時、十字架に付けられる時、十字架が立てられる時、全て見ておられました。マリア様は、イエズス様がまずそのイエズス様の敵に対して、キリストがお祈りされている事も聞いておられました。十字架の苦しみと、旧約の預言が全て成就していくのも見ていました。

マリア様も、御自分の悲しみを添えて、イエズス様の悲しみの事をずっと思っていたに違いありません。そして罪人の回心の為に祈っていたに違いありません。イエズス様がヨハネを通して、私たち罪人をマリア様の子供にした時に、マリア様は、イエズス様に対する愛とその同じ愛を以て、罪人を私たちの事を深く子供として愛し、そして私たちの為に祈ります。マリア様の養子となった私たちの為に祈ります。

聖ヨハネ・ダマスコによると、「善き盗賊は、マリア様の側に、十字架のイエズス様と自分の間にマリア様が居たので、回心の恵みを受けた」と言っています。

自分の子供がこうやって不正に、残酷な死を遂げるのを見る母親の心は、どれほど辛かった事でしょうか。「マリア様がこの受けた苦しみは、肉体の苦しみよりも霊魂による苦しみだったので、はるかに深いものだった」と聖人たちは言います。「もしも、マリア様の御悲しみをもしも分配する事ができたとしたら、それを何等分かにする事ができたとしたら、そしてそれを生きている全世界中の人々に配る事ができたとしたら、その自分の分を受けた人、全世界の人々は、その苦しみのあまり息絶えてしまうだろう。マリア様の悲しみのほんのちょっと、欠片でも受けただけで、私たちはその辛さのあまり、もう息をする事もできないだろう。胸が苦しくてもう生きていられないだろう。そしてマリア様がこうやって、十字架の元にずっとこうやって立って、そして命を落とさずにいる事ができたのは、天主様の大きな大奇跡であった」と言います。

第六の御悲しみ。マリア様はこうやって、イエズス様の御亡骸を御手に抱き、その御顔、御手、傷だらけの亡骸に、接吻と涙を流して綺麗にされます。御降誕の時とははるかに違った、十字架での御体。マリア様はそれを新しい墓に葬ります。

第七の御悲しみ。第六の悲しみが、マリア様がそのイエズス様の御亡骸をその手にされたとすると、最後の御悲しみは、マリア様が新しい墓にイエズス様の御体を葬られた事。そして大きな石を以て岩を以て、その墓を閉じた事です。

典礼によると、私たちはマリア様にこう祈ります、特に有名なスタバト・マーテルの続誦によれば、こうあります。

「マリア様、御身にお願いします。マリア様と共に、十字架の傍に立たせて下さい。マリア様と共に泣くのを許して下さい。
Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
Iuxta Crucem tecum stare, et me tibi sociare in planctu desidero.

御悲しみを私にも分けて下さい。私の心にもその傷を深くつけてください。
Sancta Mater, istud agas, crucifixi fige plagas cordi meo valide.
Tui Nati vulnerati, tam dignati pro me pati, poenas mecum divide.

マリア様、私にも御身とともに嘆くのを許してください。イエズス様の十字架の苦しみを、私の身に運ぶ事ができるようにして下さい。
Virgo virginum praeclara, mihi iam non sis amara, fac me tecum plangere.
Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.

マリア様のこう泣くのを見て、一体誰が、同情の涙を流さない人がいるでしょうか。
Quis est homo qui non fleret, matrem Christi si videret in tanto supplicio? Quis non posset contristari Christi Matrem contemplari dolentem cum Filio?

愛の泉であるマリア様!私にもそのマリア様の悲しみを分け与えて下さい。
Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.」

今日は、イエズス様の御受難を崇める為に、まずマリア様に、マリア様の御悲しみを分けて下さいますように、お祈り致しましょう。

「聖母よ、御身と共に、十字架の元に立たせて下さい。」
Juxta Crucem tecum stare, et me tibi sociáre in planctu desídero.

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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